Thursday, November 26, 2009

〔表情の言語哲学〕2 付録論究 自己疎外の他者からの引き受けと他者への要請

 私たちは「語る」ことそのものがファジーさを一切払拭してしまい一義的メッセージとなってしまう語彙化の威力そのものを確認した。しかしそのように語彙化されて第三章で示したような真理領域的部分理解となってしまうこと自体に私たちが自覚的であるという事実自体が私たちが言語的思考以外の感覚的理解をも我々の能力として認めていることの大いなる証拠である。しかしこの言語化不能の感覚を所有していること自体はかなり私たちの精神を不安定なものへと陥れる。つまり私たちが言語獲得以前の動物的直観に恐れ戦いてしまうのである(尤も言語以外の人間的直観というものもまた実は考慮しなければいけないのだが、取り敢えずそのことは置いておこう)。
 つまりこれこそが、私たちに他者に表情があり、それを読み取るということを、こちらの表情を読み取って貰うこととの交換において渇望するという状態を作っている。つまり私たちは語ることを通して他者に関わることがそういった本能的自己身体への恐れ戦きであることを薄々知っているからこそ、他者を疎外された自己の鏡として認識するのである。
 つまり自らの本能的判断の所有自体への恐れ戦きを自己に認めることが他者存在を自己と相同の心的様相の保持者として認識することを希求させる。それは言葉を他者から引き受け肩代わりしているとも言える。何故なら、そうすることによって他者内にも自己と相同の恐れ戦きを認めてもいるからである。
 この恐れ戦きとは実は、自己に纏わる未来の不確定的不安、何度も繰り返し述べてきた死に対する個的不安保持にもなり代わり得ることは言うまでもない。私たちも又ただの動物的死を避けられ得ないからである。故に永遠という想念はその事実自体への我々に拠る抵抗的意図が生み出したものに相違ない。
 自己疎外は自己にのみ固有のものではないという信念は勿論確然としたものではない、常に揺れ動く想念である。しかしであるが故に他者に対し、それが自己にのみ固有のことであるかどうかを確かめる(第三章から結論に至る一つの命題として)という意志を意思疎通的に私たちに抱かせる。
 他者からの引き受けと私が言うのはとりもなおさず、他者が感じる自己疎外不安を私が共有しようという態度を採る(振舞う)ことであり、そこに必然的に理解を示す表情を介在させることとなる。他者への要請とは言うまでもなく、他者から引き受けるように、こちら(自己)の自己疎外不安を他者に示し理解して貰うように委託することである。この両者は必ずしも成功するとは限らない。これもまた未来の不確定性への不安を掻き立てる。
 私は前節においてデカルトを通して「語る」ことと「示す」ことの違いについて述べた。そのことについて考えてみよう。実はこのことはウィトゲンシュタインは自覚していたが、座標軸の一点を私たちがその意味について読み取る時、私たちはその一点において示されたことを解釈している。しかし「語る」ことはそうすること自体で示されたことについて意味を受け取り、示されたことについて解釈出来るように説き伏せるほどの力を持っている。それは「語る」ことが音声的顕現であれ、記述であれ、語彙化という真理領域的部分理解を通して一義的にある物事を主張することとなる。
 つまりその矛盾こそが言語の限界に他ならない。ウィトゲンシュタインが言語の限界が世界の限界であると言った時、それが世界そのもののことなのではなく、「世界」と世界のことを語ってしまうことについて言ったことなのである。何故なら、私たちは仮に実感し得ているものが「世界」と一言で表現することにあるもどかしさを感じ取ったとしても尚、そのことを含めてそれを私たちは「世界」と呼ぶからである。それをデカルト流にコギトと言い換えても事情は変わりない。
 私たちはデカルトが抱いていたであろうもどかしさと全く同じことをウィトゲンシュタインの中にも読み取ることが可能である。つまりこの内的なもどかしさとはある意味で、どんどん語彙を換えていくことでしか解消れ得ないとも言い得るのである。何故ならもどかしさ自体は、私たち自身が感情はいたく複雑であるのに、例えば「笑う」ということ一つとっても、「バカ笑い」「苦笑」「微笑」「ほくそ笑み」といた極めて限られた語彙しか持たないし、また表情にしてもほんの社交辞令としての微笑みと性的誘いの間の明確な境界さえ内的感情の決定的な差異ほども我々は持ち合わせていないからである(私たちは外面的表情というサインだけでなく、感情においては過去の記憶に対する想起とか現在知覚的判断とか想像といったことを同時に感情を通して行っている)。
 世の中の大半の殺人とは恐らくこの他者の示した表情に伴う感情の読み違い、即ち誤解に起因している、と私は思っている。
 「君はあの時、同意の態度を示したではないか」と犯人は相手の豹変振りを指摘するだろう。しかしそれは豹変したのではなく、ただ単に相手の態度を読み違えただけのことに過ぎないのだ。
 私たちはしばしば相手の表情を自分が相手に望む風に解釈(読み取る)傾向さえある。特に親しい間柄であると思っていた他者に裏切られた時などはそうである。「彼がそんなことを思っていた筈などあるわけがない」と。つまりだからこそ自己疎外ということが切実なものとして迫ってくるのである。そしてしばしば私たちはこのような気持ちを自分以外の他者もまた抱いているものだろうか、という想念の下で他者を認識する。それは孤独と言うには余りにも表現不可能な相互理解完全一致の不可能性に対する予感である。つまりその余りに絶望的な理解し合えなさに対する自覚こそが、その思念自体の自己にのみ帰属することを信じたくはない感情こそが、逆に同一の心情保持者として他者を必要とするのである。
 つまり一方で「こういう気持ちは自分だけが抱いているのではないか」という他者と相互に完全理解一致し得なさが、逆に他方「他者もまたそうであって欲しい」という形で私たちは他者を求める。他者とは終ぞ全てを理解することは出来ないという形で逆に各私同士を結びつける動因となる。

 付記 「表情の言語哲学」2はこれで終了致します。暫く休暇を頂き、再び別の論文「羞恥と良心」「良心と羞恥」などを順次掲載更新していきます。(河口ミカル)

Sunday, November 22, 2009

〔表情の言語哲学〕2 付録論究 名指しの意味付与性

 ここに常に周囲から騙されていてあまりそのことに頓着しないできていたがために色々と損をしてきたこと自体にある日覚醒した人間がいたとしよう。その者はそれまではずっと周囲の人々全てをいい人であると思っていたがために損をしてきたのに、そのことに全く気づいていなかったのだ。しかしある日別の他者から要らぬ(か要るかはともかく)入れ知恵をされて、それまではずっといい人だと思っていたある他者をその瞬間から警戒すべき他者であると認識し始めることとなる。するとその者はいい人であると思っていた他者に対してそれまでは殆ど友愛的な表情ばかり示してきたのだが、そのこと自体に対して反省的意識を持ち、次第にその者の前では時折それまでは終ぞ示すことのなかった不快な表情を意図的に示すように心がけるようになる。するとその態度はそれまでそういう態度を一切示されなかったその他者にとっては意外なものに映る。しかしそれもある程度持続して習慣化されると、さしものその他者も流石にそういう不快な態度を表情として示す者の本意を読み取るようになる。つまりそれまでは全くそういう態度を示さなかったその者への警戒心を抱くようになる。
 これが親しかった者同士の間に入る亀裂である。しかしここに重要な真理が控えている。それはそれまでは信用して疑うことになかった相手に対する評定性において新たな意味の相貌を付け加えるという作用が施されているということである。つまりここで言いたい意味付与性とは対象が人間であるなら、そういう相手に対する存在理由自体への読み替え、解釈し直しを意味する。何かに対して名指すということの内にはそのような意味合いがある。つまり「~である」と規定すること、そういう風に普遍化することによって名指すことを通して、そういう風に名指す以前にはそのものに対して持たなかった意識を常に顕在化させるということが名指すこと自体に性質として内在しているのである。
 それは相手が人格を伴った存在者であっても、世界自体であっても、社会自体であっても、自然自体であっても変わりはない。
 では何故そのように意味を見直し、解釈し直し、読み替えていくかと言うと、我々は世界に対して何らかの把握の名において対象化し、存在規定し、意味化せずに生きていくことが不可能であるからである。だから意味づけ作用とはそれ自体で既にある対象に対して、世界自体に対して一定の懐疑主義精神と批判精神と警戒心を性格上備えていると言ってもよい。何故なら我々は世界に対して何らの意味づけ作用も、存在規定もしないでいいのであれば、そのこと自体は一切世界が我々に対して脅威として存在していないということを意味するからである。
 だからこそ我々はある人間の表情を読み取ろうとする。それが例えばその人間が笑ったのであれば、その笑い自体の意味を汲み取ろうとする。それは心底笑った相手が警戒心を解除した笑いであるのか、それともこちらに対する軽蔑心とかこちらに対する迎合心によってであるのかという風に評定する。つまり我々がある者の取った表情を下心のないその通りの真意を示したものであるかということ自体をあれこれ考えるのは、そもそも表情自体を偽装し得たり、あまり真意を顔に表さないようなタイプの成員もいるもとを知っているからである。そしてそのような特殊例を引用してくることによって警戒心を抱く時には相手を表情と本意とか真意とは食い違うこともあるのだ、という真理を殊更内的に強調するのである。しかしそういう警戒心自体が思い過ごしであることも多いし、そういう風に思い過ごしであることを了解した時我々はそういう警戒心を相手に対して抱いたこと自体を後悔するし、反省する。しかしそのようにああだこうだと思い巡らすことを可能にしているのは、実は私たちが意味づけ作用をせずには生活していけないということを表している。
 だからこそ時として必要以上の意味づけ作用をよくないことであると認識し得るのである。しかしそのように世界に対して固有の「構え」を構成するということは、自分自身が世界とは別箇に切り離された存在であると認識しているからである。本来世界とは私たちが作っているものであるのだから、世界構成者としての自分だけは「世界」とは別箇の例外としていく必要があるのである。ここにデカルトのコギトという考えのベースがある。
 哲学において内的世界と外的世界を分けて考えてしまうのは、そういう風に世界を構成するのが私たち自身、私たちの脳であるという認識があるからである。しかしよく考えてみればその私自身はやはりちっぽけな世界内存在者であるに過ぎない。それは世界の構成要素であるが、世界の構成要素たる我々によってのみ実は世界も構成されているとも言い得るのである。つまり世界の構成要素たる我々という思惟自体もやはり我々の脳によって齎されているだけである、ということである。つまりそれは私が世界に対して「私」と言う風に別箇に名指す時に既に始まっているのである。あるいは我々が世界全体に対して「我々」(人類)という風に名指す時に既に始まっているのである。
 しかし私は第三章で述べたが、我々は言語を獲得した後にも、完全に前言語習得状態での感性を失っているわけではない。それがただあまり意識の上に浮上しないということでしかない。すると我々は世界に対して「私」と捉える時明らかに世界と私が完全に分離しているのではなく、境界が曖昧であるような感覚をも捨て去ることが出来ない。それは常にそう感じられるのではなく、例えば仏僧による修行などにおいて、自然全体と自己身体との境界が曖昧になっていくような経験などにも顕著に示されているだろう。つまりデカルトのコギトとは意識的にそのような経験一切を無視しさった地点で成立する思念であり想念であるとも言える。勿論デカルトのコギトは只単なる論理とも違う。しかし少なくともデカルトは認識論的にも、あるいは実感的にも恐らくそのように世界と私が不可分であるような精神状態を知ってはいただろう。つまりそうでありながら敢えて意識的経験であるところの自己をクローズアップさせる必要性が彼の内にあったということになる。
 私は単純に二分法的に失ったものと得たものと述べてきたが、実は失ってしまったことに関しても僅かながら我々は残存させている筈である。だからこそそれを失ってしまったが故に価値ありとするのである。もし本当に完全に失ってしまっているのなら、得てきたことの引き換えに失ったという想念さえ抱くことなどないだろう。それは特に私は記憶のことを代理させて語ってきたのであるが、当然記憶とは完全に今でも過去としてではなくありありと思い出せるということと、それほどではないが、そしてかなりおぼろげになってしまってはいるものの、完全に忘れ去っているのではなくある程度であるなら覚えていることだって我々にはある。つまり我々にとって完全に忘れ去ったことはそもそも想起対象にもなり得ないし、そういったことが夢で出て来ることもあり得ない。しかし完全に記憶しているとそう思っているものでも、勝手にそう思っているだけであり、つまり本当はかなり歪曲させて記憶させているものもかなり含まれるし、また思い違い、記憶違いであるのに鮮明に記憶していると勝手に思い込んでいるものもかなりある。
 つまり本当は忘れたいので日頃は意識に浮上させまいとしているもので、かなり鮮明に記憶しているものもあるし、またおぼろげであったのに、あることをきっかけに、あるいは何かを目撃したことによって鮮明に記憶を蘇らせるということも決して我々は珍しくはない。つまりそういった想念全体を含めると、コギトというデカルトによる想念自体も実は、私と世界が完全に切り離されて意識されているというよりは、寧ろ世界と私とが完全には分離していないその全体を存在論的に「私」あるいは「我」とデカルトが名指したという風にも十分捉え得る。それは端的に例えば後年ハイデッガーが人間のことを現存在と名指したことと同じような理由とモティヴェーションによってデカルトによって命名されたことだったのである。だから敢えて世界と私との境界の曖昧性自体に目を瞑ったという私の仮定は、その意味では無効化され得る可能性もある。そしてそれはデカルトがコギトと名指したことの精神的根拠の問題であるよりは、寧ろデカルトが固有のモティヴェーションを糧に言語化すること、あるいは語彙化して名指していくことそのものに内在する問題であると言ってよいだろう。つまりデカルトによってコギトと名指されたことによって発生する意味付与性自体を問題にせざるを得なくなるだろう。
 しかしそのことを十分実はデカルトは自覚的であったのではないだろうか?何故なら彼は「省察」において夢と覚醒時の現実自体をその実在感という意味では境界が曖昧であることを示しているからである。しかしそれを一方で語っておきながら同時に別の意味ではやはり私という意識もまたなくならないという想念がコギトを現出させたとしたなら、デカルトは実はそう想念しながらも、それを「語る」ことによってその想念を打ち消すような語彙規定による意味付与ということの運命を暗示したとも言い得ることになる。
 デカルト座標空間とはある意味ではそういった矛盾を「示す」ことにおいて「語る」ことそのものの名指しの持つ魔力を世界と私の間の境界曖昧性という想念をさえ言語が打ち消すことそのものを不可避的に示そうとしているようにさえ私には思われるのである。
 写像を英語で表現するとマッピング(mapping)である。それは語ることそのものの想念の打ち消しというディレンマ自体を対象化(示すこと)することを可能にする概念である。従ってデカルトによる数学者としての業績自体がここで名指すことの危険性を熟知してなされたと捉えることも強ち間違いではないのではないだろうか?

Thursday, November 19, 2009

〔表情の言語哲学〕2 結論 (話すこと、話したいということが真意であり、内容は補足的なことでしかない)

 ある意味では人生とはシナリオのないドラマを生きることである。だから逆にシナリオというものは常に恣意的に作られる。例えば映画や演劇の脚本や台本はそれに沿って表情と台詞にある型をプロフェッショナルなアクター、アクトレスたちがつけていくべきモデリングの作業をするための灯台である。しかし時としてヴァラエティ的趣向としてプロの役者たちに設定だけ与えておき、完全に進行されるドラマをアドリブで行うということがあるが、そういう場合役者たちは端的に人生とは一体どうあるのか、どうあるべきなのかという思念を抱いてそれを演じるだろう。つまり人生にはアドリブと同じように確固とした脚本などない。勿論予定とか計画といったものはあるが、基本的にそれらは全て変更可能なものである。その最たるものこそ日常会話である。それは面と向かって話す場合だけでなく電話でもメールでも相手の表情を読み取ることが基本的に意思疎通することの意義を支えている。つまりメールでは文面、あるいは電話では声の質、声の調子、声量といったことから表情を読み取っている。
 シナリオがないということだからこそ、そこに限定的にシナリオを設けていくこと自体の中にたまたま映画、演劇、ドラマ一般が存在するわけであり、端的にそれらさえ、ある意味ではかなり制作進行上で変更を来たしていくものであることはプロとして関わる全ての関係者たちが知るところであろう。シナリオという存在は本来はそういうものなど人生には基本的にはないからこそ、逆に一定程度にそれがあれば便利であり、円滑に全ての行動を目的化することが出来るということで設けられている気休めなのである。
 北野武監督の映画には大まかな脚本的意図が監督の頭の中には存在していても尚、映画に出演する役者に対しては確固とした最初からラストシーンまで規定された本などないと言う。つまりその場その時で現場、役者ら全ての条件によってどんどん変更させていく映画作りであると言う。だからこそ逆に全ての進行をアドリブにしていくのなら、映画の進行する順に撮影していくことが最も望ましいが、却って死んだ筈の人が生き返るというアイデアをも取り入れる場合なら、別段アドリブで全部撮影しても尚、映画の進行順に撮影していかなくてもいいということにさえなる。
 私たちが他者たちに対して意思疎通し合う時明らかにその会話とか対話が今後どうなっていくか全て読めていたのなら、一切そんな意思疎通をする必要などない。もっとある意味では不安定などうなっていくか分からない不安こそが、意思疎通を意味あるものにする。何かを依頼したり請求したりしても、必ずしもその要求が叶うとは限らない。その不確定性こそが意思疎通をより熱意あるものにする。つまり一切請求して叶うものであるなら、意思疎通する際にある種の深刻な構えとかそれに赴く際のより厳粛な緊張といったものなどなくなるだろう。
 またその不安は希望を生んでもいる。つまり人生は先行きが不安定であったり、不確定であったりするという一事において逆に新たな挑戦をも可能にしている。不安こそが期待や願望や夢を産出している。人間の顔の表情はそれを顕著に反映している。そしてその表情を相手に対して汲み取る、その表情の意味合いを推し量ること自体が意思疎通の内容を進行上その都度決定している。つまり先行きどうなるか分からないこと自体がその都度先行きに対して意思疎通を意味あるものとしてスリリングにしている。そうすることで展開を期待させることが意思疎通、対話、会話をしていく意志を相互に確認し合い、決定させている、逆にそれが失われればその際には一度意思疎通を中断させることを我々は選ぶ。あるいはもう二度と意思疎通し合わない方がいいと相互に意志してしまうかも知れないし、片方だけがそう思うかも知れないし、ある時にはその意志が通じ合わないこともあり、自然消滅してしまう意思疎通ではなく絶好を申し渡されることもあるだろう。
 仮にもう一度以上必ず意思疎通し合う意味合いと意義を確認し合える相互の関係においてさえ、ある対話や会話は一旦停止させることの方に意味がある場合も多いからこそ、我々は対話や会話を積み重ねられる。
 だから意思疎通し合うことの中で取り交わされる対話内容や会話内容は明らかにその内容如何であるよりは、その先に相互に意思疎通し合えるかどうかという査定の方に加担していて、要するにその最終目的のための手段でしかないとさえ言い得る。要するに意思疎通し合うことこそが生理学的にも心理学的にも、倫理学的にも意味があると言い得るのだ。
 だから心理言語学とか言語心理学とか言語哲学において真理命題論的に分析しても尚、意思疎通意味内容自体は、それを仮にある対話や会話によって利用したとしても、その意味内容を相互に共有し合えることを通して「語り合いたい」「話し合いたい」という本意、真意を相互に確認し合えるというところに意味があると言える。だからその相互の意志の一致が仮に確認し合えるということ自体がその都度の対話、会話上での意味内容、つまり話題を通して語られる真理を決定している。勿論我々は「~について」という話題の方にこそ意識が集中されていて(原音楽的意識状態)、その話題を通して進行しつつある当の意義とか意味自体は意識上では隠されていることも多い(常にそうではないが)(原羞恥が潜在的に存在する)のである。
 対話とか会話はそれを企画する者、企図する者に最大のメリットが齎されることが心理言語学的、言語心理学的には多いと証明されている。つまりそれだけ語る者は語られる者から利益を得ているのである。だからこそ精神分析医というのは人から話しを聞かされることを通して報酬を得ているのである。

 映画監督が映画を上映し得るように持って行くことの目的は彼自身の映画観を通した表現を発表すること、その表現を享受する観客からの反応を得ることによって次回の制作を促すことだとしたら、それが目的であり、必然的にある映画に出演するアクター、アクトレスたちによる台詞の一つ一つは全てその目的に供せられる手段である。つまり予め言うべきことが設定されていて、ただその通りに個々の台詞を踏襲することとは行為を特定の目的のために手段化させてそれに奉仕することである。その意味では全ての意思疎通は漠然としてではあるが、何らかの未来の目的のために供せられていることになる。
 従って人類にとって意思疎通し合うこととは、未来に対する不安の除去、つまり個の内部に巣食う不安が自分だけのものではないことに対する確認のためであるとしたら、全ての新聞、ニュース、映画や演劇、お笑い、ツイッター、ブログといった言葉による意志伝達は不安の除去に対する暗黙の同意によってなされている。故にまず最初に誰かに声をかける時その声をかけた者が声をかけられた者に不安を表明することを意思表示していることになるから、必然的にその不安を相互確認要請された者は不安を除去することを同意し、同意を求めてきた者の不安除去に関して援助することとなるから必然的に優位に立つ。故に相手を常に優位に立たせることは不安を表明する者の側からすれば多大な債務を背負うこととなる。
 映画の出演者たちは制作サイドから報酬を得る。それは映画表現を完成させるという目的のために奉仕した手段化された言語行為を、あるいは身体行為を要請されてそのニーズに応じているからだ。しかし報酬を得るサイドはサイドで日々のルティンに対して生き甲斐を感じることによって手段化された言語行為、身体行為自体を目的化し得る。それは内的価値認識によってである。それが目的であるという自己暗示によってである。
 相互の不安除去のためになされだした意思疎通自体を一つの手段とすることによって報酬を得るタイプの成員は映画出演者たちだけではなくマスメディア全般に渡っている。
 しかしそれがプライヴェートな時間による意思疎通であるなら、不安除去を要請した者は要請された者を優位に立たせるために、不安を表情によってあからさまに示すことによってより大きな債務を背負うことを意味するから、出来る限り不安は小さなものであることを装う。表情的偽装である。表情は真意を伝えもするが、偽装をも可能にするメカニズムである。意思疎通は相手の表情を読むことによって援用されている。最初に自己真意を告げるが、それが相手のためになるという触れ込みで語る者には利益がある。本当は相手に対してこちら側の不安除去を要請しているにもかかわらず、あたかも語りだした者が語られた者の不安を除去してあげるかの如く振舞うことが巧いということは、それだけ表情を真意から乖離させて、偽装的に技巧を凝らし、それでいて自然であるように振舞えることに他ならない。それはそうすることを通して不安を除去してあげるためにこちらがあなたに語りかけているのです、と宣言しているからである。しかしそうではなく、相手に不安を除去して貰うことを要請するような殊勝な態度を正直に示せば、必然的に要請された者を優位に立たす。だからこそこの関係において表情とは相手がどういう気持ちでその言辞を齎しているかということを推察するための手段として利用されるから、真意を示す必要がある時と、隠蔽する必要がある時の弁別必要性を我々に意識させる。しかし表情は意外にも意図的にはどうにもならないところもある。だからこそ自らの感情をコントロールすることに長けた者とそうではない者との間の差異を作るとも言える。つまり日頃から一人でいる時間においても自己感情をコントロールすることに長けていれば、つまり自己不安除去方法を身につけていれば必然的に債務を多く他者から背負うことを回避し得る。
 
 労働することを通して報酬を得ることとは、端的に何らかの形で他者の目的遂行のために自らの行為を手段化させることである。その手段化をより快適にしているという偽装を巧くなす者は本質的に仕事が出来る者であり、そうではなくあまり自分自身の目的のための行為ではないから愉快なことではない態度を正直に示す者は仕事の能力に長けていない者である。つまり手段化された行為を目的化し得るように振舞う名人こそが仕事の能力の保持者であり、そうではない者は仕事に関する無能力者である。
 そしてその手段化された行為を快適になし得るということを示すものこそ表情であり、手段化された行為の目的化の名人こそ仕事の能力保持者であり、そうではなく手段を手段のままにしている者は仕事の出来ない生活能力欠落者である。
 このことをカントは恐らく「生を単なる手段にするな」と言ったのであろう。仕事上での真意の隠蔽は全ての社会ゲーム遂行者にとっての必要不可欠の自己欺瞞である。カントによる「生をただ単なる手段にするな」という謂い自体は実は極めて真意を包み隠さず他者に語りかけることから起因するデメリットを回避させるための知恵を語っているとも言える。それは逆に言えば何かを他者に語るという行為を欲求的に介在させることを通して必要以上の不安を形成させているとも言えるのだ。つまり最初から自己不安を語る他者を持たないという意識でおれば、必然的に他者を不安除去のための方策として利用するという意図は生じない。従ってあたら他者を自己にとっての負債を作ることを誘引することもないし、自己内の不安が増大することもない。しかし人間は言葉を持ってしまった。そうであるが故に不安を言葉によって作る。だからその作られた不安を他者と共有し合うという意志が生じる。だからその時表情が相手の気持ちを汲み取るために理解するべき対象となる。そして予め映画の脚本や演劇の台本のように決められていないアドリブの台詞を延々繰り返していくこととなる。それが人間の意思疎通である。
 他者の表情を他者真意の把握と理解のための手段とすることによって意思疎通を図る存在者にとって不安は予め作られる前提である。つまりそれが生きているということだからである。その不安の個的保持者であるという社会の側からの暗黙の事実認定こそが社会という不安保持者連盟の「不安」共有同意によるキックバックなのであり、その事実こそが意思疎通権利と、語られる内容自体が一番重要なのではなく、語られる内容を語ることによって相互に徐々に現出させていったり、創造していったりすることを語る場において語る者として同席することを権利として我々に享受させているのである。つまりそもそも未来がどうなるか分かったものでなないという当たり前の真実こそが私たちの全ての意思疎通を決められていない台詞を延々語り続けることを運命づけ、そこで語られる内容はその都度あたかも最大の目的であるかのように幻想しはするものの、本当に重要なこととは、端的にあたかも最大の目的のために供せられているかの如き手段化された語り(幻想)を生きることによって個的不安保持者連盟に加担することそのものが、実は目的であると認識することを我々に可能にするのである。
 だから逆に言えばカントが「生をただ単なる手段にするな」という謂い自体は、実は生を全て何らかの目的にすることもまた出来ないということへの諦念、その諦念は必ずしも絶望的諦念ではなく、達観とでも言っていいものなのである。従って生自体は何かの目的のためのものではない。それは自体が目的であるのなら、あたかも手段化されたかの如き幻想自体を実在と信じて行使していく以外に何らの方法もないということなのである。

 私たちはお笑い番組とか演芸場でのコントや漫才を見る時、何の前触れもなくある語りをギャグとして言い放たれるからこそおかしさ、おかしみを感じる。例えば予めこれこれこういうギャグを言い渡されますから笑って下さいと言われて笑う場合、あくまでそれは演技としてであり、自然な笑いではない。またそういう風に説明された時何のおかしさもおかしみも感じはしない。つまり突発的に何かを言い放たれるからこそそこにその絶妙なタイミング自体にある意外性を感じ取りおかしいと感じるのである。それはギャグを言う側による意図においてギャグ自体を用意周到に言い放たれる側が意外性を感じることを想定して漫才師やコントをするボードヴィリアンたちが演技することによってである、その際彼等は自分で自分が言うギャグ自体を楽しまない、あくまで言い放たれる側を楽しませるということにおいてである。自分でそのおかしさを感じ取って笑ってしまってはどんなにおかしい内容であっても、決してギャグを言い放たれる側はおかしさを感じはしない。
 それは意図的であること、つまり客におかしさを感じさせること、楽しませることを楽しまなければいけないのであって、自らギャグやコントのおかしさを楽しんでいてはいけない。
 そういう意味では笑うということはそれまでに得た我々による記憶と経験の全土に渡る生への理解、生への認識においてそのギャグやコントを意味づけているということを意味する。
 生とは記憶と経験の全体を抱えて未来の不確実性へ向けて不安を除去しながら生きるということである。経験と記憶とは得てきたものと失ってきたものの、あるいは気がついていたことと気がつかなかったことの綜合されたものである。つまり覚えて反復出来ることと、忘れて反復出来ないことの集積である。だからあるギャグやコントにおかしさを感じるということは、漫才師やボードヴィリアンたち相手が自分たちを笑わせるという意図を理解してそういう風に笑わせられるという体勢へと自己を身構えることである。つまりある演芸番組を鑑賞したり、演芸場に足を運んでその客席に着くということ自体が予め向こうから発せられる突発的なギャグやコントに対して自然に笑うという体勢を作ることである。それはある一定の時間内一切の予定通りの行為をせずに、向こうから挑発され仕掛けられる作為に自ら嵌まることを選ぶことである。受身の体勢で相手に身を委ねることである。それはそうすることによって日頃の緊張を解き解すことを意味している。
 記憶と経験とは人生自体が反省的に捉えれば、今を食い尽くしてきたこと、今を消費してきたこと自体に対する総体的な理解に他ならない。だからこそ記憶と経験によって構成される人格とか性格といったものは端的に習得してきたことと、習得され得なかったことの集積なのである。
 個的不安保持者連盟たる社会において私たちはある時にはどうなるか分からないシナリオを自ら生きる。つまりシナリオのない台詞を他者と語る。しかしある時には相手が予めシナリオ通りに語ること自体に身を委ねる。そういう時に演劇を鑑賞したり、漫才や落語、コントを楽しんだりする。それら全てはその場に何らかの形で他者と居合わせること自体が目的なのであって、そこで得られる語りとか語られることの意味内容はあくまで手段でしかない。しかしその場を生きること自体において私たちはあくまで語りの内容が目的化されており、語られる意味内容を把握することが目的化されている。
 しかしその時間が過ぎ去れば、結果的にはその場に居合わせたこと自体が目的であったのである。
 あるコントやギャグの語りの内容におかしさを感じるということは、そのギャグやコントの意味内容、つまり行為や言説の意味内容自体が、メカニズム的にある種の矛盾を持っていて、それでいてその矛盾に一切気づかないでいる人間の姿にある滑稽なる憐れさを感じるということだ。それはその人間のある種の気づかなさ自体に固有の滑稽な表情を読み取るということである。それはかつては自分もそういうことにあざとくない、朴訥であり、気づかない未熟な幼児であったことに対する記憶があるからである。不器用であざとくはないこと自体に対する無頓着が固有の素朴さを発し、その素朴さ自体を我々が一般的には日常生活において既に大半を失っていることを我々自身が一番よく知っているからこそ、その失ってしまったこと、つまりそれを失うことによって得てきたものを大事にして生きている私たち自身に対する滑稽さ、憐れさ、醜さ自体を熟知した上で、ある種の羨ましさをそれを失っていない者に向けつつも、しかしその者と同じように決して素朴ではいられないこと自体を知っているからこそ、その自己によって失われたものを未だに保有する者の純粋さを価値的に読み取ることが可能であるからこそ、おかしいのである。それは一瞬でギャグやコントを理解するということにおいてそうなのである。そしてそれを読んだり(マンガとか)聞いたり(お笑い番組、演芸)して笑うということは、以前も似たようなことを読んだり聞いたりしておかしかったことを思い出すからこそ作ることの出来る表情を伴っているのである。
 それは討論とか座談とか語りに参加する者がそこで語られる意味内容以上に、その意味内容を産出するサイドに自ら加わること自体に意味があるような意味で、そのおかしさを覚醒し、思い出し、かつて同じような気持ちを持ったことを瞬時に条件反射的に表情で置き換えることに他ならない。つまり潜在的に誰しも知っている笑いの正体とは、端的に生自体が生を持続していく上で得るものと引き換えに失ってしまったこと自体の滑稽さを、それを失っていない者の表情や語りを語られることを通して覚醒しつつ、しかしそれが自分ではない演じられる他者であるからこそ、自分は巧く社会に生き抜いてきたということを知って安心するのである。その自己によって失われた純朴さを保持している愚鈍ではあるが純粋な者の風体自体を価値的に捉えることを通して純朴であり純粋であり、素朴であることのしんどさをその者に肩代わりさせることによって平凡であり失ったものと引き換えに得てきたこと自体の価値に安心するのである。自分の方を優位に立たせることによって安心を得ているのである。だからこそお笑いを提供する者ピエロであることは率先して損をしていることを担う役割認識をしていることである。そういう役割を担うことによって、平常の生活においては失ってきたものと引き換えに得てきたことの方が重要なのだ、と言い聞かせて安心させているのである。だから本質的には笑いとは大人にしか得られないことである。子どもの笑いはただ嬉しいことだけであるが、大人の笑いにはそういった重層的で深い意味合いがあるのである。
 それは未来が不確実でありいつ自分が死ぬか分からないから不安であると同時に、だからこそ安心も出来るということを意味している。一定の量を伴った今を食い尽くしてきた経験のない者には笑いを理解することが出来ないという意味では笑いには幾分、と言うかかなり自嘲の意味もある。自己の内部に巣食うどうしようもない諦念もあるし、どうしようもないことをどうにかこうにか価値的に見ようとする涙ぐましい努力もある。何故なら所詮生きていくということはそれ自体理性論的に捉えれば滑稽なことだからである。

Monday, November 16, 2009

〔表情の言語哲学〕2   第四章 言語活動が表情を代理する

 私たちの意志伝達、意思疎通と言われるものの多くは既に実際に直に会って話しをするということの方が極限られている。つまりメールのみでの遣り取り、携帯電話でのみの遣り取り、或る論文を読む学者にとってその論文を書いた人の実際のプロフィールなどはどうでもいい場合も多いし、新聞を読む時も、ネットでニュースを読む時も、その伝達された内容だけを把握すればよく、実際一切他者と会って語り合うという行為を介在しないことの方が多い。またそういう殆ど他者と実際に会わずに過ごすことも可能である。
 そこでは人間の実際の顔で示される表情は一切確認出来ない。にもかかわらず、我々はメールの文面、論文の文体とか文章内容、あるいはツイッターによる呟き的投稿文にその言葉を吐いた人固有の個性とか、人格とか性格を読み取ることが可能である。いや寧ろ実際の人格では推し量れないその人間の思想とか性格とかの本質を文章が示してくれる。つまり言語活動は、言語活動が今のようではなかった人類初期のエポックによる表情のみによる意思疎通という事態ではあり得ない幾多の表情を、つまり実際に何か嬉しいことはあった時に笑みを示すとか、ある不愉快な出来事を目にしたり、耳にしたりした時に渋い表情をするということから判別される感情以外のもっと内奥に仕舞い込まれた真意のようなもの、あるいは潜在的な欲求を読み取ることも可能である。
 そういう意味において言語とは極めて偉大な発明である、と言ってよい。その言語メッセージ自体が感情を読み取ることが可能であることは、例えば「関係者以外立ち入り禁止」という立て札にも顕著に表されている。そこには特権者とそうではない人を明確に区別し、差別する意識が読み取れるし、権威主義的な他者に対する振舞いの発動と捉えることも可能である。あるいは権力の行使ということから考えることも出来る。
 つまり文章、語彙、言葉自体の利用の仕方自体に顕在化されているその言葉を利用する者の態度とか、スタンスを我々は一瞬で読み取ることが可能である。
 それは株の売買とか取引といった金融市場的遣り取りにおいても行為者たちの感情、性格、思想を読み取ることが可能である。あるいはコンビニで買い物をする時に、どういう商品を購入するのかとか、買い物をする時どういう順序で、どれくらい時間をかけて買い物をするのかという行為全般に渡る様相からも全てを読み取ることが可能である。それはもっとマクロ的に見れば、何時に起きて、どれくらいの時間を働くこと、社会に奉仕することに捧げ、休暇とか休日の取り方とか、頻度、あるいは休み時間の過ごし方全般からも読み取ることが出来る。それらは一切が行為選択であり、要するにその人間の言語的メッセージであると同時に、顔を一切見せなくても我々はそこに顔の見えない相手の表情を読み取ることが可能である。
 行為は言語を誘発させるし、誘発された言語とは行為者の見えない表情を想像させる。つまりある人間の顔も風体も一切情報が与えられていないにしても尚、我々はその人間の一日の行動を詳細に報告を受ければそこに自ずと浮かび上がるその人間の性格や思想が読み取れ、果てはその人間の他者と会った時の表情から、一人でいる時の表情も読み取ることが可能である。勿論それは文章自体が示すものとも少し違うかも知れない。しかし行動パターンとか習慣はそれ自体その人間の性格や思想とか癖を表す。
 だから文章はそういう意味では整理が極端に下手であるとか、行動自体は荒っぽい仕草であるとかいうこと自体も巧妙に偽装出来るとも言える。しかしそういう風に本来ある姿を必死に隠蔽しようとして書く文章と、そうではなく良くも悪くも本来ある性格とか思想をそのまま表明していこうとするスタンスでの文章では全くそこに立ち現れる文章の様相、あるいは全体から読んで受ける印象は異なるに違いない。
 宮本武蔵における「五輪の書」には端的に孤高の剣士に固有の孤独へと埋没していく意志の強靭さと空隙的な心の余裕を求める求道者固有の精神の高みへと達したいという欲望を読み取ることが可能である。それは武蔵の文章自体が極めて簡潔でありながら、どこか行間に何かしらの余韻、それは暗喩的なメッセージ性とも少し違う、要するに何かを達成した者にしか味わえない達観した生と死への透徹した眼差しを読み取ることが可能である。つまりそこに示されたものは説明ではないのだ。述懐的部分もあるが、必要以上のメッセージを一切省略するというより、寧ろ最初から必要以上のことを語ろうとするスタンスすらないし、そもそもそういう選択であるよりはずっと最初から焦点化された一点を透徹した眼差しで凝視すること以外の何もしないということを自然と執り行う姿を彷彿とさせる。
 それは短い一句を捻るツイッターにおいてさえ読み取れるし、俳句や短歌からも勿論読み取れる。何も武蔵だけがそういう姿を読み取ることが出来るのでは勿論ない。
 つまり同じ意味内容の伝達であっても、ニュアンスが個々異なることから、ある意味内容を行為した事実報告であっても、同じ真理に対する述懐であっても、個々全く異なった感情様相と、性格的傾向によってそれらがなされている、と言っても過言ではない。
 それは初めて電話で会話する顔を知らない人との遣り取りにおいても、その人間の性格的傾向性とか、対人関係的なスタンスの取り方さえ読み取れる。それはビジネス的内容の報告会話内容であっても、こちらが質問することに受け答えるサーヴィスであっても相手の表情を読み取ることが可能なのである。
 そういう意味では全ての言語活動はその人間の伝達メッセージ保有者、つまりメッセンジャーとしての性格と思想とを運ぶ表情さえも彷彿させずにはおかない。
 例えば文学者やエッセイスト、ルポライター、学者たちによる出版的行為のスタンス、どくくらいの頻度で出版物を刊行するかということから、ある意味では一冊の本の構成や文筆内容の選択、どういう読者層を狙っているかとかそういった全ての行為選択からその著者である人物の対人関係術とか思想、あるいは世界自体に対する接し方、人生全体への思想が読み取れる。それらが綜合されることによって、その人間の生き方全体から個々の瞬間の表情まで読み取れる。これが極めて興味深いことであると同時に、恐ろしいこともある。一年に一冊のペースで出版する人から数年に一冊のペースの人から、毎月数冊以上出版する人に至るまで彼等文筆業というきわめて限定的な範囲内でもその各自の思想、性格を読み取ることが可能である。従ってそういったプロフェッショナリティ自体から読み取れることが引いてはその人間の日常的な表情まで読み取れるようになる。それが判断ということである。あるいは解釈と言ってもいいが、極めて解釈と言っても、本質を読み取ることが容易なので、深読みとか、曲解といったことを誘引する可能性が少ない読みである。
 例えばある人のパソコン内にバックアップを取ってあるフォルダに対する整理の仕方自体がその人の性格を示すということは好例であろう。例えば或る人はフォルダの数が多い時にそれぞれをAとかBという風に分類しておくことを考え、そのフォルダをファイルの中に幾つか纏めておくことを考えるとファイルには1,2,3と数字を当て、フォルダを個々の記号を当てたい時にはAとA´とかA´´という風に分類していくということも一つの手である。あるいはファイルを大文字のA、Bという風にすれば、フォルダをa、bというように小文字にするというのも一つの方法である。
 しかしA、BもZまで多くなるとそれぞれ個々の情報の性格を一々記憶しておくことが大変なので、大まかに各ファイルを七つに分けて、AからGまでに纏めて、それらのファイルの中に更にa,bというファイルに分けて、個々のフォルダは1,2,3にするというのも一つの方法になる。つまり端的に情報収納してあるものの数と、その意味内容如何によって分類の仕方の合理的な仕方、つまり利用しやすさは変更されていく。
 だから人間をあまり深く人間関係的に立ち入らずに済ます場合は、それぞれ個々の成員に対してA、B、Cでも一向に構わない。しかし全ての成員をそういう風に分類しても記憶しきれるものではないから、却って個々の成員に固有の固有名詞を記憶しておく方が大勢の成員を記憶しておくためには便利である。つまり固有名詞とはその者の顔に対する記憶から誘引される、或る顔にある固有名という結びつきで覚えておくということである。
 しかし顔の特徴自体は表情の持っている普遍性とはまた違う要素のものである。違う性格である。つまりある細面の顔には神経質の人が多く、ふくよかな顔の人が大らかな性格であるとは言い切れない。そういう場合もあればその性格と顔の分類が一切該当しない場合もある、つまりこの二つは全く相容れない基準なのである。つまり骨相学と表情の持つ意味は全く違っている。我々はある文章とか文面、文体、言葉の選択から表情を読み取ることが出来たとしても、その人の骨相的面相を知ることは出来ない。
 勿論私が問題にしているのは表情である。そしてそれはある意味ではかなり普遍である。そしてデリダならデリダの顔を知っている場合、そのデリダの対人的な表情を思い浮かべることはたやすいし、ドゥルーズならドゥルーズのある文章を書いていた時の感情的な様相を知り、その感情を他者に対して抱いていた時の表情を想像することもたやすいであろう。しかしそれは写真などを通して我々がデリダとかドゥルーズの顔、つまりプロフィールを知っているからである。
 しかし先ほど述べたような意味でのファイルとかフォルダの整理の仕方自体に、ある人間の性格、癖、思考タイプを知ることもまたたやすい。つまり何に関心があって、何に対しては固有名詞まで知りたいと願い、何に対しては番号を振って分類したままにしておくかということに対する選別自体にある傾向が読み取れ、その人間の内的世界の表情が読み取れるのだ。
 私たちはアマゾンで買い物をする時出品者に固有の性格などどうでもよい。また大きな駅だが一度も利用したことがない別の地域から来た者が、ホームとか乗るための電車を尋ねる時駅員の性格とか人格、個性に対して大した興味などない。勿論女性駅員に何かを尋ねる時にその女性が美人であるということが印象に残ることならあるだろうが、それもずっと記憶に残るものではない。あくまで通りすがりの人である故、電車に乗って別の美人に目がとまればその女性へと関心を移行させる。しかしそれも勿論長続きはしない。と言うのも姿格好、あるいは顔立ち自体の美とか好感度と人格的な好感度が一致しないということを我々は知っているからである。
 しかし彼等の表情自体が印象に残ることはあり得るだろう。つまり顔立ちを忘れても駅内部の構造とかどの電車に乗ればよいかを尋ねた時に親切に教えてくれたとか、要するにそういう彼女の取った態度とか表情自体を事実として「そういうことがあった」と記憶に残すことはある。あの時のあの女性駅員は笑顔を対応した、という風に。
 それはあくまで実際に語ったりした時の実際の表情である。それと同じような印象を言葉自体、つまり文章とかメールの文面に我々は印象に残す。それは固有の性格を文章自体が持っているということだ。
 かつて私が属していたビートルズクラブにおける会報において、「ジョンは神様、ポールは天使、ジョージは仏様、リンゴはお地蔵様って感じがする」とか「これからも恐らくいつもビートルズを語る時ジョン、ポール、そしてジョージと、彼はいつだって三番目だろう。でもそんなジョージが僕は好きだ」とかの印象に残る文章とかメッセージはそれ自体固有の表情を持っている。だからそれはそれを語る人間のプロフィールがたとえ不明であったとしても、我々の印象の中で強烈な刻印を果たす。つまり世界中の全ての宗教的言説、偉大なる文学の一節といったものは全てそういう性格を持つのだ。そしてその固有の印象的な言葉自体に対する出会い自体が自分の人生において極めて印象的であったということも大きく関係している。それら全ては私たちの記憶が物語を好むという性格に由来する。
 つまり私が去年と今年行った京都旅行において、あるタクシーの運転手二人、一人は京都出身者、一人は大阪出身者であって、その時々で話した内容とか、態度自体はよく覚えているのだが(エピソード記憶)、その運転手の顔を正確には思い出せない。何故なら人間の顔自体を区別する脳の部位は既によく知られているが、顔、身体格好といった全ては情報量が多過ぎてどうにも全部を記憶収納することなど出来はしない。そこでエピソード記憶として我々は自然と対話とか会話の内容、あるいはその時の大雑把な表情、態度といったものをピックアップさせて記憶するのだ。
 しかし文章自体はかなり情報量が少ない。従って印象に残っている文章とはその文書との出会いである。つまり詩であれ小説の一節であれ、それと出会った瞬間どういうことをしていたか、とかどういう他者と親しかったかとか、どういう生活習慣で、どういう決意の下で生活していたかということが綜合されてあるものを印象的であり、別のあるものをあまり印象的ではないとさせるのだ。従って一般的に私は文学ではこういうタイプのものに惹かれる、それは文学テーマに関しても、文体にしても、小説の構成にしてもであるが、ある小説を印象的なものにしているということが、個人毎に全く異なっているという事態も生じる余地とはここにある。
 だから親しくなっていった人というのは顔も隅々まで記憶している。脳科学では新奇なものに対しては右脳で接し、それが習慣化されて既知のものとなっていった場合あくまでこれは統計的な数値としてであるが、左脳で処理していくようになるということが既に知られている。だから逆に創造性の富んだ人というのは、ある意味ではいつまで経っても、右脳的処理をしているということにもなるだろうか?そのことに関してはある感銘を受けた詩や小説の一節、あるいは好きな俳句などに接する時、好きなものに対してはいつまで経っても、既知のものにならないということはあり得よう。
 だからあるものを新奇なものとして認識してしまうということと、同じそのものに対して別の人は大して新奇には感じないということがあり得るわけだし、また新奇なものに対してすぐに既知的なものに転化してしまい、辟易としてしまうものもあれば、そうではなくいつまで経ってもずっと新奇性を感じ続けられる場合もあるということだ。勿論それらも個人毎に全てその対象は異なっている。だからある詩の一節とか全部、あるいは俳句を新奇なものとして感じるという最初の出会いにしても或る意味ではその人のそれまでの経験、エピソード記憶が集積されて出来上がった人格とも関係してくる。要するに経験と記憶があるものを印象的であるとして、別のあるものを退屈で陳腐なものとしているわけである。
 芸術家とは概して印象的なことに意識が釘付けになりがちであり、哲学者とは端的に非印象的なことの方にもより関心を注ぎ、何故印象的なものもあるのに、そうではないものもあるのだろうか、と疑問に思う。勿論モネとかセザンヌとかピカソのような偉大なアーティストたちは恐らく同一人物内に今挙げた芸術家的要素は勿論哲学者的要素さえ持ち合わせていただろう。要するに偉大なるクリエーションとは綜合であるからだ。
 執筆家にとって自宅の整理とはその創造者の性格とか思想を反映させるし、その部屋の佇まいを見れば一目瞭然としてその著述スタンスを読み取れるかも知れない。確かに抜群に整理の得意な人もいれば、然程ではない人もいるであろう。しかし知性溢れる作家などの書斎などは概して極めて雑然と本が積み重ねてあったも尚どこか知性の片鱗を仄浮かばせるものである。恐らく現代では携帯電話の他人の番号の記憶から、パソコンのバックアップされたデータの保存収納方法自体からも、その人間の知性から感情的様相、生活傾向まで読み取れるという意味ではそれらもまた表情が読み取れるということであるから、言語活動自体が我々の表情を代理している、と言っても差し支えあるまい。

 タグをつけることについて先ほど触れた。ファイルとフォルダのことである。しかし個々のタグに名称を与えるということは丁度銀行に各支店毎に固有名詞があることと、それを一括して処理するシステム上それぞれの店に店番号が必要であるように、タグにはそれぞれ固有の、しかし一切の性格的描写の皆無の番号という認識システムが必要である。しかしそれらは端的に一枚の固有名詞とタグ番号の対応表があればこと足りる。しかし勿論ある個人を識別する時にアジア人であり、その中で日本人であり東京に居住しているとかの、要するにタグ自体が意味する個への対応ということについてある分類根拠が求められるのだ。つまり銀行なら銀行の支店についている固有の番号はそれなりに出鱈目に対応させているのではなく、東京の電話局番が03であり、横浜が045であるような意味である根拠がある。
 しかし集合的な認識において合理的に他と峻別し得るのは、例えばある同一系列の銀行全部に同一の情報を送信する際に必要となるタグ番号という認識自体に、一切の表情は必要ない。数字に個性を表現する術はない。表情が必要とされる機会とは端的にその固有の銀行をよく利用する人にとっての利便性のみである。それは個人に対しても該当する。私たちにとって親しい間柄の人の自分に対する対応とか、表情は重要な意味を持つ。親しいと言っても、それは自然人的趣味の集いであれ、仕事仲間とか同僚とか同一業界内の知人でも全て同じである。その時問題とされることとは、端的にその表情はその個人に固有の癖であるという意味では唯一無二的なことであるが、同時に嬉しい時には嬉しい表情をし、悲しい時には悲しい表情をするという同一律的な意味での普遍的相同性があるということに尽きる。そういう意味では表情とはその表情を認識する主体である我々にとっては普遍的であり、一般的である必要があるにもかかわらず、ある者が示す嬉しい表情はやはり唯一無二であるという両義性があるということだ。
 だから個ということの意味は唯一無二でありながら、それが誰にとっても理解出来る唯一無二でなければいけないという意味ではウィトゲンシュタインによる私的言語を滅却した経路を辿ったもののみを唯一と呼ぶに値すると我々は規定している。だからこそ私たちは表情が言語を代理する、目は口ほどにものを言うとそう言うのである。

Saturday, November 14, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第三章 表情と行動の関係

 表情筋を伴った複雑な感情表現は高等霊長類(チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、マントヒヒ、オランウータン)にのみ許された所作である。そしてその表情は全て言語であり、つまりコミュニケーション手段として何らかのサインの役割を持つ動物は押し並べて、原=言語の所有者である。すなわちそれは人間だけではない。しかしそれがエクリチュールへと展開するとなると、やはり人間だけである。しかしこれは一体どういうことなのだろうか?つまりこういうことだ。人間は意思疎通する手段としての表情を他者に示すことと、その表情を示すことそれ自体を分けて考えることがたまたま出来たということだ。このことを人類言語学者であるテレンス・ディーコンはレファレンス能力と捉えている。この現実の行為や対象と、その行為そのものや対象そのものを俯瞰して、つまり一歩後退させた地点から客観的に眺める行為そのものを、その行為や対象に対するメタ認知と言うが、それを行為や対象そのものとは別個に、つまりそのものとは切り離された事態として認識することの出来る能力そのものが、人間の他の霊長類とは異なった、つまり人間にだけ今のところ付与された能力である、と見ることが出来る。しかし重要なこととは、そのような客観視と俯瞰視能力を駆使して、人間は異なった位相の行為を更に高次のレヴェルの行為を案出することに長けていたということだ。その一つがエクリチュールの発見であろう。それは発声行為としてのパロールを、「声を出して他者との間で意思疎通し合う」という行為そのものを、説明的な道筋で捉える、すなわち論理的に理解することが出来たからこそ、そこに、ではそういった意味産出と、他者‐自己の意思疎通という通信性そのものを、別個の形で写像することによって、つまりそれ自体をレファレンスとして認識し、そのレファレンスの像、つまり一つのシンボルとして明確に認識出来る形で保存することは出来ないか、という懸案事項の結果としてエクリチュールが案出された、と捉えることが可能である。それは音声聴覚行為そのものを、その際に発話者、発話内容を音声で受信する者双方の意思疎通性そのものを、そういった音声聴覚とは全く別個の形でまさに「示す」うってつけの方法として書記という行為が案出された、ということである。この時絵画や、音楽以外の、つまり発声聴覚行為の持つ音楽性と、絵画の持つ空間写像性を、一挙に満たすそれまでにはなかった形での複合的手法を捻出した瞬間、我々の祖先は明らかに行為そのものへの、あるいは指示対象そのものへのメタ認知能力そのものを書き留める、保存する手段を発見したことになる。
 ジャック・デリダは初期論文である「グラマトロジーについて」で、レヴィ・ストロースが訪れた南米の諸部族の居住地域での体験を示した「悲しき熱帯」を高く評価している。彼等は当然のことながら文明人がするような意味でのエクリチュールは持たない。しかし顔や身体に無数の記号を描き、それをある種のシンボルとして利用していた。それは文明化された我々の文字使用や記号使用のような分化された用途としてではなく、それ以前の恐らく祈祷的思念と、身体的バイオリズムそのものに対する神の声からの受け答えとして執り行うある種の彼等なりの社会行為であるとストロースは直観し得たからこそ、それらを我々の使用する文字のような純粋記録性のものとは別個のものであるにせよ、そこに原=エクリチュールとしての性格を読み取ったのである。そしてデリダはそのことに対して真摯に受け止めている。つまりそれはストロース→デリダによって示された原=エクリチュールという根源からの延長線上に位置する一つのヴァリアントなのである。
 そして人間の表情は明らかに無数のそういったシンボル化作用である原=エクリチュールを根源とする作用の中のたまたま見出された一個の表現方法でもある。そしてそれは何より偽装の最も難しい、あるいはその不可能性をすら告げる顔=感情であるところの原サインである。人間だけが恐らく表情における感情と、その感情を模様などで表現することとと、それを文字によって記すことの行為それぞれを並列した、等価の行為として認識し得たのだろう。つまりそれらは端的に感情の意思表示という内的思念の表明、表面現出化作用として、受け取ることが出来たということを意味する。
 つまりここにディーコンの主張するレファレンスということにおける行為的実現、行為的理解(つまり説明する能力としての理解ではなく、行為実践してそれを身体的所作とか慣用において理解しているということ)の典型例を見出すことが出来る。
 確かに我々は文字を持たないクルド人に対して野蛮である、という観念を持たない。それは彼等がたまたま文字を持たなくても、何かそれを補い、別種のやり方で意思疎通し得てきたであろう、ということを、つまりこのレファレンス明示能力、あるいは原サインを他の行為と並列的な現実として認識することが可能な我々の仲間である、と我々が理解することが出来るからである。そういう行為の並列的認識こそカテゴリー思考能力なのである。そしてそれは他のいかなる霊長類にも真似することが出来ない。
 だからこそ表情を示すことそれ自体を人間だけが言語行為として認識することが出来るということを意味する。それはあらゆるパントマイムその他をも含む身体言語活動の原サインであり、根源に位置すると言ってよい。だから逆にその事実は他者のいない時、つまり自分の表情を読み取る他者不在時においては、我々はその原サインの意味、つまり顔つきとか他者が識別可能な表情の意味というものがそれほど意味を持たないということも意味する。勿論既に他者の存在を考慮に入れて行動している我々は、たとえ一人でいる時にも、その他者性というものを思念上考慮に入れた表情をしている筈なのだから、それは他者間で示される他者との交わりを想定した原サインの一ヴァリアントであることは間違いない。
 つまり我々は一人で顔を洗い、手を洗い、髭を剃り、腕を上げる全ての所作を、一人でいる時に誰に対して示すことがないにしても尚、そこに他者を想定している。自分が自分の顔の表情や健康状態を確認する時、自己に対して他者の視線を向けている。そしてそうして自分のことを確認するのは、今度別の機会に他者に相見えることに対する無意識のウォーミングアップである、ということもまた確かである。
 しかし生まれてから一度も他者(両親や家族を含む)とかかわりなく成長した個体がいたとして、その者は、例えば狼少年的な生い立ちである場合、恐らく他者に示すという練習ででもあるかのような表情の取り繕いそのものを決してすることは出来ないかも知れない。尤も狼に対して仲間であるという意識があるとすれば狼の表情言語をそこに見出そうとするということは考えられる。
 我々は確かにラカンの鏡像段階において、初めて自分を自分である、即ち他者が見る自分の姿というものに対して自覚的になる。鏡を見てそれを自分であると認識出来る種は、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、イルカ、アジアゾウ、人間だけである。ゴリラは他者に対して直接視線を投げかけ合うことそのものを忌避する傾向の習性があるので、自分の鏡像を自分であると認識する能力を発現する以前に諦めてしまうということが言えるのかも知れないと動物学者たちは考えているようである。
 ともあれ我々が鏡に映る自分を他者の視線からのものとして捉える自分は、自分の採るべき表情や行動を意識する雛形であると言ってよいだろう。それを自己意識とか自己に対する認識のスタートであると考えても確かに間違いではない。つまり他者とコミュニケーションを取るという行為可能性としての自分に対する発見と、その発見的事実の長期記憶化作用である。そして表情を作ることそのものは端的に他者に対して意思疎通することを暗黙の内に同意している、というもう一つの大事な事実を我々に告げ知らせる。つまり表情の明示とは、他性の承認と、意思疎通相手としての他者との交信の同意である、ということである。つまりそれがあるからこそ、我々は「あなたと話がしたい」という表明を態々する必要がないということなのである。
 言語そのものについて考えてみよう。
 私は言語を品詞からその発生論的ニュアンスもある人類哲学として捉えてみたいのだが、その前に言語が社会ゲームとして成立する場として、あるいは前提条件としての生活史というものを考えている。例えばホモサピエンスだけが霊長類の中で一年中発情可能である。発情期というものはこと人間に限って(尤もそういう種が他にも発見出来るかも知れないけれど)ない。つまりこのような事態とはどういう状況によって自然選択において決定されていったのか?捕食外敵の恒常的な存在、あるいは地球物理的な過酷な条件で人類の祖先が滅びかけていた状況に対する自然選択的抵抗として発情期という周期的妊娠可能性に対する改善という措置が自然の側から齎されたと考えることが可能である。しかし重要なこととは、何故そうなったかということよりも、そうなってしまったことによる我々人類に対するもう一つの恩寵を見つめることに他ならない。
 それを私は理性と考えている。これは勿論原始理性である。そしてその原始理性とは同僚間での信頼、仕事(狩猟採集、後に栽培)中心の社会活動の進化である。
 本来性行為そのものが快楽を伴わない種は、それだけで絶滅対象である。そして人間もまた性行為を身体的、であるが故に精神的なものとしても快楽として認識出来る。そして一年中妊娠可能、射精可能であるという現実は、性行為の快楽に感けていたら、たちまち種の生存を脅かされていたことだろう。そのために性行為をすることは家族単位での幸福追求という事実を一方で容認しながら、他方その幸福を一人でも多くの成員(大人社会での)が享受出来るために、一致協力して仕事に邁進する時には性的欲求を抑制し、禁欲的な生活によって報酬を得ることをモットーとしなくてはならない。その時協力という概念が、そして自由と保障、責任と義務、幸福と権利といった概念が発生した可能性も充分にある。しかし同時にオフの時間には性行為をして子孫を繁栄させるための努力をしなくてはならない。そのためにまさにデズモンド・モリスが人類のメスだけが乳房が巨大化している事実を性的信号説として捉えていることに対する正当的根拠が成立するのだ。つまり性的抑制機能(仕事中に仕事以外の快楽へと走らないように禁欲すること)の解除として乳房がオフの時間にメスからオスへと発せられる性的快楽誘引的記号として作用してきた、ということである。それがなければ人類は絶滅していたであろう。そして言語は恐らく仕事での同僚との協力と、オフの時間での配偶者での家族的慰安という精神的作用の両面から発展してきた可能性もある。
 つまり人類は性行為がいつでも可能となった時点で、既にその事実に対して自覚的だった。そしてその時を選ばずに性行為が可能なことが、逆に仕事をいつしてもよい、つまり性行為をある一定の時期にしなくては子孫を作ることが出来ないという切羽詰った状況から開放されたが故に精神的に時間を自由に選ぶことが可能となり、ビジネスオンの時間において協力と、禁欲的(まさにマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」は人類の社会活動の起源としてそういった人類の理性発露の絶頂して近代を捉えている。尚カントが他律というものは、実は多分に性行為に対する拘泥とか耽溺を意味するのだ)で個人私利私欲、個人幸福追求を一時棚上げする智恵として理性を招聘した、つまり楽しい生活をすることと、その生活を成り立たすために全ての成員が少しずつ私利私欲を我慢することという並列思考が可能となった。つまり性行為がいつでも可能なことを、いつでも可能であるなら、いつ仕事をしてもよいという認識に結びつけること、つまりそれぞれの可能性(個人的幸福、個人的幸福を一時棚上げにすることによって社会を構築し、その義務を履行することによって社会からの報酬と権利を享受すること、つまり性的快楽の追求と禁欲的奉仕を並列的行為群として認識することが出来ること)を並列的に認識することによって生活全体を自由と責務の配分によって調整することが可能となったことが人生全体から諸々の行為を位置付けるメタ認知が可能となった。だからこそ言語を、その概念把握とか言語を通した論理を構築することがより円滑に行われるようにするための手段として利用することとなったのである。
 人間が人間的であるとか理性的であるとかされるのは、一重に一年中性行為が可能であるのに、その可能であることだけに感けることなく、いつでも家族的幸福を追求することは可能なのだから、オフの時間以外は有効に社会活動へと奉仕し、他者と協力し合うという選択をなすことが出来た、それもまた一重に人間だけが性行為一年中可能ということと、その事実を認識することを別個の事態として自らの脳内の思惟において並列化する能力に端を発している。つまり理性とはそのような並列事実によるメタ認知と、そのメタ認知を個人の幸福追求と、他者、引いては社会との協調の中に位置付ける更に高次のメタ認知へと飛翔させる認知的進化の発現能力に他ならない。だからこそ配偶者を性的パートナーであると同時に社会協力者としても認識可能となっていたのだろうと思う。
 さて品詞論へと移行しよう。動詞や形容詞とはそのものを使用する際に表情が肯定的な事態の表現とそうではないものとの間では明らかに相違が顕在化する。喜怒哀楽と単純に示される感情様相にその都度随順した表情の類別性を常に伴っているのが動詞使用と形容詞使用に他ならない。
 そしてビジネスオンタイムにおける我々の生活を表現する動詞、形容詞に対する価値論的な評定と、オフタイムにおけるそれとは対立する要素もある。ビジネスそれ自体を楽しむという心の余裕は、現代社会で経済的余裕を獲得した個人乃至は社会全体の希求によって発生するので、それ以前には仕事が楽しいという観念などもっての他であり、寧ろ責務遂行という観点から言えば、非娯楽的、我慢の時間という風に考えられる。そこでは真面目な、勤勉である、実直であるという形容詞が想定される。(真面目はともかく、勤勉、実直という言葉それ自体は明治期以降のものだが、意味論的にそれに類するもののことを私は言っているし、この三つは確かに名詞であるが、その名辞性は明らかに形容詞から派生したものである、と捉えられる)そしてそのものを今度は家庭内、あるいはオフタイムでの幸福追求において捉えると、否定的ニュアンスになる。つまりただの堅物であるというレッテルを貼られる。と言うことはつまりこのビジネスオンタイムとオフタイムとでは自ずと形容詞レヴェルでは全く異なった様相のものが主体ということになる。それは動詞でもそうである。遂行する、とか履行するとか、果たす(尤もこれは家族との約束を果たすということでも使用されるが、実際はまず社会内責務遂行から派生していると考えられる)とかの動詞はビジネスオンタイムにおける価値論を基本としている。それに対して楽しむ、寛ぐ、遊ぶといった動詞は明らかにビジネスオフタイムの精神活動、あるいは娯楽活動に端を発している。つまりあのJ・L・オースティンがパフォマティヴとコンスタティヴという二分法において動詞を些細に分類した根拠とは、この生活全体におけるオンタイムとかオフタイムとかの精神活動そのものの表情、つまり精神的な作用のニュアンスの違いに端を発した考察だったのである。・そしてそれは例えば通例では仏頂面だけであると思われがちなビジネスシーンでも、オンタイムの従業員たちは、オフタイムのユーザーを相手にしているわけだから、当然ユーザーが気持ちよくサーヴィスを受けたり、商品を購入したり出来るようにその際の会話をスムーズにするように双方が心掛けている。それは社会活動として友好的な対話ムードを作るということである。それもまた一つの社会ゲームである。
 だから当然犯罪者は犯罪目的遂行のために、表向きは善良な市民を装い、友好的ムードを作ることに余念がない。あるいは敵対する相手に対して対話で友好的ムードを装い、その実策謀に相手を巻き込むことを考えている輩にとっても、この会話をスムーズに進行させることに対する配慮は社会ゲームとして前提されている。要するに「私は話しやすい人ですよ。」というサインを表情という原サインにおいて示すのだ。
 会話しやすい環境を構築するということが社会ゲームとしての前提であり、そのゲームの維持こそが社会活動に他ならない。社会ゲームが理性を要請してきたとも言えるし、端的に責任、良心、義務、権利といった諸観念もまたこの社会ゲームとその維持という社会的事実が我々に齎してきたとも言えるのである。つまり言語とはこのように社会ゲームという不可避的人類の集団行動によって派生した恩寵である、と言えるのだ。言語が概念を作るのではない。言語が諸観念を作るのでもない。概念や諸観念そのものの発生的事実の集積と、その集積事実に対する認識、即ちメタ認知能力こそが言語を我々に引き出させたのである。
 だからもし表情と行動との関係を把握しようと思うなら、当然この社会ゲームが社会的諸観念、諸概念を発生させるという事実にまず向き合わなくてはならない。社会ゲームには全ての成員が多少の精神的心の持ちようが異なっていても尚、等しく感じられる規約、つまり自己‐他者という観念が共有されているという前提が必要である。犯罪者でさえ基本的にはまずこれに随順しつつじきに逸脱しているということだ。それはいざ会話するとなると会話しやすい環境を主体に整備するという行為選択の定着である。
 つまり他者への懐疑、羨望、嫉妬、憎悪といったネガティヴな感情は最初からそういうものとしてあるのではなく、最初にまず信頼し合うという場、スムーズに意思疎通し合えるという可能性に対する認識が、その実現を阻まれることによって発生すると考えた方がよい。それらは肯定感情という前提の上の成長した否定感情なのだ。

 俳句制作者たちは彼等の集団を結社と呼ぶ。この集団は月一回というような句会と呼ばれる集まりで自分で作った句を披露する。そしてその中からいい句を選ぶ。投句したものの中から選ばれるものは、大勢の人によって選ばれたものとなるが、往々にして本当にいい句というものは少数の人間だけが選ぶもの方である。例えば三句ずつ選出して(選句と言う。)その全ての出席者の選句を集計して選ぶトップとは、要するに一人が三句選ぶ場合、最もお気に入りのもの以外は、無難なものを選ぶ傾向にある。そして最も個人的にお気に入りの句というものは個性が強いから寧ろ少数のカルト的ファンだけのためのものである。そしてそのカルトファンたち相互では価値観は受け容れられない。しかし無難な句というものは主観的には好きではないが、客観的に纏まりのいいものである場合が多いから、当然俳句制作者個人の好みから言えばやや平凡なものとなる傾向がある。これはよく売れる通俗職業画家の絵に近いものである。俳句制作者たちが自然をテーマに句を発句することを吟行と呼ぶが、こういう時にも無個性的作品だけが選句集計ではいい得点を稼ぐ。しかしその評定性と芸術性はまた別個の問題である。
 俳句制作をしてその俳句句会形式を記憶の問題と結びつけて論じたものが西村佳寿夫(私の父)の「ペーハーの俳論_篠原梵の解体_」である。彼は同郷である師と仰ぐ篠原梵(中央公論の編集長などをして出版界で活躍した俳人であるが、あまり結社で弟子を取ることに熱心ではなかったので、知る人ぞ知るタイプの天才俳人と言われる。愛媛県伊予市上野出身。臼田亜浪、川本臥風に師事、亜浪の「石楠」に作風は拠る。改造社の「俳句研究」昭和十四年八月号の座談会にて山本健吉司会の下、「新しい俳句の課題」に中村草多男、石田波郷、加藤楸邨と同席し、人間探求派の一人と称される。明治43年~昭和50年。)の句と、用言止めを好んだ師の句制作傾向を、体言止めを好んだ石田破郷と比較検討して論じている。座して嘆じるの姿勢であった石田に対して、俳句に動勢と句構成的メカニズム(主客の関係性をよりクローズアップさせた)を導入した先人として西村は篠原を高く評価している。それは本家取りとかの古典趣味や風流をある意味では否定する考え方であった。
 そして本論がユニークなのは、西村が指摘していることには俳句とは国際的には短歌以上のものがあることの理由として七記号以下の語句の連なりが極めて短時間記憶(短時間に最も効率よく正確に記憶出来ること。)の最大効率的な記憶定着の長さである、ということである。これはジョージ・ミラーなどによる実験で明らかにされた考え方であるが、それを俳句が世界的隆盛となってきていることと結びつけたところに西村の論のユニークさがある。そしてその記憶作用と句会形式のみを後世に伝え、それ以外の風流趣味的部分は寧ろ瑣末なことでしかないという主張が篠原から意志を受け継ぐ西村の主張であった。
 実は最短の長さで効率よくしかも内容あるフレーズで記憶に残させるということは昨今のある政治家のワンフレーズポリティックスを想起させるが、要するに多くの衆目の印象に残る作品とそうではない作品というものの差は、ある意味では芸術的価値が仮に稀少であっても、流通性という観点からは特筆すべきものがあるかも知れない。だからそういう価値とは芸術性のものである俳句でなければ、寧ろ歓迎である。
 そして興味深いことに名句というものがある句会に出席した者にしか分からない場の雰囲気、つまりその日の天候、句会の場所、集まったメンバーの顔ぶれといったことと句制作(その時に作ったものでなくても)を巡る状況と相まって、相互作用をして名句が発掘されるわけだが、その選者たちの精神状態と選句の傾向は充分密接な関係があるが、いざそれが印刷され、世間に周知されると、今度はそのような名句誕生秘話とは下世話な専門家、好事家好みのネタでしかなくなり、普遍性を帯びるようになる。このことは句の持つ創造上でのモティヴェーションと、それが一旦公的なものとなった時とのギャップという問題となるが、第一章で私が述べた真理領域の問題、つまり完全理解よりも部分理解可能な領域の方が言語においては重要なのだ、だからこそ篠原の目指した、あるいはそれを西村が汲み取った俳句制作を巡る私的な動機中心主義(古典趣味や、座して嘆じるデカタンス)からの離脱という志向性に意味を生じさせることとなる。理解というものの本質とは、その理解されるものの背後や背景といった個別性よりもそれらを排しても尚残存する普遍性の方により比重がかけられている、ということである。
 つまりあるいはそういうものとして初期人類にとって法や法的な様々な規約というものが発生し、それと相補的に各動詞、形容詞、あるいは名詞のカテゴリー別にそれを使用する者に個別のニュアンス、つまり言葉としての表情を付与するような品詞性格、傾向性、あるいは文法として統合される時の傾向といったものが構築されていったと考えることが出来る。ある意味では優れた芸術は、その短時間記憶とか、長期記憶に残りやすいキャッチーなフレーズという考え方そのものをメタ認知したものである、とも言えるのではないだろうか?
 つまり芸術はその意図がそう容易に理解され得ない(少なくともその作品が作られた時点では)ということにおいて、その時代を先取りした観念があるのだろう。つまりキャッチーさそのもの、つまり「皆の印象に残るものとは一体何なのだろうか?」という命題に対する一つの回答として示すということに何らかの工夫が施してあって、その読み方、回答の受け取り方が一筋縄ではいかないというところに時代を先取りした観念がある、というわけである。それは寧ろ安易なアレゴリーやメタファーではないだろう。寧ろ余りにも生であることによってそれが回答の明示であるという風には俄かには理解され得ないというところに芸術の主張の本論がある。それは大人の保守的な相互の羞恥を隠蔽し合う配慮というアンシャンレジームに対して子どもの心で羞恥自体の内的メカニズムを暴き立てるような所作としての改革心があり、その改革という意志は要はそう容易に見抜けるものではない、つまりそれ相応の学識が要求される、ということである。
 つまり法による大胆な改革とか、政治上の改革とか、芸術上の実験といったものには皆共通した主張があり、それは内的な羞恥それ自体の正体に対する真摯な言及なのである。それは子どもの羞恥をそのまま温存させようとする変更不可能性に対する安住に対する異議申し込みなのである。「それを恥らうことの意味を私は知りたい」という主張なのである。そしてそれを支えるものとして全体理解の不可能性に対する自覚と、部分理解の偏在性、普遍性に対する歓迎の意図がある。それは端的にコミュニケーションというものの本質なのである。そしてそのことが私の「意思疎通の場の前提条件は信頼出来る関係構築という肯定的なことであり、否定とか対立といったものはその場設定後の行く末によって生じるものである」という考えを裏付ける。
 我々は道を人に尋ねる時に「あの、すいませんが、」と言うような前置きをするし、朝すれ違う社員に挨拶するところから一日の仕事はスタートする。その際にお辞儀をしたりするが、尤もこれは西欧社会ではないことだけれど、笑顔で接するということは向こうでも定着している。要するに意思疎通可能な成員同士である旨を報告し合うジェスチャーとかサインを言語の発生論的なミニマルな要素として認識してみよう。
首を縦に振るか横に振るかということに関して大人も子どももそう変わりはないだろう。眉間に皺を寄せて話をしようとしているのか、それともほ朗らかな表情で相手を見つめているのかという相違は、場の空気感を支配する。それが最初に意思疎通する時の場の空気を醸し出す。そして言語行為の進化と発展は、私は肯定的感情による場空気が齎してきた筈だ、と言った。それは例えば肯定的な首を縦に振ることの方が大人と子どもでは最も変わりないだろうということからも明白である。だが否定的素振り、つまり首を横に振ることを子どもは何の抵抗もなくする。しかし同じことを大人がすると角が立つこともある。だから断り方の巧みさこそが大人社会のソフィスティケーションと言ってもよいだろう。そして大人と子どもとが最も変わりない部分は、恐らく上司から説諭されたり、説教されたり、訓戒を受けたり、そういうネガティヴな評定に自己を晒してしまっている状況下でのしゅんとなった時の表情で、それは大人も子どもも寸分も変わりないだろう。と言うよりこういう時我々は一瞬にして子どもに戻るのだ。と言うことは社会活動が円滑に機能するために大人が配慮しなければならないこととは、訓戒したり、説諭する時に真理領域的相互理解を誘引するような柔らかい口調と、表情が求められるということでもある。受動的なことにおいて子ども社会と大人社会に違いはそうないが、能動的なことにおいて、否定的伝達と責務的な拒否的攻撃性、とりわけ断り方もそうであるが、つまり叱り方において大人社会はある一定の力量が要求される。信頼される上司か否かは褒め方で決まるのではない。叱り方で決まるのである。
 故に大人社会では真理領域の理解こそがモットーであるとつい考えてしまうが、私は子ども社会こそ真理領域前の、つまり先述の例で言えば、俳句制作者が、俳句を紡ぎ出す、句会とか創作仲間との交際とか、作品を成立させている背景に最も敏感である、と言えるし、つまり逆に大人社会とはそういう意味では鈍感力の醸成において人的交流が全うされるということを意味するのだが、要するに子どもは表情というものに敏感な生き物である。だから童話を聞かされても、その説話の意味内容よりも、その話を語り聞かせてくれる親の表情や、目上の人の表情全般が最も気になる事項なのだ。そのことを「アンデルセン童話集(Ⅱ)おやゆび姫」においてゲオルク・ブランデスが次のように書いている。
「書かれた言葉は貧しく、また不十分だ。話す言葉は、話すにつれてのいろいろの口の動かし方や、形容のための手ぶり、声の長短や、鋭さ或いは穏やかさ、まじめな或いは滑稽な響き、全体としての顔つきや態度といった、一群の授けをもっている。話かけられる相手が幼ければ幼いほど、彼はこのような補助手段を通してより多く理解するのである。子供に話をして聞かせる者は、誰でも無意識のうちに、いろいろと身振りをしたり、顔をしかめてみせたりする。つまり、子供は話を、耳で聞くと同じだけ目で見るからであり、まるで犬と同じように、言葉に善意がこめられているか怒りがこめられているかよりも、口調がやさしいかとげとげしいかに注意するからである。だから子供に向かって書く者は、音調の変化、突然の休止、描写的な手まね、恐怖を起こさせるような顔つき、眠りこんでいる興味をめざめさせるような事件の展開をしめす微笑や冗談や愛撫や訴えかけを駆使して、それらすべて叙述の中に織りこむように気をくばり、また時に応じて直接に子供の前で歌ったり描いたり踊ったりしてみせることができないのだから、彼の文章の中に歌や絵や身振り手つきを呪いこめて、それが呪縛された力のようにその中にひそんでいるようにしておき、本があけられるやいなや、それが立ち現れるようにしなければならない。」(新潮文庫 山室静訳、288~289ページより)
 子どもに対して嘘をつくことが難しいのは、子どもは完全理解を望むからだ。子どもには部分理解でよしとする社会観はない。しかし価値論的に大人は子どもの完全理解を望みもする。と言うのは愛する者同士、とりわけ親子や夫婦、恋人同士の関係では、ビジネス上での取り繕った表情をすることを敢えて避けたいと望むからだ。「家族の間で隠し事をするのは止そう」とか「何でも私に相談して」と配偶者へ持ちかける態度で、偽装性を排除して、誠実で真摯に臨みたいという気持ちを大人が持つということだ。
 表情が最初の言語であり、挨拶の最も大切な第一歩であることから、例えばテレビのアナウンサーは何か不測の事態が起こったからこそ、それを報じるわけだが、仮に若い世代のアナウンサーでも老齢者や年配者しか知らないような著名人や政治家が死去した時、あたかも一瞬喪に服すような表情を浮かべるが、これは責務偽装である。彼等が実際は知らない人の死去ニュースであってもだ。しかしこの偽装性は営業畑のビジネスマンは全ての人員が心掛ける所作である。
 そういうものと愛し合う者同士の表情は本質的に違うと我々は通常考える。しかし寧ろその二つを分けて生活するということは、逆にどちらも偽装性が皆無ではない、あるいは誠実性とか本音を示す表情というものがあるに違いないという、つまりそういう真意の表明をするには一定の意志を要するという事実を物語っているに過ぎない。愛し合う者同士だからこそ杓子定規な挨拶や儀礼や、取り繕いを排して臨もうという配慮そのものに、基本的に他性というものを携えて社会生活する者の越えがたい自己‐他者の壁を感じさせずにはおかない。
 例えばセックスはボディーランゲージである。しかしセックスの最中に相手にエクスタシーへと高まりつつある風情を示すことにおいて我々は快楽を享受しているから、陶酔の表情をするということ以外にも、結構な比率で陶酔の表情をすることによってセックスという特殊状況をより効果的に愉悦として受け容れたいという側面も否定出来ない。つまり愛情とか友情とか信頼がある一定の期間(決して短くはない期間)持続させるために我々は一定の配慮と努力をし、相手に対して斟酌し合うという関係を取り結ぼうとする。そしてその一環としてセックスの最中に感じあう振りをするとか、相手を極自然な愉悦の表情を取り繕うことによって喜ばそうとすることそのものを殆ど自動的に愛情に付帯する義務の如く感じるというのもまた大人の部分理解の真理領域死守性である。
 愛情や幸福の完全把握という幻想を生きる我々にはこういった配慮を極自然なものとして円滑に行うことを、寧ろ営業畑の人間がビジネススマイルをすることと、実際上何ら変わらない家族愛、友情、男女の機微といった責務性を、全てを並列的に認識する能力の発現であると捉えれば、ややニヒリスティックに過ぎるだろうか?
 しかし退屈な会議、例えば参院予算委員会とか、そういう場でじっと座って様々な人の報告を聞くだけの大臣クラスの人々にとって居眠りとは最も魅力的な無意識欲求である。私は第一章で意識することの多くが、魅力的だが忌避すべき無意識に対する抵抗であると捉えたが、そのような無意識の排除こそ社会生活上での責務偽装によって問題を引き起こさないように配慮している我々の日々の努力において散見することが出来る。
 だから取りたくはない新聞の勧誘員に対してさえ、我々はあまりにも邪険に扱うことを回避するのは、新聞購読者を勧誘する営業活動もまた、社会機能維持のための一環であるから、仕方のない現実であると受け容れているからだ。しかし邪険にしないまでも、関心のない振りをすることで早々と別の一戸へと立ち去って欲しいと願うだけのことである。
 自己の欲求を意識することが出来るのは、ある欲求が満たされていないということに対する覚知によってである。だから無知において欲求は生じ得ようもない。と言うことは欲求を欲求として意識出来るということは知識、認識、対外部的情報摂取と密接にかかわっているということを意味する。無意識に欲求することもまた日常的に排除すべきものであるなら、我々は自動的に何か欲する、例えば喉が渇いたとか空腹感に苛まれるとかのこと、あるいは排泄したいと感じたりすることを除いて、無意識に他者の言に対して退屈な感情を抱くことを悟られないようにするとか(例えば参院予算委員会で与党政治家が野党政治家に対して採る最低限の敬意を持った態度等)の意識的努力が必要とされる。そしてそれは表情に無意識の願望が自動的に出ていないように振舞う努力以外の何物でもない。
 欲求とは意識的になった段では明らかに自己内での欠乏、外部的情報による自己内の不足状況によって齎される我々の心的作用にとって認識論的な現象でしかない。
 哲学で言うところの現象論も機能論も共にある全体であると認識されたものの中から把握する変化様相に対する経験的な後付けでしかない。例えば論理学者や言語学者たちが哲学的に自然言語と人工言語とを峻別して認識するのは、日常言語から我々が真理領域的把握によってア・ポステリオリに認識してきた部分理解の普遍性に対する無頓着な信頼が糧になっている一つの仕方にしか過ぎない。
 言語学者の考える人工言語とは彼等の論理を実証するための予め恣意的に選ばれたセンス・データの一つでしかない。その論理の実証に相応しくないものを予め排除した偏向した例でしかない。しかし人工言語そのものの正体を、あるいはロボットのようにただ人間の命令に従って動く物体に備わっている心(=擬似心)の正体が把握出来ていないということと同様に実は我々は人工言語を通した真理理解というものに対する正確な理解をしているわけでもない。これは部分理解でよしとする私の分析によって溜飲が下げられるものでもない。
 哲学者の信原幸広は「意識の哲学」(岩波書店刊)において第五章<感覚の客観化>において滑らかな視覚的クオリアと触覚的クオリアが実在する物体において一致すると脳で勝手に我々が判断することそのものは経験的な蓋然性に依拠するものである筈だということを言いたいために、敢えて視覚的な認知と触覚的な認知が脳で統合されていたとしても、その滑らかさそれ自体は、カントの言った物自体と同様決して把握し得ているわけではない、ということを次のように述べている。
「(前略)性質それ自体は、われわれにはけっして知りえない性質である。われわれが知りうるのは、何らかの仕方で表象された性質である。われわれは手でテーブルに触ることによってそれが滑らかであることを知りうるが、そこで知られるのは触覚的な滑らかさであって、いかなる表象の仕方からも切り離されて滑らかさそれ自体ではない。滑らかさそれ自体はけっして知られない。」(167ページより)
 ここで信原はヒラリー・パットナムの示した「水槽の中の脳」という発想をも彷彿させる我々の脳内現象である認知世界を即実在である信じてしまうという哲学的懐疑主義的な見方をクオリア論理学的地点で採用している。そしてその懐疑主義と、実在現象論的な、あるいは実在信仰幻想論的な考え方は表情と行動においても適用出来る。
 我々は他者の心の中を覗くことが出来ない。しかしある表情をした他者の振る舞い全てから他者の心が安定しているのか、あるいはざわついていて不安定であるのかをその都度判断している。それは終ぞ完全に知り得ることが不可能であるからこそ、その認識的欠乏状態によって逆に「知りたい」という欲求を掻き立てられるという欲求発生論的な心的メカニズムを他者の表情と心の中という関係の理解、判断に採用していることになる。
 そして表情そのものの意味を最も有効に把握することが可能なものとして、我々は他者の行動に対する認知を選ぶ。それは丁度彼の行動というデータを下にして彼のそれまでの行動パターンから弾き出される統計的な真理値を巡って、彼の表情の示す意味が、行動を反映しているということを確認することが出来るという意味では、言語学者たちがある一つの日常言語から、その背景やその陳述を齎した意味を探るために、その者の発言傾向を巡って彼の行動と発言との相関性を示した新たな人工言語を発見する努力に等しい。
 彼はああいう表情をしていたが、あの時普段だったらああいう表情をした後に彼が採る行動から推察するに、あの時の表情は我々がそこに認めた判断は誤っていなかった、つまり彼はその前に起きた例の事件によって意気消沈していたのだ、と自殺した友人の最後に皆が見た表情を慮ることにおいて示される目撃者たちの判断基準の正確さを確認し合う場面で見られる認識は、つまり言語学者の産出した人工言語のようなものである。
 家族だから秘密を持たないようにしよう、とか愛し合う男女だから全てを告白し合うようにしようという考えは、実はそれをしなければ全てがご破算になってしまうという極めて脆弱な信頼性に対する安全地帯とリスキーゾーンとの隣接した状況を物語っているに過ぎない。それは親しい者同士ではビジネスの際に顧客に見せる表情とは違った本音の部分を見せ合おうという意識そのものが、ある一定の制度的呪縛(理想の家族像といったものを産出する文化的状況)に絡め採られた思惟でしかないことを物語る。ある意味ではビジネスとは「その仕事をして食っている」ということの表明なのだから、最も真意を表明した行為である。つまりビジネス的な責務偽装とは言ってみればそれ自体、「ビジネスの建前を遵守しましょう」という真意の最も明確な人間の行為であり、ビジネス上でのスマイルという偽装とされた本音があるからこそ、逆にそういう勤務中以外の家族団欒での寛いだ雰囲気を人間が社会ゲーム全体の中で獲得出来るのだ、と言えるし、それは自己存在に対する認識が他性認識を起点としていることと相通じる論理でもある。
 人間の行為の全てが社会ゲームとして位置付けられるとしたら、恐らくセックスの際の表情や体位変更する所作、あるいはセックスオーガズム時のエクスタシーの表現である呻きや喘ぎさえもが、言語行為として位置付けられ、ビジネススマイルや、家族での団欒での表情とか、友人との間でしか言えない本音を語る時間での笑顔といったものと並列して人生を構成する要素として認識される、という意味では私たちに私たちの行動や思惟に真に野蛮なという意味での自然な場面は皆無である、と言ってもよいかも知れない。ある意味では人生全体が<人間がホモサピエンスとして種行動を採る>という自然であるという意味での自然であると言う以外では、全ての時間はその自然を構成する中の恣意的な、人工的な行為であるとさえ言える。つまり社会ゲームを一時も我々の脳は離脱することなど出来はしないのである。
 現代の脳科学や心理学においてさまざまな実験的データから明白となっていることとして、第二章の初めで示したダマシオ等による見解によると、人間の身体はまず情動を発動し、然る後感情を持つということだ。それは要するに池谷裕二の言葉を借りれば、「感情というクオリアは脳の活動をダイレクトには決定していない」(「進化しすぎた脳」朝日出版社刊)ことになるが、このような発見は何も今世紀において、あるいは20世紀の後半において特筆すべきことのようによく語られるが、実際脳が判断して、それを感情に置き換えている(意志ではなく、脳が)ということは恐らくフロイトも考えていたことではないだろうか?つまりそれを否定したいのは宗教家とか一部の狂信的な哲学者(自由意志絶対主義者)くらいのものであろう。身体は自動的に全てに反応するし、その自動性を無意識として処理してきたのが精神分析である。しかし意志したと思った瞬間よりも脳が判断した瞬間の方が逆に現代脳科学に逆らって遅かったならば、我々はとっくに絶滅していただろう。そういう観点に立てば、「表情は偽装していたとしても、その人間の感情を読みとれる」と考えるよりも、既に表情は身体の反応を全て集約していると考えた方が理に敵っている。寧ろ悲しい表情をすると自然と悲しくなるだけのことである。結婚して今幸せな人が葬式で楽しい表情をすることが出来ないから、悲しい表情をしていると、自然と涙が出てくるような意味で、我々は表情を取り繕うのではなく、外部的な強制力と随伴して自動的にある表情を構成している。
 と言うことはダマシオの言うように情動が感情を喚起するということを前提に考えれば、ある情動を最も如実に反映している表情が感情を呼ぶという私の提案は正しいことになる。楽しくなくとも楽しい表情をすれば楽しくなるのである。あるいは仕事で本当は楽しくないと思って接客をしていても尚、笑顔で接客すればじきに客と応対していることそのものが楽しくなるという意味では私が責務偽装といったことは、家庭で何らかの悩みを持つ者でさえ、職務中の責務によって寧ろそういう悩みを一時忘れることが出来るという意味では表情の偽装とは、致し方なく偽装しているのではなく、主体的に(?)偽装していると言ってもよいものである。つまり表情を作ることそのものは脳の命令であるから、その命令に従って人間は感情というクオリアをどうにでも変化させることが出来ると捉えた方がよい。感情(扁桃体によって作られているとされる)をコントロールするのも脳である。つまり情動を前頭葉が意識することによって感情が認識されると考えてもいいことになる。
 何らかの外部の状況に呼応して人間はその外部状況に対して何らかの判断、感情的反応を示すわけだが、その際に次に採るべき行動を決めているものをたまたま我々は理性と読んできただけのことである。だから感情をコントロールするものもまた理性であると捉えてきたことにも繋がる。
 だから楽しい踊りをしているのに、嫌な気分の表情をすることが却って不自然で難しいような意味で、表情はその表情に相応しい行動を我々に採らせるのだ、ということはある意味では尤もなことである。尤も社内でダンス大会があって、普段そういうことをしたこともないので、必死に同僚や部下に教えて貰った上司が苦虫を噛み潰したような表情でダンスを踊る姿というのは考えられるが、それでもそのこと自体が楽しければ、巧く踊れなくて擬古地なくても尚表情は晴れやかなものである筈である。ただ彼がプロのダンサーのように表情にユーモアを交えるくらいの余裕がないだけのことであるに過ぎない。
 薬学専門で脳科学に勤しんでいる池谷は動物の言語は要するにサイン(信号)であり、人間が豊かな感情のクオリアを持つことは、言語を獲得しているお陰であると考えているが、実際感情の襞とか感情そのもののニュアンスや表情は、言語に誘発されているという部分も大きいだろう。しかし言語を使った何らかの行動を起こす意志決定の合理化をなすものの本体は言語ではないだろう。あるいは言語を利用してクオリアの襞を複雑化しているその全体を誘引するものもまた言語ではないだろう。それこそ情動によって喚起された感情と言えるのではないだろうか?確かに感情を複雑に表現出来るという事実は言語が我々に誘引した能力だろう。しかし同時に仮に言語を我々が獲得してなくても尚、行動を正当化するための脳活動そのものはある種の非言語的な論理のようなものに支えられて、その場その時の最も合理的であると考えられる判断をしているのではないだろうか?つまり我々はそういう状態というものを「仮にそうであったら」と想像するしかないということだけのことである。
 人間の本意や真意は一つだけではない。それは人間の記憶能力が他の動物に比較してずば抜けているということからも明白である。例えば売れっ子のライターや小説家たちは月に何本も同時連載している。そういう場合それぞれの連載ものに対して払われる注意は等価であるように訓練されている。だから寧ろ一本の仕事に集中している場合の方がよりその展開において行き詰るということはあり得ることである。実際心理学者のアリス・W・フラハティーはライターズブロックと呼ばれる書き手によるスランプは、逆に書きたいという病ハイパーグラフィアと裏腹の関係にあると考えている。例えばある有名な作家は書くことの出来ないスランプ時にも、手紙で親しい人に長々とその生活状況を記した文面を書き送っていることを例に、つまり本当に何も書けないのであれば、手紙等書き送ることなど出来はしないと考えている。と言うことは小説や論文、エッセイと様々なスタイルのものを同時並行させて書く著述家の方がよりスランプに陥り難いということは言えるだろう。それは小説を書く時に働く脳内の思考の表情と、論文を書く時のそれとでは異なるということも言えるし、小説に対するスランプをエッセイが救ってくれるということもあり得るからである。丁度それは絵画制作に行き詰った画家が一時平面から離れて彫刻や陶芸を作ることでスランプを回避するのに似ている。また先述した家庭に悩みのある夫が、職場で仕事に打ち込むことで、一時悩みから開放されるという例からも言えることであろう。
 だから恐らく感情をコントロールすることよりも表情をコントロールすることの方が我々には困難ではないだろうか?表情が曇ると、感情をコントロールして楽しくしようとすることは出来る。しかし楽しい表情を浮かべるという意志は、曇った表情をしていたからである。だから曇った表情を作っていた感情をコントロールすることによって自然と表情は晴れやかなものになる。晴れやかな表情になれば自然と感情は安定してくる。
 だから私が先ほど「人生全体が<人間がホモサピエンスとして種行動を採る>という自然であるという意味での自然であると言う以外では、全ての時間はその自然を構成する中の恣意的な、人工的な行為であるとさえ言える。つまり社会ゲームを一時も我々の脳は離脱することなど出来はしないのである」と言ったことの背景には、行為を意図的にしようと欲し、意志的に感情をコントロールすることそのものが社会ゲームでの規則であるのなら、先験的にそのゲームに参加する参加者としての主体的、非主体的な表情そのものは既に我々に与えられているということではないだろうか?それは意志する以前に脳がそれを決めているという脳科学の見地からも証明されていることではないだろうか?だからこそ逆に表情をコントロールすることそのものがアクターにとっての演技論であるような意味で、我々通常の市民にとっても重要な社会ゲームの参加者としての心得となっているのではないだろうか?
 私は子どもには嘘をつくことが難しいと言った。それは子どもは責任倫理的な意味合いから「もしそれが嘘で建前的なことであっても、態勢には影響がない。」という発想がないからに他ならない。大人とは適度に必要なことだけをしっかり覚えておき、後は適当に忘れておこうという決意を難なくこなせる生き物のことを言う。それに対して子どもはそういう世間的な智恵というものには疎い代わりに、洞察力が鋭い。(そういう意味では芸術家とか学者といった人種は須らく執拗な観察力が優れているから、子どもの持つ目新しいものに異様に好奇心を抱く心を失っていない、つまり既知感というものに疎いということ、つまり何にでも新しい発見をすることが出来るということである。)
 しかし私は子どもの心を全て大人が失っているとも考えていない。つまり表情というものに対する感知ということに関しては大人も子ども以上に洞察力の優れた人は大勢いる。
 そして表情は建前的な責務偽装をする(デパートや大手スーパーの店員が客全員に等し並に笑顔を作る、テレビカメラの前のアナウンサーが笑顔を取り繕うこと)から、大人社会では全て表情を通り一遍の記号として読む、喜怒哀楽を単純に、こういう感情の時にはこういう表情をするものだから、そういう感情なのだろう、と割り切れるほど、つまり偽装と真意の表出した表情の区別がつかないほど愚かであるなどとは思っていない。
 信原幸弘氏は哲学者として痛みの感覚について「心の現代哲学」において、そして脳科学的、心理学的考察として倫理と知覚の関係を考察した「考える脳・考えない脳」、そしてクオリアに関して多く考察した先述の「意識の哲学」などの秀逸な仕事をされてきた方だが、私は氏の言語を解釈記号として捉えている認識に多少疑問を抱いている。少し長いが氏の「意識の哲学」から引用してみよう。
「(前略)思考が内語/発語だとすると、意識的な経験が思考に変換できるということは、意識的な経験の内容が言語化できるということである。トマトが赤いという意識的な知覚経験をもつとき、わたしはトマトが赤いと考えることができる。つまり、「トマトは赤い」という内語/発語を言語表現の内容に変換できるということである。意識的な経験は、その内容が言語化できるような経験なのである。(改行)そうだとすれば、経験の意識的な志向的特徴も言語化可能である。わたしがトマトが赤いという意識的な知覚体験をもつとき、この経験は赤という意識的な志向的特徴をもつが、わたしはこの特徴を「赤い」という言葉で表現することができる。経験の志向的特徴が意識的だということは、それが言語化可能だということである。クオリアは意識的な志向的特徴であるが、その意識的というのは言語化可能ということである。それゆえ、クオリアは言語化可能な志向的特徴だということができる。(改行)意識的であることが言語化可能として捉えられるとすれば、言語をもたない者は意識をもたないことになる。サルの眼前に赤いトマトが立ち現れることはない。赤いトマトが立ち現れるためには、サルがトマトが赤いと考えることができなければならない。しかし、言語をもたないサルには、そう考えることができない。そう考えることは「トマトが赤い」と内語/発話することにほかならないからである。われわれは、サルが赤いトマトに手を伸ばしてそれをつかむことができるのは、サルの眼前に赤いトマトが立ち現れているからだと考えたくなる。しかし、そうではない。サルはそのような意識的な知覚経験をもたない。サルがもっているのは、眼前に赤いトマトがあるという無意識的な知覚体験だけである。そのような無意識的な経験があれば、赤いトマトを手につかむのに十分である。サルは言語をもたないため、赤いトマトがあると考えることができない。それゆえ、赤いトマトがサルの意識に現れることはないのである。(改行)言語をもたない者は意識をもたないということは、われわれの直観に反するかもしれない。しかし思考が言語活動だとすれば、そうならざるをえない。われわれはサルにも意識的な知覚経験に基づいて自動的な行動をするだけではなく、それに基づいた思考を行い、選択的な行動もするから、サルにも意識的な知覚体験があるのだ、と。しかし、思考が言語活動だとすれば、言語をもたないサルは思考をもちえない。したがって、選択的な行動を行うことができない。サルはもっぱら知覚経験に基づいて自動的な行動を行うだけである。サルが選択的な行動を行うようにみえるのは、すでに指摘したように、自動的な行動も個々の状況に応じた柔軟な行動でありうるからである。サルはそのような柔軟な自動的行動を行うだけである。サルはけっして意識的な知覚経験をもつわけではないのである。(改行)意識的な経験は選択的な行動を可能にするものである。しかし、選択的な行動は思考によって可能となり、思考は言語によって可能となる。したがって、意識的な経験が選択的な行動によって可能となり、思考は言語によって可能となる。したがって、意識的な経験が選択的な行動を可能にするためには、それは言語化可能でなければならない。意識的であると言うことは言語化可能ということなのである。」(193から195ページより、第六章 意識と言語中、3 思考と言語 より)
 
 まずここで私にとってネックとなったことと言えば、思考は言語なしにはあり得ないという箇所である。勿論言語は思考を秩序づけるから、対他的に意思表明したり、明示したりするという意味では言語を獲得していない動物では一切思考を秩序づけることは出来ない。しかしそのことが直ちに一切の思考を働かせないということにはならない。漠然とした判断、分類は言語のない動物でも可能である。ただそれらの能力を我々人間の持つ思考能力とは並列的には論じられないということに過ぎない。哲学者自身がその人類に与えられた(彼等は付与されたと言うが)能力を基軸に全てを論じるという使命故致し方なさは付き纏うが、それでもその捉え方では思考というものを極めて限定的で狭い範囲だけで捉えることにも繋がると私は考える。
それに氏の仰るように言語は認識の道具であるばかりではない。寧ろ音声的なクオリアでもあるし、また思考そのものも、たとえ言語を基本とした論理的修辞性に多く依拠した考えを抱くにせよ、その言語統語論的な秩序や、論理の積み重なったものそれ自体には、非言語的要素も多分に含まれ得る。例えば論理や思考を積み重ね重層化すると、そこにある幾何学的形態像が現出する場合もある(勿論それは言語獲得をなしていない動物の持つ本能的直感とは異なるにせよ)。つまり理解そのものさえ、ある意味では言語的認識ばかりではなく、もっと非言語的なクオリア、その一つが形態であるし、時には色彩的なものもあるだろう(脳科学的には共感覚と呼ばれるものなどもそうであろう)。つまり一見言語認識だけであるような重層化された論理や、秩序、あるいは統語秩序そのものさえ、音声的クオリアや視覚映像的クオリアが立ち現れているということも多分にある、と思うのである。もし信原氏のような画一的な言語認識を持っていると、表情においてまさにロボットと人間が笑顔を示した時、その表情が説明的なもの以上の理解には至らないと言うことになってしまう。私はそのことにおいて表情を記号ではない、と言ったのである。
 人間は断じて顔を見ないでいる内はチューリングマシーンとの会話と人間との会話に区別がつかないことがあったとしても尚、顔を目にした時には、それが人間の感情が入った言説であるか、そうではなくただ開発者によってプログラムされ指示された言説であるかの区別くらいは直ちにつく、というのが常識ではないだろうか?ある意味では感情の理解という観点から言えば、ロボットと人間の表情の区別は犬や猫でも可能である。もし意識至上主義となってしまうと、動物には言語がないから、思考がないという信原氏の抱いておられる発想になるが、動物には非言語的思考が可能である、と私は考えている。それは人間とロボットくらいははっきりと区別がつく(従って動物に全く無意識以外のものがないとする考えは間違いであると私は思う。)くらいの意識、それを意識と呼ぶことに差し障りがあるのなら、明示的感情はある、と考える。
 信原氏は少々論理的無矛盾性に対して拘りを持ち過ぎているように思われる。つまり時には直観力に頼ることの方が、つまり理詰めで解決するよりもよい場合というものもあるのではないだろうか?つまり言語的秩序ではなく、言語的感覚とか、非言語的明示的感情を優先した方がより言語的にも理解しやすいということはあるのではないだろうか?
私は信原氏の「意識の哲学」の論法をクオリア論理学と勝手に呼ばせて頂いているのだが、実際クオリアそれ自体を論じる場合にも、論理的に理詰めで行うことに哲学的意味がある場合も多いが、時にはそれが却って弊害になる場合もあり、そういう場合には哲学者であろうとも、寧ろ非哲学的常識に当て嵌めて考えた方がよい場合もある、と考える。
信原氏の痛みと痛みの感覚それ自体を分けて考え、それを見ることと、見る感覚それ自体と分けて考えることが出来ることと等価のものとして言語=説明能力と捉えるやり方は、論理的考察を感覚に適用する際にも、特別な仕方をしないで臨むという認識から尤もだと思われるが、言語=説明能力と捉えることにおいて、私はやや短絡的であるという印象を拭い得ない。氏は思考というものを言語的思惟であると決め付けているが、実際私は言語でさえ非言語的要素が介入するものであると考える(それは結論で考えている得ることと引き換えに失われたものをもある程度残存させているということである)。勿論そのこと自体を言語的に、そして論理説明的に我々は置換しようとするのである。しかし同時に論理や説明、言語的秩序を支えるものとしての非言語、感情的起伏といったものを私たちは無視するわけにはゆかない。もっと言えば我々は論理的思考という枠組みの中でさえ、具体的な言語や、代数的な思惟だけではなく、幾何学的、映像具体的な想念を抱く。またクオリアというと、どこか静的なイメージで捉える向きも多いとも思われるが、実際動的なクオリアというものもあるだろう。尤も動的であってもそれがある定型に嵌めこまれている場合、それは反復可能な動きなので、動きそのもののその時の一回性に対する重視ではないから、当然静的な動性ということになるだろうが。つまりクオリアは記憶と関係があるだろう。そこでいつも同じ動き方であるものに対しては、我々はそこに変化よりも、定型というものを見出す。それは即ち静へと同化させ得る動である。つまりそれ自体パターン化された動きである場合、それは「今度もまたいつもの奴か」という想念を我々に抱かしめる。それに対して、その時に固有のある人の動き、あるいは表情は、その現出によってそれまでにない印象を我々に植え付ける。それは明らかにパターン化されたクオリアとは異なるだろう。そういう経験を我々は一番親しい筈の親子や、兄弟、配偶者の中にも見出す。親友の中にも見出す。
 そして私たちは他者に対する配慮という観点からある表情や、行動(特に他者に向けてなされる行動、あるいは発話も含まれる)を粒さに観察すると、それはある他者に対する「構え」を持ってなされるものであるから、「振りをする」ことであると認識しがちだ。しかし「振りをする」という「構え」そのものが他者にそのまま差し出されれば、当然そのこと自体が真意となる。つまり真意の表出と、「振りをする」ことが一致した地点として他者に対して「構えられる」態度は解釈し得ることとなる。
 例えば私たちは不正受給をしようとする者の提出する請求書に対して、彼等が「水増し請求書」として銘打って提出しないことを知っている。つまり正規の正当な権利としてそれを通常の「請求書」として提出することを知っている。しかしそれでも何らかの不正な額であるとその提出された書類から読み取る者がいれば、それは「請求書」となっていても、通常の請求ではなく、水増し請求であることを我々は知ることになる。そういう意味において、我々は他者の偽装を、それが偽装ではなく真意の、誠実な表明であると理解することによって、逆にある不正な書類の提出や、偽装の表明である発言を、それなりに理解する。つまり「嘘をついている」という真意を、その「固有の振りの仕方」において見抜く。それは「振りをする」ことが誠意に基づいてなされているか否かの感情判定的なバロメータを我々が心的理解として所有していると我々が考えているからだ。そしてそれは個人毎に多少の違いがあるが、概ねその基準は一致している、と我々は考えている。それは不誠実に「振りをする」時の人間の表情は、どこかぎこちないということを我々が誠実に知っているからだ。
 なぜぎこちないのか、それは不誠実な発言、書類の提出を悪としよう、そしてその悪とは、逆に「悪とはいけないことだ」と認識する能力、つまり良心によって自覚することが出来ると我々は知っているからだ。つまり良心のない人間は、それが悪であると知って敢えてする行為という認識は持たない。真の悪は悪を悪と認識しない、当然のことだと思う。あるいは疑いすらしない。しかし通常そういうタイプの人間とは稀少である。そこで我々は不誠実な発言や書類の提出を「嘘と知って嘘をつく行為」の典型として、そういうことをする人間の行為はどこかぎこちないと経験的に知っているので、その経験を下に分析的判断を下すわけである。それは人間もまた言語習得した後も言語習得以前的な本能をも全く失っているわけではないということを示して(表して)はいないだろうか?
 悪とは良心が作るものである。悪とは誠実であること、嘘をつくことは不誠実であることを熟知した者しか悪であると認識することが出来ない。そしてそれは表情に直結する。
 信原氏は「意識的経験は思考に変換可能であり、思考に変換されることによって、選択的な行動を可能にする。だが、思考は言語活動である。したがって、意識的な経験は言語化可能な経験である。意識には思考が不可欠であり、したがって言語が不可欠である。言語をもつ者だけが意識への現れ、すなわちクオリアをもちうる。(改行)意識、自由、思考、言語、合理性。これらは絡み合って、ひとつの固有の領域を形成しているのである。」と「意識の哲学」を結語している。しかし私は意識においても言語化不可能なものがあると思う。勿論そのように言語化不可能であると言葉にすることなら出来るが、それは詭弁というものであろう。つまり何故人を殺してはいけないのか、ということを我々は意識出来るが、原理的にその根拠を我々は言語化しようとするし、それを試すことなら出来るが、それを実際言語化するという真意である根拠化することは不可能なのではないだろうか?
 つまり良心というものが悪に対して発動される時、我々は確かに意識的に悪に立ち向かっているが、その悪が何故自分にとって悪であるのかということを言語化しようとはするが、その言語化は根拠化された思惟へとは終ぞ到達しない、ということの方が真実なのではないだろうか?また信原氏は暗に言語を持つのが人間だけであり、動物はそうではないのだから、クオリアがないと言いたいようなのであるが、実際動物にとっての言語とは端的に彼等の表情であるという観点に立てば、彼等にも人間の持つクオリアとは違うというだけで、クオリアがあると認めてもよいのではないだろうか?

Tuesday, November 10, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第二章 言語は真意を伝えることが出来るか

 真理というものがこの世にあるかどうかは誰も知らない。しかしそれは少なくとも価値システム論的には必須の概念として論じられてきたし、それは哲学の歴史の重要な部分である。プラトンやアリストテレスからデカルトやカント、それ以降の哲学者の多くを翻弄してきた価値である。しかし少なくとも西欧哲学においては、真理とは理想への希求である以前に、まず神という絶対命題、最高存在者に対して付与されるようなニュアンスのものであった。スピノザは神即自然と考えたが、神に対する敬虔そのものにおいて人後に落ちないという自覚があったように少なくともテクストからはそう読み取れる。しかし彼は少なくともユダヤ教の教条的な倫理に疑問を持ったことだけは確かである。そのことについては脳神経学者のアントニオ・ダマシオの著作「感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ」が詳しいし、私の感情の捉え方は基本的にダマシオの考えに従って本書は書いている。
 西欧哲学では神の存在に対する懐疑が徐々に19世紀後半には顕著になっていったというのが実情であるし、寧ろ神からの独立というテーゼ自体は積極的有神論者であるカントに既に見られるスタンスである。(そのことは拙書「責任論」を参照されたし。ブログ「死者/記憶/責任」に掲載更新中)しかし奇妙なことには無神論にはどこか宗教的ニュアンスというものが付き物である。それは先験的な完全無欠という観念を払拭出来ないことには神性というものが付き纏うということである。例えば生物種それ自体にはある理想的な形状、それは自然に適応するために性選択の見地から等色々考えられるが、実はそういう値というものがあるが、殆どの生物個体はその理想値からは少しずつ劣っている。ある部分では他の個体より抜きん出ていても尚、別の部分では少し劣っているという風にである。そのことは人類史上の大天才にも当て嵌まる事実である。アインシュタインやピカソはアスペルガー症候群だったと伝えられる。アスペルガー症候群とは「おはよう。」とかのような型どおりの挨拶に対して「何で今別に時間のことを話題にはしていないのに。」とつい疑問を持ったりするような症状であると言う。
 だがそれにもかかわらず我々は理想値というものを当然の判断基準であるかのように振舞う。あらゆる社会ゲームにおける経済的な数値目標は全部そうである。それは唯一絶対の公理性に対する無条件の信頼、無頓着な信仰でさえあると言ってよい。
 無意識という言葉はどこか現代の困難な哲学的議題やら、脳科学的な命題とはそぐわないというニュアンスを私は常々抱いてきた。そういう直感こそが、サルトルやジャック・モノーをして無意識などというものはあり得ないのだ、という考えを抱かせてきたと思う。無意識と呼ばずに自動的に行動すると考えるともっとすっきりする。それは選択以前の選択、つまり何かをする時幾つかの想定し得る選択肢から縒り選ぶことではないのだ。もっと直接にそこに到達するニュアンスである。またそれは刺戟に対する反応とも異なる。それは外部的な能動的事実によるものであるが、無意識とは寝ている時にも起るものであるし、外部的に何ら刺激に類することがないように感じられる瞬間にも刻々脳内で作用していることであるからだ。それを自動的と私が呼びたいのは端的に、一々我々が意図しているわけではないからである。
 さて論理的思考とは言語的思考の獲得の後に円滑になるということは考えられるにしても尚、では言語的思考そのものが論理的思考の全ての根源であるかと言うと疑問が残るだろう。私は前章において視覚的な情報処理が言語的思考を促す可能性について触れたが、それはこういうことである。近くにあるものと遠いものとの段階的な区別が自分と他者の距離を認識することに応用されるし、それは一人称においては主語と目的語という峻別を我々に教える。例えば論理的思考はそれ自体で言語的思考そのものと密接であれ、独立しているようであれ、どこかで視覚的情報によって形成される映像記憶とも無関係ではないのかも知れない。例えば論理的思考というものは筋道をつけてプロセスの在り方を想像することであり、それは車と車がすれ違う様子とか、水がスプリンクラーから周囲に撒き散らされる様子とかによって、あるいは人同士が何か持っているものを相互に交換する様子を糧に対立とか、対抗とか、放射とか、雲散霧消とか、交換とか、置換とか、要するに抽象的観念というものは具体的な映像記憶や経験的映像的知識によってより理解しやすいということがあることを考えると、どこかでは具体的映像とも関わりがあると考えることもまた理に適っている。すると論理は具体を起源とすると考えてもよいことになる。
 西欧哲学が論理的な弁証法によって営まれてきた歴史をフランスの哲学者のジャック・デリダは論理的起源としてパロールを考えた。パロールは音声の発声に基本があり、それを基本とする書記述というルートを西欧哲学は踏襲してきたことに対して言語自体の語られる事実に対して語る行為のモティヴェーションとの相関性に彼は着目したからこそ、エクリチュールという事態の、文字を読む行為と書く行為の時間的差に内在する、記述者の意図とか、暗黙の読解者に対する要求という意図を、再び覚醒させることとなった。
 発話行為が基本である限り、論理は説明と不可分である。しかし私が捉えたような具体的な知覚映像によって齎される段階論的な、要するにプロセス認識が、論理の起源だとすると、我々は説明による説諭としての論理的説得力とは、実はア・ポステリオリに獲得した弁論術に起因することをデリダよろしく理解出来る。それは具体的理解の後の社会ゲームの一つの営みの必然的展開でしかない。
 デリダの示す考えに見られるように現代哲学以降の認識では明らかに文脈論的な理解だけではない具体的な映像記憶と学習といった言わばクオリアとか知覚的なトークンとか、私が考える質的な情緒とも無縁ではないニュアンスといったものと意味内容とは不可分であり、真理値そのものが真理を語ろうとする話者の語調とか、ニュアンス説得力と無縁ではないような意味で、それらは一層重要性を増す。
 私は日本人である。しかしアメリカ映画を見て、アメリカ人のライフスタイルを知り、そこで彼等なりの生活感情を理解することが出来る。一東洋人であり、東南アジアの一国民である私は西欧形而上学を理解しようと試みることは十分根拠のある行為であり、それと同じことをアラブ人がしても何ら差し障りない。それはアメリカ人やヨーロッパ人が禅東洋思想に関心を抱いたり信条とすることにおいても同様のことが言える。
 そういう意味では世界に既に国境などないと言ってもよい。あるのは個人の内的な民族的感情(私はそれを民族的ルサンチマンと呼ぶ。)であり、それは対他的にも、対外国人に対する私の不可避的な発信メッセージでもある。それは「あなたを理解したいけれど、理解出来る部分もあるが理解出来ない部分もある。」という表明でもあるのだ。
 アメリカの哲学者で一際目立つ存在であるヒューバート・ドレイファスは現代の人工知能研究の方向性に対して不完全であるとして苦言を呈している。彼の思想によると人工知能論者のような意味で文脈に依存しないで内的な象徴を内的な規則に従って操作する認知を提唱するその考え方は語義矛盾であるとする。「人間行動が客観的に予測可能なものと考えるなら、文脈に依存しない科学的法則があることになるが、実際のところドレイファスによれば、文脈に無関係に成立する心理学とは語義矛盾なのである。こういった立場は、現象学や解釈学の伝統(とりわけハイデッガーの著作)に由来している。人工知能研究が基礎を置いている認知主義的な考え方とは逆に、ハイデッガーは、人間存在は自らが置かれた文脈によって強く拘束されていると考えている。」(wikipedia2007年5月20日付けより)
 ドレイファスの考えに従えば、我々は前章でも触れたが皆自己流の具体的理解方法を感得しており、それを通して概念的理解とか法則的な理解をしていることになる。それらの考えを通して社会ゲームにその都度参加しているのだが、本質的には個々によってなされる人間の理解の仕方というものはそうおいそれとは他者が理解し得るものではないということになる。しかしだからこそ個的な理解と個的な意味の世界から社会ゲームにおいて流用された意味の世界に転換した際の共通したルールには国境など皆無であるということになる。だから空や無は西欧哲学やそれを志向する世界の研究者や学究の徒にとっても普遍的概念であり、今や東洋哲学の専売特許ではないし、それは我々が西欧哲学を我々の財産としているのと同じことである。それらの普遍概念は基準を設ける我々の構えを構成するものである。従ってそれらは前基準的なものであり、場構成上の必須設定基準であると言える。個人とはそういった場において可能となる。普遍的価値体系というものがあるとすれば、それは場構成の状況的顕現が必要となる。その具体的な顕現によってア・ポステリオリに見出されるものこそ普遍的価値体系である。だから普遍的価値体系というものはある意味ではガザニガが言う責任の作用そのものの脳内局在性の発見の不可能性と同様、あるいは真理同様の人間にとっての目標なのだ。
 そのガザニガは自著「脳の中の倫理脳倫理学序説」において左脳に人間が異なった文脈とか何の脈絡もない二つの事項を関連あるもの同士として認識する、即ち辻褄合わせの能力を有していると脳科学的見地から報告している。これは人間の論理的整合性という事態の全てに言えることである。しかし人間は非論理的心的作用に常に取り巻かれている。例えば端的に言って感情というものは全てこれに該当する。例えば愛情とは憎悪と隣り合わせである。尊敬は軽蔑と隣り合わせである。愛情は憎しみに転化する可能性として存在する。尊敬は軽蔑に転落する可能性として存在し、これらは全て一方の事態にのみ貢献するような心的なエネルギーではない。人間はある意味では自己本位であるからこそ、逆に社会性とか価値システム論的な脳の作用をもって理性を生じさせるのだ。その理性の原初的な作用が左脳による辻褄合わせであるかも知れない。
 例えば言語統語構造そのものにもまたその辻褄合わせがある。それは言語中枢が左脳の側頭葉に存在することからも頷ける事態であろう。しかしその辻褄合わせをすること自体に対して他者が「あいつの言うことはどこかピントが外れている。」という感想を持たせるのは右脳であろう。つまりこの二つは相補的に人間社会の全ての言語活動にも、あるいは言語活動休止時間にも採用されている。しかし人間の時間感覚は一人で瞑想している時にも如何なく発揮されるが、言語行為自体にも内在している。例えば言語学では色々なアプローチ、例えば音韻論とか語用論とか形態論とか意味論とかによって角度を変えて考察されてきたが、それは専ら「語られたこと」を通してだった。しかし言語行為とは語られたことを「語ること」として受け止める話者の意志とか、「語りかけてくること」という風に解釈する聴者の意志とかを無視しては語れない。その意味では言語学にはやはり哲学が必要なのである。あるいは脳科学も必要であると言える。
 言語行為それ自体がメッセージ的なものであるとしたら、必然的に言語行為それ自体に内在する品詞転換とか文節化秩序とかにおいて心的作用の感情様相理論が持ち出されてきて然るべきであろう。だから左脳の論理的整合性操作能力そのものも、また深く感情レヴェルに関わっていると考えることは自然である。言語は他者にメッセージを円滑に伝えることを目的としていると同時に、自己内の思考を整理したりして、そのことを通して時間という秩序を生きることを納得する、それは左脳的な理屈で納得するのではなく、もっと深く生理的に呼吸しやすくするような形で納得することを目的としている。だから言語活動そのものを音韻論とか語用論とか、要するに言語秩序という語られた結果だけを見て判断してもそこには自ずと限界があるのだ。例えば辻褄合わせという心的事実は、そうしなければ生理的に悪い作用を心的に、あるいは内的に、脳判断的に感じるからである。してみれば辻褄合わせをしないままにしていると脳病理状態の人間でさえ居ても立ってもいられなくなるということなのだから、それは時間秩序を生きる人間の「納得」という事実と向き合わなくてはならないということになる。
 例えば人間が何かを性急に伝えなくてはならない時、慌てた口調になり、きちんと流暢には語れずに所々つっかえたり滑舌を滞らせたりすることそのものもまた時間秩序における使命、責任感に支配されていることの証拠である。また抑えつけた感情を内部に保持しながら会話していても自ずと抑えつけられた感情がどこかで表出するような口ぶりになることを完璧には抑制出来ないという事実こそ無意識と精神分析で呼んでいるものが、実は感情の抑制であるか、あるいは忘れたいと願っているのに忘れられないトラウマであるか、あるいはとるにたらない雑多な知覚記憶を多く抱え込んで現在を生きている(つまり過去の多くの知覚や感情の痕跡に支配されている)ということの精神医学からの解釈であることを物語っている。私は無意識の多くは記憶の痕跡の仕業であると考えている。そして往々にして覚えたいということに関しては歪曲されやすく、覚えたくはないことに関してはありありと記憶されるということもあるということだ。
 だから結果論的にはある人間の発言全体を支配するニュアンスにはその人間の感情を読み取ることのたやすい全体的な表情を発見することが出来る何らかのメッセージがあり、個々の文章とか発言のメッセージとかは実はそれほど大した意味があるわけでもないのだ。
 例えば眉間に皺を寄せて語っているのか、ぽかんとして表情で放心したように一言一言力なくただ単に呟いているのか、それとも慎重な面持ちで口を窄めてぼそぼそと語っているのかというような違いそのものが全体的メッセージに意味論的にも語用論的にも形態論的でも貢献することは言うまでもない。その発言が公言されて然るべき性質のものであるのか、秘密にしておかなくてはならないものであるのかというような違いそのものさえもがメッセージ全体を支配する。表情とはある意味ではその人間(発話主体の可能性を秘めた存在者としての)内的感情の表出であるが、それは感情自体が発話主体としての存在者の置かれた状況に対する反応であるということである。だから示された一個の表情とは即ちある状況に対する抵抗であり、従順であり、苦悩の告白であり、協調であり、賛同であり、違和感の表明であり、抵抗の偽装であり、従順の偽装であり、協調や賛同の偽装であり、違和感の表出の隠蔽である。あるいはそれはある強烈なる意識を伴って齎される行動への前哨戦であり起爆剤であり、理性の回復への欲求であり、理性のカモフラージュである。理性の回復への欲求には狼狽が前提されており、理性のカモフラージュには防衛本能が介在しており、その前提には他者からの威圧と軽視があるだろう。
 それらはフロイト的に言えば意識と無意識、あるいは超自我と前意識とエスということの、あるいは理性と野生の相関性そのものの招来である。招来されたそれらの表情は、招来する者を差し置いて他者の家を我が物として居つくのだ。それはレヴィナス的表現を借りれば、明らかに我々全ての人間が「顔の人質」になっていることの証拠である。
 例えば今ここで幾つかの発話例を挙げてみよう。

A 「かもね。」
B 「わけないか。」
C 「とんでもない。」

この三つはA=推量、B=絶対否定の確認、C=絶句といった様相で捉えられる。上記の三つは実はそれだけで発話主体の置かれた立場、つまり社会的な立場だが、より対他的な信頼性に依拠した発言として示されている。勿論これらが対他的な信頼性に依拠していないケースとしては、どれも「ある発言に対する諦念的な嘆息」、「ある発言に対する鸚鵡返し的な確認<その発言行為に対する諦念>」かに属するであろう。しかしいずれにせよ、この三つは明らかに対他的信頼性に依拠している場合には、会話の流れを全く異なった三つの方向に誘う。


↓ ↓ ↓    
A B C
↓↙ ←


      


 人間は言語活動において発話する時には、言語自体の力によってある発話がなされたことによってその後、それまでに語られてきた会話の流れを転換するのではなく、寧ろ会話の流れをそのまま続行させるのか、あるいは多少変更するのか、または全く異なった方向にシフトさせるのかというような、最後のタイプには恐らく会話続行拒否も含まれるのだが、要するにそういう会話全体のメッセージを構成する流れ(それは文脈ともまた違う。)を決定付けるためにこそある発話を選択するように脳が働くのだ。だからある会話がどんどんある方向へと淀みなく向うとしたら発話者同士の信頼性が円滑に作用し、成果ある会話であると言えるし、逆にさっきまで話していた会話内容に戻ったりしつつ、それでいてその反復自体が楽しいものではないのなら、無意味な時間の浪費ということになり、それは空しい時間の空費ということになる。そういう場合には相互に疲れているから、いかに親しい間柄でも、その時はそれ以上会話を続行しない方がよい場合もあるだろう。
 要するに会話全体のメッセージとは会話の流れに内在する全体的な志向性、要するに方向付けが可能な意図であり、それは発話の語調に漲る発話者の情熱と、関心の度合いが示された会話の表情という一種のニュアンスである。例えば何らかの会議とか討議とか、国会の予算委員会とかにおいて、社長とかCEOとか首相とかが、他の社員、役員、議員たちと会話している時、勿論その司会者の手腕も問われるのだが、予想外の内容へと進展していった場合、勿論それはポジティヴなケースとネガティヴなケースとがあるのだが、我々は通常事後的に「あああの時のあの人のああいう発言がきっかけだったですね。」と理解することが出来よう。事後的に振り返れば必ず一つの分岐点が見出される筈なのだ。誰の眼にも明らかな分岐点というものもあるが、案外よく注意して振り返らなくては、私が示した翻訳の方向性のずれと同様なかなかそうだとは分からない分岐点というものもあるのだ。これは医師が手術をしている時に予め調べたスキャン等で理解出来た部分と、オペで開いた時に初めて発覚する部分とのずれにも言えるだろう。オペ担当の医師は身体にメスを入れて初めて了解出来る病因というものが微細な部分ではあるだろう。それが空間的な分岐点である。それは例えばある機械が故障してそれを修理する技師によって発覚する故障の原因、あるコンピューターが作動不全を起こしてシステムエンジニアによって発覚するシステム不備においても言えることである。コンピューターの場合操作ミスということもあるからあながち空間的分岐点とも言い切れない部分があるが、会話などの場合には明らかな時間経過上での分岐点が確認出来る(テープ起こしなどをしているケースで)だろう。
 もし私たちの会話が只の事実報告だけであり、一切の感情的ニュアンスというものがないとしよう。するとその会話では只、事実報告の羅列となり、また只の報告陳述命令者と部下による忠実な報告の反復だけとなる。そこには人間同士の血の通った同意、総意、共感、協調、協力といったポジティヴな事態もなければ、逆に反発、批判、中傷、非難といったネガティヴな意思表示もない機械的な言葉の連続となる。我々は後者のネガティヴな空気でさえ、実は前者のポジティヴな空気に転化し得る可能性を秘めた事態と認識することが出来るのだ。つまり言語が真意を伝えることが、伝え合うことが出来るかどうかという価値判断とは、実はこのポジティヴであるかネガティヴであるかどうかという移ろいやすいある種の未来に対する不確定性に依拠しているのである。もし最初からかつての株主総会のような儀礼的な形式の踏襲であったのなら、それは予定調和的なものでしかないだろう。しかし少なくとも不確実な未来への不安が抱え込まれているのなら、どこかの国の元首に対して軍人やら側近が只命令に従って事実を報告し、只日常的な変わりなさを確認して拍手するような光景しか我々には目撃出来ないだろう。つまりここで簡単に定義しておくと意志伝達とか意思疎通においては真意伝達が可能であるかどうかということの基準とは、それが自己対他という二者による最も基本的なケースであろうと共同幻想的な多数の人間によるセッションであろうとも、未来に対する不確実性に慄く参加者全員の非予定調和な、息詰まるような緊張感、しかもそれは命令に対する服従の意志に感じられるそれではなく、どのような展開してゆくかどうか不透明でありながら、何らかの期待感の皆無ではないような場の雰囲気であるだろう。そのような場では恐らく参加者による内的な参加モティヴェーションが切り崩される危険性は小さいと見てよいだろう。その場の雰囲気というものがコミュニケーションの形骸化の危機を救う唯一の方策かも知れない。
 人類が言語獲得することとなった経緯ということは今更実際上確かめようがない。しかし幾つかの仮説を立てることは可能である。例えば言語哲学者の丸山圭三郎は「言葉と無意識」において、彼は人間だけが身体的なホメオスタシスに依拠しないでも身体を維持出来る人工的な手段を持ったのであり、それを逆ホメオスタシスと呼んでいるのだが、例えば冷暖房の工夫(それは近代以降のものではない。着衣の習慣も、火を使用する習慣も既に古くから執り行われていたのだから)がそれである。外気温度の方を自分たちの体温に調節するというわけである。そして結論的な視座として次のように述べている。
「人間があごと歯が退化したために食物を煮炊きして食べ易くしたのでもなければ、足が萎えたために乗り物を開発したのでもない。むしろその逆であって、衣服をまとった原始人は体温の自動調節がきかなくなって寒さを覚えるようになり、歩くことを忘れた現代人の足から土踏まずが失われたのではなかったか。」(「言葉と無意識」講談社現代文庫版、172~173ページより)
 この箇所はしかし、丸山がある意味では彼が当時一世を風靡した記号論的解釈であるところの文化的フェティシズムを力説したいがためにこじつけたとしか思えない仮説であると思われる。つまりこういうことである。人間は実際自然人類学的見地から言えば、四足歩行から解放されて(森林の樹上生活になっていった人類の祖先の生活形態によって)、蹲る恰好で生活することから解放されたのと、頭を地面に近い距離に保ちながら跳躍する時に頭にかかる過大な負担から軽減されて、顎の構造を頑丈なものとして維持することに費やされるエネルギーを軽減することが出来、その分脳の大きさが増してゆくことを可能にする余地が生まれたことによって、口そのものも脳を保護したりすることに費やされる必要もなくなり、その結果意志伝達の細かいニュアンスを表現する工夫に智慧を使う余地も生まれた。そして顎の頑丈さが弱体化したことと脳が巨大化した結果として今度はその脳を使って火で食物を炙ることを発見したというわけである。そのことと歩くことを忘れた現代人が土踏まずが退化したこととを結びつけることは論理の飛躍である。現代の諸問題と人類の祖先の問題は切り離して考えるべきである。また着衣の習慣そのものは体温調節が利かなくなった結果であるか、それとも彼の主張するように衣服を発明したために自動調節が利かなくなったかという問題は、そのどちらでもないというところが真実だったのではないだろうか?つまり人間は確かにドーキンス的に言えば延長された表現型としてミームを保持することとなったのだから、その意味では丸山の主張するような記号論的解釈も成り立つし、それはある一面は言い当てている。しかし彼等は総じて文化的フェティシズムの人間本能の弱化という局面を強調し過ぎたきらいがあるのだ。恐らく事実は彼等の主張と、従来通りの主張の中間辺りではなかったかというのが順当な判断というものであろう。しかし大切なこととは言語獲得はそういった一切の過程においてなされていったであろうという仮説がどれほど信憑性があるか、である。
 そのことを考える上で意思疎通とか意志伝達ということは「あるもの」として、あるいは「与えられた機会」としてそこに存在するような手段ではなかっただろう、ということである。つまり意思疎通とは対他的な攻撃欲求とその解除という必要性の認識の過程において、徐々に秩序立てられて行ったと考えることの方に説得力がある。本来攻撃的欲求というものは同種の動物同士が何らかの対他個体攻撃の必要性のない内は生じ得ようもないし、また攻撃欲求の沈静化という必要性も全くその攻撃欲求の進化過程において事後的に認識され得る必要性が生じるものである筈だ。すると我々の祖先は平安な状態を打破するような対他的攻撃欲求が脳の巨大化に伴って生じ、そのために種の絶滅自体を回避する必要性から言語によって対他的に相互の利益追求をしつつ、相互の攻撃を回避する智慧を生じさせるという事態に至ったと考えることの方が説得力がある。だが実際上見知らぬ他個体に対して自己という意識を生じさせつつあった我々の祖先は、当初は不安に陥れられたであろう。それはそうであろう。もし意志伝達する意志を告げようとしているその攻撃が沈静化された状態で他個体から攻撃を仕掛けられていたら命の保障はなかったろうからである。その意味では他者を一先ず信頼することの姿勢を示すことは不安を伴う。しかしもしあるコミュニケーション意図をこちらから仕掛けて、その返答として向こうがこちらと同一の意図を保持していることを確認出来たのなら、即座に相互に保有されていた不安は期待に転化し得る可能性が高い。要するに相互の意志伝達欲求という真意表明性の確認という事態こそが、対他的な真意表明の場の所有という事実を相互に確認し得ることとなったのである。つまり端的に言えば当初相互に抱いていた不安という事態が期待に転化し得る可能性とは対他的真意表明意図の相互確認、つまり相互意図の理解に比例して大きくなるということである。
 ある意味ではどのような信頼性に裏打ちされている意思疎通であっても、それは本質的に思惑と思惑のぶつかり合いである。それは自己利益の獲得を目論む相互に利害対立的な折衝以外の何物でもない。それだからこそそのような利己的な真意の表出を偽装することをなくなすことの誠実性がより求められるという事態は、実は相互に無駄な攻撃的行動を回避したいという欲求に根差すものである。

 ところで話は変わるが、私は以前から人間の女性が妊娠出産することに伴う激痛という事実にある疑問を投げかけてきた。例えば人間は出産することで味わう苦痛がもう少しでも軽減されていればもっと自然選択的見地からは我々は楽に生存出来たのではないか、と言うことである。人間は産道が腰骨に囲まれた狭いエリアから生まれてくる。そのことを回避させるには人工的な帝王切開しか方法はない。つまり自然選択において人間が獲得した形質としてお産に際して敢えて狭い通路を選んでいるということなのだ。このことは生物学者のジョージ・ウィリアムズも指摘している。しかしこのことをこう考えてみてはどうだろう。つまり人間は極端に脳を巨大化させた。その結果対他個体攻撃欲求というものもまた他の動物以上に進化させているのだ。そこで生存するということがいかに貴重な事実であるかということを認識させるためにもお産がそう快適に執り行われないように仕向ける自然選択が働いたという風に解釈するのである。尤もこの考え方は別に私の発案ではない。多くの生物学者の考えるところである。それは要するに、人間が他の動物以上に出産に苦痛を伴うような身体構造と、そのことに対して自覚的なデリケートな神経を捨て去ることなく生存しているとしたら、それは生まれてきた個体を大切に育て、外部の敵の攻撃から身を尽くして守るという観念を生じやすくするために自然が生存の貴重さを教訓として脳が判断しやすくするために態々狭い産道を通って赤ん坊が生まれてくるシステムを自然が採用したのだ、という考えである。つまり赤ん坊を育てる側が大切に赤ん坊を扱う(これだけ大変な思いをして生んだのだから)という観念を持つということは、敵対する側の個体に対しても、たとえ敵対する者に対しても、敵にとってそれほどまでに大切な存在を邪険にすることは結局自分の側の損失に繋がるだろうという思惑を敵対者にも付与することになるのである。敵は敵なりに紳士的な振る舞いが最低限求められるというわけだ。
 この自然選択に伴う個体間での必然的な心理に対する考え方は即座に人間の意思疎通上行う対話の際に発話者同士が持つある「構え」の問題に移行させることが可能である。通常我々は対話する時最初からあらゆる双方でのコンセンサスが成立しているのなら対話の必要性はあるまい。つまり対話の存在理由とは、親しい気心の知れた友とか、同一の目的に向って邁進中の同僚同士の休み時間の挨拶的会話以上の「敢えてする意味」を持っている。そしてその対話者同士は相手がどう出るか、自分の言う意見に賛同するかどうかは不透明である部分が必ず対話前にはあるものである。それが先述した不安というものの正体である。しかしその対話の存在理由が明確化されればされるほど我々は「構え」の性格を対他的な懐疑から徐々に、真意表出対象としての信頼性へと移行させてゆくのだ。その際にも完全に自己の側の意見と一致しているわけではないのだから必ずしも全面的な自己防衛の解除に踏み切るわけではないのだから、当然のことながら「構え」は保持したままである。しかし当初の「構え」はその真意表出可能性の認識獲得後では、明らかに友好的な態度へと転換している筈である。だから当然発話される際の相互の言辞にはレトリカルな工夫は減少しているだろう。つまりレトリカルな論理的工作というものは対他的攻撃欲求を全面的には解除しておらず、また自己防衛心を歴然とある「構え」として構成させている内には、依然採用されやすいという傾向がある。
 例えば論理学では「逆」ということの他に「対偶」という事態が想定される。しかし逆であることである内は理解度を全ての他者に対して発話(発語行為)では説得力を持つが、対偶となると、レトリカルな印象を発話においては他者に与えてしまう。だから数学とか論理学上の認識ではレトリックではないこれらの概念は、日常的発話行為においては、他者の能力とか他者の認識力に対する懐疑を抱く場合にのみ採用される、ある意味では他者に対する信頼性の著しく欠如した状態での使用ということになる。このことは私が既に示したAからCのニュアンス表現の心的作用とも関係があるので詳しく論じてみよう。
 我々は意思疎通では真意を告げることの可能性を特定の他者に対して向けられた眼差しから探る。しかしその際に語られることは、そういった発話者の内的なモティヴェーションそのものとは無縁に、意味作用的顕現としてそれ自体が真理を志向する。つまり真意を表明する可能性を見出しつつ、我々は自己の真意を意思疎通において知るわけだが、その内的な目論見と、語られたこととして顕現された世界としての我々の陳述内容は、それ自体自立した意味作用の顕現であり、それは真理を常に基準に説得力を持つものである。だから内的事情とか内的動機といったことと無縁に成立する語作用そのものは、ディタッチメントとしての真理値としてのみ発話者の目前にいる聴者、つまり発話する時の相手には受け取られることとなる。この内的な意思疎通の動機と外的に示された態度との間の齟齬は、発話行為を続行させ続ける時に、幾分自己の側にも他者の側にも、ある種の諦念を与える。真意を伝えることが出来るかどうかという言語行為の問題は、だから発話者の内的理解とか、内的事情とは相互に完全理解とは不可能である、というもう一つの真理を見出すためにのみ言語活動があるのだ、という理解に至るのだ。だから表情というものは、その齟齬に対して出来るだけ距離を心理的にだけでも縮める作用として機能するが、それは必ずしも話者の真意であるとは限らない。そう意図して表情を彼が作っているわけではないからだ。だからこそ言語活動において発話行為、発語行為というものは相互理解という共同幻想によって成立していることが了解されよう。それは話者同士のアンタッチャブルな相互の自己領域の干渉を控えることの宣言として会話、対話が機能していることの証拠である。完全理解ということの幻想性を我々は理解し、「それでよいのだ。」という認識を相互に確認することそのものがコミュニケーションである。
 もし我々が完璧なる完全相互理解を求めるのなら、我々は言語行為においてA、B、Cで示したような会話の分岐点などない方がよほどましである。会話とは完全理解が他者相互に獲得されているのなら成立しないし、もしそういう場合会話ではAもBもCもその弁別された分岐という事態自体も成立しない。そもそも会話をする必要を消去するためにのみ完全相互理解という考え方が成立しているからである。勿論完全理解とは一つの幻想である。だからと言って我々は全く何事も理解し合えないのだ、というニヒリズムに陥る必要もない。常にどのような会話、対話においてさえ部分的な相互理解というものは成立しているのだから。そもそも会話とか対話とかは相互の関心重複領域が存在しなければ成立し得ようもない。それはコミュニケーションを成立させる場である。
 言語が真意を伝えることが出来るかと我々が問うのは、ある意味では西欧人にも我々が理解するような無とか空が理解出来るのだろうか、と我々が考えることと同じことである。もしそれらが全人類普遍に共有し合える理解を得られるものであるなら、そこに我々はある光を見出すことになる。そういうものとして我々が日常で行う意思疎通が考えられるなら、言語活動としての言語行為は果たして伝達したい内容をあますところなく伝達される内容として自己から他者に、自己の意図と要求に沿った形で伝達されるのかどうかということへの問いなのだろうか?対話とは幾分齟齬を埋めようとする格闘のように思えることもある。例えばブーバーとロジャースの対話にはそういう要素を我々は読み取れる。しかし齟齬とは対話することによって見出されるものでもあるのだ。つまり自分では対話する他者が「そういうことは理解して貰えないに違いない」としていたものが意外と容易に理解され、逆に「そういうことならきっと容易に理解して貰えるに違いない」としていたものとは予想外に容易に理解を得られないもののことが多い、というのが対話での実情である。だからと言って我々は自己の意図や要求が伝えられたからと言って、対話が成功するとは限らないのも知っている。あるいは真意が伝えられる必要性だけが前提されているのだから、寧ろ内容の伝達をなすということである意味では目的だけは達せられたと考えるべきなのか?だがそれだけでは十分条件を満たしはしないだろう。我々はあくまで内容の伝達が相互に意味ある行為として認識されることを望んでいるからだ。
 通常ビジネスシーンでは真意を伝え合うことは至上命題ではない。寧ろビジネス対話では真意よりも目的の方が先行しており、それを遂行することの方に比重がかけられている。だから目的の前では真意は寧ろ隠蔽されてさえいる。真意とは目的の前では二の次である。真意をカモフラージュして臨むというわけでもないし、それは恐らく通り一遍の真意が誰にでもあるのだから、そのことに対する表明は割愛しようという相互の了解に基づく。要するに「問う」ということに纏わる面倒を回避するのがビジネスの礼儀である。相互の目的と見なされる事態への展開そのものが相互の利益であるべきであるという了解がビジネスの鉄則である。だからこそビジネスのルティンワークというものは、その仕方の踏襲という事実がビジネスマン相互の真意であると言っても差し支えない。だから通常ビジネスでは無意識はご法度である。ビジネスでの誠実とは無意識を排除することである。確かにそれでも尚我々はビジネス総体からは無意識をも読み取ることも可能だが、それは結果論でしか採用されない見方である。ビジネス上での誠実とは相互に認め合えるようなルティンワークである。そのルティンワークの自発的遂行と、その相互の認可こそがビジネスの真意である。だが同時に真意をビジネスの目的に合致させたことだけで全てのビジネスが巧くゆくものなのだろうか?建前だけで全てのビジネスにかかわる人々は了解し合えるのだろうか?その意味では総体俯瞰的に無意識レヴェルからビジネス自体を考え直してみるべきなのではないだろうか?
 個人的真意という奴はビジネス上での責任倫理においては隠蔽されるべきものであるが、商慣行だけによって我々はビジネスをしているわけでもあるまい。実はこの部分、陳腐な言い方を許して頂けるのなら、生き甲斐が自己内で確立していないビジネスではたとえビジネス上で目的を達成出来ても、我々はそれを成功と呼べるのだろうか、というディレンマこそ人間がビジネスに対して抱く当のものなのだ。それは恐らくビジネスシーンだけではなく、ファミリーシーンにおいても抱くものなのではないだろうか?子供がいて、健康に成長し、相互に理解し合える家庭という奴は理想像として言われるが、それだけではないだろうと我々は考える。価値という奴は一律に規定し得るような単純な真理ではない。
 一体我々が抱く真意とはどういうものなのだろうか、という問いなしに真意とは見出せるものでもない。真意は目的とも、理想値として与えられたものとも違う。何かを真意として何らかの行為をなすとしよう。しかしその行為は恐らく別の違った真意を極力排除して臨むということではないだろうか?我々は精神分析という行為もそれなりに知っている。我々はフロイトが言う無意識も、ベルグソンが言う意識も共に彼等の真意であり、同時に論理構築のための形式的基準であることを知っている。彼等がそういった論理で臨んだということは、それ自体で真意に論理を一致させていたということと、論理構築のために真意を導き出したということである。
 例えば我々は身内だからこそ真意を語り得るという事態もあるし、同時に赤の他人だからこそ相手に何もかも語り得るという事態もあることを知っている。我々は自己の真意とかある瞬間における本意が一つではないことを知っている。たとえどんなに信頼の置ける他者であっても、尚その他者に全てを告白することは出来ない、と感じるし、またそうすべきでもないだろう。だからこそ息子や、娘になら語れることもあるし、通りすがりの他人になら容易に語れることもあるのである。だから我々は愛する家族に囲まれながら自己真意に隙間風を感じる人間がいても別段不思議にも思わないし、また生涯「天涯孤独」である人間だけを不幸であるとも決め付けられないでいることを知っている。形ばかりは愛し合う像を周囲に提供する家族が、その偽装的な鬱憤を多数のそこそこ親しい友人に対しての交際で晴らしているという現実は、現代では珍しくはない。しかしその者が、では一人家族なしに生活することを選び得るのかと問えば、それも出来ないということの方が実際だろう。要するにビジネスであれ、家庭であれ、自己内の目的も、相互の目的も、自己内の真意も、相互の真意も一律なものではない、ということが真理なのかも知れない。だから逆に形式的慣行という事態にもまた一律には決め付けられないある幅のようなものが与えられて然るべきであろう。だが同時に真理を多様なものと規定するわけにも我々にはいかないところがあるのである。真偽という基準は内的にも外的にも真理という絶対基準に沿ったものであると通常我々は考える。しかし真偽の設定基準そのものは、つまり何を真となし、何を偽となすかという評定基準そのものは恣意的なものでしかない。そのことに対して自覚的な場合のみ我々は超越論的主観性に対して自覚的であると言えよう。
 例えば無意識ということを考えてみよう。しかし通常我々は何か意図的ではない事態を全てこの無意識に押し込めがちであるが、この意図的ならざる事態は際めて多様であることが了解される。例えば殆ど考えずに行動する場合、我々は意図が一々外部に意識的に持ち出されなくても済むような「分かりきったこと」として処理しているのだから、これは日常的な大まかな真意が重層化され、それを意図するような意識レヴェルにまで持ち込む必要性がない状態に、それらを追いやっているわけであるから、当然のことながらそれらは自動的な行動と言ってよい。それに対して意図的でなければならないことというのは、非意図的であることに対してある種の潔さを感じられないという事態なのだから、それらは総じて反省的な決意である。反省という事態にはある意味では制度というものが圧し掛かっている。ある行為Aが自覚的であり、意図的であることの裏にはその行為ならざる別のもう一つの行為があり、それを価値規範的に思わしくないものとして排除しているという心的な作用がある。それをフロイト的に超自我と呼んでも構わないが、もっと単純に考えてもよい。つまり行為Aを正当化するのには、別の行為Bを疎ましいものと規定する判定基準があるということであり、それを意識的に忌避しているということである。それは無意識にそうしている場合もあるのかも知れないが、敢えてそれを論理的に説明するのも疎ましいという思いが先行しているだけであり、概して忌避すべき対象としての行為とは、明確に意識し得るものの方がずっと多いということである。別の行為を忌避することによって成立している行為Aは、だから一面ではそのように意識的に、自覚的に自己を戒めなければ陥りやすい行為Bに隣接しているという意味では極めて危うい均衡の上に成立しているものであり、寧ろ行為Bの方にこそ接近しやすさが潜んでおり、それは得てして口には出さないように皆が心掛けているのにもかかわらず魅力的な行為でもあるということである。つまり無意識という事態の実はかなり多くがこのように取り付かれやすい魅力的行為なのであり、その魅力的行為に対する無意識の内の拘泥を避けるためにこそ、敢えて意図的な行為が、つまり敢えて意識的に価値規範の範疇に取り込むべき行為というものが存在し得るのであり、非意図的であるがために陥りやすい魅力的な愚行を敢えて避けることが、賢明であるという判断に基づいているということなのである。
 精神分析で無意識をことほどさように採りあげる必要性とは、言い換えれば人間が陥りやすい魅力とは、敢えて意図的に避けるように心掛ける必要があるということが制度とか、安定に必要であるという自覚に常に我々が脅迫されているということをも物語っているのである。
 例えば無限という観念にもそういう一面がある。事実上人間社会というものには自ずと限界がある。それは我々が子孫を儲け、永遠の生の持続を望むのとは裏腹に人類もいつかは絶滅する。それにもかかわらず、例えば個体に死の永遠なる死後の世界があるかのように思惟すること自体に無限に対する思念には魅力があるということを意味する。カントは無限ということを考えた。クリプキがプラスに対してクワスという概念で、擬似理解ということを考えた時、理解していた今迄のシステムは、決して理解して我々が遂行していたのではなく、慣用的にそこに疑いを差し挟まないでいたということでしかないのだ、という主張があり、それは擬似理解にしか過ぎないということである。しかし擬似理解ということの主張はそれ自体で完全理解という事態を既に想定している。しかし完全理解ということ自体に潜む欺瞞性に我々が着目する時、どこかで我々は理解し得る領域の設定という不可避的事態に遭遇する。理解する必要などないではないか、とその時誰かが叫べば事態は更に一変するだろう。つまり理解領域設定という事態は、そう望む我々の欲求を表しているに過ぎない。それは欲求自体が無限に永続する、しかもその様相は瞬間毎に変わり得るし、様相変化に対応すべく設定される基準も無限に存在するかに思われる。実はそこに落とし穴があるのだ。状況即応型の変化対応という心的作用は、案外システマティックに慣用されている慣習性に依拠しがちである。しかしその瞬間毎の微細な変化対応に無限を感じる我々の思惟の在り方自体が問題とされねばならないのだ。
 その意味ではクリプキモデルとは、人間の説明欲求の無限性、と言うより無限なものとして理解したい欲求、それは不可避的思惟傾向なのだが、その事実に照明を当てているのだ。彼の考えた例は数学的言明なのだが、そしてそれは数学に限らず全ての日常的局面でも適用可能な普遍的事実でもあるのだが、それは無限設定という事態に最も顕著に現われた我々の思惟傾向である。
 例えば空間自体、あるいは宇宙自体は無限ではないかも知れない。ただ我々は思惟の上では無限という観念を容易に導き得るだけだ。だがそもそも無限という観念は空間にせよ、時間にせよいつまでも永続すると考える我々の思惟傾向を象徴しているだけのことである。
 例えば数学や哲学という学問自体が逆に無限という観念を我々の思惟傾向の必然的な因果律的思考連鎖の成れの果てとして設定させたものだけかも知れないのだ。そもそもそれは確認のしようもないし、仮にそんなものはないとしたところでそれを証明する術がないのだから、ある意味では不可知という自体を対象化した我々の便利な言い訳でしかないとも言えるのだ。論理的な無限後退とか、カントが唱えたような背進という概念は、総じて我々の思惟傾向を表しているのである。
 例えば我々が胎児だった頃記憶していたことは生まれてくる時の衝撃力によって大方は忘却されるだろう。そして赤ん坊の頃の些細な記憶もじきに忘れ去られてゆくし、つまり我々の記憶は今現在の意識を設定するために刻々過去の映像や経験を忘却してゆく必要性を前提している。一見無限に思われる記憶の層での無意識も、実際は現在の意識や、未来への決意や、行動への意志といった事態によって刻々自動的行動採用レヴェルでの、非意図性に組み入れられ、意図的な事態としてはどうでもよい忘却事実と化す。記憶というものは忘却されつつ、部分的に痕跡として現在に蘇らせる程度の、現在意識と意志の最優先主義的な決断のエキストラでしかないのだ。しかしエキストラの持つ多大なエネルギーを現在は尊重している。だからこそ想起とか回想とか追想といった事態が招聘されるのだ。
 我々がある時ひょんなことから以前にあった事実とか映像的クオリアを感知するのは、寧ろそれらの一切を記憶しているからではなく、痕跡として印象的であったことだけを記憶にとどめおいているからに他ならない。ある種の記憶のフラッシュバックとは、要するに我々の現在意識の中から過去に見て、聞いた何かを思い出すことで、未来に対する意志とか決意を促すように知らず知らずに我々がセレンディップな発見をしているということである。
 無意識という考え方とは精神分析によって病理メカニズムの解明に一役買っていた。しかし無意識が記憶の選択とか、過去体験の痕跡として感得されるものの、綜合的な解釈であるなら、重要なこととは知らず知らずに今現在でさえ、記憶として留めておくことと、そうではなく忘却してゆくことを常に選択しているという事実の方である。だから能力の限界という事実があるのだから、余計に我々は次のように我々自身の思惟の傾向を規定する。つまり無限とは有限性に対する諦念が産む観念である、ということである。無限という考え方とはある意味では零よりは重要である。零の発見はもしなされ得なかったとしても尚、無にとって変わられる可能性がある。しかし無とは無限をも含む観念である。無限とは有に対して有の持続という無を地とした図の観念である。だから我々が無限と何かに対して言う時、我々は無限の真理をどこかで前提にしている。それは有の無限連鎖という考え方である。しかも有の不可知的な無限連鎖という認識は、超越的思惟へと我々を誘う。そもそも神なる概念とは、無限性に対する具体的把握をなし得ない我々に代わって一瞬にて容易に遂行する完全無欠の能力のことである。その超越的能力に対する想定において、我々は自然に対して感謝の念を捧げ、憧れの感情を生み、時として何らかの崇拝心を育ててきたのである。
 人生に目的なるものがあるとすれば、我々はそれを見出そうとするだろう。そこには価値システム論的に唯一の真理があるかの如く考える。それは只の錯覚かも知れない。しかしそれは追い求める価値のある事柄であると我々に思わせる。唯一の真理がもしあるとするなら、それは人生全体の私という人間の究極的な真意であるだろう。すると私が感じる瞬間瞬間の思惟とか思念とかは、その究極的な真意に向けられてその時々に発せられる一つの目的のための方便であるということになる。それらは言ってみれば部分的な条件反射的反応である。すると人生において唯一の価値であり、唯一の自由であり、唯一の真理であるための真意とは要するに私の自己同一性としての不動の価値であるだろう。それは自我を支えるものだと言い換えてもよい。フロイト的に言えば自己保存欲動というものでもあるだろう。それは主体を形成する当のものなのだ。その時私は私の生を身体生理学的な意味でも精神生理学的な意味でも私の望むものと、私が望まれるものの一致を見出すだろう。 
 だからこそあらゆるコミュニケーションというものには、そのコミュニケーションを成立させる基盤なり、条件というものがあり、それらはその都度異なった成立状況、背景を持っている。そうした個々の差異性に彩られた個々のコミュニケーションをその都度支えるものは私が私であると信じているという事実である。私は私の事実なのだ。それを私の価値規範に基づいた自己真意であるとしよう。すると私は私を私として成立させる自然とか社会とか共同体とか、要するに自然の事物や他者たちによって私を私として容認するように私を取り巻く現実において私がその都度彼等と交信することを可能にする私の世界という事実であり、私の世界に対する事実である。私は私を認知するものの全てを私の事実として、私の世界の事実として、私の世界に対する事実として認識するのだ。私はその私の(世界的)事実なしには生きてゆくことが出来ない。それは自然の私の身体に対する働きかけであり、他者の私の生存に対する返答であり、私の行為はそれらに対する認識と方策の宣言であり、発話することはその一つの意思表示である。
 確かにコミュニケーションとはその都度の内容にあらゆる自我はカモフラージュされている。内容の伝達こそがコミュニケーションの存在理由となって立ちはだかっている。しかしその存在理由を育むものとは私の事実であり、私の世界の事実であり、私の世界に対する事実である。それは同時に自然の事実であり、自然の世界を構成する事実であり、自然の私に対する事実であり、それらは他者の事実であり、他者の世界の事実であり、他者の世界に対する事実でもある。私が私の真意を根底から覆すことが出来るのは私の自殺のみである。私の自殺は私の身体生理的事実の自己保存欲動に対する放棄以外の何物でもない。勿論私は私の考えとか私の信念を永続させるための最後の手段として自殺も可能性としては保持しておく自由がある。しかしそれは私が私の事実を放棄することによってしか為し得ないていのものである。私は私の事実によってのみ私の考えの永続を望むのだ。だからもし私に唯一の真意があるのなら、それは私の日常的な真意ではないだろう。真理は常に唯一ではない。にもかかわらず私が私の唯一の真理を求めるのなら、それは世界にとって絶対的なものではないだろう。私の事実が私の世界なら、寧ろ絶対的普遍的な世界という認識を捨てねばなるまい。しかし実際上は、私の事実としての世界以外の如何なる世界も、実は私と私にとっての他者と自然全体に対して私が抱く幻想でしかないのである。世界にとって絶対であるという事実などないのだ。世界は私を離れてはあり得ないのだから。
 私にとって唯一であることとは、私を離れて絶対なことではないが、私にとっても絶対ではないだろう。私にとって私の唯一の真意とはその場その時で変化するが、それら全てを通して私が実感する真意である。それは私にとっても相対的なものであるが、不明確なものでは決してない。それらはいたって常に明確である。私は私の多様な感情の、私の身体生理の様相なのだ。私はそれらを相対性であるとは言い切れないのだが、絶対ではない。しかし私の事実は私にとって確かなのだ。それは私が抱く幻想であってもだ。
 ウィトゲンシュタインは真理という言葉をやはり他の哲学者同様使用したが、レヴィナスが日常的な思惟の哲学者であったような意味で、やはり日常的思惟の探求者であった。ウィトゲンシュタインは神を規定することはなかったし、声高に神の存在を示そうともしなかったが、神をエポケーしようともしなかった。しかしレヴィナスのように神に対して敬虔ではなかったとも言えない。例えばレヴィナスは明らかに神を日常の自己の思惟に降りてくるものとして捉えている。レヴィナスは神を無限の別名として使用している。だから有限者であるところの人間を主役にすることで、神の無限性を異質なものとして捉えている。それらはある時は高揚するような意識を支えるものでありながら、ある時は意識から排除しなくてはならないものでもあるのだ。ウィトゲンシュタインは神を否定しもしなければ賛美もしなかったが、彼にとって自己の判断そのものが異質なものであり(異質であっても病理的にではないが)、自己の真意の唯一性に対して問いかける可能性の存在として常に胸中から去ることのない存在であり続けたように思う。
 しかし彼等の哲学の主張それ自体は神を積極的に肯定しようが、否定しないでおこうが、それを哲学として受け止める読者にとって内的に概念的にも、感情論的レヴェルででも存在する神と対比して考えることを強いる。それは必ずしも彼等が神を語ったり、否定することなく神の存在についての考察を保留したりすることによって彼等が目論んだ通りの出来事ではないだろう。寧ろ何ら予想もつかない彼等のテクストに対する反応である。しかしそれでよいのだ。その予想通りではないという事態こそがテクストを発表する意味がある。発話する意味があるのだ。
 
 言語活動の必要性というものはたとえ一軒の山小屋に一年の大半を過ごすような生活スタイルの人間においてさえ重要な思考回路の提供を齎している。自給自足生活者にとって自問自答という思考スタイルそのものは言語思考という脳内の活動に支えられている。あるいは誰からも援助を受けず生存そのものに対して危機を感じている瀕死の者が抱く内的な感情、例えば神に縋るような心的様相そのものさえ、言語思考というものと離れては為され得ないものだ。そもそも神という概念そのものは集団的思惟であれ、個人的思惟であれ言語から離れては存在し得ない。
 もし言語活動そのものが内的感情の他者に対する表出にあったとするなら、統語秩序、文法、音韻規則といった形式的基準といったものはある意味では感情的ニュアンスを和らげるために存在しているとさえ言える。言語学者のイェスペルセンは形態論を、形式から意味を探る試みとして、統語論を意味から形式を探る試みとして捉えている。しかしそのいずれの回路で言語行為を考察しようが重要なこととは次の一点である。それは彼が言うように発話者は内面から外面へと言語行為として内的意志伝達意欲を形式化するのに対し、聴者は外面的に示された言語行為事実を形式として受け止めながら、自己の内面において自己内の理解意志に基づいて自己感情として受け止めるのだ。この際話者は自己真意の表出をしようと試みながらも、相互理解へと言及事項が達するために、一回自己真意を抑制しているということだ。それは聴者が理解する言及事項が必ずしも全面的に話者の感情と一致するわけではないということを話者も、聴者も了解合っているということと関係がある。つまりここに相互理解のための真理値というものが必要となってくる。誰しも自分が語る事実とか事実に対する内的感情の報告を話者当人が感じた様相そのままに他者から理解されるとは思っていない。しかし同時に話者の説明意図から著しく乖離した状況として他者が思い違いをして納得することを話者となる者は誰しも望みはしない。そこでここまで理解して貰えれば全面的理解にまでは行かなくても満足するという値がある筈である。そしてそこに達していれば相互に納得し合い、そうでなければ説明し直すということである。ということは逆に意志伝達としての対話において話者同士は他者の真意を必ずしも全面的には理解し合いたいとは望んでいないということになる。真意の表出性そのものが新鮮なのはある意味では長期間に渡って一切人間と会話しない状況を持った者にとってであって、それはしかし相互にそういう状況の場合なら、人と合って話すという状況そのものが新鮮なのだから可能性として成立し得るも、逆にそういう状況で生活していた者が一方だけである場合には、それを聞く者にとっては甚だ迷惑な話であるということになる。
 人類は語彙数が増加するに連れ、真意の表出性から徐々に意味伝達性へと言語行為の存在理由を転化させてきたとも言えるのだ。だからこそどのような自己感情的真意表出を目的として随分長い期間人と合っていなかった者同士の対話でさえ、真意表出の生々しさを和らげるクッションとして統語秩序、文法、伝達内容の意味というものが存在しているのである。ある意味で意志伝達し合うだけが新鮮な者同士は抱擁し合ったり、発話意図を示し合うだけで楽しいと言えよう。そういう場合伝達意図の内容とか意味とかはあまり大した意味はない。しかしそれはそういう特殊な状況下での者同士の対話に限られるのだ。だから我々はイェスペルセンの主張するような意味で形態論から統語論へと考察優位性を転換しなくてはならない。つまり統語秩序が形態論的に捉えて、ただ単に真意表出の直接性を緩和する意味合いからだけではなく、伝達事項の意味内容の存在意義について深く考察することで、対話のモティヴェーションを考えてゆく必要性が生じてくるのである。
 人類が語彙数を増加させてきたことの第一の根拠とは、伝達事項の意味内容の充実という事態が最も順当である。それは社会的制度、法的秩序の形成に伴って必然的に語彙数を、意味内容の様相的多様性への自覚に伴って実践してきた、ということに他ならない。それは生活レヴェルでの意識の向上と共に対話すること自体の必然性と、存在理由の進化と深化を表している。意志伝達事実の確認がコミュニケーションの第一のモティヴェーションであるのは、個人的にも集団的にも極初期に限定されるだろう。どのような意思疎通においてもやがて伝達事項の伝達モティヴェーション、つまりどのような伝達内容を、どのような他者に対してなすのかという選択基準が重要となってくるのだ。
 だから言い換えれば、我々が意思疎通上で相互の真意を模索したりするのは、ある意味ではコミュニケーションが集団論的にも、個人的にも、あるいは人類史的にも、極初期の意志伝達事実確認の喜びの表明という初期状態をとうの昔に脱しているという事実に対する郷愁そのものが、伝達意味内容の確認という常套性に対する意義申し込みをしているに過ぎないということになる。その初期状態に対する見直しということの重要性は本章の最後に譲り、まず伝達事項の意味内容の獲得に関して考察することとしよう。
 纏めておくと、コミュニケーションの進化過程においては、相互感情表出の確認と、対話成立の確認から、徐々に伝達事項の意味内容的機能の認識、その意味内容伝達の事実に対する目的論的実践という事態へと重要性が移行してゆくということである。

 ここで表情を伴った言語活動そのものの具体的な例を挙げて考えてみよう。
 極基本的感覚、気持ちいいとか、気分が爽快だとか、逆に気持ち悪いとか気分が優れないとか、頭痛がして気分が悪いとか、腰が痛いとか、そういう場合我々は表情をその状態に即した形で表情筋の変化を伴いつつ自動的に外面的に示す。それはそのような表情を示すことを意図的にしているわけではなく、条件反射的にそうしている。だから我々がそのような表情を一人でいる時にも浮かべているとしたら、その表情が示すところの精神的状態には嘘はない。例えばそのようなことはビルの個室にいる人間の表情を望遠鏡で覗いたりした時に確かめることは出来るが、通常そのような状況で他人の表情を垣間見ることは出来ない。だが電車の椅子に座っている乗客の表情を何気なく見て、その人間が精神的に格別苦境にはいないだろう、あの人は普通の状態であるくらいのことは我々にも理解出来るだろう。
 しかし感情表出というものは敵対する者に接する時とか、個人的感情を表出することを通常は差し控えるべき場合には隠蔽されることが多いだろう。例えば重要な会議とか、プレゼンとか、ホテルの従業員が職務中に客に応対する時などは明らかに個人的感情は抑制されている。要するに職務上の事項の優先(これをしなくてはならないとかこれをしてはならないという責務に関心が集中しているからである。)が個人生活上のあらゆる感情表出を抑制しているわけだ。しかしこのような職務中の責務的表情ではなくても、身内以外の人、あるいはそれほど親しくはない人と話している時には我々は少なからず気心の知れた友人とか家族と一緒にいる時以外なら多少の偽装表情を取り繕うものである。
 嬉しいとか楽しいとか、不愉快だとか、腹が立つといった所謂精神的な感情表出というものは、実は身体の健康状態以外では、殆どが対人的な意思疎通の際に立ち現われるものなのだ。だからどのような親しくはない他人に接している時にも、その他者があまりにも傍若無人な態度を自己に採り続けるのなら、必要最低限の攻撃的欲求に対する抑制の解除を権利要求として個人的な感情表出を少しだけ示すことは相互に認め合うことが社会でのマナーとなっていることは認めなくてはならない。そしてそういった他者に対してその態度の採り方において認められないことに対する拒絶とは親近度に応じて、あるいはその他者への信頼度に応じて直裁なものになる傾向があるというのもまた極自然な成り行きであろう。
 だから例えば大切なプレゼンの際には、クライエントに対して説明者たちは自己の身体的な健康状態の悪化(例えば風邪をひいて熱があるくらいなら)さえ隠蔽しようとするだろうし、まして個人的な苦悩といったものを直接表出することは殆ど差し控えることが通常である。要するに気分爽快である振りをするということである。あるいは精神的に安定した様を偽装する(どんなに張り詰めていたとしても尚)ということである。
 自己内の身体健康上の状態と精神的安定度と関係のある個人的感情の表出を真意吐露であるとすれば、我々は明らかに真意表明という行為を、表明する他者との関係に応じて、つまりその近親度、信頼度に応じて使い分けているし、それもまた自動的な行為選択である。そしてその際の感情表出は身体的健康状態であれ(尤も精神的な苦悩よりは他者に表出することがそれほど忌避すべきではない場合もあるが、逆に電車の中で咳き込んでいたら、隣に座ることを避けられたりするが、そのような純粋に公的な場ではなくても会議中には明らかに出席者には健康状態でさえ偽装し勝ちである。)精神的な安定度であれ関係なく対他者近縁度、近親度、信頼度に応じて弁別している。
 だから個人的にはあまり好ましく思われないクライエントでさえ、業務上大切な顧客であるなら、一切の個人的感情を表出することを差し控えるであろう。つまり偽装的な笑みとか好意的態度さえ示す必要がある。責務偽装である。
 しかし今日的な哲学的問題として、そのようにビジネス上での責務偽装を執り行うことの連続が日常を支配している、と認識する限り重要となってくることとは、そういった建前主義的なビジネス偽装性の恒常的な事態で、真に人間間でのコミュニケーション上での真意の意志表示が可能であるか、ということである。その際に意思疎通でのモティヴェーションというものがどのように作用するのかということもまた問題である。また真のコミュニケーションのモティヴェーションとは有り得るのか、あるとしたらそれは一体何かということもまた重要な問いである。
 人間は他者の真意をあまりにも直裁に見せつけられると辟易とさせられるものだが、同時にあまりにも真意の片鱗さえ見せないと、その相手に対しては息が詰まる、そういうものである。人間社会での真理とは唯一のものではないし、またその人間の真意というものは一個の感情でもない。その時々で変化することと、ある程度長期に渡って持続することと、その人間の生来の性格的傾向性とかの一切が複雑に絡まり合って綜合したものを真意と呼ぶなら一瞬たりとも同一の真意に彩られている人間などいはしない。
 だが同時に人間には統一された真意というものが一個もないと断じることも決して出来ない。そのような意味では人間はやはり明確な真意を常に求めている。その一つは幸福でいたいということである。それは幸福の絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが同じである。そのような意味では真意の様相は変化するが、恒常的に生きている際に持続している真意というものは唯一であるとも言い得る。
 
 ちょっと頭休めに話を逸らそう。私は生物学者たちが考える出産に伴う苦痛(陣痛とか、出産時の痛み)について少々先に触れた。このことを生物学的な意味で男子の生殖機能の面から考えてみよう。男子は出産を経験することがないから、出産とは女子に任せっきりなので、その意味では自己内での経験において疎いところがある。しかし出産を経験する男子には配偶者に対する配慮という意味では男子であるにもかかわらず、女子において、つまり人間のメスにおいて我が子に対する愛情を示す際に放出されるプロラクチンという脳内内分泌物質の作用が活発化すると言われている。このことは多くの書物にも示されているので繰り返さないが、もっと重要なこととは、そのような親和力とか共感能力を必要とするという事実は、裏を返せばそれだけ出産という事態に関して男子は配偶者である女子に全てを委ねているという事実を我々に示している。つまり男子は論理的には一回の女性の膣内での射精(勿論愛し合う男女の場合精子の卵子への着床という事実は、日常的に反復される愛の行為の連鎖における一種の恩寵なのだが)に帰着する。
 さて生物学者のジョージ・ウィリアムズは男子のペニスが排泄機能と繁殖機能の双方を重複して担っていることに着目している。(「生物はなぜ進化するのか」中<適応の医学>より)この事実は女子には当て嵌まらない。女子は機能的には尿道と生殖機能を果たす膣は別個である。しかし興味深いことに男子の精子を作る睾丸から射精するためのペニスの尿道へと膀胱の下部へと運ぶ腺は、身体上を上昇しつつ、膀胱よりも上部にある腎臓から膀胱へと尿を運ぶ尿管を跨いで再び下降して膀胱からペニスの付け根辺りへと合流しているのだ。この殆ど合理的に考えれば理に適ってはいない生殖生理的身体構造をどのように我々は解釈すべきなのだろうか?
 ウィリアムズはこの不合理な身体構造に関して、庭で大木を差し挟んでこちら側の木々に水をやる庭師が木の向こう側までホースを延ばして水をやっていたところ、一度バックしてから逆サイドの木々に水をやれば済むことなのに、敢えて大木を迂回してホースを更に延長して木々に水をやることの喩えで示しているのだが、実際自然選択というものは一旦こういう方向へと決めたら、そうおいそれとは方向転換することがままならないということをこの男子の生殖機能の図が示しているし、同時に結果論的には不合理な身体構造となっている男子の生殖機能が合理的に考えれば睾丸から直接膀胱の下部にカウパー氏腺を接続することを可能にすることを潔しとしない生理的な理由があったことを物語っている。そのことを恒常的に生殖可能な人間のような例外的なケースではなく、繁殖期の限定された動物を考えてみよう。彼等の睾丸は普段は体内に収納され、繁殖期にのみ下降してきて、繁殖活動に貢献する。人間の睾丸が皺皺の状態でしかも身体の外部に突起状に付着しているのは、精子を保つ温度を低めに設定していることに帰着するが、そのことを促進しているのが睾丸の皺であり、これはラジエーターの役割を担っている。
 さて人間の睾丸がもし今現在の位置と変わらず、しかもカウパー氏腺が尿道を跨ぐような今現在の状態ではなく、直接膀胱の下部に接続されていたら、人間には繁殖期が限定されていないのだから、当然のことながら今現在の状態よりも射精が容易になり、たちまち遺伝子を継承する子孫の増殖は今現在よりも容易になるだろう。しかしそのように容易になれば当然のことながら人口は著しく増加し、たちまち飽和状態になることは予想される。そのようなケースを想定してかしないでか、勿論意図的ではないのだろうが自然選択は、人間の性的欲求促進の機能をほどよく調節する意味合いで態々不合理な構造で精子放出機能を作成したとも考えられる。要するに他の多くの哺乳類の種のように睾丸が体内に不必要時には収納されるシステムではない人間は、性行為を一年中可能にしたが、睾丸の位置を変化させずに外部の突出させていることのトレードオフとして睾丸と尿道との接続地点に至る経路を複雑化した、よって性行為をある程度の覚悟を持ってするような、つまりそう容易には発情出来ないようなシステムになったとも考えられるのだ。
 さて自然選択というこの厄介であるが決して人間が他者に対して理由もなく贔屓したりすることのないシステムはその傾向がどのように不合理であれ、そうでなければたちまち不都合が生じるようなシステムを何らかの形で回避するためのシステムを長い時間をかけて考案して落ち着いていると考えて差し支えない。もしその理由が分からないとすれば只単に人間の側での洞察力が不足しているだけである。だから例えばパソコンのキーボードはかつてのタイプライターの配列のままなのだが、アルファベット順で配列されていないことの理由は、文字ごとに使用頻度が異なるということと、文字選択の際にアルファベット順に配列されていないからこそキーを打ち込みやすい何らかの理由があるからである。あるいは車社会である現代において何故自動車がこれほど人類による使用頻度が大きいかということも何らかの理由がある筈であろう。勿論地球環境の温暖化阻止と大気汚染の保全を考慮した新基軸のシステム(その一つがハイブリッド車であり、バイオエタノール車とかである。これらは今でも試行錯誤がなされており、どのような方法が最も効果的であるかは未だ解決されていない。例えばエタノール車に使う燃料の需要が増せば穀物の単価が上昇を避けられないという意見もある。)が常に考案されているが、自動車に成り代わる移動手段を見出すことはもし求められているとしても、そう容易ではないだろう。それはパソコンのキーボードの文字配列が変わらないままきていることとも関係がある。つまり最早変わらないものなのだ、と決め付けたほうがよいものとそうではないものの峻別がなかなか難しいのだ。我々の工夫によって自動車を使用しても地球環境の激変を食い止められるのなら、自動車による移動という現実はそう容易には変わり得ないだろうからだ。
 社会の様相が激変した時何らかの新しいグローバルな生活様式や手段の変化が齎されるだろう。しかし過去の歴史において二度と繰り返されない愚行に我々は立ち戻ることがないように全ての領域において必ずしも無限の変化の可能性が残されているわけではない。つまり便利で有益な手段は変わらなく存続してゆくからだ。例えば今度どのように新しい楽器が生まれようとも、ピアノはピアノであり続けるだろうし、ギターがなくなるというようなこともないだろう。そういう意味で無限の可能性を秘めた領域と、今後も変わることなくそのままであることの両方がある、ということである。このことを念頭に入れて今度は言語行為について少し考えてみよう。
 言語行為はそういった行為を相互にすることに意味がある、要するに意思疎通したいということが真意であることから出発する。その真意表明はその真意を円滑に伝達することの智慧を発達させたとも言える。例えば動詞と名詞(言語学者は実詞と呼ぶことがある。)を基本として文章は構成される。それは統語秩序としての体裁を整えるということだ。勿論形容詞とか副詞の方が遥かに話者の感情的ニュアンスは伝達される。しかしそれはある程度話者同士が信頼性を獲得して然る後の事態において想定される伝達性である。そこで名詞と動詞の繰り返し立ち現われる様相による文章構造の意味内容そのものが真意表明の意思表示となる。またある言辞そのものはその言辞が直接陳述する意味内容だけではなくそれ以前の話者の発話意図と発話するための内的なモティヴェーションを表す。それは目に見えないが実在する話者の聴者に対する感情的レヴェルの真意であり、それこそが話者間による意志伝達の真理である。そのことをウィトゲンシュタインは事実と呼んだ。意志伝達の真理が存在するということは、端的に言えば名詞も、動詞も、ただ闇雲にそのいずれかを反復すること、例えば名詞だけの連続であるとか、動詞だけの連続には聞く者が耐えられないという事実でもある。真理とは説得力があり、聞くに堪える真実味のことであるから、「日本の官僚の慣行の国民にとっての批判対象的部分の抵抗の図式」といった句は悪文構成要素である。また「彼はその時、藪から棒に突拍子もないことを言い出し、喚き、うろたえ、唾を吐き、大声で怒鳴り、うるさくしたので周囲の人間は呆気にとられた。」といった文章も悪文である。
 前者は「日本の国民にとって批判対象となっている官僚の慣行に対する抵抗の図式」のように訂正すべきであるし、後者は「彼が藪から棒に言い出したことで周囲の人間はその突拍子なさに呆気にとられたが、それは彼の唾を吐きながらの大声で怒鳴る姿が、彼等の耳にも不快であったからだ。」の方がまだ理解しやすいし、もっと端的に「彼が言った突拍子もない話は彼が唾を吐きながら大声で怒鳴るようだったので、周囲の人間を呆れさせた。」の方がずっとすっきりする。
 また例えば「猫がいる。」というようなどうと言うことのない一言には実は、その意味内容よりもそういう一言を吐く話者の聴者に対する配慮が伺える。猫がいるという事実を他者に報告することの必要性とは、猫がそういう状況に居合わせることが予想外であることを指し示す。例えば鼠の生態を観察したドキュメントに鼠が餌に噛り付いている動画の背景に猫がいるとしよう。するとその動画の鑑賞者たちは相互に「猫がいるね。」のように言い合うことは予想されよう。猫が鼠の天敵であることを承知で、技とそういう状況を選んで動画制作者たちが目論んだのか、それともただ単なる偶然であるかということがその動画の鑑賞者の意識に立ち上がるということが自然であるからだ。そのような状況下ではない限り「猫がいる。」と言うことは通常ない。例えば野良猫が激減した区域に生息する野良猫を発見した時、その発見者は同伴する者に、そのように告げるであろう。
 勿論「猫がいる。」の意味内容の真意は「<猫がいる>ことをあなたに伝えたい。」であるが、それはどのような状況でも同じである。「彼が死んだ。」もそうだし、情報伝達というものの存在理由は、その報告事実が話者相互に既知のことではないということが第一義である。しかしその言辞が単純事実であればあるほどそういった単純事実の報告の持つ伝達内容の希少性と価値は、予想外の事実であることであり、予想外ではない場合には、それは詠嘆的表現となる。そして詠嘆的表現とは話者相互が信頼性とか近縁的感情を相互に抱いていない限り不自然となる。「何でそんなこと急に私に告げるのか。」と電車の中の他人に話しかける者に、話しかけられた他人は怪訝な思いをするであろう。例えば電車が脱線しかかっているような状況でもない限り我々は通常敢えて他人に電車の中では話しかけはしないものである。飛行機に乗る乗客がいつまでたっても飛行場に着陸しないような状況では「飛行機の車輪が何かの不具合で出ていないのではないか」と乗客同士が予想するような具合の場合以外通常隣席にいる他人の乗客に話しかけることはないことの方が普通である。例えばビジネスクラスの者同士などは特に。彼等は通常飛行機の中でもパソコンをいじったりしているからだ。しかしもしそういう危機的状況があれば直ちに彼等は運命共同体の成員同士として何か語り合うという事態は想定し得る。そうでなければ伝達される意味内容の予想外なことこそが発話意図を支える。だから「空を飛ぶのって雄大でいいですね。」などという発話内容とは、詠嘆的表現であるから、何かあって隣席の者同士で発話し合うことが自然である状況を獲得した後でしか立ち現われ得ないものである。
 男子が配偶者の出産に立ち会う際にプロラクチンが放出されるレヴェルが上昇するという統計的事実とは、実は男子の脳内に存在する共感作用の発現である。本来心理学者で精神医学者でもあるサイモン・バロン・コーエンの指摘する(「共感する女脳、システム化する男脳」より)ように男子はシステム化能力に秀で、女子は共感能力に秀でているという。それは要するに生物学的統計的事実である。しかし同時に我々はそのようなア・プリオリな生物学的事実を常に意志レヴェルで社会的責務とか個人的愛情とかの所謂良心のレヴェルで人間学的な思念によって自分の性に本来不足しているものを補おうとしている。その意味では男子が配偶者の出産の際にプロラクチン数値を上昇させるという事実は、まさに自分の中に潜在する共感化作用を発現させているということである。だから他人に対して近親者と同様の振る舞いが出来るとしたら、それはある社会的意志によって促進されたプロラクチンの放出を発現させていると言えるだろう。
 この論文で触れた空間把握能力そのものも男子の方により優れた傾向が与えられている。しかし少なくとも地理音痴のような女性ですら、視覚的世界の何らかの序列という意識が言語統語秩序に対する理解をも促進していると考えることは間違いではないのではないか?一番遠くにあるものと、その次くらいにこちらから遠くにあるもの、そして比較的近くに見えるもの、極自分位置に近いものの間にある距離的な序列意識は、視覚知覚体験にも宿る。それを言語統語秩序において、最も伝えるべき本筋と、そうではない比較的瑣末な伝達事項との間のヒエラルキー的認識を与えることにおいて脳内で類似のカテゴリー認識を連想させるということは考えられる。
 それは睡眠中のレム睡眠時に見る夢の内容の選択にも同様のことが言えるかも知れない。我々は意識的自由の領域から夢の内容を選択しているわけではない。しかし少なくとも覚醒時に抱く関心事、社会的責務の全てが意識的に把握し、認識し、思考する内容を選択しているのなら、その選択から逃れる領域や、覚醒時の思考内容と類似した連想領域が夢において記憶内容の整理と、忘却内容の一括処理において突拍子もないように見える我々の夢の内容を実は用意周到に脳は選択しているのかも知れない。フロイトの言った顕在夢とはそのようものだったのかも知れない。
 例えば私たちが誰かと話しをしている時、その人と自分との近親度に応じた伝達内容が選択されるだろう。しかしそれは自分にとっての関心事とか、近親者との間での自己との関係は無縁なことではない。それら全ての日頃の意識下、無意識下に関わらず関連してくるものである。親友との会話の内容やその時の感情的な遣り取りは、それほど親しくはない人との会話にも影響を与えるだろう。それは家族内での感情的な遣り取りや心理的様相が他者と接する時の感情にも影響を与えるのと同じである。だからもし人間に真意なるものがあるとすれば、それはある場面での真意が別の場面での真意との関係において発現されていると考えた方がより理解しやすいだろう。
 カントは自由とか権利とかをある一定の努力によって獲得される価値規範と捉えた。それは与えられるものではない、ということだ。努力と心がけとその行為の持続により享受する資格を有する者のみが到達する自己真意の明快さというものがあるのかも知れない。
 フロイトが追求した夢内容というものは実は、その自己覚醒時の自己真意の明快さを知るよい手掛かりになるのかも知れないのだ。自己真意の姿とは刻々とその姿を変えて行っている。しかしその変化それ自体を把握することは意外と難しいことである。それを真に理解するために我々は学問をするわけである。

Sunday, November 8, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第一章 ニュアンス表現の言語活動での重要性 


 私たちは日々情報の渦に巻き込まれずに、この社会に生きてゆくことは出来ない。しかし全ての情報は言語活動を基礎としているが、本来言語活動は人間にとって外在的自然の脅威と驚異を告知するためであったり、内面の告白へと転化してきた(外在的自然の様相の客観的告知が起源なのか、そうではなく内面の告白の方が起源なのかは難しい問題だ。しかし少なくとも今自分と他者<発話パートナーとしての>が共に関わる外部自然の全てが、自分と自分以外の全ての人々が同時に体験する世界であるという認識の前ではそのいずれが正しいかというような議論さえ空しい。)ものであったり、要するに外部と内部に対する認識というものは、私たちの存在そのものが自然の一部であると考えれば、私たちが知る自然とか自然の力を抽象した物理学とか、それを数値化したり、それ以前の悟性的判断による数学等の学問を考え出すことが出来る能力を付与された我々自身の自画像であると捉えることもまた可能である。
 しかし言語活動の心的な起源は、あるいはそれを形式的に支えてきもしたものの大事なことの一つは誠実性とフッサールとかサールが呼んだ告知すべき内容の真偽にかかわらず、伝える意志が真意であるということ(虚偽的申告さえこの場合意志伝達意志としては真意である。)であり、それは言語活動全般を発達させてきた最も重要な指針である(誠実性とはニーチェも考えていたが、ここでもっとプラグマティックな意味合いからフッサールとサールを挙げた)。
 私たちの言語活動が、ある固有の言語環境によって左右され、そこで生きる場として認識される以上、言語の形式の発展に纏わる何らかの真実を探求することは無意味ではない。言語活動の原初的サイン(シーニュ)として表情を重要な役割に据えるという見方は今後益々意味を得るであろうと私は確信する。まずその手始めとしてニュアンス表現をここに示そうと思うが、実はこれが最後まで基本的な私の考えの軸となっていくことを最初に述べておこうと思う。

本文
 「~するのに吝かでない」とか「~せざるを得ない」とか「~と思われる」とか「~するのを惜しまない」というような表現を「~することにした」とか「~しなきゃならない」というような通常の報告文以外にどういう風に使い分けるかという能力が、ある報告をする人間の言語能力、つまり報告能力にかかわる事態であるということはまず間違いない。それを有効に使い分けることが、ある種の報告者と被報告者の間の関係とか、相互に立たされた立場とか状況を、その時以外の状況と弁別することを通して様相の差異を表現することにも繋がるからだ。これは一種の様相論理の命題であるとさえ言える。
 つまり「AはBである」という真理が与えられた時、その真理最小値としての表現が実は背後に今述べたような心的様相を携えつつ、その心的様相を排除して、必要最低限の報告内容に敢えて転化させてきているのが「AはBである」であるということを我々はまず覚醒しなければならない。「AはBである」が基本にあり、そこからニュアンスが派生するのではない。ニュアンスは最初からあり、それを伴ってしか「AはBである」は伝えられない、という真理をまず頭に叩き込んでおかなければならないのである。それはニュアンスが伝わらなければ表現が陳腐なものになるというような生易しいレヴェルの問題ではない、ということである。
 私たちの日常に眼を転じてみよう。私たちは人間として一個の生物として欲求を持っている。それは社会人であるという意識であると同時に内的には、そういう生物学的な意味における欲望の塊でもある。例えば二人の異性を同時に好きになるという事態は決して珍しくない。しかしそういう時でも既に自分が結婚している場合、あるいはその二人の異性の内どちらかを最初に交際する相手と定めた場合などは、両方の異性を同時に交際することはよくないことだ、と社会倫理的にそう考え、内的な憧れのレヴェルに留めておこうと思ったりするだけのことであり、そういう抑制力を社会的なタブーであると文化人類学的に捉えることも可能だし、フロイトその他の精神分析によると超自我であるとしているものと関連付けることも可能だろう。しかしそれらは既に思念されてしまった「いい人だ。」という対異性感情に対する結果論的評定という心的様相において登場することでしかない。実存的なレヴェルでは同時に二人の異性を好きになるという事態を予め私たちは、「我々はそういう存在なのだ。」とキリスト教的原罪という観念に結び付けなくても、考えることは出来る。それがよくないことだ、とか戒めねばというような考えはあくまでも後付け的な思念でしかない、ということをここでは言いたいのだ。
 教育レヴェルではことに自然科学認識を醸成するのには、基礎学習が極めて重要であるとされる。数学とか物理学といった学問は、段階を踏んで、ある学習過程における学習順序というものが重要であるとされている。それは勿論正しい。しかし同時にその順序はあるレヴェルに到達すると、別にその順序ではなくても、こういう順序でもよいのだ、という認識を得るためものであると考えてもよい。つまり認識プロセスというものは、その認識を得るための方便であり、実は無限にある到達順序の一つの例証であるということを了解するために設けられた一個の試験場であると考えればよいのだ。
 だから二人の異性を同時に配偶者にすることが出来る文明も世界中で捜せば勿論あり得るわけだが、通常の国では禁止されているから、それに従うという行為選択とは、これこれこういう順序で認識を得ることを教育レヴェルでの基本方針で定めているからという事実を後日知るために実は我々は最初それに従っていると考えればよい。そのことを言語に当て嵌めてみてもよく分かる。
 「AはBである」という陳述は真理値であるとされるが、それは、「<AはBである>という事実をあなたに伝えたい」、とか「<AはBである>と一般にはされている」とか「<AはBである>ということは真理である」とかいった、要するに付帯的であるように結果的には思われる幾多の表現ニュアンスこそが、まず先験的に我々の心的様相としては浮上するのであり、そのニュアンスを敢えて「AはBである」とだけに収斂させて陳述することそのものは、実は教壇に立って先生が生徒に伝えたりする場合は、先生が言うことなのだから信用しなければならない、とか信用すべきであるとかの思念を予め発話(陳述、報告)を聞く立場の人が認知していることを前提しているのだ。しかしその真理陳述という事態には、必ず「<AはBである>であるは真理だから覚えておきなさい」とか「<AはBである>とは一般的には考えられていないが私はそう確信する」という心的様相がまず基本としては立ち現れており、然る後その心的様相における報告必要性に鑑みた必要以上以外は除外されるという道筋を辿るのである。
 だから官僚とか学者のよく使用するニュアンス表現「~することに吝かでない」とか「~のように思われる」とか要するに一般的には持って回った言い回しも実は、彼等の立たされた立場の無意識の表明以外の何物でもない、と言えるのだ。そしてその真意表明性というものは、ある程度許容されているものと、忌避すべきものがある、ということも又例えば先述の例から言えば「通常二人の異性を同時に好きになることは社会的には、そう許容されるものではない」という結論を「Cさんが好きになった」、「Dさんも好きになった」という思念の後に反省を抱くのだ。そして私たちは「AはBである」という発語をすることとなるのである。つまり真理のような何かを語る。
 だから学者がある発言をしたり、官僚がある事項を報告したり、政治家がある発言をしたりする時に彼等が細心の注意を払うことは「AはBである」という陳述に纏わるニュアンスをどう表現することがあるケースにおいては的確であるかということなのであり、明確に断言すべきケースもあれば、推測的言辞であることを明示すべきなのか、あるいは仄めかすレヴェルに留めておくべきかということなのであり、それは外的に出力された陳述の齎す外部効果をも考慮に入れた決断ということになる。しかしそれでも尚、その考慮された末になされる陳述は喜んでそうしたのか、逆に苦慮した末致し方なくそうしたのかというようなレヴェルでの真意のプライオリティーというものは無限に想定されることになろう。そしてそれは仮に考慮した末の陳述が「AはBである」というものであっても、その陳述をなす時に態度、物腰、仕種それら一切を私は言語哲学的には表情と呼ぶのであるが、要するに表情を伴っているのであり、もし仮に一切そういう表情を排除して陳述したとしても尚、そういう無表情としての陳述であるという、やはり一個の固有の表情による報告と我々は見做すのである。
 だから学者、官僚、政治家、ビジネスマンといった人々がある陳述を行う際に、その陳述をなしたことにより、あるいはその陳述内容、陳述報告態度如何によって形式主義的なニュアンス表現如何によって真意の表出(それは報告する人への信頼によってさまざまなレヴェルとなり得るが)と真意の隠蔽の微妙なバランス配分そのものの報告ともなり、その陳述の背後に控えている陳述者の立場の表明にもなり、通常大人の会話では、陳述内容そのものと陳述報告態度を伴った全体からその陳述者の立場と、そのことによる陳述者の感情を読み取ること(友好的であるのか、敵対的であるのかというようなことも含めた)が要求されてくるのだ。
 つまり言語活動においては、ある陳述報告は、それを報告する立場の人が、報告される立場の人に対する関係、感情、立場上の違い、信頼度、信用度といったものが常に陳述報告内容そのものと同時に表明されており、その二つは陳述報告する者にとっても、報告される者にとっても重要なメタ内容であり、その「内容」を報告すること、つまりメタ内容こそ実は、陳述内容以前の心的様相レヴェルの報告者の真意ということになるのだ。つまり我々は言語活動において、真意を告げるという基本的に思われる態度そのものさえもが、実は真意を全て報告する必要はなく、多少の隠蔽を伴いつつ報告することが赦されていたり、あるいは報告とは本来そういうものだ、という他者認識によって醸成された意思疎通の場という認識の俎板の上で初めて報告をしている、という事実に覚醒しなくてはならない。そして意思疎通というものは、実はこの真意をどこまで語るかというレヴェルにあるのではなく、真意をどこまで相手から引き出すことにあるのかという試験場としての意味合いがある、ということなのだ。それは数学とか物理学がある認識を得るための順序が予め教育レヴェルでは設定されており、それはある程度時代毎に微妙に異なりつつあるのだが、その設定基準を設けること自体の意味を把握するために我々は何ごとに関してもある順序を持って認識を得ているということなのだ。
 言語活動という意思疎通手段とは、この真意の探り合いという試験場であるという事実は、逆に全て真意を最初に曝け出したら最早後は意思疎通の意味合いはなくなるという事実をも物語っているのだ。だから学者、ビジネスマン、政治家、官僚たちがそれぞれの立場で語る陳述に付帯するニュアンス表現は、言語を一つの競争、相互に自らの利害を得るために、利他的に振る舞いながらも、最終的には自己の側の利益に結び付けたいと願う者同士の信頼度、信用度の獲得のための手段として機能している、ということ物語っているのだ。だからどのような職業でもニュアンス表現が重要であるのは、実はそれが信頼度、信用度のバロメーターになり得る、いやそれをバロメーターにして言語活動をしているということの宣言が意思疎通であるという意味で重要なのである。
 次に我々はニュアンス表現を意思疎通の場の宣言であるような相互の同意によって言語活動をしている実態に即して、幾つかの例を見ながら考えてゆきたい。

 洗練、社会的地位安定性といったことが発話行為上でのニュアンス表現の常套的使用の一番いい例とは方言、あるいは職業毎の倫理基準に沿った言辞、例えば古い例で言えば、宮中言葉、大奥言葉、花柳界言葉、遊郭言葉であり、これらのものは伝統的にあるグループが別のあるグループに対して接触する機会(それが多いか少ないかはともかくとして)の有無によって微妙に異なるものとして発達してきたものと思われる。それは同一グループ内の同僚同士の意思疎通においてもそうだし、別々のグループに属する者同士の意思疎通においてもそうである。そして同一グループ内的な個人の個性とか、逆に異グループ間の個人の個性といったものは、おうおうにして前者は性格論的なレヴェルで、後者はグループ固有のラング(同一グループ内的秩序、法体系)の表明のレヴェルで活発に異的、個性が発揮されるものと思われる。つまり纏めると次のような図式が与えられる。

①対グループ内部的人間関係での発語=個人の個性(性格論的、個人的事情による話者間の相違)がバロメーターになる。 <話題設定基準>、<意見陳述態度>
②対グループ外部的人間関係での発語=個人が属する集団、社会の制度、形式的捉え方の個性がバロメーターになる。 <話題設定基準>、<意見陳述態度>

このことを分かりやすくするために、例えばスポーツの世界ということにしてみよう。テニスのような個人競技では、その選手たちがどこの国であれ、①の人間関係に即座に移行している。しかし体操とかそういう競技では、国体とか全日本選手権とかの場では①が、しかし世界選手権とかオリンピックとかでは②の意識がまず対外的には示される。
今食堂で午後の試合の前に昼食をとる選手同士の会話があると想定すると、当然どのような競技でも、最終的には個人の意志と能力が試され、それが目的(自己確立)なのであるが、最初に交わされる会話内容的な意味では国内選手同士であるなら、即座に①の心的様相になるが、世界選手権、オリンピックのような場では、まず出場選手同士は自分の属する国の統一的なチームの成員としての意識が、つまり②が先立つということは容易に想像される。そしてそれは国家というレヴェルでなくても、同一職業人同士の会合と、そうではなく様々な職業、つまり異種職業人同士の会合というようなレヴェルのものであっても同様である。つまり前者では個人間の存在意義が話題の中心にまずなりやすく、後者では同一職業間での常識とか世界観とかを代表して述べるという意識になりやすい、ということは容易に想像されよう。だから日本史的に見ても皇室(天皇家)と武士階級とか幕府とか異なった立場の人間同士の会話と同一階級、同一コミュニティー同士の会話では当然異なった展開と、話題設定、心的意識の設定が考えられる。勿論最終的な目的とか、友好的であるか敵対的であるかは問わず、対人関係的な意味合いは日本人同士でも外国人同士でも、同一立場同士でも、異なった立場同士でも(例えば弁護士同士、法曹界同士といったことから、弁護士と政治家とか、法曹界と経済界の人間同士とかいったこととか、被告同士、原告同士とか被告と原告の人間同士とかいったことが想定される。)相同のものがあり、それが哲学上の意思疎通の意味合いに対する認識の獲得に繋がる。しかしそれ以前的には明らかにこの同士の間柄でも同一のもの同士と異種の者同士ということでは真意表明性においても、ニュアンス表現使用様相においても明らかに異なった位相が立ち現れてくる可能性の方がずっと大きいということは真理である。
 
 それでは一旦この意思疎通の同性と異性という問題から離れて、再び陳述のニュアンスの問題にも戻りつつ、言語表現の問題に着目しながら、考えてみよう。その前に先述の事柄を簡単におさらいしておこう。
 例えば今ここに寿司職人同士がいたとしよう。その場合寿司についての職業的会話というものは想定される。そこでは百人いたら百人異なった味覚なのだから、当然同一専門職種同士のいきなり突っ込んだ専門的な内容の話になるであろう。この職業という外延をもう少し広げて寿司職人と中華料理シェフ同士の会話にしてみよう。ここでは専門は異なるが、同じ料理人同士ということになり、外延を広げた料理全体に話が話題として設定されやすいということは言えよう。今度は料理人と料理人を使用する経営者同士に会話を想定してみよう。するとここでは料理を作る立場と作らせる立場の違いが出て来るから当然職人同士の共通意識とは異なった今度は料理界全体の文化的、経済的様相についての会話が主たるものとなることが容易に想像される。そして今度は料理人(最初の寿司職人ということにしよう。)と食品メーカーの会社員の会話になると、今度は食文化そのものが話題となりやすく、今度は別の業界の職人同士となると、職人同士の個人の技を巡る哲学のことが話題になりやすく、要するに会話というものはその都度会話する者同士がその二人の共通点を探り合い、それを見出すことが容易ければ容易いほど、内容的に深度のある具体的なレヴェルへと到達し、共通点が見出し難ければ難いほど非具体的な抽象的論議に終始しやすいという、つまり同一焦点を持つ外延であるかどうかということ、そして別焦点の外延同士だとその会話はかなり困難になる。だから例えば職業が全然異なっていても尚同一地域の住民同士、同一地域で商売をしている者同士といったレヴェルでも当然外延は一にするものがあるわけだから当然話題を構成することというのはたやすいのだ。要するに意思疎通する相手とは通常それがどんなに離れた地域に住んでいても同一の目的でそこにいるわけであり、また逆に意思疎通相手とはどんなに離れた職種同士であっても同一の地域に住んでいたり、要するに何らかの共通性があるからこそ意思疎通し合えるのである。例えばある人気歌手のコンサートを見ている観客は全く住んでいる地域も、職業も異なっているけれども、その同じコンサートに集っているということが共通性で、そこで会話するとしたら、コンサートが始まる前や終了後にその歌手についての話題ということになるであろうし、同じ飲み屋で酒を飲んでいる人同士の会話は、余暇的時間のそういう場所での飲酒の習慣とか、他ではどういう場所で飲むのかというような会話の内容になりやすいであろう。要するに会話(言語行為の基本としての)はあくまで何らかの話者同士の共通関心領域の設定ということが行為性としては常に基本的に要求されるのである。
 その共通関心領域を共通理解領域というレヴェルで考えてみよう、共通理解とは、それ以外の理解が成立し得ない普遍的な真理レヴェルでの共通性であり、その条件を満たさない限り、その真理に対する理解レヴェルでは話にならない、つまり職業的レヴェルから言えば、寿司職人にとっては必須の求められる能力、それは個々人の味覚の微妙な差異を超えた、例えば寿司職人であれば寿司ねたをご飯よりも際だたせるとか、中華料理シェフであれば、ラーメンの麺が伸び切らない内に迅速に調理するとかの何らかの必須の技術的条件があるものと思われる。それは概念とか認識に携わる職業の哲学者や論理学者でもそうであろうし、平和運動家とか慈善事業家のような職種においても又倫理的な心得如何の様々な条件が案出されるであろう。そういうものとしての真理条件について少し考えてみよう。それを先述の言語表現のレヴェルから考えると翻訳家の翻訳ニュアンスと翻訳技術のことを例にしてみるのは有効であろう。
例えば今次のような英語の文章があったとしよう。
I didn’t know what method she would like to adopt to that project.
この文章を私なりに日本語に訳すとすると、
「私は彼女がどういう遣り方でそのプロジェクトをしようとするか知らなかった。」
と今取り敢えずするとしてみよう。すると今度は私が原文から翻訳した日本語を更に英語に翻訳することを誰かが試みるとしよう。その人間は例えば次のように私の日本語の文章を翻訳するとしよう。
I wasn’t afraid to be known by anyone what course she tried to choose to accomplish that project
この文章を更に別の誰かが再び日本語に翻訳しようとする。そしてその結果
「私は彼女がどういう方針でそのプロジェクトを完遂しようとしているのかを知らされないことを気にしなかった。」
と取り敢えず翻訳したとしよう。
 最初の文章よりもニュアンス的には明らかに彼女の行動に対する自分の無知に関する報告が、自分が下調べしなかったからであるというニュアンスから、やや人から知らされることが当然の筈なのに、それがなかったという非難の調子になっていることが了解されよう。自己責任や自然状態とか色々の事態が想定され得る最初の文章から一番下の日本語は明らかに外部的な圧力によって引き起こされた事態であるという認識へと表現が進化している。しかし重要なことは「私が彼女の遣り方(方法、方針その他)を知らなかった。」という事実であり、それが自己の努力の怠慢のせいであるか、外部的な不可避的条件によるものであるかはともかくとして、そういうことなのである。このようにもし仮に無限に翻訳を続けてゆくとしよう。試しに最後の日本語を再び私が翻訳したとしよう。
I didn’t need to be afraid that which way she took to finish that project.
この文章でも最初の原文のニュアンスは充分伝わるし、これは意味的には殆ど相同であると言ってよい。ただニュアンス上、彼女が何らかの方法を採用することに比重がかかっている最初の文章が、最後の文章ではそのことに関しての自分の立場に関する表明性に比重がかかっているということ、つまり当初の原文では彼女自身の事実関係に比重があるのに対して、最後の文章は明らかにそのことに関する自分の態度表明に比重があるのだ。これは第三番目の翻訳で、やや原文の事実報告内容率直性から、事実報告内容把握申告性へとニュアンスを変更したことに起因している。ここから流れが変わった。しかしニュアンスとはそれを直に報告したり、されたりした時には重大なことでもあるのだが、事実関係それ自体を確認する場合、それがどういう態度で表明されたか、どういうニュンスで報告されたり、説明されたり、叙述されたかということはそれほど重大ではない。
 つまり事実関係に関する限り、その報告というものの性質上、ある一定以上に逸脱することさえなければ、どれをとっても本質上には差し障りがないということを表わしている。だからある事実例えば2005年の「自民歴史的大勝利」とか「自民圧勝」というような新聞の一面の見出しに対する解釈が肯定的であろうと否定的であろうとも、その事実関係に対する記述さえ誤っていなければ、その新聞報道に接する国民にとっては、つまりただ事実関係を知りたいというレヴェルから言えば「たいしたことではない」のである。
 このようなある事実関係における報告を旨とする文章におけるさまざまなニュアンス上の差異をも克服し得るものを真理領域と言う。つまり私たちは通常ある陳述においては、この真理領域を無意識に指示しているのだ。だから逆にその真理領域の叙述という事態に対して、ある種の不明瞭部分が文章にあるとしたら、それは、その文章が未完成であり、不完全であるとするのだ。この文章は記述された場合であり、発語の場合には陳述となるのは言うまでもない。
そこで我々の意思疎通の真理条件の一つとして次のことが言えるであろう。
 
言語行為とはある真理領域の確定を旨とする。あるいは言語行為の意思疎通性とは真理領域の確定を志向する。

 今分かりやすくするためにこの真理領域を円によるものであるとしよう。この真理領域に沿った各表現は全てこの円の円周上に位置する。そしてその同一の真理領域を志向する表現でないもの、つまり円周から離脱したものは、この私が与えた翻訳家間の翻訳技術上の真理条件から外れ、翻訳の態をなしていないものと見做されるわけである。つまり職能上の失格というわけである。私が仮に示したこの翻訳の連鎖においては、通常第三番目の英語が意訳であるとされよう。これはその状況を知っていて、この方が適切であるというケースを除けば恐らく翻訳ミスと見做されよう。それから後はこの第三番目の英語に比較的従順である。これをI wasn’t be heard~とすれば恐らくこのうような原文からの遊離はなかったであろう。恐らくこの翻訳家は原文を記述したり、あるいは発語した人物が何らかの狼狽振りを示してこの言辞を齎したことを知っていて、そのニュアンスをも伝えるべく意訳を施したと推察することが出来る。そして本質的に良質の翻訳というものは、その意思疎通上の感情表現でもあるところのそのニュアンス表現までするべきなのである。しかしそれにもかかわらず一般に我々の社会では、その報告に関して受け取るべき価値をほんの些細な事実関係のみ、つまり真理領域の値のみを記憶必須事実として採用しているというわけなのである。そしてしばしば意思疎通行為の権利獲得のためにはニュアンスまでをも含めた言辞全体が問題とされるが、報告陳述が報告内容、報告事実として記憶されるか、記述される場合には、この意思疎通の旨、意思疎通の志向性、要するに意思疎通の外部達成的目的というレヴェルでは明らかに真理領域のみで充分ということになるのだ。しかし少なくとも商売にかかわる人々がいくら売る商品が素晴らしくても、その売る時の態度が悪ければ、態度の悪いマスターの店のラーメンがいくら美味いからと言って、もう二度とあそこの店ではラーメンを食うかといった選択が成立するような意味では、我々は決してニュアンス表現が真意か偽装かのレヴェルではなく、社会通念上必要不可欠のレヴェルで意思疎通者としての心得を踏まえているか否かは、その報告内容とか報告事実の真偽性とか記憶必要事項としての認可の問題以前に重要となる。つまり「あいつの言うことは相手にするな。」という不文律が社会で成立するようではまずいということなのだ。しかしそれでも尚表現ニュアンスも重要であるが、まずもって報告事実の事実関係の真偽が真理領域設定性においてはまず第一義に求められる、そして建前上この真理領域の設定に対して、真理領域逸脱的事項、つまり真理領域逸脱的言辞(非倫理領域的言辞)を認めないということがもう一つの意思疎通上のルールであると言えるだろう。しかし間違いとか思い違いというものは誰にでもある。そこでこの間違いに対する指摘という行為の相互認定こそがもう一つの意思疎通上のルールであり、そのルールの受容こそが意思疎通者同士の連帯ということになる。
 意思疎通上の連帯とは社会ゲームと私が呼ぶ言語行為を円滑に運営させるための成員の心得においては、間違いが派生することを前提に、一歩一歩確実に相互の内的価値システムを充足させるような行為として言語活動を位置付けたいと願望することによって言語行為そのものを価値ある行為にすることに他ならない。願望を抱くことがその願望を実現するための最も有効かつ実際的な行為である。そのためにこそ言語行為があるのだと相互了解し合うことそのこと自体が価値システムを構築している。
 我々は皆同一円周上のどこかにいるのだが、永遠に円の中心には行けない(行きたいと希求しつつも)ということをどこかでは認め合っている。もし安易に円の中心にいると公言する者がいたとしたら、即座にそれが幻想であると説諭することが親切心であると皆考えているのだ。だからこそニュアンスを伝え合うことに我々はその人独自の円周上の位置を認め合うのだ。それは「あなた(お宅)はそっちにいるのですか、私はこっちにいるのですよ。」という受け答えであるということだ。大人社会というものの現実は、この遣り取りが至極簡単に遣り通せるか否かということにおいて、全ての職業が成立していると言っても過言ではなく、永遠に円の中心には行けないのだということを認め合うことにおいてのみ大人であることを通行手形として示し合うということである。それは職業という規定を個人に当て嵌めることで、存在認可し合うということでもある。
 
 例えばジャーナリストは特有の言葉遣いをするし、セールスマンは自己がセールスマンである風に語ることに吝かではないということを他者一般に認めさせるように語るし、それを彼を取り巻く成員全員が期待していないように期待する。もし彼がセールスマンではないという風を装うとしたら、それはセールスマンとしては甚だ誠実性に欠けるということを彼も彼を取り巻く社会人全員が知っている。営業畑の人間はその了解において経済活動を円滑に執り行うように期待され、周囲の成員全員に対して期待しないように期待させる。巧い商品の宣伝は乗せられている社会成員を自発的にその商品を選んでいるという風に錯覚させることに長けている者に他ならない。だから彼の言葉遣いは外的対象としての消費者に対しては職業意識を仄かに漂わせながら、その漂う雰囲気は決して職人の頑固さとか依怙地さとかとは無縁であるべきであるという世間一般の常識に準拠しており、またそのように開発部とか製作部の人員と異なっている、つまり世間一般の消費者の目線で判断していると世間一般に認知させることを自然に強いているのだ。それこそが彼等の職業倫理でもあるのだ。他者一般に対して職業意識と職業倫理を認めさせるということは、ある意味では職業の意識を個人的に勝手に想像するようなものとしてはどの成員に対しても認めないという世間一般の常識に全ての成員の意識を結集させるように促すことでもある。それは職業人としての彼が他者一般に対して自己を位置付けることそのものが社会成員としての権利であることの主張でもある。彼はだから自己という内的対象に対しては個人的なパーソナリティーの保有者としての自覚を醸成し、世代的な感覚を同世代の人たちに対してはメッセージとして発信しつつ、別の世代に対しては世代に拘泥しないで生活していることを印象付けるのだ。その二つの行為は交互に立ち現われることもあるし、同世代の成員に対して同世代としての強制的な運命において相互に自覚することを忌避したいという欲求を表出することもある。それは世代というものはお互い何ら重要なことではないという表明をし合うために世代というものがあるのだ、と認め合うことでもある。
 同一職場において同僚、上司、部下という人間関係があるのは、そのような関係の中に自己を位置付けることそのものがどの同一職場の成員間にも共通する権利であることを相互に認め合うことに他ならない。
 しかしこの意識は一面では他者と自己を結び付けるが、一方では壁も作る。自己責任とか自己意識といったものを相互に認め合うということはそういうことだ。失敗経験は後悔を生むが、実は後悔とは良心があるからこそ引き出される現在の意識でもあるのだ。
 他者に対して後悔させたくはないという意識は、自己内で後悔しないように全ての職務を執り行うことによって実現するのだ、と相互に認可し合うことから同僚同士の結束とか友愛とか友情とかが生まれる素地となっている。後悔のない理想形を設定しつつ、それは円の中心であることを皆で了解し合っているのだ。
 このような一方で友愛的な結び付きと片方では壁として立ちはだかる自己と他者の規定がない世界では、ニュアンス表現そのものが成立しないし、またニュアンス表現のない意味規定だけの世界があるとしたら、それは実は観念上の世界でしかないのだが、恐らく機械だけが支配するシステムの世界ということになるし、無機質であり、無表情な世界であり、価値システムという高次の認識もない世界であるだろう。そういう世界には階層性も、地域的特色も、個性表現の機会も発露も見出せないであろう。しかしそういう世界を想像することは我々には出来るし、また一方ではそういう世界に安堵するような心的傾向性も我々にはあるのだ。社会そのものはゲームであるよりは恐らく事実の集合であるだろう。しかしその無数の事実世界をゲームと捉えることで世界を認識するのが人間なのだ。
 自己同一性とか他者性とかは実は人間が記憶能力を飛躍的にどの生物よりも発達させ、その能力を認め合うからなのだが、その二つは人間に責任という観念を前提として意識させてもいる。
 哲学者ウィトゲンシュタインは接頭辞、接尾辞といった言語の文法的な秩序とか文法の所在に関して大いに語ることを我々に促したが、それは言語を取り巻く社会の様相とか、規則を必然的に生じさせる人間のある傾向性とかを我々に彷彿とさせたのだが、発話者のある言辞が齎す意味を真と採るか偽と採るかというような価値判断の自由とか、感情の様相というレヴェルでは考察が不十分だった。例えば彼は使用とか了解とかの判断についてはよく考えていたから、機能主義的な認識においてはある頂点を極めたと言える。しかしニュアンス表現そのものの、発話者自身の感情の調節という生理学的な認識に関してはそれほど自覚的ではなかったと言える。法哲学的な認識を彼が採用する時、慣用というレヴェルから考察することで乗り切ろうとしたことが、後世に多大なヒントを齎したが、ソシュールの言うラングとパロールという構造的な相関性にある自己と他者との位置づけ作用そのものが慣用によって見出されるという主張としての彼の哲学は、しかし自己と他者という関係とは、実は意思疎通のためである以前に、まず相互の感情の調節であるとする認識からしか認め合うことが出来ないという現代的視点にまでは到達していなかった、と思う。我々は国家、民族、地域共同体、職業、それら一切をある固有の社会的地位の下で認識している。そのように実存的に体現されている事実を担い、請け負っているという現実は、それ自体で法的な認識を相互に認め合っていることなのだが、その事実は実は相互の感情を暗黙の内に調節し合っているということを我々はしっかりと認識するべきなのだ。
 例えば私が物書きであるという職業的意識を持っているとしよう。するとそれは私が物を書くことを他者に認めさせることの請求として位置付けられるだろう。その行為はそれ自体で社会そのものに対して私が私のアイデンティティーを確保することを請求していることの事実を周囲の全ての成員に宣言していることである。
 言語学ではヤコブソンが音韻的な詩学を実践したし、カルナップは統辞論的に捉えた。それらはしかしそのことを通して全体を把握することに対する試みであるとした時不毛な存在となる。それは世界像の認識の仕方に過ぎないのだ。それは彼等の言語である以上でも以下でもない。何故なら言語とは言語活動を通してのみ問えるものであるが、同時に活動として顕現された事実に対して全体を求めることには何らかの自己欺瞞があるからだ。彼等の言語は我々の言語でもあるが、それは全体ではなかったし、彼等もその積もりではなかった。だからこそ世界像の認識の仕方はそれ自体で一個の事実だが、事実を産む世界そのものではないのだ。全てのテクストは部分であるし、そのような位置付けにおいてのみ世界を全体として認識出来る。
 例えば言語学者のように語彙の恣意性とかシニフィエとシニフィアンといった区分けによって言語活動を捉えると、確かにそこでは世界像を認識しやすくなる気がする。しかしそのような命題論理そのものは、結果的にはテクストであったり、宣言であったり、思想的結実であったりするのだが、行為を執り行う実践者たちにとっては、その時々の大脳生理学的な空間処理であったり、情報処理であったり、時間認識の把握の仕方を求める試みであったりするものである。勿論我々がそれ等の行為から意味を受け取る時、彼等の行為に内在する感情の調節という事実に必ずしも着目する必要はないかも知れない。
 そのような生理的な感情調節それ自体をデリダのように原エクリチュールと捉えてもよいのかも知れないが、言語活動を成り立たせる何らかのヌーメノンがシニフィエとかシニフィアンと構造言語学者たちが呼んだものを二元論的に、ある意味では分裂した価値として捉えることを強いたものそのものが、我々をその二分法を無化する可能性の世界へと羽ばたかせることにもなるのである。
 イヌをイヌと呼ぶ習慣そのものが我々にイヌを意味的世界の只中に認識させてきた。ネコをネコと呼ぶことはその体系の中にある。「寝る子」を「寝る」と「子」とに分解すると、「寝る」は「なる」や「煮る、似る」や「塗る」、あるいは「乗る、載る」といった意味的世界に隣接した音素的クオリアの世界の意味であることが分かる。その私による社会ゲームとしての言語の慣用的な了解そのものの認可こそが私がその「寝る子」を固有の意味的世界の要素として認可することの宣言を通した自己の発話権利と能力の誇示として機能している。それは自発的でありながら、依拠的な行為選択である。その制度依拠的な認識の限りで私は「寝る子」と発する行為を、メッセージ伝達のための言語の機能上の利便性を認め、それを他者に対して認めさせる感情と無縁ではないだろう。すると言語表現のニュアンス、あるいはニュアンス表現というものの在り方とは、即ち慣用される表現という事実に対してアポステリオリな成果ということになる。だがその成果は必ず意味を独立した世界であると認識するもう一つの安定した選択において成り立っている。
 意味が独立した世界であるということの認識は、無意味な感情の表出によって齎されているのだ。意味が抽象された世界であるなら、意味を抽象させるものがあることになる。それは意味と出会うという行為を正当化させるものである。「寝る子は育つ」と私が実感してそのような言辞を齎す時私はその常套的な意味的世界を容認しているのだが、その容認を通して私がその言辞を齎す相手(意思疎通相手)を認可していることが意思疎通であるとするなら、私はそこに相手に対する時の感情を抜きには発話出来ないし、記述でさえ私の文章を読んでくれる人を期待していることに違いはない。そこには発話においては電話であってさえ声の表情が示されているし、書く行為もまた、文体とか論理的叙述の流れという表情が自然に滲み出ている。
 表情とは顔の感情的表出であり、声の調子による感情の調節である。その二つは連動しているし、我々は齟齬があるようには話せないし、話さない。もし齟齬があるのなら、それは言語行為を分析した時だけである。分析とは分析する対象の認可に他ならない。
 他者と出会うこととはそこに他者に対して差し向けられた表情を我々が隠蔽することなく秘密を解除していることである。表情はそれ自体で一つの感情表出であり、意味である。それは意志伝達なのだ。フロイトは自己保存欲動という観点から意思疎通を捉えた。それは存在の仕方としての自己と他者の壁を作ることでもある。元々世界の只中に放り出された我々はどこかで全てが繋がっているということを知っている。それは説明出来はしないが、真理として信じている。円の中心の定理である。しかし敵対する関係ではポーカーフェースを我々は決め込む。それは護身術であるし、自己真意隠蔽の権利主張である。その友愛的表情とポーカーフェースの差の段階そのものが信頼というカテゴリーの意味なのである。発声とは実はその表情の意志伝達の補足手段として発達した筈なのだ。
 精神科医は患者の告白を事実としては型通りには受け取るが、告白の意味を吟味するのだ。精神科医は患者の表情を読む。表情には協調、理解、友愛から、尊敬、崇拝、卑下といった全てが宿る。それは感情的なメッセージである。我々は論理とか倫理とか意味を求めるが、それらは順序から言えば、表情の存在から言えば後付作用でしかないものである。表情は実存であり、存在であり、考えそのものであり、論理前的な意味の世界のものである。上の者である精神科医に対して患者は彼に同情すらするし、威圧さえするし、彼が自己卑下することを期待もする。それらは尊敬心と裏腹の必須の感情である。だからセッション時の彼の発声は、それ等全ての感情を含む表情の上に乗せられたメッセージニュアンスの自己確認の作業でしかない。発声は真意表出によって感情のサインともなるし、意味作用的思考の誕生を促す契機ともなる。だから感嘆詞とか敬語とか命令語であるような選択とは、実は意志伝達する感情を語る表情を引き立てるものであるに過ぎない。
 発生論的には形容詞とは間投詞の発展進化したものであるとも捉えられる。感嘆語としての形容詞と間投詞は同時的共進化の産物であろう。(特化された間投詞が形容詞として定着したのではないだろうか?)
 確かにシンタックスという観点からは名詞と動詞が重要である。しかし統語的秩序として成立しているこの二つの形式に意味を盛るのは感嘆語たちなのだ。その形式に対して意味を生じさせる感嘆語世界は、実は表情の真意性の他者に対する説明であり、宣言なのだ。
 統語形式に意味了解契機としての感嘆語が付き加わり統合された時、それが文章となり、意味世界の構築宣言となる。それは言語の起源的な統合という考えの基本である。「寝る子」は比較的ミニマルなそのような統合例である。「寝る子」を選ぶということは語彙選択そのものが、表情的な意志伝達の存在意義を他者に訴えることでもあるのだ。
 だから無表情という事態そのものもまた、不貞腐れることとか作り笑いすることとかと同じ一個のメッセージなのだ。それは豊かな表情を作ることが出来ませんという宣言でもあるのだ。
 表情的実存のとんでもない豊かさと饒舌を自己弁護するようなニュアンスこそが統語秩序と名詞、動詞の多産を生んだと言える。そのカテゴリー化の過程において感嘆語のクオリア的認識が重要な役割を果たしてきたのだ。
 表情とは社会の存在の認可である。社会のない世界では表情は生まれない。ニュアンスが付帯されることそのものは実はニュアンスからしか言語行為も、どんな意志伝達も為され得ないということの確認においてしか成立しないのだ。社会があって、表情があるという回路だけではない。恐らく表情があったからこそ社会が成立したのだ、という回路も考慮に入れておく必要がある。
 例えば補足とか言い訳といった行為は、そもそも表情の言い訳として言語行為が、意志伝達が発達したという一事をもってしても必然的な人類の事実である。法とはそれ自体で一個の巨大な言い訳である。巨大な補足である。形容詞の誕生は我々の世界においては、表情の存在の有難さを理解し合う行為と相補的に発展したと考えられる。形容叙述そのものが付帯的であるような認識は、表情のア・プリオリに対して、言語のアポステリオリにおいて表情の確認と自己表情の存在の認可請求と権利主張と、宣言といった根源的な事態によって作られるのだ。それはカントの「判断力批判」のメッセージの出所でもある。
 意思疎通上での同調とか、同意請求といった事態は、感嘆的表現の進化過程によって生まれたものと考えることも出来る。感嘆語の進化によって表情の友愛は、あるいは敵対は形成されてきたのだろうと私は思う。表情はそれ自体で全てを語る。しかしそれを敢えて言語で説明することを人類は選んだのだが、何故そのように選択したかと言うと、我々は嘘をつくこと、真意を隠蔽することを一方で能力として保持してきたからである。しかしその虚偽行為は、実際全ての悪辣なる成員をも含めストレスフルであったのだ。虚偽行為の持続は生理的にしんどい行為なのだ。
 効果的な統語法であるところの全て、例えば倒置法、あるいは婉曲語法とかいったものたちは、同意や確認作業の様相的な多様性に起因する。疑問文もそうなのだ。例えば教えを請う行為それ自体は教えて貰う者の知識を認定することの宣言であるし、教える行為をなすその者の誠実性の認可であるし、率直に言ってそれは信頼性に依拠しているのだ。
 人類が表情に対してそれを事実として表現するような意味でニュアンス表現を獲得したことの意味は恐らく社会全体に対する意識、それは話者同士の協調に留まらない世界の存在の認可が不可欠であったことだろう。全体の中での個別という認識が話者同士にあったという事実が、また表情に言語を付帯させることにも繋がったのだ。本来特定の職務が誕生することとなる素地として、我々は集団と集団内の個別という観念を表情的にも言語認識的にも獲得していなければならない。もし全体の中での個別という認識が人類に誕生していなければ、我々は名詞、動詞、形容詞といった発明をすることもなかったかも知れない。何故なら我々は世界を構築する時、勿論それは心的作用として世界という区分けをすることを意味するのであるが、世界内と世界外という認識を持つからだ。世界は全体であると同時に部分にもなり得るものである。全体という観念は世界認識を獲得するに従い必然的に生じてきただろうと思う。全体と部分という認識はそれ自体世界を必要とするからである。地に対して図であるような全体と部分は、世界自体の秩序化作用の結果生じる認識だからだ。ここで言う地とは自己の存在を他者によって知ることの現実、実存のア・プリオリのことである。(地は他者一般、自己を取り巻く全環境。)
 世界自体は比較対象ではない。しかし世界認識の共有という事態は必然的に世界を区分けする認識を生じさせる。(君の世界、僕の世界etc。)その顕著な例こそ全体と部分である。
 
 言語表現に常に不可避的にニュアンスが付け加わっているという事実は、それ自体で表情がニュアンスそのものであるというア・プリオリを助長していることを意味する。何らかの言語行為をなす時我々の大脳では常に何らかの情動を感情として認識するように脳内で放出されるアセチルコリンを受容していることでもある。感情の様相とか思考のタイプはそのまま表情を構成している。それはどちらが先であるということではない。ある表情をすることはある感情の結果であると通常は考えられる。しかし逆に私はある表情を選択することである感情が生まれるという回路も考案したい。例えば嬉しいから笑うのではなく、笑う、あるいは笑う表情を意図的に作るからこそ嬉しくなるという回路を我々は極自然に採り得るのだ。常に楽しくあるわけではないからこそ、積極的に楽しくあれと心掛けることとは我々は日常で自然に選択する意志であり、意図である。前頭前野での論理的思考、側頭葉の言語認識が、ベルグソンも言うように空間分析的本能の如き数学的空間把握能力が人類に備わっているとしたら、我々はそこから全体と部分という認識を得ているのかも知れない。例えば私たちは世界を親しいものとして捉える能力がある。そしてその世界を認識することを通して全体と部分という観念を得るのだ。それは殆ど同時的なことである。統語秩序の慣用はそれ自体で、分節化作用である。シラブレリゼーションとは、空間把握における全体と部分という視覚的メッセージを広さとか周囲とか脇とか中心とかいう認識(固有のクオリアとして顕現されている)によって自覚的であることと関係があるのかも知れない。言語というと我々はつい聴覚的システムばかりを考えがちだが、実は視覚的クオリアこそが言語統語秩序の分節化作用を促しているとも考えられる。それは一種の共感覚である。
 エーデルマンもガザニガも価値システムということから脳を考えている。もし言語がある程度他のア・プリオリな知覚能力に促進されているとしたら、整理する行為とか、片付ける行為とか、保存しておく行為とか、要するに空間分析行為そのものを象徴しているとしたら、我々は言語を使用することで何らかの脳内の思考を整理していると考えられる。
 だからベルグソンが時間を空間として把握せざるを得ない人類の思考傾向こそが言語の分節化を齎したと考えることは理に適っている。人類の思考的な不可抗力、つまり視覚的秩序として時間を捉える能力が言語を秩序付けるとしたら、幾何学的空間把握能力こそが、純粋視覚像把握もまた空間分節化作用によって構成されていると捉えることを可能にする。それは実は大脳生理学的な意味から言えば、それ自体で一種の情報処理工学的な作用と言える。
 例えば視覚として飛び込んでくる像は、それ自体他の像と識別可能だ。その識別化そのものは、実は全ての存在事物対象を等価に見る見方を一方で育むこととなる。違うという認識が同じという認識を生む回路である。その際我々は言語を協力させている。言語習得のない段階の幼児でも、少なからず同じと違うという形態記憶のようなものはあるだろう。しかし世界認識がある親しさのある事物によって徐々に形成されるに従って、同一のものを異なるものの中で突出させるわけだから、その事実認識そのものが記憶になるのだ。それは要するに何を記憶して、何を忘却するかを一瞬にして選別しているということに他ならない。これは前言語的能力である。
 整理能力と情報処理能力としてのア・プリオリこそが視覚を何かを記憶して何かを忘却することの選択を可能なものとする視覚認知能力を用意する。だから恐らく脳科学者たちが考える価値システムというものは個人毎に異なるものであるが、それを糧に視覚知覚行為や聴覚知覚行為を意味あるものとする選択であるに違いない。すると言語のニュアンスというものは表情の意味付けとして意思疎通上で生じる作用であると同時に、視覚、聴覚の微妙なるクオリア感知能力の言語的置換であると考えることも出来る。
 山が見える。湖が見える。空を仰ぐと空は青い。そういった一連の風景認識は、それ自体で空間把握能力の行使である。それは外界を世界と捉える認識から生じる。山の頂上に聳える塔とか山小屋とかは山という視覚的なカテゴリーにおいて全体に対する部分像として我々は認識する。そのような認識は言語によって生じた部分もあるだろうが、前言語的な感覚としても把握し得る。その二つが鬩ぎ合っているという事実に対する認識は、言語において統語秩序とか文法を考える(勿論それらは長期記憶へとワーキング・メモリーの助力でもってセットされているのだが)ことの助けになっていると考えても間違いではないだろう。
 世界を認識することは外界の像をある秩序で見ることである。それは視覚的認識そのものを秩序付けることであるが、秩序付ける能力がそのように世界を見ることを促すと捉えることも出来る。風景とは世界を全体と部分で区分けする認識によって意味的世界として君臨するのだ。
 それは読書においても成立する。例えば「グラマトロジーについて」でデリダは言語活動においてとりわけ文字言語が記憶を助けるものであると同時に忘却する力であると捉える時、彼は恐らく全ての像を一挙に記憶することの不可能性を認識した上で知覚を行う人間の仕方について言っている。デリダが原エクリチュールと呼ぶものとは、恐らく世界の痕跡である。世界は開けているが、それは我々が世界を全体と部分で分節化する能力の保持によって「閉じられた」ものではない「開けた」ものであるとするのだ。
 エクリチュールそれ自体は言語が社会ゲームの一旦であると我々が意味付けるよりも先に実は表情の無化を知らず知らずの内に実践していることなのだ。例えば文字それ自体は意味を運ぶものでしかない。しかし文字は文字を記入した者の存在を彷彿とさせる。その時デリダが差延と呼んだ行為の痕跡という観念が生じる。しかし我々はその行為を感情の調節として執り行ったが、文字自体が示す意味は秩序として認識される。そのギャップをもデリダが差延としたのなら、我々はエクリチュールを記述者の責任の世界において捉え直す必要がある。良心が後悔を生むとしたら、責任が行為を生む。主体的行為としての記述とは、古代の壁に書かれた文字も、現代のブログやネットの文字も変わりない。そして我々がそれらを視覚的に授受することを前提に書かれた文字群は、記述者の意図をそこに読み取ることを強いる形式として我々は同意している。
 例えば文字ではなくても、視覚情報の中で記憶内容としてピックアップされるものとは全体と部分というカテゴリー認識の最中に生じる何らかの観念以外のものではない。知覚映像を知覚された像であり、脳内のニューラルネットワークの産物であると脳科学者を考えさせる世界とは、それ自体で一個の観念である。我々は言語的な意味でも、前言語的な意味でも観念としてしか世界を認識出来ない。あるいは知覚出来ないのだ。
 観念の側からは我々は言語化し得ない不可解要素をも認識する。それは強い印象となる。それは長期記憶に残りやすいだろう。最終的に定着されるイメージは現在知覚によって瞬時にピックアップされたものに他ならない。それは個人毎に異なる様相である。第一印象から最終定着映像への推移それ自体は、その事物の、対象の、世界の一部の性格として記憶されるだろう。その推移が個的なその事物、対象、世界の一部の意味である。意味は記憶されたクオリアのことである。それがイヌであったとしよう。それはイヌであり、「犬」であり、しかし同時にそれを犬と、イヌと私に呼ばせた実体のクオリアである。それはある概念の下に私を収斂させた固有の実体としての映像記憶である。つまりそのようなイヌ体験、犬体験そのものが私が後日友人に対して語るその犬の形容叙述的なニュアンスを生む。そういった行為の積み重ねが行為経験記憶となり、私に言語的なニュアンスをシナジー的に進化させる。それは私が常に言語行為を採る時の私の表情に伴われているし、私の表情をその都度意味付けもするのだ。私の感情がそのまま表出された表情を維持することを通して私が感情を調節するホメオスタシス的な情動によって感情が認識されるような認知において言語が活躍するとしたら、私の脳内の思考過程による主語概念も述語概念も、名辞化された名詞も、それを性格付ける形容詞も、原初的な私のその世界の中の事物、対象という一部の実体(あるいは実体として私の脳が認識するイメージ)を取り巻く私のその時の感情を調節する意味合いを兼ねて私が言語化したのであり、その痕跡がそれと類似した知覚経験する時私の脳内で固有のセレンディピティーを生じさせることとなる。
 すると言語的なニュアンスという考えそれ自体は、実は記憶作用と密接であることがはっきりする。ニュアンス表現とは、その時に私が示したであろう表情の意味付け作用の産物でありながら、実は記憶内容の様相を決定付ける、記憶した時と記憶を再び呼び覚ます時の、現在知覚状態の認識と必ずどこかで異質の変形を被っている時間的差異世界のことなのだ。
 言語活動はそれ自体で社会ゲームとして容認されたものである。しかしニュアンス表現そのものは、語られる事実の過去における存在の主張を伴った記憶想起の感情調節以外の何物でもない。しかし結果として立ち現われた表現そのものは感情調節された結果であるので、生理的世界のものではない、要するに意味の世界である。意味は作用した時に生じる観念である。私が発するニュアンス表現は私のその時の感情調節であるが、ウィトゲンシュタインの「探求」的立場に立てば、それが真であるか偽であるかというような判断とか、それが共同体内での約束事として成立しているのかいないのかというような判断を即座に求めるような性質の意味作用と化しているのだ。それは感情調節しながら、その行為を意味付ける我々の思惟が、一個の意思疎通という了解事項として言語行為を認可しているからなのだが、結果として意味作用化するその私のニュアンス表現の、共同体の側の了解事項に対する確認が、私の表現の全てを感情如何の価値を無化するのだ。感情の無化とは意味の定着である。意味は言語が発せられる段階では明らかに浮遊している。しかし私が何らかのニュアンス表現をなす時、それは必ず私の発言自体を他の発言や私の過去の発言等によって先後関係の中に位置付けさせるのだ。だからこそ私が発したニュアンス表現の他者の側からのクオリア的な意味付け作用が、社会ゲームにおける私の発言の価値となり、定着した意味と化すのだ。そこには必ず時間的な差がある。
 ある発話者が共同体内の約束事に適って発言しているか否かということに対する共同体の側の判断を含んだ了解事項の確認こそが、ア・プリオリにその発言の存在理由を規定する。その発言が発話されるその時同時に意味作用する事実が、あらゆる先後関係へと我々を誘うのだ。つまり意味作用する事実へ我々を伴うというわけだ。その意味作用事実の獲得こそが、発言を発話する者によって空気を構成する。ある概念、ある問題に対する提起といった全ては発話者の行為によって齎されるが、それは発話されることによってその発話が会話という文脈上に位置付けられる時、明らかに因果律を構成し、因果律の中でこそ概念把握方法も見出される。だからこそその発言の発話という事実は、空気の変化による時間論的な変化として考えられるのだ。その空気の変化が時間論的な認識を成立させる。(言語哲学というものは即ち時間論哲学であることの根拠はここにある。)
 例えば今ある会話共同体があるとしよう。そこでは四人の人物がいるとしよう。彼等にとってAの死去という事実がBによって既成事実として報告されるとしよう。つまりCもDもEも含めた全てのこの共同体の成員にとってBによって報告される事実は意味作用的に受容するに足る関心事項である筈だ。Aという人間の存在自体は四人によってのみ意味があることもあるし、そうではなくても尚彼等にとってAの存在はBによって近状報告の対象となるだけの情報化され得る価値を有しているのだ。だから仮にBによって報告され得なかったにせよ、いずれCかDかEによって相互に報告される運命にあった筈である。それは共同体というものそのものが相互の共通関心領域の共有を基軸に構成されているという事実を我々に知らせる。そして報告がなされた後、Aの死去事実は共通了解事項へと転化する。そしてその事実を問うことそのものが言語哲学の存在意義となるが、同時にここではその報告においてなされるBの表情、報告表現上のニュアンスが重要なものとなる。それは付帯された事実であるが、同時に意味作用を構成するものでもあるからだ。

 本質的に感情とは一瞬一瞬異なった唯一無二のものである。2007年五月十六日の午前十時二十二分に私が抱く感情は、それがどんなに平静なものであっても尚、その時の一回限りの感情の様相によって支配されている。感情にはその都度固有の様相がある。心的に固有の様相があるという事実が、その都度世界を異なったクオリアで認識する可能性を与えている。ある憂鬱な表情をある人間が浮かべる時、それはそれ以前にも似た経験をしていたにせよ、その時において一回的なことである。その事実は変わりない。誰かが「あいつは直ぐに興奮して激した表情を浮かべる性質だ。」と言ってその人間の例の表情を認めると、皆異口同音に「また始まった。」と言うと思う。しかしそのように揶揄された人間の激した表情は、その時において固有であるし、本人にとってもそうである。しかし私たちはその一回一回固有の表情とか、その表情の表出に伴われている感情のその時限りの性格という観念を捨ててはいけないのだ。ただ我々はそれをあるまとまりとして理解したいだけである。「また例の奴が始まった。」という風に。だから表情に伴われ発せられるニュアンスもまた常に一回限りの感情的様相と、その時に言葉を発する者に認められる固有の知覚的事実と、その知覚を促進するその時固有の知覚映像的なクオリアは、唯一のものである。そういう瞬間は二度と訪れないのだ。その事実は大切なことであるので念頭に入れておいて欲しい。
 真理値について本章の最初にとくとくと述べたが、実はこの真理という考え方にはここで私が言う意識と感情の唯一無二性を無視する試みがなされていると言える。例えば私は世界で一個の唯一無二の人格であるが、私が嬉しい表情を他者に対して向ける時、その時の私にとって私の脳内でのニューラルネットワークの発火パターン、ウィリアム・カルヴィン流に言えばクラスターの活性、不活性の仕組みそのものは他者と私を容易に繋ぐ、例えば世界中のどのような人間であれ、エンパイア・ステート・ビルの屋上からダイヴィングするとしたらその全ての人間にかかる万有引力の法則のような例外を認めない同一のメカニズムが働いているという意味では人間は個別的存在ではない。その一般化され得る真理を究極まで研ぎ澄ましたものこそ物理学であるし、心理学一般の学問的傾向であり、脳科学の拠って立つ地点である。しかし精神分析医とか精神科医とかはクランケに対してその場その時の感情を読み取ろうと苦慮するだろう。そしてそれはどのような個人であれ、意識と感情のその場その時の固有性とは、その人間固有の経験と、記憶内容と、記憶傾向と、状況判断的な性格という言わば実存的な唯一無二性に取り巻かれている。この個別性は逃れようもない真実である。
 構造言語学においてはある記号的認識の持つ制度的、ラング的(ソシュール的に言えば)、一般的な認識に関しては追求した。しかしその時に一般性と同時に個別性、つまり状況論的であり、意識保持者としての感情論的な意味合いにおける唯一無二性の奇妙な同居に関してはそれほど追求したわけではなかった。例えば私たちは誰しも誰か固有の両親を持って生まれてきている。しかし誰しも誰かが両親であるという歴然とした事実は、同時に同一の両親を持つことは兄弟姉妹以外にはあり得ようもないという事実と常に同居しているのだ。しかしその事実は次のようにも言い換えられる。私たちは固有の遺伝子の配列を持っているが、同時に遺伝子の作用そのもの、コドンであるとか、選択的スプライシングであるとか、動的平衡であるとか、代謝システムであるとかという一般性においては誰しもエンパイア・ステート・ビルの屋上からダイヴすれば万有引力の法則と、空気抵抗と、落下速度の微妙な法則性にどのような個人でも縛られているような意味で、そのホメオスタシスの仕組みそのものにおいては、欠損箇所とか個人的な難点を抱えつつも、同一の生物物理法則の網の目の中にいる。固有の遺伝子の傾向性という個別性は、要するに誰しも遺伝子の作用を避けられないという相同性において効力を発揮しているのだ。だからクオリアという認識もその場その時の唯一無二の感情によって左右されているが、同時に唯一無二のその時の感情的様相と密接であるという事実においては全ての人間の意識の瞬間は等価である、と言える。
 哲学とはある意味では不可知領域に対する態度の採り方そのものに対して苦慮してきた思考史であると言える。それは藤原隆志の「ウィトゲンシュタイン」(講談社学術文庫刊)中の「(前略)K・クラウスはことばによって、A・ロースは建築により、人々に示そうとした。ウィトゲンシュタインが『論考』の中で「言いうること」を明確にいうことによって「言いえざること」を示そうとしたのも、同じ手法による」と述べる時、私たちは例えばカントもまたそのような思いで哲学に取り組んでいたに違いないと確信する。155年の生年月日のスパンがカントとウィトゲンシュタインには横たわっているが、その両者の試みにおいては藤原の指摘が全く相同に当て嵌まる。
 かの有名なウィトゲンシュタインの「論考」の最後部の「語り得ぬものに関して沈黙せねばならない」という謂いには、語り得ぬものが何かを知り得るためにも、語り得るものをとことん語り尽くさねばならないという主張として読み取れる。
 例えば論理は非論理によって取り巻かれている。論理とは論理であらざる多くの偶然性の中から汲み取る秩序である。そのカテゴリーで言うのなら、表情は非論理の世界の住人である。表情は意図的に作るものではない。意図的な表情は意図的であるという表出によって真意の隠蔽のメッセージとして送っている。しかし表情は意識の瞬間的な唯一無二性において現在知覚と対自的な意識が常に過去を食らいつつ、現在性の意識となっているのだが、その際我々は他者に対して例えば喜びの表情をその都度作っているわけでもない。
 一回一回の喜びの表情とはその仕方をその都度変えていたら、喜びとして認知して貰えない。しかし私たちが感じる喜びの心的な様相はその都度書き換えられてもいるのだ。去年感じた喜びは今現在感じる喜びによって意味を換え、喜びという感情的なクオリア自体も常に現在によって書き換えられている。そこで我々は例えば、一ヶ月前に会った友人と久し振りに会う場合、その時の喜びの表情はその時固有のものとして堤示することを心掛けるだろう。それはその時に意図せずとも自然に湧きあがって来る所作としてである。しかし彼は恐らくいつもの通りの私の喜びの表情と受け取るであろう。私もまたどこかでその時に唯一の彼の私に示す喜びの表情を、いつものような彼の表情と受け取る。無数の唯一の瞬間の様相を常にいつもの通りだと受け取らせるものは記憶であろう。記憶内容は常に現在知覚に付き纏っている。
 会社が不祥事を起こした時に経営者の代表が記者団に向って示す反省の態度は、その時に唯一の感情に支配されている筈だが、型どおりの遣り方を踏襲することで難局を切り抜けようとしている代表の意図を我々は致し方ないものとして認識する。それはそういう時にはこれこれしかじかの態度を採るべきであるという常識があり、その常識は社会全体の記憶となっていて、その社会全体の記憶を我々が個人の経験上記憶に留めているからである。
 反省の訓示はある意味では社会的法意識に則っている。言語活動は言語認識や統語秩序を理解する先験的な人間の能力によって遂行されるが、言語行為が秩序あるものとなるためには、社会ゲームにその言語行為が機能発揮する形で巻き込まれなくてはならないのだ。
 社会的法意識は言語活動の社会ゲームへの参画という現実がその我々が本来所有する言語的能力と特質として顕現させる。だから言語活動のない法意識はあり得ないし、法意識を育まないような言語活動とはあり得ない。しかし我々は一回の事例はあくまで法的にはいつものような判例基準に照応させるべく対象でしかないが、同時に当該者にとっても、その調停者にとっても唯一なケースでもある。しかし法はそのケースだけを特別扱いすることを忌避する形で進行するように求められる。それは各個別の判例間の平等、つまり責任倫理における公正さを求められているからだ。それは以前のあらゆるケースに対する社会全体の記憶がそうさせているのだ。
 しかし個人的レヴェルでも私たちは嬉しい時には嬉しい表情を浮かべ、厳粛な場では、例えば式典会場とか、裁判ではそれなりに厳粛な態度で臨むように社会によって求められている。そしてその「合わせる」行為はあくまで個人内面ではその場その時の唯一の感情に支配されているのにもかかわらず、その唯一性を隠滅させて寧ろ公的な一般的基準に照応させるべく苦慮することを強いられている。ある意味では論理性に基づいた全てはこの照応行為に随順していると言える。例えば数学的真理もそうである。物理学法則もそうである。個別の事例を一般化された法則性と真理の名の下に了解することが求められているのは、そもそも真理値の説明箇所でも述べたが、一般的ケースとして個別の事例を照応させることで、理解促進するように言語自体が我々を運ぶからである。今日見た空は唯一のケースなのだが、だからと言って我々は今日の空に固有の名詞を付与するわけではない。
 今日の空は「花衣」であると言うのは、文学者や詩人の自由の領域であるが、それは公的な報告に相応しいものではない。それを承知で行うのが文学や芸術の自由である。
 脳内のニューラルな神経作用そのものは、ネットワークとして理解することが出来るが、同時に脳生理を活性化させる内分泌作用として理解することが出来、この二つは密接であり、二分され得るものでもない。あるいはグリシンとミオシンという蛋白質が重要な役割を果たすこととして知られる筋肉は骨と厳密には二分出来るものではなく、あくまで共同して身体の動勢を担っていると言える。それは構造的にも機能的にも二分出来るものではない。つまり身体全体のホメオスタシスと密接に存在自体も、機能活性に関してもそれらは絡まりあった作用と、存在様相を我々に提示していると言える。あるいは神経作用自体が電気信号と化学信号とが交互の反復しているということを挙げてもいいだろう。
 そういう意味では表情は内的感情とか心的作用の全てと連動していると言える。だから意思疎通においてエクリチュール等によって示された文章やその論理構造それ自体は、発話者の声質とかその人間の内的感情それ自体と意味作用性とは峻別し得るような意味で、記述者の記述する際の心理といったものは何らかかわりがないが、意思疎通上での伝達事項の意味作用の自立と独立において、実は、その意味作用を作る当の本人の内的なモティヴェーションそのものの解析は無意味ではないということを次章では扱おうと思っている。
 さて話者、記述者の内的モティヴェーションが容易に意味作用の真理値と分離出来はしないという観点からは、意味作用性の真理値さえ把握出来れば後はどうでもよいという主張に根拠を与えることに躊躇を我々は付与するであろう。
 例えばある文章の統語秩序を発語行為において採用している限り、我々は内的必然性から言語論理に忠実に発声しているのだから、当然法的な常識とかモラルといったものでも、道徳的な思念という内的必然性に基づいて行動しているわけだから、規則そのものもまた文章の真理値が文章を作成する者のモティヴェーションと容易に分離出来はしないような意味で軽視することは許されないだろう。
 私たちは敢えて規則に逆らうことを潔しとはしないという行為選択基準を携えている。規則とは違反する時然るべく必然性が内的にでさえ問われ得る可能性が大きいので、我々はそれをそうおいそれとは破ることが出来ないでいるのだ。その反則の内的必然性に対する自己了解と対他者説明責任はストレスフルな行為なのだ。
 しかしそのような規則遵守という観念の基本には意思疎通上では嬉しい時には嬉しい表情をせよという常識的なモラルが横たわっているのだ。それはマナーであり、採るべしと常にされている態度の理想値である。実はこの態度の理想値というものこそが、法意識の起源であると考えられるのだ。私たちは特別なケース以外ではそう容易くは法規に背くべきではないという倫理を価値システム論的に認識している。それは法規に背くことによって生じる後味の悪さという良心による内的抑制作用の仕業であろう。だから逆にそれでも敢えて法規に背くことを正当化するためにはそれ相応の対他者一般としての、そして何より対自己としての論理的な説明責任が求められるのだ。そしてその納得させる術の披瀝とは多大なストレスを伴うものである。そうでなければ我々は弁護士等という職務を他者に依頼することもないだろう。
 そして法規に背きたくはないという心理が言語心理学的に言えばニュアンス表現を正当なパワーたらしめている。例えば昨日休日だったサラリーマンにとって月曜日の午後はどこかけだるい感情を払拭出来ない。だからと言って職務怠慢に陥ることは許されない。しかし会社の法規は遵守する必要がある。そういう時同僚に向って昼休みを終えて職場に戻ってきた時相互に声を掛け合う時、「六時(退社時間)になるまで長いね、今日も。」と職務そのものを回避することの不可能性を怨めしく思う言辞を吐くことそれ自体は、願望でありながら今度の休日には必ず前から計画していた釣りに出掛けるぞという意気込みとは必然的に異なる決意であり、願望であるにせよ、積極的なものではないだろう。こういう時のニュアンス表現は対同僚にも、対上司にも、対部下にも微妙に消極的な願望表明であることが望まれよう。それはあまり露骨であっては好ましくないと言う当人も心得ているのである。
 しかしニュアンス表現そのものの出所は明らかにクオリアに起因すると思われる。この感覚質という概念はデヴィッド・チャーマーズによってよりクローズアップされてきているが、彼以外にも生化学者のジェラルド・エーデルマン(免疫グロブリンの作用について解明し、ノーベル化学賞受賞。)を初めダニエル・デネット(哲学者、機能主義的心の概念を提唱。)、日本からは哲学者の信原幸弘(ジェリー・フォーダーを翻訳。)、脳科学者の茂木健一郎等が挙って問題視している。
 我々は本来視覚情報を認知する過程で、論理思考の雛形を形成しているとも考えられるが、問題なのは我々が言語習得する過程においてはどの程度の空間把握能力があるのかということである。つまり空間把握能力そのものがかなりベーシックに備わっていて、それを糧に論理思考を身に付け、統語秩序をも理解することを促すのか、それとも前言語習得状態においては只漠然とした感覚だけが支配的であり、やがて今現在の我々のように言語習得することになって、その言語から得た論理思考によって空間把握をしっかりとしたものにするかという問題は残るのだ。
 恐らく幼児は漠然と自分に近い位置のものと遠い位置のものを識別することくらいは先験的に有している。それは能力としても極めて初歩的なことである。我々の日常においてニュアンスの識別は明らかにクオリア感知能力である。だがそのクオリア的感性を滞りなく伝達するためには統語秩序や、言語を文章として認識する側頭葉の言語中枢的な能力、例えばシラブルを音的にも、間隙と密集において理解する能力は空間把握における分節化能力と似たものとも思われる。それは視覚情報の秩序付けが論理思考を育む(盲人はその分皮膚感覚と聴覚が優れてシャープとなるのだろう。そこには脳の可塑性が活躍している。)という事態も十分想定出来る。
 文章においてストレスを置くこととか、大事なことをゆっくり説明するとか、周囲の語彙と間隙を設けるといった工夫は視覚情報によって空間的秩序を認識することからも促進される気がする。だからニュアンスを伝達するための文章の統語秩序と分節化作用の学習は、全知覚行為の統合的能力にも依存するということは考えられるところである。
 ただ統語的なことを論理思考として秩序付けて考える能力はある程度言語能力が進化した段階以降であり、それ以前的なこととしては我々は慣用ということ、あるいは日本人であるなら和歌、俳句に伴われている五七調、あるいは「大政奉還」とか「抵抗勢力」といった古今の四文字熟語的な語呂が耳障りのよいものとして学習しやすいということは言えるだろう。だからそれもまた学習過程においてはキャッチーな響きという要するにクオリアの感得能力によるところが大きい。実はニュアンス表現はより形容詞の文化とも言える日本語では微妙な感性によって詳述出来るという利点が民族性としてあり、その分日本語では主語を省略するような、幾分「場の空気」的な言語認識力が他の欧米人を中心とした異文化圏よりは優れているかも知れない。勿論仮定法、条件節といった体裁はどの言語にも見出される。だから先ほどの例でいけば、上司の前では言い辛いことでも、同僚同士では「長い月曜日の午後ですね。」とか軽いジョーク調では日本語も英語もそれほど違いはないかも知れない。
 しかし本章を何らかの結論めいたものとして堤示するとしたら、我々は言語行為を時間論的に捉える必要がありはしまいか、ということである。ニュアンスというものの伝達においてもそのことは顕著に示される筈だ。「場の空気」感というものとは言わば、臨場感である。臨場感というものは想起とか想念と無縁ではない。そこには無常観という観念を敢えて持ち出すことも許されるようなある種の共同体内部での共通理解という接点希求型の意志伝達行為として、例えばベルグソンの純粋持続という観念を持ち出して考えてもよい、と思われるのだ。あるいはフッサールの「内的時間意識」というものを再考することにも一理ある。
 私たちは場の空気感によって他者を認識する。他性認識の在り方が他者像を支配するということは、要するにその他者を熟知している度合いに比例して生じる経験的な認識であるが、その他性の在り方を熟知していない内は、我々は場の空気感全体を調節する意味合いで他性を認識する。だから言語行為それ自体は常に状況論的なものであるし、また他性において信頼獲得を為し得るか否かという基準は、一重に場と状況の空気感と、調節意図の有無によって決定される。例えば上司の言葉というものは基本的に尊重すべきであると誰しも考えている。長老者とか年配者とかの意見でもそうなのだが、その意見の非順当性に対してその意見を述べる者の日頃の態度とか、信頼性に応じて非順当性に対する対処法には違いが出てくる。信頼度に応じて他性認識において他者の非順当的意見に対する進言において他者尊重の度合いが高まり、逆に信頼度の低い場合は婉曲の憐憫、間接的な揶揄(コノテーション的なデロゲーション)となるのだ。そういう時にニュアンス表現のあり方には違いが生じてくる。例えば他性認識においてその他者への信頼感が手薄になれば当然素っ気無い態度の間投詞が多用され、しかも対他的に請願する語調から、諦念的な感嘆に変化するだろう。だから全ての言語行為における発言とは予め決定されて、発せられると言っても過言ではない。
 対他的な諦念には軽蔑が含まれている。しかし本来上司とは部下に対して、また部下は上司に対して対等ではない。つまり社会的相互の了解事項としての非対等性は、相互の発話、つまり対話にある壁を設ける。つまり上の者は下の者に対してある種の総合的な認識を得ることが容易な立場にあるが、その逆はない。部下は上司に対して部分的にしか把握することが通常出来ない。なればこそ逆に部下が上司に対して軽蔑するとしたら、そしてそのために見かけ上ではやんわりと同意を示しながらも、諦念的な感情を感嘆符的に付加するとしたら、それは真意レヴェルでは上司に対する忠誠心はないのだから、形式的な服従の意思表明となる。すると逆に真意レヴェルで下らない発言をした上司に尊敬心を持ち合わせた部下なら、その下らない発言に対して誠意をもって苦慮を示す表情を採るだろう。「止めてください。」という誠意ある懇願的な態度が言辞においても、発話内容的にも、それが間接的であれ示され得るだろう。しかし真意レヴェルでは服従心がなく、業務的な一環としてのみ、責任を果たすべく服従している場合、諦念的な態度が自然と立ち現われることになろう。それにあざとく気付くか否かが上司としての部下管理能力のバロメーターとなるだろう。
 言語は本来感情の様相を意味付けするために存在する。と言うより人類は感情様相の意味付けという欲求故に言語を発見したのだ。意味付けされた感情様相は自然と語彙化されていっただろうし、それは今でも着々とそのようになされている筈だ。そしてその語彙化された事実となった語彙が多ケースにおいて慣用されるに連れて概念化されることになる。
 表情とは感情の様相の外的表出であり、それが結果的に他者への自己感情様相の報告となるのだ。そして表情を他者に示した時既に脳内では発話意志を相互に認め合うこととなるのだろうと思われる。つまり発話意図の絶無な場合には対他的に感情様相を悟られまいと苦慮することが通常だと思われるからだ。
 脳倫理学的視点で活躍する世界的神経学者のガザニガは責任という事態は脳内で認められない様相であるとしている。それは要するに社会的な価値システムに組みこめられるべきものであると言うことになる。しかし恐らく人類にとって責任という事態は、あるいはその観念は原初的な倫理規定として目覚められていたであろう。それは吉本隆明的な概念規定を借りれば対においても共同においても共に共通して幻想として立ちはだかった自覚だっただろう。すると上司の下らない、的をはずした発言とか命令に対して部下が採る態度が諦念的である場合、職務的な責任感が希薄であり、対人間的にも上司への誠実性は希薄であり、規則遵守性にのみ依拠した建前的な態度の採り方ということになり、逆に上司に部下の立場からの苦慮を伝える場合、職務的にも対人間的にも責任感があり、誠実であるということになる。
 この上司と部下の立場上の非対等性に関しては哲学者のブーバーと心理学者のロジャーズの対談から得るところが大きい。彼等はサイコ・セラピストのセッションにおいて、クライエントに対してセラピストの立場は上であり、その強制的状況の特異性がセラピストの方に有利な立場を付与しているとブーバーが指摘していることに必ずしもロジャーズは賛意を示してはいないところに私は興味を惹かれた。
 ブーバーとロジャーズの対談の内容とそれが示すことについては詳しく後で述べるとして、まずそのことと関係がある人間の対話の仕方を通じた性格的傾向性について少し考えてみよう。
 ここに柔和で人の言うことを聞く態度が自然と備わり、かつ友好的態度を常々採ろうと努めるタイプの人がいるとしよう。それに対して逆に人に対してつっけんどんで、他者に対する真意に関して懐疑的なタイプの人がいるとしよう。その者は他者の思惑を邪推することに長けている。しかしそういうタイプの方が疑り深いから前者のような友好的な態度の人間より慎重で、他者から騙されることがないかと言えば、寧ろそうではなく、疑り深いということは裏を返せば一旦信用したとなるとその信用した者が善人である場合ならよいが、そうではなく悪辣な者である場合には却って騙されやすいということがある。
 つまりこういうことだ。一旦他者を受け入れてその者に対して友好的な態度を取り敢えずは採る者の方が他者に対する媚び諂いの態度を見抜くことが容易なのに対して、逆に懐疑的な態度の人間は一旦信用するとその者に対して信用し過ぎる面が却ってある場合があり(常にそうだとは限らないが)、特に下手に出る者に対して防衛本能を解除しやすいということがある。だから他者攻撃欲求を容易に表出する者とは、他者に自己の真意を読み取られやすいし、またそのことに関して防衛本能がえてして希薄である。するとそういうタイプというものは、他者に対して真摯に接することを潔しとするのだから、懐疑的であるというのは表向きということになり、却って他者に対して友好的な態度をまず採るタイプの人間の方にこそ、中には(全てでは決してない。)下手に出て、建前的な偽装に長け、要するに狡猾なタイプもいるのだが、それとは逆にそのことに関して見抜けないということである。よって他者攻撃欲求を隠蔽することの苦手な者は、それほど悪辣さに長けた人間ではない、ということになる。その二つのタイプの人間の微妙な融合、つまりどちらか一方であることの方が現実には少ないから、ある意味では最初友好的態度を採ろうと努めるタイプと、防衛本能をむき出しにするタイプの態度を使い分けるというのが通常の殆どの人間のあり方であるから、私はその二つの人間の傾向性というものが結局ブーバーとロジャーズという二人の思想的巨頭の対談に示される考え方、着眼に見られると思うのだ。
 例えばセラピストとクライエントというものは通常最初友好的態度を相互に採るのでも、予防線を張るのでもないというのが真実であろう。しかし長くセッションの関係を続けてゆけば、徐々に二人の関係においては依頼者と被依頼者の垣根が取り払われ、クライエントの方がセラピストの方を忖度するというケースも多々出てくるということにおいてはロジャーズの言うようにクライエントとセラピストの一致点というものは可能であろう。しかしこの二人において共通している事実とは、常にブーバーの言うようにクライエントの生活というものが本来二人の関心の的であり、その逆ではないということである。それはセッション自体の役割と目的からすれば至極順当な意見である。そしてブーバーはその垣根を常に、特にセラピストの方が見失ってはいけないと主張するのだ。たとえクライエントの方がセラピストに対して対等でいられるような気分を味わったとしても尚、そのようにクライエント主導型のセッションをしてクライエントの気持ちを常にリラックスさせる術の維持において、セラピストは「騙される振り」をすることが巧みであることが求められるとブーバーは考えているのだ。
 そうなるとロジャーズの考えるセッションのあり方とブーバーの考えるセッションのあり方とは、誠実性の発揮のさせ方と、責任の取り方の違いが横たわっているということになる。
 例えば真に悪辣な人間は友好的な表情を偽装することに長けているだろう。すると友好的ではない怪訝な表情を浮かべる者はその限りで、実は極めて真意を表出しているわけだから、却って誠実であるということになる。また真に友好的であるのに怪訝な表情を浮かべることというのは通常意味ある態度の採り方ではないのであまり考慮する必要はないだろうし、あり得るとしたら真意を直裁に表出することに羞恥を感じる文化的コードに依拠した者に見られるような友好的態度を正直に示すことを躊躇うケースくらいであろう。するとブーバー的な考え方からすると、柔和な表情をしてクライエントに接しながらも、どこかで覚めたそういう自己を責任の俎板に載せて俯瞰する態度が脳裏に介在させることが巧みな者こそが真に有能なセラピストであるということになる。しかしロジャーズはどうもそのことに関しては、覚めすぎていることとはクライエントの中にある繊細な感知能力、つまり嘘っぽい態度を直感的に見抜くことであるが、そういう能力には抗しきれない、故に却って自己内の躊躇すら真摯にクライエントに示す誠実性の方が分があると考えているようである。しかもロジャーズはブーバー(彼はロジャーズのことを指してあなた、彼のクライエントのことを彼と言っている。)がクライエントもセラピストも彼の知るブーバーの思想ではあくまで「あなたも彼もあなたの経験を見ているのではありません。」でありそれと対談でのブーバーの発言とは対立するように思えたようなのだ。つまりブーバーはロジャーズが知り共感する考え方としては、あくまで双方がセラピストの経験を信頼するところ(セラピスト本人は責任を持つという意味で)で成立する対話であると思っていたので、意外な気がしたようなのだ。しかしこの対談によるブーバーの考えは、決してロジャーズが知るブーバーと対立するものではないのだろう。つまり前提条件という意味作用からすれば確かにロジャーズが知るブーバーの双方のセッション自体の信頼という事態が不可欠であるが、同時にセッションの意味内容という側面から考えればあくまで主体となる関心事は常に彼、つまりクライエントである。ブーバーは敢えて自分の思想の謂いを反復することを避けて別の局面から彼の考えを述べたのかも知れない。ここにも対談という形式と、それを利用して自己の思想を明確化しようと試みる対談者同士の思惑のニュアンスというものが伺えて面白い。
 フロイトは転移という概念を持ち出したが、転移とはある意味では共感作用とか相手の立場を相互に鑑みるということの自発的な心的傾向全体を述べたものである。そして寧ろセラピストが厳密に客観的にクライエントを観察すること、精神科医であれば、厳密に患者を客観的対象としてだけ観察することの不可能性を述べた概念であるとも言える。もっと重要なこととは恐らくロジャーズがブーバーの「あなたも彼もあなたの経験を見ているのではありません。」という謂いにおいて直感したブーバーの真意が、客観的に真意を、あるいは誠実に自己内の考えを述べるセラピストの彼自身の行動に対して観察する眼を失わないでいるということにあるのではないかと考えたロジャーズのブーバー発言に対する解釈が、主張するところさえ踏まえておれば、主観的な接し方の方がよりよいセッション、療法が進行するのだ、ということにあることと関係があるだろう。このクライエントとセラピストの関係は、我々に即座に生徒と教師、あるいは役者と舞台演出家、あるいは映画監督、あるいは先ほどの部下と上司といった関係を連想させるし、内的な心的メカニズムにはどれも共通するものがある。
 これらの関係において重要なこととは、対談では正しい言い方というものが一律に決められているということではない、つまり状況判断的な言辞と、発言内容というものは個々の発言自体の発言意図を無視するととんでもないおかしなことになる、ということをも表している。つまり命題論理的な内容と主張する内容の選択意図はずれることがあるのだ。
 それはある意味ではカントならカントのテクスト全体から読み取る後代の哲学者たちの先人に対するメッセージと、そのテクストが個々の部分で主張している発言とは一概には一致しないという真実をも語る。例えばベルグソンもルドルフ・シュタイナーも共にカント批判をしているが、カント自身はベルグソンやシュタイナーの批判する事実とは裏腹に彼等が「そうであるべきだ。」という主張と同じことをテクスト内では個々の事態として述べているのである。それはライルが人間の自己内の真意とか心的な意識作用と、行動は必ずしも一致するわけではないものの、そうだからと言って極端に常に相反するというのなら、それは誤りであるという考えともどこかで共通する。特にそれは時間論の解釈に関してである。(そのことは後に具体的に述べる。)それはベルグソンやシュタイナー自身がカントを全体的に咀嚼して捉える像とはカントの主張全体が外部に(後代の我々をも含めて)与える影響力というものを考慮した上でのカント批判であるということである。それはカントと言いながら、カントのテクスト自体であるよりは、カントテクストの後代に与える影響力という意味でのカントのことなのだ。そしてカントの論主張の文体のニュアンスが与える影響力という意味、それを意味作用と呼ぶにはあまりにも些細なことそれ自体に対して特にベルグソンは苦言を呈していると私は捉えているのだ。それこそニュアンス表現それ自体が命題内容外に我々に与える影響力、印象の与え方の問題なのである。
カントは精読することで得られる命題内容が極めて全体的主張と受け取られる事態と異なる印象を与える存在であると言える。
 それは何故かを問うことにはあまり意味がない。寧ろ我々はそのことよりもまず構造主義者やポスト構造主義者たちがあのように執拗にその齟齬を論じていたことの主題の意味、つまり何故そのように語る者の真意とは別個に意味作用がどんどん暴走して行ってしまうのかということを考えねならない。私は例えばベルグソン哲学そのものの存在意義とは別個にカントに対する位置付けにおいてベルグソンは恣意的にカント像を捻じ曲げていると感じている者の一人なのだが(結論でカントの時間論解釈を巡ったベルグソン解釈について他の時間論との相関性において詳述する。)、先述したようにそのようにカントを捉える時カントの外部への影響力そのものに対して後代の論客の多くが言及したという事実は、意味作用そのものが記述者、発言者の内的モティヴェーションそのものとは別個に独立した作用として認めるべきであるという社会ゲームとしての同意の下に我々が意思疎通しているからである。それは責任という考え方である。
 例えば精神分析における転移という考え方が定着した背景には明らかにセラピスト、精神科医の存在がどんなにクライエントや患者によって信頼に足るものであっても尚、例えばセラピストや精神科医自身が自身の判断さえもがその場その都度の主観的なものでしかないのだ、絶対的な基準というものがどんなに経験を積んだ者にもあり得ないのだ、ということに対して自覚する、言わば精神の相対論的な把握という自然科学的認識がある。それは彼(セラピストや精神科医)の発言というものはどんなに注意深く配慮してさえ、クライエントやクランケの精神状態如何ではどのように解釈されるかわかったものではない、という現場の人間からの正直な経験に基づく教訓があるのではないだろうか?つまりそれは感情のその場その時の唯一無二性を常に念頭に入れておかなくてならないという教訓である。そしてその教訓が活かされるのは彼等にプロとしての責任が課せられているからである。私はガザニガが責任は脳内のニューロンの作用そのものからは読み取れないと言っていると述べた。それはある意味では社会ゲームを正当化し、社会ゲームの参加者としての通行手形としての責任が我々に課せられて、その責務遂行性として顕現されたものこそ脳内のニューラルネットワークの発火現象の活性、不活性であるからである。
 ニュアンスは我々が作るのだが、ニュアンスに支配されつつ脳内で思考しなくてならないのも我々の実像である。恐らく私の考えるニュアンスとは表情の基本である。それはクオリアが内的な認知として脳内の作用が我々に自我を付与するような意味合いで個人的でありつつ、他者と共有する体験として相互に報告し合うことその行為自体が意志疎通であるのなら、そのような形で自己内の抑制が不能な、極自然に考えるよりも先に立ち現われてしまう表情の対他者的な、対外的態度の様相であり、それは運命的な実存の認識であると言える。私はその重要性をクオリア以外に不可欠のものとして認識したいのだ。つまりこういうことだ。ニュアンスとは表情を支える最大の要素であり、我々の言語行為全部を表現的メッセージにするものである。それはサインとして示す意味作用の必然性であり、幾分常套的な解釈を呼ぶようなものなのである。それは一時期持て囃された構造言語学の言う記号認識とも少々異なる。彼等の捉えた記号認識とはソシュールの依拠したラングによる自主規制的な自己内強制であるような性質が濃厚なのに対して、私が言うニュアンスとは明らかに自主規制性とか自己内タブーとか共時的な強制力とは無縁であるからだ。それはもっと端的に言えば生理学的なことであるし、社会ゲームにおけるサインの読みに対する同意という事態であり、サイン供給者が意図しないでも作用するものだからだ。