Thursday, December 10, 2009

〔羞恥と良心〕第一章 悪の魅力

 戦争を体験した年配者や、四十代後半以上の人にとって悪の魅力を示した映画と配役とは「第三の男」のハリー・ライムだろう。言うまでもなく映画監督でもある著名な俳優であるオーソン・ウェルズによる演技が光っていた。登場回数とか出演時間は一応物語の水先案内人のジョセフ・コットン演じるホリー・マーチンスなのだが、最後のほんの数分登場するだけのこのライムの魅力は悪というものが生活力と結びついて、有名なラストシーンではライムの情夫だった女と挨拶しようとするホリーを無視して歩き去っていくシーンでそれが示されている。正義とか善意志などと言っても所詮飯のたねにはならないし、要するに善悪以前に必要なことというのがまず生活にはあるし、社会にもあるかも知れない。社会が善を追求出来るのは、一定の基盤があるということ、つまり豊かさがあるということであり、日本社会が昨今の金融危機において世界の国々と共に立ち往生をしているにしても、何とか生活が成立させられているのも、朝鮮特需とか、ベトナム戦争による景気であることを若い人でもある程度知っていることだろう。
 つまり精神的な善悪とか道徳とかを考える心の余裕は、通常の社会やビジネスマンにとっては端的に生活という基盤が成立していて、一定の精神生活を営める心の余裕があった後のことなのである。悪は確かにその行為に赴く時に躊躇を覚えるものである。しかしそういう躊躇というのは人を殺すとか取り返しのつかないことを除いては、例えば本当に盗みをしなくては飯を食っていけないような状態の人はそうするかも知れないし、そこまでの勇気がなければ、捨ててある弁当を拾って食うしかないだろう。こうなったら、最早格好よさの追求どころではない。羞恥をかなぐり捨てて全てにかかるしかない。
 そして生きているということは要するにそういう羞恥をかなぐり捨ててかかるということ以外のものではない。
 哲学者で悪というものを見据えて考えた人と言えばトマス・ホッブスがいる。カントは通常善意志とか言って要するにモラリストと考えられてもいるが、彼が道徳法則ということを主張したのにも、その時代に横行した悪に対して思うところがあったからだと言われている。悪は哲学においてはプラトンの「国家」でも捉えられていて、無視することの出来ない人間の本質の一つであり、要するにこれなしには善という観念も生じようがないのである。
 どんなに善良な人でも時には憂さ晴らしに格闘技を観に行ったり、悪党たちが活躍するアクション映画とかギャング映画を観に行ったりして自分の中に普段な隠されてある(いい子ぶっている)悪に味方する気持ちになって一時楽しむ。そうすることで普段色々抑圧されているような気持ちをどこかに吹き飛ばすわけである。そして誰しもがそうするということは、人間には潜在的には善にばかり味方するのではなしに、悪に対しても味方したり、自分の中の悪に惹かれる部分発見したりすることによってある種の息苦しさから開放されるということを望むのである。
 人間はある意味ではこの表裏の二重性を生きるということが普通な生き物である。そしてそれを相互に承知していて一々他人に説明するようなことをせずに、阿吽の呼吸で相互の小さな悪を容認し合うというところに社会生活というものを概ね正しい方向へと導くために必要な必要悪の容認という意味合いからの暗黙の了解がある。
 だから逆にこの暗黙の了解を全く知らずに全ての対人関係を押し通そうとすると、「あいつは人間というものが分かっていない」とか「堅い奴だ」とか「純粋過ぎる」というそしりを免れない。正しいことというのは分かっていても、時には正しくないことの方が正しい場合があるという阿吽の呼吸が必要なのである。
 勿論今日の社会では競争入札における不正入札とか官制談合とかそういう阿吽の呼吸は許されることではないだろうが、そういう社会システム上での旧制度的なことに代表される資本主義経済の正義という観念から逸脱する阿吽の呼吸は除外されるべきであるとしても、尚法的なこと以外のことでなら、私たちは積極的に「あいつは話の分かる奴だ」とか「人間が練れている」とか他人を評定する時に明らかに正しいこと以外に正しいことはない式の格式ばった頭ではない形での、要するに適度に不良っぽさが漂う、相手の心のつぼをよく心得た要するに洒落者的な魅力を漂わせた社会人というものがどこか部下や年少者からは尊敬されるというところさえある。
 要するに私たちは不完全ということにおいてどこか心の拠り所とか居心地のよさを感じているのであり、完全過ぎる、つまり欠点がないということは、ある意味では堅苦しく、息苦しく要するに親しみを持てない、それは神様のような私たち一般庶民には無縁の世界の秩序なのであり、私たち自身が完全無欠ではないのだから、その無欠でなさそれ自体を容認してくれて、暖かい眼差しを注いでくれる者に惹かれ、俗ということに安らぎを覚えるのである。
 勿論時には正しいことに邁進する必要もあるし、俗っぽさが厭になることもあるだろうが、四六時中良いこと、善いこと、正しいことをするということ、あるいは考えるということは生きていくことを困難にさえする。
 そして巧いことには、私たちはあまりの正しいこと善いことだけで塗り固めたものに対して、それが人格であれ、表現であれ、作品であれ魅力を感じないものである。つまりどこか一箇所抜けたところのある人に対して、その欠点を補うに余りある業績や意志を貫徹する部分を認めるなら、寧ろ積極的に応援する。つまり私たちにとって魅力を感じるものとは往々にしてある種の不良っぽさがあり、それでいて完全なる悪には突っ走らない危うい部分のあるものなのである。
 その証拠に女性は男性に対して結婚相手ということになると、定収入とか、安定した職ということを求めても、恋愛の対象としては男性から見たらどうしてあんな女ったらしに惹かれていくのかというくらいにだらしなさそのものにさえ魅力を感じることさえある。
 魅力そのものには悪に対してだけではなく、普通の人にとっては退屈極まりないものに対してその魅力の取り付かれた人というのは大勢いる。スポーツも本格的に行うとすると、厳しいトレーニングの世界であり、学問も本当に真剣にするとなると、なかなか厳しい世界である。芸術とか書とかそういう世界でも同じである。それらは全て平素はかなり格好悪いそして苦しい訓練を反復することによって本番的な場面でこそ格好よさを発揮するということなのだ。
 しかしそういう魅力とはどこかで理性的な判断、つまり「これこれこういうことは尊いものである」という価値判断が加わっている。しかしこの章で私が言いたい魅力とは、潜在的な部分、もっと本能的、動物的な部分で私がついいけないと知っていながら惹かれていってしまうもの、例えば酒もそうだし、タバコもそうだし、本当はいけないと知っていてやってはいけないものとして麻薬(ドラッグ)というものも薄々興味くらいなら誰でもある。ただ一旦そういうものというのは手をつけるとなかなか止められなくなるということを知っているからこそ、手を出さずにおくだけではなく関心から除外しているだけである。
 そして悪の魅力というものの中には権力そのものも含まれる。勿論権力であるからには法的には正当な行為であるものの、通常の心理では私たちは権力を遂行することは出来ない。だから何か特定の権力を誰かに託された時、その権力を行使する自信のない者は断ることもある。つまり権力にはそういう魔力があり、またその誰でも自分の言うことを聞くという状態に慣れる必要があり、寧ろ積極的に権力志向というものは、一定の社会的地位にある人には求められる。
 私は「権力の構造」というテクストを書いたが、その中でも悪の魅力についても触れている。要点を記した部分を少々長いが抜粋引用しておこう。
 
(前略)我々は悪にこそ魅力を感じ取る。善は往々にして退屈である。価値観が相対的なのだから、悪の魅力も相対的である。しかし善はどこか絶対的な感じを与える。勿論私にとっての善は、別のある人にとっては悪であることもある。しかし私が善というものは、私にとって敵対する人にとっても等しく善のことなのである。例えば太陽はその存在からして善であるというのは少なくとも生命にとってはそうである。そして光がそうである。光もまた太陽に起因する。あるいは生命そのもの、呼吸することという我々の基本的条件は善である。しかしそれを阻むもの全ては悪であると言ってよい。しかしこの世には闇もある。呼吸することが困難な世界もある。多くの生命の生息出来ない世界もある。尤もそういう世界ででも生息出来る生命というものが少なくとも地球上では確認出来る。しかし生命そのものが存在し得ない惑星もある。そういうものを悪としよう。しかしそういう闇の部分に我々はどこか光の部分との対比において悪の魅力を感じる。あるいはもっと積極的に言えば悪のない世界は魅力がないとさえ言える。それは光を引き立たせるし、光を欲しくなるくらいに闇が必要とされている、ということである。夜とは暗いからこそ眠るのに適しているのであり、夜がそもそも光に包まれているのなら(白夜でも完全に昼間に近いというわけではないだろう。)睡眠はまた異なった様相になっていたのではないだろうか?
 欠点がないことが最大の欠点という意味では、適度の欠点の所有が最大の魅力を引き出すということが言える。
 しかし適度の欠点という甘い部分は権力を持つ者にとっては適度の愛嬌として受けとめられる内はいいが、人情味というものになり変わる時、致命傷になることもある。
 例えば上に立つ者は寛容であることが求められる。しかしそれは部下と共に命運を共にするという正義感だけでは勤まらない。例えばこういうことを考えてみよう。社の方針に対して生ぬるいと感じていた部下の一人が寛容な上司である部長に対してあるプロジェクトを完遂するための方策としてあるやり方を打診する。しかし上司は明確にゴーサインを出さずに
「君の裁量に任せるよ、兎に角いい結果を出すように最善の仕方で臨んでくれ。」
と言ったとする。そしてその部下はその言葉をゴーサインと受け取りその方策で邁進するが、道半ばその方策によって失敗したとする。しかしその他にもプロジェクトにかかわっている者は大勢いて、別のやり方で成功をその者に持ってゆかれる。しかし失敗した部下が
「部長がゴーサインを出して頂いたじゃないですか。」
と糾弾しても時既に遅しである。その時上司である部長はこう受け答える。
「私は最善を尽くしてくれと言っただけで何も、こういう仕方でせよ、とは言わなかったよ。」
 つまり部長が今この失敗した部下と共に共倒れすることは彼自身にとっても、社全体にとっても何のメリットもない場合、こういう風に責任転嫁することは悪いことであるわけではないばかりか、当然の判断である、と言える。
 リーダーとしての職務は魅力を限定的なものに留め、責任を糾弾されるような形で欠点を示してはならない。あくまで彼に許容される欠点とは法的に、あるいは責任倫理的に糾弾されない範囲内でのことに限られるし、それを完遂してこそある意味では最大の魅力を湛えたリーダーということになる。その欠点が、あるいはその欠点故に発散される魅力がいかに悪辣であっても、行動の合理性させ備えておれば、糾弾される余地をなくす。それは
「悔しいけれど、巧くやっているから責任を遡及することが出来ないんだよな。」
と言わしめることそのものが欠点を最大の魅力に高じさせることに繋がるのだ。だからそういう能力のない者は初めからそういう危うい魅力を持つことを目指すべきではない。あるいは部下に思い切ったことを任すべきでもないだろう。尤もそういう風に融通の利かない者に上に立つ資格があると思われるか否かはまた別の問題である。
 
 責任倫理とは行動責任、結果責任、説明責任といったさまざまな責任言及範囲によって表されるが、実は責任の遂行とは、善的なこと、良心的なこと以外の、端的に言ってもっと悪辣なこと、その責任を全うする意味で対外的には良心の欠片さえ残さないようにすることが必要となる。よく「心を鬼にして」と言うようなこととはそういうことに該当する。
 つまり責任遂行の美とは、小さな善を捨て、大きな善を獲得するために、敢えて大きな悪さえ許されるという地点で行為を考えることであるから、必然的に責任遂行の美とは悪の魅力に接近していることになる。悪の魅力を湛えた責任遂行の美とは、全的に責任を負うことではなく、緊急の措置として必要不可欠であることを遂行するためには、小さな責任を無視すること、小さなヒューマニズムを捨て去ることを意味するから、当然諸々の使命から見れば悪の結晶ということになる。しかしこの悪の結晶的な小さな善に対する完全無視とは、トップリーダーには常に求められている資質であるし、事実トップリーダーの責任倫理とは、全的に善であるためにはかなりな悪の分量を自ら引き受けることでもあるのだから、当然冷厳さを求められ、悪の魅力として、小さな善行を怠ることを許してもらえる技量、つまり愛嬌さが必要である。従って大きな責任、つまりある集団やある集団の時代を支えるような行為を遂行するためには、端的に小さな善を全て無視し、捨て去る勇気が要求されるから、そういうタイプの大きな責任を負わされたトップリーダーは必然的に魅力ある悪に徹する必要がある、というわけである。
 悪の魅力を追求出来ない者は大きな責任、大きな善行を追及するべきではないし、大きな責任を背負うべきではないし、大きな善という観念を哲学的に思惟する必要などない。
(「権力の構造 ナルシシズムの意識」中第五章 悪の魅力 より)

 私が考えた魅力ある上司は、部下の失敗の責任をいざという時にはとるが、会社全体が困難な状況の時部下に対する義理とか責任だけで社全体の利益を考えずに責任をとって社を辞めてしまうということはどうなのだろうと考えてこう書いたのだ。引責辞任だけが責任の取り方の全てではない。減俸とか減給ということもある。つまり権力には絶対的に悪に加担する部分、あるいはその者に固有の権力者の孤独を紛らわす悪の魅力が、その下についていく人にも必要なのである。だから大きな善とか大きな正義とは、かなりそれと匹敵するくらいの大きな悪や不正義が付き纏うのだ。戦争は悪ではあるが、戦後の日本がアメリカに対して敗戦したということがせめて救いだったと考える人は大勢いるだろう。あるいは原爆投下それ自体は悪であるが、日本が無条件降伏をしたということそれ自体は、その後の日本の戦後社会の復興と、高度成長のエネルギーになったということは言えるだろう。
 ここで纏めておくと、悪とは潜在的に私たちの心の奥底にある他者に対する寛容さであり、潔癖であることはある意味で正義以外のものを認めず、要するに融通が利かず、正しいものだけを正しいと思うことである。他者の多少の悪に目を瞑ることが要するにもの分かりがいいということであり、俗であるということであり、それは責任ある立場の人間には積極的に人望を得るために求められる。それは私の考えでは人間にはどんなに正しいということが分かっていても、その正しさだけを追求することが時には息苦しく、全体を円滑にすることが出来ないのであれば、必要悪というものを積極的に作るということをも正義の範疇に入れるということを知っていて、そういう悪に加担する部分を有効に利用しようとする心理は全ての人に備わっている。そしてある時には略奪愛とか、略奪婚、あるいは愛人と逃避行する夫や妻の不貞にさえ魅力を感じるのが人間であるということである。そうでなければ太宰治に対していつまで経っても人々は共感を示すことなどないであろう。
 それは悪ということが制度的には悪であっても心情的にはそう悪ではない場合もこの世の中には多いということを私たちが知っているからである。つまり恋愛の場合息の詰まる家庭生活に嫌気がさして、つい別の異性に手を出すということそのものは、その正式な婚姻関係という側面からは確かに悪であることでも、その人間の内奥の心情ということからうすると、最早ちっとも愛していない妻を形式的なだけでずっと愛している振りをすることが、カント的な意味で言えばそれこそ根本悪ではないのだろうか?つまりその本当の気持ち(これはこれで難しいことで、曖昧なことなのだが)に忠実に生きることこそが誠実であり、キリスト教的な倫理感からしても、他人に嘘をつかないということ(カントも言っているが)なのだから、それは法的に悪であっても、倫理的には悪ではない場合も多いだろう。
 尤も私たちはそのような周囲から応援される法的な悪(不倫とか、不貞とか)にさえ共感する場合があるということは、逆に倫理的にも悪であるものにも、例えば犯罪者に対してさえ、愛嬌のある犯罪者にはどこかわくわくする気持ちで報道を見るということもある。つまりそういう根本的に本能的に危険な匂いのするものにも惹かれるという悪の魅力への誘惑に効しきれないということが、その不倫や不貞に対して応援喝采を送るという気持ちに拍車をかけているということは言えるかも知れない。つまり人間にもしそういう悪に対する怖いもの見たさというものが皆無であるなら、法的に逸脱しそうな気配のものに対しては、極力避けようという気持ちになり、わくわくすることどないだろうからである。
 つまりかつて生物学者たちが何かある特定の心的作用があるとすると、そういう感情を誘引する遺伝子があるのではないかと考えたものだが、その謂いに習えば、何かある法的な意味で、あるいは規則的な意味で抵抗するような行動全般に対して何らかの共感を得ることが自然になるような心的作用を誘引する、つまり自らの中にある自分に関してはあまり社会的に逸脱することがないままでいたいけれども、何故かあるあまり社会的に順応することが得意ではなくつい脱線するようなタイプの成員に憧れたり、共感したりすることを誘引する性格遺伝子か何かがあったとしたら、それは小さな悪、しかも憎めない悪に対して応援するようなことがあるかも知れない。
 悪の魅力はしかし私たちの社会の法規とか、社会一般の通念というものに抵抗する場合が多くなるから、一定の許される悪と、そうではなく許されざる悪ということの区分けに対して個人毎の差異が生じるだろう。従って悪には自分にとって許容し得るものとそうではないものとの二分という意味では、極めて私的な趣味レヴェルの決定要因、判断基準の差異があると思われる。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

〔羞恥と良心〕序

 私たちは映画を観ている時、若くて格好いい俳優たちが颯爽とした姿で軍服に身を包み、あるいはテロリストに扮し、敵対する連中を次々と薙ぎ倒していく姿に酔いしれる。その映画中の彼らの行為がどんなに反理性的であれ、どんなに反道徳的であってもそんなことなどお構いなしにである。つまり私たちが格好いいとある映画のヒーローに対して向ける眼差しは明らかに理性的な判断からのものではない。もっと原羞恥的な欲望のレヴェルからのものである。それは格好いいということが、善良であるとか正しいということとは全く違う価値判断であることを意味している。だからこそ我々はそれが現実であれば、とても付き合えないようなタイプのヒーロー像にある理想を見る。その理想とはある意味で私たちが普段は薄々自分でもそういう意外な要素があることを知っていて他者に対しては隠している私たち自身でも「君も意外と悪だね」と言われると自分では改めて意外であるとさえ思える客観的に「これもまた本当の自分だ」という風に認められないようなタイプの自分による本音である。
 ある極めて暴力的なヒーローの破壊的人生を描いたフィルムにおいても私たちはその演じるアクターが格好よければ、これは現実ではない、しかしもしこういうことが自分にも出来たなら、格好いいだろうし、女性にももてるだろうな、とそう思う。その映画でのぐれ方の中にさえ我々は理想を発見する。
 しかしそれはスクリーンに映る虚構の世界での格好よさであり、本当の現実社会で私たちが尊敬するような人たちは、概してそういう格好よさとは無縁な人たちのほうが多いだろう。時として私たちは格闘技などではヒール的な役割の人に拍手喝采を送ったりするが、それは娯楽としてそれらを観戦しているからなのであり、現実社会で問題のある人を社会人としては自分でも敬遠する。格闘技は真剣勝負であるが、彼らを観ることは我々にとって娯楽であり、そこに私たちにとって求められている価値とは見てくれの格好よさ以外のものではない。それは苦労して描いた画家による作品に対してそれを鑑賞する人たちが夢とロマンを抱いて鑑賞するのと同じである。つまり見てくれの格好よさとは、その背後にある事情とか人間性の本質とは全く別のことなのである。しかしそういう見てくれ的な格好よさに惹かれる部分というのは我々にはある。
 と言うことは良いこと、善いことと格好良いことというのはまた別の価値観だということである。善良であるということは我々の内なる良心に根差している。だから本質的にはそういう良心というものだけを追求すれば、格好悪いこともしなくてはならない。しかし格好悪いことというのは羞恥を伴う。そこで私たちはそれが正しいとは言えないようなことでも、そのことによって多大の迷惑とか損害を誰か特定の人にかけないのであれば、出来るだけ自分の格好悪さを人に対しては知られたくはないし、そこで恥をかきたくはないとそう本心では思う。それでもそんなことをお構いなしに正しいと思うことを他者に示すということには幾分かの勇気が要る。あるいは格好悪いことを持続して他者に理性的な像を示すということにはある種の誇りが要るし、そういう勇気を持続してきた人間は誇りを持っていくことになるだろう。
 要するに羞恥とは私たちが何かをしようとする時、そこに立ちはだかる何らかの仕着せに対して無抵抗であることそのものなのであり、その仕着せによって我々の羞恥がある本当は正しいと思われる行為に赴くことを臆させるのである。それはフロイト的超自我を逸脱することの漠然とした恐怖であることもあれば、逆に自らの中に芽生えた悪(明らかに自分ではそうだと思えるような)からの誘惑の囁きに対する抵抗の意図であればそれは良心と呼んでいいだろう。
 しかしこの二つは意外とそう簡単に類別することが出来ない場合も生きている上では多い。これから行おうとしている行為が正しいことであるか、そうでないかが判然としない場合というものも多いからである。正しい行為であるなら、それを抑制するものは格好悪い姿を他者に晒しそれに対して羞恥を感じることに対する躊躇であり、そうではなくそうすることはただ単に悪からの誘惑に過ぎないとすれば、それは良心である。それは分かっている。しかし人間は正しいことを正しいと言われると腹が立つ生き物である。これは哲学者の中島義道氏も「カイン」において示していることでもある。
 本当は正しいけれども、ある場合にはその正しさを他者の前で示すことはあまり効果的ではないし、慎まなくてはならないこともあるし、逆に悪いことであると思えたり、気後れしたりすることしきりなのに、それでもことを決行する必要性に実は迫られていることもあるというのが人間の行動とか行為に纏わる難しさなのである。
 本論は前作の「存在と意味」(同じブロガーブログで掲載更新中)、あるいはそれ以前の「他者と衝動」、「羞恥論」(同じブロガーブログにて掲載)に引き続き羞恥という心理を前面に出し、且つ以前「責任論」(同じブロガーブログにて掲載)で論じた良心の問題に肉薄し、その二つの相関について、前の二つのパラグラフに示した問題点を中心に考えていきたい。

Monday, December 7, 2009

〔良心と羞恥〕単論文 読みきり

 我が国でも最近めっきり熟年離婚するカップルが増えてきた。そして老人もまた貴重な労働力として考えられてきた。その結果一つの仕事をずっと一生続けていくことよりも、勿論そういうタイプの人々もまた今でもいることはいるのだが、人生のしかもかなり年齢積み重ねた後に転職したり、方向転換したりする人々も決して珍しくはなくなってきた。
 例えば熟年離婚と年齢が高くなってからの転職にはどこか共通性がある。それは何か長年勤しんできた努力にもかかわらず、そのことでは成果が得られないということに覚醒すること、しかもかなり後になって分かることにおいて共通している。
 例えば自分にとって向いていることというのはある意味ではある程度の時間を得て経てみなければ分からないものである。それは仕事に関してもそうであるし、愛情のレヴェルでの相性というものでもそうである。しかし人間は長い時間においてある程度人間関係的な意味では固定化した世界を築き上げる。そこで転職も離婚もそう容易なことではなくなるのである。人間という動物は社会的な動物であるので、築き上げられた人間関係というものはあくまでその人間の対他者、対社会としての誠実性によって構築されている。そこで「本当は自分にとっては自分はこういう人間なのだ。」と思っていても、尚外部世界、人間で言えば社会とか他者一般からすれば「あなたはこういう人間です。」と規定されやすい部分というものはあり、またその実像というものは他人一般がその人間を見るステレオタイプにしか過ぎないのであるが、同時に全く真実がないとも言えないものである。
 そこで人間はディレンマに陥るのだ。他人とか世間とか社会一般が自己を規定する自己の資質を受け入れて生きてゆくか、そうではなく内的な自己の選択に忠実に生きていくか、そのどちらがその個人にとって良質の選択であるかは個人毎しかもケース毎に異なり、一律に自分の内部、世間一般の評定どちらかが正しいとは言えない。だから自分の内的な願望とか欲求が正しい場合もあればそうではない場合もあるとしか言えない。
 しかし年齢が高くなってからの転職とか離婚といったケースでは世間一般による自己裁定に対して随順して生活してきた人間により多く起るケースであるとは言えよう。つまり自己真意に悖る形で人生を選択してきた、とある日はたと気付くというわけである。しかしその決断を鈍らせるものとして世間体とか社会一般の常識とか、要するに私の見るところ勇気ある決断を躊躇させる羞恥感情というものが立ちはだかるように思われる。そしてこの羞恥感情というものがどこかで自己と自己を取り巻く社会が一体化して構築してきたそれまでの自己に齎される恩恵というものに対する配慮と、それを一旦全て反故にしてでも冒険に打って出ることを抑制する良心、しかもどちらかと言うと保守的で逸脱を恐れる安泰希求的な小市民的良心が改変に伴う痛みを痛烈に告発し、潔い決断を鈍らせるのである。しかしこの冒険に踏み切ることに伴う逡巡というものが意味のない心理であるとは決して言えない。というのも人間はこの保守安泰的な心理によって日頃多くの不祥事とか危機を招き寄せることを予防しているからである。だからこの失敗と挫折を未然に防止する保守安泰的な判断は政治的でもそうであるし、個人人生設計においても極めて大きな役割を果たす。簡単に言えば夢を諦めることから人生の現実はスタートするからである。しかしある一定の年齢を超えると、そのことに対する懐疑もまた大きく頭を擡げてくるのである。そこで改革とか改変とか人生の一大決心という奴がかなりの高齢になってから押し寄せてくるのである。そしてその時良心というものが羞恥の味方をせずに、今度は人生全体を彩る人生観の味方をするのだ。例えば二人の異性に惹かれることというのは、ある意味では倫理的にはよくないことだとされる。しかし同時にそういうインモラルなことばかりを追究することはよくないことであると知りつつも、時にはそういう選択の方が結果的には福を齎す場合もある。そしてそれはある程度結果論であるのだが、離婚して正解の場合もあるし、転職して正解の場合もある(勿論失敗の場合もあるし、その方がずっと多いであろうけれど)。そして本当は一度も離婚することなく、一生一人の伴侶とうまくやってゆき、しかも幸福が追究出来ればそれが一番よいであろう。しかし人生というものはそう必ず巧くゆくものではなく、寧ろ失敗と挫折の方がよほど多く待ち受けているものである。そういう意味では一回くらい小さな失敗をしたり、挫折をした人間をこそ基準とした人生哲学というものがあってもよい、と私は思うのである。その時私たちは人間は他者に対して羨んだり、嫉妬したり、妬んだり、要するに邪悪な心理を必ずしも完全には払拭することなど不可能であるという立脚点に立った考察というものが必要とされていると私は思うのである。その際に羞恥感情とそれ自体の揺れ動きという現象(それは恐らく人間の自信のなさが引き起こすものであると思われるが)、そして羞恥がいい意味でも悪い意味でも良心と結託しているという事態を直視すべきであると思うのである。
 そこで本論ではまず羞恥の揺れ動きという事態について暫く考えてみようと思う
 例えば我々の社会には通常では普通に結婚して子供を儲け、幸福を追求出来るのであれば、それが一番いいという倫理観もあるが、実際には一度も結婚することなく終わる人生というものもあるし、また性同一性障害等によって通常の性生活とか(どういうものが通常と言うのか私は知らないが、もしそんなものがあったとしての話なのだが)結婚観、家庭観があったとしてであるが、そういうものから逸脱して生活する人も大勢いる。あるいは通常のエリートコースからは逸脱した職業、つまり青少年の教育的観点からはあまり推奨されることの少ない職業というものも、それは健康管理上から言ってもそうだし、道徳的観点から言ってもそうだが、要するに通常余り表立っては自己の職業を他者に公言することを自ら憚る職種のこの世の中には沢山ある。しかし実際そういう非順当的な要素を自分の人生に持っている人をあらゆるレヴェルから考慮すると、ひょっとすると借金があるとか、前科があるとか、要するにそういうものの皆無で清廉潔白で汚点も問題点も苦悩もない真っ白な人生というものは殆ど無いに等しいと私は思う。するとそういう脛に傷を持つなどと言ったら多少浪花節的になるが、不完全な理想からはほど遠いという事態こそ人生の最もありふれた実像ということになりはしないだろうか?しかし同時にそういう不完全で理想からほど遠い状態にある自分の事情とか秘密というものは往々にしてどんなに親しい他者にも公言することを憚るものである。そこに我々が本来的に携えている羞恥感情というものがある。そしてその羞恥感情を誘引するものとは意外にも理性的判断によってその他者が自分に対する心象を悪くしないように配慮するある種の策略であり、それは保守安泰希求的な心的様相ではあるものの、寧ろ良心の叫びでもあるのである。人間は自分はそうではないが、どこかで本来自分はこうあるのが一番いい筈だという倫理的にも能力的にもそういう自分独自の理想というものを持っているものである。それは当然人生の価値観であるから、個人毎に異なる。寧ろこの実現されていない理想に対する考えこそその人間の信条であり、思想であると言って差し支えない。この非実現的理想への思念の仕方こそ、その人間の行動パターンとか危機的状況に対する対処の仕方とか、要するにいざという時のその人間の決断の仕方、そしてその成果(よいものであれ、悪いものであれ)を決定するのである。
 ハイデッガーがしきりと「存在と時間」で本来性とか非本来性と呼ぶものとは実は、この自分はそうではないのだが、本来はこうあるべきであり、またもし理想の状態であれば、こうあるべきだという、ある種の思い込み、こう言ってよければ幻想のことについての叙述ではないかと私は思うのである。このテーゼは実はサルトルもまた「存在と無」で「それであらぬというありかたで私がそれである」という謂い(表現)によっても指し示されている。つまりサルトルは「本当ならこうあるべき筈なのに、事実としては常に自分はそうではない」現実の側から見据えてハイデッガーの言う本来性について述べているのである。この理想として設定したある種の「あるべき姿」とは私の理想であるとただそう考えるが、私の考えではそれを極端に逸脱すると、それは最早その時は私が私ではなくなる、という臨界値設定基準であるような気がするのである。それは恐らく「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」という一線であると思われるのだ。そしてその臨界値というものは当然のことながら、その設定されるものから設定値に至るまで個人毎に異なっている。それは当然であろう。何故なら我々一人一人が立たされた環境から生まれた時代の状況から、個人の性格、行動してきた軌跡、要するに経験の全てが異なるからである。そしてその「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」ということは「自分で自分が許せない」からそれをもししたとしたら一生後悔が残るということであり、要するに羞恥感情であり同時に良心でもあるのだ。そして社会に迷惑をかけずに真っ当に生きていく知恵として考えるなら、その臨界値設定とその基準のあり方そのものは良質の良心であると言えるだろう。そしてその羞恥感情もある程度必要不可欠のものであると言えるだろう。
 しかし厄介なことに人間という動物は他の多くの動物同様良心に従ってのみ生きることに関しては苦痛に感じ、あるいは時には気楽に考えなければ生きていけないくらいの日常的ストレスをも請負って生きている。そこでレジャーとか息抜きとか娯楽とかが要求される。聴きたい音楽もクラシックが素晴らしい音楽であると知っていても、そればかりでは面白みがないということで全く異なったジャンルの純正統的な音楽以外のものへも嗜好傾向を持つようになる。時にはパチンコもしたいし、ギャンブルもしたいという想念が沸く。
 この日常的な安穏とした倦怠的で退屈な連鎖を打ち破りたいという欲求は人間では極めて重要な心的様相である。これを私は「ギャンブル的感性」と呼んでいる。ギャンブル的感性というものは、その努力によって報われる可能性が報われない可能性よりも甚だ大きい場合、それでも尚もし報われた時には一挙に明るい未来が開けるという一縷の望みに支えられた綱渡り的な賭けのことを言うのだ。
 例えばそれは必ずしも今している仕事が自分に不向きで嫌いだから止めようというような単純な決断に潜む心理とは言えない。寧ろその逆で自分でも気が付かない自分の能力に賭けてみるという冒険に顕著に見られる心理である。
 例えば再び職業のことに立ち戻って考えてみよう。世の中には自分にとって向いていてしかもそれが好きで、世の中もまた彼にはその仕事が最も向いていると感じてその職業で生活を成り立たせている所謂幸福な人の方が実際は少ない。寧ろ殆どの人が「自分は本当はこういう職業の方が向いているし、好きなのだが、社会が自分がそう自分のことを思う考えを受けて入れてくれないから仕方なしに今の職業を選択しているのだ。」と告白する人の方がずっと多いに違いない。
 例えば世の中というものはあながち自分が得意であるからその職業で生活してゆけるというものでもない。一番重要なことというのは社会全体が自分がする業務を価値あるものとして認めてくれるかというレヴェルでの判断が、その仕事で世間を渡っていけるか否かを決する。だからもし「何故今の仕事を選択したのですか?」と問われれば、「寧ろ自分では好きでないのだけれど、社会が自分に対してその職能を求めるからそれに応じて今の職業を選択しているのだ。」と答える人の方が私はずっと多いと思う。また自分で得意だと思う能力と社会がその人に対してその業務が向いていると判断する能力とは必ずしも一致しないどころか、寧ろずれているケースの方がずっと多いだろう。だからいい仕事をする人で、それが一番自分に向いていると感じられる人というのは極めて幸福なケースであると言えるだろう。そしてまたこれも言えることなのだが、自分にとって向いていると思ったり、得意だと思っていることと、その能力が正当に評価されるという事態は全く異なっていることであり、それが一致することの方が少ない。そして社会がその人の能力を正当に評価するからこそ、自分でもその職務が向いているのだ、と考えるようになるケースの方がずっと多いであろう。
 そしてその事実は社会というものが自己というものの存在理由を構築するのだ、ということと、それに受け答えねばというような責務的な感情とか、対社会的な奉仕の倫理とかを醸成するものが、あながち自分の内部の欲求からではなく、外部的な状況とか時代的な要請とかに応じたその都度の自分の自己保存欲動的な判断によって形成されたものとして自己の良心とか羞恥(それ以上逸脱してはまずいと自分でも思う)が位置付けられる可能性を示唆している。つまり自分本来のものであったと自分で勝手に思っていたものの大半が実は自分が対社会的に対処してきた自分なりの対処法に応じて形成されたものであるという事態は、実は本来自分という観念そのものは幻想によってのみ支えられているということを物語っている。
 例えば子供を儲けるという家庭創造行為は実は何も自分の努力によって成し遂げられた能力ではない。それは遺伝的性質としてたまたま自分にも備わっていた能力であるに過ぎない。勿論子供を作り育てることが可能な環境それ自体を構築することはそれで一つ能力であり、ある努力の成果であるが、子供を儲ける能力そのものは自分の努力によってどうなるものではない。それは遺伝的身体的な能力に支えられている部分であり、意志的努力は逆にどうにもならないことである。しかししばしば人間はその能力が宗教的表現を赦して貰えば、「神によって付与された」とか「神の思し召しである」とか「神のお恵みによる」といった謙虚な気持ちになかなかならないで、自分の能力であると考え勝ちなものなのだ。そこで私たちは自分とは一体何なのか、という哲学的命題に再び立ち戻ることになる。
 自分が自分では向いていると思っていることが社会では認可されないディレンマを韓国人は「ハン」と呼ぶそうであるが、そのような心的様相を招来する事態とは実際的には如何ともし難い現実である。そこで我々は何故そうなのだろうか、何故自分の考えるように社会は自分を認めてくれないのだろうか、と考えるようになる。その時哲学的問いが自分にとって切実になる。そして今まで自分が考えてきた羞恥感情がただ単に自己の側から自己に対して推し着せた幻想でしかなかったのではないか、あるいは自己の変化とか日常的な惰性を破壊することで齎される日常的な生活の変化に対する恐怖と不安が齎した小心でしかないのではないかという疑念が、つまり寧ろ自分にとって大切だと自分で思っていただけのことで、そのことで寧ろ自分のあらゆる可能性を閉じ込めてきただけのことではなかったのだろうか?といった思念が浮上してくるのだ。そういう想念が沸々と湧き起るようになるのだ。その時私たちは初めて考える。日常的な安穏と変化のなさをどうにかしよう、と。その時変化のない日常を激変させる事態の到来に対して自然と身構える保守的安泰希求の打破を要求する。それこそがギャンブル的感性の活躍する場が設定されたことを意味する。
 ギャンブル的感性というものはある意味では保守安泰希求型の良心と安穏とした日常を受容している羞恥に対する疑念であり、同時にそれをぶち破ろうとする内的な攻撃的欲求に他ならない。
 人間には本質的に他者に対して身構えるという性質もある。特によくその人間の性格とか性質を把握しきっていない他人に対してはそうである。しかしそのような構えは徐々にその他人に対する信頼感が醸成されるに従って解除されていく。勿論その人間の実像を知るに反比例して武装を解除することに臆する場合もあるにはある。しかし通常実像を知りたいと望む心理にはその他者をどこかで信用してもいるのである。しかしそれをすることが出来ない人物に対して我々は通常いつまでたっても武装解除しない。その時我々は対他的攻撃欲求を顕在化させているのだ。日常性の打破と極度の生活の変化に対する怯えに対しても、実はこの攻撃欲求は役に立つのだ。

その女性は結婚した。そして夫と共に生活する道を選んだ。彼女は愛しているふりをしていた。しかし愛してしまった。愛してしまった以上は身を焦がすほど接近することを求め始める。求め始めると所有したくなる。しかし所有は所詮不可能なので、常に距離が感じられる。他性認識の発生である。距離が彼女の愛を求めることを更に促す。求めることは求めるふりをすることから始まる。求めるふりをすることが愛するふりをすることになる。だから何かをすることとは、何かをするふりをすることと寸分違わないのだ。ふりをすることは示すことであり、それを受け取る者がその通りに受け取ることを望むことである。自己の本意とその本意の外面的現れは一致しないこともあるかも知れないが、一致しないことばかりであるということもまたあり得ない。だから愛しているから愛しているふりをすることとなるが、愛しているふりをすると、愛することともなるのだ。行為の持続がその行為を望むこととなるのだ。愛するふりをすることの下手な者は、愛しているが、そのふりをすることが出来ない(嬉しい時に嬉しい表情が出来ない。)こともあるし、逆にそれが上手な者は愛していないのに、そのふりをすることがどうということもないのかも知れないが、表面だけのふりは長くは続かない。それを見破る者が必ず現れるからである。だから表面的な取り繕いは他者に対する社交辞令的な行為と見做される。
 
 憂鬱な態度、刺々しい性格といったものも、その人間の身体病理、例えば胃や肝臓を治すとか、痔を治すとか改善する部分があるからそういう風であるなら、心と身体は一繋がりである。だから逆に身体病理を抱えているのに、晴れやかな顔をするのは、偽装となる。それ以外の偽装は相手を快く思っていないのに、好感を抱いたふりすることがよく見受けられる。しかしそれを持続してゆくとストレスが溜まり、一気に爆発してしまうであろう。だから逆に楽しいのににこにこしないで、ぶすっとした態度を採っていると、段々と本当に楽しくなくなるものなのだ。だから「ふりをする」ことは、それが本意であるのなら、不可欠な大切な行為である。それは意思表示なのである。意思表示はその時の心の内容を伝える意志の表示であると同時に、その表示が真意に基づくものであることの態度表明である。それは表情と見つめ合うことの中で取り交わされる。
 ただ「ふりをする」ことは、職務上のマナーである場合、偽装であるということも考えられる。例えば幼児なら両親に連れられてどこかの商店に入店した時に、にこやかに来客に笑顔で接する店員に対して「ねえ、あのお姉さん笑っていたよ。あの人僕のこと好きなの?」などと両親に問い詰めるかも知れない。(尤も私の幼い頃はそういう素直な無垢な子供が多かったが、今時の子供はテレビ等からの影響があって、そのような純真な感慨は持てないのかも知れないが。)しかし職務上のマナーはたとえ笑顔でも「ふりをする」ことであり、その人間の真心であるかどうか断言することは極めて難しい。たとえ消費者金融の事務職員さえ、金を借りに来る客に愛想よく笑顔で接するに違いない。
 勿論今の例は極端なケースである。しかし社会は偽装であれ本意であれ、見かけを重視する。それが消費社会の現実である。そのことについて少し考えてみよう。
 例えば私たちは皆顔だけは晒して生きている。他人同士がアイデンティティーを確認し合えるのは、顔だけだからである(直に接する時の場合)しかし顔を見て笑顔で接する人当たりのよい人間全てが善行に励んでいるわけではない、というシビアな事実を私たちは知っており、悪人がいい人のふりをすることは一方で悪事を働いていても尚対人関係上での礼儀や友愛的態度とは異なっているという真実を我々に語っている。だから一方で銀行やコンビニ、CDショップは盗難防止、防犯措置としてヴィデオ・カメラやスキャンを設置しているが、顔を隠すことはそれだけで犯罪者の行為(挙動不審)とされる。
 確かに顔を晒していてもただいい人の「ふりをする」だけの場合もあるが、その真偽を問うことを他人同士ではしないのが社会の通常の有様である。社会ではだから建前の方が重要なのだ。見かけが重要なのだ。もし悪行を重ねる人がいて、その人の知人が、挨拶もきちんとして愛想もよく親切な人が仮に逮捕されると、決まって「あんないい人が信じられない。」とテレビカメラの前の取材クルーに対して返答する場面が日常でもよく見られるが、その知人が犯罪者の日常に関して善人であると思うことそれ自体は間違いではないのだ。社会にとって人間の行為が悪なのであって、性格とか人間性とかはまた別のことなのだ。このことはルソーは「社会契約論」で社会人としての責務は人間性からではなく、奉仕の義務とその行為から評価すべきであるとしている主張にも繋がる。つまり性格が悪い人が社会的には善行をすることもあれば、逆に性格のよい人が悪行をすることもある、と考えた方が自然なのだ。すると「ふりをする」ことというのは意図的ではなく、一つ一つの行為の振舞いが個別の真実であり、真相であり、それら全てを統合した評定というものは又別であるということ、そして一々自分の全ての行動を見ず知らずの他人に知って貰うことは出来ないからこそ第一印象が大切であったりすることもあるし、顔つきや表情だけではその人間の全ては推し量れないが、表情くらいは真摯な態度で他人に接することが西欧社会では特に求められている(introvertよりもextrovertな真実を西欧社会では重要視する面がある。)という現実の根拠が示されるのである。(日本人はこういう社会倫理が西欧とは少し異なっているが)又だからこそ他人に全てを告白し、報告する必要もなければ、他人のプライヴァシーを詮索することはよくないことである、と社会ではされているのだ。しかし「ふりをする」行為が意図的ではなく、自然であることの方が多いことはここではっきりしたが(悪人の日常的な善人振りは技とではない。)人間は職業的な責務として例えばサラ金の事務所の職員がにこやかに債務者になる可能性のある客に応対するような偽装は、そうそう持続出来るものでもない。又通り一遍の挨拶程度の社交辞令だけで全ての人間関係を裁くことも又人間には出来るものではない。それは職務中でもそうだし、地域コミュニティーにおける人間関係でもそうである。だから逆に「ふりをする」ことも「真意を告げる」ことも両方その人間の真意であると考えた方が分かりやすいのだ。それは心の内容ということなのだ。人間の内面は外面から推察可能なのだ。顔が直に露出しているという事実がそれを証明している。しかし同時に心の内容の様相は理解出来ても、全てのデータを他人が推し量ることは不可能なのだ。ただ今の瞬間においてこの人は真剣に仕事をしているとか、物思いに耽っているとか、何かを思い出そうとしているかとかが了解されるだけのことである。行為とはその行為のための意識を集中させていることだからだ。だからこそ心とは心の内容であり、心の内容は外面にも表出するということなのだ。
 よって今私が心の内容を思い描くことそのこと自体は、ついさっきまでの自分の心の内容を、つまり過去の自分の関心と志向性(例えば今の私で言えば、このように文章を書くことで何かを残したいという思いとその何かという心の内容)なのである。しかし私の心の内容とは何かと今思い始める時、必ずついさっきまでの私の心の内容が関心対象として浮上するのだ。そのように過去の自分の心の在り様自体を対象化する志向性が、私の心の内容の中でも重要な意識であるということは間違いない。これを反省意識と呼ぶべきか、哲学的思考と呼ぶべきかはともかくとして。
 例えば社会人は(勿論学生でもよいのだが)テレビを見ている時、その番組の放送内容に関して刻々と感想を抱きつつ、内容的に何かを考えている。例えばある政治家の死去のニュースを見てその政治家の在りし日の姿を映像的に想起したり、自分の死んだ伯父のことを思い出したり、そう言えば最近見ないあの役者はどうなったかとか次々と連想を働かせる。そしてこうやって自己分析する私と、自己分析される私の次々と連想を働かせる私の心の内容は、対自的認識であると同時に即自的認識であり、私の考えとその私の考えに対するもう一つの私の考えという無限後退を余儀なくさせるような関係それ自体を綜合的に見た時に生ずる判断によって形成された像が「人格」となり、今私が自分なりに見たことによって判断する像の内容が今私にとっての私の「人格の内容」に他ならない。それは内容として位置付けられた結果である。後付作用による判断である。
 明日彼女に会えるという場合、彼女の姿を想像することは、過去の彼女のデータを通した追想である。しかしその全体像を裏切るように明日あなたが彼女と会うと彼女はそれまでの髪型を変えてあなたの前に現れるかも知れない。この場合、最初に彼女の顔を想像した時は彼女の顔の具体的想起が心の内容だが、「いや、ひょっとすると明日会う彼女は髪型を変えているかも知れない。」と思い次の瞬間、ロングヘアのいつもの彼女にショートカットの彼女を重ね合わせる。そのロングヘアの想起からショートカットの想像へと転換する一瞬、彼女の具体的像は消え失せ、意識の死が挿入される。つまり意識転換する時には、必ず具体的像に対する想起的集中が途切れ、その想起持続する「心の内容」それ自体を俯瞰するもう一人の客観的思念が浮上する。外在主義的な認識の登場である。その瞬間具体的像は消え失せ、抽象的思念が支配する。何かを具体的に想起する時、思念は純粋な志向性に裏打ちされているが、一旦その思念を打ち消すように客観的に思考する時、対対象的な志向性は途切れ、その「心の内容」を鏡に映して確認するように「心の内容」それ自体を反省する。それは日常的な自分の思念自体に対する思念である。しかし何かを想起する時には、必ず過去に見た姿の記憶が呼び出されるが、同時に眼を瞑って想念するのでない限り必ず今現在私が見る、例えば目の前のスタンドとかパソコンとかと、過去想起映像とが同時に「心の内容」に浮上している。その時過去と現在の、つまり記憶映像と現在知覚の観念連合が生じる。現実認識+過去想起である。ここには現実に対する認知と判断(前者)+過去現実に対する認識(後者)の複雑な様相が展開されている。
 私が他者に自己の本意を伝えようとする場合、その他者に私が好感を持っている場合、その他者に関する過去映像がフラッシュバックすることは少なく、私はその他者の瞳を見つめて話すだろう。そしてその他者に対して好感を抱いていることの「ふりをする」ことは非意図的になるだろう。しかし仮に今相対している他者に対して私が嫌悪を抱いている場合、私はその他者に纏わる嫌な思い出に纏わる過去映像を記憶として呼び覚ましているだろう。その時私は出来る限り嫌な他者に対して社交辞令として嫌な態度を見せまいとして好感を抱いている「ふりをする」であろう。そしてどこかその他者に対して瞳を見つめる行為もぎこちなく、敢えて直視することを差し控えようと無意識に私は考えている。つまり人間にはその対象に対して好感を抱いている場合は非意図的であるが、嫌悪の情を抱いている場合、意図的に振舞うのだ。つまり「ふりをする」ことが意図的な場合というのは嫌悪の情を抱いていたり、非常の場合で緊張していたり、要するに気を張っていなければならない状況下の場合なのである。だから銀行のATMで他人の口座から金を引き出そうとしている悪事を働く人間の心理は、写ったカメラに顔を向けないように工夫しながらも、それが悪事であるとばれないように気を配り、出来る限り通常の風を装うだろう。要するに普通の「ふりをする」のだ。しかしこのことはこのような犯罪の場面での人間の心理ばかりではなく、日常的な人間関係、家族内の感情に関しても起り得るのである。
 
 ここでひとまずその心理の分析をお預けにして、今度はその「普通のふりをする」ことで購わなければならない我々一人一人の人生における意識転換をある例を挙げて考えてみようと思う。

彼女は結婚した。そして夫と共に生活するようになる。子供も生まれる。彼女はごく平凡で倹しいささやかな生活にも満足するようになるし、そのことで得る幸福を享受するようになる。そしてそれを幸福であると自己規定し、幸福とはそういうものだ、と概念規定するようになる。そして当然のことながら、幸せであるとはこういう振る舞いであるという世間一般の振る舞い(表情とか態度とか言動の全て)をする。要するに幸せである「ふりをする」。その振舞うという事態がどういう意味を持っているのかということに関して彼女は別段問い掛けたりはしない。そのことに取り敢えずは意味を見出せないからである。
 しかし彼女の前に、それまで自分でも気付くことのなかった全く自分にとっても予想外な夫にはない魅力を持つ、と自分でも思われる男性が現れたとしよう。彼女は結婚して子供もいるのだから、彼女の内面のこのような自分でも驚くような恋心とは、今まで持った経験がないのだから形容出来よう筈もない。しかしこの思いというものを彼女は何が何でも抑えつけねばならないのだろうか?そうではないだろう。確かに彼女はその男性に惹かれて夫も子供も何もかも振り捨ててその男性との生活を手に入れることが正しいとは言えまい。しかしだからと言って、内面のときめきの全てを断ち切ってしまわなければいけない、とも言い切れない。そのように強制することは、業務上致し方なく無礼な客に対しても笑顔で接客するような業種の人に、内面でも無礼な客に対しても好感を抱けと言って脅迫するのと同じことである。
 今のところ夫に不満はない。しかも夫と子供のいる生活に対してもそうである。だから新たに現れた魅力的な男性と、これまでの家庭とを天秤にかけて後者を選ぶことは社会的見識上では順当なことと言えよう。しかしにもかかわらず、この女性が仮に魅力的な男性との生活の方を選んだとしても、それをただちに正しくはない誤った選択であった、間違った決断であったともまた言えない。例えば義務教育とか、大学生くらいまでの教育機関ではこのような生き方を奨励することは殆どあり得ないであろう。しかしこのような殆ど突飛な選択がもしあったとしても(事実世の中にはこういうケースも実は沢山あるのだけれど)それを間違っているとは言えない部分にこそ我々は人生の不可思議を見出すのである。

 例えば人を殺すことはいけないことである。しかし同じことが戦場に立たされた兵士に言えるだろうか?例えばこちらから率先して敵兵に突撃することなく、ただ向こうからの攻撃を待っているある格別戦争に対して肯定的ではない兵士がいるとしよう。彼はだからもし出来得ることならば一人の敵兵も殺すことなく兵役義務を真っ当出来ればよいとさえ考えている、つまり平常時であるなら寧ろ平和主義者と言ってもよいタイプである。しかしある時突発的に彼の眼前に敵兵が現れ、向こうがこちらに向かって銃口を突き付け、今まさにこちら目掛けて射撃しようとしているとしよう。この時彼は人を殺したくはないのだから、どんなに向こうから攻撃されても、尚一発の銃弾も発射しないという選択肢も当然残されている。しかし、もしそうしたなら間違いなく彼は射殺されてしまうだろう。この場合彼は恐らく咄嗟の判断に自分の身を委ねるであろう。この場合彼は考えている暇はないのだから。
 世の中には正解が幾つも存在し、その中のどれが一番正しいかというような判断を必ずしも下せないものの方が、たった一つの正解しかないものよりもずっと多い。
 また何かを選んでそのことによって結果的に引き起こされた事態を通してしか何事も判断することは出来ない。しかしまた同時に仮に何かを選択したとして、そのことによって引き起こされた結果が芳しいものでなかったとしても尚、その選択が正しくなかったとは言えないこともある。
 そのことに関して哲学的に追究している映画監督がクリント・イーストウッドである。彼は自身が主演を努める映画を監督することもあれば(「センチメンタル・アドヴェンチャー」、「許されざる者」、「マディソン群の橋」、「ミリオンダラー・ベイビー」)、そうではなく他の役者を主演させて自身は監督に徹する(「バード」、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」)こともある。彼にとって行為選択というものは、そのことで結果的に取り返しのつかないことになったとしても尚意味あるものであるという認識を持つことがある、という思想に裏打ちされている。それは肺病を煩ったシンガーへの夢を捨て切れない中年男が彼を慕い憧れる甥を伴って旅をするロード・ムーヴィー「センチメンタル・アドヴェンチャー」においてもそうだし、やはり肺結核で若くしてこの世を去る不世出のアルト・サックス・プレイヤーのチャーリー・パーカーが選ぶ殆ど医師の診断を受け付けないような破天荒な生活態度(「バード」)もそうだし、一度は完全に足を洗った殺し屋ガンマンが友人たちへの復讐に燃えて再び無法者の人生へと立ち返る「許されざる者」もうそうだし、たった一晩の情事はそれが社会倫理的には許されないことであると分かっているにもかかわらず一晩の恋に燃える男と女もそうだ。(「マディソン群の橋」)いつかは自分が、倒して生涯障害を背負わせるかも知れないような痛手をずっと負わせ続けてきてその見返りとして倒されるかも知れないという可能性がありつつも尚、次の勝利を求めて止まない女性ボクサー(結局最後は汚い相手に打ち負かされ全身麻痺になって安楽死をトレーナー兼マネージャーに求め、それを恩人に受け入れて貰い安楽死する。「ミリオンダラー・ベイビー」)、そして必ず負けて最後は戦死することが分かっているのに最後まで敵兵に対して最大の攻撃と防御を模索する中将の生き方を示すことにそれは表れている。(「硫黄島からの手紙」)、そのどれを取っても生物学的な種の生存戦略的意味合いからは矛盾だらけの行動を彼は描いてきた。そこにはある意味では人間だけが考えることの出来るとされる「生きることの意味」という哲学が脈打っている。
 人間の行為とか行動は自然に、殆ど何も考えないようにしている場合は、意図的ではなく、無意識であり、そのことに関して取り立てて問う必要のないと知っているのであり、人生とは恐らくそのような問う意味のある行為や行動の方がずっと少ない。しかし同時にだからこそその結果死ぬことになっても尚、あるいはもしかしたら死の危険があっても尚、チャレンジし続けることの方に、ただ保守安泰希求的な安全だけを願うことよりも意味がある、と捉えることの出来る存在である。イーストウッド監督はそのことを言いたいがために映画作品を作り続けているようにさえ思われる。そしてこのイーストウッド映画哲学は我々の人生にも当て嵌まることなのだ。もし一々説明を要する必要のない行為だけで人生が成り立っているのなら、そもそも哲学のような学問など要らない。しかし私たちは問うことばかりでは先へは進めないが、先に進むだけが人生ではない、という風にも考える。そしてその時初めて普段は問い掛けもしなかった行為(その連鎖こそが生活という実態なのだが)をただそういう風に行為しているのではなく、問うことの意味を放棄している、あるいは放棄する「ふりをしている」自分を発見するのである。だからこそ「ふりをする」行為が実際はことの他多いにもかかわらず、それをころりと忘れていて、一旦そのことに対して自覚的にならなければならない必要性から我々は、「ふりをする」ことを自らの行動や考え(それもまたそのような「思おうとしている」、「考えようとしている」という風にも捉えられるのだから)を一回全て言語的に、あるいはそれを通して人生全体における意味として捉え直すことをしようと考えるのだ。そしてその時、我々の日常の何気ない行為の全てが、ライル(哲学者)の言うようにただ「何かをする」のではなく、「何かをする<ふりをする>」行為の連鎖であると気付くのだ。そのことに対する覚醒は実は哲学的な反省意識がなければなされないのだ。そしてそれは対自的な(即自的ではない)認識に基づいているのである。つまりあの時私は自分の気持ちに従ってああいう風にしたからこそ、あの行為が成し遂げられたのだ、とか、ある人に自分の気持ちを告白したからこそ今友人であり、あるいは恋人であり、伴侶である(逆に交際することなく終えた)のであり、要するに自分の意図したことによる成功例を常に判例としながら我々は一個一個の行為を積み重ねているのである。それはある程度経験的事実というデータの暗黙の有効利用とも言えるのである。そしてある行為が自覚的であり、意図的であるかどうかの判定基準とは、概して非意図的であるような経験的判断ではない決断に見られる心的様相とは、習慣的、慣習的である行為の連鎖に対する懐疑が呼び起こしたものである、という側面があり、つまりそういう惰性的な人生の時間のない人間には意図的な決断というものもまた不必要である、ということである。人生の大きな転機というようなものは概して非意図的行為の連鎖、つまり慣れという惰性に埋没している生活実態があればこそ、その反省から生み出されるものなのだ。そしてその惰性に対する反省というものは、実は惰性的にしてきた行為の連鎖を、もう一度ただ「する」ことなのではなく、する「ふりをする」というレヴェルまで行為の意味を捉え返す必要があるのである。何故なら「ふりをする」という行為はあくまで意図的で、敢えてする行為だからである。
 だから嬉しいから嬉しい表情をする、ということは通常の認識である。しかし逆に捉えれば嬉しい時に嬉しい表情をした方が、概して我々は他者からは好感が持たれるという先験的事実を我々は無意識の内から認識しており、だからこそ我々はそういう態度を採ってきたのだ、という事実に着目すれば、我々がそういう態度を採ることは、必ずしも嬉しいから嬉しい表情と仕種をするのではなく、限りなく嬉しいふりをし、嬉しい表情や仕種をするからこそ嬉しくなるのだという事実として相貌を転換するように我々に迫ってくるのである。このことはただ認識の転換を意味するばかりではない。我々の生の実存が、経験的な行為の連鎖によって、習慣化された行動パターンに埋没することの素朴な人生の信仰が、我々の行為選択から言語的思考に至るまで支配しており、我々が通常考える価値とか幸福感とかいったものさえ、自己内にインプットされたステレオタイプによる瞬時の非意図的判断でしかない、しかし同時にその判断をなし得るのはただ単に、時間的にも、生存維持の観点からも健康で、今のところ死は遠い先のことである、という非哲学的態度の無自覚な採用以外の何物でもないということを意味する。しかし実は時間の猶予も、健康の維持も、死もある日突然襲い掛かるということが実は人生のもう一つの事実なのである。このことは多くの哲学者たちも論じてきた。そしてイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公の女性プロボクサーのようにどんなに連勝していきても、ある時突然気の緩みで、突如活躍どころか健康的な生の持続さえ危ぶまれる危機に直面するような可能性に私たちは常に隣接して、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしているとだけだ、ということなのだ。
 だからこそ逆に親しい友人や愛する家族に対して我々は楽しい時には楽しい振る舞いをし、辛い時には辛い表情や態度や仕種をすることで、相互の本意を読み取りやすいように心掛けているのである。つまり内心の本意を正直に表わすことという行為には、「ふりをする」ことが内心の真意であることを示すことによって肉親、家族、親友といった自己にとって大切でかけがえのない人々に対して、そうしてきたからこそ信頼と信用と愛情を獲得し得たという記憶が拭い難く我々の脳裏を席捲しているからこそそうしてきた(殆ど無意識に)のである。それは考えてそうしてきたのではなく、寧ろ非意図的にそうしてきただけであり、またそのように自らの意図をごく自然な、「ふりをする」ことをしないで、常に偽装的態度でのみ他者と接し続けていたら、我々は心が窒息して生きてゆくことが出来ないと、本能的に(この言葉は哲学上では、あるいは進化論上でもご法度とされているようだが、これを使用するしか、この場合手はないのだ。)覚知しているからである。つまり我々は実は無意識に自分が死んだ時のことを考慮に入れて全ての行為に臨んでいるのだ。だから「ふりをする」こともまた明らかに意志である。それは真摯な嘘である。そして真摯な嘘とは誠実で偽らないことなのである。意志には「どうしようか」という逡巡に対して、あるいはそういう思念に対して「こうせよ」と指示することに等しい。それは思索の断念なのだ。そこには必然的に対自的な「語らい」がある。「語らい」とは思索的な意味ではない。それは存在論的な決定なのだ。そして何かを決心している時我々はどこかで巧くいった時の記憶を呼び戻しながらも同時に、それを少しだけ逸脱した不確定要素へと飛翔するギャンブル的感性をも採用し、その未知の可能性に対して賭けるという意識がある。
 ギャンブル的感性が日常生活で役に立つようなことがあるということの背景には、必ずその不確実なものに対する賭けを意味あるものにする確実なことというのがなければならない。それが日常のルティン・ワークである。日常のルティンがあるからこそ我々は時として常習的な事柄から逸脱することに意味を見出せるのだ。
 例えば我々はテレビで悲惨なニュースを見て、それが自分の目で確かめた(実際にその現場で見た)わけではないのに、「酷いな。」とか「気の毒に。」とかその映像を目にした時思う。実際に自分の目で近所の火事の現場を見た時我々はその日の夕方テレビにニュースで報じられた火事の映像を見ると「実際とは違うみたいだ。」と思う。誰しも一度は経験していることではないだろうか?それなのに我々は自分の目で見たものではない多くのニュースをあたかも自分で目撃してきているような錯覚に陥る。しかし実際それらはテレビの映像がただ脳裏に記憶して焼きついているだけのことなのに、我々はそれが各放送局のニュース報道を巡る放送姿勢によってある程度の脚色をされて報じられているのに、それらを実像として受け入れる。このような日常もまたルティン的な行為の連鎖の一部に位置付けられる。さて我々はしかし時としてマスコミ報道そのものに対してある種疑いの目を差し向けたいと思う。それはある程度意識的に冒険心、逸脱希求的な心理が要求される。そして見て見ぬふりをする、敢えて苛酷な日常の報道の渦の中にいながら、報道されることを幻想として認識することをしようとすると、全然今まで気が付かなかったことに気付く。それは報道とは事実ではなく、事実像なのだということを。しかしその時同時に思う。報道されることはある程度放送局の思惑によってどの局のものも恣意的にトップニュースになるもの、敢えて報道する必要のないものと選別されているわけだが、では報道されないことが全て意味のない事件的価値のないものであるとは決め付けられという意味では全ての報道を疑ってみることは大切だが、だからと言って報道されること全体が虚像であると決め付けることもまた一つの大きな思い違いであろう、と。
 私たちは自分が他者を適当にあしらったりすることがある。鬱陶しい奴というのは誰でもいて、そういうタイプの他者にはすげなくしたりする。しかしその時その行為が特に悪意のあるものでなくても、そういう態度を採られた他者(そういう態度を採られる最初のきっかけはその他者が他人に対してある程度そういう態度を採ってきているからであるケースが殆どなのだが)が昨今問題化しているいじめ被害者の心理に陥ることがあればまずいな、一種のハラスメントになりはすまいか、と自分でも反省することはある。そういう時我々は自分が他人から騙されているのではないかという被害者意識を持つことがある。例えば今言ったマスコミ全体が国民を扇動しているのではないかというような妄想を抱くことは現代人の一種の特徴的傾向性かも知れない。その被害者である自分はまた同時に誰かに対しては加害者かも知れないふと思うこともある。昨日彼に言った一言は彼を傷つけたかも知れないと反省しながら、彼に対していじめることまでしなくても、どこかであしらいつつ誠実に接していないのなら、それもまた一種の騙しであるかも知れない、と明日からは彼にそういう態度を採ることはやめにしよう、と思う。見て見ぬ「ふりをする」。
 さてその他者からの騙しをあざとく見抜くことが出来るのか出来ないのかがある程度騙され難い人間、逆に騙されやすい人間の差を作り、世間を渡っていける巧みさにも繋がるという面もあるが、同時に狼少年幻想の如く、他者からの悪意に敏感になり過ぎることというのは、ある意味では他人を信用しなさ過ぎる(最初から信用し過ぎてもいけないが)ことを意味するから、擦れた人格と他者から見做されるようになって人間社会では実害を被ることも多い。ある程度の自己防衛心は必要だが、必要以上に他者に対して猜疑心があり過ぎると逆に警戒され人間関係的には巧くいかないのが社会である。
 しかし人間はごく無意識の内に、つまり自分でも気が付かないう内に作り笑いをしていたり、おべっかを使ってみたり、要するに何か今の自分の心の奥底に内在する本意とは違った、社会的に取り繕った何かいい子ぶる、つまり善人の「ふりをする」のだ。それは猜疑心の塊で、誰も真に信用しないことに比べれば一見よいことのように思われるが、そうではない。そういう偽装的態度というのは本質的に他者に対して猜疑心を抱いていればこそ、採る自己防衛と真意表出差し控えの態度なのである。それは話は戻るが自己の中の保守安泰希求型の心理に対抗し、撃破する構えの攻撃欲求(これを私は自己改革の精神なので「人生の良心」と私が呼ぶものに裏打ちされていると考える。)とは違った変化に対する恐怖が支配した惰性的慣習埋没型の心理で、それを私は生活の良心と呼ぶ。
 生活とは人間にとって経済レヴェルの安定を常に求めるから、それは惰性の死守である。しかし人生とはある時は生活を打破することも意味するのである。すると一切の生活の打破をしないでみみっちい生活の良心にぶら下がって生きている人間は、人生という最も大きな賭け(それは全体的に言えば一種の賭けであると言ってよいだろう。)に損失を齎しているとも言えるのである。
 この人生の良心は何も必ずしも離婚とか転職にのみ存しているわけではない。そういう生活レヴェルから一転するような内的な革命のことばかりを言うのではない。例えて言うなら、道端に転がっている石ころに対しても、今までは目にさえ留めなかったのに、もののあわれを感じるというようなレヴェルの意識変革のことを言っている。
 そもそも人生という奴は不思議である。これこれこういうものが人生の在り方であり、それに沿って生きることが一番幸福であるなどと最早誰も考えてはいない。だから自分の好きなように生きられればそれが一番いいのだが、実際そのように自由に生きるということには金がかかるのだ。余程の経済力のない人間にはそのような悠長な生き方は許されない。そうなってくると、必然的に価値観における構成要素とか評定基準に他者とか社会一般に対する意識が含まれてくる。そもそも離婚も転職も自己にとっての他者、社会、あるいは他者、社会から見た自分というものの実像という認識が不可欠だからである。
 つまり人生は自分のものである、という認識に既に他者の存在が抜き差しがたく介在しているのである。だから他者は配偶者から親子に至るまで、あるいは友人から同僚、同業者に至るまで生涯その関係から離脱して生きることは実質上不可能な存在なのだ。そして本来良心と羞恥という感情、認識が存在し得るのは他者、社会というものがあってのことなのである。
 ここで羞恥感情というものの起源について考えてみよう。明らかに聖書にもあるように、人間はある時期から着衣し、裸の状態を他者に見せることに羞恥を感じるようになった。ここら辺はルソーの「人間不平等起源論」などに人間の内的現実に関して詳しく述べられているので、私は私なりの考えを述べてみようと思う。
 まず羞恥はどのホモ・サピエンス個体も同じように身体機能を携えているも、各器官の形状というものは外面的に、それは勿論顔とか頭の形も含めてなのだが、個人毎に異なる。そして当然のことながらある思念、それも誰でも抱くようなもの(哲学ではその普遍客観的個々の事象に対する認識を表象と呼ぶ。)においても、個的意味感受に関する内的過程とか意味把握に纏わる背景も違う。私は我々が内的に言語習得する過程に至る前にも先験的に「世界や宇宙という語彙が語る真実」をア・プリオリに存在させていると考えている。これはどういうことかと言うと、そういうものがあったら表現したいけれど、語彙を知らないので内的にそういう感じというカオスを抱いているのだ。この段階では恐らく未だ表象とは言えない。表象とはもう少し他者との間で了解し得る、説明可能であると内的に明示している状態であると私は捉える。しかしこのカオスは例えば世界という概念も、自分とその周囲の外延的な一纏まりであることは確かだが、要するに世界の内容は当然のことながら個人毎に異なる。そこで普段何気なく我々が使用する世界とは明らかに語彙習得するプロセスにおいては、自分にとっての世界であった筈である。それを丁度大人が世界という(語彙習得している人間を子供も含めてここでは大人と言っている。)語彙を発話した時、「ああ、あのことだな。」と内的に納得してその語彙を他者と交わすようになってきているのだ。そしてこの内的プロセスに纏わる自分しか知らない事情とかエピソードがずっと記憶に、それがはっきりした形でではないけれど、残存する。それがその人間に纏わる語彙に関するクオリアなのかも知れない。しかしこの個的意味の世界、つまり語彙習得に纏わる幼児体験性に根差したもう一つのトラウマというものは、恐らく他者にそう容易に口外し難いものである。余程親しくならなければ、そうおいそれとは他者に告げられないニュアンスのものであると言える。それは羞恥の魁ではないだろうか?勿論衣服を剥がされた状態を他者に見られることに纏わる羞恥というものもある。しかしこの内的幼児体験に起源を持つ羞恥は、精神的であるが故になかなか根は深いと言えるのではないか?
 世界は自分の家族とか自分の住む環境である。赤ん坊にとって最初は部屋の中、次第に外界も知る。そして宇宙は最初空であろう。尤も宇宙という概念は空とか無とかの獲得の後に醸成されてゆく可能性もあるし、逆に無が宇宙の後に意味把握されてゆく可能性もあるが、何か宇宙というものの原形は世界とも異なったものとして先験的に存在し得る気が私にはするのである。

Thursday, November 26, 2009

〔表情の言語哲学〕2 付録論究 自己疎外の他者からの引き受けと他者への要請

 私たちは「語る」ことそのものがファジーさを一切払拭してしまい一義的メッセージとなってしまう語彙化の威力そのものを確認した。しかしそのように語彙化されて第三章で示したような真理領域的部分理解となってしまうこと自体に私たちが自覚的であるという事実自体が私たちが言語的思考以外の感覚的理解をも我々の能力として認めていることの大いなる証拠である。しかしこの言語化不能の感覚を所有していること自体はかなり私たちの精神を不安定なものへと陥れる。つまり私たちが言語獲得以前の動物的直観に恐れ戦いてしまうのである(尤も言語以外の人間的直観というものもまた実は考慮しなければいけないのだが、取り敢えずそのことは置いておこう)。
 つまりこれこそが、私たちに他者に表情があり、それを読み取るということを、こちらの表情を読み取って貰うこととの交換において渇望するという状態を作っている。つまり私たちは語ることを通して他者に関わることがそういった本能的自己身体への恐れ戦きであることを薄々知っているからこそ、他者を疎外された自己の鏡として認識するのである。
 つまり自らの本能的判断の所有自体への恐れ戦きを自己に認めることが他者存在を自己と相同の心的様相の保持者として認識することを希求させる。それは言葉を他者から引き受け肩代わりしているとも言える。何故なら、そうすることによって他者内にも自己と相同の恐れ戦きを認めてもいるからである。
 この恐れ戦きとは実は、自己に纏わる未来の不確定的不安、何度も繰り返し述べてきた死に対する個的不安保持にもなり代わり得ることは言うまでもない。私たちも又ただの動物的死を避けられ得ないからである。故に永遠という想念はその事実自体への我々に拠る抵抗的意図が生み出したものに相違ない。
 自己疎外は自己にのみ固有のものではないという信念は勿論確然としたものではない、常に揺れ動く想念である。しかしであるが故に他者に対し、それが自己にのみ固有のことであるかどうかを確かめる(第三章から結論に至る一つの命題として)という意志を意思疎通的に私たちに抱かせる。
 他者からの引き受けと私が言うのはとりもなおさず、他者が感じる自己疎外不安を私が共有しようという態度を採る(振舞う)ことであり、そこに必然的に理解を示す表情を介在させることとなる。他者への要請とは言うまでもなく、他者から引き受けるように、こちら(自己)の自己疎外不安を他者に示し理解して貰うように委託することである。この両者は必ずしも成功するとは限らない。これもまた未来の不確定性への不安を掻き立てる。
 私は前節においてデカルトを通して「語る」ことと「示す」ことの違いについて述べた。そのことについて考えてみよう。実はこのことはウィトゲンシュタインは自覚していたが、座標軸の一点を私たちがその意味について読み取る時、私たちはその一点において示されたことを解釈している。しかし「語る」ことはそうすること自体で示されたことについて意味を受け取り、示されたことについて解釈出来るように説き伏せるほどの力を持っている。それは「語る」ことが音声的顕現であれ、記述であれ、語彙化という真理領域的部分理解を通して一義的にある物事を主張することとなる。
 つまりその矛盾こそが言語の限界に他ならない。ウィトゲンシュタインが言語の限界が世界の限界であると言った時、それが世界そのもののことなのではなく、「世界」と世界のことを語ってしまうことについて言ったことなのである。何故なら、私たちは仮に実感し得ているものが「世界」と一言で表現することにあるもどかしさを感じ取ったとしても尚、そのことを含めてそれを私たちは「世界」と呼ぶからである。それをデカルト流にコギトと言い換えても事情は変わりない。
 私たちはデカルトが抱いていたであろうもどかしさと全く同じことをウィトゲンシュタインの中にも読み取ることが可能である。つまりこの内的なもどかしさとはある意味で、どんどん語彙を換えていくことでしか解消れ得ないとも言い得るのである。何故ならもどかしさ自体は、私たち自身が感情はいたく複雑であるのに、例えば「笑う」ということ一つとっても、「バカ笑い」「苦笑」「微笑」「ほくそ笑み」といた極めて限られた語彙しか持たないし、また表情にしてもほんの社交辞令としての微笑みと性的誘いの間の明確な境界さえ内的感情の決定的な差異ほども我々は持ち合わせていないからである(私たちは外面的表情というサインだけでなく、感情においては過去の記憶に対する想起とか現在知覚的判断とか想像といったことを同時に感情を通して行っている)。
 世の中の大半の殺人とは恐らくこの他者の示した表情に伴う感情の読み違い、即ち誤解に起因している、と私は思っている。
 「君はあの時、同意の態度を示したではないか」と犯人は相手の豹変振りを指摘するだろう。しかしそれは豹変したのではなく、ただ単に相手の態度を読み違えただけのことに過ぎないのだ。
 私たちはしばしば相手の表情を自分が相手に望む風に解釈(読み取る)傾向さえある。特に親しい間柄であると思っていた他者に裏切られた時などはそうである。「彼がそんなことを思っていた筈などあるわけがない」と。つまりだからこそ自己疎外ということが切実なものとして迫ってくるのである。そしてしばしば私たちはこのような気持ちを自分以外の他者もまた抱いているものだろうか、という想念の下で他者を認識する。それは孤独と言うには余りにも表現不可能な相互理解完全一致の不可能性に対する予感である。つまりその余りに絶望的な理解し合えなさに対する自覚こそが、その思念自体の自己にのみ帰属することを信じたくはない感情こそが、逆に同一の心情保持者として他者を必要とするのである。
 つまり一方で「こういう気持ちは自分だけが抱いているのではないか」という他者と相互に完全理解一致し得なさが、逆に他方「他者もまたそうであって欲しい」という形で私たちは他者を求める。他者とは終ぞ全てを理解することは出来ないという形で逆に各私同士を結びつける動因となる。

 付記 「表情の言語哲学」2はこれで終了致します。暫く休暇を頂き、再び別の論文「羞恥と良心」「良心と羞恥」などを順次掲載更新していきます。(河口ミカル)

Sunday, November 22, 2009

〔表情の言語哲学〕2 付録論究 名指しの意味付与性

 ここに常に周囲から騙されていてあまりそのことに頓着しないできていたがために色々と損をしてきたこと自体にある日覚醒した人間がいたとしよう。その者はそれまではずっと周囲の人々全てをいい人であると思っていたがために損をしてきたのに、そのことに全く気づいていなかったのだ。しかしある日別の他者から要らぬ(か要るかはともかく)入れ知恵をされて、それまではずっといい人だと思っていたある他者をその瞬間から警戒すべき他者であると認識し始めることとなる。するとその者はいい人であると思っていた他者に対してそれまでは殆ど友愛的な表情ばかり示してきたのだが、そのこと自体に対して反省的意識を持ち、次第にその者の前では時折それまでは終ぞ示すことのなかった不快な表情を意図的に示すように心がけるようになる。するとその態度はそれまでそういう態度を一切示されなかったその他者にとっては意外なものに映る。しかしそれもある程度持続して習慣化されると、さしものその他者も流石にそういう不快な態度を表情として示す者の本意を読み取るようになる。つまりそれまでは全くそういう態度を示さなかったその者への警戒心を抱くようになる。
 これが親しかった者同士の間に入る亀裂である。しかしここに重要な真理が控えている。それはそれまでは信用して疑うことになかった相手に対する評定性において新たな意味の相貌を付け加えるという作用が施されているということである。つまりここで言いたい意味付与性とは対象が人間であるなら、そういう相手に対する存在理由自体への読み替え、解釈し直しを意味する。何かに対して名指すということの内にはそのような意味合いがある。つまり「~である」と規定すること、そういう風に普遍化することによって名指すことを通して、そういう風に名指す以前にはそのものに対して持たなかった意識を常に顕在化させるということが名指すこと自体に性質として内在しているのである。
 それは相手が人格を伴った存在者であっても、世界自体であっても、社会自体であっても、自然自体であっても変わりはない。
 では何故そのように意味を見直し、解釈し直し、読み替えていくかと言うと、我々は世界に対して何らかの把握の名において対象化し、存在規定し、意味化せずに生きていくことが不可能であるからである。だから意味づけ作用とはそれ自体で既にある対象に対して、世界自体に対して一定の懐疑主義精神と批判精神と警戒心を性格上備えていると言ってもよい。何故なら我々は世界に対して何らの意味づけ作用も、存在規定もしないでいいのであれば、そのこと自体は一切世界が我々に対して脅威として存在していないということを意味するからである。
 だからこそ我々はある人間の表情を読み取ろうとする。それが例えばその人間が笑ったのであれば、その笑い自体の意味を汲み取ろうとする。それは心底笑った相手が警戒心を解除した笑いであるのか、それともこちらに対する軽蔑心とかこちらに対する迎合心によってであるのかという風に評定する。つまり我々がある者の取った表情を下心のないその通りの真意を示したものであるかということ自体をあれこれ考えるのは、そもそも表情自体を偽装し得たり、あまり真意を顔に表さないようなタイプの成員もいるもとを知っているからである。そしてそのような特殊例を引用してくることによって警戒心を抱く時には相手を表情と本意とか真意とは食い違うこともあるのだ、という真理を殊更内的に強調するのである。しかしそういう警戒心自体が思い過ごしであることも多いし、そういう風に思い過ごしであることを了解した時我々はそういう警戒心を相手に対して抱いたこと自体を後悔するし、反省する。しかしそのようにああだこうだと思い巡らすことを可能にしているのは、実は私たちが意味づけ作用をせずには生活していけないということを表している。
 だからこそ時として必要以上の意味づけ作用をよくないことであると認識し得るのである。しかしそのように世界に対して固有の「構え」を構成するということは、自分自身が世界とは別箇に切り離された存在であると認識しているからである。本来世界とは私たちが作っているものであるのだから、世界構成者としての自分だけは「世界」とは別箇の例外としていく必要があるのである。ここにデカルトのコギトという考えのベースがある。
 哲学において内的世界と外的世界を分けて考えてしまうのは、そういう風に世界を構成するのが私たち自身、私たちの脳であるという認識があるからである。しかしよく考えてみればその私自身はやはりちっぽけな世界内存在者であるに過ぎない。それは世界の構成要素であるが、世界の構成要素たる我々によってのみ実は世界も構成されているとも言い得るのである。つまり世界の構成要素たる我々という思惟自体もやはり我々の脳によって齎されているだけである、ということである。つまりそれは私が世界に対して「私」と言う風に別箇に名指す時に既に始まっているのである。あるいは我々が世界全体に対して「我々」(人類)という風に名指す時に既に始まっているのである。
 しかし私は第三章で述べたが、我々は言語を獲得した後にも、完全に前言語習得状態での感性を失っているわけではない。それがただあまり意識の上に浮上しないということでしかない。すると我々は世界に対して「私」と捉える時明らかに世界と私が完全に分離しているのではなく、境界が曖昧であるような感覚をも捨て去ることが出来ない。それは常にそう感じられるのではなく、例えば仏僧による修行などにおいて、自然全体と自己身体との境界が曖昧になっていくような経験などにも顕著に示されているだろう。つまりデカルトのコギトとは意識的にそのような経験一切を無視しさった地点で成立する思念であり想念であるとも言える。勿論デカルトのコギトは只単なる論理とも違う。しかし少なくともデカルトは認識論的にも、あるいは実感的にも恐らくそのように世界と私が不可分であるような精神状態を知ってはいただろう。つまりそうでありながら敢えて意識的経験であるところの自己をクローズアップさせる必要性が彼の内にあったということになる。
 私は単純に二分法的に失ったものと得たものと述べてきたが、実は失ってしまったことに関しても僅かながら我々は残存させている筈である。だからこそそれを失ってしまったが故に価値ありとするのである。もし本当に完全に失ってしまっているのなら、得てきたことの引き換えに失ったという想念さえ抱くことなどないだろう。それは特に私は記憶のことを代理させて語ってきたのであるが、当然記憶とは完全に今でも過去としてではなくありありと思い出せるということと、それほどではないが、そしてかなりおぼろげになってしまってはいるものの、完全に忘れ去っているのではなくある程度であるなら覚えていることだって我々にはある。つまり我々にとって完全に忘れ去ったことはそもそも想起対象にもなり得ないし、そういったことが夢で出て来ることもあり得ない。しかし完全に記憶しているとそう思っているものでも、勝手にそう思っているだけであり、つまり本当はかなり歪曲させて記憶させているものもかなり含まれるし、また思い違い、記憶違いであるのに鮮明に記憶していると勝手に思い込んでいるものもかなりある。
 つまり本当は忘れたいので日頃は意識に浮上させまいとしているもので、かなり鮮明に記憶しているものもあるし、またおぼろげであったのに、あることをきっかけに、あるいは何かを目撃したことによって鮮明に記憶を蘇らせるということも決して我々は珍しくはない。つまりそういった想念全体を含めると、コギトというデカルトによる想念自体も実は、私と世界が完全に切り離されて意識されているというよりは、寧ろ世界と私とが完全には分離していないその全体を存在論的に「私」あるいは「我」とデカルトが名指したという風にも十分捉え得る。それは端的に例えば後年ハイデッガーが人間のことを現存在と名指したことと同じような理由とモティヴェーションによってデカルトによって命名されたことだったのである。だから敢えて世界と私との境界の曖昧性自体に目を瞑ったという私の仮定は、その意味では無効化され得る可能性もある。そしてそれはデカルトがコギトと名指したことの精神的根拠の問題であるよりは、寧ろデカルトが固有のモティヴェーションを糧に言語化すること、あるいは語彙化して名指していくことそのものに内在する問題であると言ってよいだろう。つまりデカルトによってコギトと名指されたことによって発生する意味付与性自体を問題にせざるを得なくなるだろう。
 しかしそのことを十分実はデカルトは自覚的であったのではないだろうか?何故なら彼は「省察」において夢と覚醒時の現実自体をその実在感という意味では境界が曖昧であることを示しているからである。しかしそれを一方で語っておきながら同時に別の意味ではやはり私という意識もまたなくならないという想念がコギトを現出させたとしたなら、デカルトは実はそう想念しながらも、それを「語る」ことによってその想念を打ち消すような語彙規定による意味付与ということの運命を暗示したとも言い得ることになる。
 デカルト座標空間とはある意味ではそういった矛盾を「示す」ことにおいて「語る」ことそのものの名指しの持つ魔力を世界と私の間の境界曖昧性という想念をさえ言語が打ち消すことそのものを不可避的に示そうとしているようにさえ私には思われるのである。
 写像を英語で表現するとマッピング(mapping)である。それは語ることそのものの想念の打ち消しというディレンマ自体を対象化(示すこと)することを可能にする概念である。従ってデカルトによる数学者としての業績自体がここで名指すことの危険性を熟知してなされたと捉えることも強ち間違いではないのではないだろうか?

Thursday, November 19, 2009

〔表情の言語哲学〕2 結論 (話すこと、話したいということが真意であり、内容は補足的なことでしかない)

 ある意味では人生とはシナリオのないドラマを生きることである。だから逆にシナリオというものは常に恣意的に作られる。例えば映画や演劇の脚本や台本はそれに沿って表情と台詞にある型をプロフェッショナルなアクター、アクトレスたちがつけていくべきモデリングの作業をするための灯台である。しかし時としてヴァラエティ的趣向としてプロの役者たちに設定だけ与えておき、完全に進行されるドラマをアドリブで行うということがあるが、そういう場合役者たちは端的に人生とは一体どうあるのか、どうあるべきなのかという思念を抱いてそれを演じるだろう。つまり人生にはアドリブと同じように確固とした脚本などない。勿論予定とか計画といったものはあるが、基本的にそれらは全て変更可能なものである。その最たるものこそ日常会話である。それは面と向かって話す場合だけでなく電話でもメールでも相手の表情を読み取ることが基本的に意思疎通することの意義を支えている。つまりメールでは文面、あるいは電話では声の質、声の調子、声量といったことから表情を読み取っている。
 シナリオがないということだからこそ、そこに限定的にシナリオを設けていくこと自体の中にたまたま映画、演劇、ドラマ一般が存在するわけであり、端的にそれらさえ、ある意味ではかなり制作進行上で変更を来たしていくものであることはプロとして関わる全ての関係者たちが知るところであろう。シナリオという存在は本来はそういうものなど人生には基本的にはないからこそ、逆に一定程度にそれがあれば便利であり、円滑に全ての行動を目的化することが出来るということで設けられている気休めなのである。
 北野武監督の映画には大まかな脚本的意図が監督の頭の中には存在していても尚、映画に出演する役者に対しては確固とした最初からラストシーンまで規定された本などないと言う。つまりその場その時で現場、役者ら全ての条件によってどんどん変更させていく映画作りであると言う。だからこそ逆に全ての進行をアドリブにしていくのなら、映画の進行する順に撮影していくことが最も望ましいが、却って死んだ筈の人が生き返るというアイデアをも取り入れる場合なら、別段アドリブで全部撮影しても尚、映画の進行順に撮影していかなくてもいいということにさえなる。
 私たちが他者たちに対して意思疎通し合う時明らかにその会話とか対話が今後どうなっていくか全て読めていたのなら、一切そんな意思疎通をする必要などない。もっとある意味では不安定などうなっていくか分からない不安こそが、意思疎通を意味あるものにする。何かを依頼したり請求したりしても、必ずしもその要求が叶うとは限らない。その不確定性こそが意思疎通をより熱意あるものにする。つまり一切請求して叶うものであるなら、意思疎通する際にある種の深刻な構えとかそれに赴く際のより厳粛な緊張といったものなどなくなるだろう。
 またその不安は希望を生んでもいる。つまり人生は先行きが不安定であったり、不確定であったりするという一事において逆に新たな挑戦をも可能にしている。不安こそが期待や願望や夢を産出している。人間の顔の表情はそれを顕著に反映している。そしてその表情を相手に対して汲み取る、その表情の意味合いを推し量ること自体が意思疎通の内容を進行上その都度決定している。つまり先行きどうなるか分からないこと自体がその都度先行きに対して意思疎通を意味あるものとしてスリリングにしている。そうすることで展開を期待させることが意思疎通、対話、会話をしていく意志を相互に確認し合い、決定させている、逆にそれが失われればその際には一度意思疎通を中断させることを我々は選ぶ。あるいはもう二度と意思疎通し合わない方がいいと相互に意志してしまうかも知れないし、片方だけがそう思うかも知れないし、ある時にはその意志が通じ合わないこともあり、自然消滅してしまう意思疎通ではなく絶好を申し渡されることもあるだろう。
 仮にもう一度以上必ず意思疎通し合う意味合いと意義を確認し合える相互の関係においてさえ、ある対話や会話は一旦停止させることの方に意味がある場合も多いからこそ、我々は対話や会話を積み重ねられる。
 だから意思疎通し合うことの中で取り交わされる対話内容や会話内容は明らかにその内容如何であるよりは、その先に相互に意思疎通し合えるかどうかという査定の方に加担していて、要するにその最終目的のための手段でしかないとさえ言い得る。要するに意思疎通し合うことこそが生理学的にも心理学的にも、倫理学的にも意味があると言い得るのだ。
 だから心理言語学とか言語心理学とか言語哲学において真理命題論的に分析しても尚、意思疎通意味内容自体は、それを仮にある対話や会話によって利用したとしても、その意味内容を相互に共有し合えることを通して「語り合いたい」「話し合いたい」という本意、真意を相互に確認し合えるというところに意味があると言える。だからその相互の意志の一致が仮に確認し合えるということ自体がその都度の対話、会話上での意味内容、つまり話題を通して語られる真理を決定している。勿論我々は「~について」という話題の方にこそ意識が集中されていて(原音楽的意識状態)、その話題を通して進行しつつある当の意義とか意味自体は意識上では隠されていることも多い(常にそうではないが)(原羞恥が潜在的に存在する)のである。
 対話とか会話はそれを企画する者、企図する者に最大のメリットが齎されることが心理言語学的、言語心理学的には多いと証明されている。つまりそれだけ語る者は語られる者から利益を得ているのである。だからこそ精神分析医というのは人から話しを聞かされることを通して報酬を得ているのである。

 映画監督が映画を上映し得るように持って行くことの目的は彼自身の映画観を通した表現を発表すること、その表現を享受する観客からの反応を得ることによって次回の制作を促すことだとしたら、それが目的であり、必然的にある映画に出演するアクター、アクトレスたちによる台詞の一つ一つは全てその目的に供せられる手段である。つまり予め言うべきことが設定されていて、ただその通りに個々の台詞を踏襲することとは行為を特定の目的のために手段化させてそれに奉仕することである。その意味では全ての意思疎通は漠然としてではあるが、何らかの未来の目的のために供せられていることになる。
 従って人類にとって意思疎通し合うこととは、未来に対する不安の除去、つまり個の内部に巣食う不安が自分だけのものではないことに対する確認のためであるとしたら、全ての新聞、ニュース、映画や演劇、お笑い、ツイッター、ブログといった言葉による意志伝達は不安の除去に対する暗黙の同意によってなされている。故にまず最初に誰かに声をかける時その声をかけた者が声をかけられた者に不安を表明することを意思表示していることになるから、必然的にその不安を相互確認要請された者は不安を除去することを同意し、同意を求めてきた者の不安除去に関して援助することとなるから必然的に優位に立つ。故に相手を常に優位に立たせることは不安を表明する者の側からすれば多大な債務を背負うこととなる。
 映画の出演者たちは制作サイドから報酬を得る。それは映画表現を完成させるという目的のために奉仕した手段化された言語行為を、あるいは身体行為を要請されてそのニーズに応じているからだ。しかし報酬を得るサイドはサイドで日々のルティンに対して生き甲斐を感じることによって手段化された言語行為、身体行為自体を目的化し得る。それは内的価値認識によってである。それが目的であるという自己暗示によってである。
 相互の不安除去のためになされだした意思疎通自体を一つの手段とすることによって報酬を得るタイプの成員は映画出演者たちだけではなくマスメディア全般に渡っている。
 しかしそれがプライヴェートな時間による意思疎通であるなら、不安除去を要請した者は要請された者を優位に立たせるために、不安を表情によってあからさまに示すことによってより大きな債務を背負うことを意味するから、出来る限り不安は小さなものであることを装う。表情的偽装である。表情は真意を伝えもするが、偽装をも可能にするメカニズムである。意思疎通は相手の表情を読むことによって援用されている。最初に自己真意を告げるが、それが相手のためになるという触れ込みで語る者には利益がある。本当は相手に対してこちら側の不安除去を要請しているにもかかわらず、あたかも語りだした者が語られた者の不安を除去してあげるかの如く振舞うことが巧いということは、それだけ表情を真意から乖離させて、偽装的に技巧を凝らし、それでいて自然であるように振舞えることに他ならない。それはそうすることを通して不安を除去してあげるためにこちらがあなたに語りかけているのです、と宣言しているからである。しかしそうではなく、相手に不安を除去して貰うことを要請するような殊勝な態度を正直に示せば、必然的に要請された者を優位に立たす。だからこそこの関係において表情とは相手がどういう気持ちでその言辞を齎しているかということを推察するための手段として利用されるから、真意を示す必要がある時と、隠蔽する必要がある時の弁別必要性を我々に意識させる。しかし表情は意外にも意図的にはどうにもならないところもある。だからこそ自らの感情をコントロールすることに長けた者とそうではない者との間の差異を作るとも言える。つまり日頃から一人でいる時間においても自己感情をコントロールすることに長けていれば、つまり自己不安除去方法を身につけていれば必然的に債務を多く他者から背負うことを回避し得る。
 
 労働することを通して報酬を得ることとは、端的に何らかの形で他者の目的遂行のために自らの行為を手段化させることである。その手段化をより快適にしているという偽装を巧くなす者は本質的に仕事が出来る者であり、そうではなくあまり自分自身の目的のための行為ではないから愉快なことではない態度を正直に示す者は仕事の能力に長けていない者である。つまり手段化された行為を目的化し得るように振舞う名人こそが仕事の能力の保持者であり、そうではない者は仕事に関する無能力者である。
 そしてその手段化された行為を快適になし得るということを示すものこそ表情であり、手段化された行為の目的化の名人こそ仕事の能力保持者であり、そうではなく手段を手段のままにしている者は仕事の出来ない生活能力欠落者である。
 このことをカントは恐らく「生を単なる手段にするな」と言ったのであろう。仕事上での真意の隠蔽は全ての社会ゲーム遂行者にとっての必要不可欠の自己欺瞞である。カントによる「生をただ単なる手段にするな」という謂い自体は実は極めて真意を包み隠さず他者に語りかけることから起因するデメリットを回避させるための知恵を語っているとも言える。それは逆に言えば何かを他者に語るという行為を欲求的に介在させることを通して必要以上の不安を形成させているとも言えるのだ。つまり最初から自己不安を語る他者を持たないという意識でおれば、必然的に他者を不安除去のための方策として利用するという意図は生じない。従ってあたら他者を自己にとっての負債を作ることを誘引することもないし、自己内の不安が増大することもない。しかし人間は言葉を持ってしまった。そうであるが故に不安を言葉によって作る。だからその作られた不安を他者と共有し合うという意志が生じる。だからその時表情が相手の気持ちを汲み取るために理解するべき対象となる。そして予め映画の脚本や演劇の台本のように決められていないアドリブの台詞を延々繰り返していくこととなる。それが人間の意思疎通である。
 他者の表情を他者真意の把握と理解のための手段とすることによって意思疎通を図る存在者にとって不安は予め作られる前提である。つまりそれが生きているということだからである。その不安の個的保持者であるという社会の側からの暗黙の事実認定こそが社会という不安保持者連盟の「不安」共有同意によるキックバックなのであり、その事実こそが意思疎通権利と、語られる内容自体が一番重要なのではなく、語られる内容を語ることによって相互に徐々に現出させていったり、創造していったりすることを語る場において語る者として同席することを権利として我々に享受させているのである。つまりそもそも未来がどうなるか分かったものでなないという当たり前の真実こそが私たちの全ての意思疎通を決められていない台詞を延々語り続けることを運命づけ、そこで語られる内容はその都度あたかも最大の目的であるかのように幻想しはするものの、本当に重要なこととは、端的にあたかも最大の目的のために供せられているかの如き手段化された語り(幻想)を生きることによって個的不安保持者連盟に加担することそのものが、実は目的であると認識することを我々に可能にするのである。
 だから逆に言えばカントが「生をただ単なる手段にするな」という謂い自体は、実は生を全て何らかの目的にすることもまた出来ないということへの諦念、その諦念は必ずしも絶望的諦念ではなく、達観とでも言っていいものなのである。従って生自体は何かの目的のためのものではない。それは自体が目的であるのなら、あたかも手段化されたかの如き幻想自体を実在と信じて行使していく以外に何らの方法もないということなのである。

 私たちはお笑い番組とか演芸場でのコントや漫才を見る時、何の前触れもなくある語りをギャグとして言い放たれるからこそおかしさ、おかしみを感じる。例えば予めこれこれこういうギャグを言い渡されますから笑って下さいと言われて笑う場合、あくまでそれは演技としてであり、自然な笑いではない。またそういう風に説明された時何のおかしさもおかしみも感じはしない。つまり突発的に何かを言い放たれるからこそそこにその絶妙なタイミング自体にある意外性を感じ取りおかしいと感じるのである。それはギャグを言う側による意図においてギャグ自体を用意周到に言い放たれる側が意外性を感じることを想定して漫才師やコントをするボードヴィリアンたちが演技することによってである、その際彼等は自分で自分が言うギャグ自体を楽しまない、あくまで言い放たれる側を楽しませるということにおいてである。自分でそのおかしさを感じ取って笑ってしまってはどんなにおかしい内容であっても、決してギャグを言い放たれる側はおかしさを感じはしない。
 それは意図的であること、つまり客におかしさを感じさせること、楽しませることを楽しまなければいけないのであって、自らギャグやコントのおかしさを楽しんでいてはいけない。
 そういう意味では笑うということはそれまでに得た我々による記憶と経験の全土に渡る生への理解、生への認識においてそのギャグやコントを意味づけているということを意味する。
 生とは記憶と経験の全体を抱えて未来の不確実性へ向けて不安を除去しながら生きるということである。経験と記憶とは得てきたものと失ってきたものの、あるいは気がついていたことと気がつかなかったことの綜合されたものである。つまり覚えて反復出来ることと、忘れて反復出来ないことの集積である。だからあるギャグやコントにおかしさを感じるということは、漫才師やボードヴィリアンたち相手が自分たちを笑わせるという意図を理解してそういう風に笑わせられるという体勢へと自己を身構えることである。つまりある演芸番組を鑑賞したり、演芸場に足を運んでその客席に着くということ自体が予め向こうから発せられる突発的なギャグやコントに対して自然に笑うという体勢を作ることである。それはある一定の時間内一切の予定通りの行為をせずに、向こうから挑発され仕掛けられる作為に自ら嵌まることを選ぶことである。受身の体勢で相手に身を委ねることである。それはそうすることによって日頃の緊張を解き解すことを意味している。
 記憶と経験とは人生自体が反省的に捉えれば、今を食い尽くしてきたこと、今を消費してきたこと自体に対する総体的な理解に他ならない。だからこそ記憶と経験によって構成される人格とか性格といったものは端的に習得してきたことと、習得され得なかったことの集積なのである。
 個的不安保持者連盟たる社会において私たちはある時にはどうなるか分からないシナリオを自ら生きる。つまりシナリオのない台詞を他者と語る。しかしある時には相手が予めシナリオ通りに語ること自体に身を委ねる。そういう時に演劇を鑑賞したり、漫才や落語、コントを楽しんだりする。それら全てはその場に何らかの形で他者と居合わせること自体が目的なのであって、そこで得られる語りとか語られることの意味内容はあくまで手段でしかない。しかしその場を生きること自体において私たちはあくまで語りの内容が目的化されており、語られる意味内容を把握することが目的化されている。
 しかしその時間が過ぎ去れば、結果的にはその場に居合わせたこと自体が目的であったのである。
 あるコントやギャグの語りの内容におかしさを感じるということは、そのギャグやコントの意味内容、つまり行為や言説の意味内容自体が、メカニズム的にある種の矛盾を持っていて、それでいてその矛盾に一切気づかないでいる人間の姿にある滑稽なる憐れさを感じるということだ。それはその人間のある種の気づかなさ自体に固有の滑稽な表情を読み取るということである。それはかつては自分もそういうことにあざとくない、朴訥であり、気づかない未熟な幼児であったことに対する記憶があるからである。不器用であざとくはないこと自体に対する無頓着が固有の素朴さを発し、その素朴さ自体を我々が一般的には日常生活において既に大半を失っていることを我々自身が一番よく知っているからこそ、その失ってしまったこと、つまりそれを失うことによって得てきたものを大事にして生きている私たち自身に対する滑稽さ、憐れさ、醜さ自体を熟知した上で、ある種の羨ましさをそれを失っていない者に向けつつも、しかしその者と同じように決して素朴ではいられないこと自体を知っているからこそ、その自己によって失われたものを未だに保有する者の純粋さを価値的に読み取ることが可能であるからこそ、おかしいのである。それは一瞬でギャグやコントを理解するということにおいてそうなのである。そしてそれを読んだり(マンガとか)聞いたり(お笑い番組、演芸)して笑うということは、以前も似たようなことを読んだり聞いたりしておかしかったことを思い出すからこそ作ることの出来る表情を伴っているのである。
 それは討論とか座談とか語りに参加する者がそこで語られる意味内容以上に、その意味内容を産出するサイドに自ら加わること自体に意味があるような意味で、そのおかしさを覚醒し、思い出し、かつて同じような気持ちを持ったことを瞬時に条件反射的に表情で置き換えることに他ならない。つまり潜在的に誰しも知っている笑いの正体とは、端的に生自体が生を持続していく上で得るものと引き換えに失ってしまったこと自体の滑稽さを、それを失っていない者の表情や語りを語られることを通して覚醒しつつ、しかしそれが自分ではない演じられる他者であるからこそ、自分は巧く社会に生き抜いてきたということを知って安心するのである。その自己によって失われた純朴さを保持している愚鈍ではあるが純粋な者の風体自体を価値的に捉えることを通して純朴であり純粋であり、素朴であることのしんどさをその者に肩代わりさせることによって平凡であり失ったものと引き換えに得てきたこと自体の価値に安心するのである。自分の方を優位に立たせることによって安心を得ているのである。だからこそお笑いを提供する者ピエロであることは率先して損をしていることを担う役割認識をしていることである。そういう役割を担うことによって、平常の生活においては失ってきたものと引き換えに得てきたことの方が重要なのだ、と言い聞かせて安心させているのである。だから本質的には笑いとは大人にしか得られないことである。子どもの笑いはただ嬉しいことだけであるが、大人の笑いにはそういった重層的で深い意味合いがあるのである。
 それは未来が不確実でありいつ自分が死ぬか分からないから不安であると同時に、だからこそ安心も出来るということを意味している。一定の量を伴った今を食い尽くしてきた経験のない者には笑いを理解することが出来ないという意味では笑いには幾分、と言うかかなり自嘲の意味もある。自己の内部に巣食うどうしようもない諦念もあるし、どうしようもないことをどうにかこうにか価値的に見ようとする涙ぐましい努力もある。何故なら所詮生きていくということはそれ自体理性論的に捉えれば滑稽なことだからである。

Monday, November 16, 2009

〔表情の言語哲学〕2   第四章 言語活動が表情を代理する

 私たちの意志伝達、意思疎通と言われるものの多くは既に実際に直に会って話しをするということの方が極限られている。つまりメールのみでの遣り取り、携帯電話でのみの遣り取り、或る論文を読む学者にとってその論文を書いた人の実際のプロフィールなどはどうでもいい場合も多いし、新聞を読む時も、ネットでニュースを読む時も、その伝達された内容だけを把握すればよく、実際一切他者と会って語り合うという行為を介在しないことの方が多い。またそういう殆ど他者と実際に会わずに過ごすことも可能である。
 そこでは人間の実際の顔で示される表情は一切確認出来ない。にもかかわらず、我々はメールの文面、論文の文体とか文章内容、あるいはツイッターによる呟き的投稿文にその言葉を吐いた人固有の個性とか、人格とか性格を読み取ることが可能である。いや寧ろ実際の人格では推し量れないその人間の思想とか性格とかの本質を文章が示してくれる。つまり言語活動は、言語活動が今のようではなかった人類初期のエポックによる表情のみによる意思疎通という事態ではあり得ない幾多の表情を、つまり実際に何か嬉しいことはあった時に笑みを示すとか、ある不愉快な出来事を目にしたり、耳にしたりした時に渋い表情をするということから判別される感情以外のもっと内奥に仕舞い込まれた真意のようなもの、あるいは潜在的な欲求を読み取ることも可能である。
 そういう意味において言語とは極めて偉大な発明である、と言ってよい。その言語メッセージ自体が感情を読み取ることが可能であることは、例えば「関係者以外立ち入り禁止」という立て札にも顕著に表されている。そこには特権者とそうではない人を明確に区別し、差別する意識が読み取れるし、権威主義的な他者に対する振舞いの発動と捉えることも可能である。あるいは権力の行使ということから考えることも出来る。
 つまり文章、語彙、言葉自体の利用の仕方自体に顕在化されているその言葉を利用する者の態度とか、スタンスを我々は一瞬で読み取ることが可能である。
 それは株の売買とか取引といった金融市場的遣り取りにおいても行為者たちの感情、性格、思想を読み取ることが可能である。あるいはコンビニで買い物をする時に、どういう商品を購入するのかとか、買い物をする時どういう順序で、どれくらい時間をかけて買い物をするのかという行為全般に渡る様相からも全てを読み取ることが可能である。それはもっとマクロ的に見れば、何時に起きて、どれくらいの時間を働くこと、社会に奉仕することに捧げ、休暇とか休日の取り方とか、頻度、あるいは休み時間の過ごし方全般からも読み取ることが出来る。それらは一切が行為選択であり、要するにその人間の言語的メッセージであると同時に、顔を一切見せなくても我々はそこに顔の見えない相手の表情を読み取ることが可能である。
 行為は言語を誘発させるし、誘発された言語とは行為者の見えない表情を想像させる。つまりある人間の顔も風体も一切情報が与えられていないにしても尚、我々はその人間の一日の行動を詳細に報告を受ければそこに自ずと浮かび上がるその人間の性格や思想が読み取れ、果てはその人間の他者と会った時の表情から、一人でいる時の表情も読み取ることが可能である。勿論それは文章自体が示すものとも少し違うかも知れない。しかし行動パターンとか習慣はそれ自体その人間の性格や思想とか癖を表す。
 だから文章はそういう意味では整理が極端に下手であるとか、行動自体は荒っぽい仕草であるとかいうこと自体も巧妙に偽装出来るとも言える。しかしそういう風に本来ある姿を必死に隠蔽しようとして書く文章と、そうではなく良くも悪くも本来ある性格とか思想をそのまま表明していこうとするスタンスでの文章では全くそこに立ち現れる文章の様相、あるいは全体から読んで受ける印象は異なるに違いない。
 宮本武蔵における「五輪の書」には端的に孤高の剣士に固有の孤独へと埋没していく意志の強靭さと空隙的な心の余裕を求める求道者固有の精神の高みへと達したいという欲望を読み取ることが可能である。それは武蔵の文章自体が極めて簡潔でありながら、どこか行間に何かしらの余韻、それは暗喩的なメッセージ性とも少し違う、要するに何かを達成した者にしか味わえない達観した生と死への透徹した眼差しを読み取ることが可能である。つまりそこに示されたものは説明ではないのだ。述懐的部分もあるが、必要以上のメッセージを一切省略するというより、寧ろ最初から必要以上のことを語ろうとするスタンスすらないし、そもそもそういう選択であるよりはずっと最初から焦点化された一点を透徹した眼差しで凝視すること以外の何もしないということを自然と執り行う姿を彷彿とさせる。
 それは短い一句を捻るツイッターにおいてさえ読み取れるし、俳句や短歌からも勿論読み取れる。何も武蔵だけがそういう姿を読み取ることが出来るのでは勿論ない。
 つまり同じ意味内容の伝達であっても、ニュアンスが個々異なることから、ある意味内容を行為した事実報告であっても、同じ真理に対する述懐であっても、個々全く異なった感情様相と、性格的傾向によってそれらがなされている、と言っても過言ではない。
 それは初めて電話で会話する顔を知らない人との遣り取りにおいても、その人間の性格的傾向性とか、対人関係的なスタンスの取り方さえ読み取れる。それはビジネス的内容の報告会話内容であっても、こちらが質問することに受け答えるサーヴィスであっても相手の表情を読み取ることが可能なのである。
 そういう意味では全ての言語活動はその人間の伝達メッセージ保有者、つまりメッセンジャーとしての性格と思想とを運ぶ表情さえも彷彿させずにはおかない。
 例えば文学者やエッセイスト、ルポライター、学者たちによる出版的行為のスタンス、どくくらいの頻度で出版物を刊行するかということから、ある意味では一冊の本の構成や文筆内容の選択、どういう読者層を狙っているかとかそういった全ての行為選択からその著者である人物の対人関係術とか思想、あるいは世界自体に対する接し方、人生全体への思想が読み取れる。それらが綜合されることによって、その人間の生き方全体から個々の瞬間の表情まで読み取れる。これが極めて興味深いことであると同時に、恐ろしいこともある。一年に一冊のペースで出版する人から数年に一冊のペースの人から、毎月数冊以上出版する人に至るまで彼等文筆業というきわめて限定的な範囲内でもその各自の思想、性格を読み取ることが可能である。従ってそういったプロフェッショナリティ自体から読み取れることが引いてはその人間の日常的な表情まで読み取れるようになる。それが判断ということである。あるいは解釈と言ってもいいが、極めて解釈と言っても、本質を読み取ることが容易なので、深読みとか、曲解といったことを誘引する可能性が少ない読みである。
 例えばある人のパソコン内にバックアップを取ってあるフォルダに対する整理の仕方自体がその人の性格を示すということは好例であろう。例えば或る人はフォルダの数が多い時にそれぞれをAとかBという風に分類しておくことを考え、そのフォルダをファイルの中に幾つか纏めておくことを考えるとファイルには1,2,3と数字を当て、フォルダを個々の記号を当てたい時にはAとA´とかA´´という風に分類していくということも一つの手である。あるいはファイルを大文字のA、Bという風にすれば、フォルダをa、bというように小文字にするというのも一つの方法である。
 しかしA、BもZまで多くなるとそれぞれ個々の情報の性格を一々記憶しておくことが大変なので、大まかに各ファイルを七つに分けて、AからGまでに纏めて、それらのファイルの中に更にa,bというファイルに分けて、個々のフォルダは1,2,3にするというのも一つの方法になる。つまり端的に情報収納してあるものの数と、その意味内容如何によって分類の仕方の合理的な仕方、つまり利用しやすさは変更されていく。
 だから人間をあまり深く人間関係的に立ち入らずに済ます場合は、それぞれ個々の成員に対してA、B、Cでも一向に構わない。しかし全ての成員をそういう風に分類しても記憶しきれるものではないから、却って個々の成員に固有の固有名詞を記憶しておく方が大勢の成員を記憶しておくためには便利である。つまり固有名詞とはその者の顔に対する記憶から誘引される、或る顔にある固有名という結びつきで覚えておくということである。
 しかし顔の特徴自体は表情の持っている普遍性とはまた違う要素のものである。違う性格である。つまりある細面の顔には神経質の人が多く、ふくよかな顔の人が大らかな性格であるとは言い切れない。そういう場合もあればその性格と顔の分類が一切該当しない場合もある、つまりこの二つは全く相容れない基準なのである。つまり骨相学と表情の持つ意味は全く違っている。我々はある文章とか文面、文体、言葉の選択から表情を読み取ることが出来たとしても、その人の骨相的面相を知ることは出来ない。
 勿論私が問題にしているのは表情である。そしてそれはある意味ではかなり普遍である。そしてデリダならデリダの顔を知っている場合、そのデリダの対人的な表情を思い浮かべることはたやすいし、ドゥルーズならドゥルーズのある文章を書いていた時の感情的な様相を知り、その感情を他者に対して抱いていた時の表情を想像することもたやすいであろう。しかしそれは写真などを通して我々がデリダとかドゥルーズの顔、つまりプロフィールを知っているからである。
 しかし先ほど述べたような意味でのファイルとかフォルダの整理の仕方自体に、ある人間の性格、癖、思考タイプを知ることもまたたやすい。つまり何に関心があって、何に対しては固有名詞まで知りたいと願い、何に対しては番号を振って分類したままにしておくかということに対する選別自体にある傾向が読み取れ、その人間の内的世界の表情が読み取れるのだ。
 私たちはアマゾンで買い物をする時出品者に固有の性格などどうでもよい。また大きな駅だが一度も利用したことがない別の地域から来た者が、ホームとか乗るための電車を尋ねる時駅員の性格とか人格、個性に対して大した興味などない。勿論女性駅員に何かを尋ねる時にその女性が美人であるということが印象に残ることならあるだろうが、それもずっと記憶に残るものではない。あくまで通りすがりの人である故、電車に乗って別の美人に目がとまればその女性へと関心を移行させる。しかしそれも勿論長続きはしない。と言うのも姿格好、あるいは顔立ち自体の美とか好感度と人格的な好感度が一致しないということを我々は知っているからである。
 しかし彼等の表情自体が印象に残ることはあり得るだろう。つまり顔立ちを忘れても駅内部の構造とかどの電車に乗ればよいかを尋ねた時に親切に教えてくれたとか、要するにそういう彼女の取った態度とか表情自体を事実として「そういうことがあった」と記憶に残すことはある。あの時のあの女性駅員は笑顔を対応した、という風に。
 それはあくまで実際に語ったりした時の実際の表情である。それと同じような印象を言葉自体、つまり文章とかメールの文面に我々は印象に残す。それは固有の性格を文章自体が持っているということだ。
 かつて私が属していたビートルズクラブにおける会報において、「ジョンは神様、ポールは天使、ジョージは仏様、リンゴはお地蔵様って感じがする」とか「これからも恐らくいつもビートルズを語る時ジョン、ポール、そしてジョージと、彼はいつだって三番目だろう。でもそんなジョージが僕は好きだ」とかの印象に残る文章とかメッセージはそれ自体固有の表情を持っている。だからそれはそれを語る人間のプロフィールがたとえ不明であったとしても、我々の印象の中で強烈な刻印を果たす。つまり世界中の全ての宗教的言説、偉大なる文学の一節といったものは全てそういう性格を持つのだ。そしてその固有の印象的な言葉自体に対する出会い自体が自分の人生において極めて印象的であったということも大きく関係している。それら全ては私たちの記憶が物語を好むという性格に由来する。
 つまり私が去年と今年行った京都旅行において、あるタクシーの運転手二人、一人は京都出身者、一人は大阪出身者であって、その時々で話した内容とか、態度自体はよく覚えているのだが(エピソード記憶)、その運転手の顔を正確には思い出せない。何故なら人間の顔自体を区別する脳の部位は既によく知られているが、顔、身体格好といった全ては情報量が多過ぎてどうにも全部を記憶収納することなど出来はしない。そこでエピソード記憶として我々は自然と対話とか会話の内容、あるいはその時の大雑把な表情、態度といったものをピックアップさせて記憶するのだ。
 しかし文章自体はかなり情報量が少ない。従って印象に残っている文章とはその文書との出会いである。つまり詩であれ小説の一節であれ、それと出会った瞬間どういうことをしていたか、とかどういう他者と親しかったかとか、どういう生活習慣で、どういう決意の下で生活していたかということが綜合されてあるものを印象的であり、別のあるものをあまり印象的ではないとさせるのだ。従って一般的に私は文学ではこういうタイプのものに惹かれる、それは文学テーマに関しても、文体にしても、小説の構成にしてもであるが、ある小説を印象的なものにしているということが、個人毎に全く異なっているという事態も生じる余地とはここにある。
 だから親しくなっていった人というのは顔も隅々まで記憶している。脳科学では新奇なものに対しては右脳で接し、それが習慣化されて既知のものとなっていった場合あくまでこれは統計的な数値としてであるが、左脳で処理していくようになるということが既に知られている。だから逆に創造性の富んだ人というのは、ある意味ではいつまで経っても、右脳的処理をしているということにもなるだろうか?そのことに関してはある感銘を受けた詩や小説の一節、あるいは好きな俳句などに接する時、好きなものに対してはいつまで経っても、既知のものにならないということはあり得よう。
 だからあるものを新奇なものとして認識してしまうということと、同じそのものに対して別の人は大して新奇には感じないということがあり得るわけだし、また新奇なものに対してすぐに既知的なものに転化してしまい、辟易としてしまうものもあれば、そうではなくいつまで経ってもずっと新奇性を感じ続けられる場合もあるということだ。勿論それらも個人毎に全てその対象は異なっている。だからある詩の一節とか全部、あるいは俳句を新奇なものとして感じるという最初の出会いにしても或る意味ではその人のそれまでの経験、エピソード記憶が集積されて出来上がった人格とも関係してくる。要するに経験と記憶があるものを印象的であるとして、別のあるものを退屈で陳腐なものとしているわけである。
 芸術家とは概して印象的なことに意識が釘付けになりがちであり、哲学者とは端的に非印象的なことの方にもより関心を注ぎ、何故印象的なものもあるのに、そうではないものもあるのだろうか、と疑問に思う。勿論モネとかセザンヌとかピカソのような偉大なアーティストたちは恐らく同一人物内に今挙げた芸術家的要素は勿論哲学者的要素さえ持ち合わせていただろう。要するに偉大なるクリエーションとは綜合であるからだ。
 執筆家にとって自宅の整理とはその創造者の性格とか思想を反映させるし、その部屋の佇まいを見れば一目瞭然としてその著述スタンスを読み取れるかも知れない。確かに抜群に整理の得意な人もいれば、然程ではない人もいるであろう。しかし知性溢れる作家などの書斎などは概して極めて雑然と本が積み重ねてあったも尚どこか知性の片鱗を仄浮かばせるものである。恐らく現代では携帯電話の他人の番号の記憶から、パソコンのバックアップされたデータの保存収納方法自体からも、その人間の知性から感情的様相、生活傾向まで読み取れるという意味ではそれらもまた表情が読み取れるということであるから、言語活動自体が我々の表情を代理している、と言っても差し支えあるまい。

 タグをつけることについて先ほど触れた。ファイルとフォルダのことである。しかし個々のタグに名称を与えるということは丁度銀行に各支店毎に固有名詞があることと、それを一括して処理するシステム上それぞれの店に店番号が必要であるように、タグにはそれぞれ固有の、しかし一切の性格的描写の皆無の番号という認識システムが必要である。しかしそれらは端的に一枚の固有名詞とタグ番号の対応表があればこと足りる。しかし勿論ある個人を識別する時にアジア人であり、その中で日本人であり東京に居住しているとかの、要するにタグ自体が意味する個への対応ということについてある分類根拠が求められるのだ。つまり銀行なら銀行の支店についている固有の番号はそれなりに出鱈目に対応させているのではなく、東京の電話局番が03であり、横浜が045であるような意味である根拠がある。
 しかし集合的な認識において合理的に他と峻別し得るのは、例えばある同一系列の銀行全部に同一の情報を送信する際に必要となるタグ番号という認識自体に、一切の表情は必要ない。数字に個性を表現する術はない。表情が必要とされる機会とは端的にその固有の銀行をよく利用する人にとっての利便性のみである。それは個人に対しても該当する。私たちにとって親しい間柄の人の自分に対する対応とか、表情は重要な意味を持つ。親しいと言っても、それは自然人的趣味の集いであれ、仕事仲間とか同僚とか同一業界内の知人でも全て同じである。その時問題とされることとは、端的にその表情はその個人に固有の癖であるという意味では唯一無二的なことであるが、同時に嬉しい時には嬉しい表情をし、悲しい時には悲しい表情をするという同一律的な意味での普遍的相同性があるということに尽きる。そういう意味では表情とはその表情を認識する主体である我々にとっては普遍的であり、一般的である必要があるにもかかわらず、ある者が示す嬉しい表情はやはり唯一無二であるという両義性があるということだ。
 だから個ということの意味は唯一無二でありながら、それが誰にとっても理解出来る唯一無二でなければいけないという意味ではウィトゲンシュタインによる私的言語を滅却した経路を辿ったもののみを唯一と呼ぶに値すると我々は規定している。だからこそ私たちは表情が言語を代理する、目は口ほどにものを言うとそう言うのである。

Saturday, November 14, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第三章 表情と行動の関係

 表情筋を伴った複雑な感情表現は高等霊長類(チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、マントヒヒ、オランウータン)にのみ許された所作である。そしてその表情は全て言語であり、つまりコミュニケーション手段として何らかのサインの役割を持つ動物は押し並べて、原=言語の所有者である。すなわちそれは人間だけではない。しかしそれがエクリチュールへと展開するとなると、やはり人間だけである。しかしこれは一体どういうことなのだろうか?つまりこういうことだ。人間は意思疎通する手段としての表情を他者に示すことと、その表情を示すことそれ自体を分けて考えることがたまたま出来たということだ。このことを人類言語学者であるテレンス・ディーコンはレファレンス能力と捉えている。この現実の行為や対象と、その行為そのものや対象そのものを俯瞰して、つまり一歩後退させた地点から客観的に眺める行為そのものを、その行為や対象に対するメタ認知と言うが、それを行為や対象そのものとは別個に、つまりそのものとは切り離された事態として認識することの出来る能力そのものが、人間の他の霊長類とは異なった、つまり人間にだけ今のところ付与された能力である、と見ることが出来る。しかし重要なこととは、そのような客観視と俯瞰視能力を駆使して、人間は異なった位相の行為を更に高次のレヴェルの行為を案出することに長けていたということだ。その一つがエクリチュールの発見であろう。それは発声行為としてのパロールを、「声を出して他者との間で意思疎通し合う」という行為そのものを、説明的な道筋で捉える、すなわち論理的に理解することが出来たからこそ、そこに、ではそういった意味産出と、他者‐自己の意思疎通という通信性そのものを、別個の形で写像することによって、つまりそれ自体をレファレンスとして認識し、そのレファレンスの像、つまり一つのシンボルとして明確に認識出来る形で保存することは出来ないか、という懸案事項の結果としてエクリチュールが案出された、と捉えることが可能である。それは音声聴覚行為そのものを、その際に発話者、発話内容を音声で受信する者双方の意思疎通性そのものを、そういった音声聴覚とは全く別個の形でまさに「示す」うってつけの方法として書記という行為が案出された、ということである。この時絵画や、音楽以外の、つまり発声聴覚行為の持つ音楽性と、絵画の持つ空間写像性を、一挙に満たすそれまでにはなかった形での複合的手法を捻出した瞬間、我々の祖先は明らかに行為そのものへの、あるいは指示対象そのものへのメタ認知能力そのものを書き留める、保存する手段を発見したことになる。
 ジャック・デリダは初期論文である「グラマトロジーについて」で、レヴィ・ストロースが訪れた南米の諸部族の居住地域での体験を示した「悲しき熱帯」を高く評価している。彼等は当然のことながら文明人がするような意味でのエクリチュールは持たない。しかし顔や身体に無数の記号を描き、それをある種のシンボルとして利用していた。それは文明化された我々の文字使用や記号使用のような分化された用途としてではなく、それ以前の恐らく祈祷的思念と、身体的バイオリズムそのものに対する神の声からの受け答えとして執り行うある種の彼等なりの社会行為であるとストロースは直観し得たからこそ、それらを我々の使用する文字のような純粋記録性のものとは別個のものであるにせよ、そこに原=エクリチュールとしての性格を読み取ったのである。そしてデリダはそのことに対して真摯に受け止めている。つまりそれはストロース→デリダによって示された原=エクリチュールという根源からの延長線上に位置する一つのヴァリアントなのである。
 そして人間の表情は明らかに無数のそういったシンボル化作用である原=エクリチュールを根源とする作用の中のたまたま見出された一個の表現方法でもある。そしてそれは何より偽装の最も難しい、あるいはその不可能性をすら告げる顔=感情であるところの原サインである。人間だけが恐らく表情における感情と、その感情を模様などで表現することとと、それを文字によって記すことの行為それぞれを並列した、等価の行為として認識し得たのだろう。つまりそれらは端的に感情の意思表示という内的思念の表明、表面現出化作用として、受け取ることが出来たということを意味する。
 つまりここにディーコンの主張するレファレンスということにおける行為的実現、行為的理解(つまり説明する能力としての理解ではなく、行為実践してそれを身体的所作とか慣用において理解しているということ)の典型例を見出すことが出来る。
 確かに我々は文字を持たないクルド人に対して野蛮である、という観念を持たない。それは彼等がたまたま文字を持たなくても、何かそれを補い、別種のやり方で意思疎通し得てきたであろう、ということを、つまりこのレファレンス明示能力、あるいは原サインを他の行為と並列的な現実として認識することが可能な我々の仲間である、と我々が理解することが出来るからである。そういう行為の並列的認識こそカテゴリー思考能力なのである。そしてそれは他のいかなる霊長類にも真似することが出来ない。
 だからこそ表情を示すことそれ自体を人間だけが言語行為として認識することが出来るということを意味する。それはあらゆるパントマイムその他をも含む身体言語活動の原サインであり、根源に位置すると言ってよい。だから逆にその事実は他者のいない時、つまり自分の表情を読み取る他者不在時においては、我々はその原サインの意味、つまり顔つきとか他者が識別可能な表情の意味というものがそれほど意味を持たないということも意味する。勿論既に他者の存在を考慮に入れて行動している我々は、たとえ一人でいる時にも、その他者性というものを思念上考慮に入れた表情をしている筈なのだから、それは他者間で示される他者との交わりを想定した原サインの一ヴァリアントであることは間違いない。
 つまり我々は一人で顔を洗い、手を洗い、髭を剃り、腕を上げる全ての所作を、一人でいる時に誰に対して示すことがないにしても尚、そこに他者を想定している。自分が自分の顔の表情や健康状態を確認する時、自己に対して他者の視線を向けている。そしてそうして自分のことを確認するのは、今度別の機会に他者に相見えることに対する無意識のウォーミングアップである、ということもまた確かである。
 しかし生まれてから一度も他者(両親や家族を含む)とかかわりなく成長した個体がいたとして、その者は、例えば狼少年的な生い立ちである場合、恐らく他者に示すという練習ででもあるかのような表情の取り繕いそのものを決してすることは出来ないかも知れない。尤も狼に対して仲間であるという意識があるとすれば狼の表情言語をそこに見出そうとするということは考えられる。
 我々は確かにラカンの鏡像段階において、初めて自分を自分である、即ち他者が見る自分の姿というものに対して自覚的になる。鏡を見てそれを自分であると認識出来る種は、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、イルカ、アジアゾウ、人間だけである。ゴリラは他者に対して直接視線を投げかけ合うことそのものを忌避する傾向の習性があるので、自分の鏡像を自分であると認識する能力を発現する以前に諦めてしまうということが言えるのかも知れないと動物学者たちは考えているようである。
 ともあれ我々が鏡に映る自分を他者の視線からのものとして捉える自分は、自分の採るべき表情や行動を意識する雛形であると言ってよいだろう。それを自己意識とか自己に対する認識のスタートであると考えても確かに間違いではない。つまり他者とコミュニケーションを取るという行為可能性としての自分に対する発見と、その発見的事実の長期記憶化作用である。そして表情を作ることそのものは端的に他者に対して意思疎通することを暗黙の内に同意している、というもう一つの大事な事実を我々に告げ知らせる。つまり表情の明示とは、他性の承認と、意思疎通相手としての他者との交信の同意である、ということである。つまりそれがあるからこそ、我々は「あなたと話がしたい」という表明を態々する必要がないということなのである。
 言語そのものについて考えてみよう。
 私は言語を品詞からその発生論的ニュアンスもある人類哲学として捉えてみたいのだが、その前に言語が社会ゲームとして成立する場として、あるいは前提条件としての生活史というものを考えている。例えばホモサピエンスだけが霊長類の中で一年中発情可能である。発情期というものはこと人間に限って(尤もそういう種が他にも発見出来るかも知れないけれど)ない。つまりこのような事態とはどういう状況によって自然選択において決定されていったのか?捕食外敵の恒常的な存在、あるいは地球物理的な過酷な条件で人類の祖先が滅びかけていた状況に対する自然選択的抵抗として発情期という周期的妊娠可能性に対する改善という措置が自然の側から齎されたと考えることが可能である。しかし重要なこととは、何故そうなったかということよりも、そうなってしまったことによる我々人類に対するもう一つの恩寵を見つめることに他ならない。
 それを私は理性と考えている。これは勿論原始理性である。そしてその原始理性とは同僚間での信頼、仕事(狩猟採集、後に栽培)中心の社会活動の進化である。
 本来性行為そのものが快楽を伴わない種は、それだけで絶滅対象である。そして人間もまた性行為を身体的、であるが故に精神的なものとしても快楽として認識出来る。そして一年中妊娠可能、射精可能であるという現実は、性行為の快楽に感けていたら、たちまち種の生存を脅かされていたことだろう。そのために性行為をすることは家族単位での幸福追求という事実を一方で容認しながら、他方その幸福を一人でも多くの成員(大人社会での)が享受出来るために、一致協力して仕事に邁進する時には性的欲求を抑制し、禁欲的な生活によって報酬を得ることをモットーとしなくてはならない。その時協力という概念が、そして自由と保障、責任と義務、幸福と権利といった概念が発生した可能性も充分にある。しかし同時にオフの時間には性行為をして子孫を繁栄させるための努力をしなくてはならない。そのためにまさにデズモンド・モリスが人類のメスだけが乳房が巨大化している事実を性的信号説として捉えていることに対する正当的根拠が成立するのだ。つまり性的抑制機能(仕事中に仕事以外の快楽へと走らないように禁欲すること)の解除として乳房がオフの時間にメスからオスへと発せられる性的快楽誘引的記号として作用してきた、ということである。それがなければ人類は絶滅していたであろう。そして言語は恐らく仕事での同僚との協力と、オフの時間での配偶者での家族的慰安という精神的作用の両面から発展してきた可能性もある。
 つまり人類は性行為がいつでも可能となった時点で、既にその事実に対して自覚的だった。そしてその時を選ばずに性行為が可能なことが、逆に仕事をいつしてもよい、つまり性行為をある一定の時期にしなくては子孫を作ることが出来ないという切羽詰った状況から開放されたが故に精神的に時間を自由に選ぶことが可能となり、ビジネスオンの時間において協力と、禁欲的(まさにマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」は人類の社会活動の起源としてそういった人類の理性発露の絶頂して近代を捉えている。尚カントが他律というものは、実は多分に性行為に対する拘泥とか耽溺を意味するのだ)で個人私利私欲、個人幸福追求を一時棚上げする智恵として理性を招聘した、つまり楽しい生活をすることと、その生活を成り立たすために全ての成員が少しずつ私利私欲を我慢することという並列思考が可能となった。つまり性行為がいつでも可能なことを、いつでも可能であるなら、いつ仕事をしてもよいという認識に結びつけること、つまりそれぞれの可能性(個人的幸福、個人的幸福を一時棚上げにすることによって社会を構築し、その義務を履行することによって社会からの報酬と権利を享受すること、つまり性的快楽の追求と禁欲的奉仕を並列的行為群として認識することが出来ること)を並列的に認識することによって生活全体を自由と責務の配分によって調整することが可能となったことが人生全体から諸々の行為を位置付けるメタ認知が可能となった。だからこそ言語を、その概念把握とか言語を通した論理を構築することがより円滑に行われるようにするための手段として利用することとなったのである。
 人間が人間的であるとか理性的であるとかされるのは、一重に一年中性行為が可能であるのに、その可能であることだけに感けることなく、いつでも家族的幸福を追求することは可能なのだから、オフの時間以外は有効に社会活動へと奉仕し、他者と協力し合うという選択をなすことが出来た、それもまた一重に人間だけが性行為一年中可能ということと、その事実を認識することを別個の事態として自らの脳内の思惟において並列化する能力に端を発している。つまり理性とはそのような並列事実によるメタ認知と、そのメタ認知を個人の幸福追求と、他者、引いては社会との協調の中に位置付ける更に高次のメタ認知へと飛翔させる認知的進化の発現能力に他ならない。だからこそ配偶者を性的パートナーであると同時に社会協力者としても認識可能となっていたのだろうと思う。
 さて品詞論へと移行しよう。動詞や形容詞とはそのものを使用する際に表情が肯定的な事態の表現とそうではないものとの間では明らかに相違が顕在化する。喜怒哀楽と単純に示される感情様相にその都度随順した表情の類別性を常に伴っているのが動詞使用と形容詞使用に他ならない。
 そしてビジネスオンタイムにおける我々の生活を表現する動詞、形容詞に対する価値論的な評定と、オフタイムにおけるそれとは対立する要素もある。ビジネスそれ自体を楽しむという心の余裕は、現代社会で経済的余裕を獲得した個人乃至は社会全体の希求によって発生するので、それ以前には仕事が楽しいという観念などもっての他であり、寧ろ責務遂行という観点から言えば、非娯楽的、我慢の時間という風に考えられる。そこでは真面目な、勤勉である、実直であるという形容詞が想定される。(真面目はともかく、勤勉、実直という言葉それ自体は明治期以降のものだが、意味論的にそれに類するもののことを私は言っているし、この三つは確かに名詞であるが、その名辞性は明らかに形容詞から派生したものである、と捉えられる)そしてそのものを今度は家庭内、あるいはオフタイムでの幸福追求において捉えると、否定的ニュアンスになる。つまりただの堅物であるというレッテルを貼られる。と言うことはつまりこのビジネスオンタイムとオフタイムとでは自ずと形容詞レヴェルでは全く異なった様相のものが主体ということになる。それは動詞でもそうである。遂行する、とか履行するとか、果たす(尤もこれは家族との約束を果たすということでも使用されるが、実際はまず社会内責務遂行から派生していると考えられる)とかの動詞はビジネスオンタイムにおける価値論を基本としている。それに対して楽しむ、寛ぐ、遊ぶといった動詞は明らかにビジネスオフタイムの精神活動、あるいは娯楽活動に端を発している。つまりあのJ・L・オースティンがパフォマティヴとコンスタティヴという二分法において動詞を些細に分類した根拠とは、この生活全体におけるオンタイムとかオフタイムとかの精神活動そのものの表情、つまり精神的な作用のニュアンスの違いに端を発した考察だったのである。・そしてそれは例えば通例では仏頂面だけであると思われがちなビジネスシーンでも、オンタイムの従業員たちは、オフタイムのユーザーを相手にしているわけだから、当然ユーザーが気持ちよくサーヴィスを受けたり、商品を購入したり出来るようにその際の会話をスムーズにするように双方が心掛けている。それは社会活動として友好的な対話ムードを作るということである。それもまた一つの社会ゲームである。
 だから当然犯罪者は犯罪目的遂行のために、表向きは善良な市民を装い、友好的ムードを作ることに余念がない。あるいは敵対する相手に対して対話で友好的ムードを装い、その実策謀に相手を巻き込むことを考えている輩にとっても、この会話をスムーズに進行させることに対する配慮は社会ゲームとして前提されている。要するに「私は話しやすい人ですよ。」というサインを表情という原サインにおいて示すのだ。
 会話しやすい環境を構築するということが社会ゲームとしての前提であり、そのゲームの維持こそが社会活動に他ならない。社会ゲームが理性を要請してきたとも言えるし、端的に責任、良心、義務、権利といった諸観念もまたこの社会ゲームとその維持という社会的事実が我々に齎してきたとも言えるのである。つまり言語とはこのように社会ゲームという不可避的人類の集団行動によって派生した恩寵である、と言えるのだ。言語が概念を作るのではない。言語が諸観念を作るのでもない。概念や諸観念そのものの発生的事実の集積と、その集積事実に対する認識、即ちメタ認知能力こそが言語を我々に引き出させたのである。
 だからもし表情と行動との関係を把握しようと思うなら、当然この社会ゲームが社会的諸観念、諸概念を発生させるという事実にまず向き合わなくてはならない。社会ゲームには全ての成員が多少の精神的心の持ちようが異なっていても尚、等しく感じられる規約、つまり自己‐他者という観念が共有されているという前提が必要である。犯罪者でさえ基本的にはまずこれに随順しつつじきに逸脱しているということだ。それはいざ会話するとなると会話しやすい環境を主体に整備するという行為選択の定着である。
 つまり他者への懐疑、羨望、嫉妬、憎悪といったネガティヴな感情は最初からそういうものとしてあるのではなく、最初にまず信頼し合うという場、スムーズに意思疎通し合えるという可能性に対する認識が、その実現を阻まれることによって発生すると考えた方がよい。それらは肯定感情という前提の上の成長した否定感情なのだ。

 俳句制作者たちは彼等の集団を結社と呼ぶ。この集団は月一回というような句会と呼ばれる集まりで自分で作った句を披露する。そしてその中からいい句を選ぶ。投句したものの中から選ばれるものは、大勢の人によって選ばれたものとなるが、往々にして本当にいい句というものは少数の人間だけが選ぶもの方である。例えば三句ずつ選出して(選句と言う。)その全ての出席者の選句を集計して選ぶトップとは、要するに一人が三句選ぶ場合、最もお気に入りのもの以外は、無難なものを選ぶ傾向にある。そして最も個人的にお気に入りの句というものは個性が強いから寧ろ少数のカルト的ファンだけのためのものである。そしてそのカルトファンたち相互では価値観は受け容れられない。しかし無難な句というものは主観的には好きではないが、客観的に纏まりのいいものである場合が多いから、当然俳句制作者個人の好みから言えばやや平凡なものとなる傾向がある。これはよく売れる通俗職業画家の絵に近いものである。俳句制作者たちが自然をテーマに句を発句することを吟行と呼ぶが、こういう時にも無個性的作品だけが選句集計ではいい得点を稼ぐ。しかしその評定性と芸術性はまた別個の問題である。
 俳句制作をしてその俳句句会形式を記憶の問題と結びつけて論じたものが西村佳寿夫(私の父)の「ペーハーの俳論_篠原梵の解体_」である。彼は同郷である師と仰ぐ篠原梵(中央公論の編集長などをして出版界で活躍した俳人であるが、あまり結社で弟子を取ることに熱心ではなかったので、知る人ぞ知るタイプの天才俳人と言われる。愛媛県伊予市上野出身。臼田亜浪、川本臥風に師事、亜浪の「石楠」に作風は拠る。改造社の「俳句研究」昭和十四年八月号の座談会にて山本健吉司会の下、「新しい俳句の課題」に中村草多男、石田波郷、加藤楸邨と同席し、人間探求派の一人と称される。明治43年~昭和50年。)の句と、用言止めを好んだ師の句制作傾向を、体言止めを好んだ石田破郷と比較検討して論じている。座して嘆じるの姿勢であった石田に対して、俳句に動勢と句構成的メカニズム(主客の関係性をよりクローズアップさせた)を導入した先人として西村は篠原を高く評価している。それは本家取りとかの古典趣味や風流をある意味では否定する考え方であった。
 そして本論がユニークなのは、西村が指摘していることには俳句とは国際的には短歌以上のものがあることの理由として七記号以下の語句の連なりが極めて短時間記憶(短時間に最も効率よく正確に記憶出来ること。)の最大効率的な記憶定着の長さである、ということである。これはジョージ・ミラーなどによる実験で明らかにされた考え方であるが、それを俳句が世界的隆盛となってきていることと結びつけたところに西村の論のユニークさがある。そしてその記憶作用と句会形式のみを後世に伝え、それ以外の風流趣味的部分は寧ろ瑣末なことでしかないという主張が篠原から意志を受け継ぐ西村の主張であった。
 実は最短の長さで効率よくしかも内容あるフレーズで記憶に残させるということは昨今のある政治家のワンフレーズポリティックスを想起させるが、要するに多くの衆目の印象に残る作品とそうではない作品というものの差は、ある意味では芸術的価値が仮に稀少であっても、流通性という観点からは特筆すべきものがあるかも知れない。だからそういう価値とは芸術性のものである俳句でなければ、寧ろ歓迎である。
 そして興味深いことに名句というものがある句会に出席した者にしか分からない場の雰囲気、つまりその日の天候、句会の場所、集まったメンバーの顔ぶれといったことと句制作(その時に作ったものでなくても)を巡る状況と相まって、相互作用をして名句が発掘されるわけだが、その選者たちの精神状態と選句の傾向は充分密接な関係があるが、いざそれが印刷され、世間に周知されると、今度はそのような名句誕生秘話とは下世話な専門家、好事家好みのネタでしかなくなり、普遍性を帯びるようになる。このことは句の持つ創造上でのモティヴェーションと、それが一旦公的なものとなった時とのギャップという問題となるが、第一章で私が述べた真理領域の問題、つまり完全理解よりも部分理解可能な領域の方が言語においては重要なのだ、だからこそ篠原の目指した、あるいはそれを西村が汲み取った俳句制作を巡る私的な動機中心主義(古典趣味や、座して嘆じるデカタンス)からの離脱という志向性に意味を生じさせることとなる。理解というものの本質とは、その理解されるものの背後や背景といった個別性よりもそれらを排しても尚残存する普遍性の方により比重がかけられている、ということである。
 つまりあるいはそういうものとして初期人類にとって法や法的な様々な規約というものが発生し、それと相補的に各動詞、形容詞、あるいは名詞のカテゴリー別にそれを使用する者に個別のニュアンス、つまり言葉としての表情を付与するような品詞性格、傾向性、あるいは文法として統合される時の傾向といったものが構築されていったと考えることが出来る。ある意味では優れた芸術は、その短時間記憶とか、長期記憶に残りやすいキャッチーなフレーズという考え方そのものをメタ認知したものである、とも言えるのではないだろうか?
 つまり芸術はその意図がそう容易に理解され得ない(少なくともその作品が作られた時点では)ということにおいて、その時代を先取りした観念があるのだろう。つまりキャッチーさそのもの、つまり「皆の印象に残るものとは一体何なのだろうか?」という命題に対する一つの回答として示すということに何らかの工夫が施してあって、その読み方、回答の受け取り方が一筋縄ではいかないというところに時代を先取りした観念がある、というわけである。それは寧ろ安易なアレゴリーやメタファーではないだろう。寧ろ余りにも生であることによってそれが回答の明示であるという風には俄かには理解され得ないというところに芸術の主張の本論がある。それは大人の保守的な相互の羞恥を隠蔽し合う配慮というアンシャンレジームに対して子どもの心で羞恥自体の内的メカニズムを暴き立てるような所作としての改革心があり、その改革という意志は要はそう容易に見抜けるものではない、つまりそれ相応の学識が要求される、ということである。
 つまり法による大胆な改革とか、政治上の改革とか、芸術上の実験といったものには皆共通した主張があり、それは内的な羞恥それ自体の正体に対する真摯な言及なのである。それは子どもの羞恥をそのまま温存させようとする変更不可能性に対する安住に対する異議申し込みなのである。「それを恥らうことの意味を私は知りたい」という主張なのである。そしてそれを支えるものとして全体理解の不可能性に対する自覚と、部分理解の偏在性、普遍性に対する歓迎の意図がある。それは端的にコミュニケーションというものの本質なのである。そしてそのことが私の「意思疎通の場の前提条件は信頼出来る関係構築という肯定的なことであり、否定とか対立といったものはその場設定後の行く末によって生じるものである」という考えを裏付ける。
 我々は道を人に尋ねる時に「あの、すいませんが、」と言うような前置きをするし、朝すれ違う社員に挨拶するところから一日の仕事はスタートする。その際にお辞儀をしたりするが、尤もこれは西欧社会ではないことだけれど、笑顔で接するということは向こうでも定着している。要するに意思疎通可能な成員同士である旨を報告し合うジェスチャーとかサインを言語の発生論的なミニマルな要素として認識してみよう。
首を縦に振るか横に振るかということに関して大人も子どももそう変わりはないだろう。眉間に皺を寄せて話をしようとしているのか、それともほ朗らかな表情で相手を見つめているのかという相違は、場の空気感を支配する。それが最初に意思疎通する時の場の空気を醸し出す。そして言語行為の進化と発展は、私は肯定的感情による場空気が齎してきた筈だ、と言った。それは例えば肯定的な首を縦に振ることの方が大人と子どもでは最も変わりないだろうということからも明白である。だが否定的素振り、つまり首を横に振ることを子どもは何の抵抗もなくする。しかし同じことを大人がすると角が立つこともある。だから断り方の巧みさこそが大人社会のソフィスティケーションと言ってもよいだろう。そして大人と子どもとが最も変わりない部分は、恐らく上司から説諭されたり、説教されたり、訓戒を受けたり、そういうネガティヴな評定に自己を晒してしまっている状況下でのしゅんとなった時の表情で、それは大人も子どもも寸分も変わりないだろう。と言うよりこういう時我々は一瞬にして子どもに戻るのだ。と言うことは社会活動が円滑に機能するために大人が配慮しなければならないこととは、訓戒したり、説諭する時に真理領域的相互理解を誘引するような柔らかい口調と、表情が求められるということでもある。受動的なことにおいて子ども社会と大人社会に違いはそうないが、能動的なことにおいて、否定的伝達と責務的な拒否的攻撃性、とりわけ断り方もそうであるが、つまり叱り方において大人社会はある一定の力量が要求される。信頼される上司か否かは褒め方で決まるのではない。叱り方で決まるのである。
 故に大人社会では真理領域の理解こそがモットーであるとつい考えてしまうが、私は子ども社会こそ真理領域前の、つまり先述の例で言えば、俳句制作者が、俳句を紡ぎ出す、句会とか創作仲間との交際とか、作品を成立させている背景に最も敏感である、と言えるし、つまり逆に大人社会とはそういう意味では鈍感力の醸成において人的交流が全うされるということを意味するのだが、要するに子どもは表情というものに敏感な生き物である。だから童話を聞かされても、その説話の意味内容よりも、その話を語り聞かせてくれる親の表情や、目上の人の表情全般が最も気になる事項なのだ。そのことを「アンデルセン童話集(Ⅱ)おやゆび姫」においてゲオルク・ブランデスが次のように書いている。
「書かれた言葉は貧しく、また不十分だ。話す言葉は、話すにつれてのいろいろの口の動かし方や、形容のための手ぶり、声の長短や、鋭さ或いは穏やかさ、まじめな或いは滑稽な響き、全体としての顔つきや態度といった、一群の授けをもっている。話かけられる相手が幼ければ幼いほど、彼はこのような補助手段を通してより多く理解するのである。子供に話をして聞かせる者は、誰でも無意識のうちに、いろいろと身振りをしたり、顔をしかめてみせたりする。つまり、子供は話を、耳で聞くと同じだけ目で見るからであり、まるで犬と同じように、言葉に善意がこめられているか怒りがこめられているかよりも、口調がやさしいかとげとげしいかに注意するからである。だから子供に向かって書く者は、音調の変化、突然の休止、描写的な手まね、恐怖を起こさせるような顔つき、眠りこんでいる興味をめざめさせるような事件の展開をしめす微笑や冗談や愛撫や訴えかけを駆使して、それらすべて叙述の中に織りこむように気をくばり、また時に応じて直接に子供の前で歌ったり描いたり踊ったりしてみせることができないのだから、彼の文章の中に歌や絵や身振り手つきを呪いこめて、それが呪縛された力のようにその中にひそんでいるようにしておき、本があけられるやいなや、それが立ち現れるようにしなければならない。」(新潮文庫 山室静訳、288~289ページより)
 子どもに対して嘘をつくことが難しいのは、子どもは完全理解を望むからだ。子どもには部分理解でよしとする社会観はない。しかし価値論的に大人は子どもの完全理解を望みもする。と言うのは愛する者同士、とりわけ親子や夫婦、恋人同士の関係では、ビジネス上での取り繕った表情をすることを敢えて避けたいと望むからだ。「家族の間で隠し事をするのは止そう」とか「何でも私に相談して」と配偶者へ持ちかける態度で、偽装性を排除して、誠実で真摯に臨みたいという気持ちを大人が持つということだ。
 表情が最初の言語であり、挨拶の最も大切な第一歩であることから、例えばテレビのアナウンサーは何か不測の事態が起こったからこそ、それを報じるわけだが、仮に若い世代のアナウンサーでも老齢者や年配者しか知らないような著名人や政治家が死去した時、あたかも一瞬喪に服すような表情を浮かべるが、これは責務偽装である。彼等が実際は知らない人の死去ニュースであってもだ。しかしこの偽装性は営業畑のビジネスマンは全ての人員が心掛ける所作である。
 そういうものと愛し合う者同士の表情は本質的に違うと我々は通常考える。しかし寧ろその二つを分けて生活するということは、逆にどちらも偽装性が皆無ではない、あるいは誠実性とか本音を示す表情というものがあるに違いないという、つまりそういう真意の表明をするには一定の意志を要するという事実を物語っているに過ぎない。愛し合う者同士だからこそ杓子定規な挨拶や儀礼や、取り繕いを排して臨もうという配慮そのものに、基本的に他性というものを携えて社会生活する者の越えがたい自己‐他者の壁を感じさせずにはおかない。
 例えばセックスはボディーランゲージである。しかしセックスの最中に相手にエクスタシーへと高まりつつある風情を示すことにおいて我々は快楽を享受しているから、陶酔の表情をするということ以外にも、結構な比率で陶酔の表情をすることによってセックスという特殊状況をより効果的に愉悦として受け容れたいという側面も否定出来ない。つまり愛情とか友情とか信頼がある一定の期間(決して短くはない期間)持続させるために我々は一定の配慮と努力をし、相手に対して斟酌し合うという関係を取り結ぼうとする。そしてその一環としてセックスの最中に感じあう振りをするとか、相手を極自然な愉悦の表情を取り繕うことによって喜ばそうとすることそのものを殆ど自動的に愛情に付帯する義務の如く感じるというのもまた大人の部分理解の真理領域死守性である。
 愛情や幸福の完全把握という幻想を生きる我々にはこういった配慮を極自然なものとして円滑に行うことを、寧ろ営業畑の人間がビジネススマイルをすることと、実際上何ら変わらない家族愛、友情、男女の機微といった責務性を、全てを並列的に認識する能力の発現であると捉えれば、ややニヒリスティックに過ぎるだろうか?
 しかし退屈な会議、例えば参院予算委員会とか、そういう場でじっと座って様々な人の報告を聞くだけの大臣クラスの人々にとって居眠りとは最も魅力的な無意識欲求である。私は第一章で意識することの多くが、魅力的だが忌避すべき無意識に対する抵抗であると捉えたが、そのような無意識の排除こそ社会生活上での責務偽装によって問題を引き起こさないように配慮している我々の日々の努力において散見することが出来る。
 だから取りたくはない新聞の勧誘員に対してさえ、我々はあまりにも邪険に扱うことを回避するのは、新聞購読者を勧誘する営業活動もまた、社会機能維持のための一環であるから、仕方のない現実であると受け容れているからだ。しかし邪険にしないまでも、関心のない振りをすることで早々と別の一戸へと立ち去って欲しいと願うだけのことである。
 自己の欲求を意識することが出来るのは、ある欲求が満たされていないということに対する覚知によってである。だから無知において欲求は生じ得ようもない。と言うことは欲求を欲求として意識出来るということは知識、認識、対外部的情報摂取と密接にかかわっているということを意味する。無意識に欲求することもまた日常的に排除すべきものであるなら、我々は自動的に何か欲する、例えば喉が渇いたとか空腹感に苛まれるとかのこと、あるいは排泄したいと感じたりすることを除いて、無意識に他者の言に対して退屈な感情を抱くことを悟られないようにするとか(例えば参院予算委員会で与党政治家が野党政治家に対して採る最低限の敬意を持った態度等)の意識的努力が必要とされる。そしてそれは表情に無意識の願望が自動的に出ていないように振舞う努力以外の何物でもない。
 欲求とは意識的になった段では明らかに自己内での欠乏、外部的情報による自己内の不足状況によって齎される我々の心的作用にとって認識論的な現象でしかない。
 哲学で言うところの現象論も機能論も共にある全体であると認識されたものの中から把握する変化様相に対する経験的な後付けでしかない。例えば論理学者や言語学者たちが哲学的に自然言語と人工言語とを峻別して認識するのは、日常言語から我々が真理領域的把握によってア・ポステリオリに認識してきた部分理解の普遍性に対する無頓着な信頼が糧になっている一つの仕方にしか過ぎない。
 言語学者の考える人工言語とは彼等の論理を実証するための予め恣意的に選ばれたセンス・データの一つでしかない。その論理の実証に相応しくないものを予め排除した偏向した例でしかない。しかし人工言語そのものの正体を、あるいはロボットのようにただ人間の命令に従って動く物体に備わっている心(=擬似心)の正体が把握出来ていないということと同様に実は我々は人工言語を通した真理理解というものに対する正確な理解をしているわけでもない。これは部分理解でよしとする私の分析によって溜飲が下げられるものでもない。
 哲学者の信原幸広は「意識の哲学」(岩波書店刊)において第五章<感覚の客観化>において滑らかな視覚的クオリアと触覚的クオリアが実在する物体において一致すると脳で勝手に我々が判断することそのものは経験的な蓋然性に依拠するものである筈だということを言いたいために、敢えて視覚的な認知と触覚的な認知が脳で統合されていたとしても、その滑らかさそれ自体は、カントの言った物自体と同様決して把握し得ているわけではない、ということを次のように述べている。
「(前略)性質それ自体は、われわれにはけっして知りえない性質である。われわれが知りうるのは、何らかの仕方で表象された性質である。われわれは手でテーブルに触ることによってそれが滑らかであることを知りうるが、そこで知られるのは触覚的な滑らかさであって、いかなる表象の仕方からも切り離されて滑らかさそれ自体ではない。滑らかさそれ自体はけっして知られない。」(167ページより)
 ここで信原はヒラリー・パットナムの示した「水槽の中の脳」という発想をも彷彿させる我々の脳内現象である認知世界を即実在である信じてしまうという哲学的懐疑主義的な見方をクオリア論理学的地点で採用している。そしてその懐疑主義と、実在現象論的な、あるいは実在信仰幻想論的な考え方は表情と行動においても適用出来る。
 我々は他者の心の中を覗くことが出来ない。しかしある表情をした他者の振る舞い全てから他者の心が安定しているのか、あるいはざわついていて不安定であるのかをその都度判断している。それは終ぞ完全に知り得ることが不可能であるからこそ、その認識的欠乏状態によって逆に「知りたい」という欲求を掻き立てられるという欲求発生論的な心的メカニズムを他者の表情と心の中という関係の理解、判断に採用していることになる。
 そして表情そのものの意味を最も有効に把握することが可能なものとして、我々は他者の行動に対する認知を選ぶ。それは丁度彼の行動というデータを下にして彼のそれまでの行動パターンから弾き出される統計的な真理値を巡って、彼の表情の示す意味が、行動を反映しているということを確認することが出来るという意味では、言語学者たちがある一つの日常言語から、その背景やその陳述を齎した意味を探るために、その者の発言傾向を巡って彼の行動と発言との相関性を示した新たな人工言語を発見する努力に等しい。
 彼はああいう表情をしていたが、あの時普段だったらああいう表情をした後に彼が採る行動から推察するに、あの時の表情は我々がそこに認めた判断は誤っていなかった、つまり彼はその前に起きた例の事件によって意気消沈していたのだ、と自殺した友人の最後に皆が見た表情を慮ることにおいて示される目撃者たちの判断基準の正確さを確認し合う場面で見られる認識は、つまり言語学者の産出した人工言語のようなものである。
 家族だから秘密を持たないようにしよう、とか愛し合う男女だから全てを告白し合うようにしようという考えは、実はそれをしなければ全てがご破算になってしまうという極めて脆弱な信頼性に対する安全地帯とリスキーゾーンとの隣接した状況を物語っているに過ぎない。それは親しい者同士ではビジネスの際に顧客に見せる表情とは違った本音の部分を見せ合おうという意識そのものが、ある一定の制度的呪縛(理想の家族像といったものを産出する文化的状況)に絡め採られた思惟でしかないことを物語る。ある意味ではビジネスとは「その仕事をして食っている」ということの表明なのだから、最も真意を表明した行為である。つまりビジネス的な責務偽装とは言ってみればそれ自体、「ビジネスの建前を遵守しましょう」という真意の最も明確な人間の行為であり、ビジネス上でのスマイルという偽装とされた本音があるからこそ、逆にそういう勤務中以外の家族団欒での寛いだ雰囲気を人間が社会ゲーム全体の中で獲得出来るのだ、と言えるし、それは自己存在に対する認識が他性認識を起点としていることと相通じる論理でもある。
 人間の行為の全てが社会ゲームとして位置付けられるとしたら、恐らくセックスの際の表情や体位変更する所作、あるいはセックスオーガズム時のエクスタシーの表現である呻きや喘ぎさえもが、言語行為として位置付けられ、ビジネススマイルや、家族での団欒での表情とか、友人との間でしか言えない本音を語る時間での笑顔といったものと並列して人生を構成する要素として認識される、という意味では私たちに私たちの行動や思惟に真に野蛮なという意味での自然な場面は皆無である、と言ってもよいかも知れない。ある意味では人生全体が<人間がホモサピエンスとして種行動を採る>という自然であるという意味での自然であると言う以外では、全ての時間はその自然を構成する中の恣意的な、人工的な行為であるとさえ言える。つまり社会ゲームを一時も我々の脳は離脱することなど出来はしないのである。
 現代の脳科学や心理学においてさまざまな実験的データから明白となっていることとして、第二章の初めで示したダマシオ等による見解によると、人間の身体はまず情動を発動し、然る後感情を持つということだ。それは要するに池谷裕二の言葉を借りれば、「感情というクオリアは脳の活動をダイレクトには決定していない」(「進化しすぎた脳」朝日出版社刊)ことになるが、このような発見は何も今世紀において、あるいは20世紀の後半において特筆すべきことのようによく語られるが、実際脳が判断して、それを感情に置き換えている(意志ではなく、脳が)ということは恐らくフロイトも考えていたことではないだろうか?つまりそれを否定したいのは宗教家とか一部の狂信的な哲学者(自由意志絶対主義者)くらいのものであろう。身体は自動的に全てに反応するし、その自動性を無意識として処理してきたのが精神分析である。しかし意志したと思った瞬間よりも脳が判断した瞬間の方が逆に現代脳科学に逆らって遅かったならば、我々はとっくに絶滅していただろう。そういう観点に立てば、「表情は偽装していたとしても、その人間の感情を読みとれる」と考えるよりも、既に表情は身体の反応を全て集約していると考えた方が理に敵っている。寧ろ悲しい表情をすると自然と悲しくなるだけのことである。結婚して今幸せな人が葬式で楽しい表情をすることが出来ないから、悲しい表情をしていると、自然と涙が出てくるような意味で、我々は表情を取り繕うのではなく、外部的な強制力と随伴して自動的にある表情を構成している。
 と言うことはダマシオの言うように情動が感情を喚起するということを前提に考えれば、ある情動を最も如実に反映している表情が感情を呼ぶという私の提案は正しいことになる。楽しくなくとも楽しい表情をすれば楽しくなるのである。あるいは仕事で本当は楽しくないと思って接客をしていても尚、笑顔で接客すればじきに客と応対していることそのものが楽しくなるという意味では私が責務偽装といったことは、家庭で何らかの悩みを持つ者でさえ、職務中の責務によって寧ろそういう悩みを一時忘れることが出来るという意味では表情の偽装とは、致し方なく偽装しているのではなく、主体的に(?)偽装していると言ってもよいものである。つまり表情を作ることそのものは脳の命令であるから、その命令に従って人間は感情というクオリアをどうにでも変化させることが出来ると捉えた方がよい。感情(扁桃体によって作られているとされる)をコントロールするのも脳である。つまり情動を前頭葉が意識することによって感情が認識されると考えてもいいことになる。
 何らかの外部の状況に呼応して人間はその外部状況に対して何らかの判断、感情的反応を示すわけだが、その際に次に採るべき行動を決めているものをたまたま我々は理性と読んできただけのことである。だから感情をコントロールするものもまた理性であると捉えてきたことにも繋がる。
 だから楽しい踊りをしているのに、嫌な気分の表情をすることが却って不自然で難しいような意味で、表情はその表情に相応しい行動を我々に採らせるのだ、ということはある意味では尤もなことである。尤も社内でダンス大会があって、普段そういうことをしたこともないので、必死に同僚や部下に教えて貰った上司が苦虫を噛み潰したような表情でダンスを踊る姿というのは考えられるが、それでもそのこと自体が楽しければ、巧く踊れなくて擬古地なくても尚表情は晴れやかなものである筈である。ただ彼がプロのダンサーのように表情にユーモアを交えるくらいの余裕がないだけのことであるに過ぎない。
 薬学専門で脳科学に勤しんでいる池谷は動物の言語は要するにサイン(信号)であり、人間が豊かな感情のクオリアを持つことは、言語を獲得しているお陰であると考えているが、実際感情の襞とか感情そのもののニュアンスや表情は、言語に誘発されているという部分も大きいだろう。しかし言語を使った何らかの行動を起こす意志決定の合理化をなすものの本体は言語ではないだろう。あるいは言語を利用してクオリアの襞を複雑化しているその全体を誘引するものもまた言語ではないだろう。それこそ情動によって喚起された感情と言えるのではないだろうか?確かに感情を複雑に表現出来るという事実は言語が我々に誘引した能力だろう。しかし同時に仮に言語を我々が獲得してなくても尚、行動を正当化するための脳活動そのものはある種の非言語的な論理のようなものに支えられて、その場その時の最も合理的であると考えられる判断をしているのではないだろうか?つまり我々はそういう状態というものを「仮にそうであったら」と想像するしかないということだけのことである。
 人間の本意や真意は一つだけではない。それは人間の記憶能力が他の動物に比較してずば抜けているということからも明白である。例えば売れっ子のライターや小説家たちは月に何本も同時連載している。そういう場合それぞれの連載ものに対して払われる注意は等価であるように訓練されている。だから寧ろ一本の仕事に集中している場合の方がよりその展開において行き詰るということはあり得ることである。実際心理学者のアリス・W・フラハティーはライターズブロックと呼ばれる書き手によるスランプは、逆に書きたいという病ハイパーグラフィアと裏腹の関係にあると考えている。例えばある有名な作家は書くことの出来ないスランプ時にも、手紙で親しい人に長々とその生活状況を記した文面を書き送っていることを例に、つまり本当に何も書けないのであれば、手紙等書き送ることなど出来はしないと考えている。と言うことは小説や論文、エッセイと様々なスタイルのものを同時並行させて書く著述家の方がよりスランプに陥り難いということは言えるだろう。それは小説を書く時に働く脳内の思考の表情と、論文を書く時のそれとでは異なるということも言えるし、小説に対するスランプをエッセイが救ってくれるということもあり得るからである。丁度それは絵画制作に行き詰った画家が一時平面から離れて彫刻や陶芸を作ることでスランプを回避するのに似ている。また先述した家庭に悩みのある夫が、職場で仕事に打ち込むことで、一時悩みから開放されるという例からも言えることであろう。
 だから恐らく感情をコントロールすることよりも表情をコントロールすることの方が我々には困難ではないだろうか?表情が曇ると、感情をコントロールして楽しくしようとすることは出来る。しかし楽しい表情を浮かべるという意志は、曇った表情をしていたからである。だから曇った表情を作っていた感情をコントロールすることによって自然と表情は晴れやかなものになる。晴れやかな表情になれば自然と感情は安定してくる。
 だから私が先ほど「人生全体が<人間がホモサピエンスとして種行動を採る>という自然であるという意味での自然であると言う以外では、全ての時間はその自然を構成する中の恣意的な、人工的な行為であるとさえ言える。つまり社会ゲームを一時も我々の脳は離脱することなど出来はしないのである」と言ったことの背景には、行為を意図的にしようと欲し、意志的に感情をコントロールすることそのものが社会ゲームでの規則であるのなら、先験的にそのゲームに参加する参加者としての主体的、非主体的な表情そのものは既に我々に与えられているということではないだろうか?それは意志する以前に脳がそれを決めているという脳科学の見地からも証明されていることではないだろうか?だからこそ逆に表情をコントロールすることそのものがアクターにとっての演技論であるような意味で、我々通常の市民にとっても重要な社会ゲームの参加者としての心得となっているのではないだろうか?
 私は子どもには嘘をつくことが難しいと言った。それは子どもは責任倫理的な意味合いから「もしそれが嘘で建前的なことであっても、態勢には影響がない。」という発想がないからに他ならない。大人とは適度に必要なことだけをしっかり覚えておき、後は適当に忘れておこうという決意を難なくこなせる生き物のことを言う。それに対して子どもはそういう世間的な智恵というものには疎い代わりに、洞察力が鋭い。(そういう意味では芸術家とか学者といった人種は須らく執拗な観察力が優れているから、子どもの持つ目新しいものに異様に好奇心を抱く心を失っていない、つまり既知感というものに疎いということ、つまり何にでも新しい発見をすることが出来るということである。)
 しかし私は子どもの心を全て大人が失っているとも考えていない。つまり表情というものに対する感知ということに関しては大人も子ども以上に洞察力の優れた人は大勢いる。
 そして表情は建前的な責務偽装をする(デパートや大手スーパーの店員が客全員に等し並に笑顔を作る、テレビカメラの前のアナウンサーが笑顔を取り繕うこと)から、大人社会では全て表情を通り一遍の記号として読む、喜怒哀楽を単純に、こういう感情の時にはこういう表情をするものだから、そういう感情なのだろう、と割り切れるほど、つまり偽装と真意の表出した表情の区別がつかないほど愚かであるなどとは思っていない。
 信原幸弘氏は哲学者として痛みの感覚について「心の現代哲学」において、そして脳科学的、心理学的考察として倫理と知覚の関係を考察した「考える脳・考えない脳」、そしてクオリアに関して多く考察した先述の「意識の哲学」などの秀逸な仕事をされてきた方だが、私は氏の言語を解釈記号として捉えている認識に多少疑問を抱いている。少し長いが氏の「意識の哲学」から引用してみよう。
「(前略)思考が内語/発語だとすると、意識的な経験が思考に変換できるということは、意識的な経験の内容が言語化できるということである。トマトが赤いという意識的な知覚経験をもつとき、わたしはトマトが赤いと考えることができる。つまり、「トマトは赤い」という内語/発語を言語表現の内容に変換できるということである。意識的な経験は、その内容が言語化できるような経験なのである。(改行)そうだとすれば、経験の意識的な志向的特徴も言語化可能である。わたしがトマトが赤いという意識的な知覚体験をもつとき、この経験は赤という意識的な志向的特徴をもつが、わたしはこの特徴を「赤い」という言葉で表現することができる。経験の志向的特徴が意識的だということは、それが言語化可能だということである。クオリアは意識的な志向的特徴であるが、その意識的というのは言語化可能ということである。それゆえ、クオリアは言語化可能な志向的特徴だということができる。(改行)意識的であることが言語化可能として捉えられるとすれば、言語をもたない者は意識をもたないことになる。サルの眼前に赤いトマトが立ち現れることはない。赤いトマトが立ち現れるためには、サルがトマトが赤いと考えることができなければならない。しかし、言語をもたないサルには、そう考えることができない。そう考えることは「トマトが赤い」と内語/発話することにほかならないからである。われわれは、サルが赤いトマトに手を伸ばしてそれをつかむことができるのは、サルの眼前に赤いトマトが立ち現れているからだと考えたくなる。しかし、そうではない。サルはそのような意識的な知覚経験をもたない。サルがもっているのは、眼前に赤いトマトがあるという無意識的な知覚体験だけである。そのような無意識的な経験があれば、赤いトマトを手につかむのに十分である。サルは言語をもたないため、赤いトマトがあると考えることができない。それゆえ、赤いトマトがサルの意識に現れることはないのである。(改行)言語をもたない者は意識をもたないということは、われわれの直観に反するかもしれない。しかし思考が言語活動だとすれば、そうならざるをえない。われわれはサルにも意識的な知覚経験に基づいて自動的な行動をするだけではなく、それに基づいた思考を行い、選択的な行動もするから、サルにも意識的な知覚体験があるのだ、と。しかし、思考が言語活動だとすれば、言語をもたないサルは思考をもちえない。したがって、選択的な行動を行うことができない。サルはもっぱら知覚経験に基づいて自動的な行動を行うだけである。サルが選択的な行動を行うようにみえるのは、すでに指摘したように、自動的な行動も個々の状況に応じた柔軟な行動でありうるからである。サルはそのような柔軟な自動的行動を行うだけである。サルはけっして意識的な知覚経験をもつわけではないのである。(改行)意識的な経験は選択的な行動を可能にするものである。しかし、選択的な行動は思考によって可能となり、思考は言語によって可能となる。したがって、意識的な経験が選択的な行動によって可能となり、思考は言語によって可能となる。したがって、意識的な経験が選択的な行動を可能にするためには、それは言語化可能でなければならない。意識的であると言うことは言語化可能ということなのである。」(193から195ページより、第六章 意識と言語中、3 思考と言語 より)
 
 まずここで私にとってネックとなったことと言えば、思考は言語なしにはあり得ないという箇所である。勿論言語は思考を秩序づけるから、対他的に意思表明したり、明示したりするという意味では言語を獲得していない動物では一切思考を秩序づけることは出来ない。しかしそのことが直ちに一切の思考を働かせないということにはならない。漠然とした判断、分類は言語のない動物でも可能である。ただそれらの能力を我々人間の持つ思考能力とは並列的には論じられないということに過ぎない。哲学者自身がその人類に与えられた(彼等は付与されたと言うが)能力を基軸に全てを論じるという使命故致し方なさは付き纏うが、それでもその捉え方では思考というものを極めて限定的で狭い範囲だけで捉えることにも繋がると私は考える。
それに氏の仰るように言語は認識の道具であるばかりではない。寧ろ音声的なクオリアでもあるし、また思考そのものも、たとえ言語を基本とした論理的修辞性に多く依拠した考えを抱くにせよ、その言語統語論的な秩序や、論理の積み重なったものそれ自体には、非言語的要素も多分に含まれ得る。例えば論理や思考を積み重ね重層化すると、そこにある幾何学的形態像が現出する場合もある(勿論それは言語獲得をなしていない動物の持つ本能的直感とは異なるにせよ)。つまり理解そのものさえ、ある意味では言語的認識ばかりではなく、もっと非言語的なクオリア、その一つが形態であるし、時には色彩的なものもあるだろう(脳科学的には共感覚と呼ばれるものなどもそうであろう)。つまり一見言語認識だけであるような重層化された論理や、秩序、あるいは統語秩序そのものさえ、音声的クオリアや視覚映像的クオリアが立ち現れているということも多分にある、と思うのである。もし信原氏のような画一的な言語認識を持っていると、表情においてまさにロボットと人間が笑顔を示した時、その表情が説明的なもの以上の理解には至らないと言うことになってしまう。私はそのことにおいて表情を記号ではない、と言ったのである。
 人間は断じて顔を見ないでいる内はチューリングマシーンとの会話と人間との会話に区別がつかないことがあったとしても尚、顔を目にした時には、それが人間の感情が入った言説であるか、そうではなくただ開発者によってプログラムされ指示された言説であるかの区別くらいは直ちにつく、というのが常識ではないだろうか?ある意味では感情の理解という観点から言えば、ロボットと人間の表情の区別は犬や猫でも可能である。もし意識至上主義となってしまうと、動物には言語がないから、思考がないという信原氏の抱いておられる発想になるが、動物には非言語的思考が可能である、と私は考えている。それは人間とロボットくらいははっきりと区別がつく(従って動物に全く無意識以外のものがないとする考えは間違いであると私は思う。)くらいの意識、それを意識と呼ぶことに差し障りがあるのなら、明示的感情はある、と考える。
 信原氏は少々論理的無矛盾性に対して拘りを持ち過ぎているように思われる。つまり時には直観力に頼ることの方が、つまり理詰めで解決するよりもよい場合というものもあるのではないだろうか?つまり言語的秩序ではなく、言語的感覚とか、非言語的明示的感情を優先した方がより言語的にも理解しやすいということはあるのではないだろうか?
私は信原氏の「意識の哲学」の論法をクオリア論理学と勝手に呼ばせて頂いているのだが、実際クオリアそれ自体を論じる場合にも、論理的に理詰めで行うことに哲学的意味がある場合も多いが、時にはそれが却って弊害になる場合もあり、そういう場合には哲学者であろうとも、寧ろ非哲学的常識に当て嵌めて考えた方がよい場合もある、と考える。
信原氏の痛みと痛みの感覚それ自体を分けて考え、それを見ることと、見る感覚それ自体と分けて考えることが出来ることと等価のものとして言語=説明能力と捉えるやり方は、論理的考察を感覚に適用する際にも、特別な仕方をしないで臨むという認識から尤もだと思われるが、言語=説明能力と捉えることにおいて、私はやや短絡的であるという印象を拭い得ない。氏は思考というものを言語的思惟であると決め付けているが、実際私は言語でさえ非言語的要素が介入するものであると考える(それは結論で考えている得ることと引き換えに失われたものをもある程度残存させているということである)。勿論そのこと自体を言語的に、そして論理説明的に我々は置換しようとするのである。しかし同時に論理や説明、言語的秩序を支えるものとしての非言語、感情的起伏といったものを私たちは無視するわけにはゆかない。もっと言えば我々は論理的思考という枠組みの中でさえ、具体的な言語や、代数的な思惟だけではなく、幾何学的、映像具体的な想念を抱く。またクオリアというと、どこか静的なイメージで捉える向きも多いとも思われるが、実際動的なクオリアというものもあるだろう。尤も動的であってもそれがある定型に嵌めこまれている場合、それは反復可能な動きなので、動きそのもののその時の一回性に対する重視ではないから、当然静的な動性ということになるだろうが。つまりクオリアは記憶と関係があるだろう。そこでいつも同じ動き方であるものに対しては、我々はそこに変化よりも、定型というものを見出す。それは即ち静へと同化させ得る動である。つまりそれ自体パターン化された動きである場合、それは「今度もまたいつもの奴か」という想念を我々に抱かしめる。それに対して、その時に固有のある人の動き、あるいは表情は、その現出によってそれまでにない印象を我々に植え付ける。それは明らかにパターン化されたクオリアとは異なるだろう。そういう経験を我々は一番親しい筈の親子や、兄弟、配偶者の中にも見出す。親友の中にも見出す。
 そして私たちは他者に対する配慮という観点からある表情や、行動(特に他者に向けてなされる行動、あるいは発話も含まれる)を粒さに観察すると、それはある他者に対する「構え」を持ってなされるものであるから、「振りをする」ことであると認識しがちだ。しかし「振りをする」という「構え」そのものが他者にそのまま差し出されれば、当然そのこと自体が真意となる。つまり真意の表出と、「振りをする」ことが一致した地点として他者に対して「構えられる」態度は解釈し得ることとなる。
 例えば私たちは不正受給をしようとする者の提出する請求書に対して、彼等が「水増し請求書」として銘打って提出しないことを知っている。つまり正規の正当な権利としてそれを通常の「請求書」として提出することを知っている。しかしそれでも何らかの不正な額であるとその提出された書類から読み取る者がいれば、それは「請求書」となっていても、通常の請求ではなく、水増し請求であることを我々は知ることになる。そういう意味において、我々は他者の偽装を、それが偽装ではなく真意の、誠実な表明であると理解することによって、逆にある不正な書類の提出や、偽装の表明である発言を、それなりに理解する。つまり「嘘をついている」という真意を、その「固有の振りの仕方」において見抜く。それは「振りをする」ことが誠意に基づいてなされているか否かの感情判定的なバロメータを我々が心的理解として所有していると我々が考えているからだ。そしてそれは個人毎に多少の違いがあるが、概ねその基準は一致している、と我々は考えている。それは不誠実に「振りをする」時の人間の表情は、どこかぎこちないということを我々が誠実に知っているからだ。
 なぜぎこちないのか、それは不誠実な発言、書類の提出を悪としよう、そしてその悪とは、逆に「悪とはいけないことだ」と認識する能力、つまり良心によって自覚することが出来ると我々は知っているからだ。つまり良心のない人間は、それが悪であると知って敢えてする行為という認識は持たない。真の悪は悪を悪と認識しない、当然のことだと思う。あるいは疑いすらしない。しかし通常そういうタイプの人間とは稀少である。そこで我々は不誠実な発言や書類の提出を「嘘と知って嘘をつく行為」の典型として、そういうことをする人間の行為はどこかぎこちないと経験的に知っているので、その経験を下に分析的判断を下すわけである。それは人間もまた言語習得した後も言語習得以前的な本能をも全く失っているわけではないということを示して(表して)はいないだろうか?
 悪とは良心が作るものである。悪とは誠実であること、嘘をつくことは不誠実であることを熟知した者しか悪であると認識することが出来ない。そしてそれは表情に直結する。
 信原氏は「意識的経験は思考に変換可能であり、思考に変換されることによって、選択的な行動を可能にする。だが、思考は言語活動である。したがって、意識的な経験は言語化可能な経験である。意識には思考が不可欠であり、したがって言語が不可欠である。言語をもつ者だけが意識への現れ、すなわちクオリアをもちうる。(改行)意識、自由、思考、言語、合理性。これらは絡み合って、ひとつの固有の領域を形成しているのである。」と「意識の哲学」を結語している。しかし私は意識においても言語化不可能なものがあると思う。勿論そのように言語化不可能であると言葉にすることなら出来るが、それは詭弁というものであろう。つまり何故人を殺してはいけないのか、ということを我々は意識出来るが、原理的にその根拠を我々は言語化しようとするし、それを試すことなら出来るが、それを実際言語化するという真意である根拠化することは不可能なのではないだろうか?
 つまり良心というものが悪に対して発動される時、我々は確かに意識的に悪に立ち向かっているが、その悪が何故自分にとって悪であるのかということを言語化しようとはするが、その言語化は根拠化された思惟へとは終ぞ到達しない、ということの方が真実なのではないだろうか?また信原氏は暗に言語を持つのが人間だけであり、動物はそうではないのだから、クオリアがないと言いたいようなのであるが、実際動物にとっての言語とは端的に彼等の表情であるという観点に立てば、彼等にも人間の持つクオリアとは違うというだけで、クオリアがあると認めてもよいのではないだろうか?

Tuesday, November 10, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第二章 言語は真意を伝えることが出来るか

 真理というものがこの世にあるかどうかは誰も知らない。しかしそれは少なくとも価値システム論的には必須の概念として論じられてきたし、それは哲学の歴史の重要な部分である。プラトンやアリストテレスからデカルトやカント、それ以降の哲学者の多くを翻弄してきた価値である。しかし少なくとも西欧哲学においては、真理とは理想への希求である以前に、まず神という絶対命題、最高存在者に対して付与されるようなニュアンスのものであった。スピノザは神即自然と考えたが、神に対する敬虔そのものにおいて人後に落ちないという自覚があったように少なくともテクストからはそう読み取れる。しかし彼は少なくともユダヤ教の教条的な倫理に疑問を持ったことだけは確かである。そのことについては脳神経学者のアントニオ・ダマシオの著作「感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ」が詳しいし、私の感情の捉え方は基本的にダマシオの考えに従って本書は書いている。
 西欧哲学では神の存在に対する懐疑が徐々に19世紀後半には顕著になっていったというのが実情であるし、寧ろ神からの独立というテーゼ自体は積極的有神論者であるカントに既に見られるスタンスである。(そのことは拙書「責任論」を参照されたし。ブログ「死者/記憶/責任」に掲載更新中)しかし奇妙なことには無神論にはどこか宗教的ニュアンスというものが付き物である。それは先験的な完全無欠という観念を払拭出来ないことには神性というものが付き纏うということである。例えば生物種それ自体にはある理想的な形状、それは自然に適応するために性選択の見地から等色々考えられるが、実はそういう値というものがあるが、殆どの生物個体はその理想値からは少しずつ劣っている。ある部分では他の個体より抜きん出ていても尚、別の部分では少し劣っているという風にである。そのことは人類史上の大天才にも当て嵌まる事実である。アインシュタインやピカソはアスペルガー症候群だったと伝えられる。アスペルガー症候群とは「おはよう。」とかのような型どおりの挨拶に対して「何で今別に時間のことを話題にはしていないのに。」とつい疑問を持ったりするような症状であると言う。
 だがそれにもかかわらず我々は理想値というものを当然の判断基準であるかのように振舞う。あらゆる社会ゲームにおける経済的な数値目標は全部そうである。それは唯一絶対の公理性に対する無条件の信頼、無頓着な信仰でさえあると言ってよい。
 無意識という言葉はどこか現代の困難な哲学的議題やら、脳科学的な命題とはそぐわないというニュアンスを私は常々抱いてきた。そういう直感こそが、サルトルやジャック・モノーをして無意識などというものはあり得ないのだ、という考えを抱かせてきたと思う。無意識と呼ばずに自動的に行動すると考えるともっとすっきりする。それは選択以前の選択、つまり何かをする時幾つかの想定し得る選択肢から縒り選ぶことではないのだ。もっと直接にそこに到達するニュアンスである。またそれは刺戟に対する反応とも異なる。それは外部的な能動的事実によるものであるが、無意識とは寝ている時にも起るものであるし、外部的に何ら刺激に類することがないように感じられる瞬間にも刻々脳内で作用していることであるからだ。それを自動的と私が呼びたいのは端的に、一々我々が意図しているわけではないからである。
 さて論理的思考とは言語的思考の獲得の後に円滑になるということは考えられるにしても尚、では言語的思考そのものが論理的思考の全ての根源であるかと言うと疑問が残るだろう。私は前章において視覚的な情報処理が言語的思考を促す可能性について触れたが、それはこういうことである。近くにあるものと遠いものとの段階的な区別が自分と他者の距離を認識することに応用されるし、それは一人称においては主語と目的語という峻別を我々に教える。例えば論理的思考はそれ自体で言語的思考そのものと密接であれ、独立しているようであれ、どこかで視覚的情報によって形成される映像記憶とも無関係ではないのかも知れない。例えば論理的思考というものは筋道をつけてプロセスの在り方を想像することであり、それは車と車がすれ違う様子とか、水がスプリンクラーから周囲に撒き散らされる様子とかによって、あるいは人同士が何か持っているものを相互に交換する様子を糧に対立とか、対抗とか、放射とか、雲散霧消とか、交換とか、置換とか、要するに抽象的観念というものは具体的な映像記憶や経験的映像的知識によってより理解しやすいということがあることを考えると、どこかでは具体的映像とも関わりがあると考えることもまた理に適っている。すると論理は具体を起源とすると考えてもよいことになる。
 西欧哲学が論理的な弁証法によって営まれてきた歴史をフランスの哲学者のジャック・デリダは論理的起源としてパロールを考えた。パロールは音声の発声に基本があり、それを基本とする書記述というルートを西欧哲学は踏襲してきたことに対して言語自体の語られる事実に対して語る行為のモティヴェーションとの相関性に彼は着目したからこそ、エクリチュールという事態の、文字を読む行為と書く行為の時間的差に内在する、記述者の意図とか、暗黙の読解者に対する要求という意図を、再び覚醒させることとなった。
 発話行為が基本である限り、論理は説明と不可分である。しかし私が捉えたような具体的な知覚映像によって齎される段階論的な、要するにプロセス認識が、論理の起源だとすると、我々は説明による説諭としての論理的説得力とは、実はア・ポステリオリに獲得した弁論術に起因することをデリダよろしく理解出来る。それは具体的理解の後の社会ゲームの一つの営みの必然的展開でしかない。
 デリダの示す考えに見られるように現代哲学以降の認識では明らかに文脈論的な理解だけではない具体的な映像記憶と学習といった言わばクオリアとか知覚的なトークンとか、私が考える質的な情緒とも無縁ではないニュアンスといったものと意味内容とは不可分であり、真理値そのものが真理を語ろうとする話者の語調とか、ニュアンス説得力と無縁ではないような意味で、それらは一層重要性を増す。
 私は日本人である。しかしアメリカ映画を見て、アメリカ人のライフスタイルを知り、そこで彼等なりの生活感情を理解することが出来る。一東洋人であり、東南アジアの一国民である私は西欧形而上学を理解しようと試みることは十分根拠のある行為であり、それと同じことをアラブ人がしても何ら差し障りない。それはアメリカ人やヨーロッパ人が禅東洋思想に関心を抱いたり信条とすることにおいても同様のことが言える。
 そういう意味では世界に既に国境などないと言ってもよい。あるのは個人の内的な民族的感情(私はそれを民族的ルサンチマンと呼ぶ。)であり、それは対他的にも、対外国人に対する私の不可避的な発信メッセージでもある。それは「あなたを理解したいけれど、理解出来る部分もあるが理解出来ない部分もある。」という表明でもあるのだ。
 アメリカの哲学者で一際目立つ存在であるヒューバート・ドレイファスは現代の人工知能研究の方向性に対して不完全であるとして苦言を呈している。彼の思想によると人工知能論者のような意味で文脈に依存しないで内的な象徴を内的な規則に従って操作する認知を提唱するその考え方は語義矛盾であるとする。「人間行動が客観的に予測可能なものと考えるなら、文脈に依存しない科学的法則があることになるが、実際のところドレイファスによれば、文脈に無関係に成立する心理学とは語義矛盾なのである。こういった立場は、現象学や解釈学の伝統(とりわけハイデッガーの著作)に由来している。人工知能研究が基礎を置いている認知主義的な考え方とは逆に、ハイデッガーは、人間存在は自らが置かれた文脈によって強く拘束されていると考えている。」(wikipedia2007年5月20日付けより)
 ドレイファスの考えに従えば、我々は前章でも触れたが皆自己流の具体的理解方法を感得しており、それを通して概念的理解とか法則的な理解をしていることになる。それらの考えを通して社会ゲームにその都度参加しているのだが、本質的には個々によってなされる人間の理解の仕方というものはそうおいそれとは他者が理解し得るものではないということになる。しかしだからこそ個的な理解と個的な意味の世界から社会ゲームにおいて流用された意味の世界に転換した際の共通したルールには国境など皆無であるということになる。だから空や無は西欧哲学やそれを志向する世界の研究者や学究の徒にとっても普遍的概念であり、今や東洋哲学の専売特許ではないし、それは我々が西欧哲学を我々の財産としているのと同じことである。それらの普遍概念は基準を設ける我々の構えを構成するものである。従ってそれらは前基準的なものであり、場構成上の必須設定基準であると言える。個人とはそういった場において可能となる。普遍的価値体系というものがあるとすれば、それは場構成の状況的顕現が必要となる。その具体的な顕現によってア・ポステリオリに見出されるものこそ普遍的価値体系である。だから普遍的価値体系というものはある意味ではガザニガが言う責任の作用そのものの脳内局在性の発見の不可能性と同様、あるいは真理同様の人間にとっての目標なのだ。
 そのガザニガは自著「脳の中の倫理脳倫理学序説」において左脳に人間が異なった文脈とか何の脈絡もない二つの事項を関連あるもの同士として認識する、即ち辻褄合わせの能力を有していると脳科学的見地から報告している。これは人間の論理的整合性という事態の全てに言えることである。しかし人間は非論理的心的作用に常に取り巻かれている。例えば端的に言って感情というものは全てこれに該当する。例えば愛情とは憎悪と隣り合わせである。尊敬は軽蔑と隣り合わせである。愛情は憎しみに転化する可能性として存在する。尊敬は軽蔑に転落する可能性として存在し、これらは全て一方の事態にのみ貢献するような心的なエネルギーではない。人間はある意味では自己本位であるからこそ、逆に社会性とか価値システム論的な脳の作用をもって理性を生じさせるのだ。その理性の原初的な作用が左脳による辻褄合わせであるかも知れない。
 例えば言語統語構造そのものにもまたその辻褄合わせがある。それは言語中枢が左脳の側頭葉に存在することからも頷ける事態であろう。しかしその辻褄合わせをすること自体に対して他者が「あいつの言うことはどこかピントが外れている。」という感想を持たせるのは右脳であろう。つまりこの二つは相補的に人間社会の全ての言語活動にも、あるいは言語活動休止時間にも採用されている。しかし人間の時間感覚は一人で瞑想している時にも如何なく発揮されるが、言語行為自体にも内在している。例えば言語学では色々なアプローチ、例えば音韻論とか語用論とか形態論とか意味論とかによって角度を変えて考察されてきたが、それは専ら「語られたこと」を通してだった。しかし言語行為とは語られたことを「語ること」として受け止める話者の意志とか、「語りかけてくること」という風に解釈する聴者の意志とかを無視しては語れない。その意味では言語学にはやはり哲学が必要なのである。あるいは脳科学も必要であると言える。
 言語行為それ自体がメッセージ的なものであるとしたら、必然的に言語行為それ自体に内在する品詞転換とか文節化秩序とかにおいて心的作用の感情様相理論が持ち出されてきて然るべきであろう。だから左脳の論理的整合性操作能力そのものも、また深く感情レヴェルに関わっていると考えることは自然である。言語は他者にメッセージを円滑に伝えることを目的としていると同時に、自己内の思考を整理したりして、そのことを通して時間という秩序を生きることを納得する、それは左脳的な理屈で納得するのではなく、もっと深く生理的に呼吸しやすくするような形で納得することを目的としている。だから言語活動そのものを音韻論とか語用論とか、要するに言語秩序という語られた結果だけを見て判断してもそこには自ずと限界があるのだ。例えば辻褄合わせという心的事実は、そうしなければ生理的に悪い作用を心的に、あるいは内的に、脳判断的に感じるからである。してみれば辻褄合わせをしないままにしていると脳病理状態の人間でさえ居ても立ってもいられなくなるということなのだから、それは時間秩序を生きる人間の「納得」という事実と向き合わなくてはならないということになる。
 例えば人間が何かを性急に伝えなくてはならない時、慌てた口調になり、きちんと流暢には語れずに所々つっかえたり滑舌を滞らせたりすることそのものもまた時間秩序における使命、責任感に支配されていることの証拠である。また抑えつけた感情を内部に保持しながら会話していても自ずと抑えつけられた感情がどこかで表出するような口ぶりになることを完璧には抑制出来ないという事実こそ無意識と精神分析で呼んでいるものが、実は感情の抑制であるか、あるいは忘れたいと願っているのに忘れられないトラウマであるか、あるいはとるにたらない雑多な知覚記憶を多く抱え込んで現在を生きている(つまり過去の多くの知覚や感情の痕跡に支配されている)ということの精神医学からの解釈であることを物語っている。私は無意識の多くは記憶の痕跡の仕業であると考えている。そして往々にして覚えたいということに関しては歪曲されやすく、覚えたくはないことに関してはありありと記憶されるということもあるということだ。
 だから結果論的にはある人間の発言全体を支配するニュアンスにはその人間の感情を読み取ることのたやすい全体的な表情を発見することが出来る何らかのメッセージがあり、個々の文章とか発言のメッセージとかは実はそれほど大した意味があるわけでもないのだ。
 例えば眉間に皺を寄せて語っているのか、ぽかんとして表情で放心したように一言一言力なくただ単に呟いているのか、それとも慎重な面持ちで口を窄めてぼそぼそと語っているのかというような違いそのものが全体的メッセージに意味論的にも語用論的にも形態論的でも貢献することは言うまでもない。その発言が公言されて然るべき性質のものであるのか、秘密にしておかなくてはならないものであるのかというような違いそのものさえもがメッセージ全体を支配する。表情とはある意味ではその人間(発話主体の可能性を秘めた存在者としての)内的感情の表出であるが、それは感情自体が発話主体としての存在者の置かれた状況に対する反応であるということである。だから示された一個の表情とは即ちある状況に対する抵抗であり、従順であり、苦悩の告白であり、協調であり、賛同であり、違和感の表明であり、抵抗の偽装であり、従順の偽装であり、協調や賛同の偽装であり、違和感の表出の隠蔽である。あるいはそれはある強烈なる意識を伴って齎される行動への前哨戦であり起爆剤であり、理性の回復への欲求であり、理性のカモフラージュである。理性の回復への欲求には狼狽が前提されており、理性のカモフラージュには防衛本能が介在しており、その前提には他者からの威圧と軽視があるだろう。
 それらはフロイト的に言えば意識と無意識、あるいは超自我と前意識とエスということの、あるいは理性と野生の相関性そのものの招来である。招来されたそれらの表情は、招来する者を差し置いて他者の家を我が物として居つくのだ。それはレヴィナス的表現を借りれば、明らかに我々全ての人間が「顔の人質」になっていることの証拠である。
 例えば今ここで幾つかの発話例を挙げてみよう。

A 「かもね。」
B 「わけないか。」
C 「とんでもない。」

この三つはA=推量、B=絶対否定の確認、C=絶句といった様相で捉えられる。上記の三つは実はそれだけで発話主体の置かれた立場、つまり社会的な立場だが、より対他的な信頼性に依拠した発言として示されている。勿論これらが対他的な信頼性に依拠していないケースとしては、どれも「ある発言に対する諦念的な嘆息」、「ある発言に対する鸚鵡返し的な確認<その発言行為に対する諦念>」かに属するであろう。しかしいずれにせよ、この三つは明らかに対他的信頼性に依拠している場合には、会話の流れを全く異なった三つの方向に誘う。


↓ ↓ ↓    
A B C
↓↙ ←


      


 人間は言語活動において発話する時には、言語自体の力によってある発話がなされたことによってその後、それまでに語られてきた会話の流れを転換するのではなく、寧ろ会話の流れをそのまま続行させるのか、あるいは多少変更するのか、または全く異なった方向にシフトさせるのかというような、最後のタイプには恐らく会話続行拒否も含まれるのだが、要するにそういう会話全体のメッセージを構成する流れ(それは文脈ともまた違う。)を決定付けるためにこそある発話を選択するように脳が働くのだ。だからある会話がどんどんある方向へと淀みなく向うとしたら発話者同士の信頼性が円滑に作用し、成果ある会話であると言えるし、逆にさっきまで話していた会話内容に戻ったりしつつ、それでいてその反復自体が楽しいものではないのなら、無意味な時間の浪費ということになり、それは空しい時間の空費ということになる。そういう場合には相互に疲れているから、いかに親しい間柄でも、その時はそれ以上会話を続行しない方がよい場合もあるだろう。
 要するに会話全体のメッセージとは会話の流れに内在する全体的な志向性、要するに方向付けが可能な意図であり、それは発話の語調に漲る発話者の情熱と、関心の度合いが示された会話の表情という一種のニュアンスである。例えば何らかの会議とか討議とか、国会の予算委員会とかにおいて、社長とかCEOとか首相とかが、他の社員、役員、議員たちと会話している時、勿論その司会者の手腕も問われるのだが、予想外の内容へと進展していった場合、勿論それはポジティヴなケースとネガティヴなケースとがあるのだが、我々は通常事後的に「あああの時のあの人のああいう発言がきっかけだったですね。」と理解することが出来よう。事後的に振り返れば必ず一つの分岐点が見出される筈なのだ。誰の眼にも明らかな分岐点というものもあるが、案外よく注意して振り返らなくては、私が示した翻訳の方向性のずれと同様なかなかそうだとは分からない分岐点というものもあるのだ。これは医師が手術をしている時に予め調べたスキャン等で理解出来た部分と、オペで開いた時に初めて発覚する部分とのずれにも言えるだろう。オペ担当の医師は身体にメスを入れて初めて了解出来る病因というものが微細な部分ではあるだろう。それが空間的な分岐点である。それは例えばある機械が故障してそれを修理する技師によって発覚する故障の原因、あるコンピューターが作動不全を起こしてシステムエンジニアによって発覚するシステム不備においても言えることである。コンピューターの場合操作ミスということもあるからあながち空間的分岐点とも言い切れない部分があるが、会話などの場合には明らかな時間経過上での分岐点が確認出来る(テープ起こしなどをしているケースで)だろう。
 もし私たちの会話が只の事実報告だけであり、一切の感情的ニュアンスというものがないとしよう。するとその会話では只、事実報告の羅列となり、また只の報告陳述命令者と部下による忠実な報告の反復だけとなる。そこには人間同士の血の通った同意、総意、共感、協調、協力といったポジティヴな事態もなければ、逆に反発、批判、中傷、非難といったネガティヴな意思表示もない機械的な言葉の連続となる。我々は後者のネガティヴな空気でさえ、実は前者のポジティヴな空気に転化し得る可能性を秘めた事態と認識することが出来るのだ。つまり言語が真意を伝えることが、伝え合うことが出来るかどうかという価値判断とは、実はこのポジティヴであるかネガティヴであるかどうかという移ろいやすいある種の未来に対する不確定性に依拠しているのである。もし最初からかつての株主総会のような儀礼的な形式の踏襲であったのなら、それは予定調和的なものでしかないだろう。しかし少なくとも不確実な未来への不安が抱え込まれているのなら、どこかの国の元首に対して軍人やら側近が只命令に従って事実を報告し、只日常的な変わりなさを確認して拍手するような光景しか我々には目撃出来ないだろう。つまりここで簡単に定義しておくと意志伝達とか意思疎通においては真意伝達が可能であるかどうかということの基準とは、それが自己対他という二者による最も基本的なケースであろうと共同幻想的な多数の人間によるセッションであろうとも、未来に対する不確実性に慄く参加者全員の非予定調和な、息詰まるような緊張感、しかもそれは命令に対する服従の意志に感じられるそれではなく、どのような展開してゆくかどうか不透明でありながら、何らかの期待感の皆無ではないような場の雰囲気であるだろう。そのような場では恐らく参加者による内的な参加モティヴェーションが切り崩される危険性は小さいと見てよいだろう。その場の雰囲気というものがコミュニケーションの形骸化の危機を救う唯一の方策かも知れない。
 人類が言語獲得することとなった経緯ということは今更実際上確かめようがない。しかし幾つかの仮説を立てることは可能である。例えば言語哲学者の丸山圭三郎は「言葉と無意識」において、彼は人間だけが身体的なホメオスタシスに依拠しないでも身体を維持出来る人工的な手段を持ったのであり、それを逆ホメオスタシスと呼んでいるのだが、例えば冷暖房の工夫(それは近代以降のものではない。着衣の習慣も、火を使用する習慣も既に古くから執り行われていたのだから)がそれである。外気温度の方を自分たちの体温に調節するというわけである。そして結論的な視座として次のように述べている。
「人間があごと歯が退化したために食物を煮炊きして食べ易くしたのでもなければ、足が萎えたために乗り物を開発したのでもない。むしろその逆であって、衣服をまとった原始人は体温の自動調節がきかなくなって寒さを覚えるようになり、歩くことを忘れた現代人の足から土踏まずが失われたのではなかったか。」(「言葉と無意識」講談社現代文庫版、172~173ページより)
 この箇所はしかし、丸山がある意味では彼が当時一世を風靡した記号論的解釈であるところの文化的フェティシズムを力説したいがためにこじつけたとしか思えない仮説であると思われる。つまりこういうことである。人間は実際自然人類学的見地から言えば、四足歩行から解放されて(森林の樹上生活になっていった人類の祖先の生活形態によって)、蹲る恰好で生活することから解放されたのと、頭を地面に近い距離に保ちながら跳躍する時に頭にかかる過大な負担から軽減されて、顎の構造を頑丈なものとして維持することに費やされるエネルギーを軽減することが出来、その分脳の大きさが増してゆくことを可能にする余地が生まれたことによって、口そのものも脳を保護したりすることに費やされる必要もなくなり、その結果意志伝達の細かいニュアンスを表現する工夫に智慧を使う余地も生まれた。そして顎の頑丈さが弱体化したことと脳が巨大化した結果として今度はその脳を使って火で食物を炙ることを発見したというわけである。そのことと歩くことを忘れた現代人が土踏まずが退化したこととを結びつけることは論理の飛躍である。現代の諸問題と人類の祖先の問題は切り離して考えるべきである。また着衣の習慣そのものは体温調節が利かなくなった結果であるか、それとも彼の主張するように衣服を発明したために自動調節が利かなくなったかという問題は、そのどちらでもないというところが真実だったのではないだろうか?つまり人間は確かにドーキンス的に言えば延長された表現型としてミームを保持することとなったのだから、その意味では丸山の主張するような記号論的解釈も成り立つし、それはある一面は言い当てている。しかし彼等は総じて文化的フェティシズムの人間本能の弱化という局面を強調し過ぎたきらいがあるのだ。恐らく事実は彼等の主張と、従来通りの主張の中間辺りではなかったかというのが順当な判断というものであろう。しかし大切なこととは言語獲得はそういった一切の過程においてなされていったであろうという仮説がどれほど信憑性があるか、である。
 そのことを考える上で意思疎通とか意志伝達ということは「あるもの」として、あるいは「与えられた機会」としてそこに存在するような手段ではなかっただろう、ということである。つまり意思疎通とは対他的な攻撃欲求とその解除という必要性の認識の過程において、徐々に秩序立てられて行ったと考えることの方に説得力がある。本来攻撃的欲求というものは同種の動物同士が何らかの対他個体攻撃の必要性のない内は生じ得ようもないし、また攻撃欲求の沈静化という必要性も全くその攻撃欲求の進化過程において事後的に認識され得る必要性が生じるものである筈だ。すると我々の祖先は平安な状態を打破するような対他的攻撃欲求が脳の巨大化に伴って生じ、そのために種の絶滅自体を回避する必要性から言語によって対他的に相互の利益追求をしつつ、相互の攻撃を回避する智慧を生じさせるという事態に至ったと考えることの方が説得力がある。だが実際上見知らぬ他個体に対して自己という意識を生じさせつつあった我々の祖先は、当初は不安に陥れられたであろう。それはそうであろう。もし意志伝達する意志を告げようとしているその攻撃が沈静化された状態で他個体から攻撃を仕掛けられていたら命の保障はなかったろうからである。その意味では他者を一先ず信頼することの姿勢を示すことは不安を伴う。しかしもしあるコミュニケーション意図をこちらから仕掛けて、その返答として向こうがこちらと同一の意図を保持していることを確認出来たのなら、即座に相互に保有されていた不安は期待に転化し得る可能性が高い。要するに相互の意志伝達欲求という真意表明性の確認という事態こそが、対他的な真意表明の場の所有という事実を相互に確認し得ることとなったのである。つまり端的に言えば当初相互に抱いていた不安という事態が期待に転化し得る可能性とは対他的真意表明意図の相互確認、つまり相互意図の理解に比例して大きくなるということである。
 ある意味ではどのような信頼性に裏打ちされている意思疎通であっても、それは本質的に思惑と思惑のぶつかり合いである。それは自己利益の獲得を目論む相互に利害対立的な折衝以外の何物でもない。それだからこそそのような利己的な真意の表出を偽装することをなくなすことの誠実性がより求められるという事態は、実は相互に無駄な攻撃的行動を回避したいという欲求に根差すものである。

 ところで話は変わるが、私は以前から人間の女性が妊娠出産することに伴う激痛という事実にある疑問を投げかけてきた。例えば人間は出産することで味わう苦痛がもう少しでも軽減されていればもっと自然選択的見地からは我々は楽に生存出来たのではないか、と言うことである。人間は産道が腰骨に囲まれた狭いエリアから生まれてくる。そのことを回避させるには人工的な帝王切開しか方法はない。つまり自然選択において人間が獲得した形質としてお産に際して敢えて狭い通路を選んでいるということなのだ。このことは生物学者のジョージ・ウィリアムズも指摘している。しかしこのことをこう考えてみてはどうだろう。つまり人間は極端に脳を巨大化させた。その結果対他個体攻撃欲求というものもまた他の動物以上に進化させているのだ。そこで生存するということがいかに貴重な事実であるかということを認識させるためにもお産がそう快適に執り行われないように仕向ける自然選択が働いたという風に解釈するのである。尤もこの考え方は別に私の発案ではない。多くの生物学者の考えるところである。それは要するに、人間が他の動物以上に出産に苦痛を伴うような身体構造と、そのことに対して自覚的なデリケートな神経を捨て去ることなく生存しているとしたら、それは生まれてきた個体を大切に育て、外部の敵の攻撃から身を尽くして守るという観念を生じやすくするために自然が生存の貴重さを教訓として脳が判断しやすくするために態々狭い産道を通って赤ん坊が生まれてくるシステムを自然が採用したのだ、という考えである。つまり赤ん坊を育てる側が大切に赤ん坊を扱う(これだけ大変な思いをして生んだのだから)という観念を持つということは、敵対する側の個体に対しても、たとえ敵対する者に対しても、敵にとってそれほどまでに大切な存在を邪険にすることは結局自分の側の損失に繋がるだろうという思惑を敵対者にも付与することになるのである。敵は敵なりに紳士的な振る舞いが最低限求められるというわけだ。
 この自然選択に伴う個体間での必然的な心理に対する考え方は即座に人間の意思疎通上行う対話の際に発話者同士が持つある「構え」の問題に移行させることが可能である。通常我々は対話する時最初からあらゆる双方でのコンセンサスが成立しているのなら対話の必要性はあるまい。つまり対話の存在理由とは、親しい気心の知れた友とか、同一の目的に向って邁進中の同僚同士の休み時間の挨拶的会話以上の「敢えてする意味」を持っている。そしてその対話者同士は相手がどう出るか、自分の言う意見に賛同するかどうかは不透明である部分が必ず対話前にはあるものである。それが先述した不安というものの正体である。しかしその対話の存在理由が明確化されればされるほど我々は「構え」の性格を対他的な懐疑から徐々に、真意表出対象としての信頼性へと移行させてゆくのだ。その際にも完全に自己の側の意見と一致しているわけではないのだから必ずしも全面的な自己防衛の解除に踏み切るわけではないのだから、当然のことながら「構え」は保持したままである。しかし当初の「構え」はその真意表出可能性の認識獲得後では、明らかに友好的な態度へと転換している筈である。だから当然発話される際の相互の言辞にはレトリカルな工夫は減少しているだろう。つまりレトリカルな論理的工作というものは対他的攻撃欲求を全面的には解除しておらず、また自己防衛心を歴然とある「構え」として構成させている内には、依然採用されやすいという傾向がある。
 例えば論理学では「逆」ということの他に「対偶」という事態が想定される。しかし逆であることである内は理解度を全ての他者に対して発話(発語行為)では説得力を持つが、対偶となると、レトリカルな印象を発話においては他者に与えてしまう。だから数学とか論理学上の認識ではレトリックではないこれらの概念は、日常的発話行為においては、他者の能力とか他者の認識力に対する懐疑を抱く場合にのみ採用される、ある意味では他者に対する信頼性の著しく欠如した状態での使用ということになる。このことは私が既に示したAからCのニュアンス表現の心的作用とも関係があるので詳しく論じてみよう。
 我々は意思疎通では真意を告げることの可能性を特定の他者に対して向けられた眼差しから探る。しかしその際に語られることは、そういった発話者の内的なモティヴェーションそのものとは無縁に、意味作用的顕現としてそれ自体が真理を志向する。つまり真意を表明する可能性を見出しつつ、我々は自己の真意を意思疎通において知るわけだが、その内的な目論見と、語られたこととして顕現された世界としての我々の陳述内容は、それ自体自立した意味作用の顕現であり、それは真理を常に基準に説得力を持つものである。だから内的事情とか内的動機といったことと無縁に成立する語作用そのものは、ディタッチメントとしての真理値としてのみ発話者の目前にいる聴者、つまり発話する時の相手には受け取られることとなる。この内的な意思疎通の動機と外的に示された態度との間の齟齬は、発話行為を続行させ続ける時に、幾分自己の側にも他者の側にも、ある種の諦念を与える。真意を伝えることが出来るかどうかという言語行為の問題は、だから発話者の内的理解とか、内的事情とは相互に完全理解とは不可能である、というもう一つの真理を見出すためにのみ言語活動があるのだ、という理解に至るのだ。だから表情というものは、その齟齬に対して出来るだけ距離を心理的にだけでも縮める作用として機能するが、それは必ずしも話者の真意であるとは限らない。そう意図して表情を彼が作っているわけではないからだ。だからこそ言語活動において発話行為、発語行為というものは相互理解という共同幻想によって成立していることが了解されよう。それは話者同士のアンタッチャブルな相互の自己領域の干渉を控えることの宣言として会話、対話が機能していることの証拠である。完全理解ということの幻想性を我々は理解し、「それでよいのだ。」という認識を相互に確認することそのものがコミュニケーションである。
 もし我々が完璧なる完全相互理解を求めるのなら、我々は言語行為においてA、B、Cで示したような会話の分岐点などない方がよほどましである。会話とは完全理解が他者相互に獲得されているのなら成立しないし、もしそういう場合会話ではAもBもCもその弁別された分岐という事態自体も成立しない。そもそも会話をする必要を消去するためにのみ完全相互理解という考え方が成立しているからである。勿論完全理解とは一つの幻想である。だからと言って我々は全く何事も理解し合えないのだ、というニヒリズムに陥る必要もない。常にどのような会話、対話においてさえ部分的な相互理解というものは成立しているのだから。そもそも会話とか対話とかは相互の関心重複領域が存在しなければ成立し得ようもない。それはコミュニケーションを成立させる場である。
 言語が真意を伝えることが出来るかと我々が問うのは、ある意味では西欧人にも我々が理解するような無とか空が理解出来るのだろうか、と我々が考えることと同じことである。もしそれらが全人類普遍に共有し合える理解を得られるものであるなら、そこに我々はある光を見出すことになる。そういうものとして我々が日常で行う意思疎通が考えられるなら、言語活動としての言語行為は果たして伝達したい内容をあますところなく伝達される内容として自己から他者に、自己の意図と要求に沿った形で伝達されるのかどうかということへの問いなのだろうか?対話とは幾分齟齬を埋めようとする格闘のように思えることもある。例えばブーバーとロジャースの対話にはそういう要素を我々は読み取れる。しかし齟齬とは対話することによって見出されるものでもあるのだ。つまり自分では対話する他者が「そういうことは理解して貰えないに違いない」としていたものが意外と容易に理解され、逆に「そういうことならきっと容易に理解して貰えるに違いない」としていたものとは予想外に容易に理解を得られないもののことが多い、というのが対話での実情である。だからと言って我々は自己の意図や要求が伝えられたからと言って、対話が成功するとは限らないのも知っている。あるいは真意が伝えられる必要性だけが前提されているのだから、寧ろ内容の伝達をなすということである意味では目的だけは達せられたと考えるべきなのか?だがそれだけでは十分条件を満たしはしないだろう。我々はあくまで内容の伝達が相互に意味ある行為として認識されることを望んでいるからだ。
 通常ビジネスシーンでは真意を伝え合うことは至上命題ではない。寧ろビジネス対話では真意よりも目的の方が先行しており、それを遂行することの方に比重がかけられている。だから目的の前では真意は寧ろ隠蔽されてさえいる。真意とは目的の前では二の次である。真意をカモフラージュして臨むというわけでもないし、それは恐らく通り一遍の真意が誰にでもあるのだから、そのことに対する表明は割愛しようという相互の了解に基づく。要するに「問う」ということに纏わる面倒を回避するのがビジネスの礼儀である。相互の目的と見なされる事態への展開そのものが相互の利益であるべきであるという了解がビジネスの鉄則である。だからこそビジネスのルティンワークというものは、その仕方の踏襲という事実がビジネスマン相互の真意であると言っても差し支えない。だから通常ビジネスでは無意識はご法度である。ビジネスでの誠実とは無意識を排除することである。確かにそれでも尚我々はビジネス総体からは無意識をも読み取ることも可能だが、それは結果論でしか採用されない見方である。ビジネス上での誠実とは相互に認め合えるようなルティンワークである。そのルティンワークの自発的遂行と、その相互の認可こそがビジネスの真意である。だが同時に真意をビジネスの目的に合致させたことだけで全てのビジネスが巧くゆくものなのだろうか?建前だけで全てのビジネスにかかわる人々は了解し合えるのだろうか?その意味では総体俯瞰的に無意識レヴェルからビジネス自体を考え直してみるべきなのではないだろうか?
 個人的真意という奴はビジネス上での責任倫理においては隠蔽されるべきものであるが、商慣行だけによって我々はビジネスをしているわけでもあるまい。実はこの部分、陳腐な言い方を許して頂けるのなら、生き甲斐が自己内で確立していないビジネスではたとえビジネス上で目的を達成出来ても、我々はそれを成功と呼べるのだろうか、というディレンマこそ人間がビジネスに対して抱く当のものなのだ。それは恐らくビジネスシーンだけではなく、ファミリーシーンにおいても抱くものなのではないだろうか?子供がいて、健康に成長し、相互に理解し合える家庭という奴は理想像として言われるが、それだけではないだろうと我々は考える。価値という奴は一律に規定し得るような単純な真理ではない。
 一体我々が抱く真意とはどういうものなのだろうか、という問いなしに真意とは見出せるものでもない。真意は目的とも、理想値として与えられたものとも違う。何かを真意として何らかの行為をなすとしよう。しかしその行為は恐らく別の違った真意を極力排除して臨むということではないだろうか?我々は精神分析という行為もそれなりに知っている。我々はフロイトが言う無意識も、ベルグソンが言う意識も共に彼等の真意であり、同時に論理構築のための形式的基準であることを知っている。彼等がそういった論理で臨んだということは、それ自体で真意に論理を一致させていたということと、論理構築のために真意を導き出したということである。
 例えば我々は身内だからこそ真意を語り得るという事態もあるし、同時に赤の他人だからこそ相手に何もかも語り得るという事態もあることを知っている。我々は自己の真意とかある瞬間における本意が一つではないことを知っている。たとえどんなに信頼の置ける他者であっても、尚その他者に全てを告白することは出来ない、と感じるし、またそうすべきでもないだろう。だからこそ息子や、娘になら語れることもあるし、通りすがりの他人になら容易に語れることもあるのである。だから我々は愛する家族に囲まれながら自己真意に隙間風を感じる人間がいても別段不思議にも思わないし、また生涯「天涯孤独」である人間だけを不幸であるとも決め付けられないでいることを知っている。形ばかりは愛し合う像を周囲に提供する家族が、その偽装的な鬱憤を多数のそこそこ親しい友人に対しての交際で晴らしているという現実は、現代では珍しくはない。しかしその者が、では一人家族なしに生活することを選び得るのかと問えば、それも出来ないということの方が実際だろう。要するにビジネスであれ、家庭であれ、自己内の目的も、相互の目的も、自己内の真意も、相互の真意も一律なものではない、ということが真理なのかも知れない。だから逆に形式的慣行という事態にもまた一律には決め付けられないある幅のようなものが与えられて然るべきであろう。だが同時に真理を多様なものと規定するわけにも我々にはいかないところがあるのである。真偽という基準は内的にも外的にも真理という絶対基準に沿ったものであると通常我々は考える。しかし真偽の設定基準そのものは、つまり何を真となし、何を偽となすかという評定基準そのものは恣意的なものでしかない。そのことに対して自覚的な場合のみ我々は超越論的主観性に対して自覚的であると言えよう。
 例えば無意識ということを考えてみよう。しかし通常我々は何か意図的ではない事態を全てこの無意識に押し込めがちであるが、この意図的ならざる事態は際めて多様であることが了解される。例えば殆ど考えずに行動する場合、我々は意図が一々外部に意識的に持ち出されなくても済むような「分かりきったこと」として処理しているのだから、これは日常的な大まかな真意が重層化され、それを意図するような意識レヴェルにまで持ち込む必要性がない状態に、それらを追いやっているわけであるから、当然のことながらそれらは自動的な行動と言ってよい。それに対して意図的でなければならないことというのは、非意図的であることに対してある種の潔さを感じられないという事態なのだから、それらは総じて反省的な決意である。反省という事態にはある意味では制度というものが圧し掛かっている。ある行為Aが自覚的であり、意図的であることの裏にはその行為ならざる別のもう一つの行為があり、それを価値規範的に思わしくないものとして排除しているという心的な作用がある。それをフロイト的に超自我と呼んでも構わないが、もっと単純に考えてもよい。つまり行為Aを正当化するのには、別の行為Bを疎ましいものと規定する判定基準があるということであり、それを意識的に忌避しているということである。それは無意識にそうしている場合もあるのかも知れないが、敢えてそれを論理的に説明するのも疎ましいという思いが先行しているだけであり、概して忌避すべき対象としての行為とは、明確に意識し得るものの方がずっと多いということである。別の行為を忌避することによって成立している行為Aは、だから一面ではそのように意識的に、自覚的に自己を戒めなければ陥りやすい行為Bに隣接しているという意味では極めて危うい均衡の上に成立しているものであり、寧ろ行為Bの方にこそ接近しやすさが潜んでおり、それは得てして口には出さないように皆が心掛けているのにもかかわらず魅力的な行為でもあるということである。つまり無意識という事態の実はかなり多くがこのように取り付かれやすい魅力的行為なのであり、その魅力的行為に対する無意識の内の拘泥を避けるためにこそ、敢えて意図的な行為が、つまり敢えて意識的に価値規範の範疇に取り込むべき行為というものが存在し得るのであり、非意図的であるがために陥りやすい魅力的な愚行を敢えて避けることが、賢明であるという判断に基づいているということなのである。
 精神分析で無意識をことほどさように採りあげる必要性とは、言い換えれば人間が陥りやすい魅力とは、敢えて意図的に避けるように心掛ける必要があるということが制度とか、安定に必要であるという自覚に常に我々が脅迫されているということをも物語っているのである。
 例えば無限という観念にもそういう一面がある。事実上人間社会というものには自ずと限界がある。それは我々が子孫を儲け、永遠の生の持続を望むのとは裏腹に人類もいつかは絶滅する。それにもかかわらず、例えば個体に死の永遠なる死後の世界があるかのように思惟すること自体に無限に対する思念には魅力があるということを意味する。カントは無限ということを考えた。クリプキがプラスに対してクワスという概念で、擬似理解ということを考えた時、理解していた今迄のシステムは、決して理解して我々が遂行していたのではなく、慣用的にそこに疑いを差し挟まないでいたということでしかないのだ、という主張があり、それは擬似理解にしか過ぎないということである。しかし擬似理解ということの主張はそれ自体で完全理解という事態を既に想定している。しかし完全理解ということ自体に潜む欺瞞性に我々が着目する時、どこかで我々は理解し得る領域の設定という不可避的事態に遭遇する。理解する必要などないではないか、とその時誰かが叫べば事態は更に一変するだろう。つまり理解領域設定という事態は、そう望む我々の欲求を表しているに過ぎない。それは欲求自体が無限に永続する、しかもその様相は瞬間毎に変わり得るし、様相変化に対応すべく設定される基準も無限に存在するかに思われる。実はそこに落とし穴があるのだ。状況即応型の変化対応という心的作用は、案外システマティックに慣用されている慣習性に依拠しがちである。しかしその瞬間毎の微細な変化対応に無限を感じる我々の思惟の在り方自体が問題とされねばならないのだ。
 その意味ではクリプキモデルとは、人間の説明欲求の無限性、と言うより無限なものとして理解したい欲求、それは不可避的思惟傾向なのだが、その事実に照明を当てているのだ。彼の考えた例は数学的言明なのだが、そしてそれは数学に限らず全ての日常的局面でも適用可能な普遍的事実でもあるのだが、それは無限設定という事態に最も顕著に現われた我々の思惟傾向である。
 例えば空間自体、あるいは宇宙自体は無限ではないかも知れない。ただ我々は思惟の上では無限という観念を容易に導き得るだけだ。だがそもそも無限という観念は空間にせよ、時間にせよいつまでも永続すると考える我々の思惟傾向を象徴しているだけのことである。
 例えば数学や哲学という学問自体が逆に無限という観念を我々の思惟傾向の必然的な因果律的思考連鎖の成れの果てとして設定させたものだけかも知れないのだ。そもそもそれは確認のしようもないし、仮にそんなものはないとしたところでそれを証明する術がないのだから、ある意味では不可知という自体を対象化した我々の便利な言い訳でしかないとも言えるのだ。論理的な無限後退とか、カントが唱えたような背進という概念は、総じて我々の思惟傾向を表しているのである。
 例えば我々が胎児だった頃記憶していたことは生まれてくる時の衝撃力によって大方は忘却されるだろう。そして赤ん坊の頃の些細な記憶もじきに忘れ去られてゆくし、つまり我々の記憶は今現在の意識を設定するために刻々過去の映像や経験を忘却してゆく必要性を前提している。一見無限に思われる記憶の層での無意識も、実際は現在の意識や、未来への決意や、行動への意志といった事態によって刻々自動的行動採用レヴェルでの、非意図性に組み入れられ、意図的な事態としてはどうでもよい忘却事実と化す。記憶というものは忘却されつつ、部分的に痕跡として現在に蘇らせる程度の、現在意識と意志の最優先主義的な決断のエキストラでしかないのだ。しかしエキストラの持つ多大なエネルギーを現在は尊重している。だからこそ想起とか回想とか追想といった事態が招聘されるのだ。
 我々がある時ひょんなことから以前にあった事実とか映像的クオリアを感知するのは、寧ろそれらの一切を記憶しているからではなく、痕跡として印象的であったことだけを記憶にとどめおいているからに他ならない。ある種の記憶のフラッシュバックとは、要するに我々の現在意識の中から過去に見て、聞いた何かを思い出すことで、未来に対する意志とか決意を促すように知らず知らずに我々がセレンディップな発見をしているということである。
 無意識という考え方とは精神分析によって病理メカニズムの解明に一役買っていた。しかし無意識が記憶の選択とか、過去体験の痕跡として感得されるものの、綜合的な解釈であるなら、重要なこととは知らず知らずに今現在でさえ、記憶として留めておくことと、そうではなく忘却してゆくことを常に選択しているという事実の方である。だから能力の限界という事実があるのだから、余計に我々は次のように我々自身の思惟の傾向を規定する。つまり無限とは有限性に対する諦念が産む観念である、ということである。無限という考え方とはある意味では零よりは重要である。零の発見はもしなされ得なかったとしても尚、無にとって変わられる可能性がある。しかし無とは無限をも含む観念である。無限とは有に対して有の持続という無を地とした図の観念である。だから我々が無限と何かに対して言う時、我々は無限の真理をどこかで前提にしている。それは有の無限連鎖という考え方である。しかも有の不可知的な無限連鎖という認識は、超越的思惟へと我々を誘う。そもそも神なる概念とは、無限性に対する具体的把握をなし得ない我々に代わって一瞬にて容易に遂行する完全無欠の能力のことである。その超越的能力に対する想定において、我々は自然に対して感謝の念を捧げ、憧れの感情を生み、時として何らかの崇拝心を育ててきたのである。
 人生に目的なるものがあるとすれば、我々はそれを見出そうとするだろう。そこには価値システム論的に唯一の真理があるかの如く考える。それは只の錯覚かも知れない。しかしそれは追い求める価値のある事柄であると我々に思わせる。唯一の真理がもしあるとするなら、それは人生全体の私という人間の究極的な真意であるだろう。すると私が感じる瞬間瞬間の思惟とか思念とかは、その究極的な真意に向けられてその時々に発せられる一つの目的のための方便であるということになる。それらは言ってみれば部分的な条件反射的反応である。すると人生において唯一の価値であり、唯一の自由であり、唯一の真理であるための真意とは要するに私の自己同一性としての不動の価値であるだろう。それは自我を支えるものだと言い換えてもよい。フロイト的に言えば自己保存欲動というものでもあるだろう。それは主体を形成する当のものなのだ。その時私は私の生を身体生理学的な意味でも精神生理学的な意味でも私の望むものと、私が望まれるものの一致を見出すだろう。 
 だからこそあらゆるコミュニケーションというものには、そのコミュニケーションを成立させる基盤なり、条件というものがあり、それらはその都度異なった成立状況、背景を持っている。そうした個々の差異性に彩られた個々のコミュニケーションをその都度支えるものは私が私であると信じているという事実である。私は私の事実なのだ。それを私の価値規範に基づいた自己真意であるとしよう。すると私は私を私として成立させる自然とか社会とか共同体とか、要するに自然の事物や他者たちによって私を私として容認するように私を取り巻く現実において私がその都度彼等と交信することを可能にする私の世界という事実であり、私の世界に対する事実である。私は私を認知するものの全てを私の事実として、私の世界の事実として、私の世界に対する事実として認識するのだ。私はその私の(世界的)事実なしには生きてゆくことが出来ない。それは自然の私の身体に対する働きかけであり、他者の私の生存に対する返答であり、私の行為はそれらに対する認識と方策の宣言であり、発話することはその一つの意思表示である。
 確かにコミュニケーションとはその都度の内容にあらゆる自我はカモフラージュされている。内容の伝達こそがコミュニケーションの存在理由となって立ちはだかっている。しかしその存在理由を育むものとは私の事実であり、私の世界の事実であり、私の世界に対する事実である。それは同時に自然の事実であり、自然の世界を構成する事実であり、自然の私に対する事実であり、それらは他者の事実であり、他者の世界の事実であり、他者の世界に対する事実でもある。私が私の真意を根底から覆すことが出来るのは私の自殺のみである。私の自殺は私の身体生理的事実の自己保存欲動に対する放棄以外の何物でもない。勿論私は私の考えとか私の信念を永続させるための最後の手段として自殺も可能性としては保持しておく自由がある。しかしそれは私が私の事実を放棄することによってしか為し得ないていのものである。私は私の事実によってのみ私の考えの永続を望むのだ。だからもし私に唯一の真意があるのなら、それは私の日常的な真意ではないだろう。真理は常に唯一ではない。にもかかわらず私が私の唯一の真理を求めるのなら、それは世界にとって絶対的なものではないだろう。私の事実が私の世界なら、寧ろ絶対的普遍的な世界という認識を捨てねばなるまい。しかし実際上は、私の事実としての世界以外の如何なる世界も、実は私と私にとっての他者と自然全体に対して私が抱く幻想でしかないのである。世界にとって絶対であるという事実などないのだ。世界は私を離れてはあり得ないのだから。
 私にとって唯一であることとは、私を離れて絶対なことではないが、私にとっても絶対ではないだろう。私にとって私の唯一の真意とはその場その時で変化するが、それら全てを通して私が実感する真意である。それは私にとっても相対的なものであるが、不明確なものでは決してない。それらはいたって常に明確である。私は私の多様な感情の、私の身体生理の様相なのだ。私はそれらを相対性であるとは言い切れないのだが、絶対ではない。しかし私の事実は私にとって確かなのだ。それは私が抱く幻想であってもだ。
 ウィトゲンシュタインは真理という言葉をやはり他の哲学者同様使用したが、レヴィナスが日常的な思惟の哲学者であったような意味で、やはり日常的思惟の探求者であった。ウィトゲンシュタインは神を規定することはなかったし、声高に神の存在を示そうともしなかったが、神をエポケーしようともしなかった。しかしレヴィナスのように神に対して敬虔ではなかったとも言えない。例えばレヴィナスは明らかに神を日常の自己の思惟に降りてくるものとして捉えている。レヴィナスは神を無限の別名として使用している。だから有限者であるところの人間を主役にすることで、神の無限性を異質なものとして捉えている。それらはある時は高揚するような意識を支えるものでありながら、ある時は意識から排除しなくてはならないものでもあるのだ。ウィトゲンシュタインは神を否定しもしなければ賛美もしなかったが、彼にとって自己の判断そのものが異質なものであり(異質であっても病理的にではないが)、自己の真意の唯一性に対して問いかける可能性の存在として常に胸中から去ることのない存在であり続けたように思う。
 しかし彼等の哲学の主張それ自体は神を積極的に肯定しようが、否定しないでおこうが、それを哲学として受け止める読者にとって内的に概念的にも、感情論的レヴェルででも存在する神と対比して考えることを強いる。それは必ずしも彼等が神を語ったり、否定することなく神の存在についての考察を保留したりすることによって彼等が目論んだ通りの出来事ではないだろう。寧ろ何ら予想もつかない彼等のテクストに対する反応である。しかしそれでよいのだ。その予想通りではないという事態こそがテクストを発表する意味がある。発話する意味があるのだ。
 
 言語活動の必要性というものはたとえ一軒の山小屋に一年の大半を過ごすような生活スタイルの人間においてさえ重要な思考回路の提供を齎している。自給自足生活者にとって自問自答という思考スタイルそのものは言語思考という脳内の活動に支えられている。あるいは誰からも援助を受けず生存そのものに対して危機を感じている瀕死の者が抱く内的な感情、例えば神に縋るような心的様相そのものさえ、言語思考というものと離れては為され得ないものだ。そもそも神という概念そのものは集団的思惟であれ、個人的思惟であれ言語から離れては存在し得ない。
 もし言語活動そのものが内的感情の他者に対する表出にあったとするなら、統語秩序、文法、音韻規則といった形式的基準といったものはある意味では感情的ニュアンスを和らげるために存在しているとさえ言える。言語学者のイェスペルセンは形態論を、形式から意味を探る試みとして、統語論を意味から形式を探る試みとして捉えている。しかしそのいずれの回路で言語行為を考察しようが重要なこととは次の一点である。それは彼が言うように発話者は内面から外面へと言語行為として内的意志伝達意欲を形式化するのに対し、聴者は外面的に示された言語行為事実を形式として受け止めながら、自己の内面において自己内の理解意志に基づいて自己感情として受け止めるのだ。この際話者は自己真意の表出をしようと試みながらも、相互理解へと言及事項が達するために、一回自己真意を抑制しているということだ。それは聴者が理解する言及事項が必ずしも全面的に話者の感情と一致するわけではないということを話者も、聴者も了解合っているということと関係がある。つまりここに相互理解のための真理値というものが必要となってくる。誰しも自分が語る事実とか事実に対する内的感情の報告を話者当人が感じた様相そのままに他者から理解されるとは思っていない。しかし同時に話者の説明意図から著しく乖離した状況として他者が思い違いをして納得することを話者となる者は誰しも望みはしない。そこでここまで理解して貰えれば全面的理解にまでは行かなくても満足するという値がある筈である。そしてそこに達していれば相互に納得し合い、そうでなければ説明し直すということである。ということは逆に意志伝達としての対話において話者同士は他者の真意を必ずしも全面的には理解し合いたいとは望んでいないということになる。真意の表出性そのものが新鮮なのはある意味では長期間に渡って一切人間と会話しない状況を持った者にとってであって、それはしかし相互にそういう状況の場合なら、人と合って話すという状況そのものが新鮮なのだから可能性として成立し得るも、逆にそういう状況で生活していた者が一方だけである場合には、それを聞く者にとっては甚だ迷惑な話であるということになる。
 人類は語彙数が増加するに連れ、真意の表出性から徐々に意味伝達性へと言語行為の存在理由を転化させてきたとも言えるのだ。だからこそどのような自己感情的真意表出を目的として随分長い期間人と合っていなかった者同士の対話でさえ、真意表出の生々しさを和らげるクッションとして統語秩序、文法、伝達内容の意味というものが存在しているのである。ある意味で意志伝達し合うだけが新鮮な者同士は抱擁し合ったり、発話意図を示し合うだけで楽しいと言えよう。そういう場合伝達意図の内容とか意味とかはあまり大した意味はない。しかしそれはそういう特殊な状況下での者同士の対話に限られるのだ。だから我々はイェスペルセンの主張するような意味で形態論から統語論へと考察優位性を転換しなくてはならない。つまり統語秩序が形態論的に捉えて、ただ単に真意表出の直接性を緩和する意味合いからだけではなく、伝達事項の意味内容の存在意義について深く考察することで、対話のモティヴェーションを考えてゆく必要性が生じてくるのである。
 人類が語彙数を増加させてきたことの第一の根拠とは、伝達事項の意味内容の充実という事態が最も順当である。それは社会的制度、法的秩序の形成に伴って必然的に語彙数を、意味内容の様相的多様性への自覚に伴って実践してきた、ということに他ならない。それは生活レヴェルでの意識の向上と共に対話すること自体の必然性と、存在理由の進化と深化を表している。意志伝達事実の確認がコミュニケーションの第一のモティヴェーションであるのは、個人的にも集団的にも極初期に限定されるだろう。どのような意思疎通においてもやがて伝達事項の伝達モティヴェーション、つまりどのような伝達内容を、どのような他者に対してなすのかという選択基準が重要となってくるのだ。
 だから言い換えれば、我々が意思疎通上で相互の真意を模索したりするのは、ある意味ではコミュニケーションが集団論的にも、個人的にも、あるいは人類史的にも、極初期の意志伝達事実確認の喜びの表明という初期状態をとうの昔に脱しているという事実に対する郷愁そのものが、伝達意味内容の確認という常套性に対する意義申し込みをしているに過ぎないということになる。その初期状態に対する見直しということの重要性は本章の最後に譲り、まず伝達事項の意味内容の獲得に関して考察することとしよう。
 纏めておくと、コミュニケーションの進化過程においては、相互感情表出の確認と、対話成立の確認から、徐々に伝達事項の意味内容的機能の認識、その意味内容伝達の事実に対する目的論的実践という事態へと重要性が移行してゆくということである。

 ここで表情を伴った言語活動そのものの具体的な例を挙げて考えてみよう。
 極基本的感覚、気持ちいいとか、気分が爽快だとか、逆に気持ち悪いとか気分が優れないとか、頭痛がして気分が悪いとか、腰が痛いとか、そういう場合我々は表情をその状態に即した形で表情筋の変化を伴いつつ自動的に外面的に示す。それはそのような表情を示すことを意図的にしているわけではなく、条件反射的にそうしている。だから我々がそのような表情を一人でいる時にも浮かべているとしたら、その表情が示すところの精神的状態には嘘はない。例えばそのようなことはビルの個室にいる人間の表情を望遠鏡で覗いたりした時に確かめることは出来るが、通常そのような状況で他人の表情を垣間見ることは出来ない。だが電車の椅子に座っている乗客の表情を何気なく見て、その人間が精神的に格別苦境にはいないだろう、あの人は普通の状態であるくらいのことは我々にも理解出来るだろう。
 しかし感情表出というものは敵対する者に接する時とか、個人的感情を表出することを通常は差し控えるべき場合には隠蔽されることが多いだろう。例えば重要な会議とか、プレゼンとか、ホテルの従業員が職務中に客に応対する時などは明らかに個人的感情は抑制されている。要するに職務上の事項の優先(これをしなくてはならないとかこれをしてはならないという責務に関心が集中しているからである。)が個人生活上のあらゆる感情表出を抑制しているわけだ。しかしこのような職務中の責務的表情ではなくても、身内以外の人、あるいはそれほど親しくはない人と話している時には我々は少なからず気心の知れた友人とか家族と一緒にいる時以外なら多少の偽装表情を取り繕うものである。
 嬉しいとか楽しいとか、不愉快だとか、腹が立つといった所謂精神的な感情表出というものは、実は身体の健康状態以外では、殆どが対人的な意思疎通の際に立ち現われるものなのだ。だからどのような親しくはない他人に接している時にも、その他者があまりにも傍若無人な態度を自己に採り続けるのなら、必要最低限の攻撃的欲求に対する抑制の解除を権利要求として個人的な感情表出を少しだけ示すことは相互に認め合うことが社会でのマナーとなっていることは認めなくてはならない。そしてそういった他者に対してその態度の採り方において認められないことに対する拒絶とは親近度に応じて、あるいはその他者への信頼度に応じて直裁なものになる傾向があるというのもまた極自然な成り行きであろう。
 だから例えば大切なプレゼンの際には、クライエントに対して説明者たちは自己の身体的な健康状態の悪化(例えば風邪をひいて熱があるくらいなら)さえ隠蔽しようとするだろうし、まして個人的な苦悩といったものを直接表出することは殆ど差し控えることが通常である。要するに気分爽快である振りをするということである。あるいは精神的に安定した様を偽装する(どんなに張り詰めていたとしても尚)ということである。
 自己内の身体健康上の状態と精神的安定度と関係のある個人的感情の表出を真意吐露であるとすれば、我々は明らかに真意表明という行為を、表明する他者との関係に応じて、つまりその近親度、信頼度に応じて使い分けているし、それもまた自動的な行為選択である。そしてその際の感情表出は身体的健康状態であれ(尤も精神的な苦悩よりは他者に表出することがそれほど忌避すべきではない場合もあるが、逆に電車の中で咳き込んでいたら、隣に座ることを避けられたりするが、そのような純粋に公的な場ではなくても会議中には明らかに出席者には健康状態でさえ偽装し勝ちである。)精神的な安定度であれ関係なく対他者近縁度、近親度、信頼度に応じて弁別している。
 だから個人的にはあまり好ましく思われないクライエントでさえ、業務上大切な顧客であるなら、一切の個人的感情を表出することを差し控えるであろう。つまり偽装的な笑みとか好意的態度さえ示す必要がある。責務偽装である。
 しかし今日的な哲学的問題として、そのようにビジネス上での責務偽装を執り行うことの連続が日常を支配している、と認識する限り重要となってくることとは、そういった建前主義的なビジネス偽装性の恒常的な事態で、真に人間間でのコミュニケーション上での真意の意志表示が可能であるか、ということである。その際に意思疎通でのモティヴェーションというものがどのように作用するのかということもまた問題である。また真のコミュニケーションのモティヴェーションとは有り得るのか、あるとしたらそれは一体何かということもまた重要な問いである。
 人間は他者の真意をあまりにも直裁に見せつけられると辟易とさせられるものだが、同時にあまりにも真意の片鱗さえ見せないと、その相手に対しては息が詰まる、そういうものである。人間社会での真理とは唯一のものではないし、またその人間の真意というものは一個の感情でもない。その時々で変化することと、ある程度長期に渡って持続することと、その人間の生来の性格的傾向性とかの一切が複雑に絡まり合って綜合したものを真意と呼ぶなら一瞬たりとも同一の真意に彩られている人間などいはしない。
 だが同時に人間には統一された真意というものが一個もないと断じることも決して出来ない。そのような意味では人間はやはり明確な真意を常に求めている。その一つは幸福でいたいということである。それは幸福の絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが同じである。そのような意味では真意の様相は変化するが、恒常的に生きている際に持続している真意というものは唯一であるとも言い得る。
 
 ちょっと頭休めに話を逸らそう。私は生物学者たちが考える出産に伴う苦痛(陣痛とか、出産時の痛み)について少々先に触れた。このことを生物学的な意味で男子の生殖機能の面から考えてみよう。男子は出産を経験することがないから、出産とは女子に任せっきりなので、その意味では自己内での経験において疎いところがある。しかし出産を経験する男子には配偶者に対する配慮という意味では男子であるにもかかわらず、女子において、つまり人間のメスにおいて我が子に対する愛情を示す際に放出されるプロラクチンという脳内内分泌物質の作用が活発化すると言われている。このことは多くの書物にも示されているので繰り返さないが、もっと重要なこととは、そのような親和力とか共感能力を必要とするという事実は、裏を返せばそれだけ出産という事態に関して男子は配偶者である女子に全てを委ねているという事実を我々に示している。つまり男子は論理的には一回の女性の膣内での射精(勿論愛し合う男女の場合精子の卵子への着床という事実は、日常的に反復される愛の行為の連鎖における一種の恩寵なのだが)に帰着する。
 さて生物学者のジョージ・ウィリアムズは男子のペニスが排泄機能と繁殖機能の双方を重複して担っていることに着目している。(「生物はなぜ進化するのか」中<適応の医学>より)この事実は女子には当て嵌まらない。女子は機能的には尿道と生殖機能を果たす膣は別個である。しかし興味深いことに男子の精子を作る睾丸から射精するためのペニスの尿道へと膀胱の下部へと運ぶ腺は、身体上を上昇しつつ、膀胱よりも上部にある腎臓から膀胱へと尿を運ぶ尿管を跨いで再び下降して膀胱からペニスの付け根辺りへと合流しているのだ。この殆ど合理的に考えれば理に適ってはいない生殖生理的身体構造をどのように我々は解釈すべきなのだろうか?
 ウィリアムズはこの不合理な身体構造に関して、庭で大木を差し挟んでこちら側の木々に水をやる庭師が木の向こう側までホースを延ばして水をやっていたところ、一度バックしてから逆サイドの木々に水をやれば済むことなのに、敢えて大木を迂回してホースを更に延長して木々に水をやることの喩えで示しているのだが、実際自然選択というものは一旦こういう方向へと決めたら、そうおいそれとは方向転換することがままならないということをこの男子の生殖機能の図が示しているし、同時に結果論的には不合理な身体構造となっている男子の生殖機能が合理的に考えれば睾丸から直接膀胱の下部にカウパー氏腺を接続することを可能にすることを潔しとしない生理的な理由があったことを物語っている。そのことを恒常的に生殖可能な人間のような例外的なケースではなく、繁殖期の限定された動物を考えてみよう。彼等の睾丸は普段は体内に収納され、繁殖期にのみ下降してきて、繁殖活動に貢献する。人間の睾丸が皺皺の状態でしかも身体の外部に突起状に付着しているのは、精子を保つ温度を低めに設定していることに帰着するが、そのことを促進しているのが睾丸の皺であり、これはラジエーターの役割を担っている。
 さて人間の睾丸がもし今現在の位置と変わらず、しかもカウパー氏腺が尿道を跨ぐような今現在の状態ではなく、直接膀胱の下部に接続されていたら、人間には繁殖期が限定されていないのだから、当然のことながら今現在の状態よりも射精が容易になり、たちまち遺伝子を継承する子孫の増殖は今現在よりも容易になるだろう。しかしそのように容易になれば当然のことながら人口は著しく増加し、たちまち飽和状態になることは予想される。そのようなケースを想定してかしないでか、勿論意図的ではないのだろうが自然選択は、人間の性的欲求促進の機能をほどよく調節する意味合いで態々不合理な構造で精子放出機能を作成したとも考えられる。要するに他の多くの哺乳類の種のように睾丸が体内に不必要時には収納されるシステムではない人間は、性行為を一年中可能にしたが、睾丸の位置を変化させずに外部の突出させていることのトレードオフとして睾丸と尿道との接続地点に至る経路を複雑化した、よって性行為をある程度の覚悟を持ってするような、つまりそう容易には発情出来ないようなシステムになったとも考えられるのだ。
 さて自然選択というこの厄介であるが決して人間が他者に対して理由もなく贔屓したりすることのないシステムはその傾向がどのように不合理であれ、そうでなければたちまち不都合が生じるようなシステムを何らかの形で回避するためのシステムを長い時間をかけて考案して落ち着いていると考えて差し支えない。もしその理由が分からないとすれば只単に人間の側での洞察力が不足しているだけである。だから例えばパソコンのキーボードはかつてのタイプライターの配列のままなのだが、アルファベット順で配列されていないことの理由は、文字ごとに使用頻度が異なるということと、文字選択の際にアルファベット順に配列されていないからこそキーを打ち込みやすい何らかの理由があるからである。あるいは車社会である現代において何故自動車がこれほど人類による使用頻度が大きいかということも何らかの理由がある筈であろう。勿論地球環境の温暖化阻止と大気汚染の保全を考慮した新基軸のシステム(その一つがハイブリッド車であり、バイオエタノール車とかである。これらは今でも試行錯誤がなされており、どのような方法が最も効果的であるかは未だ解決されていない。例えばエタノール車に使う燃料の需要が増せば穀物の単価が上昇を避けられないという意見もある。)が常に考案されているが、自動車に成り代わる移動手段を見出すことはもし求められているとしても、そう容易ではないだろう。それはパソコンのキーボードの文字配列が変わらないままきていることとも関係がある。つまり最早変わらないものなのだ、と決め付けたほうがよいものとそうではないものの峻別がなかなか難しいのだ。我々の工夫によって自動車を使用しても地球環境の激変を食い止められるのなら、自動車による移動という現実はそう容易には変わり得ないだろうからだ。
 社会の様相が激変した時何らかの新しいグローバルな生活様式や手段の変化が齎されるだろう。しかし過去の歴史において二度と繰り返されない愚行に我々は立ち戻ることがないように全ての領域において必ずしも無限の変化の可能性が残されているわけではない。つまり便利で有益な手段は変わらなく存続してゆくからだ。例えば今度どのように新しい楽器が生まれようとも、ピアノはピアノであり続けるだろうし、ギターがなくなるというようなこともないだろう。そういう意味で無限の可能性を秘めた領域と、今後も変わることなくそのままであることの両方がある、ということである。このことを念頭に入れて今度は言語行為について少し考えてみよう。
 言語行為はそういった行為を相互にすることに意味がある、要するに意思疎通したいということが真意であることから出発する。その真意表明はその真意を円滑に伝達することの智慧を発達させたとも言える。例えば動詞と名詞(言語学者は実詞と呼ぶことがある。)を基本として文章は構成される。それは統語秩序としての体裁を整えるということだ。勿論形容詞とか副詞の方が遥かに話者の感情的ニュアンスは伝達される。しかしそれはある程度話者同士が信頼性を獲得して然る後の事態において想定される伝達性である。そこで名詞と動詞の繰り返し立ち現われる様相による文章構造の意味内容そのものが真意表明の意思表示となる。またある言辞そのものはその言辞が直接陳述する意味内容だけではなくそれ以前の話者の発話意図と発話するための内的なモティヴェーションを表す。それは目に見えないが実在する話者の聴者に対する感情的レヴェルの真意であり、それこそが話者間による意志伝達の真理である。そのことをウィトゲンシュタインは事実と呼んだ。意志伝達の真理が存在するということは、端的に言えば名詞も、動詞も、ただ闇雲にそのいずれかを反復すること、例えば名詞だけの連続であるとか、動詞だけの連続には聞く者が耐えられないという事実でもある。真理とは説得力があり、聞くに堪える真実味のことであるから、「日本の官僚の慣行の国民にとっての批判対象的部分の抵抗の図式」といった句は悪文構成要素である。また「彼はその時、藪から棒に突拍子もないことを言い出し、喚き、うろたえ、唾を吐き、大声で怒鳴り、うるさくしたので周囲の人間は呆気にとられた。」といった文章も悪文である。
 前者は「日本の国民にとって批判対象となっている官僚の慣行に対する抵抗の図式」のように訂正すべきであるし、後者は「彼が藪から棒に言い出したことで周囲の人間はその突拍子なさに呆気にとられたが、それは彼の唾を吐きながらの大声で怒鳴る姿が、彼等の耳にも不快であったからだ。」の方がまだ理解しやすいし、もっと端的に「彼が言った突拍子もない話は彼が唾を吐きながら大声で怒鳴るようだったので、周囲の人間を呆れさせた。」の方がずっとすっきりする。
 また例えば「猫がいる。」というようなどうと言うことのない一言には実は、その意味内容よりもそういう一言を吐く話者の聴者に対する配慮が伺える。猫がいるという事実を他者に報告することの必要性とは、猫がそういう状況に居合わせることが予想外であることを指し示す。例えば鼠の生態を観察したドキュメントに鼠が餌に噛り付いている動画の背景に猫がいるとしよう。するとその動画の鑑賞者たちは相互に「猫がいるね。」のように言い合うことは予想されよう。猫が鼠の天敵であることを承知で、技とそういう状況を選んで動画制作者たちが目論んだのか、それともただ単なる偶然であるかということがその動画の鑑賞者の意識に立ち上がるということが自然であるからだ。そのような状況下ではない限り「猫がいる。」と言うことは通常ない。例えば野良猫が激減した区域に生息する野良猫を発見した時、その発見者は同伴する者に、そのように告げるであろう。
 勿論「猫がいる。」の意味内容の真意は「<猫がいる>ことをあなたに伝えたい。」であるが、それはどのような状況でも同じである。「彼が死んだ。」もそうだし、情報伝達というものの存在理由は、その報告事実が話者相互に既知のことではないということが第一義である。しかしその言辞が単純事実であればあるほどそういった単純事実の報告の持つ伝達内容の希少性と価値は、予想外の事実であることであり、予想外ではない場合には、それは詠嘆的表現となる。そして詠嘆的表現とは話者相互が信頼性とか近縁的感情を相互に抱いていない限り不自然となる。「何でそんなこと急に私に告げるのか。」と電車の中の他人に話しかける者に、話しかけられた他人は怪訝な思いをするであろう。例えば電車が脱線しかかっているような状況でもない限り我々は通常敢えて他人に電車の中では話しかけはしないものである。飛行機に乗る乗客がいつまでたっても飛行場に着陸しないような状況では「飛行機の車輪が何かの不具合で出ていないのではないか」と乗客同士が予想するような具合の場合以外通常隣席にいる他人の乗客に話しかけることはないことの方が普通である。例えばビジネスクラスの者同士などは特に。彼等は通常飛行機の中でもパソコンをいじったりしているからだ。しかしもしそういう危機的状況があれば直ちに彼等は運命共同体の成員同士として何か語り合うという事態は想定し得る。そうでなければ伝達される意味内容の予想外なことこそが発話意図を支える。だから「空を飛ぶのって雄大でいいですね。」などという発話内容とは、詠嘆的表現であるから、何かあって隣席の者同士で発話し合うことが自然である状況を獲得した後でしか立ち現われ得ないものである。
 男子が配偶者の出産に立ち会う際にプロラクチンが放出されるレヴェルが上昇するという統計的事実とは、実は男子の脳内に存在する共感作用の発現である。本来心理学者で精神医学者でもあるサイモン・バロン・コーエンの指摘する(「共感する女脳、システム化する男脳」より)ように男子はシステム化能力に秀で、女子は共感能力に秀でているという。それは要するに生物学的統計的事実である。しかし同時に我々はそのようなア・プリオリな生物学的事実を常に意志レヴェルで社会的責務とか個人的愛情とかの所謂良心のレヴェルで人間学的な思念によって自分の性に本来不足しているものを補おうとしている。その意味では男子が配偶者の出産の際にプロラクチン数値を上昇させるという事実は、まさに自分の中に潜在する共感化作用を発現させているということである。だから他人に対して近親者と同様の振る舞いが出来るとしたら、それはある社会的意志によって促進されたプロラクチンの放出を発現させていると言えるだろう。
 この論文で触れた空間把握能力そのものも男子の方により優れた傾向が与えられている。しかし少なくとも地理音痴のような女性ですら、視覚的世界の何らかの序列という意識が言語統語秩序に対する理解をも促進していると考えることは間違いではないのではないか?一番遠くにあるものと、その次くらいにこちらから遠くにあるもの、そして比較的近くに見えるもの、極自分位置に近いものの間にある距離的な序列意識は、視覚知覚体験にも宿る。それを言語統語秩序において、最も伝えるべき本筋と、そうではない比較的瑣末な伝達事項との間のヒエラルキー的認識を与えることにおいて脳内で類似のカテゴリー認識を連想させるということは考えられる。
 それは睡眠中のレム睡眠時に見る夢の内容の選択にも同様のことが言えるかも知れない。我々は意識的自由の領域から夢の内容を選択しているわけではない。しかし少なくとも覚醒時に抱く関心事、社会的責務の全てが意識的に把握し、認識し、思考する内容を選択しているのなら、その選択から逃れる領域や、覚醒時の思考内容と類似した連想領域が夢において記憶内容の整理と、忘却内容の一括処理において突拍子もないように見える我々の夢の内容を実は用意周到に脳は選択しているのかも知れない。フロイトの言った顕在夢とはそのようものだったのかも知れない。
 例えば私たちが誰かと話しをしている時、その人と自分との近親度に応じた伝達内容が選択されるだろう。しかしそれは自分にとっての関心事とか、近親者との間での自己との関係は無縁なことではない。それら全ての日頃の意識下、無意識下に関わらず関連してくるものである。親友との会話の内容やその時の感情的な遣り取りは、それほど親しくはない人との会話にも影響を与えるだろう。それは家族内での感情的な遣り取りや心理的様相が他者と接する時の感情にも影響を与えるのと同じである。だからもし人間に真意なるものがあるとすれば、それはある場面での真意が別の場面での真意との関係において発現されていると考えた方がより理解しやすいだろう。
 カントは自由とか権利とかをある一定の努力によって獲得される価値規範と捉えた。それは与えられるものではない、ということだ。努力と心がけとその行為の持続により享受する資格を有する者のみが到達する自己真意の明快さというものがあるのかも知れない。
 フロイトが追求した夢内容というものは実は、その自己覚醒時の自己真意の明快さを知るよい手掛かりになるのかも知れないのだ。自己真意の姿とは刻々とその姿を変えて行っている。しかしその変化それ自体を把握することは意外と難しいことである。それを真に理解するために我々は学問をするわけである。