Thursday, December 10, 2009

〔羞恥と良心〕第一章 悪の魅力

 戦争を体験した年配者や、四十代後半以上の人にとって悪の魅力を示した映画と配役とは「第三の男」のハリー・ライムだろう。言うまでもなく映画監督でもある著名な俳優であるオーソン・ウェルズによる演技が光っていた。登場回数とか出演時間は一応物語の水先案内人のジョセフ・コットン演じるホリー・マーチンスなのだが、最後のほんの数分登場するだけのこのライムの魅力は悪というものが生活力と結びついて、有名なラストシーンではライムの情夫だった女と挨拶しようとするホリーを無視して歩き去っていくシーンでそれが示されている。正義とか善意志などと言っても所詮飯のたねにはならないし、要するに善悪以前に必要なことというのがまず生活にはあるし、社会にもあるかも知れない。社会が善を追求出来るのは、一定の基盤があるということ、つまり豊かさがあるということであり、日本社会が昨今の金融危機において世界の国々と共に立ち往生をしているにしても、何とか生活が成立させられているのも、朝鮮特需とか、ベトナム戦争による景気であることを若い人でもある程度知っていることだろう。
 つまり精神的な善悪とか道徳とかを考える心の余裕は、通常の社会やビジネスマンにとっては端的に生活という基盤が成立していて、一定の精神生活を営める心の余裕があった後のことなのである。悪は確かにその行為に赴く時に躊躇を覚えるものである。しかしそういう躊躇というのは人を殺すとか取り返しのつかないことを除いては、例えば本当に盗みをしなくては飯を食っていけないような状態の人はそうするかも知れないし、そこまでの勇気がなければ、捨ててある弁当を拾って食うしかないだろう。こうなったら、最早格好よさの追求どころではない。羞恥をかなぐり捨てて全てにかかるしかない。
 そして生きているということは要するにそういう羞恥をかなぐり捨ててかかるということ以外のものではない。
 哲学者で悪というものを見据えて考えた人と言えばトマス・ホッブスがいる。カントは通常善意志とか言って要するにモラリストと考えられてもいるが、彼が道徳法則ということを主張したのにも、その時代に横行した悪に対して思うところがあったからだと言われている。悪は哲学においてはプラトンの「国家」でも捉えられていて、無視することの出来ない人間の本質の一つであり、要するにこれなしには善という観念も生じようがないのである。
 どんなに善良な人でも時には憂さ晴らしに格闘技を観に行ったり、悪党たちが活躍するアクション映画とかギャング映画を観に行ったりして自分の中に普段な隠されてある(いい子ぶっている)悪に味方する気持ちになって一時楽しむ。そうすることで普段色々抑圧されているような気持ちをどこかに吹き飛ばすわけである。そして誰しもがそうするということは、人間には潜在的には善にばかり味方するのではなしに、悪に対しても味方したり、自分の中の悪に惹かれる部分発見したりすることによってある種の息苦しさから開放されるということを望むのである。
 人間はある意味ではこの表裏の二重性を生きるということが普通な生き物である。そしてそれを相互に承知していて一々他人に説明するようなことをせずに、阿吽の呼吸で相互の小さな悪を容認し合うというところに社会生活というものを概ね正しい方向へと導くために必要な必要悪の容認という意味合いからの暗黙の了解がある。
 だから逆にこの暗黙の了解を全く知らずに全ての対人関係を押し通そうとすると、「あいつは人間というものが分かっていない」とか「堅い奴だ」とか「純粋過ぎる」というそしりを免れない。正しいことというのは分かっていても、時には正しくないことの方が正しい場合があるという阿吽の呼吸が必要なのである。
 勿論今日の社会では競争入札における不正入札とか官制談合とかそういう阿吽の呼吸は許されることではないだろうが、そういう社会システム上での旧制度的なことに代表される資本主義経済の正義という観念から逸脱する阿吽の呼吸は除外されるべきであるとしても、尚法的なこと以外のことでなら、私たちは積極的に「あいつは話の分かる奴だ」とか「人間が練れている」とか他人を評定する時に明らかに正しいこと以外に正しいことはない式の格式ばった頭ではない形での、要するに適度に不良っぽさが漂う、相手の心のつぼをよく心得た要するに洒落者的な魅力を漂わせた社会人というものがどこか部下や年少者からは尊敬されるというところさえある。
 要するに私たちは不完全ということにおいてどこか心の拠り所とか居心地のよさを感じているのであり、完全過ぎる、つまり欠点がないということは、ある意味では堅苦しく、息苦しく要するに親しみを持てない、それは神様のような私たち一般庶民には無縁の世界の秩序なのであり、私たち自身が完全無欠ではないのだから、その無欠でなさそれ自体を容認してくれて、暖かい眼差しを注いでくれる者に惹かれ、俗ということに安らぎを覚えるのである。
 勿論時には正しいことに邁進する必要もあるし、俗っぽさが厭になることもあるだろうが、四六時中良いこと、善いこと、正しいことをするということ、あるいは考えるということは生きていくことを困難にさえする。
 そして巧いことには、私たちはあまりの正しいこと善いことだけで塗り固めたものに対して、それが人格であれ、表現であれ、作品であれ魅力を感じないものである。つまりどこか一箇所抜けたところのある人に対して、その欠点を補うに余りある業績や意志を貫徹する部分を認めるなら、寧ろ積極的に応援する。つまり私たちにとって魅力を感じるものとは往々にしてある種の不良っぽさがあり、それでいて完全なる悪には突っ走らない危うい部分のあるものなのである。
 その証拠に女性は男性に対して結婚相手ということになると、定収入とか、安定した職ということを求めても、恋愛の対象としては男性から見たらどうしてあんな女ったらしに惹かれていくのかというくらいにだらしなさそのものにさえ魅力を感じることさえある。
 魅力そのものには悪に対してだけではなく、普通の人にとっては退屈極まりないものに対してその魅力の取り付かれた人というのは大勢いる。スポーツも本格的に行うとすると、厳しいトレーニングの世界であり、学問も本当に真剣にするとなると、なかなか厳しい世界である。芸術とか書とかそういう世界でも同じである。それらは全て平素はかなり格好悪いそして苦しい訓練を反復することによって本番的な場面でこそ格好よさを発揮するということなのだ。
 しかしそういう魅力とはどこかで理性的な判断、つまり「これこれこういうことは尊いものである」という価値判断が加わっている。しかしこの章で私が言いたい魅力とは、潜在的な部分、もっと本能的、動物的な部分で私がついいけないと知っていながら惹かれていってしまうもの、例えば酒もそうだし、タバコもそうだし、本当はいけないと知っていてやってはいけないものとして麻薬(ドラッグ)というものも薄々興味くらいなら誰でもある。ただ一旦そういうものというのは手をつけるとなかなか止められなくなるということを知っているからこそ、手を出さずにおくだけではなく関心から除外しているだけである。
 そして悪の魅力というものの中には権力そのものも含まれる。勿論権力であるからには法的には正当な行為であるものの、通常の心理では私たちは権力を遂行することは出来ない。だから何か特定の権力を誰かに託された時、その権力を行使する自信のない者は断ることもある。つまり権力にはそういう魔力があり、またその誰でも自分の言うことを聞くという状態に慣れる必要があり、寧ろ積極的に権力志向というものは、一定の社会的地位にある人には求められる。
 私は「権力の構造」というテクストを書いたが、その中でも悪の魅力についても触れている。要点を記した部分を少々長いが抜粋引用しておこう。
 
(前略)我々は悪にこそ魅力を感じ取る。善は往々にして退屈である。価値観が相対的なのだから、悪の魅力も相対的である。しかし善はどこか絶対的な感じを与える。勿論私にとっての善は、別のある人にとっては悪であることもある。しかし私が善というものは、私にとって敵対する人にとっても等しく善のことなのである。例えば太陽はその存在からして善であるというのは少なくとも生命にとってはそうである。そして光がそうである。光もまた太陽に起因する。あるいは生命そのもの、呼吸することという我々の基本的条件は善である。しかしそれを阻むもの全ては悪であると言ってよい。しかしこの世には闇もある。呼吸することが困難な世界もある。多くの生命の生息出来ない世界もある。尤もそういう世界ででも生息出来る生命というものが少なくとも地球上では確認出来る。しかし生命そのものが存在し得ない惑星もある。そういうものを悪としよう。しかしそういう闇の部分に我々はどこか光の部分との対比において悪の魅力を感じる。あるいはもっと積極的に言えば悪のない世界は魅力がないとさえ言える。それは光を引き立たせるし、光を欲しくなるくらいに闇が必要とされている、ということである。夜とは暗いからこそ眠るのに適しているのであり、夜がそもそも光に包まれているのなら(白夜でも完全に昼間に近いというわけではないだろう。)睡眠はまた異なった様相になっていたのではないだろうか?
 欠点がないことが最大の欠点という意味では、適度の欠点の所有が最大の魅力を引き出すということが言える。
 しかし適度の欠点という甘い部分は権力を持つ者にとっては適度の愛嬌として受けとめられる内はいいが、人情味というものになり変わる時、致命傷になることもある。
 例えば上に立つ者は寛容であることが求められる。しかしそれは部下と共に命運を共にするという正義感だけでは勤まらない。例えばこういうことを考えてみよう。社の方針に対して生ぬるいと感じていた部下の一人が寛容な上司である部長に対してあるプロジェクトを完遂するための方策としてあるやり方を打診する。しかし上司は明確にゴーサインを出さずに
「君の裁量に任せるよ、兎に角いい結果を出すように最善の仕方で臨んでくれ。」
と言ったとする。そしてその部下はその言葉をゴーサインと受け取りその方策で邁進するが、道半ばその方策によって失敗したとする。しかしその他にもプロジェクトにかかわっている者は大勢いて、別のやり方で成功をその者に持ってゆかれる。しかし失敗した部下が
「部長がゴーサインを出して頂いたじゃないですか。」
と糾弾しても時既に遅しである。その時上司である部長はこう受け答える。
「私は最善を尽くしてくれと言っただけで何も、こういう仕方でせよ、とは言わなかったよ。」
 つまり部長が今この失敗した部下と共に共倒れすることは彼自身にとっても、社全体にとっても何のメリットもない場合、こういう風に責任転嫁することは悪いことであるわけではないばかりか、当然の判断である、と言える。
 リーダーとしての職務は魅力を限定的なものに留め、責任を糾弾されるような形で欠点を示してはならない。あくまで彼に許容される欠点とは法的に、あるいは責任倫理的に糾弾されない範囲内でのことに限られるし、それを完遂してこそある意味では最大の魅力を湛えたリーダーということになる。その欠点が、あるいはその欠点故に発散される魅力がいかに悪辣であっても、行動の合理性させ備えておれば、糾弾される余地をなくす。それは
「悔しいけれど、巧くやっているから責任を遡及することが出来ないんだよな。」
と言わしめることそのものが欠点を最大の魅力に高じさせることに繋がるのだ。だからそういう能力のない者は初めからそういう危うい魅力を持つことを目指すべきではない。あるいは部下に思い切ったことを任すべきでもないだろう。尤もそういう風に融通の利かない者に上に立つ資格があると思われるか否かはまた別の問題である。
 
 責任倫理とは行動責任、結果責任、説明責任といったさまざまな責任言及範囲によって表されるが、実は責任の遂行とは、善的なこと、良心的なこと以外の、端的に言ってもっと悪辣なこと、その責任を全うする意味で対外的には良心の欠片さえ残さないようにすることが必要となる。よく「心を鬼にして」と言うようなこととはそういうことに該当する。
 つまり責任遂行の美とは、小さな善を捨て、大きな善を獲得するために、敢えて大きな悪さえ許されるという地点で行為を考えることであるから、必然的に責任遂行の美とは悪の魅力に接近していることになる。悪の魅力を湛えた責任遂行の美とは、全的に責任を負うことではなく、緊急の措置として必要不可欠であることを遂行するためには、小さな責任を無視すること、小さなヒューマニズムを捨て去ることを意味するから、当然諸々の使命から見れば悪の結晶ということになる。しかしこの悪の結晶的な小さな善に対する完全無視とは、トップリーダーには常に求められている資質であるし、事実トップリーダーの責任倫理とは、全的に善であるためにはかなりな悪の分量を自ら引き受けることでもあるのだから、当然冷厳さを求められ、悪の魅力として、小さな善行を怠ることを許してもらえる技量、つまり愛嬌さが必要である。従って大きな責任、つまりある集団やある集団の時代を支えるような行為を遂行するためには、端的に小さな善を全て無視し、捨て去る勇気が要求されるから、そういうタイプの大きな責任を負わされたトップリーダーは必然的に魅力ある悪に徹する必要がある、というわけである。
 悪の魅力を追求出来ない者は大きな責任、大きな善行を追及するべきではないし、大きな責任を背負うべきではないし、大きな善という観念を哲学的に思惟する必要などない。
(「権力の構造 ナルシシズムの意識」中第五章 悪の魅力 より)

 私が考えた魅力ある上司は、部下の失敗の責任をいざという時にはとるが、会社全体が困難な状況の時部下に対する義理とか責任だけで社全体の利益を考えずに責任をとって社を辞めてしまうということはどうなのだろうと考えてこう書いたのだ。引責辞任だけが責任の取り方の全てではない。減俸とか減給ということもある。つまり権力には絶対的に悪に加担する部分、あるいはその者に固有の権力者の孤独を紛らわす悪の魅力が、その下についていく人にも必要なのである。だから大きな善とか大きな正義とは、かなりそれと匹敵するくらいの大きな悪や不正義が付き纏うのだ。戦争は悪ではあるが、戦後の日本がアメリカに対して敗戦したということがせめて救いだったと考える人は大勢いるだろう。あるいは原爆投下それ自体は悪であるが、日本が無条件降伏をしたということそれ自体は、その後の日本の戦後社会の復興と、高度成長のエネルギーになったということは言えるだろう。
 ここで纏めておくと、悪とは潜在的に私たちの心の奥底にある他者に対する寛容さであり、潔癖であることはある意味で正義以外のものを認めず、要するに融通が利かず、正しいものだけを正しいと思うことである。他者の多少の悪に目を瞑ることが要するにもの分かりがいいということであり、俗であるということであり、それは責任ある立場の人間には積極的に人望を得るために求められる。それは私の考えでは人間にはどんなに正しいということが分かっていても、その正しさだけを追求することが時には息苦しく、全体を円滑にすることが出来ないのであれば、必要悪というものを積極的に作るということをも正義の範疇に入れるということを知っていて、そういう悪に加担する部分を有効に利用しようとする心理は全ての人に備わっている。そしてある時には略奪愛とか、略奪婚、あるいは愛人と逃避行する夫や妻の不貞にさえ魅力を感じるのが人間であるということである。そうでなければ太宰治に対していつまで経っても人々は共感を示すことなどないであろう。
 それは悪ということが制度的には悪であっても心情的にはそう悪ではない場合もこの世の中には多いということを私たちが知っているからである。つまり恋愛の場合息の詰まる家庭生活に嫌気がさして、つい別の異性に手を出すということそのものは、その正式な婚姻関係という側面からは確かに悪であることでも、その人間の内奥の心情ということからうすると、最早ちっとも愛していない妻を形式的なだけでずっと愛している振りをすることが、カント的な意味で言えばそれこそ根本悪ではないのだろうか?つまりその本当の気持ち(これはこれで難しいことで、曖昧なことなのだが)に忠実に生きることこそが誠実であり、キリスト教的な倫理感からしても、他人に嘘をつかないということ(カントも言っているが)なのだから、それは法的に悪であっても、倫理的には悪ではない場合も多いだろう。
 尤も私たちはそのような周囲から応援される法的な悪(不倫とか、不貞とか)にさえ共感する場合があるということは、逆に倫理的にも悪であるものにも、例えば犯罪者に対してさえ、愛嬌のある犯罪者にはどこかわくわくする気持ちで報道を見るということもある。つまりそういう根本的に本能的に危険な匂いのするものにも惹かれるという悪の魅力への誘惑に効しきれないということが、その不倫や不貞に対して応援喝采を送るという気持ちに拍車をかけているということは言えるかも知れない。つまり人間にもしそういう悪に対する怖いもの見たさというものが皆無であるなら、法的に逸脱しそうな気配のものに対しては、極力避けようという気持ちになり、わくわくすることどないだろうからである。
 つまりかつて生物学者たちが何かある特定の心的作用があるとすると、そういう感情を誘引する遺伝子があるのではないかと考えたものだが、その謂いに習えば、何かある法的な意味で、あるいは規則的な意味で抵抗するような行動全般に対して何らかの共感を得ることが自然になるような心的作用を誘引する、つまり自らの中にある自分に関してはあまり社会的に逸脱することがないままでいたいけれども、何故かあるあまり社会的に順応することが得意ではなくつい脱線するようなタイプの成員に憧れたり、共感したりすることを誘引する性格遺伝子か何かがあったとしたら、それは小さな悪、しかも憎めない悪に対して応援するようなことがあるかも知れない。
 悪の魅力はしかし私たちの社会の法規とか、社会一般の通念というものに抵抗する場合が多くなるから、一定の許される悪と、そうではなく許されざる悪ということの区分けに対して個人毎の差異が生じるだろう。従って悪には自分にとって許容し得るものとそうではないものとの二分という意味では、極めて私的な趣味レヴェルの決定要因、判断基準の差異があると思われる。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

〔羞恥と良心〕序

 私たちは映画を観ている時、若くて格好いい俳優たちが颯爽とした姿で軍服に身を包み、あるいはテロリストに扮し、敵対する連中を次々と薙ぎ倒していく姿に酔いしれる。その映画中の彼らの行為がどんなに反理性的であれ、どんなに反道徳的であってもそんなことなどお構いなしにである。つまり私たちが格好いいとある映画のヒーローに対して向ける眼差しは明らかに理性的な判断からのものではない。もっと原羞恥的な欲望のレヴェルからのものである。それは格好いいということが、善良であるとか正しいということとは全く違う価値判断であることを意味している。だからこそ我々はそれが現実であれば、とても付き合えないようなタイプのヒーロー像にある理想を見る。その理想とはある意味で私たちが普段は薄々自分でもそういう意外な要素があることを知っていて他者に対しては隠している私たち自身でも「君も意外と悪だね」と言われると自分では改めて意外であるとさえ思える客観的に「これもまた本当の自分だ」という風に認められないようなタイプの自分による本音である。
 ある極めて暴力的なヒーローの破壊的人生を描いたフィルムにおいても私たちはその演じるアクターが格好よければ、これは現実ではない、しかしもしこういうことが自分にも出来たなら、格好いいだろうし、女性にももてるだろうな、とそう思う。その映画でのぐれ方の中にさえ我々は理想を発見する。
 しかしそれはスクリーンに映る虚構の世界での格好よさであり、本当の現実社会で私たちが尊敬するような人たちは、概してそういう格好よさとは無縁な人たちのほうが多いだろう。時として私たちは格闘技などではヒール的な役割の人に拍手喝采を送ったりするが、それは娯楽としてそれらを観戦しているからなのであり、現実社会で問題のある人を社会人としては自分でも敬遠する。格闘技は真剣勝負であるが、彼らを観ることは我々にとって娯楽であり、そこに私たちにとって求められている価値とは見てくれの格好よさ以外のものではない。それは苦労して描いた画家による作品に対してそれを鑑賞する人たちが夢とロマンを抱いて鑑賞するのと同じである。つまり見てくれの格好よさとは、その背後にある事情とか人間性の本質とは全く別のことなのである。しかしそういう見てくれ的な格好よさに惹かれる部分というのは我々にはある。
 と言うことは良いこと、善いことと格好良いことというのはまた別の価値観だということである。善良であるということは我々の内なる良心に根差している。だから本質的にはそういう良心というものだけを追求すれば、格好悪いこともしなくてはならない。しかし格好悪いことというのは羞恥を伴う。そこで私たちはそれが正しいとは言えないようなことでも、そのことによって多大の迷惑とか損害を誰か特定の人にかけないのであれば、出来るだけ自分の格好悪さを人に対しては知られたくはないし、そこで恥をかきたくはないとそう本心では思う。それでもそんなことをお構いなしに正しいと思うことを他者に示すということには幾分かの勇気が要る。あるいは格好悪いことを持続して他者に理性的な像を示すということにはある種の誇りが要るし、そういう勇気を持続してきた人間は誇りを持っていくことになるだろう。
 要するに羞恥とは私たちが何かをしようとする時、そこに立ちはだかる何らかの仕着せに対して無抵抗であることそのものなのであり、その仕着せによって我々の羞恥がある本当は正しいと思われる行為に赴くことを臆させるのである。それはフロイト的超自我を逸脱することの漠然とした恐怖であることもあれば、逆に自らの中に芽生えた悪(明らかに自分ではそうだと思えるような)からの誘惑の囁きに対する抵抗の意図であればそれは良心と呼んでいいだろう。
 しかしこの二つは意外とそう簡単に類別することが出来ない場合も生きている上では多い。これから行おうとしている行為が正しいことであるか、そうでないかが判然としない場合というものも多いからである。正しい行為であるなら、それを抑制するものは格好悪い姿を他者に晒しそれに対して羞恥を感じることに対する躊躇であり、そうではなくそうすることはただ単に悪からの誘惑に過ぎないとすれば、それは良心である。それは分かっている。しかし人間は正しいことを正しいと言われると腹が立つ生き物である。これは哲学者の中島義道氏も「カイン」において示していることでもある。
 本当は正しいけれども、ある場合にはその正しさを他者の前で示すことはあまり効果的ではないし、慎まなくてはならないこともあるし、逆に悪いことであると思えたり、気後れしたりすることしきりなのに、それでもことを決行する必要性に実は迫られていることもあるというのが人間の行動とか行為に纏わる難しさなのである。
 本論は前作の「存在と意味」(同じブロガーブログで掲載更新中)、あるいはそれ以前の「他者と衝動」、「羞恥論」(同じブロガーブログにて掲載)に引き続き羞恥という心理を前面に出し、且つ以前「責任論」(同じブロガーブログにて掲載)で論じた良心の問題に肉薄し、その二つの相関について、前の二つのパラグラフに示した問題点を中心に考えていきたい。

Monday, December 7, 2009

〔良心と羞恥〕単論文 読みきり

 我が国でも最近めっきり熟年離婚するカップルが増えてきた。そして老人もまた貴重な労働力として考えられてきた。その結果一つの仕事をずっと一生続けていくことよりも、勿論そういうタイプの人々もまた今でもいることはいるのだが、人生のしかもかなり年齢積み重ねた後に転職したり、方向転換したりする人々も決して珍しくはなくなってきた。
 例えば熟年離婚と年齢が高くなってからの転職にはどこか共通性がある。それは何か長年勤しんできた努力にもかかわらず、そのことでは成果が得られないということに覚醒すること、しかもかなり後になって分かることにおいて共通している。
 例えば自分にとって向いていることというのはある意味ではある程度の時間を得て経てみなければ分からないものである。それは仕事に関してもそうであるし、愛情のレヴェルでの相性というものでもそうである。しかし人間は長い時間においてある程度人間関係的な意味では固定化した世界を築き上げる。そこで転職も離婚もそう容易なことではなくなるのである。人間という動物は社会的な動物であるので、築き上げられた人間関係というものはあくまでその人間の対他者、対社会としての誠実性によって構築されている。そこで「本当は自分にとっては自分はこういう人間なのだ。」と思っていても、尚外部世界、人間で言えば社会とか他者一般からすれば「あなたはこういう人間です。」と規定されやすい部分というものはあり、またその実像というものは他人一般がその人間を見るステレオタイプにしか過ぎないのであるが、同時に全く真実がないとも言えないものである。
 そこで人間はディレンマに陥るのだ。他人とか世間とか社会一般が自己を規定する自己の資質を受け入れて生きてゆくか、そうではなく内的な自己の選択に忠実に生きていくか、そのどちらがその個人にとって良質の選択であるかは個人毎しかもケース毎に異なり、一律に自分の内部、世間一般の評定どちらかが正しいとは言えない。だから自分の内的な願望とか欲求が正しい場合もあればそうではない場合もあるとしか言えない。
 しかし年齢が高くなってからの転職とか離婚といったケースでは世間一般による自己裁定に対して随順して生活してきた人間により多く起るケースであるとは言えよう。つまり自己真意に悖る形で人生を選択してきた、とある日はたと気付くというわけである。しかしその決断を鈍らせるものとして世間体とか社会一般の常識とか、要するに私の見るところ勇気ある決断を躊躇させる羞恥感情というものが立ちはだかるように思われる。そしてこの羞恥感情というものがどこかで自己と自己を取り巻く社会が一体化して構築してきたそれまでの自己に齎される恩恵というものに対する配慮と、それを一旦全て反故にしてでも冒険に打って出ることを抑制する良心、しかもどちらかと言うと保守的で逸脱を恐れる安泰希求的な小市民的良心が改変に伴う痛みを痛烈に告発し、潔い決断を鈍らせるのである。しかしこの冒険に踏み切ることに伴う逡巡というものが意味のない心理であるとは決して言えない。というのも人間はこの保守安泰的な心理によって日頃多くの不祥事とか危機を招き寄せることを予防しているからである。だからこの失敗と挫折を未然に防止する保守安泰的な判断は政治的でもそうであるし、個人人生設計においても極めて大きな役割を果たす。簡単に言えば夢を諦めることから人生の現実はスタートするからである。しかしある一定の年齢を超えると、そのことに対する懐疑もまた大きく頭を擡げてくるのである。そこで改革とか改変とか人生の一大決心という奴がかなりの高齢になってから押し寄せてくるのである。そしてその時良心というものが羞恥の味方をせずに、今度は人生全体を彩る人生観の味方をするのだ。例えば二人の異性に惹かれることというのは、ある意味では倫理的にはよくないことだとされる。しかし同時にそういうインモラルなことばかりを追究することはよくないことであると知りつつも、時にはそういう選択の方が結果的には福を齎す場合もある。そしてそれはある程度結果論であるのだが、離婚して正解の場合もあるし、転職して正解の場合もある(勿論失敗の場合もあるし、その方がずっと多いであろうけれど)。そして本当は一度も離婚することなく、一生一人の伴侶とうまくやってゆき、しかも幸福が追究出来ればそれが一番よいであろう。しかし人生というものはそう必ず巧くゆくものではなく、寧ろ失敗と挫折の方がよほど多く待ち受けているものである。そういう意味では一回くらい小さな失敗をしたり、挫折をした人間をこそ基準とした人生哲学というものがあってもよい、と私は思うのである。その時私たちは人間は他者に対して羨んだり、嫉妬したり、妬んだり、要するに邪悪な心理を必ずしも完全には払拭することなど不可能であるという立脚点に立った考察というものが必要とされていると私は思うのである。その際に羞恥感情とそれ自体の揺れ動きという現象(それは恐らく人間の自信のなさが引き起こすものであると思われるが)、そして羞恥がいい意味でも悪い意味でも良心と結託しているという事態を直視すべきであると思うのである。
 そこで本論ではまず羞恥の揺れ動きという事態について暫く考えてみようと思う
 例えば我々の社会には通常では普通に結婚して子供を儲け、幸福を追求出来るのであれば、それが一番いいという倫理観もあるが、実際には一度も結婚することなく終わる人生というものもあるし、また性同一性障害等によって通常の性生活とか(どういうものが通常と言うのか私は知らないが、もしそんなものがあったとしての話なのだが)結婚観、家庭観があったとしてであるが、そういうものから逸脱して生活する人も大勢いる。あるいは通常のエリートコースからは逸脱した職業、つまり青少年の教育的観点からはあまり推奨されることの少ない職業というものも、それは健康管理上から言ってもそうだし、道徳的観点から言ってもそうだが、要するに通常余り表立っては自己の職業を他者に公言することを自ら憚る職種のこの世の中には沢山ある。しかし実際そういう非順当的な要素を自分の人生に持っている人をあらゆるレヴェルから考慮すると、ひょっとすると借金があるとか、前科があるとか、要するにそういうものの皆無で清廉潔白で汚点も問題点も苦悩もない真っ白な人生というものは殆ど無いに等しいと私は思う。するとそういう脛に傷を持つなどと言ったら多少浪花節的になるが、不完全な理想からはほど遠いという事態こそ人生の最もありふれた実像ということになりはしないだろうか?しかし同時にそういう不完全で理想からほど遠い状態にある自分の事情とか秘密というものは往々にしてどんなに親しい他者にも公言することを憚るものである。そこに我々が本来的に携えている羞恥感情というものがある。そしてその羞恥感情を誘引するものとは意外にも理性的判断によってその他者が自分に対する心象を悪くしないように配慮するある種の策略であり、それは保守安泰希求的な心的様相ではあるものの、寧ろ良心の叫びでもあるのである。人間は自分はそうではないが、どこかで本来自分はこうあるのが一番いい筈だという倫理的にも能力的にもそういう自分独自の理想というものを持っているものである。それは当然人生の価値観であるから、個人毎に異なる。寧ろこの実現されていない理想に対する考えこそその人間の信条であり、思想であると言って差し支えない。この非実現的理想への思念の仕方こそ、その人間の行動パターンとか危機的状況に対する対処の仕方とか、要するにいざという時のその人間の決断の仕方、そしてその成果(よいものであれ、悪いものであれ)を決定するのである。
 ハイデッガーがしきりと「存在と時間」で本来性とか非本来性と呼ぶものとは実は、この自分はそうではないのだが、本来はこうあるべきであり、またもし理想の状態であれば、こうあるべきだという、ある種の思い込み、こう言ってよければ幻想のことについての叙述ではないかと私は思うのである。このテーゼは実はサルトルもまた「存在と無」で「それであらぬというありかたで私がそれである」という謂い(表現)によっても指し示されている。つまりサルトルは「本当ならこうあるべき筈なのに、事実としては常に自分はそうではない」現実の側から見据えてハイデッガーの言う本来性について述べているのである。この理想として設定したある種の「あるべき姿」とは私の理想であるとただそう考えるが、私の考えではそれを極端に逸脱すると、それは最早その時は私が私ではなくなる、という臨界値設定基準であるような気がするのである。それは恐らく「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」という一線であると思われるのだ。そしてその臨界値というものは当然のことながら、その設定されるものから設定値に至るまで個人毎に異なっている。それは当然であろう。何故なら我々一人一人が立たされた環境から生まれた時代の状況から、個人の性格、行動してきた軌跡、要するに経験の全てが異なるからである。そしてその「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」ということは「自分で自分が許せない」からそれをもししたとしたら一生後悔が残るということであり、要するに羞恥感情であり同時に良心でもあるのだ。そして社会に迷惑をかけずに真っ当に生きていく知恵として考えるなら、その臨界値設定とその基準のあり方そのものは良質の良心であると言えるだろう。そしてその羞恥感情もある程度必要不可欠のものであると言えるだろう。
 しかし厄介なことに人間という動物は他の多くの動物同様良心に従ってのみ生きることに関しては苦痛に感じ、あるいは時には気楽に考えなければ生きていけないくらいの日常的ストレスをも請負って生きている。そこでレジャーとか息抜きとか娯楽とかが要求される。聴きたい音楽もクラシックが素晴らしい音楽であると知っていても、そればかりでは面白みがないということで全く異なったジャンルの純正統的な音楽以外のものへも嗜好傾向を持つようになる。時にはパチンコもしたいし、ギャンブルもしたいという想念が沸く。
 この日常的な安穏とした倦怠的で退屈な連鎖を打ち破りたいという欲求は人間では極めて重要な心的様相である。これを私は「ギャンブル的感性」と呼んでいる。ギャンブル的感性というものは、その努力によって報われる可能性が報われない可能性よりも甚だ大きい場合、それでも尚もし報われた時には一挙に明るい未来が開けるという一縷の望みに支えられた綱渡り的な賭けのことを言うのだ。
 例えばそれは必ずしも今している仕事が自分に不向きで嫌いだから止めようというような単純な決断に潜む心理とは言えない。寧ろその逆で自分でも気が付かない自分の能力に賭けてみるという冒険に顕著に見られる心理である。
 例えば再び職業のことに立ち戻って考えてみよう。世の中には自分にとって向いていてしかもそれが好きで、世の中もまた彼にはその仕事が最も向いていると感じてその職業で生活を成り立たせている所謂幸福な人の方が実際は少ない。寧ろ殆どの人が「自分は本当はこういう職業の方が向いているし、好きなのだが、社会が自分がそう自分のことを思う考えを受けて入れてくれないから仕方なしに今の職業を選択しているのだ。」と告白する人の方がずっと多いに違いない。
 例えば世の中というものはあながち自分が得意であるからその職業で生活してゆけるというものでもない。一番重要なことというのは社会全体が自分がする業務を価値あるものとして認めてくれるかというレヴェルでの判断が、その仕事で世間を渡っていけるか否かを決する。だからもし「何故今の仕事を選択したのですか?」と問われれば、「寧ろ自分では好きでないのだけれど、社会が自分に対してその職能を求めるからそれに応じて今の職業を選択しているのだ。」と答える人の方が私はずっと多いと思う。また自分で得意だと思う能力と社会がその人に対してその業務が向いていると判断する能力とは必ずしも一致しないどころか、寧ろずれているケースの方がずっと多いだろう。だからいい仕事をする人で、それが一番自分に向いていると感じられる人というのは極めて幸福なケースであると言えるだろう。そしてまたこれも言えることなのだが、自分にとって向いていると思ったり、得意だと思っていることと、その能力が正当に評価されるという事態は全く異なっていることであり、それが一致することの方が少ない。そして社会がその人の能力を正当に評価するからこそ、自分でもその職務が向いているのだ、と考えるようになるケースの方がずっと多いであろう。
 そしてその事実は社会というものが自己というものの存在理由を構築するのだ、ということと、それに受け答えねばというような責務的な感情とか、対社会的な奉仕の倫理とかを醸成するものが、あながち自分の内部の欲求からではなく、外部的な状況とか時代的な要請とかに応じたその都度の自分の自己保存欲動的な判断によって形成されたものとして自己の良心とか羞恥(それ以上逸脱してはまずいと自分でも思う)が位置付けられる可能性を示唆している。つまり自分本来のものであったと自分で勝手に思っていたものの大半が実は自分が対社会的に対処してきた自分なりの対処法に応じて形成されたものであるという事態は、実は本来自分という観念そのものは幻想によってのみ支えられているということを物語っている。
 例えば子供を儲けるという家庭創造行為は実は何も自分の努力によって成し遂げられた能力ではない。それは遺伝的性質としてたまたま自分にも備わっていた能力であるに過ぎない。勿論子供を作り育てることが可能な環境それ自体を構築することはそれで一つ能力であり、ある努力の成果であるが、子供を儲ける能力そのものは自分の努力によってどうなるものではない。それは遺伝的身体的な能力に支えられている部分であり、意志的努力は逆にどうにもならないことである。しかししばしば人間はその能力が宗教的表現を赦して貰えば、「神によって付与された」とか「神の思し召しである」とか「神のお恵みによる」といった謙虚な気持ちになかなかならないで、自分の能力であると考え勝ちなものなのだ。そこで私たちは自分とは一体何なのか、という哲学的命題に再び立ち戻ることになる。
 自分が自分では向いていると思っていることが社会では認可されないディレンマを韓国人は「ハン」と呼ぶそうであるが、そのような心的様相を招来する事態とは実際的には如何ともし難い現実である。そこで我々は何故そうなのだろうか、何故自分の考えるように社会は自分を認めてくれないのだろうか、と考えるようになる。その時哲学的問いが自分にとって切実になる。そして今まで自分が考えてきた羞恥感情がただ単に自己の側から自己に対して推し着せた幻想でしかなかったのではないか、あるいは自己の変化とか日常的な惰性を破壊することで齎される日常的な生活の変化に対する恐怖と不安が齎した小心でしかないのではないかという疑念が、つまり寧ろ自分にとって大切だと自分で思っていただけのことで、そのことで寧ろ自分のあらゆる可能性を閉じ込めてきただけのことではなかったのだろうか?といった思念が浮上してくるのだ。そういう想念が沸々と湧き起るようになるのだ。その時私たちは初めて考える。日常的な安穏と変化のなさをどうにかしよう、と。その時変化のない日常を激変させる事態の到来に対して自然と身構える保守的安泰希求の打破を要求する。それこそがギャンブル的感性の活躍する場が設定されたことを意味する。
 ギャンブル的感性というものはある意味では保守安泰希求型の良心と安穏とした日常を受容している羞恥に対する疑念であり、同時にそれをぶち破ろうとする内的な攻撃的欲求に他ならない。
 人間には本質的に他者に対して身構えるという性質もある。特によくその人間の性格とか性質を把握しきっていない他人に対してはそうである。しかしそのような構えは徐々にその他人に対する信頼感が醸成されるに従って解除されていく。勿論その人間の実像を知るに反比例して武装を解除することに臆する場合もあるにはある。しかし通常実像を知りたいと望む心理にはその他者をどこかで信用してもいるのである。しかしそれをすることが出来ない人物に対して我々は通常いつまでたっても武装解除しない。その時我々は対他的攻撃欲求を顕在化させているのだ。日常性の打破と極度の生活の変化に対する怯えに対しても、実はこの攻撃欲求は役に立つのだ。

その女性は結婚した。そして夫と共に生活する道を選んだ。彼女は愛しているふりをしていた。しかし愛してしまった。愛してしまった以上は身を焦がすほど接近することを求め始める。求め始めると所有したくなる。しかし所有は所詮不可能なので、常に距離が感じられる。他性認識の発生である。距離が彼女の愛を求めることを更に促す。求めることは求めるふりをすることから始まる。求めるふりをすることが愛するふりをすることになる。だから何かをすることとは、何かをするふりをすることと寸分違わないのだ。ふりをすることは示すことであり、それを受け取る者がその通りに受け取ることを望むことである。自己の本意とその本意の外面的現れは一致しないこともあるかも知れないが、一致しないことばかりであるということもまたあり得ない。だから愛しているから愛しているふりをすることとなるが、愛しているふりをすると、愛することともなるのだ。行為の持続がその行為を望むこととなるのだ。愛するふりをすることの下手な者は、愛しているが、そのふりをすることが出来ない(嬉しい時に嬉しい表情が出来ない。)こともあるし、逆にそれが上手な者は愛していないのに、そのふりをすることがどうということもないのかも知れないが、表面だけのふりは長くは続かない。それを見破る者が必ず現れるからである。だから表面的な取り繕いは他者に対する社交辞令的な行為と見做される。
 
 憂鬱な態度、刺々しい性格といったものも、その人間の身体病理、例えば胃や肝臓を治すとか、痔を治すとか改善する部分があるからそういう風であるなら、心と身体は一繋がりである。だから逆に身体病理を抱えているのに、晴れやかな顔をするのは、偽装となる。それ以外の偽装は相手を快く思っていないのに、好感を抱いたふりすることがよく見受けられる。しかしそれを持続してゆくとストレスが溜まり、一気に爆発してしまうであろう。だから逆に楽しいのににこにこしないで、ぶすっとした態度を採っていると、段々と本当に楽しくなくなるものなのだ。だから「ふりをする」ことは、それが本意であるのなら、不可欠な大切な行為である。それは意思表示なのである。意思表示はその時の心の内容を伝える意志の表示であると同時に、その表示が真意に基づくものであることの態度表明である。それは表情と見つめ合うことの中で取り交わされる。
 ただ「ふりをする」ことは、職務上のマナーである場合、偽装であるということも考えられる。例えば幼児なら両親に連れられてどこかの商店に入店した時に、にこやかに来客に笑顔で接する店員に対して「ねえ、あのお姉さん笑っていたよ。あの人僕のこと好きなの?」などと両親に問い詰めるかも知れない。(尤も私の幼い頃はそういう素直な無垢な子供が多かったが、今時の子供はテレビ等からの影響があって、そのような純真な感慨は持てないのかも知れないが。)しかし職務上のマナーはたとえ笑顔でも「ふりをする」ことであり、その人間の真心であるかどうか断言することは極めて難しい。たとえ消費者金融の事務職員さえ、金を借りに来る客に愛想よく笑顔で接するに違いない。
 勿論今の例は極端なケースである。しかし社会は偽装であれ本意であれ、見かけを重視する。それが消費社会の現実である。そのことについて少し考えてみよう。
 例えば私たちは皆顔だけは晒して生きている。他人同士がアイデンティティーを確認し合えるのは、顔だけだからである(直に接する時の場合)しかし顔を見て笑顔で接する人当たりのよい人間全てが善行に励んでいるわけではない、というシビアな事実を私たちは知っており、悪人がいい人のふりをすることは一方で悪事を働いていても尚対人関係上での礼儀や友愛的態度とは異なっているという真実を我々に語っている。だから一方で銀行やコンビニ、CDショップは盗難防止、防犯措置としてヴィデオ・カメラやスキャンを設置しているが、顔を隠すことはそれだけで犯罪者の行為(挙動不審)とされる。
 確かに顔を晒していてもただいい人の「ふりをする」だけの場合もあるが、その真偽を問うことを他人同士ではしないのが社会の通常の有様である。社会ではだから建前の方が重要なのだ。見かけが重要なのだ。もし悪行を重ねる人がいて、その人の知人が、挨拶もきちんとして愛想もよく親切な人が仮に逮捕されると、決まって「あんないい人が信じられない。」とテレビカメラの前の取材クルーに対して返答する場面が日常でもよく見られるが、その知人が犯罪者の日常に関して善人であると思うことそれ自体は間違いではないのだ。社会にとって人間の行為が悪なのであって、性格とか人間性とかはまた別のことなのだ。このことはルソーは「社会契約論」で社会人としての責務は人間性からではなく、奉仕の義務とその行為から評価すべきであるとしている主張にも繋がる。つまり性格が悪い人が社会的には善行をすることもあれば、逆に性格のよい人が悪行をすることもある、と考えた方が自然なのだ。すると「ふりをする」ことというのは意図的ではなく、一つ一つの行為の振舞いが個別の真実であり、真相であり、それら全てを統合した評定というものは又別であるということ、そして一々自分の全ての行動を見ず知らずの他人に知って貰うことは出来ないからこそ第一印象が大切であったりすることもあるし、顔つきや表情だけではその人間の全ては推し量れないが、表情くらいは真摯な態度で他人に接することが西欧社会では特に求められている(introvertよりもextrovertな真実を西欧社会では重要視する面がある。)という現実の根拠が示されるのである。(日本人はこういう社会倫理が西欧とは少し異なっているが)又だからこそ他人に全てを告白し、報告する必要もなければ、他人のプライヴァシーを詮索することはよくないことである、と社会ではされているのだ。しかし「ふりをする」行為が意図的ではなく、自然であることの方が多いことはここではっきりしたが(悪人の日常的な善人振りは技とではない。)人間は職業的な責務として例えばサラ金の事務所の職員がにこやかに債務者になる可能性のある客に応対するような偽装は、そうそう持続出来るものでもない。又通り一遍の挨拶程度の社交辞令だけで全ての人間関係を裁くことも又人間には出来るものではない。それは職務中でもそうだし、地域コミュニティーにおける人間関係でもそうである。だから逆に「ふりをする」ことも「真意を告げる」ことも両方その人間の真意であると考えた方が分かりやすいのだ。それは心の内容ということなのだ。人間の内面は外面から推察可能なのだ。顔が直に露出しているという事実がそれを証明している。しかし同時に心の内容の様相は理解出来ても、全てのデータを他人が推し量ることは不可能なのだ。ただ今の瞬間においてこの人は真剣に仕事をしているとか、物思いに耽っているとか、何かを思い出そうとしているかとかが了解されるだけのことである。行為とはその行為のための意識を集中させていることだからだ。だからこそ心とは心の内容であり、心の内容は外面にも表出するということなのだ。
 よって今私が心の内容を思い描くことそのこと自体は、ついさっきまでの自分の心の内容を、つまり過去の自分の関心と志向性(例えば今の私で言えば、このように文章を書くことで何かを残したいという思いとその何かという心の内容)なのである。しかし私の心の内容とは何かと今思い始める時、必ずついさっきまでの私の心の内容が関心対象として浮上するのだ。そのように過去の自分の心の在り様自体を対象化する志向性が、私の心の内容の中でも重要な意識であるということは間違いない。これを反省意識と呼ぶべきか、哲学的思考と呼ぶべきかはともかくとして。
 例えば社会人は(勿論学生でもよいのだが)テレビを見ている時、その番組の放送内容に関して刻々と感想を抱きつつ、内容的に何かを考えている。例えばある政治家の死去のニュースを見てその政治家の在りし日の姿を映像的に想起したり、自分の死んだ伯父のことを思い出したり、そう言えば最近見ないあの役者はどうなったかとか次々と連想を働かせる。そしてこうやって自己分析する私と、自己分析される私の次々と連想を働かせる私の心の内容は、対自的認識であると同時に即自的認識であり、私の考えとその私の考えに対するもう一つの私の考えという無限後退を余儀なくさせるような関係それ自体を綜合的に見た時に生ずる判断によって形成された像が「人格」となり、今私が自分なりに見たことによって判断する像の内容が今私にとっての私の「人格の内容」に他ならない。それは内容として位置付けられた結果である。後付作用による判断である。
 明日彼女に会えるという場合、彼女の姿を想像することは、過去の彼女のデータを通した追想である。しかしその全体像を裏切るように明日あなたが彼女と会うと彼女はそれまでの髪型を変えてあなたの前に現れるかも知れない。この場合、最初に彼女の顔を想像した時は彼女の顔の具体的想起が心の内容だが、「いや、ひょっとすると明日会う彼女は髪型を変えているかも知れない。」と思い次の瞬間、ロングヘアのいつもの彼女にショートカットの彼女を重ね合わせる。そのロングヘアの想起からショートカットの想像へと転換する一瞬、彼女の具体的像は消え失せ、意識の死が挿入される。つまり意識転換する時には、必ず具体的像に対する想起的集中が途切れ、その想起持続する「心の内容」それ自体を俯瞰するもう一人の客観的思念が浮上する。外在主義的な認識の登場である。その瞬間具体的像は消え失せ、抽象的思念が支配する。何かを具体的に想起する時、思念は純粋な志向性に裏打ちされているが、一旦その思念を打ち消すように客観的に思考する時、対対象的な志向性は途切れ、その「心の内容」を鏡に映して確認するように「心の内容」それ自体を反省する。それは日常的な自分の思念自体に対する思念である。しかし何かを想起する時には、必ず過去に見た姿の記憶が呼び出されるが、同時に眼を瞑って想念するのでない限り必ず今現在私が見る、例えば目の前のスタンドとかパソコンとかと、過去想起映像とが同時に「心の内容」に浮上している。その時過去と現在の、つまり記憶映像と現在知覚の観念連合が生じる。現実認識+過去想起である。ここには現実に対する認知と判断(前者)+過去現実に対する認識(後者)の複雑な様相が展開されている。
 私が他者に自己の本意を伝えようとする場合、その他者に私が好感を持っている場合、その他者に関する過去映像がフラッシュバックすることは少なく、私はその他者の瞳を見つめて話すだろう。そしてその他者に対して好感を抱いていることの「ふりをする」ことは非意図的になるだろう。しかし仮に今相対している他者に対して私が嫌悪を抱いている場合、私はその他者に纏わる嫌な思い出に纏わる過去映像を記憶として呼び覚ましているだろう。その時私は出来る限り嫌な他者に対して社交辞令として嫌な態度を見せまいとして好感を抱いている「ふりをする」であろう。そしてどこかその他者に対して瞳を見つめる行為もぎこちなく、敢えて直視することを差し控えようと無意識に私は考えている。つまり人間にはその対象に対して好感を抱いている場合は非意図的であるが、嫌悪の情を抱いている場合、意図的に振舞うのだ。つまり「ふりをする」ことが意図的な場合というのは嫌悪の情を抱いていたり、非常の場合で緊張していたり、要するに気を張っていなければならない状況下の場合なのである。だから銀行のATMで他人の口座から金を引き出そうとしている悪事を働く人間の心理は、写ったカメラに顔を向けないように工夫しながらも、それが悪事であるとばれないように気を配り、出来る限り通常の風を装うだろう。要するに普通の「ふりをする」のだ。しかしこのことはこのような犯罪の場面での人間の心理ばかりではなく、日常的な人間関係、家族内の感情に関しても起り得るのである。
 
 ここでひとまずその心理の分析をお預けにして、今度はその「普通のふりをする」ことで購わなければならない我々一人一人の人生における意識転換をある例を挙げて考えてみようと思う。

彼女は結婚した。そして夫と共に生活するようになる。子供も生まれる。彼女はごく平凡で倹しいささやかな生活にも満足するようになるし、そのことで得る幸福を享受するようになる。そしてそれを幸福であると自己規定し、幸福とはそういうものだ、と概念規定するようになる。そして当然のことながら、幸せであるとはこういう振る舞いであるという世間一般の振る舞い(表情とか態度とか言動の全て)をする。要するに幸せである「ふりをする」。その振舞うという事態がどういう意味を持っているのかということに関して彼女は別段問い掛けたりはしない。そのことに取り敢えずは意味を見出せないからである。
 しかし彼女の前に、それまで自分でも気付くことのなかった全く自分にとっても予想外な夫にはない魅力を持つ、と自分でも思われる男性が現れたとしよう。彼女は結婚して子供もいるのだから、彼女の内面のこのような自分でも驚くような恋心とは、今まで持った経験がないのだから形容出来よう筈もない。しかしこの思いというものを彼女は何が何でも抑えつけねばならないのだろうか?そうではないだろう。確かに彼女はその男性に惹かれて夫も子供も何もかも振り捨ててその男性との生活を手に入れることが正しいとは言えまい。しかしだからと言って、内面のときめきの全てを断ち切ってしまわなければいけない、とも言い切れない。そのように強制することは、業務上致し方なく無礼な客に対しても笑顔で接客するような業種の人に、内面でも無礼な客に対しても好感を抱けと言って脅迫するのと同じことである。
 今のところ夫に不満はない。しかも夫と子供のいる生活に対してもそうである。だから新たに現れた魅力的な男性と、これまでの家庭とを天秤にかけて後者を選ぶことは社会的見識上では順当なことと言えよう。しかしにもかかわらず、この女性が仮に魅力的な男性との生活の方を選んだとしても、それをただちに正しくはない誤った選択であった、間違った決断であったともまた言えない。例えば義務教育とか、大学生くらいまでの教育機関ではこのような生き方を奨励することは殆どあり得ないであろう。しかしこのような殆ど突飛な選択がもしあったとしても(事実世の中にはこういうケースも実は沢山あるのだけれど)それを間違っているとは言えない部分にこそ我々は人生の不可思議を見出すのである。

 例えば人を殺すことはいけないことである。しかし同じことが戦場に立たされた兵士に言えるだろうか?例えばこちらから率先して敵兵に突撃することなく、ただ向こうからの攻撃を待っているある格別戦争に対して肯定的ではない兵士がいるとしよう。彼はだからもし出来得ることならば一人の敵兵も殺すことなく兵役義務を真っ当出来ればよいとさえ考えている、つまり平常時であるなら寧ろ平和主義者と言ってもよいタイプである。しかしある時突発的に彼の眼前に敵兵が現れ、向こうがこちらに向かって銃口を突き付け、今まさにこちら目掛けて射撃しようとしているとしよう。この時彼は人を殺したくはないのだから、どんなに向こうから攻撃されても、尚一発の銃弾も発射しないという選択肢も当然残されている。しかし、もしそうしたなら間違いなく彼は射殺されてしまうだろう。この場合彼は恐らく咄嗟の判断に自分の身を委ねるであろう。この場合彼は考えている暇はないのだから。
 世の中には正解が幾つも存在し、その中のどれが一番正しいかというような判断を必ずしも下せないものの方が、たった一つの正解しかないものよりもずっと多い。
 また何かを選んでそのことによって結果的に引き起こされた事態を通してしか何事も判断することは出来ない。しかしまた同時に仮に何かを選択したとして、そのことによって引き起こされた結果が芳しいものでなかったとしても尚、その選択が正しくなかったとは言えないこともある。
 そのことに関して哲学的に追究している映画監督がクリント・イーストウッドである。彼は自身が主演を努める映画を監督することもあれば(「センチメンタル・アドヴェンチャー」、「許されざる者」、「マディソン群の橋」、「ミリオンダラー・ベイビー」)、そうではなく他の役者を主演させて自身は監督に徹する(「バード」、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」)こともある。彼にとって行為選択というものは、そのことで結果的に取り返しのつかないことになったとしても尚意味あるものであるという認識を持つことがある、という思想に裏打ちされている。それは肺病を煩ったシンガーへの夢を捨て切れない中年男が彼を慕い憧れる甥を伴って旅をするロード・ムーヴィー「センチメンタル・アドヴェンチャー」においてもそうだし、やはり肺結核で若くしてこの世を去る不世出のアルト・サックス・プレイヤーのチャーリー・パーカーが選ぶ殆ど医師の診断を受け付けないような破天荒な生活態度(「バード」)もそうだし、一度は完全に足を洗った殺し屋ガンマンが友人たちへの復讐に燃えて再び無法者の人生へと立ち返る「許されざる者」もうそうだし、たった一晩の情事はそれが社会倫理的には許されないことであると分かっているにもかかわらず一晩の恋に燃える男と女もそうだ。(「マディソン群の橋」)いつかは自分が、倒して生涯障害を背負わせるかも知れないような痛手をずっと負わせ続けてきてその見返りとして倒されるかも知れないという可能性がありつつも尚、次の勝利を求めて止まない女性ボクサー(結局最後は汚い相手に打ち負かされ全身麻痺になって安楽死をトレーナー兼マネージャーに求め、それを恩人に受け入れて貰い安楽死する。「ミリオンダラー・ベイビー」)、そして必ず負けて最後は戦死することが分かっているのに最後まで敵兵に対して最大の攻撃と防御を模索する中将の生き方を示すことにそれは表れている。(「硫黄島からの手紙」)、そのどれを取っても生物学的な種の生存戦略的意味合いからは矛盾だらけの行動を彼は描いてきた。そこにはある意味では人間だけが考えることの出来るとされる「生きることの意味」という哲学が脈打っている。
 人間の行為とか行動は自然に、殆ど何も考えないようにしている場合は、意図的ではなく、無意識であり、そのことに関して取り立てて問う必要のないと知っているのであり、人生とは恐らくそのような問う意味のある行為や行動の方がずっと少ない。しかし同時にだからこそその結果死ぬことになっても尚、あるいはもしかしたら死の危険があっても尚、チャレンジし続けることの方に、ただ保守安泰希求的な安全だけを願うことよりも意味がある、と捉えることの出来る存在である。イーストウッド監督はそのことを言いたいがために映画作品を作り続けているようにさえ思われる。そしてこのイーストウッド映画哲学は我々の人生にも当て嵌まることなのだ。もし一々説明を要する必要のない行為だけで人生が成り立っているのなら、そもそも哲学のような学問など要らない。しかし私たちは問うことばかりでは先へは進めないが、先に進むだけが人生ではない、という風にも考える。そしてその時初めて普段は問い掛けもしなかった行為(その連鎖こそが生活という実態なのだが)をただそういう風に行為しているのではなく、問うことの意味を放棄している、あるいは放棄する「ふりをしている」自分を発見するのである。だからこそ「ふりをする」行為が実際はことの他多いにもかかわらず、それをころりと忘れていて、一旦そのことに対して自覚的にならなければならない必要性から我々は、「ふりをする」ことを自らの行動や考え(それもまたそのような「思おうとしている」、「考えようとしている」という風にも捉えられるのだから)を一回全て言語的に、あるいはそれを通して人生全体における意味として捉え直すことをしようと考えるのだ。そしてその時、我々の日常の何気ない行為の全てが、ライル(哲学者)の言うようにただ「何かをする」のではなく、「何かをする<ふりをする>」行為の連鎖であると気付くのだ。そのことに対する覚醒は実は哲学的な反省意識がなければなされないのだ。そしてそれは対自的な(即自的ではない)認識に基づいているのである。つまりあの時私は自分の気持ちに従ってああいう風にしたからこそ、あの行為が成し遂げられたのだ、とか、ある人に自分の気持ちを告白したからこそ今友人であり、あるいは恋人であり、伴侶である(逆に交際することなく終えた)のであり、要するに自分の意図したことによる成功例を常に判例としながら我々は一個一個の行為を積み重ねているのである。それはある程度経験的事実というデータの暗黙の有効利用とも言えるのである。そしてある行為が自覚的であり、意図的であるかどうかの判定基準とは、概して非意図的であるような経験的判断ではない決断に見られる心的様相とは、習慣的、慣習的である行為の連鎖に対する懐疑が呼び起こしたものである、という側面があり、つまりそういう惰性的な人生の時間のない人間には意図的な決断というものもまた不必要である、ということである。人生の大きな転機というようなものは概して非意図的行為の連鎖、つまり慣れという惰性に埋没している生活実態があればこそ、その反省から生み出されるものなのだ。そしてその惰性に対する反省というものは、実は惰性的にしてきた行為の連鎖を、もう一度ただ「する」ことなのではなく、する「ふりをする」というレヴェルまで行為の意味を捉え返す必要があるのである。何故なら「ふりをする」という行為はあくまで意図的で、敢えてする行為だからである。
 だから嬉しいから嬉しい表情をする、ということは通常の認識である。しかし逆に捉えれば嬉しい時に嬉しい表情をした方が、概して我々は他者からは好感が持たれるという先験的事実を我々は無意識の内から認識しており、だからこそ我々はそういう態度を採ってきたのだ、という事実に着目すれば、我々がそういう態度を採ることは、必ずしも嬉しいから嬉しい表情と仕種をするのではなく、限りなく嬉しいふりをし、嬉しい表情や仕種をするからこそ嬉しくなるのだという事実として相貌を転換するように我々に迫ってくるのである。このことはただ認識の転換を意味するばかりではない。我々の生の実存が、経験的な行為の連鎖によって、習慣化された行動パターンに埋没することの素朴な人生の信仰が、我々の行為選択から言語的思考に至るまで支配しており、我々が通常考える価値とか幸福感とかいったものさえ、自己内にインプットされたステレオタイプによる瞬時の非意図的判断でしかない、しかし同時にその判断をなし得るのはただ単に、時間的にも、生存維持の観点からも健康で、今のところ死は遠い先のことである、という非哲学的態度の無自覚な採用以外の何物でもないということを意味する。しかし実は時間の猶予も、健康の維持も、死もある日突然襲い掛かるということが実は人生のもう一つの事実なのである。このことは多くの哲学者たちも論じてきた。そしてイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公の女性プロボクサーのようにどんなに連勝していきても、ある時突然気の緩みで、突如活躍どころか健康的な生の持続さえ危ぶまれる危機に直面するような可能性に私たちは常に隣接して、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしているとだけだ、ということなのだ。
 だからこそ逆に親しい友人や愛する家族に対して我々は楽しい時には楽しい振る舞いをし、辛い時には辛い表情や態度や仕種をすることで、相互の本意を読み取りやすいように心掛けているのである。つまり内心の本意を正直に表わすことという行為には、「ふりをする」ことが内心の真意であることを示すことによって肉親、家族、親友といった自己にとって大切でかけがえのない人々に対して、そうしてきたからこそ信頼と信用と愛情を獲得し得たという記憶が拭い難く我々の脳裏を席捲しているからこそそうしてきた(殆ど無意識に)のである。それは考えてそうしてきたのではなく、寧ろ非意図的にそうしてきただけであり、またそのように自らの意図をごく自然な、「ふりをする」ことをしないで、常に偽装的態度でのみ他者と接し続けていたら、我々は心が窒息して生きてゆくことが出来ないと、本能的に(この言葉は哲学上では、あるいは進化論上でもご法度とされているようだが、これを使用するしか、この場合手はないのだ。)覚知しているからである。つまり我々は実は無意識に自分が死んだ時のことを考慮に入れて全ての行為に臨んでいるのだ。だから「ふりをする」こともまた明らかに意志である。それは真摯な嘘である。そして真摯な嘘とは誠実で偽らないことなのである。意志には「どうしようか」という逡巡に対して、あるいはそういう思念に対して「こうせよ」と指示することに等しい。それは思索の断念なのだ。そこには必然的に対自的な「語らい」がある。「語らい」とは思索的な意味ではない。それは存在論的な決定なのだ。そして何かを決心している時我々はどこかで巧くいった時の記憶を呼び戻しながらも同時に、それを少しだけ逸脱した不確定要素へと飛翔するギャンブル的感性をも採用し、その未知の可能性に対して賭けるという意識がある。
 ギャンブル的感性が日常生活で役に立つようなことがあるということの背景には、必ずその不確実なものに対する賭けを意味あるものにする確実なことというのがなければならない。それが日常のルティン・ワークである。日常のルティンがあるからこそ我々は時として常習的な事柄から逸脱することに意味を見出せるのだ。
 例えば我々はテレビで悲惨なニュースを見て、それが自分の目で確かめた(実際にその現場で見た)わけではないのに、「酷いな。」とか「気の毒に。」とかその映像を目にした時思う。実際に自分の目で近所の火事の現場を見た時我々はその日の夕方テレビにニュースで報じられた火事の映像を見ると「実際とは違うみたいだ。」と思う。誰しも一度は経験していることではないだろうか?それなのに我々は自分の目で見たものではない多くのニュースをあたかも自分で目撃してきているような錯覚に陥る。しかし実際それらはテレビの映像がただ脳裏に記憶して焼きついているだけのことなのに、我々はそれが各放送局のニュース報道を巡る放送姿勢によってある程度の脚色をされて報じられているのに、それらを実像として受け入れる。このような日常もまたルティン的な行為の連鎖の一部に位置付けられる。さて我々はしかし時としてマスコミ報道そのものに対してある種疑いの目を差し向けたいと思う。それはある程度意識的に冒険心、逸脱希求的な心理が要求される。そして見て見ぬふりをする、敢えて苛酷な日常の報道の渦の中にいながら、報道されることを幻想として認識することをしようとすると、全然今まで気が付かなかったことに気付く。それは報道とは事実ではなく、事実像なのだということを。しかしその時同時に思う。報道されることはある程度放送局の思惑によってどの局のものも恣意的にトップニュースになるもの、敢えて報道する必要のないものと選別されているわけだが、では報道されないことが全て意味のない事件的価値のないものであるとは決め付けられという意味では全ての報道を疑ってみることは大切だが、だからと言って報道されること全体が虚像であると決め付けることもまた一つの大きな思い違いであろう、と。
 私たちは自分が他者を適当にあしらったりすることがある。鬱陶しい奴というのは誰でもいて、そういうタイプの他者にはすげなくしたりする。しかしその時その行為が特に悪意のあるものでなくても、そういう態度を採られた他者(そういう態度を採られる最初のきっかけはその他者が他人に対してある程度そういう態度を採ってきているからであるケースが殆どなのだが)が昨今問題化しているいじめ被害者の心理に陥ることがあればまずいな、一種のハラスメントになりはすまいか、と自分でも反省することはある。そういう時我々は自分が他人から騙されているのではないかという被害者意識を持つことがある。例えば今言ったマスコミ全体が国民を扇動しているのではないかというような妄想を抱くことは現代人の一種の特徴的傾向性かも知れない。その被害者である自分はまた同時に誰かに対しては加害者かも知れないふと思うこともある。昨日彼に言った一言は彼を傷つけたかも知れないと反省しながら、彼に対していじめることまでしなくても、どこかであしらいつつ誠実に接していないのなら、それもまた一種の騙しであるかも知れない、と明日からは彼にそういう態度を採ることはやめにしよう、と思う。見て見ぬ「ふりをする」。
 さてその他者からの騙しをあざとく見抜くことが出来るのか出来ないのかがある程度騙され難い人間、逆に騙されやすい人間の差を作り、世間を渡っていける巧みさにも繋がるという面もあるが、同時に狼少年幻想の如く、他者からの悪意に敏感になり過ぎることというのは、ある意味では他人を信用しなさ過ぎる(最初から信用し過ぎてもいけないが)ことを意味するから、擦れた人格と他者から見做されるようになって人間社会では実害を被ることも多い。ある程度の自己防衛心は必要だが、必要以上に他者に対して猜疑心があり過ぎると逆に警戒され人間関係的には巧くいかないのが社会である。
 しかし人間はごく無意識の内に、つまり自分でも気が付かないう内に作り笑いをしていたり、おべっかを使ってみたり、要するに何か今の自分の心の奥底に内在する本意とは違った、社会的に取り繕った何かいい子ぶる、つまり善人の「ふりをする」のだ。それは猜疑心の塊で、誰も真に信用しないことに比べれば一見よいことのように思われるが、そうではない。そういう偽装的態度というのは本質的に他者に対して猜疑心を抱いていればこそ、採る自己防衛と真意表出差し控えの態度なのである。それは話は戻るが自己の中の保守安泰希求型の心理に対抗し、撃破する構えの攻撃欲求(これを私は自己改革の精神なので「人生の良心」と私が呼ぶものに裏打ちされていると考える。)とは違った変化に対する恐怖が支配した惰性的慣習埋没型の心理で、それを私は生活の良心と呼ぶ。
 生活とは人間にとって経済レヴェルの安定を常に求めるから、それは惰性の死守である。しかし人生とはある時は生活を打破することも意味するのである。すると一切の生活の打破をしないでみみっちい生活の良心にぶら下がって生きている人間は、人生という最も大きな賭け(それは全体的に言えば一種の賭けであると言ってよいだろう。)に損失を齎しているとも言えるのである。
 この人生の良心は何も必ずしも離婚とか転職にのみ存しているわけではない。そういう生活レヴェルから一転するような内的な革命のことばかりを言うのではない。例えて言うなら、道端に転がっている石ころに対しても、今までは目にさえ留めなかったのに、もののあわれを感じるというようなレヴェルの意識変革のことを言っている。
 そもそも人生という奴は不思議である。これこれこういうものが人生の在り方であり、それに沿って生きることが一番幸福であるなどと最早誰も考えてはいない。だから自分の好きなように生きられればそれが一番いいのだが、実際そのように自由に生きるということには金がかかるのだ。余程の経済力のない人間にはそのような悠長な生き方は許されない。そうなってくると、必然的に価値観における構成要素とか評定基準に他者とか社会一般に対する意識が含まれてくる。そもそも離婚も転職も自己にとっての他者、社会、あるいは他者、社会から見た自分というものの実像という認識が不可欠だからである。
 つまり人生は自分のものである、という認識に既に他者の存在が抜き差しがたく介在しているのである。だから他者は配偶者から親子に至るまで、あるいは友人から同僚、同業者に至るまで生涯その関係から離脱して生きることは実質上不可能な存在なのだ。そして本来良心と羞恥という感情、認識が存在し得るのは他者、社会というものがあってのことなのである。
 ここで羞恥感情というものの起源について考えてみよう。明らかに聖書にもあるように、人間はある時期から着衣し、裸の状態を他者に見せることに羞恥を感じるようになった。ここら辺はルソーの「人間不平等起源論」などに人間の内的現実に関して詳しく述べられているので、私は私なりの考えを述べてみようと思う。
 まず羞恥はどのホモ・サピエンス個体も同じように身体機能を携えているも、各器官の形状というものは外面的に、それは勿論顔とか頭の形も含めてなのだが、個人毎に異なる。そして当然のことながらある思念、それも誰でも抱くようなもの(哲学ではその普遍客観的個々の事象に対する認識を表象と呼ぶ。)においても、個的意味感受に関する内的過程とか意味把握に纏わる背景も違う。私は我々が内的に言語習得する過程に至る前にも先験的に「世界や宇宙という語彙が語る真実」をア・プリオリに存在させていると考えている。これはどういうことかと言うと、そういうものがあったら表現したいけれど、語彙を知らないので内的にそういう感じというカオスを抱いているのだ。この段階では恐らく未だ表象とは言えない。表象とはもう少し他者との間で了解し得る、説明可能であると内的に明示している状態であると私は捉える。しかしこのカオスは例えば世界という概念も、自分とその周囲の外延的な一纏まりであることは確かだが、要するに世界の内容は当然のことながら個人毎に異なる。そこで普段何気なく我々が使用する世界とは明らかに語彙習得するプロセスにおいては、自分にとっての世界であった筈である。それを丁度大人が世界という(語彙習得している人間を子供も含めてここでは大人と言っている。)語彙を発話した時、「ああ、あのことだな。」と内的に納得してその語彙を他者と交わすようになってきているのだ。そしてこの内的プロセスに纏わる自分しか知らない事情とかエピソードがずっと記憶に、それがはっきりした形でではないけれど、残存する。それがその人間に纏わる語彙に関するクオリアなのかも知れない。しかしこの個的意味の世界、つまり語彙習得に纏わる幼児体験性に根差したもう一つのトラウマというものは、恐らく他者にそう容易に口外し難いものである。余程親しくならなければ、そうおいそれとは他者に告げられないニュアンスのものであると言える。それは羞恥の魁ではないだろうか?勿論衣服を剥がされた状態を他者に見られることに纏わる羞恥というものもある。しかしこの内的幼児体験に起源を持つ羞恥は、精神的であるが故になかなか根は深いと言えるのではないか?
 世界は自分の家族とか自分の住む環境である。赤ん坊にとって最初は部屋の中、次第に外界も知る。そして宇宙は最初空であろう。尤も宇宙という概念は空とか無とかの獲得の後に醸成されてゆく可能性もあるし、逆に無が宇宙の後に意味把握されてゆく可能性もあるが、何か宇宙というものの原形は世界とも異なったものとして先験的に存在し得る気が私にはするのである。