Friday, October 22, 2010

〔羞恥と良心〕第二十章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part1

 人類に未だ国家がなかった時当然未だ貨幣経済が定着していたと言う事はないだろう(尤もバーター取引などはあった可能性は高いが)が、人が住む住居でない限り、農耕生活を営んでいたわけでもないだろうから、狩猟採集という形で、当然自然にあるものは只単に早い者獲りだっただろう。
 勿論先にある狩猟地を確保していた者が後から来た者を自己に追随させるということはあっただろうが、そういうことでない限り現在の様にどこかの自然が誰かの土地ということはなかったに違いない。少なくともそこに石が落ちていればそれを拾って自分のものにすることは基本的には自由だった筈だ。
 今日の社会では山を所有する人はいるだろうが、例えば石ころ一つ拾って自分のものにすることまで煩く取り締まることなどないだろうが、何らかの法的規制はあるだろう。まさか全ての木を切って勝手に持ち運んでいい筈はない。
 従って現代社会で生活するということは、人類にとって完全に自然のもの(木っ端とか石ころとか)以外では勝手にそこに置いてあるものを持って帰ってはまずいというのが常識である。
 しかし例えば貨幣が一つか二つ落ちていて、それが仮に一円とか五円、十円、百円というレヴェルだったら、それを拾って財布に入れるくらいのことは誰しも経験があるだろう。或いは千円紙幣くらいならそれを一々警察に届けるということを億劫でしないことの方が多いかも知れない。勿論交番の前で落ちていた千円冊を拾うのを躊躇するという心理は分からないではないが、たとえ千円でさえそれを拾って自分の財布に入れたことが発覚してその者を逮捕していたら、恐らく大半の日本人が逮捕されてしまうということになるのではないか?
 では幾らくらいの金額からなら、それを自分のものに勝手にすることがかなり良心の呵責に苛まれるものだろうか?(法的には勿論一円たりとも罪になり得るのだが、ここでは取り締まれるかということに対する考えとして)
 今の日本人の金銭感覚から言えば恐らく良心的な人で五千円、普通の人で一万円くらいが、それを持って交番に届ける下限ではないだろうか?
 勿論それは落ちている場所にも拠る。スーパーマーケットであるなら、落ちていた辺りで買い物をしていた人が落とした可能性は高いし、映画館なら鑑賞していた観客が落とした可能性は高い。しかし横断歩道や駅のホーム、駅のトイレに置き忘れてあったものを、自分で誰かが忘れるところを確認出来た場合以外で最初から置いてあったものということになると、確かに警察に届けることは義務でも落とした相手に届く可能性は低い。それでも勿論法的にも良心的にもそれはするべきではある。
 そこで今挙げた様な例に於いて幾らくらいなら勝手に自分のものにして、それを知人とか友人に告げてとやかく攻め立てられた時に「そんな大人げないことを言うなよ」と言い得て、逆にそう言われて白を切って「俺は拾ったものなんだから、俺のものだ」と言い張ることが犯罪めいていると自分自身でも思えるという境界設定とは一体何なのだろうか?
 つまり人間が社会的公衆道徳という規範に追随して生活しているということは、先ほどの例を発展させれば何処かの一般家屋の前に置かれてある自転車は確かにその家屋の住人のものである可能性、或いはそこに訪れている人のものである可能性が高いという意味で、我々はそれを「あっ、こんな所に自転車があった。これで駅まで行こう」などとは通常思わないということだ。それが常識で、それを逸脱すると非常識ということを言うこと自体が非常識にはならない。そしてその規準とは一体何なのだろうか?
 私は社会学者でも人類学者でも法学者でもないので、自分なりに判断していくしかないのであるが、例えばある地域のあるコミュニティーではその地域で生まれて育って死ぬまで過ごすということが大半の人の常識であれば、当然そこに移住してきた人というのは新参者として扱われるという不文律が形成されやすく、又そのことで後から来た者を排斥する様な空気でもない限り一応誰しもその地域に長く住んできた者の意見を尊重するということはあり得る。それは私の様に度々引っ越しをしてきた様な人間にとっては何度も味わってきたことである。
 しかし風が吹いてきて捨ててあった雑誌が自分の足元に転がってきたとして、その時一緒にその閉鎖的コミュニティーの長く住んできた人が隣にいて、それを私が仮に自分のものの様にしたとして、その時その先輩の住人が「私を差し置いて自分のものにするとは不届きな」などと言うことは通常現代社会ではありそうもない。
 勿論その風が吹いて飛んできたものにも拠るだろう。例えば仮に紙テープで一束に括られた百万円分の紙幣であったとしたなら、隣に人がいたならそれを自分の懐に仕舞いこむ者はいまい。しかし人が見ていなければかなり生活の苦しい者なら、それを猫糞するかも知れない。勿論その時彼(女)は内心では悪いことをしたという思いを後々味わっていくことだろう。これは誰かにとって必要な金だったのだ、ということを考えて、良心が疼く。
 人が隣にいてそれが決して出来ないというのは只単に羞恥である。それは恐らく人さえ見ていなければ一切警察に届けるということすらすまいと決め込んでいる者でさえ持っているだろう。それは端的に社会制度、つまり法的な拾得物に対する扱いということであり、それに対する規範逸脱を他者に知られることに対する羞恥である。
 しかし誰も見ていなくても仮に一万円でさえ、或いは千円でさえ交番に届けるという行為を決定させるものとは良心以外のものではないだろう。
 つまり我々はどこかで対外部的な行為や振舞いの体裁を取り繕うということと、そういうこととは無縁に自分の良心に忠実に行為しようという考えは全く違うことであり、前者には羞恥が介在しているということ自体が然程不思議ではないが、後者でそれをしないで自分のものにしてしまうということに対し羞恥を感じ取るということの間にはやはり歴然とした違いがあるのではないだろうか?
 これはある意味ではカント的命題でもある。
 前者の様に人が見ているから猫糞が出来ないというのは良心が介在していない。何故なら人から悪く思われたくはないという一点(対外的な振舞い所作的羞恥)で正しく振舞おうということだからだ。
 しかし後者の羞恥には内心の良心に於いて自然発生するものであるが故にカント的なのである。つまりここから理性というものが発生する根拠(或いはあり得べき理性とは何なのか)が問われ得るのだ。
 例えばもし先ほどの例の様に隣に長く自分が移り住んできた地域に住んできた人と共に歩いている時に風に吹かれて足元に飛んで転がり込んできた百万円をその先輩住人が「二人で山分けしよう」ということになった場合、それは間違っていると主張することは理性的である。しかしそれは当然正しい行為ではあるが、例えばその先輩住人に対してお世話になったとか負い目があるのなら多少は勇気が要る。そこで後からこの地域に移住してきた新入りであるとい手前適当に相手の言う通りに「そうしましょうか」と手打ちするという行為は最も悪しき俗人性による判断であり決断である。
 しかし昨今の証拠隠滅と改竄事件やら組織内での隠蔽体質を物語る多くの事例は全てこのケースに当て嵌まる。
 又もしその様に相手が共にいる場合だけ正義を貫こうとして、誰も見ていなければ黙って猫糞しようという目論みも当然あり得るが、それこそが最も卑怯な仕方であると言える。
 他人の前ではいいところを見せて、自分一人の時には平気でその他人に示した信念を裏切るということであるならいっそ、二人で山分けしようと提案された隣にいた先輩住人の誘いに乗る方がまだしも罪は軽い、と私は思う。勿論これは私の只単なる主観である。
 尤もそこら辺になると、罪とは組織的なことであれば許され、一人で遂行したのなら重いという議論へも直結するが故に混乱してはくる。その点で言えば恐らく一人でした罪の方がより制度的、社会的通念、或いは法的な意味では軽い。しかしそれではカント的な問掛けには答えたことにはならない。カント的な理性から考えればそちらの方がより重い、つまり良心を裏切ったことになるからだ。
 ここら辺になると、心情倫理的な正義(それはある部分では欧米社会では神に対する良心ということにもなるのだろうし、仮に欧米人的な意味では無神論者であっても、何らかの絶対的良心という問掛けではあり得る)を優先すべきか、それとも社会的正義、或いは公衆道徳的責任倫理を優先すべきか、という別種の問いへと発展する。
 ここで四つのケースを考えることが出来る。

① 隣に人がいるなら警察に届けるが一人でいる時には猫糞する
② 隣に人がいても共に山分けし、一人でいても猫糞する
③ 隣に人がいても一人でいる時にも警察に届ける
④ 隣に人がいても一人でいる時にも山分けするか一人で猫糞する

勿論これらのケースでは相手がどういう態度で臨むかによって変わってくるだろう。つまり相手が山分けする態度で臨むか、警察に届けようと主張するかによって、前者の場合には③では勇気が多少は要る(相手を窘めねばならないが故に)し、後者ならそうではない。
 又自分の足元に転がり込んできた場合を考えてきたが、隣に歩いている者の足元に転がり込んできた場合では相手から「山分けしよう」と言い出される可能性はより大きい。何故なら自分の足元に転がり込んできたのにも関わらず相手が「山分けしよう」と言い出すことは相手もかなりの悪であるし、厚かましさの極致であると言えるからだ。
 この思考実験では相手がいるとか、他者の目があるからということと、一人でいる事の間にある違いを無視してでも、正しいことは正しいと考えられるか否かという論点が問われている。
 この論点では絶対的善が問われているが、他人の前では正しく振舞わなければ恥ずかしいというのは相対的善的態度と言える。
 それに先ほどの組織内隠蔽体質とか集団犯罪と一人でする犯罪のどちらが重罪であるかという問いは法学的、社会学的問いである。その二つは前者では社会的影響力の有無を問うていないのに対して、後者ではそちらに重点を置いているという明確な違いがある。そして勿論そのいずれかが重要であるかということは言い切れるものではない。どちらも問いとしては充分価値あるものとして認識し得る。
 しかし先ほどの良心という問掛けとなれば、相手から悪いことを誘われればそれを跳ね除けるということで前者に、或いはそうでない限りは後者に大きく傾斜することとなる。何故なら良心とは内心の問題であり、責任とは又別箇の問掛けだからである。
 しかし羞恥というレヴェルに照準を合わせるとすると、確かにある意味では他人の前で正義を発揮することにも多少は付帯するし、又他人の前で自ら山分けしようと言い出したり、自らの良心を裏切って付和雷同したりして相手に合わせて山分けを承服することにも付帯する。この三つのケースでは明らかに最後のケースが良心に付帯する羞恥であり、欧米人なら多くが神に対する羞恥と呼ぶだろうし、前者であるなら羞恥的にも精神的には摩滅しているとも言える。
 この問いは重要な問いなので連続した何回かに分けて考えていってみたいので、今回はそろそろ終わりにするが、羞恥とは端的に対外的な素振り、振舞い、相手からどう見られているかということに纏わる装いの自然発生的、条件反射的態度の問題であり、内心をどこまで曝け出すべきかという対外的態度の取り方に対する社会的俗人的通念と自らの良心(余り相手に対して自己信念をひけらかすべきではない<それは日本人は欧米人より強いと言える>とか、相手を自己信念で縛ってはいけないとか、相手に対する信用度に応じて態度を使い分けるべきか否かという判断なども含む)との折り合いとか兼ね合いという問題が大きく関わりがあるとは言えよう。従ってこれ一つを問うにしてもかなり大きな問いなのであり、内的良心の命題とは別箇に外的良心の命題であると言える。
 そしてこの二つは容易に切り離して考えられない部分もあるのだ。そこら辺の問題を次回以降考えていってみよう。

Sunday, September 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十九章 人のことは分からない、それが羞恥の根源である/自分を追い詰める必要などない、何故なら人は自分のことしか考えていないからである/羞恥とは作られる 

 人のことは本質的に分からない、そうまず前提しおくこと、これが全ての理解の端緒である。何故なら人のことを容易に理解し得るのなら、そもそも我々に言語など必要なかったからである。
 私は前章に於いて「敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている」と言った。このことは極めて重要である。
 例えばスポーツ選手にとって最大の心得、長く競技を続ける秘訣とは何かと問われれば、多くの選手、アスリート達はこう返答するのではないだろうか?
 「負けた時余り落ち込まず、けろりと直ぐに立ち直ることが出来るということです。」と。
 いつも勝てると思わないところからスポーツは始まるのではないだろうか?
 これはあらゆる種類のビジネスマンにも言えることである。いつもいつもいい営業成績を取れると思わないこと、或いはいつもいつもいい顧客に恵まれると思わないことである。いつもいつもいい状態に自分がいなければ不安という状態そのものを棄てていく覚悟を持つことから全ては始まる。勿論いつもいつも最悪でも気にしないということとこれは同じではない。
 研究者はいつもいつもいい研究が出来て新しいいいアイデアが浮かぶと考えないこと、芸術家や文学者はいつもいつもいい作品が描けて(書けて)満足するということが普通であると考えるのを止めることから全ての問いがスタートする。
 だから当然他者一般のことも全て了解し得るのだ、という思い込みをまず棄てることから対人関係はスタートするし、全てを理解し合えるということをまず諦めるというところから全ての理解は始まるのだ。
 それは人生がいつもいつも楽しいということを諦めることから、あらゆる人生上での挫折に屈しない精神を養うということにも直結する。
 実はこの他人とは一体何を考えているか分からないということ自体が我々には羞恥があり、それを触れられると不快であるという当たり前の事実を示している。
 他人が何を考えているか分からないということは、向こうもまたこちらが何を考えているか分からないということを意味する。
 従って我々はこちらの考えていることを相手に伝えたい場合には相手もまたこちらに対してもそうであろう、と思い勝ちであるが、自分自身の胸に手を当ててよく考えてみると、自分が今考えていることを相手には余り知られたくはないと思うことは誰にだってあることであり、その場合には相手からこちらの考えていることを知りたいという態度を取られ、その相手の態度をこちら側が察知した時、相手に対して不快な印象を持つということもまた、誰しも経験していることではないか。つまりそこで相手にもまた羞恥があるということを我々は前提にして相手のことには必要以上には踏み込まない様にしているという事実を思い出すべきなのである。
 こちらが相手に踏み込まないでいれば大概は向こうもこちらへ踏み込んではこない。勿論時々例外はある。そういう場合にははっきりと相手に不快の意志を伝えればいいのだ。
 全ての世の中の理解は、全て理解し合えるということを前提としないこと、相手を理解することもそうだし、こちら側に対し向こう(相手)から完全な理解をして貰う様に相手に期待することも諦めることを前提とすべきなのだ。そういう風にまずこちらから前提しておけば向こうもまたそういうこちらの態度を通常読み取るものである。
 その様な前提をまず設定しておき、それを普通の状態であるとすることによって、相手は相手のことだけを考え、自分もまた自分のことだけを考える様にすることによって、相手は相手の責任だけを負い、自分もまた自分だけの責任を負うということに慣れていく様になるのだ。
 全ての挫折とは相手の責任をも自分が負おうとすること、或いは相手の存在の不在を必要以上に大きく捉え過ぎ、自分の存在を認可してくれる相手の存在に甘える様になることに起因する。甘えに慣れることが、甘えが実現しないことを挫折と捉える様に我々を仕向ける。と言うことは挫折を極力緩衝させる最大の方法とは甘えという心理が必ず挫折するということ、つまり甘えなどはそう容易には実現しないのだ、ということを常に念頭に置いておくことなのだ。
 それは孤独という感情を、相手不在であるが故に自己存在の認可者不在であると容易に思い込まない様に、相手という存在を全く期待しないでいることに慣れることで克服することを意味する。孤独を楽しむ心の余裕を持て、ということである。
 自分の能力を最大限に常に引き出せる様に思い込むのは、そうすることで少なくともその能力の行使が他人をも巻き込むことであるなら、自分自身によって相手を容易に変えられる(よくも悪くも)、或いはそうすることで相手から感謝されたり尊敬されたりすることを容易に期待することである。その期待に叶わない時に通常我々は挫折感を味わう。そもそも最初から期待していなかったことに挫折するということなどない。
 従って所詮他人は他人本人である自分のことしか考えてなどいないのだ、又それしか出来ないのであり、こちらのことまで期待などしていないのだ、とまず考えておくことが極めて重要であるということになる。
 要するに自分を追い詰める最大の要因とは、自分自身の中での他者一般への期待が大き過ぎることで、その他者から自分へ齎される恩恵を必要以上に肥大化させることによって、相手からこちら側への余りいい待遇をしないことに対する挫折感を大きくすることと、相手から感謝されたり尊敬されたりすることを普通だと思ってしまい、相手から見たこちら側の存在理由を大きく見積もることで相手から挿げない態度を取られた時に挫折感を味わうということと同じなのである。
 相手から期待されること、他者から待ち望まれることを普通の状態として心に持ち過ぎることが、自分自身が相手、他者に対し最大の貢献が出来ないでしまっていることに対し、自分の力不足であると深刻に思い悩む様に仕向けるのだ。
 所詮一定程度こちらも相手に対し礼節とするべきことをしておれば、後は多少こちらが至らなくても向こうは大して大きな幻滅を味わうことも失望することもないのである。
 もしこちらが相手に対し一定程度以上に礼節を保ち、努力して相手に尽くしたのに相手から何とも思われない時には相手に非があることもある故、当然のことながら自分の至らなさを追及して追い詰める必要など更々ない。
 羞恥とは相手に対してこちら側に齎されることを必要以上に期待し過ぎることで、相手を最大限に信頼し過ぎることから作られる。つまり、羞恥とはあるものである、というより、そういうものを発動させてしまう様にこちらから常に作られるのだ。羞恥とは我々自身が作ってしまうものである。それは端的に相手がこちらに期待しないのと同じ様にこちらも相手に期待せず、必要以上の負荷をかけないでおくことで避けられることである。
 その根拠とは端的に相手とは自分ではないということに尽きる。相手は自分にはなれないし、自分もまた相手にはなれない。だからこそ相手に対して期待しないこと、期待して相手のこちら側への出方自体に甘えてしまわない様にすることは大事なのだ。つまりそうすることで相手もこちらに期待し過ぎない様になるから、我々は大きな失敗でない限り相手から多少の過ちを看過して貰える様になるのだ。厭そう意識的にしていくべきなのである。
 本章の結論の様なことを述べるとすれば、相手に期待し過ぎて負荷をかけ過ぎることが、相手に羞恥を齎し、又それが引いては自分自身を追い込むという状態を作る。従って相互に期待過多でない状態をこそ常に自然である様にしておくことこそが、あらゆる必要以上の挫折を味わわずに済むということに他ならない。
 我々は他者の心に羞恥を呼び起こさない様に期待し過ぎず相手に精神的負荷を与えない限りで、自己を相手からも他者一般からも期待され過ぎない状態を常とすることによって自己の至らなさを必要以上に責めない自分を形作ることが出来るのである。
 相手を知りた過ぎることによって相手に羞恥を呼び起こすということが相手に期待し過ぎるということに他ならない。相手に期待しなければ相手もこちらに期待しない。そうすれば私達は相手に対し羞恥を感じることなくいられることが出来る。<注、相手とは世界そのものであることにも注意して頂きたい。世界とは社会から構成され、社会とは全ての自己にとっての相手、つまり他者によって構成されている。>

Saturday, September 18, 2010

〔羞恥と良心〕第十八章 ゼロサムゲームの興奮をどこかで望んでいる現代人

 経済社会では情報に対する希求がどこかで偶像的願望によって支えられている。それはより景気低迷期に顕著である。情報自体が既にある種のガセネタとかあらゆる種類の流言飛語と正式のデータとの違いが曖昧化している。特に株の遣り取り自体には、期待値というものが常に念頭にあり、消費行動を個人が決定する要因にある様な誘引作用と同じ様に、魅力的な市場、魅力的な株といったこと自体が既に集団内部で、国家規模であれ、同一業界規模であれ、会社規模であれ、その判定をピアプレッシャー的により他者を出し抜くということ、我さきに有効な情報を摂取しようという貪欲さ自体に翻弄され、次第にその有効な情報を誰よりも早く摂取するという手段の方が安全な株を買うという行為よりも目的化してしまい、デートレーダーの様な存在に象徴される様な、ゼロサムゲームを招聘してしまっている。
 マスコミもまたそういった市場や経済社会全体の動向を敏感に察知して、必ずしも有効な情報ばかりを報道するわけではなく、意外と多く流言飛語的情報に惑わされている。それはどの報道をトッププライオリティにしているかという選別と、決定に於いて極めて視聴率獲得とか購買数獲得の為に敢えて受けるニュースを発信するという本末転倒が起きているのである。
 ある部分では情報が期待と言うよりは欲望によって統制されている、と言った方がいいかも知れない。
 又そういった恣意的にショックを与えるビッグニュースを報じたいというマスコミ全体の欲求が、やらせを時に捏造させたり、より顕著にワイドショーネタ的な品格の片鱗もないこれ見よがしな視聴者の好奇を誘うものが余り多くなると、要するにマスコミ全体が国民を愚弄しているのだ、ということをまざまざと見せ付けられる。
 個人投資家はある意味では確かに誰よりも先んじて有効且つ信頼出来る情報をプロ筋から摂取することが死活問題である。しかしそれは一部だけがしているのではなく、全ての人達がしていることなのだ。すると当然ガセネタも多く混入することとなるし、仮にツイッターやブログを利用してもそれが混入する可能性は益々多くなる。
 しかしだからと言って現代人はそれらの便利なメディアを廃止してしまえ、とは思わない。それどころか加速度的にそういった利便性のあるメディアは増殖しつつある。すると我々現代人はそういったガセネタに踊らされる実害を被る被害者、まるでライブドアの株を膨大に買い占めていた株主が大損をする様な姿を「ざまあ見ろ」とでも野次馬根性で嘲りたいが為にそういった株式の遣り取りに参加しているという個人投資家も多いに違いない。つまりサディスティックな覗き趣味が潜在的には現代人にあるのではないだろうか?
 かつてあった五大新聞の信憑性とは、昨今では殆どスポーツ新聞や週刊誌とそう変わりないものとなっている。予想も大幅に外れることは多いし、だからこそこれからはインターネット、ブログ、ツイッターの時代であると仮に言ってみたところで、所詮それらも多くガセネタに占領されている。2ちゃんねる も大分社会問題化してきている。
 現代社会を生き抜くことの大きな一つの智恵とは既に何らかの形で外国であるなら戦争やテロの動画を容易にツイッターなどを通して観られると言う事、或いはそういった対岸の火事に対する物見遊山的な意味でのスリルを味わうことなのだ。それは恐らく戦時中からあったに違いない。何故なら戦争さえそれによって生命を失われずに助かる者にとって、そしてそれによって親族や家族を失わない者にとってスリルのあることだからである。
 戦争がないのであるなら、いっそその代わりに株式市場での失墜者と成り上がり者の興亡を外見的に見物するというスタンスが潜在的に我々の心に巣食っていたとしても不思議ではない。
 アクション映画よりも実際の世界経済の動向の方がずっとスリルがある、実際のサッカーの試合を見物するのと同じ気分で政治ゲームの興亡を見守る。全てが現実の虚構化ということなのである。現実を作り物の様に観察する、否そうとしか見ることが出来ないという心理こそが平素の我々にとっての自然なのだ。
 株式市場ゲームは、政治ゲームやスポーツのゲームと同じ様に興奮を誘うものである。そこにギャンブル的に参加する者に、参加者としての緊張感を与え、それが巧く行っている間は愉悦を感じ、いよいよやばくなってくると、心拍数が早くなり、次第に失墜する自己を想念する様になる。逃亡している犯罪者がいよいよ警察にお縄になる瞬間が近づいていることを自覚している様な気分である。
 従って敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている。いつ性病を移されるか分からないということで却って性的快楽に埋没している性行為依存症の様なものである。
 ネット中毒、ネトゲ廃人も同じ様な心理的傾向にあると言える。ある部分では現代人は露出狂的な自己顕示欲病患者であるとさえ言える。そうでなければツイッターで本音を吐露することの精神的傾向が平均化した現代人の像であることの説明も尽かない。
 勿論ツイッターをしているのは全ての市民ではない。しかし多かれ少なかれ現代人にそういった内心心情吐露的露出狂的要素があるからこそ、そういったメディアがどんどん作り出されるのである。
 やがて景気も少しずつではあるが、回復していく兆しも見えてくるだろうが、そうなっていった時再び景気後退へと加速する様な愚を繰り返さない様な心得を今から持っておく必要はあるだろうが、もう一度加速化する規制緩和の中で刹那的な興亡の行く末を見守りたいという欲望が全部消滅しきってしまっている訳ではないのだ。否寧ろ沸々とそういった欲望は潜在的に温存され、発酵されてさえいるのである。
 それは第一次産業的な生産に携わる人達よりずっと情報産業に携わる人達の方が多いという現代に顕著な特徴である。そして又ゼロサムゲームで誰が生き残り、誰が没落するかということを虎視眈々と観察してやろう、と世界中の人達がパソコンの前に座って注視している。

Monday, August 30, 2010

〔羞恥と良心〕第十七章 エリートとは一体何か?

 一般的にエリートと称される人達は国家とか大きな法人からかなりいい給料を貰っているので、日本では(恐らくアメリカでは本当のエリートは一般庶民などと同じレストランで食事などしないだろうけれど)余り横柄な態度を取らず、寧ろ一般庶民に対して自分達ばかりいい待遇をして貰って悪いという態度を示す事が多く、そういう謙った、要するに余り偉い人間ではないという謙虚さを示す度合いに応じて、エリートである可能性は高く、尤も大して凄い知性も優秀さも持ち合わせていず、それでいて謙った知性的態度を示すことだけは長けているそういう人が日本にも全くいないとも限らないので、その辺りの識別はそれこそ、あることに就いて自分自身がどれくらいの知性を持っているかということに最終的には依存していくので、全く何に対してもそれほどの知識も何もない人が仮に相手が本当のエリートかどうかを見抜く為のハウツー的な本を仮に書いたとしても尚、それはあくまで一つの目安にしか過ぎないということになるとは言える。
 私自身は全くエリート街道とは無縁の人生を送ってきたので、自分自身の周囲にどれくらいのエリートが(実は凄い人なのに爪を隠している様なタイプの人という意味で)いるかなど見当もつかないのだが、それ相応のエリートと言っていい人達とも多少なりとも知遇を得てもきたが、要するにもしエリートとは何かという定義を敢えてここで示すとしたら、それは敢えてリスキーな川及び橋を渡らない、安全且つ安定した道があるのなら敢えてそれに逆らわず、それを選ぶ、一応全ての自分より年配者の言うことは聴いておこうという態度を示せる、即座に全てを判断せず考える余裕を与えて欲しいという態度をどんな請求に対しても示せる、それでいて緊急の時にはそれなりに一般の誰よりも有効な手立てを考えそれを履行するか進言することが出来る、などの条件を全て兼ね備えているのなら、それをエリートと呼んでいいだろう。
 尤もそれはインテリとは少し違う。勿論インテリ且つエリートである場合も決して少なくはないものの、インテリではあるがエリートではない人も大勢いるし、あることに凄く秀でていることと違い、今述べた様な対人関係的に緊急の時の対処的知性に優れた要員とはそう多くいるわけではない。
 エリートではあるがインテリではない人もいるだろう。インテリとは端的によく本を読み、教養があるということに他ならず、そのこととエリート的条件は別箇であるし、エリートでもユーモアのある者もいるが、余りユーモアのない人もいる。只エリートで余りユーモアがないと心得ている人にはそれに何か代わり得る貴重な態度を示す事ができて、それが結局ユーモアであると受け取られることも多いかも知れない。
 インテリでユーモアのない人も大勢いるし、インテリでユーモアもありながら、緊急の時には誰よりもおたおたする様なタイプの、ある部分では間抜けなところさえある人も大勢いる。
 さて中生代に闊歩していた多くの恐竜は歯が鋭く強靭で、大きく分けてT字型で闊歩するタイプの二足歩行者と、Π字型で闊歩する四足歩行者とがあったらしい。
 面白いことにその両者とも肉食恐竜も草食恐竜も歯は尖っていて、それはどちらも強靭な咀嚼力が必要だからだが、又脚が極めて強靭な筋肉を持っていて、要するに走ることに長けていた。それは捕食者(predator)として獲物を狙いをつけて迅速に駆けて行き仕留める為であるし、その進化の軍拡競争に於いて被捕食者として逃走する為である。
 それはかなり目的的進化の産物だったことだろう。つまり脚力とそれを迅速に利用する為の反射神経に多大な進化のエネルギーを取られ、まさに生存していく為の条件自体がそれだけでかなりのパーセンテージを占めていたので、脳自体のそれ以外の部位の進化はその事実によるトレードオフで大したものではなかったと言えるだろう。
 その点同じ獲物を狙う敵対者や捕食者から生存を脅かされない様にする為に聴覚神経を発達させていた哺乳類にとって聴覚的進化が脳に齎したものは論理思考力だったと言える。それは只闇雲に獲物に突進したり、撃墜して噛み付くという様なエネルギーの代わりに、容易に獲物を捕獲出来ない時期やそういう機会に於いて別種の食料になり得るものを模索する様な知性を進化させてきたのである。
 要するに目的が一元化され特化されている場合、又そのことだけで生存が図れるのであれば、脳自体が突進し撃墜する為に要されるエネルギーと技能を進化させること以外に費やされる必要がなかったというのが恐竜の立場であれば、その逆に突進したり対抗馬と撃墜し合うことに於いては劣ってはいたものの、逃げて隠れたり、隠れている時に本格的食料以外の食べられるものを見つける知性を発展させた哺乳類はメキシコユカタン半島沖に隕石が衝突した際に、非常時を生延びることが出来たわけだ。
 それは知性そのものが特殊目的、しかも生存を最も大きく保証するものに特化していないという脳進化の条件によってだったと考えられる。
 つまり単一の目的に最適に特化した選択肢は、それ以外の選択肢への模索という知性を要求しなくて済んだが為に、ある部分では愚鈍なままに環境の一時的激変に耐えられなかったということが言える。それが恐竜が滅んだ理由であり、もし彼等の身体が巨大であっても、何らかの知性を同時に兼ね備えていたのなら、生延びた可能性もゼロではないだろう。
 要するにエリートとはある環境に特化し過ぎていないということがある部分では進化論的には求められているのである。つまり一つの環境に特化し過ぎていることは、かなりその同一の条件下に於いてはエリートとして君臨しやすい。しかしそれは現代世界経済社会に於いてなどに散見される様に、フレクシブルな対応を求められる激変的タームに於いては特化され過ぎていないということが精神的にも技能的にも求められている。
 勿論英語は重要だし、それが完璧であるなら、それだけで食べていけるとは言えるが、英語以外の語学に全く関心がなかったり、それを習得する意欲も能力も全くなかったりするよりは、いつ何時別の言語が自分が属する社会、共同体、国家で重要度が増すとも知れぬ場合には、英語+もう一つ別の言語への関心と情熱がある人の生活を救ってくれるということは大いにあり得る。
 エリートは時代毎に地球進化論の歴史に於いてそうであった様にその条件を変えてきている。それは職業に於いてもそうである。
 例えば大型コンピューターから小型化してきた時代の波でハードからソフトへと重要度が推移してきた歴史的経緯の中で、これからはハードもソフトもある時期が来たら、かなり安定してきて(需要的意味合いからも技術力的な意味合いからも)、不動点を模索し始め、今度はユーザーの天才が登場し、如何に既存の有益なメディアやツールやソフトを使いこなすかという局面に需要度がシフトしていっているものと思われる。
 事実未だに情報摂取と、情報提供と、創造的アイデアの提供に於けるスピードがより求められている時代であることだけは確かである。
 最早大学教授とか官僚であるとか、昔、常套的だった様な絵に描いた様なエリート像は有効ではなく、アウト・オブ・デイトであり、見てくれとか知識量とかイメージでエリートを推し量る時代そのものが終焉した、と言ってよい。
 尤も見てくれとか服装とか物腰よりも、これからの真のエリートはある種の好奇心、何事も既成の概念に囚われないでいて、しかも多様な関心領域へとアンテナを張って、又それでいてのんびりと何事にも対応していて、且つ仕事が速いということが条件となっていくのではないだろうか?それでも尚傲慢で人の言うことを聴かないタイプの成員ではないということだけは変わりないまま引き継がれて行く気だけは、あくまで私の直観ではあるがあるのである。
 それに未来のエリートとは厳密な意味で常に優秀である必要さえないかも知れない。適度に余り失敗のない様に全てをこなすのであれば、逆にある部分無知な部分が多くてさえ勤まる。つまり緊急の事態への対処(ある種の硬化した頭のインテリには不向きな)能力こそが求められているのではないだろうか?
 それは走ることに特化して獲物に撃墜して咀嚼していた恐竜が顎も頭も進行方向に尖っていた形状から逸脱していった形状の、つまり大脳を格納するのに相応しい形状になっていった我々の祖先の様なタイプの恐竜がもしいたのなら(その中でも羽を特化させた鳥類だけは例外的に隕石衝突後も生き残った)哺乳類との間で強力なるライヴァル関係を築き上げたであろう様なタイプの人類の危機に対処し得る様なタイプの知性(それは前世紀までに求められた天才性とは異なったタイプの)が求められているのではないだろうか?
 未来のエリートになり得る条件を満たしている者は全てに挫折してきた今の貴方かも知れない。

Monday, July 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十六章 親近的盲目と憧れ

 私達は案外自分では自分のことをよく分かっていない部分がある。それは人から言われて気がつくこともあるが、自分でも実は薄々分かっているのだ。案外自分自身で目を瞑って自分の実に対して見まいとしている、ということを。が目を塞いできた時期が長ければ長いほどその目を塞ぐことを決め込んだ事自体を忘却していってしまうものなのだ。
 自分ではよく知っている積もりの多くの事柄に対して、実は我々は案外何も知らないままでいることもあるのかも知れない。その知らないままでいる事自体が、一番自分でよく知っている部分である、という矛盾がある事も多い訳だ。
 例えばそれを実感させる顕著なこととは、親近的ではあるが自分とは全く異なったタイプであると勝手に思い込んでいるタイプの対象に対し、ある時意外と自分と相似した要素を発見する時などである。今の今まで勝手に全く自分とはかけ離れた対象であると思い込んでいたものの、その発見を通して意外と自分の中にそのものやこととの共通性を見出すことも珍しくはない。
 逆に自分とは無縁で、親近関係にもない対象に対しては、勝手に偶像化してしまい、憧れを持つことは多い。それは盲目の信頼となって一切のそのことへの反省を寄せ付けないようになっていくことも多い。
 逆に最初に述べた様な自分に近い自分と相似性を多く持つものやこととは、端的に近過ぎることで、案外そのものやことと自分自身との共通性に対しては目を塞ぎがちである。
 それに対し親近的ではない対象に対し我々は容易に自分との共通性を見出せるものである。しかしそれは長く付きあってみると誤解である場合も多い。存外そのものやことがかなり容易に理解することが困難である要素を次第に発見していくのである。
 確かに憧れの対象と化すことがあるわけだからそのものやことは魅力を湛えているのだろう。がその魅力自体は惹き付けられることとは裏腹に理解しやすいものとは限らない。
 それに対し自分ではよく知っているにもかかわらず自分とは明らかに違うと決め込んでいるものやことに対し我々は実は案外その共通性に眼を塞いでいることを今更ながらに覚醒することがある。そういう時には唖然とするものだ。だがそうだと気付けば意外とその後の対応はしやすい。
 要するに自分とは全く異なったタイプであると勝手に決め込んでいるものやことに対し、それらと自分自身との意外な共通性という要素はかなり羞恥を我々に催すものである場合が多いかも知れない。つまりその羞恥を催す要素こそが実は我々にそのものやことの実を見まいと無意識に構えさせてきたのである。
 それに対し自分では惹き付けられてきたが故に他者にもその理由を説明しやすいと踏んできたものやことの中には、案外それが困難であることを気付いていくものやことも多い。それは勝手に理解しやすいものやこととして判断してきたに過ぎないものやことなのかも知れない。
 ここでも我々は自分で自分自身の実を見まいとする羞恥感情がかなり我々自身を支配していることを知るのである。特に普段から頻繁に接している他者とか愛着のある事物や行為全体は、慣れているが故にその実に対し客観的に観れなくなっているということも大いにあり得るのだ。よく知っている積もりのものやことに対し今更ながらに冷徹な視線を注ぐこと自体が羞恥的感情を喚起する。しかし意外と慣れきってしまっているものやことに対し我々は時として意識的にそういった眼差しを注ぐ必要性がある。
 そうする事で実際にはかなり遠い存在であるのに惹き付けられてきたものやこと(それを最初は知っていたつもりでも、そのものやことに惹かれていく内にその事を忘れ去ってしまっていた)に対し、冷静に観察すると、かなり異質な部分を発見していくに連れ我々は近親的なものやことの価値を再考する気持ちへとシフトしていくことも決して珍しくはない。
 よく接するものやことに対し我々はどこかでいつでもじっくりと観察出来るのだからということで、ぞんざいに接してしまいがちである。故にこそ一番自分と近い部分や要素に対し我々はそれこそ自分と最もかけ離れた部分であり要素であると決め込んでしまうのだ。
 これは陥穽である。我々は親近的盲目という事態に対してもっと覚醒的であるべきなのだ。
 我々は卑近で親近的なものやことに対してその価値認識を怠っている贖罪心理が実は疎遠ではあるが、惹き付けられる他者や習慣、行為に対し一時的に魅力を持ってしまうという部分もあるのだ。そしてある時それが意外と自分自身の資質や感性とかけ離れている対象であると気付くのだ。
 しかしどちらが本当に親近的関係のものやことで、どちらが本当は疎遠であるべき筋合いのものやことであるかという判断自体が相対的であり得るという判断も同時に成立し得よう。しかしそこはある程度直観的に判断していってよいし、そうすべきことも多いのではないだろうか?
 人間は可能無限的存在ではあるが、実は極めて限定的にしか可能性など開かれていないとも言い得るのだ。自分が勝手知った経験的項目とそうではないものやこととの差異とは一番自分がよく知っているとも言える。
 憧れとはある部分では逃避的対象であるとも言える。つまり卑近で親近的存在に対する価値評定とか直視を回避する為に暫定的にその都度必要とするものとして憧れという感情は利用される。自分が勝手知った存在とは却って直視を避けたくなる羞恥を催す対象であることだけは確かだ。その直視を避けさせるいい方便として憧れの対象を我々は探し出すというわけだ。
 自分で最も遠いものであり、理解し難いものであると決め込んでいてその事自体に露ほども疑いを持たないものやことこそ、実は再考の余地はあり、案外自分自身の一番よく知った内実を具えたものやことである可能性とはそれ自体常に羞恥的感情を喚起させやすいものである。そのことと憧れの対象を模索していってしまうという心的傾向とは実は相補的に裏腹の関係にあると言えるだろう。その相関性に対する認識さえ忘れずにいたのなら、我々は親近的盲目自体が逃避感情を正当化する偶像を追い求めさせるという我々の心理の傾向に覚醒していくことが出来る。
 事実はもっと単純であるという謂いもここでは意外と役に立つ、と言える。

Wednesday, July 7, 2010

〔羞恥と良心〕第十五章 ツイッター上での人間関係論

 現代人にとってブログの登場は誰しも自由に自分の意見を掲載することが出来るという意味で画期的だったが、ブログとはそもそも余り大勢の人達の目に触れられる可能性は最初から想定に入れていない。
 その点ツイッターは全く別である。そもそも好きな人だけ訪れてくれればいいという開き直りとは異なったタイプのメディアとしてツイッターはある意味では現代人の心理をよく突いてスタートした。
 つまり個々は孤独であり、一人で行動しているという様相が濃厚にある現代人にとって携帯電話の存在が都会人的であると田舎的感覚の人間であるとに関わらず個的な空間で言葉を発することが如何に我々にとって本来的に楽であるかということをその登場の後で知った。そしてまさにツイッターはその携帯電話とタイアップして存在している。
 しかもツイッターではフォロワー数を競い合うという規則的呪縛のない暗黙の心理的ルールがある。そしてフォロワーの人数だけでなく、フォロワーの参加理由や参加根拠と、フォロワー自体の人間的性格、つまりどういう目的でツイッターを利用するのかという考えを巡る共感者同士が次第に集合していく様になるタイプの新しい人間関係を構築しつつある。
 しかも実際に会って話す人間関係と違ってツイッター上でだけ知人であること自体に別段不自然さを感じない現代人にとって容易に新たな知人を作ることも出来れば、気に入らなければ容易にこれまで親しくしてきたフォロワー達と絶縁することも出来る。
 それはかなり心理的にイージーである様に思えてその実かなりその都度真剣に言葉の遣り取りをする様になってもいる。
 フォロワー同士の繋がり自体も外部からも比較的容易に推察することが出来る。つまり実際の対人関係の場合、ある限定された性格のサークルに属している場合(会社にせよ、学会にせよ、趣味のサークルにせよ、株主総会にせよ)相手の対人関係とは相互に親しくなり告白し合うしか知りようがないが、ツイッターではそこが違う。全ての対人関係は少なくともツイッターユーザー間では表面に露出している。ダイレクトメールだけが辛うじてプライヴァシーを確保する事が出来るくらいだ。
 ミクシーの場合我々は参加する際に既に参加者の誰かに紹介して貰わなければならないが、ツイッターではそういった面倒は一切ない。
 しかも多くのユーザーにとって注目を集めているユーザーを知ることも容易である。
 ツイッターでの言葉の呟きはある意味ではツイッターというシステム自体が用意されているが故に初めて可能となった本音でもある。つまり元々この様な本音を呟けるメディアのない時代では考えられもしない自分の中のアウトロー的性格、自分の中の陰鬱な性格的要素、自分の中の自由奔放な言葉の選択とか呟く内容の選択といったこと自体を知る為にこそ多くのユーザーが利用している、という側面も否めない。
 勿論ツイートの内容も傾向も社会的地位から職種、年齢、性別、民族によって異なるという面はあるが、同時にかなり多くのそういった違いを踏まえても尚顕在化している共通性もあるのだという自覚は多くのユーザーを依存的な魔力へと惹きつけている。
 人間は確かに個々違う。しかし同時にどんなに違う境遇でも言葉の遣り取りに於いてはかなり理解し合える部分もある。それは実際にツイッターからではなく普通の集団に属していて知遇を得る場合なら決して親しくなれない様な相手とさえツイッター上では親しくなれ、そのツイッター上の交際から実際の対人関係へと発展していくという新たな人間関係構築の可能性が開けてきたとも言えるのだ。
 違うのに、同じであるという言語行為を通した対人関係が職種も社会的地位も著名人でない限りたとえ覆面的に自己の姿を隠蔽し、性別さえ装っていたとしても尚、理解はし合えるという事実の前で、我々は今更ながら言葉とは、それを通した意思疎通に於いて実際社会でのパワーバランスに伴う偽装性を剥ぎ取ることが可能であるという意思疎通性格に於いて我々は社会的地位、経済的優位劣位に関係なく対人的に触れ合う場を見出したとも言い得るのだ。
 羞恥は実際の所社会的規約や実際社会の制約、法的秩序によって自然と対人的に構える人間に付与される。しかしそういった対人偽装性や建前性自体への維持や保有事実に対しある種の虚しさを感じる現代人は多く、その虚しさの共有事実こそが現代人にとっての心のオアシスを我々が自然と求める結果となっている。つまりそこにこそ現代人は社会的制約を度外視した自由と良心を読み取ることをしているとも言えるのだ。
 ツイッターの無秩序的呟きこそ制限すべきではなく、今後もそれを通して実際の行動に移行させることを未然に防止する様な効用と共に、却ってツイッターで呟くことで得てしまうストレスや苦悩を知ることを通して、実際私達は自分の心をどう維持していくべきかという基本的な命題に行き着く。
 そしてツイッター上での対人関係はそのことを相互に語り合う場として相応しいと言える。偉大な意思疎通自体が含有するアマチュアリズムの存在理由によって、今後は逆にプロ執筆家のプロ活動自体の様相さえどんどん変えていくことだろう。そしてこれまでプロであった人達がアマチュアになったり、これまでアマチュアであった人達がプロに転向していく様な様相的流動性も益々顕在化していくだろう、とだけは言える気がする。

Wednesday, May 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる

 現代人にとってアイデンティティーは完全に仕事人間としての誇りであるとか、ある業界で生きることの誇りである。
 従って彼等にとっての羞恥は勤続何年という形で形成された「~家としての」「~者としての」「~―としての」「~イスト(リスト)としての」「~人としての」感性に色濃く影響された人生観である。
 それはかなりバイアスがかかっていて、しかも始末の悪いことには私たちの先達の世代ではリタイアした後にどういう人生を歩むかという事が一部官僚などでは天下りなどによって敷かれたレールの上を進んでいけばいいだろうが、そうではなく満期一杯まで勤め上げてからいざ、地域社会にリタイア者としての生活を営んでいこうにも、妻からは粗大ゴミ扱いをされ、地域社会に溶け込むには余りにも偉大な職業的誇りがあって、それが禍して遂には休日にはゴルフなどに出かけていたそういう習慣も徐々になくなって、終いには毎日が休日であることに耐えられなくなるのだ。
 要するに社会学者テンニースが考えた時代と今とは隔世の感がある。何故なら当時の社会では完全に資本主義社会とか財閥とかが幅を利かせ、失業者の群れがあった。勿論今日でもそれは同じかも知れない。
 しかし基本的なところで当時の様に、では失業をしたからと言って帰っていくべき共同体などとっくになくなっているのである。
 従ってどんなに都会の片隅でいじましく余り儲かりもしない営業をしていても、或いは失業しても、それまでに培ってきた職業的ノウハウを捨て去って一から出直すという事自体が大変である御仁も、そうではなく完全に転職自体に慣れている御仁も、人工的な都市空間に彷徨う都市徘徊者としての日常の中にこそ、ゲマインシャフトを構成し、寧ろかつてのゲマインシャフトとしての地域、地方共同体の方が人工的に観光化された形で人間関係に於いても重圧がある。そこではピアプレッシャーとは、相互にピアプレッシャーを感じずに生活していけない事自体への面当てである。リタイア老人の中で地方社会で顔でいる人達が挙って若者衆や個人営業の店主達と結託して都会からのホワイトカラーリタイア組を骨抜きにして、かつての威光を徹底的に失わせる。俺達こそがここを支配しているのだ、という触れ込みで。
 それはテンニースの時代に彼が考えていた資本主義社会の完成以前のゲマインシャフトでは決してない。既にステレオタイプ化されたゲゼルシャフトの雛形である。
 一部官僚達と違って民間企業のお偉方達は端的に一切の職業的ノウハウによって培った自分の習慣にとっての自然をリタイア後に棄てきれない。そこで地方ゲマインシャフトであった場所での顔役達は早く社会からドロップアウトして年金生活をしながら趣味をしている人達である。
 従って仕事人間は何らかの形でリタイア後に今度は一切の年功序列も勤続年数も関係のない自力での転職を果たさねばならない。彼等にとっては既に職場こそがゲマインシャフトであり、妻達に独占された地域社会での対人関係こそは自分の人格のほんの一部だけを偽装して晒すゲゼルシャフトなのである。
 これからは特にネットインフラが整備されてから就業年齢に達した人達が未来に於いてどんどんリタイアしていくとなると、次第に寛げる空間とは職場であり、職場の近くにある店舗であり、居酒屋である。しかも大半の女性も既にキャリアをどんどん積んで独身族も大勢になってきている。個人の自宅でパソコン一つで勝負していたとしても、既に地域共同体は故郷ではない。彼等にとってはネットインフラ上での交流こそがゲマインシャフトなのである。
 彼等にとっての羞恥はかつてどういう職業に就いていたかであり、夫婦関係など十の昔に崩壊しているのだ。離婚していずに、結婚を持続していたとしても尚彼等は殆ど形式だけの夫婦である。
 既に良心という精神さえ彼等にとっては職場の倫理であり、対外的な対人処理術である。従ってお互いに配偶者を粗大ゴミとして取り扱う事自体を忌避したいという願望があるので、何も無理してまで相手の羞恥を妻は夫を妻同士の付き合いの中に放り込むことなどないし、夫は夫で男同士の付き合いを妻にまで紹介する必要性自体をさらさら感じてなどいない。
 寧ろその様に不干渉である事自体が相互に良心の発動であり、そうする事によって未然に相互の羞恥を感じさせない様に配慮しているのだ。つまりそれこそが夫婦愛というわけだ。
 私達の行動の多くは既に25歳を超えたなら、大概が習慣化されてくる。それは殆ど自動的に身体が勝手に動く。それはまるで慣れ親しんだ夫婦同士のセックスの様なものである。パソコンを開く、メールチェックをする、ツイートする、そのレスを送信する、昨晩コンビニで買って冷蔵庫に入れていたハンバーガーを口に放り込む、コンビニを出て余分に買っておいたドトールコーヒーをレンジでもう一度温める。
 そこには素の自分を晒すという事の羞恥を相互に忌避し合う社会成員の習慣化された行動論的なコードがある。
 その習慣化されたコードの方が既に私達にとってのゲマインシャフトであり、それは確かに一面ではプライヴァシーの確保でもあるわけだが、言語行為のプライヴァシー性とは原始社会から古代、中世期までの方が寧ろ徹底化されていて、逆に今日では2ちゃんねる的存在に於いて徐々にそれを剥ぎ取る傾向にあると言える。
 つまりプライヴァシーを剥ぎ取る行為自体が一種のプライヴァシーになっているのである。その仕方のノウハウ自体にある種の差別化において商標登録的アイデンティファイされたものを流用する習慣がツイッターのアバターなどに於いても既に顕在化している。
 そこでは欧米の様に無記名、匿名の書き込みをする事が少ない社会でも、日本の様に無記名、匿名コメントに於いても同じである。
 ネットインフラ上での対人関係の方こそ素の自分を見せ得るのであり、逆に夜中にコンビニで買い物をする時明らかにそこで出会う人達は完全に他人であり、マンションで生活する人達にとって擦れ違う人達の一部がかつてのゲマインシャフト的友愛性に彩られ、大半はそうではないのだ。
 つまりブログ仲間、ツイッターフォロワー同士こそが私達にとってのゲマインシャフト化していて、地方の観光都市の対人関係こそがゲゼルシャフト(特にネット依存症的都市生活者にとっては)なのである。

Tuesday, April 20, 2010

〔羞恥と良心〕第十三章 言語とはプライヴァシーの起源である

 我々は言語活動をすることによって、寧ろ内的世界を獲得した、と言える。それは端的に言語自体がプライヴァシーを作ってきたということである。
 例えば我々は何を他者に語っても、もっと何か言い足りないことがあるように常に思える。だがそれは内的世界が言語では表現し尽くせないほど豊かなのではない。それは言語自体がそこまで我々に思念させる力があるということ以外のことではないのだ。
 言語は通常何かを伝達する為のものである、という位相でのみ語られてきた。
 だが我々はもう一度よくその事実へ再考の余地を与えよう。
 つまり私たちは語る者の真意、本音を語ることを抑制する意図として言語を捉え直す必要がありはしないだろうか?
 言語行為が他者間で遣り取りされることは、その言葉の意味がどんなものであれ他者に痛烈な作用を齎すということだが、それは逆に言えば、我々が脳内で言語を通して考える能力がそれだけかなり広範囲であるということを意味する。故にその思考(少なくともここで今考えている言語を通した)の全てを他者に伝えるという愚を我々の理性は承知している筈である。ならば言語行為が進化してきたことの最大の理由とは本音を言い合うものだと我々の祖先が考えたのではない筈だ。本音とか意識とかクオリアといった概念自体が、言語によって生み出されている。それは一種の言語による幻想であり、そんなものは心の内部には実在しないと私は考えているのである。
 例えば通常言葉とはそれによって他者を誹謗中傷する為に進化したとは到底思えない。もしそんなことの為の道具でだけあったのであれば、とっくに言葉等淘汰されてきた筈だ、と考えることの方がより自然であるからだ。
 真意とは常に心の内奥で作られている。それは私達の思考によってである。そしてその真意が少なくとも他者には言うべきことではないと自覚している限り、それは言語による思考である。しかしそれを真意である故その真意を隠蔽して建前だけを語っていると自己自身を認識しているとすればそれは誤りである。
 何故ならそれ自体が一つの言語的思考の過程であるとか経路の一つであるに過ぎないからである。
 つまり私たちはそれを意識してか薄々かは別として曲がりなりにも知っているからこそ、相手に何もかも伝えていいとは思わず抑制的に言葉を利用するのだ。だから逆に言えば哲学などでよく語られている様に何かを言う為に「本当の気持ちや心を断念する」という考え自体が実は一種の言語的思考の過程や経路自体が我々に与える幻想なのである。
 つまり私達が心の実体であるとか真意や本音だと思っているものの方が実はそうではなく只単に幻想であり、それが真意だとしたら告げられるべき内容ではない、要するに内容的に芳しいものではないと自覚して、それを抑制して語らずに済ます事自体の方を真意と呼ぶべきなのである。又そうであるが故に、つまり直接芳しい内容のこと(少なくとも事実の隠蔽という意味では決してなく、心に思い浮かんだことの内容が告げるべきではないと思った場合)それを直接伝える事を抑制することを心がけたが故に言語行為は今日にまで進化を遂げたと言うべきではないだろうか?
 つまり形を変えて言えば、弁解の余地を相互に与え合うことで私達は言語を発展させてきたのである。
 言語を、本音を言い合う為に進化したのではなく、相互に建前を踏襲する為に進化したと捉えた方がすっきりする。寧ろ建前の方こそ意志であり本音なのだ。そこら辺は中島義道の著作である「時間と自由」の論述が極めて参考になると私は考える。
 もし今私が述べたことが正しいとすれば、言語とは言い訳の為の説明=論理思考能力を各発語者に要求する形で共同体内に進化してきた、と言えることとなる。
 言い訳=弁解は個人の内面的感情に左右されずにそれ自体で言語行為に於いて、通用する故責任倫理に敵っている。
 言語行為上の意味論とはある発語文及びそこで伝達される意味を伝達する成員への差別しなさである。つまりそこに言語の真理が「意味伝達行為が責任化されている」ということであることを示している。つまりある発語内容の持つ力、意味の真理がその発語者の人格査定とは無縁に成立している、という事が最も重要なのである。
 もし私達の言語行為上で発語毎にある発語者固有の特権的なものであり得たなら、私たちは何の意味も持てないこととなろう。然るに我々が真意とか本音と思えるものの大半は思念上での思いつきにしか過ぎないし、或いはそう捉えるべきなのである(哲学も又そのような決意であるべきだ)。
 思考内容の持つ様相はその都度の状況依拠的であるも、その意味は不変且つ万民に特権化されなく共有されるというところに言語の持つ大きな力と意義があると捉えるべきなのである。

Friday, April 2, 2010

〔羞恥と良心〕第十二章 言語と羞恥

 私たちは相手のことを知りたいと願う。親しくなればそれは当然のことである。しかし極めて重要なことだが、相互に相手のことを全て知りたいと願うからこそ、多くの対人関係は破綻するのだ。それは言語というものの存在理由を理解すれば我々は納得出来ることではないだろうか?
 何故なら言語とはそもそも相手の全てを知るということにおいて、相手自身が極度の嫌悪感、警戒心を持つからこそ、そのことを相手がこちら側に拒絶することを一定の緩衝地帯としてのロールを担ったものだからである。
 言語とは端的に全てを告白し合う為に設けられた道具ではない。寧ろそれを避ける為に、あるいはそれが本質的には不可能であることを相互に熟知していた存在者間において初めて成立し得たものであったのである。
 その意味では言語とは羞恥を相互に認め合うという作用において成立する。それは人類が最初に着衣の習慣を身につけたのとほぼ同時期であった可能性もある。尤もその立証は人類学者諸氏にお任せしよう。
 要するに言語とは相互に全ての感情を相手に伝えることが出来ないという物理的諦念と共に、それが仮に出来たとしても、決してそれを相手に相互に示し合いたくはないという歴然とした事実によってのみ命脈を保持し得るものである。
 つまり他者存在とはそれ自体で一つの壁である。例えば相手のちょっとした仕草とか物言い自体に対して不快感を抱いていたとしても尚我々はその全てに対して一々苦情など言わない。勿論それが度を過ぎたなら必ず何か一言は言いたくなるし、言わずにはおれまい。しかし些細なことには目を瞑る。
 その限度や目を瞑る内容自体はある意味ではかなり民族間に差異があるだろうし、個人間にも差異は存在しよう。それはある地域や地方では文化習俗的に当然のことが、別の地域、地方では非常識であるような意味で。
 例えば大体都市部(特にマンション街や山の手的区域)では隣人に対してそれほどお節介をしないということは不文律的に常識化しているが、地方では、あるいは伝統的文化都市、あるいは一般的に下町的区域ではそうではないというような差異は至る所で散見出来る。
 しかしそれは地域、区域的習慣の差異であり、個人間の差異はそれよりはずっと深刻である。例えば人に言えることと、言えないことということには当然ながら差異がある。
 そしてある人にとって容易に他者に告げられることが、別の人にとっては耐えられず、そのことは別の人にとって容易なことを、ある人にとって困難なことにしているという意味でかなり深刻である。
 例えば私はかなり多くのことを他人には一切語りたくはなくそれこそ墓場まで自分一人で抱え込んで死んでいきたいとさえ考えている。
 恐らくそういったことは多く都市部でも地方でもあり得るだろう。
 しかしよく考えてみよう。言葉とは相手がいなければ意味がないものである。だからウィトゲンシュタインはそのことを常識とする世界に対して、アンチを唱えたとも受け取れる。勿論そんな単純なことではないのだ。それは恐らく世界に対して、個というものの在り方を巡って脳内で考えあぐねること全てが他者一般と極度に乖離していたということに起因するものと思われる。だがそのルドウィヒによるトライアルとは実は、その常識において順応し得る(あるいは仕方なしにそうする)ことも、拒絶することも含めて一つの制度を生きるということ、言葉を使用して生活するということはそういうことだという確信の下で、ではその制度とは一体何か、私とは制度と共に派生する意識であるのかという問いが彼を哲学へと駆り立てた。そのことを永井均は独我論という病の治癒のために彼が哲学をしたと捉える。
 
 もう一つ言語にも責任があるということだ。一つに言語はそれ自体その言語を使用する民族に固有の性格によって決定されている部分もあるが、極めて偶然的である言語構造自体が民族に固有の文化を育むという側面もある。
 例えば日本語では主語+動詞+目的語のような英語の構造と異なっていて、端的にそれ以外の英語にはない助詞、形容動詞というものがある。とりわけ助詞の使用の仕方で男女の言葉遣いを峻別したり、相手の社会的地位とか立場に応じて弁別したりして使用するということが当然となっている。これは意味論的には他者一般に対して、つまり相対する存在者に対して純粋に抽象的意味論的対話をすることを困難にしている。
 つまり相手に応じて「言って善いこと」とか「訊いて善いこと」といった基準を厳密に査定していく方向へと流れやすい。助詞の中に重要な部分として敬語があるからだ。
 それは永井均も日本語には英語で言うところのIとかyouとか以外の、「俺」「おいら」「あたい」「あたし」「わし」といった多くの語彙があることを指摘する。
 それは配慮という行為自体を自発的なものとするのではなく、制度的な習慣にしようとする民族性を表わしている。
 尤も英語世界の一つであるアメリカでも今度は宗教倫理的な不文律は支配しているから、別箇の文化的強制を多くの人たちは感じているという実態はある。そして日本語のように助詞がないということが、逆に抑揚とかストレス、息継ぎ的な表現でニュアンスを示し合うという別の形での工夫は現出することとなるわけだ。
 だが再び日本語に戻ると、このことは言語自体が極めて恣意的にその都度の状況に応じて弁別するという意味ではソフィスティケートされてはいるが、哲学的誠実性においては、極めて呪縛が強い、本音を謂い難いものにしている。
 つまり良心といったものは本来自発的、内発的なものであるべきであるという倫理査定的には、礼儀、礼節という制度上での規約とは甚だ自発性とか内発性を削ぐ結果となっている。つまりそれが礼儀だから、ということ自体に既に有無を言わさぬ制度、規約、文化的強制からの呪縛、言ってみれば自立した個の考えを全て無視する不文律的構造が支配している。
 これは年功序列意識とも大いに関係がある。
 しかし同時に日本では既に明治期において一回、それまでの日本文化を徹底的に脱亜入欧という形で欧米化してきている。これは公官庁における書類の取り扱いとか上限関係において顕著である。
 しかしそれはあくまで公的場においてのみであり、井戸端会議的私的空間では通用しない。そのことを恐らくかつて作家の井沢元彦にして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのであろう。
 日本人の思い遣り意識の文化的不文律強制は協調性のない成員を四面楚歌にする一方、そういった成員を逆に何とか皆の和に加わらせようと画策し、それはテレビドラマなどでも頻繁にテーマ化する。
 その事実自体に対して痛烈な告発をする哲学者で作家こそ中島義道である。
 中島はある部分では極めてジャン・ジャック・ルソーの持っていた私的告白性から啓発されているとさえ言える。つまり自らの暗黙の了解的日本人の協調性へと加われなかった少年期から青年期までの苦悩と挫折を告白するスタイルの多くの著作を発表している(「孤独について」他)。
 しかしこれもよく考えれば、そもそも言語とは全て内的世界を語ること自体の不可能性、それは語る当人と、語られる別の人が他者同士であるということから起因する根源的な壁があるからだが、例えば「私は~です」と自己紹介する時必ず、ここまでは言っていいことだし、言えることであるが、それ以上は言う必要もないし、言いたくもないということ自体の表明となっているのだ。そしてその事実を踏まえてこそ敢えて「でも私はある部分では一般的に言ってはならないとされることを私は言う」という形でルソーとか中島の告白は言語意思疎通史上において命脈を保つことが可能となるのである。
 しかし人間はある部分で饒舌であるということは別のある部分では只管隠蔽し続けるということをも意味する。
 それは個人の感性や感受性においても言えることである。
 つまりあることに極度に他者に対して神経を遣うということは、別のある面ではおおっぴらに言っても構わなかったり、あるいは大して神経を遣わずに済ましたりするということを意味する。それは一般社会通念上での不文律に付従えない者にとって研ぎ澄まされた感性や感受性は、一般社会においては逆に大して重要な羞恥心ではなく、特殊であるという感性や感受性の人にとってざっくばらんであったり、極めておおっぴらであったりということが一般社会においては極めて羞恥を感受させることである、ということでもある。
 そしてそれはルソーや中島のように詳細に文筆活動において示し得ている成員以外の、物言わぬ全ての人々にとっても実はそうなのである。
 つまり全ての人が自分が書いた文章を多くの人々の目に触れさせることは出来ない。だが文章を書くということさえしない、あるいは能力的に出来ない全ての人々も実はその自分自身と社会全般の間にあるずれとか「仕方なしに合わせている」部分というのは必ずあり得るのだ。
 もしそういったことが一切ないという成員がいたとしたら、その者は狂人であると言ってさえよい。
 例えばそれは知らない業界へと転身した者が最初戸惑う様々な業界固有の習慣、その一つとして言葉遣いといった習慣から、引っ越して行った先での方言、あるいは時間厳守であるタイプの社会とそうではない社会の差異とか、そのような戸惑いは全ての人々について回る運命である。だがそれでも尚郷に入れば郷に従え式に皆ある程度は歩調を合わす。そして親しい友人が出来て腹を割って話せる機会があれば、思い切ってそのことを告白することもあるかも知れないし、永遠にそういうことは一切黙ったままで生涯を過ごす成員もいることだろう。
 つまりその親しい相手なら言いやすいことの内容的差異というものが個人間にはあるのである。あることは容易く言えるが、別のことではそうではないという常識の違いがあるいは親しい間柄とそうではない人の間の差異を各個人に構成するのだ。そして親しければ親しいほど言い難いこともある。それは相手が親友であれ家族であれ、事情は同じである。
 あるいは同性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるし、逆に異性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるわけだ。
 つまりこれこそが羞恥であり、その羞恥を相互に保有し合っているという了解の下で言語行為は成立している筈なのだ。
 例えば道端で知らない通りすがりの人にいきなり「年収は幾らですか」とか「今付き合っている恋人はいますか」と尋ねる者はいない。
 だからある意味では言語行為における羞恥とはどういう経路で相互に親しくなっていくべきかということ自体に纏わる倫理査定的な判断が各個人において異なっているということ、そしてその事実を容認しやすい成員と、そういうことは世間一般の不文律に従っておけばよいという考え方の違いとなって立ち現れていると言うことが出来よう。
 そしてそれをどこからどこまでが地域的、地方的な文化習俗や伝統からの影響か、どこからどこまでが個人的資質かということを実は厳密に区分けすること自体がかなり困難であるし、ある部分では不可能であるし、ある部分ではそういった判断自体が意味を成さないと言うことが出来る。
 だが地域的文化習俗であれ、そういうこととは無関係な個人における倫理的判断であれ、言語行為、言葉というもの自体が既に相互に羞恥を保持していることへの認可、承認、了解の下で行われる道具であるということ、そしてその規約を受け入れた瞬間人類は多くの感覚的授受の能力を失って今日まで来ているという事実だけはしっかりと受け止めておく必要がある。
 だから哲学的に言えば相互に一切のプライヴァシーが必要ないのであれば、一切言語行為など必要ないということなのである。そして言葉とは相手とは常に百パーセント理解し合うことも出来なければ、その必要もないという事実自体を我々は暗黙の内に言語行為をすることによって示し合い確認し合ってもいるということである。

Sunday, March 21, 2010

〔羞恥と良心〕第十一章 徳と理

 私は「トラフィック・モメント(自由・責任・言語と偶像化)」という論文で次のように書いた。

「論語」に次のような一節がある。

 子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁

 子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。

 先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)

 言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られるということに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
 つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
 仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。
 しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあるということだ。
 それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。

 ここで私が考えたこととは孔子は果たして徳というものが最も大切なものであると考えて、先の言葉を残したのかどうかということである。
 例えば今徳のある人がいたとしよう。しかし彼には理ある言葉を吐くことが出来ないとしよう。従って私たちはその人から理ある言葉を聴くことが出来ないでいる。しかしにもかかわらず彼に対して徳があると考えていることというのは、ただ徳があるように思えるイメージでしかない。そのイメージとはどこか親しみやすさということを基準に我々は判断しているのだろう。しかしそれでは徳ということの本質が見え難い。
 徳があるかどうかということはだから、寧ろ何か理ある言葉を誰かが吐いて、その言葉の持つ理の力が、逆にそういう理ある言葉を吐く人に徳を付与するのである。つまり徳は理のないところでは本当は成立し得ないものの筈だ。しかし理がある言葉を吐き、その言葉の理で大勢を説得出来ると、今度はその人に対して私たちは固有の徳を付与し、次第に偶像化していく。そしてその偶像化された徳があたかも理を生み出すように錯覚するようになる。
 私は先日ある出版社とある友人に当てて次の文章(「徳と理」と題して)を送信した。

 先日作家の五木寛之氏が、テレビの「週刊テレビ新書」(テレビ東京、田勢康弘氏司会)に出演され、得々と「人間は徳がまずあって然る後理を作り出す」と語っておられた。
 しかし私はこの考えはあまり賛成することが出来ないという気持ちの方が、特に昨今は強いのだ。
 というのも徳とは一体何を指すのだろうかということがまず私の脳裏を掠める。
 理とは合理性とか、理性とか、要するに物事の仕組みである。しかし徳とは仁徳とか、道徳とか、要するにモラル的なことである。しかし最近のこの経済不況と、生活者の困窮という事態を受けて、多くのマスコミの論調は、経済優先主義とか、市場原理主義とかいう言葉が飛び交い、人間には私利私欲を追求するよりも大切なことがあるのだ、と多くの論客が発言するようになった。しかしそう語る彼らは私たち一般の庶民よりはいいギャラを貰い、自ら日比谷公園へ行って生活困窮者への介護活動などすることはない。
 徳という言葉は、確かに聞き触りがいいし、暖かいヒューマンな志から他者に対する友愛も誕生するということは理解出来る。
 しかしそう言いながら、私たちの生活は全て自己責任であり、本質的には他人は一切助けてはくれない、それが現実であることをどんなに慈悲深い人でも知っている。だから逆に徳という何だか得体の知れない人治主義よりは、ずっと理、つまり世の中の仕組み、あるいは物事の仕組みの方が信頼出来る。
 それに私も日々介護の仕事とか、あるいは生活困窮者たちの面倒を見るような活動をしていてこそ、いざという時活躍し得るだろうが、経験のない人間は足手まといである。こういうことは全て日頃の訓練によって非常時に役立つか否かは決する。人間にとって最も必要なものとは即実践力以外のものではない。だから日頃から報われなくても、日々努力している、又は既に活躍している分野の中でだけ我々は何らかの貢献を果たし得るのだ。
 そういう考えの下では寧ろ何だか判断するのに主観的な感情を交えずにすることの困難な徳とかよりは、理、つまり誰でも普遍的に理解し得る仕組みとか、法則の方がずっと信用出来ると私は思う。
 だから私は敢えて孔子とは逆に、理こそが徳とか、そういう付帯的な厳かさとか、温かさとかを生むことが出来るのであり、それをまず得てから、理を構成するという考えには賛同することが出来ないのである。(孔子も実際どういう考えだったか不明であるが)
 この社会でどのようなタイプの非正規社員でもフリーターでも、理解し得る作業手順とか、方法、仕事上での技術的ノウハウこそが、いざという時助けとなる(言葉がまず私たちにとって最低限且つ最大のノウハウだ)のであり、その形而下的実現こそが、徳とかそういう形而上的な完成度において求められるものを育む余裕を人の心に与えるのである。(だから徳をまず積めとのたまう人は生活力に余裕のある人だ)又だからこそ、私は哲学や論理学を支えている言葉というものをどこかで信頼している。つまり言葉は決して私と筆者が個人的知遇がない状態でも、私を裏切ることはしない。つまり言葉だけがそれを目にした時私たちを救うことが出来る。仮にその言葉を書いた人と私がじかに接した時その人格そのものからあまり得るものが仮になかったからと言って、その人が書いた文章から私が何らかの感銘を受けたということそのことに変わりはない。それこそが理というもの、言葉によって示される本質的な仕組みとか法則のことだが、それが実際に日比谷公園で炊き出しをして下される方々から得るレスキューとは違った形での精神的レスキューとなり得る。この違ったタイプのレスキューのどちらが尊いと規定することなど出来はしない性質のものである。
 私はそう思うのである。

 結局私は徳というものを孔子が最優先していたとは思えないのは、礼ということに孔子が拘ったのも、それが理のためだったのではないかと考えるからである。
 この孔子と儒教のことについては浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」が詳細に、孔子その人と、彼を受け継ぐ後代の人々による布教活動に関して述べているが、かなり布教していくプロセスにおいては孔子を気高い血筋の人間であるように偽装工作したりして、その知恵を絞って孔子生存中には果たし得なかった野望に対するリヴェンジの意識があって、極めて興味深い。
 私の先に引用した文章を送った19歳の青年T君は次のようなメールを返信してきてくれた。

 お送りいただいた文章、拝読いたしました。
 理と徳というのは難しいテーマですね。芸術的感性(永井均は、最近の日記で「変性感覚」という用語を使っていました)なんかは、理を超えているから徳の方に入るのかどうか・・・。そういえば、東浩紀が最近「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移のことを言っているようです。なお、孔子については、ぼくは『論語』は読んだのですが、けっこう中島義道に似ているという印象です。もちろん、形式的儀礼を嫌う中島氏と、礼(しきたり、儀礼)を重んじる孔子とは、全然違うわけですが。ひとつ事を進めるのにも時間がかかり、周囲の人間からは傍迷惑としか思われない孔子の「礼」への偏愛ぶりは、中島氏のいう「本来的偏食家」を思わせます。ところで、芸術における形式というのは理なのでしょうか。過剰な様式美への傾倒などは、理が自身を超え出ているようにも思われますね。

 そこで私は更に次のような返信をした。

 孔子の「論語」は私も読みましたが、中島氏的という指摘はとても面白いですね。
 しかし「論語」の解釈は多様で、私は孔子は必ずしも徳を最優先していたとはどうも思えないんですね。 例えば浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」において記述されたその弟子たちによる布教工作、孔子の人柄と、人生からするとそう思えない。ここら辺は私は論文「責任論」で詳しく触れました。

 また孔子の幾つかの言説は理を優先するのではないかということで、今執筆中の「自由と責任」には詳述しました。この論文も春先までには完成するでしょう。
 
 うーん、アートにおける様式美の追求は、理と言えるでしょうか?私自身のアーティストとしての経験から言わせて頂ければ、どちらかと言うと、アーティストが自分の流儀に拘る時というのは、寧ろ生活レヴェルの安定が需要と供給とによって不動点に達した時に思惟するものなので、逆に徳的ではないでしょうか? 
 つまりもし理に随順して制作するのなら、様式美という枠組みに囚われないで実践し、その都度新たな発見に勤しむということの方がスタンスとしてずっと潔いと私は思います。それでもいい作品を作り続けていくというのは実は一番大変なのですが。

 様式美というものはかなり戦略的なものなので、私はそう判断してT君にそう書き送ったが、実際形式美というと、それは理であるような気もするが、形式美そのものを追求していくと様式美になってしまう気が私にはするのである。形式美とは、形式とかそういうことを考えずに作品を作り続けることによってのみ得られる成果ではないだろうか?
 それを言うなら、言葉もそれが齎す効果だけを考えに入れて発するのではなく、その言葉が本当に自分の考えに根差しているのかどうかということにおいてその言葉が説得力を持つかどうかが決まると思うが、そのことにおいてそれを徳と呼ぶのなら、それは確かに必要かも知れない。
 しかしT君の指摘された東氏による「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移」という下りについても私は一言述べておきたいのだが、要するに地域住民同士の触れ合いということを言うなら、まさにそれは理によるものであると私は思う。その中でも特に親しい人同士のつきあいでは徳というものも生じるかも知れない。しかし逆に監視カメラについて言えば、それを監視する対象そのものを差別するようなこと(例えば社会的地位の高い人の多い地域ではそういうことをしないで、生活困窮者の多いところではそういう設置を多くするとかの)を未然に阻止するという観点からは確かにそれは理であるが、逆にその監視をするということの理由や動機という観点から言えば、それは徳の問題、つまり悪いこと(不徳なこと)をする人がいるから、そういう措置に踏み切るという意味では明らかに徳的なことである。

 付記 このT君との遣り取りとか、「トラフィック・モメント」http://trafficmoment.blogspot.com/内の記述など丁度今現在2010年3月22日から一年ほど前のことである。この論文は既にその時点で書いていたが、幾多の事情で今公開することとなった。T君も去年12月に成人し、今も私とツイッターその他で交流は続いている。
 この一年に私の中では若干の変化が起きている。尤もここで書いたことの大半は今でもそう信じている。
 その変化とは言葉の力とは、言葉の意味するところ、例えば空腹で死にそうな人が炊き出しの前へ行って「一口私にも恵んで下さい」と声をかけることにおいては、意味内容だ。だが親しい家族の前では言葉は意味内容以前に、やはり存在論的に声を掛け合うという行為の持つ意味である。それは口ごもっていても同じである。今日ALSの人たちにとっての生とは何かというレポートをNHKで見たが、知性的には何の問題もないのに、意思疎通に非情な困難を伴うという事態が生む諸問題は、ある部分では弧絶という状態的な悲劇である。その場合しかし家族がいて意思疎通でも相手の言うことがある程度想像出来る者同士であるという状況と、家族のいない人では全く異なっているということも言えると思う。私自身幸いその種の病に今のところかかっていないが、いざそうなったなら、家族を持たない者であるが故にかなり深刻な気持ちになるだろうということは容易に想像出来る。
 ある部分では人間は知性が邪魔をして、それ故に「死にたい」と思ってしまう。それは理を理解出来るからである。だが知性自体に障害のある人は、そこまで考えるのだろうか?ある部分では考えもするし、別のある部分では余り深刻には考えないかも知れない。だが徳ということを考える時我々はこの論文で私が書いたように、理という方法論から派生するという要素は多分にある、と私は今でも思っているが、実際存在する事、例えば一切の言語を理解する事が出来ない人間がいたとしても尚、そこには幸福感はあるかも知れない、という考えの方に私は傾きつつある。それがここ一年で私の中に生じた変化である。つまりたとえ言葉を持っていたとしても、全く他者を信頼することがなく、全く愛情というものが理解出来ない人間がいたとしたなら、それは真に理であり、幸福である、と言えるだろうか?
 逆に言葉が一切理解出来ない人間がいたとしても愛情や信頼という気持ちだけは理解出来るということはあり得るかも知れないとも思う。それをもし徳と呼ぶのなら、強ち五木氏の仰ることも間違いではない、という気持ちにも今では私は傾く。
 アートなどによる形式美ということは、その形式自体への我々の信頼による。例えば小説を読もうという気持ちになるのも我々が小説には作者がいて、彼らによる創作であり登場人物は実在の人物ではないが、リアリティを我々はそこに読み取ろうとする。それは一種の言語ゲームではあるが、そのゲームを只虚しいとは思わない。つまりそこに我々は作者と、自分、自分以外の読者ということを想定している。絵画作品の場合には、鑑賞者である自分と自分以外の鑑賞者、作者との構図にも置き換えられよう。そこが嘘とかデマということと、創作世界との関わりとの本質的違いである。
 痛い時にレスキューを他者に求める時私は明らかに他者を信頼している。つまりレスキューをしてくれる相手として認可している。そうでなければ私は一切他者に声を発することを断念しているだろう。その意味では言葉という理は、ある部分では、声を発することでも、文字を書くことでも、誰かそれを聴いてくれる人、読んでくれる人を想定している。つまりそういう能力保持者、能力可能者の存在を信じている。それをデリダ的に著者の死と捉えても、オースティンのようにパフォマティヴと捉えても同じことである。
 理には理だけで自立しているという強みは確かにあるが、事実上我々は理を理として捉える時点で既にその行為を徳として捉えてもいるのである。そしてその事実において我々は理である事の徳と、理がない形ででも存在論的には徳もあり得るかも知れないという存在自体への信頼を得ているのかも知れない。そこにこそ可能性を見出さずには生きていけない人もきっとおられることだろうし、その意味では本論の主張は全て反転させても尚、有効であるということを承知の上でのみ、私の一年前の主張は意味を持つのかも知れない。そしてこの問いは私にとって未だほんの始まりでしかない、ということだけは今現在確かである。

Friday, March 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十章 羞恥の正体

 私は前章で羞恥の正体についてある語彙を習得したプロセスに対するおぼろげな記憶に起因しているのではないかということを示した。本章ではそのことに関してもう少し詳しく立ち入ってみよう。
 私が仮説した「世界や宇宙という語彙が語る真実」というものについて少し説明すると、これはもっと適切には「世界や宇宙という語彙が語る真実」とするともっといいかも知れない。つまり私たちは「世界」とか「宇宙」という語彙を覚える前に既に自分なりに、それはまさにウィトゲンシュタインが考察し、しかし最終的には否定した私的言語のようなものとしてであるが(哲学者の永井均氏は私的言語があると考えておられる。「なぜ意識は実在しないのか」)、何となく大きな纏まりというものを聴覚映像的に理解することが出来、その枠組みを両親が会話する中で度々登場する「せ・か・い」とどうも一致するのだなと覚知していくのだ。そしてその一致させるものこそ「世界や宇宙という語彙が語る真実」であるというわけだ。しかも世界は例えば赤ん坊が寝ている部屋のように一定の範囲に区切られている。その境界はあるが、その全体というニュアンスは赤ん坊でも得ることが可能だろうし、また宇宙という語彙は、それを習得する以前的には、何らかの感覚において、例えば今自分がいる部屋の外にも「向こう」があり、その向こうの先には更にもっと向こうがあるという意味で、漠然とした無限に対する意識が既に芽生えているように思う。それがもう少し成長すると、学校で習う語彙の中に含まれている「う・ちゅ・う」という語彙に相当するのだなと気づくというわけだ。宇宙とは前章でも述べたように漠然とした空とか無に対する意識が生じさせる把握であろう。
 要するに言語習得以前的な(自分なりの)心像のことを私は「世界や宇宙という語彙が語る真実」としたいということだ。そしてそれは両親が会話しているという現実を目の当たりにすると、脳は刺激され、自分もその輪に加わりたいとそう感じるようになって、その心像と、語彙の発音とを必死になって結びつけようとするのだ。
 ものは動いたり、止まったりするし、最初からちっとも動かないものもある。その段階で動くけれど機械のような無機質なものと、私たちのように生暖かい生き物とは基本的に区別出来る。あるいはそれらの印象は、それぞれ動き方が緩やかであったり、激しかったり、要するに動きや止まりといったことに対する印象も記憶されているだろう。感覚的にストックされた印象はやがて形容詞を習得する際に語彙化するための心像として利用されるだろう。記憶は語彙化という過程を踏むことで徐々に整理されていくのだ。
 しかし大人たちはそんなことは無頓着に自分たちだけでどんどん会話を続けていく。そして時には和やかであるが、時には険悪な雰囲気に包まれて会話するだろう。
 しかし幼い私たちにとって険悪な雰囲気というのは会話内容、表情、会話の語調や音声の発し方において幼心にも即座に理解出来る。勿論それは言語的な理解以前的なもっと直観的な理解である。それは要するに漠然と意味としてではなく感覚的に「よくない状態」なのである。そしてそうやって把握された語彙において、私たちは一方でポジティヴな意味合いの語彙と、そうではなくネガティヴな意味合いの語彙があることに徐々に覚醒していく。そして前者を使用する時大人たちは何故かにこやかに、しかし後者を使用する時は、何故か曇った表情や語調で話すことに気づく。そして特に後者の場合には、もしそのように語られることを自分がしたり、そう表現される状況に自分があったりすると、自分は両親や大人から厭な顔をされたり、あるいはある時には強く叱られたり、あるいは気の毒がられたりするのだなということを直観的に理解するようになるのだ。特にそういう状態に自分があったり、そういう状態のことをしたりすると自分は叱られたりするだろうというような行為語彙や形容語彙を理解する時には多少の後ろめたさを感じて記憶するだろう。勿論悪い語彙は習得しやすい。それは外国人が罵倒するイディオムなら即座に自分の祖国とは違う国にいても即座に習得するのと同じである。
 つまりこの語彙を習得する際に附帯する状況に対する固有の印象こそが、私たちに固有の羞恥心、つまり何かを覚える際に伴う私的な事情(例えば両親とか上の兄弟たちの喧嘩とか、ずるい大人の態度とか)に対して、それは他者にはあまり明確には悟られたくはないという対外的な体裁的なこととして仄かな防衛心を介在させるのだ。
 あるいは最初は大人の耳からすれば明らかに間違った発音とか、使い方がちぐはぐな覚え方をしている場合もあるだろう。そういうことをも含めてどの様にある語彙を覚えていったかということは明確な形でではないにしても、どこかでぼんやりあまり芳しくない覚え方であったり、よく明確に最初から理解して覚えたりとか語彙毎に違いがあるだろう。
それは大人になってからも一々他者に告白することは滅多にないものの、自分では憶えているものである。そしてその語彙を聴くと一人で気恥ずかしい思いをしたり、やるせない気分になったりするのだ。
 つまり語彙習得のプロセスにおける習得事情の私秘性こそが羞恥の正体ではないかとここで私は提案したいのだ。しかしこの羞恥は表面的には記憶ということにおいても、他者全般が使用する基準を完全に把握した段階で一挙に忘却の彼方へと押しやられる。つまり他者一般と会話する際に意思疎通し合うためには然程重要ではなくなるからだ。私たちは要するに言葉の「仕組み」から言葉を「伝えるべき内容」へと問題意識(勿論無意識に内に、と言うか自動的な意識であり、説明し得る意識ではない)を移行させていくのだ。その際には私秘的な習得事情などお荷物なのだから。
 しかし誰でも一人になった時ふと想起に包まれる瞬間はあり、例えばその日帰宅してから、もし一人で生活している人なら(結婚していて、帰宅後も誰か他者がいる場合、寝ている時にしか基本的には一人になれないが)その日同僚や知人、友人と会話した時に使用した語彙そのものが急に気になりだし、想起は向こうからやってくる。そしてある瞬間に幼い頃には「その使い方はおかしいですよ」と母親に注意されたこととか、父親に「そういう言い方を親に対してはするな」とか言われたことをふと思い出したりするのだ。
 そしてそうやって覚えたこと自体を習得の仕方のニュアンスとして記憶そのものが疼くということがあるのかも知れない。ある語彙を聴くと何故か気恥ずかしい思いに囚われたり私たちはするのもその時その語彙を使わざるを得ない状況という現実を生きているからである。つまり現実に進行している事柄と昔にあったおぼろげな記憶とが刺激し合うのだ。それは奇妙な共鳴作用であるが、そこには羞恥が伴われている。そうだ、そういう風にして、つまり大人が話しているところをじっと観察することによって、(自分なりに)把握していた「世界や宇宙という語彙が語る真実」が一挙にある時それぞれに語彙に対応するようになるのである。また必死に何を伝え合っているのかということを把握しようとしているからこそ、大人の会話に加わりたいという気持ちがその一致させる作用と協同して言語習得はなされていくということなのだろう。

Saturday, February 27, 2010

〔羞恥と良心〕第九章 良心と羞恥とふりをすること

 我が国でも最近めっきり熟年離婚するカップルが増えてきた。そして老人もまた貴重な労働力として考えられてきた。その結果一つの仕事をずっと一生続けていくことよりも、勿論そういうタイプの人々もまた今でもいることはいるのだが、人生のしかもかなり年齢を積み重ねた後に転職したり、方向転換したりする人々も決して珍しくはなくなってきた。
 例えば熟年離婚と年齢が高くなってからの転職にはどこか共通性がある。それは何か長年勤しんできた努力にもかかわらず、そのことでは成果が得られないということに覚醒すること、しかもかなり後になって分かることにおいて共通している。
 例えば自分にとって向いていることというのはある意味ではある程度の時間を得て経てみなければ分からないものである。それは仕事に関してもそうであるし、愛情のレヴェルでの相性というものでもそうである。しかし人間は長い時間においてある程度人間関係的な意味では固定化した世界を築き上げる。そこで転職も離婚もそう容易なことではなくなるのである。人間という動物は社会的な動物であるので、築き上げられた人間関係というものはあくまでその人間の対他者、対社会としての誠実性によって構築されている。そこで「本当は自分にとっては自分はこういう人間なのだ。」と思っていても、尚外部世界、人間で言えば社会とか他者一般からすれば「あなたはこういう人間です。」と規定されやすい部分というものはあり、またその実像というものは他人一般がその人間を見るステレオタイプにしか過ぎないのであるが、同時に全く真実がないとも言えないものである。
 そこで人間はディレンマに陥るのだ。他人とか世間とか社会一般が自己を規定する自己の資質を受け入れて生きてゆくか、そうではなく内的な自己の選択に忠実に生きていくか、そのどちらがその個人にとって良質の選択であるかは個人毎しかもケース毎に異なり、一律に自分の内部、世間一般の評定どちらかが正しいとは言えない。だから自分の内的な願望とか欲求が正しい場合もあればそうではない場合もあるとしか言えない。
 しかし年齢が高くなってからの転職とか離婚といったケースでは世間一般による自己裁定に対して随順して生活してきた人間により多く起るケースであるとは言えよう。つまり自己真意に悖る形で人生を選択してきた、とある日はたと気付くというわけである。しかしその決断を鈍らせるものとして世間体とか社会一般の常識とか、要するに私の見るところ勇気ある決断を躊躇させる羞恥感情というものが立ちはだかるように思われる。そしてこの羞恥感情というものがどこかで自己と自己を取り巻く社会が一体化して構築してきたそれまでの自己に齎される恩恵というものに対する配慮と、それを一旦全て反故にしてでも冒険に打って出ることを抑制する良心、しかもどちらかと言うと保守的で逸脱を恐れる安泰希求的な小市民的良心が改変に伴う痛みを痛烈に告発し、潔い決断を鈍らせるのである。しかしこの冒険に踏み切ることに伴う逡巡というものが意味のない心理であるとは決して言えない。というのも人間はこの保守安泰的な心理によって日頃多くの不祥事とか危機を招き寄せることを予防しているからである。だからこの失敗と挫折を未然に防止する保守安泰的な判断は政治的でもそうであるし、個人人生設計においても極めて大きな役割を果たす。簡単に言えば夢を諦めることから人生の現実はスタートするからである。しかしある一定の年齢を超えると、そのことに対する懐疑もまた大きく頭を擡げてくるのである。そこで改革とか改変とか人生の一大決心という奴がかなりの高齢になってから押し寄せてくるのである。そしてその時良心というものが羞恥の味方をせずに、今度は人生全体を彩る人生観の味方をするのだ。(良心が保守安泰的な時には小心の味方をし、人生の転機においては勇気の味方をする)例えば二人の異性に惹かれることというのは、ある意味では倫理的にはよくないことだとされる。しかし同時にそういうインモラルなことばかりを追究することはよくないことであると知りつつも、時にはそういう選択の方が結果的には福を齎す場合もある。そしてそれはある程度結果論であるのだが、離婚して正解の場合もあるし、転職して正解の場合もある。(勿論失敗の場合もあるし、その方がずっと多いだろうけれど。)そして本当は一度も離婚することなく、一生一人の伴侶とうまくやってゆき、しかも幸福が追究出来ればそれが一番よいであろう。しかし人生というものはそう必ず巧くゆくものではなく、寧ろ失敗と挫折の方がよほど多く待ち受けているものである。そういう意味では一回くらい小さな失敗をしたり、挫折をしたりした人間をこそ基準とした人生哲学というものがあってもよい、と私は思うのである。その時私たちは人間は他者に対して羨んだり、嫉妬したり、妬んだり、要するに邪悪な心理を必ずしも完全には払拭することなど不可能であるという立脚点に立った考察というものが必要とされていると私は思うのである。その際に羞恥感情とそれ自体の揺れ動きという現象(それは恐らく人間の自信のなさが引き起こすものであると思われるが)、そして羞恥がいい意味でも悪い意味でも良心と結託しているという事態を直視すべきであると思うのである。
 そこで本論ではまず羞恥の揺れ動きという事態について暫く考えてみようと思う
 例えば我々の社会には通常では普通に結婚して子供を儲け、幸福を追求出来るのであれば、それが一番いいという倫理観もあるが、実際には一度も結婚することなく終わる人生というものもあるし、また性同一性障害等によって通常の性生活とか(どういうものが通常と言うのか私は知らないが、もしそんなものがあったとしての話なのだが)結婚観、家庭観があったとしてであるが、そういうものから逸脱して生活する人も大勢いる。あるいは通常のエリートコースからは逸脱した職業、つまり青少年の教育的観点からはあまり推奨されることの少ない職業というものも、それは健康管理上から言ってもそうだし、道徳的観点から言ってもそうだが、要するに通常余り表立っては自己の職業を他者に公言することを自ら憚る職種のこの世の中には沢山ある。(本当はこういう世間体のようなことは下らないことであると知りつつ、何故か抱いてしまうこともある)しかし実際そういう非順当的な要素を自分の人生に持っている人をあらゆるレヴェルから考慮すると、ひょっとすると借金があるとか、前科があるとか、要するにそういうものの皆無で清廉潔白で汚点も問題点も苦悩もない真っ白な人生というものは殆ど無いに等しいと私は思う。するとそういう脛に傷を持つなどと言ったら多少浪花節的になるが、不完全な理想からはほど遠いという事態こそ人生の最もありふれた実像ということになりはしないだろうか?しかし同時にそういう不完全で理想からほど遠い状態にある自分の事情とか秘密というものは往々にしてどんなに親しい他者にも公言することを憚ることも多いものである。そこに我々が本来的に携えている羞恥感情というものがある。そしてその羞恥感情を誘引するものとは意外にも理性的判断によってその他者が自分に対する心象を悪くしないように配慮するある種の策略であり、それは保守安泰希求的な心的様相ではあるものの、寧ろ良心の叫びでもあるのである。人間は自分はそうではないが、どこかで本来自分はこうあるのが一番いい筈だという倫理的にも能力的にもそういう自分独自に理想というものを持っているものである。それは当然人生の価値観であるから、個人毎に異なる。寧ろこの実現されていない理想に対する考えこそその人間の信条であり、思想であると言って差し支えない。この非実現的理想への思念の仕方こそ、その人間の行動パターンとか危機的状況に対する対処の仕方とか、要するにいざという時のその人間の決断の仕方、そしてその成果(よいものであれ、悪いものであれ)を決定するのである。
 ハイデッガーがしきりと「存在と時間」で本来性とか非本来性と呼ぶものとは実は、この自分はそうではないのだが、本来はこうあるべきであり、またもし理想の状態であれば、こうあるべきだという、ある種の思い込み、こう言ってよければ幻想のことについての叙述ではないかと私は思うのである。このテーゼは実はサルトルもまた「存在と無」で「それであらぬというありかたで私がそれである」という謂い(表現)によっても指し示されている。つまりサルトルは「本当ならこうあるべき筈なのに、事実としては常に自分はそうではない」現実の側から見据えてハイデッガーの言う本来性について述べているのである。この理想として設定したある種の「あるべき姿」とは私の理想であるとただそう考えるが、私の考えではそれを極端に逸脱すると、それは最早その時は私が私ではなくなる、という臨界値設定基準であるような気がするのである。それは恐らく「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」という一線であると思われるのだ。そしてその臨界値というものは当然のことながら、その設定されるものから設定値に至るまで個人毎に異なっている。それは当然であろう。何故なら我々一人一人が立たされた環境から生まれた時代の状況から、個人の性格、行動してきた軌跡、要するに経験や記憶の全てが異なるからである。そしてその「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」ということは「自分で自分が許せない」からそれをもししたとしたら一生後悔が残るということであり、要するに羞恥感情であり同時に良心でもあるのだ。そして社会に迷惑をかけずに真っ当に生きていく知恵として考えるなら、その臨界値設定とその基準のあり方そのものは良質の良心であると言えるだろう。そしてその羞恥感情もある程度必要不可欠のものであると言えるだろう。
 しかし厄介なことに人間という動物は他の多くの動物同様良心に従ってのみ生きることに関しては苦痛に感じ、あるいは時には気楽に考えなければ生きていけないくらいの日常的ストレスをも請負って生きている。そこでレジャーとか息抜きとか娯楽とかが要求される。聴きたい音楽もクラシックが素晴らしい音楽であると知っていても、そればかりでは面白みがないということで全く異なったジャンルの純正統的な音楽以外のものへも嗜好傾向を持つようになる。時にはパチンコもしたいし、ギャンブルもしたいという想念が沸く。
 この日常的な安穏とした倦怠的で退屈な連鎖を打ち破りたいという欲求は人間では極めて重要な心的様相である。これを私は「ギャンブル的感性」と呼んでいる。ギャンブル的感性というものは、その努力によって報われる可能性が報われない可能性よりも甚だ大きい場合、それでも尚もし報われた時には一挙に明るい未来が開けるという一縷の望みに支えられた綱渡り的な賭けのことを言うのだ。
 例えばそれは必ずしも今している仕事が自分に不向きで嫌いだから止めようというような単純な決断に潜む心理とは言えない。寧ろその逆で自分でも気がつかない自分の能力に賭けてみるという冒険に顕著に見られる心理である。
 例えば再び職業のことに立ち戻って考えてみよう。世の中には自分にとって向いていてしかもそれが好きで、世の中もまた彼にはその仕事が最も向いていると感じてその職業で生活を成り立たせている所謂幸福な人の方が実際は少ない。寧ろ殆どの人が「自分は本当はこういう職業の方が向いているし、好きなのだが、社会が自分がそう自分のことを思う考えを受けて入れてくれないから仕方なしに今の職業を選択しているのだ。」と告白する人の方がずっと多いに違いない。
 例えば世の中というものはあながち自分が得意であるからその職業で生活してゆけるというものでもない。一番重要なことというのは社会全体が自分がする業務を価値あるものとして認めてくれるかというレヴェルでの判断が、その仕事で世間を渡っていけるか否かを決する。だからもし「何故今の仕事を選択したのですか?」と問われれば、「寧ろ自分では好きでないのだけれど、社会が自分に対してその職能を求めるからそれに応じて今の職業を選択しているのだ。」と答える人の方が私はずっと多いと思う。また自分で得意だと思う能力と社会がその人に対してその業務が向いていると判断する能力とは必ずしも一致しないどころか、寧ろずれているケースの方がずっと多いだろう。だからいい仕事をする人で、それが一番自分に向いていると感じられる人というのは極めて幸福なケースであると言えるだろう。そしてまたこれも言えることなのだが、自分にとって向いていると思ったり、得意だと思ったりしていることと、その能力が正当に評価されるという事態は全く異なっていることであり、それが一致することの方が少ない。そして社会がその人の能力を正当に評価するからこそ、自分でもその職務が向いているのだ、と考えるようになるケースの方がずっと多いであろう。
 そしてその事実は社会というものが自己というものの存在理由を構築するのだ、ということと、それに受け答えねばというような責務的な感情とか、対社会的な奉仕の倫理とかを醸成するものが、あながち自分の内部の欲求からではなく、外部的な状況とか時代的な要請とかに応じたその都度の自分の自己保存欲動的な判断によって形成されたものとして自己の良心とか羞恥(それ以上逸脱してはまずいと自分でも思う)が位置付けられる可能性を示唆している。つまり自分本来のものであったと自分で勝手に思っていたものの大半が実は自分が対社会的に対処してきた自分なりの対処法に応じて形成されたものであるという事態は、実は本来自分という観念そのものは幻想によってのみ支えられているということを物語っている。
 例えば子供を儲けるという家庭創造行為は実は何も自分の努力によって成し遂げられた能力ではない。それは遺伝的性質としてたまたま自分にも備わっていた能力であるに過ぎない。勿論子供を作り育てることが可能な環境それ自体を構築することはそれで一つ能力であり、ある努力の成果であるが、子供を儲ける能力そのものは自分の努力によってどうなるものではない。それは遺伝的身体的な能力に支えられている部分であり、意志的努力では逆にどうにもならないことである。しかししばしば人間はその能力が宗教的表現を赦して貰えば、「神によって付与された」とか「神の思し召しである」とか「神のお恵みによる」といった謙虚な気持ちになかなかならないで、自分の能力であると考え勝ちなものなのだ。そこで私たちは自分とは一体何なのか、という哲学的命題に再び立ち戻ることになる。
 自分が自分では向いていると思っていることが社会では認可されないディレンマを韓国人は「ハン」と呼ぶそうであるが、そのような心的様相を招来する事態とは実際的には如何ともし難い現実である。そこで我々は何故そうなのだろうか、何故自分の考えるように社会は自分を認めてくれないのだろうか、と考えるようになる。その時哲学的問いが自分にとって切実になる。そして今まで自分が考えてきた羞恥感情がただ単に自己の側から自己に対して推し着せた幻想でしかなかったのではないか、あるいは自己の変化とか日常的な惰性を破壊することで齎される日常的な生活の変化に対する恐怖と不安が齎した小心でしかないのではないかという疑念が、つまり寧ろ自分にとって大切だと自分で思っていただけのことで、そのことで寧ろ自分のあらゆる可能性を閉じ込めてきただけのことではなかったのだろうか?といった思念が浮上してくるのだ。そういう想念が沸々と湧き起るようになるのだ。その時私たちは初めて考える。日常的な安穏と変化のなさをどうにかしよう、と。その時変化のない日常を激変させる事態の到来に対して自然と身構える保守的安泰希求の打破を要求する。それこそがギャンブル的感性の活躍する場が設定されたことを意味する。
 ギャンブル的感性というものはある意味では保守安泰希求型の良心と安穏とした日常を受容している羞恥に対する疑念であり、同時にそれをぶち破ろうとする内的な攻撃的欲求に他ならない。
 人間には本質的に他者に対して身構えるという性質もある。特によくその人間の性格とか性質を把握しきっていない他人に対してはそうである。しかしそのような構えは徐々にその他人に対する信頼感が醸成されるに従って解除されていく。勿論その人間の実像を知るに反比例して武装を解除することに臆する場合もあるにはある。しかし通常実像を知りたいと望む心理にはその他者をどこかで信用してもいるのである。しかしそれをすることが出来ない人物に対して我々は通常いつまでたっても武装解除しない。その時我々は対他的攻撃欲求を顕在化させているのだ。日常性の打破と極度の生活の変化に対する怯えに対しても、実はこの攻撃欲求は役に立つのだ。

 その女性は結婚した。そして夫と共に生活する道を選んだ。彼女は愛しているふりをしていた。しかし愛してしまった。愛してしまった以上は身を焦がすほど接近することを求め始める。求め始めると所有したくなる。しかし所有は所詮不可能なので、常に距離が感じられる。他性認識の発生である。距離が彼女の愛を求めることを更に促す。求めることは求めるふりをすることから始まる。求めるふりをすることが愛するふりをすることになる。だから何かをすることとは、何かをするふりをすることと寸分違わないのだ。ふりをすることは示すことであり、それを受け取る者がその通りに受け取ることを望むことである。自己の本意とその本意の外面的現れは一致しないこともあるかも知れないが、一致しないことばかりであるということもまたあり得ない。だから愛しているから愛しているふりをすることとなるが、愛しているふりをすると、愛することともなるのだ。行為の持続がその行為を望むこととなるのだ。愛するふりをすることの下手な者は、愛しているが、そのふりをすることが出来ない(嬉しい時に嬉しい表情が出来ない。)こともあるし、逆にそれが上手な者は愛していないのに、そのふりをすることがどうということもないのかも知れないが、表面だけのふりは長くは続かない。それを見破る者が必ず現れるからである。だから表面的な取り繕いは他者に対する社交辞令的な行為と見做される。
 憂鬱な態度、刺々しい性格といったものも、その人間の身体病理、例えば胃や肝臓を治すとか、痔を治すとか改善する部分があるからそういう風であるなら、心と身体は一繋がりである。だから逆に身体病理を抱えているのに、晴れやかな顔をするのは、偽装となる。それ以外の偽装は相手を快く思っていないのに、好感を抱いたふりすることがよく見受けられる。しかしそれを持続してゆくとストレスが溜まり、一気に爆発してしまうであろう。だから逆に楽しいのににこにこしないで、ぶすっとした態度を採っていると、段々と本当に楽しくなくなるものなのだ。だから「ふりをする」ことは、それが本意であるのなら、不可欠な大切な行為である。それは意思表示なのである。意思表示はその時の心の内容を伝える意志の表示であると同時に、その表示が真意に基づくものであることの態度表明である。それは表情と見つめ合うことの中で取り交わされる。
 ただ「ふりをする」ことは、職務上のマナーである場合、偽装であるということも考えられる。例えば幼児なら両親に連れられてどこかの商店に入店した時に、にこやかに来客に笑顔で接する店員に対して「ねえ、あのお姉さん笑っていたよ。あの人僕のこと好きなの?」などと両親に問い詰めるかも知れない。(尤も私の幼い頃はそういう素直な無垢な子供が多かったが、今時の子供はテレビ等からの影響があって、そのような純真な感慨は持てないのかも知れないが。)しかし職務上のマナーはたとえ笑顔でも「ふりをする」ことであり、その人間の真心であるかどうか断言することは極めて難しい。たとえ消費者金融の事務職員さえ、金を借りに来る客に愛想よく笑顔で接するに違いない。
 勿論今の例は極端なケースである。しかし社会は偽装であれ本意であれ、見かけを重視する。それが消費社会の現実である。そのことについて少し考えてみよう。
 例えば私たちは皆顔だけは晒して生きている。他人同士がアイデンティティーを確認し合えるのは、顔だけだからである(直に接する時の場合)しかし顔を見て笑顔で接する人当たりのよい人間全てが善行に励んでいるわけではない、というシビアな事実を私たちは知っており、悪人がいい人のふりをすることは一方で悪事を働いていても尚対人関係上での礼儀や友愛的態度とは異なっているという真実を我々に語っている。だから一方で銀行やコンビニ、CDショップは盗難防止、防犯措置としてヴィデオ・カメラやスキャンを設置しているが、顔を隠すことはそれだけで犯罪者の行為(挙動不審)とされる。
 確かに顔を晒していてもただいい人の「ふりをする」だけの場合もあるが、その真偽を問うことを他人同士ではしないのが社会の通常の有様である。社会ではだから建前の方が重要なのだ。見かけが重要なのだ。もし悪行を重ねる人がいて、その人の知人が、挨拶もきちんとして愛想もよく親切な人が仮に逮捕されると、決まって「あんないい人が信じられない。」とテレビカメラの前の取材クルーに対して返答する場面が日常でもよく見られるが、その知人が犯罪者の日常に関して善人であると思うことそれ自体は間違いではないのだ。社会にとって人間の行為が悪なのであって、性格とか人間性とかはまた別のことなのだ。このことはルソーは「社会契約論」で社会人としての責務は人間性からではなく、奉仕の義務とその行為から評価すべきであるとしている主張にも繋がる。つまり性格が悪い人が社会的には善行をすることもあれば、逆に性格のよい人が悪行をすることもある、と考えた方が自然なのだ。すると「ふりをする」ことというのは意図的ではなく、一つ一つの行為の振舞いが個別の真実であり、真相であり、それら全てを統合した評定というものは又別であるということ、そして一々自分の全ての行動を見ず知らずの他人に知って貰うことは出来ないからこそ第一印象が大切であったりすることもあるし、顔つきや表情だけではその人間の全ては推し量れないが、表情くらいは真摯な態度で他人に接することが西欧社会では特に求められている(introvertよりもextrovertな真実を欧米社会では重要視する面がある。)という現実の根拠が示されるのである。(日本人はこういう社会倫理は欧米とは少し異なっているが)又だからこそ他人に全てを告白し、報告する必要もなければ、他人のプライヴァシーを詮索することはよくないことである、と社会ではされているのだ。しかし「ふりをする」行為が意図的ではなく、自然であることの方が多いことはここではっきりしたが(悪人の日常的な善人振りは技とではない。)人間は職業的な責務として例えばサラ金の事務所の職員がにこやかに債務者になる可能性のある客に応対するような偽装は、そうそう持続出来るものでもない。又通り一遍の挨拶程度の社交辞令だけで全ての人間関係を裁くことも又人間には出来るものではない。それは職務中でもそうだし、地域コミュニティーにおける人間関係でもそうである。だから逆に「ふりをする」ことも「真意を告げる」ことも両方その人間の真意であると考えた方が分かりやすいのだ。それは心の内容ということなのだ。人間の内面は外面から推察可能なのだ。顔が直に露出しているという事実がそれを証明している。しかし同時に心の内容の様相は理解出来ても、全てのデータを他人が推し量ることは不可能なのだ。ただ今の瞬間においてこの人は真剣に仕事をしているとか、物思いに耽っているとか、何かを思い出そうとしているかとかが了解されるだけのことである。行為とはその行為のための意識を集中させていることだからだ。だからこそ心とは心の内容であり、心の内容は外面にも表出するということなのだ。
 よって今私が心の内容を思い描くことそのこと自体は、ついさっきまでの自分の心の内容を、つまり過去の自分の関心と志向性(例えば今の私で言えば、このように文章を書くことで何かを残したいという思いとその何かという心の内容)なのである。しかし私の心の内容とは何かと今思い始める時、必ずついさっきまでの私の心の内容が関心対象として浮上するのだ。そのように過去の自分の心の在り様自体を対象化する志向性が、私の心の内容の中でも重要な意識であるということは間違いない。これを反省意識と呼ぶべきか、哲学的思考と呼ぶべきかはともかくとして。
 例えば社会人は(勿論学生でもよいのだが)テレビを見ている時、その番組の放送内容に関して刻々と感想を抱きつつ、内容的に何かを考えている。例えばある政治家の死去のニュースを見てその政治家の在りし日の姿を映像的に想起したり、自分の死んだ伯父のことを思い出したり、そう言えば最近見ないあの役者はどうなったかとか次々と連想を働かせる。そしてこうやって自己分析する私と、自己分析される私の次々と連想を働かせる私の心の内容は、対自的認識であると同時に即自的認識であり、私の考えとその私の考えに対するもう一つの私の考えという無限後退を余儀なくさせるような関係それ自体を綜合的に見た時に生ずる判断によって形成された像が「人格」となり、今私が自分なりに見たことによって判断する像の内容が今私にとっての私の「人格の内容」に他ならない。それは内容として位置付けられた結果である。後付作用による判断である。
 明日彼女に会えるという場合、彼女の姿を想像することは、過去の彼女のデータを通した追想である。しかしその全体像を裏切るように明日あなたが彼女と会うと彼女はそれまでの髪型を変えてあなたの前に現れるかも知れない。この場合、最初に彼女の顔を想像した時は彼女の顔の具体的想起が心の内容だが、「いや、ひょっとすると明日会う彼女は髪型を変えているかも知れない。」と思い次の瞬間、ロングヘアのいつもの彼女にショートカットの彼女を重ね合わせる。そのロングヘアの想起からショートカットの想像へと転換する一瞬、彼女の具体的像は消え失せ、意識の死が挿入される。つまり意識転換する時には、必ず具体的像に対する想起的集中が途切れ、その想起持続する「心の内容」それ自体を俯瞰するもう一人の客観的思念が浮上する。外在主義的な認識の登場である。その瞬間具体的像は消え失せ、抽象的思念が支配する。何かを具体的に想起する時、思念は純粋な志向性に裏打ちされているが、一旦その思念を打ち消すように客観的に思考する時、対対象的な志向性は途切れ、その「心の内容」を鏡に映して確認するように「心の内容」それ自体を反省する。それは日常的な自分の思念自体に対する思念である。しかし何かを想起する時には、必ず過去に見た姿の記憶が呼び出されるが、同時に眼を瞑って想念するのでない限り必ず今現在私が見る、例えば目の前のスタンドとかパソコンとかと、過去想起映像とが同時に「心の内容」に浮上している。その時過去と現在の、つまり記憶映像と現在知覚の観念連合が生じる。現実認識+過去想起である。ここには現実に対する認知と判断(前者)+過去現実に対する認識(後者)の複雑な様相が展開されている。
 私が他者に自己の本意を伝えようとする場合、その他者に私が好感を持っている場合、その他者に関する過去映像がフラッシュバックすることは少なく、私はその他者の瞳を見つめて話すだろう。そしてその他者に対して好感を抱いていることの「ふりをする」ことは非意図的になるだろう。しかし仮に今相対している他者に対して私が嫌悪を抱いている場合、私はその他者に纏わる嫌な思い出に纏わる過去映像を記憶として呼び覚ましているだろう。その時私は出来る限り嫌な他者に対して社交辞令として嫌な態度を見せまいとして好感を抱いている「ふりをする」であろう。そしてどこかその他者に対して瞳を見つめる行為もぎこちなく、敢えて直視することを差し控えようと無意識に私は考えている。つまり人間にはその対象に対して好感を抱いている場合は非意図的であるが、嫌悪の情を抱いている場合、意図的に振舞うのだ。つまり「ふりをする」ことが意図的な場合というのは嫌悪の情を抱いていたり、非常の場合で緊張していたり、要するに気を張っていなければならない状況下の場合なのである。だから銀行のATMで他人の口座から金を引き出そうとしている悪事を働く人間の心理は、写ったカメラに顔を向けないように工夫しながらも、それが悪事であるとばれないように気を配り、出来る限り通常の風を装うだろう。要するに普通の「ふりをする」のだ。しかしこのことはこのような犯罪の場面での人間の心理ばかりではなく、日常的な人間関係、家族内の感情に関しても起り得るのである。
 
 ここでひとまずその心理の分析をお預けにして、今度はその「普通のふりをする」ことで購わなければならない我々一人一人の人生における意識転換をある例を挙げて考えてみようと思う。
 彼女は結婚した。そして夫と共に生活するようになる。子供も生まれる。彼女はごく平凡で倹しいささやかな生活にも満足するようになるし、そのことで得る幸福を享受するようになる。そしてそれを幸福であると自己規定し、幸福とはそういうものだ、と概念規定するようになる。そして当然のことながら、幸せであるとはこういう振る舞いであるという世間一般の振る舞い(表情とか態度とか言動の全て)をする。要するに幸せである「ふりをする」。その振舞うという事態がどういう意味を持っているのかということに関して彼女は別段問い掛けたりはしない。そのことに取り敢えずは意味を見出せないからである。
 しかし彼女の前に、それまで自分でも気付くことのなかった全く自分にとっても予想外な夫にはない魅力を持つ、と自分でも思われる男性が現れたとしよう。彼女は結婚して子供もいるのだから、彼女の内面のこのような自分でも驚くような恋心とは、今まで持った経験がないのだから形容出来よう筈もない。しかしこの思いというものを彼女は何が何でも抑えつけねばならないのだろうか?そうではないだろう。確かに彼女はその男性に惹かれて夫も子供も何もかも振り捨ててその男性との生活を手に入れることが正しいとは言えまい。しかしだからと言って、内面のときめきの全てを断ち切ってしまわなければいけない、とも言い切れない。そのように強制することは、業務上致し方なく無礼な客に対しても笑顔で接客するような業種の人に、内面でも無礼な客に対しても好感を抱けと言って脅迫するのと同じことである。
 今のところ夫に不満はない。しかも夫と子供のいる生活に対してもそうである。だから新たに現れた魅力的な男性と、これまでの家庭とを天秤にかけて後者を選ぶことは社会的見識上では順当なことと言えよう。しかしにもかかわらず、この女性が仮に魅力的な男性との生活の方を選んだとしても、それをただちに正しくはない誤った選択であった、間違った決断であったともまた言えない。例えば義務教育とか、大学生くらいまでの教育機関ではこのような生き方を奨励することは殆どあり得ないであろう。しかしこのような殆ど突飛な選択がもしあったとしても(事実世の中にはこういうケースも実は沢山あるのだけれど)それを間違っているとは言えない部分にこそ我々は人生の不可思議を見出すのである。
 例えば人を殺すことはいけないことである。しかし同じことが戦場に立たされた兵士に言えるだろうか?例えばこちらから率先して敵兵に突撃することなく、ただ向こうからの攻撃を待っているある格別戦争に対して肯定的ではない兵士がいるとしよう。彼はだからもし出来得ることならば一人の敵兵も殺すことなく兵役義務を全うすることが出来ればよいとさえ考えている、つまり平常時であるなら寧ろ平和主義者と言ってもよいタイプである。しかしある時突発的に彼の眼前に敵兵が現れ、向こうがこちらに向かって銃口を突きつけ、今まさにこちら目掛けて射撃しようとしているとしよう。この時彼は人を殺したくはないのだから、どんなに向こうから攻撃されても、尚一発の銃弾も発射しないという選択肢も当然残されている。しかし、もしそうしたなら間違いなく彼は射殺されてしまうだろう。この場合彼は恐らく咄嗟の判断に自分の身を委ねるであろう。この場合彼は考えている暇はないのだから。(このことは先述した。)
世の中には正解が幾つも存在し、その中のどれが一番正しいかというような判断を必ずしも下せないものの方が、たった一つの正解しかないものよりもずっと多い。
 また何かを選んでそのことによって結果的に引き起こされた事態を通してしか何事も判断することは出来ない。しかしまた同時に仮に何かを選択したとして、そのことによって引き起こされた結果が芳しいものでなかったとしても尚、その選択が正しくなかったとは言えないこともある。
 そのことに関して哲学的に追究している映画監督がクリント・イーストウッドである。彼は自身が主演を努める映画を監督することもあれば(「センチメンタル・アドヴェンチャー」、「許されざる者」、「マディソン群の橋」、「ミリオンダラー・ベイビー」)、そうではなく他の役者を主演させて自身は監督に徹する(「バード」、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」)こともある。彼にとって行為選択というものは、そのことで結果的に取り返しのつかないことになったとしても尚意味あるものであるという認識を持つことがある、という思想に裏打ちされている。それは肺病を煩ったシンガーへの夢を捨て切れない中年男が彼を慕い憧れる甥を伴って旅をするロード・ムーヴィー「センチメンタル・アドヴェンチャー」においてもそうだし、やはり肺結核で若くしてこの世を去る不世出のアルト・サックス・プレイヤーのチャーリー・パーカーが選ぶ殆ど医師の診断を受けつけないような破天荒な生活態度(「バード」)もそうだし、一度は完全に足を洗った殺し屋ガンマンが友人たちへの復讐に燃えて再び無法者の人生へと立ち返る「許されざる者」もうそうだし、たった一晩の情事はそれが社会倫理的には許されないことであると分かっているにもかかわらず一晩の恋に燃える男と女もそうだ。(「マディソン群の橋」)いつかは自分が、倒して生涯障害を背負わせるかも知れないような痛手をずっと負わせ続けてきてその見返りとして倒されるかも知れないという可能性がありつつも尚、次の勝利を求めて止まない女性ボクサー(結局最後は汚い相手に打ち負かされ全身麻痺になって安楽死をトレーナー兼マネージャーに求め、それを恩人に受け入れて貰い安楽死する。(「ミリオンダラー・ベイビー」)、そして必ず負けて最後は戦死することが分かっているのに最後まで敵兵に対して最大の攻撃と防御を模索する中将の生き方を示すことにそれは表れている。(「硫黄島からの手紙」)、そのどれを取っても生物学的な種の生存戦略的意味合いからは矛盾だらけの行動を彼は描いてきた。そこにはある意味では人間だけが考えることの出来るとされる「生きることの意味」という哲学が脈打っていることの証拠だ。
 人間の行為とか行動は自然に、殆ど何も考えないようにしている場合は、意図的ではなく、無意識であり、そのことに関して取り立てて問う必要のないと知っているのであり、人生とは恐らくそのような問う意味のある行為や行動の方がずっと少ない。しかし同時にだからこそその結果死ぬことになっても尚、あるいはもしかしたら死の危険があっても尚、チャレンジし続けることの方に、ただ保守安泰希求的な安全だけを願うことよりも意味がある、と捉えることの出来る存在である。イーストウッド監督はそのことを言いたいがために映画作品を作り続けているようにさえ思われる。そしてこのイーストウッド映画哲学は我々の人生にも当て嵌まることなのだ。もし一々説明を要する必要のない行為だけで人生が成り立っているのなら、そもそも哲学のような学問など要らない。しかし私たちは問うことばかりでは先へは進めないが、先に進むだけが人生ではない、という風にも考える。そしてその時初めて普段は問い掛けもしなかった行為(その連鎖こそが生活という実態なのだが)をただそういう風に行為しているのではなく、問うことの意味を放棄している、あるいは放棄する「ふりをしている」自分を発見するのである。だからこそ「ふりをする」行為が実際はことの他多いにもかかわらず、それをころりと忘れていて、一旦そのことに対して自覚的にならなければならない必要性から我々は、「ふりをする」ことを自らの行動や考え(それもまたそのように「思おうとしている」、「考えようとしている」という風にも捉えられるのだから)を一回全て言語的に、あるいはそれを通して人生全体における意味として捉え直すことをしようと考えるのだ。そしてその時、我々の日常の何気ない行為の全てが、ライル(哲学者)の言うようにただ「何かをする」のではなく、「何かをする<ふりをする>」行為の連鎖であると気付くのだ。そのことに対する覚醒は実は哲学的な反省意識がなければなされないのだ。そしてそれは対自的な(即自的ではない)認識に基づいているのである。つまりあの時私は自分の気持ちに従ってああいう風にしたからこそ、あの行為が成し遂げられたのだ、とか、ある人に自分の気持ちを告白したからこそ今友人であり、あるいは恋人であり、伴侶である、あるいは逆に交際することなく終えたのであり、要するに自分の意図したことによる成功例を常に判例としながら我々は一個一個の行為を積み重ねているのである。それはある程度経験的事実というデータの暗黙の有効利用とも言えるのである。そしてある行為が自覚的であり、意図的であるかどうかの判定基準とは、概して非意図的であるような経験的判断ではない決断に見られる心的様相とは、習慣的、慣習的である行為の連鎖に対する懐疑が呼び起こしたものである、という側面があり、つまりそういう惰性的な人生の時間のない人間には意図的な決断というものもまた不必要である、ということである。人生の大きな転機というようなものは概して非意図的行為の連鎖、つまり慣れという惰性に埋没している生活実態があればこそ、その反省から生み出されるものなのだ。そしてその惰性に対する反省というものは、実は惰性的にしてきた行為の連鎖を、もう一度ただ「する」ことなのではなく、する「ふりをする」というレヴェルまで行為の意味を捉え返す必要があるのである。何故なら「ふりをする」という行為はあくまで意図的で、敢えてする行為だからである。
 だから嬉しいから嬉しい表情をする、ということは通常の認識である。しかし逆に捉えれば嬉しい時に嬉しい表情をした方が、概して我々は他者からは好感が持たれるという先験的事実を我々は無意識の内から認識しており、だからこそ我々はそういう態度を採ってきたのだ、というもう一つの事実に着目すれば、我々がそういう態度を採ることは、必ずしも嬉しいから嬉しい表情と仕種をするのではなく、限りなく嬉しいふりをし、嬉しい表情や仕種をするからこそ嬉しくなるのだという事実として相貌を転換するように我々に迫ってくるのである。このことはただ認識の転換を意味するばかりではない。我々の生の実存が、経験的な行為の連鎖によって、習慣化された行動パターンに埋没することの素朴な人生の信仰が、我々の行為選択から言語的思考に至るまで支配しており、我々が通常考える価値とか幸福感とかいったものさえ、自己内にインプットされたステレオタイプによる瞬時の非意図的判断でしかない、しかし同時にその判断をなし得るのはただ単に、時間的にも、生存維持の観点からも健康で、今のところ死は遠い先のことである、という非哲学的態度の無自覚な採用以外の何物でもないということを意味する。しかし実は時間の猶予も、健康の維持も、死もある日突然襲い掛かるということが実は人生のもう一つの事実なのである。このことは多くの哲学者たちも論じてきた。そしてイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公の女性プロボクサーのようにどんなに連勝していきても、ある時突然気の緩みで、突如活躍どころか健康的な生の持続さえ危ぶまれる危機に直面するような可能性に私たちは常に隣接して、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしているとだけだ、ということなのだ。
 だからこそ逆に親しい友人や愛する家族に対して我々は楽しい時には楽しい振る舞いをし、辛い時には辛い表情や態度や仕種をすることで、相互の本意を読み取りやすいように心掛けているのである。つまり内心の本意を正直に表わすことという行為には、「ふりをする」ことが内心の真意であることを示すことによって肉親、家族、親友といった自己にとって大切でかけがえのない人々に対して、そうしてきたからこそ信頼と信用と愛情を獲得し得たという記憶が拭い難く我々の脳裏を席捲しているからこそそうしてきた(殆ど無意識に)のである。それは考えてそうしてきたのではなく、寧ろ非意図的にそうしてきただけであり、またそのように自らの意図をごく自然な、「ふりをする」ことをしないで、常に偽装的態度でのみ他者と接し続けていたら、我々は心が窒息して生きてゆくことが出来ないと、本能的に(この言葉は哲学上では、あるいは進化論上でもご法度とされているようだが、これを使用するしか、この場合手はないのだ。)覚知しているからである。つまり我々は実は無意識に自分が死んだ時のことを考慮に入れて全ての行為に臨んでいるのだ。だから「ふりをする」こともまた明らかに意志である。それは真摯な嘘である。そして真摯な嘘とは誠実で偽らないことなのである。意志には「どうしようか」という逡巡に対して、あるいはそういう思念に対して「こうせよ」と指示することに等しい。それは思索の断念なのだ。そこには必然的に対自的な「語らい」がある。「語らい」とは思索の意味ではない。それは存在論的な決定なのだ。そして何かを決心している時我々はどこかで巧くいった時の記憶を呼び戻しながらも同時に、それを少しだけ逸脱した不確定要素へと飛翔するギャンブル的感性をも採用し、その未知の可能性に対して賭けるという意識がある。
 ギャンブル的感性が日常生活で役に立つようなことがあるということの背景には、必ずその不確実なものに対する賭けを意味あるものにする確実なことというのがなければならない。それが日常のルティン・ワークである。日常のルティンがあるからこそ我々は時として常習的な事柄から逸脱することに意味を見出せるのだ。
 例えば我々はテレビで悲惨なニュースを見て、それが自分の目で確かめた(実際にその現場で見た)わけではないのに、「酷いな。」とか「気の毒に。」とかその映像を目にした時思う。実際に自分の目で近所の火事の現場を見た時我々はその日の夕方テレビにニュースで報じられた火事の映像を見ると「実際とは違うみたいだ。」と思う。誰しも一度は経験していることではないだろうか?それなのに我々は自分の目で見たものではない多くのニュースをあたかも自分で目撃してきているような錯覚に陥る。しかし実際それらはテレビの映像がただ脳裏に記憶して焼きついているだけのことなのに、我々はそれが各放送局のニュース報道を巡る放送姿勢によってある程度の脚色をされて報じられているのに、それらを実像として受け入れる。このような日常もまたルティン的な行為の連鎖の一部に位置付けられる。さて我々はしかし時としてマスコミ報道そのものに対してある種疑いの目を差し向けたいと思う。それはある程度意識的に冒険心、逸脱希求的な心理が要求される。そして見て見ぬふりをする、敢えて苛酷な日常の報道の渦中にいながら、報道されることを幻想として認識することをしようとすると、全然今まで気が付かなかったことに気づく。それは報道とは事実ではなく、事実像なのだということを。しかしその時同時に思う。報道されることはある程度放送局の思惑によってどの局のものも恣意的にトップニュースになるもの、敢えて報道する必要のないものと選別されているわけだが、では報道されないことが全て意味のない事件的価値のないものであるとは決めつけられという意味では全ての報道を疑ってみることは大切だが、だからと言って報道されること全体が虚像であると決め付けることもまた一つの大きな思い違いであろう、と。
 私たちは自分が他者を適当にあしらったりすることがある。鬱陶しい奴というのは誰でもいて、そういうタイプの他者にはすげなくしたりする。しかしその時その行為が特に悪意のあるものでなくても、そういう態度をとられた他者(そういう態度を採られる最初のきっかけはその他者が他人に対してある程度そういう態度を採ってきているからであるケースが殆どなのだが)が昨今問題化しているいじめ被害者の心理に陥ることがあればまずいな、一種のハラスメントになりはすまいか、と自分でも反省することはある。そういう時我々は自分が他人から騙されているのではないかという被害者意識を持つことがある。例えば今言ったマスコミ全体が国民を扇動しているのではないかというような妄想を抱くことは現代人の一種の特徴的傾向性かも知れない。その被害者である自分はまた同時に誰かに対しては加害者かも知れないふと思うこともある。昨日彼に言った一言は彼を傷つけたかも知れないと反省しながら、彼に対していじめることまでしなくても、どこかであしらいつつ誠実に接していないのなら、それもまた一種の騙しであるかも知れない、と明日からは彼にそういう態度をとることはやめにしよう、と思う。しかし一旦そうしだすと、それまで彼にとってきた態度そのものに関しては既に今はやめているのだから時効なのだということで見て見ぬ「ふりをする」。相手には自分がそういう態度をずっととってきたかも知れないと思いつつ、表面的にはそういう反省の意図を悟られないようにする。演技しているわけだ。
 さてその他者からの騙しをあざとく見抜くことが出来るのか出来ないのかがある程度騙され難い人間、つまり世間を渡っていける巧みさにも繋がるという面もあるが、同時に狼少年ではないけれど、他者からの悪意に敏感になり過ぎることというのは、ある意味では他人を信用しなさ過ぎる(最初から信用し過ぎてもいけないが)ことを意味するから、擦れた人格と他者から見做されるようになって人間社会では実害を被ることも多い。ある程度の自己防衛心は必要だが、必要以上に他者に対して猜疑心があり過ぎると逆に警戒され人間関係的には巧くいかないのが社会である。
 しかし人間はごく無意識の内に、つまり自分でも気がつかない内に作り笑いをしていたり、おべっかを使ってみたり、要するに何か今の自分の心の奥底に内在する本意とは違った、社会的に取り繕った何かいい子ぶる、つまり善人の「ふりをする」のだ。それは猜疑心の塊で、誰も真に信用しないことに比べれば一見よいことのように思われるが、そうではない。そういう偽装的態度というのは本質的に他者に対して猜疑心を抱いていればこそ、採る自己防衛と真意表出差し控えの態度なのである。それは話が戻るが自己の中に巣食う保守安泰希求型の心理に対抗し、撃破する構えの攻撃欲求(これを私は自己改革の精神なので人生の良心と私が呼ぶものに裏打ちされていると考える。)とは違った変化に対する恐怖が支配した惰性的慣習埋没型の心理で、それを私は生活の良心と呼ぶ。
 生活とは人間にとって経済レヴェルの安定を常に求めるから、それは惰性の死守である。しかし人生とはある時は生活を打破することも意味するのである。すると一切の生活の打破をしないでみみっちい生活の良心にぶら下がって生きている人間は、人生という最も大きな賭け(それは全体的に言えばやはり一種の賭けであると言ってよいだろう。)に損失を齎しているとも言えるのである。
 この人生の良心は何も必ずしも離婚とか転職にのみ存しているわけではない。そういう生活レヴェルから一転するような内的な革命のことばかりを言うのではない。例えて言うなら、道端に転がっている石ころに対しても、今までは目にさえ留めなかったのに、もののあわれを感じるというようなレヴェルの意識変革のこと言っている。
 そもそも人生という奴は不思議である。これこれこういうものが人生の在り方であり、それに沿って生きることが一番幸福であるなどと最早誰も考えてはいない。だから自分の好きなように生きられればそれが一番いいのだが、実際そのように自由に生きるということには金がかかるのだ。余程の経済力のある人間以外にはそのような悠長な生き方は許されない。そうなってくると、必然的に価値観における構成要素とか評定基準に他者とか社会一般に対する意識が含まれてくる。そもそも離婚も転職も自己にとっての他者、社会、あるいは他者、社会から見た自分というものの実像という認識が不可欠だからである。
 つまり人生は自分のものである、という認識に既に他者の存在が抜き差しがたく介在しているのである。だから他者は配偶者から親子に至るまで、あるいは友人から同僚、同業者に至るまで生涯その関係から離脱して生きることは実質上不可能な存在なのだ。そして本来良心と羞恥という感情、認識が存在し得るのは他者、社会というものがあってのことなのである。
 ここで羞恥感情というものの起源について考えてみよう。明らかに聖書にもあるように、人間はある時期から着衣し、裸の状態を他者に見せることに羞恥を感じるようになった。ここら辺はルソーの「人間不平等起源論」などに人間の内的現実に関して詳しく述べられているので、私は私なりの考えを述べてみようと思う。
 まず羞恥はどのホモ・サピエンス個体も同じように身体機能を携えているも、各器官の形状というものは外面的に、それは勿論顔とか頭の形も含めてなのだが、個人毎に異なる。そして当然のことながらある思念、それも誰でも抱くようなもの(哲学ではその普遍客観的個々の事象に対する認識を表象と呼ぶ。)においても、個的意味感受に関する内的過程とか意味把握に纏わる背景も違う。私は前章で我々が内的に言語習得する過程に至る前にも先験的に「世界や宇宙という語彙が語る真実」をア・プリオリに存在させていると述べた。これはどういうことかと言うと、そういうものがあったら表現したいけれど、語彙を知らないので内的にそういう感じというカオスを抱いているのだ。この段階では恐らく未だ表象とは言えない。表象とはもう少し他者との間で了解し得る、説明可能であると内的に明示している状態であると私は捉える。しかしこのカオスは例えば世界という概念も、自分とその周囲の外延的な一纏まりであることは確かだが、要するに世界の内容は当然のことながら個人毎に異なる。そこで普段何気なく我々が使用する世界とは明らかに語彙習得するプロセスにおいては、自分にとっての世界であった筈である。それを丁度大人が世界という(語彙習得している人間を子供も含めてここでは大人と言っている。)語彙を発話した時、「ああ、あのことだな。」と内的に納得してその語彙を他者と交わすようになってきているのだ。そしてこの内的プロセスに纏わる自分しか知らない事情とかエピソードがずっと記憶に、それがはっきりした形でではないけれど、残存する。それがその人間に纏わる語彙に関するクオリアなのかも知れない。しかしこの個的意味の世界、つまり語彙習得に纏わる幼児体験性に根差したもう一つのトラウマというものは、恐らく他者にそう容易に口外し難いものである。余程親しくならなければ、そうおいそれとは他者に告げられないニュアンスのものであると言える。それは羞恥の魁ではないだろうか?勿論衣服を剥がされた状態を他者に見られることに纏わる羞恥というものもある。しかしこの内的幼児体験に起源を持つ羞恥は、精神的であるが故になかなか根は深いと言えるのではないか?
 世界は自分の家族とか自分の住む環境である。赤ん坊にとって最初は部屋の中、次第に外界も知る。そして宇宙は最初空であろう。尤も宇宙という概念は空とか無とかの獲得の後に醸成されてゆく可能性もあるし、逆に無が宇宙の後に意味把握されてゆく可能性もあるが、何か宇宙というものの原形は世界とも異なったものとして先験的に存在し得る気が私にはするのである。

Wednesday, February 3, 2010

〔羞恥と良心〕第八章「ふりをする」ことの哲学(1)

 私たちの生活で日常的な思念というものは往々にして生活することが出来ればそれでよい、つまり出来るだけ保守安泰希求型の安定性、そして固定化された人間関係を維持しようとする。その生活を豊かにする意味で自然科学の認識は有用で、現代社会は自然科学認識とそのテクノロジーに多大な恩恵を蒙っている。しかし同時に私たちは便利なだけの生活には心では満足せずに、各個人に固有のものとしての幸福を追求したいと願う。
 脳科学者の茂木健一郎は「世界知」を人間の自然科学的認識を主体とした「神の時間」として、客観的な自然認識を機軸とした人間の存在はその中の一駒であるに過ぎない捉え方として、もう一つの「生活知」と対置させている。この「生活知」は自然科学的認識で割り切ることに対してある種の躊躇を感じる人間主体の「人間の時間」で、前者があくまで過去も現在も未来も予定調和的な捉え方をするのに対して、もっと主観的な人間中心で、常に現在を機軸とした時間の捉え方であるとする。(「「脳」整理法」ちくま新書刊)
 この捉え方は理解しやすく、特に人間が自然の一部であるとしながらも、同時にその客観認識の部分集合とする合理主義的考え方に対して楔を入れるような哲学的思考という風に「人間の時間」と「生活知」を考えてもいいだろう。さて氏はもう一つ重要な概念を提出している。それがセレンディピティーである。これは偶然的な出会いを必然的な意味に置換してゆく知恵であり、我々の日常的な心掛け次第で掴むことが出来る場合もあれば見逃すという、どこかジャ・メ・ヴュにも似た発見である。
 茂木氏の論点でこの部分で最も面白いのは、我々の人生の時間は限られているのだから、何か自分から主体的に行動する(例えば普段出かけない近場でリラックス出来る場所にまには出かけてみるとかの)、そしてその際に普段に目に留めない何かを発見する、そしてその出会いを切実なものとして受容する、つまり「行動」、「気づき」、「受容」の三本柱を機軸とした偶然の必然化である。実は芸術行為というものは全てこの連動であるし、氏に言わせれば日本のノーベル賞受賞科学者たちや人類の歴史上の偉大な発見、発明は総じてこのセレンディピティーによるもののオンパレードであると言う。そう言えばあの遺伝の法則を発見したメンデルは牧師で、教会の庭で育てたエンドマメから法則を発見したものであり、それもまた偶然の必然化だった。
 さて人間がそのような偶然の必然化をなす行為の一つの哲学的認識もまた含まれよう。この章では少し人間の日常的行動の意味について考えてみたい。
 精神分析では意識と無意識というのがあり、医学の世界では人間の身体の運動を随意と不随意と呼ぶものがあるが、前者は両方とも自分で意図的に何かをなすことであり、その運動とか行動をしながら何をしているのか他者に説明が出来る。つまり言語化しやすいのだ。しかし後者は精神分析と医学では多少異なるが、無意識とは潜在意識のことであり、深層心理と言うこともある、自分の中にある自分でも気がつかない欲求とか願望のことである。そして不随意とは自分身体内部で、あるいは外部(皮膚の発汗作用とかの)で身体が勝手に作用することである。例えば血流がそうであるし、怪我をした時傷口が自然に塞がり血液が凝固したりする、要するに医学・生理学的作用である。
 この章では哲学的認識について考えるわけだから、取り敢えず精神分析の無意識と、身体作用の運動性の中間くらいに位置する行動とその振舞いというレヴェルで考えてみよう。この現象に目をつけたのが最初はデカルトであり、その心身二元論は有名である。そして現代ではギルバート・ライルという哲学者が心の内面と外面的な行動の関係を詳しく論じた。心は自分で他者に説明がつく部分と、そうではない部分とがあり、それは欲求レヴェルでもそうだし、願望レヴェルでもそうである。また自分固有の考え方や行動であると思っているものが実は誰でも同じように行動する一種の人間という種固有の本能的なパターンを踏襲しているだけであることも多く、要するにこの自分、人間社会の成員、種といった捉え方のどれに今自分が考えたこと、あるいは行動したことが位置しているのか規定することは極めて難しい。
 例えば人間はどんなに哲学的思考を思い巡らしていても腹が減ったら腹の虫は鳴るし、食事をしたいと願い、用を足しなくなればトイレに行って済ます。そして恋愛というものもまた実に厄介で、人間的な愛情を(と言うより神への愛を)アガペーというように表現するかと思えば性欲とかそういうレヴェルをも含めてエロスとも言うし、一体全体恋愛感情とは人間的理性によるものなのか、あるいは動物的本能なのかという問題は永遠の謎であると言ってもよい。
 だが好きな異性の前では我々はどこか演技をする。そして今直にでも「君を抱きたい。」とそう率直に告白出来て、またそれを向こうも受け入れられるのならことは簡単であるが、そういうものがいつもであるわけでもない。そうかと言って衝動的な両性の合意による恋愛とセックスをただ闇雲に欲望にのみ身を任せた汚らわしいものであるなどとも言い切れない。そんなことを言ったら人類全てが汚らわしい存在ということになる。尤もキリスト教には原罪という観念があるのだが。
 そしてこの振舞うということに関しては極めて難しい問題が潜んでいる。 
 例えば就業しているビジネスマンは仕事がどんなに楽しくても尚、雇用されある一定の成果をあげることを通して報酬を得ているわけだから、レジャーに打ち興じている時のような表情で社内でも対外的にも振舞っていても駄目であろう。と言って仕事は生き甲斐でもあるのだからある程度楽しんでしなくては周囲にも不快な感情を与える。この義務履行性と幸福的振舞いの表情とか態度の配分というものは実に難しい。
 ビジネスにおいて営業は明らかにどこかで売る立場の人間が買う立場の人間の深層心理に「率先して買いたくなる衝動」を引き出すという意味ではある種の騙し、騙される、しかも騙される側が喜んで騙されるような関係を構築することであるのだから、心理ゲームの様相である。
 例えば同一の商品でも陳列棚に一個だけが残っているのと、他にも同一の商品が沢山まだ棚に載っているとでは前者だと、どこか売れ残りという印象を与え、それが食品であると鮮度に問題がありはしないかと消費者は考え込んでしまう心理を誘引する。そういう意味では商品のフェイスアップとは実は極めて心理学的な企業戦略であると言える。そして明らかに売る側は買う側に喜んで騙されることを選択させるように仕向けている。大安売りというキャッチフレーズもそうである。
 カッコウは他の鳥類の巣に託卵する。しかしその卵があまりにもその鳥類のそれと似ているので、他種の鳥は気がつかない。そしてその鳥が自分の本当の子供に餌を巣に運んでくる時に我先にとその餌をせしめるし、そればかりか他種の鳥の雛を巣から落してまんまと自分だけその被害者の雛の親鳥からの分配を独り占めしようとさえする。しかし騙される側の親鳥はそれに気がつかない。リチャード・ドーキンスという動物行動遺伝学者は余程カッコウの雛には騙される側の親鳥をも欺くような魅力があるのだ、そして何か未知のフェロモンのようなものを発散して騙される鳥に催眠をかけているのではないかというような推理をあの有名な「利己的遺伝子」というテクストで述べている。このカッコウのいい子ぶる、本当の子供の「ふりをする」行為は明らかに種の生存を賭けた巧みな戦術である。
 このように自然界、動物界においても人間社会においても「騙す」、「騙される」行為の連鎖は日常茶飯である。
 会社で部下が上司に好印象を得ようとするのは当然の振舞いであるが、これもまた誠実で有能な社員の「ふりをする」行為に他ならない。勿論現代社会は益々成果主義的発想になってきているから、成果が上がればどんな態度でもいいのだ、と言ってもやはり最低限のマナー、礼儀、態度は社員同士でも必要だ。どんなに有能な社員でも、その能力を鼻にかけるようでは部下はついては来ないし、上司も気持ちよく仕事の指令を出すことが出来ないであろう。そういう意味ではその人の振舞いは人格とかその人間の職業人、社会人としての常識とか、果ては能力の有無さえ見かけから判断されかねない。だから「ふりをする」こととはその人間の本質的な内面まで表わされるという意味ではギルバート・ライルの行動こそがその人間の内面の表出であるという考え方は極めて現代社会に応用可能な哲学だったと言ってよい。
 表側の振舞い、表情、愛想、仕種といった全てはある意味では本来隠されている筈の内面のその人間の美とか礼節とか知性とか理性的判断力とか仕事の能力をいい意味で象徴するものではないだろうか?勿論それに行動が一番重要なこととして加わる。
 しかし人間のこの見かけの美という奴はどこかで偽装的な行動、偽善をも生む温床にもなってきた。現代社会では外面的印象とは確かに大切であるが、同時にそれは戦略的な行為であると、例えば実務的レヴェルから「私はタレント出身者の政治家というのはどうも。」と考えたりする有権者の心理も理解出来ないこともない、要するに見かけによる価値判断とは諸刃の剣である。人間は巧く他者を乗せてやりたいという意識と、誰からも騙されまいでいようという両方の欲求がある。そのことに関して私は例えば多少人よりもマスコミの報道姿勢そのものに対して「騙されないぞ。」という意識を強く抱いている。
 哲学者の信原幸弘は「心の現代哲学」でカエルの捕食行動について考察している。
「カエルは飛ぶ昆虫を見ると、舌をのばしてそれを食べる習慣がある。しかし、カエルが舌をのばすのは飛ぶ昆虫だけではなく、薄黒い動く小片なら何でもカエルは舌をのばして口に入れてしまう。カエルの神経機構は、飛ぶ昆虫を含めて一般に薄黒い動く小片が刺激として与えられると、ある神経状態Sを形成し、このSにもとづいてカエルにその小片に向かって舌を出させる。この神経状態Sはどのようなことを表象するのだろうか。それはカエルの眼前のある方向に飛ぶ昆虫がいることを表象するのだろうか、それとも薄黒い動く小片があることを表象するのだろうか。」(「心の現代哲学」101ページより・頸草書房刊)
 さてこの昆虫が舌で捕まえようとする飛翔し移動する物体を昆虫と同じくらいの大きさのものであるならどれでもあたり構わず摑まえようとするわけではないのだろうが、ただの薄黒い物体(人間がフェイクで仕掛けたもの)と昆虫を識別するほどの脳も神経細胞も持ち合わせていないことは確かだ。それでは表象されたものとは一体何かと問われれば、それは要するに自分の周囲に旋回する何らかの薄黒い物体があれば、それは確率の問題として大体が昆虫である可能性の方が大きいのだから、それらは構わず虱潰しに捕獲せよ、とある遺伝子座が指令を出しているということは考えられる。だからそれが表象と言えるのかどうかは疑問の余地があるのだが、しかしそれでは騙される確率も大きいかと言えば、そういうことは日常殆どないからこそそれだけの識別能力が備わっていないと考えるのは自然である。もし我々がカエルを試すような行為を一匹が数匹のカエル、あるいはそれ以上やったとしても尚、カエルという種全体が被る実害というものは高が知れている。だから自然選択がカエルに昆虫とフェイクを識別する能力を付与するように自然に仕向けるためには恐ろしく過大な選択圧をカエルに条件として与え続けねばならない。どう見積もっても一万年以上の期間ずっと全てのカエル個体にそのようなフェイクを仕掛けることが恣意的に出来たのなら、あるいは多少の変化の兆しというものが立ち現れる可能性はなきにしもあらずだが、実際上は不可能である。あまりにも持続的にフェイクをかけてきている個体の中の幾つかが辛うじて学習し、捕獲を差し控える行動が時たまあるようになるくらいのことが考えられるというのが関の山であろう。要するに自然選択というものは人間の時間感覚からすれば気が遠くなるくらいの(しかし地球環境全体の歴史からすればほんの一瞬なのだが)、時間が必要であり、要するにカエルが自分の個体の周囲を旋回する物体の識別能力を自然が付与するコストを、カエルがフェイクに騙されて種全体の生存の危機に晒されるコストが上回る事態になりでもしない限り、たとえ我々が数万匹のカエルを騙し最終的にはストレスを与え過ぎて死に至らしめたとしても尚、カエルという種全体からすれば、殆ど極小の犠牲的コストにしか過ぎないのだ。自然は人間が自分とはかかわりのないニュースを見て「酷い。」、「気の毒だ。」などといった要するに偽善的な心情は皆無である。自然というものは絶対に不必要なコストを払わない。(だからこそ人間は時としてギャンブル的感性に身を委ねようとするのかも知れないが、それすらも自然の法則で割り切ろうとするのが自然科学である。ここら辺のことも茂木健一郎著「「脳」整理法」<ちくま新書刊>を参照されたし。)だから人間がヒューマニズムというものを振り翳すことをするその実像を見てニーチェはその欺瞞性を鋭く指摘したのだ。
 そのことを考慮に入れて考えると我々人間もまたどんなに地球の裏側で悲惨な出来事があったとしても尚、近所の火事ほどにもそのニュースを見ている時、鬱な気分になりはしない。要するにニュースというものはそれが自分にかかわりのないものを見て、それを見ている自分が蚊帳の外にいて、安全地帯にいてよかったと安堵の溜息をつくものなのだ。仮に地球の裏側で起きたことでも、それが自分の家族の中に一人でもその地域に住んででもいない限り関心がそれほどは起きないが、一旦そういう事態に直面したら、その家族が心配で何もない時には世間でもっと大きなニュースがあればそれを見て「悲惨だ。」と思いつつも他人事に対して抱く好奇心から興奮すらするものなのに、自分の家族が心配で仮に東京で大地震が起きても自分がそこに住んでいない限りそんなニュースなどは意識の上ではそっちのけで、例えば東京で震災があった時と同時に悲惨な事件のあった外国にいる自分の家族の消息を一番に心配するのが人間である。
 まるでマスコミとは正義の味方の「ふりをする」安全地帯にいる人々を被害者から守る砦のようではないか。何故なら被害者をいつも気の毒ぶりながら見せ物にしているからだ。
 デズモンド・モリスは、人間とはせいぜいどんなに多く見積もっても、自分が暮らす社会で百人くらいの知人がいれば、生活には困らない(それは職場、自分の居住する地域環境で)と指摘しているが、ある固定化された必要最低限の人間だけを大事にして、後は全部ただの他人として切り捨てることが社会で生活するということなのだ。ということは逆に我々は他人に対してはどうでもよい態度で暮らしているが、知人とか自分にとって人間関係的に重要な他人は大切にしなければ生きてはいけないということを意味する。そしてそういう大切な人に対しては少なくとも自分のプライヴァシーの全てを公表する必要はないものの、全て取り繕って偽装的態度で接していては良好な人間関係は維持出来ないし、建前もある程度は必要であるし、相互に不干渉でいることも大切だが、嘘で塗り固めることも不可能である。そういう態度で生活していれば必ず世間的評判を落すことになるし、第一信用されはしないだろう。そういう意味では非意図的に行為する真意表明型の意思疎通がある程度自然に要求されるし(不自然な行為というものは作為性に満ち溢れている。)、その時「ふりをする」行為というものは、誠実に振舞うということ以外にはないだろう。人を落し入れるような行為をしながら善人の「ふりをする」ことは、偽善者のレッテルを貼られて利他的行動を動物界で粒さに報告した生物学者のハミルトンの言うように、生存戦略的にはそういう利他的集団における利己的行動の行為選択の連鎖は、長い目で見れば損失の方がずっと大きいであろう。だからカントが善意志とか道徳的法則といったことは心情倫理的な意味合いばかりではなく、責任倫理的な意味合いもあるのだろうと思われる。

Sunday, January 31, 2010

〔羞恥と良心〕第七章 羞恥と小心

 人間は弱い。だから本当は案外自分は不幸なのではないか、そう感じるということも実は自分よりずっと幸福で恵まれていると直観的にそう思える者を基準にして、その者に比べれば明らかに自分は恵まれていないとそう察知しているわけだが、とにかくそう了解した瞬間直ちに自分よりもっと不幸な誰かを何とかして探し出し、その者を憐れむことによって自分はそれよりはまだましだとほっと安堵の溜め息をつくのである。
 これは端的に人間の小心に根差している。しかも自分の不幸を、「私は不幸です」と声高に叫ぶ勇気のなさから、自らの他人と比べて不幸なことを必死になって隠蔽し、他人よりも自分の方が恵まれているとそう思いたがり、要するにそこに真の自分を他人に知られ、そのことで憐憫を持たれることを極度に忌避しようとする。つまりそこには明らかに羞恥感情が控えているのである。
 ではこの小心がいけないもので、一切排除すべきものであるかと言えば決してそうではない。人間の脳は楽観的に全てを考える傾向があると脳科学者ならそう言うに違いないが、実は全ての小心とは、端的に例えば科学的態度にも言えることだし、要するに価値ある勇気である場合も多いのだ。
 科学では断言することを出来る限り回避する必要がある。それはどんなに蓋然性の大きなことに対してでもなのである。つまりそうではない可能性がたとえ0.1パーセントだけでもあるのなら、その可能性を封鎖すべきではないという考えが科学者にはあるようで、従って慎重で配慮のある科学者なら、絶対百パーセント確信が持てないことには断言することを避けることを心がけている人というのは多い。
 それを勇気であると受け取るか、小心であると受け取るかということには諸説あるだろうが、小心が羞恥を常に伴っているということは事実であると思われる。しかし小心であるということを他者に対して適用する時、例えばいざ出陣という時に怖気づくということは、武者にとって恥だっただろうから、それは克服すべき対象だっただろう。しかし恐らく平時では、あるいはどちらに進むべきか岐路に迷う時には、人は失敗とか、とんでもない後戻りの出来ない状況を憂慮することというのは、求められる慎重さとして、例えば相手が責任ある地位にあることをこちらが心得ている場合、その者の小心を慮り、忖度したり、尊重したりする態度はよいことと言えるだろう。つまりこの場合ある他者に対してその小心な態度を石橋を叩いて渡る慎重さと、羞恥を有効に使用する賢明さにおいて尊重することを正当化するケースであると言えないだろうか?
 しかしだからと言って自分より不幸な人を探し、その人を憐れむことによって自分の拠って立つ地点に安堵するということは褒められたことではないということを、実は誰よりも自分が一番よく知っているのだ。そのことはある意味ではこのような小心というものが、いい反省材料になっているという意味では他者に公言すべきことではないものの、一人でそう思い噛み締めるということは無意味なことではないだろう。
 私たちはしばしばある嫌味な一言に対して「気が利いたことを言ってくれるじゃないか」とか「全くそういうことを言うなんざ、可愛げのある奴だぜ」とか表現する。それは勿論字義通りではなく、その反対のことを言うのに敢えて肯定的に表現するわけだ。
 それは英語でIt's so badという言い方が意味的にはIt's so goodとかIt's so coolとかいうことである場合がかなり多いのと似ている。
 つまりそこには皮肉交じりに何かを言う時、どこかで我々は正論を正面きって言うことを憚る羞恥が介在すること、そしてその羞恥は相手に対する若干の畏怖が手伝って、つまり小心的な判断によってそのように言う場合が多いだろう。しかもあまりにも相手が抜け抜けとそういう言辞を吐くということに対して飽きれる意味合いも込めて、そこには諦観的な感慨があって言うのである。つまりそこにはプロテスト的意志をもってしても、如何ともい難い雰囲気が漂っており、そのことに対するやんわりとした苦情の意味合いが込められている。しかもその相手に対してそういう阿漕なところがあることに対して一抹の憎めなさがあるという心理も手伝っている以上、そういう言辞には幾分、もし自分も彼(女)と似たような状況になったのなら、同じようなことを言うかも知れないという予感さえ漂っている。つまり羞恥という心理にはそれくらい小心と、確たる自信のなさに起因するお互い様という意識が濃厚に漂っている。これは自分よりも不幸の人を探す心理にも似ているところがある。つまり自分でもそうなったかも知れない可能性に対する着眼がこのような言い方において、和らいだ形での非難となって顕現しているのである。そして相手が自分よりも惨めな状況かも知れないという目測があって、その字義通りでは褒め言葉を貶し文句にこめているというわけである。

Monday, January 25, 2010

〔羞恥と良心〕第六章 良心と優先順位

 何らかの意志決定とか、行動の規範とするものとは、要するにその人間の人生に対する思想(前作「存在と意味」http://entityandmeaning.blogspot.com/で私が規定した考えである。要するにどういう風に人生を作品化するかということにおいて最もそれに相応しいと思えることを信条とする生き方に対する自らの指針)に随順して形成されている。それは若い世代よりは、大体45歳以上の年齢になっている人に多く感じられる生き方に対する決意である。だから日常会話とか、他人と何かを話題にする時にも、これこれこういう場合にはこれこれこういうことを言うのは適切ではないとか、これこれこういう場合にこれこれこういう対応を他者にとるのはよくないことだとか、憚られることであるとかいう判断を支えるものであると言ってよいだろう。
 しかし同時にそうではない例外的なこともあるのだという判断も成立することがある。そのような例外的なことも含めて全ての判断を支えるものこそ人生に対する思想の構成要素であるところの良心かも知れない。そして明らかに個人毎に異なった優先順位というものがある。その優先順位において全てに対して自己の欲望は慎まねばと考える向きもあるだろうし、逆に全てに対して自己の欲望を優先すべきであると考える向きもあるだろう。
 そして何が憚られ、何が尊ばれるかという判断も個人毎に異なっている。
 しかし私たちにとって最も眼にとめておかなくてはならない事実とは、端的にどのような判断や判定基準も、自分自身の経験したことをベースにしているということである。つまり私たちは他人が私によって何かあることを言われたら、自分ならこう思うだろうなということをベースにしてその他人の立場になって考えているのであって、それ以上にその他人になることは私たちにでは出来ないということである。そしてある他人から何らかのことをいきなり言われたら、きっと自分なら頭に来るだろうなという推測を下にして、我々は何かあることはいきなり他人には告げるべきではないとそう考えるわけである。
 それはある行動をとろうかと考えている時でも全く事情は同じである。つまりこれこれこういう時にはこういう行動をとるべきであろうかと考える時、我々は他人がそのことを知ったらどのように思うだろうかということをベースにして考えるのだ。
 つまり恐らく良心というものの本質とは、そのような自分なら他人がとるある行動に対して、あるいはある発言に対してこれこれこのように感じるだろうという推測において成立する他人の立場にたって考える何らかの心の作用ではないかということである。
 しかしそれはあくまで私なら私の経験を通してしか想像することが出来ないのであるから、私自身の経験の内容とか、深刻さとか、苦悩の度合いとか、感じ方から離れて抽象的に考えることなど出来ない相談である。だから良心という心の作用の基本は、自分ならこう感じるだろうということを他人に対して適用したものであるとはまず言えることである。
 しかしそのこう感じるだろうと他人の立場に取り敢えず立って考えるということの内でも、実は自分と同じような体験とかその内容を持って人というのは、この世には殆どいないのであり、仮に非常に似た人がいたとしても、その人と巡り合う可能性は極めて低いし、そういう人と自分がでは果たして巧くやっていけるのかということもまた別問題である。
 そこで自分と異なった体験、つまり履歴であれ、経歴であれそれを持つ他人に「私が彼のような立場になったらどう考えるだろうか」という仮定的な想像を巡らすということになろう。そしてその際にも自分ならこういうことを優先するだろうとか、自分ならこういうことをされることは厭だが、別のああいうことをされると嬉しいだろうなと考える。
 しかしこれは誰でも経験することではなく、ある特定の人に対して、その人に固有の経験、経歴、履歴の立場になることを想像するわけだから、より具体的な想像であるとは言えるだろう。そしてその想像をより可能にすることとは、端的にその人と親しければ親しいほど容易であるということもまた確かだろう。
 要するに我々は他人の立場になって考えてみるということにおいてさえ優先順位をつけているのである。そして良心そのものの内容さえ自分の経験を下に主観的にしか想像することなど出来はしないのである。だから当然自分の一個の世界全体から見れば狭い小さな頭で必死に考えたところで、所詮想像の域というものそのものに限界があるわけだから、私たちは他人はどういうことを考えているのだろうかということを必死に考えることをより可能なものにするために書物を読んだり、ある時には他人と会ったりしてその人の考え方を聴こうと思うわけである。そして「ああそうか、自分ならこういう時こう感じるが、この人はそういう時には、そう感じるのか」と納得することもあるし、益々疑問に感じるようになることもあるだろう。あるいは自分ではこういう時にこう感じるということはきっと自分に固有のことだと思っていたら、予想外にそのことについて尋ねた他人も、同じように感じることがあると知ると、妙に安心したりすることもあるというわけである。
 そして恐らく良心という奴は、何らかのそういう経験がいつの間には積み重なって、次第に自分自身の体験的事実をベースにした人生に対する思想が私たち自身に語りかけてくれるその都度の判断という風に考えるとより理解しやすいかも知れない。つまり自分のことを最初はベースにして考えているわけだが、ある時から何故か、例えば先ほど言ったような好きな人とか、親しい人に固有のことだけではなく、普段自分にとってあまり好きではない人とか、親しくはない人をも含めたもっと広い視野に立って考えたことがベースになってより一般的にはこういう時というのは人というのはこう感じる筈だという何らかの法則を見出しているものである。そしてその法則こそが理性とか呼ばれるような何らかの行動や考え、あるいは判断を育み、良心というものはそこから汲み出されてくるものであるとは言えないだろうか?
 そしてそのある時とは、自分中心の考えなどというものは取るに足らない、要するにこの世の中や世界には、自分以外の大勢の人がいて、彼らはそれぞれ必死に何か考え悩んでいるのだということを考え、自分対自分以外というものは、一対多であるということにまず気がつき、そのことに気がついた状態で、一切の自己固有の欲求を解消させ、他人の立場に立って、しかもその他人とは他人一般であり、自分にとって親しい固有の他人ではないもっと本当の他人の立場に立った考えがふと浮かんだ時のことなのではないだろうか?このことはどこか自分自身を最も後尾の側にして考えている状態であるから、優先順位としては見ず知らずの人というものが存在優先順位では最上である。
 しかしこのような考えは、やはり四六時中提出される考えではないだろう。人間はもっと些細なことでくよくよ悩む。しかしある時吹っ切れるようにそう感じられるとしたら余分の野心を捨てて、本質にだけ忠実になった時の心境ではないだろうか?つまり余分な欲求というものは、自分にはないものを強請っている心境であり、それをすっかり諦めること、つまり潔く自分が今現在持っている能力で勝負するしかないと腹を括る時の心境である。
 世の中の作家とか、詩人とか、評論家とか、学者たちは何らかの意味で常に自己と対話している。それはどういうことか?つまり先ほど言った他人の立場というものにどれだけ我々自身がなれるのか、どれくらい私情というものを排除して自分の行動や発言を有益なものとして履行し得るのかということに対する挑戦として、何かを書き、それを世に問うという職業の人たちにはあるからである。それは自己の能力に対する対話であり、自己の能力に対する対話のないところでは良心というものも育まれることなどないということも意味する。つまり良心とは、理性と呼ばれるような心の状態が、ある時、すっかり自分の余分な欲求を取り払った時ふと浮かぶ向こうからやってくるようなタイプの考えであり、脳科学などではセレンディピティーとは呼ぶようだが、インスピレーションとも近いものだろう。しかもそれはより一般化された価値像であるのだから、必然的に責任倫理にも近いものであるに違いない。
 つまり良心とは端的に自分の中にある想像力という力が、特定の、個人的なものから少しずつ離れて、自分以外の誰にでも該当するようなタイプの想像それ自体が、少なくとも自分がかなり具体的に想像し得るような形で出来るようになる状態によって生まれるものであるとするなら、必然的に個人的であること、私情的なことそれ自体が、次第に一般的なことに昇華していくことであり、具体的であることそのものが、抽象的な領域にまで踏み込み、小さな欲求や余分な欲求が価値として限りなくゼロに近づく状態と定義してもよいことになるのではないだろうか?
 つまりそれは欲求というものの内容に関する優先順位において、より真理に近いものが理想となるような状態、つまり意志的に、私情とか私欲においては意志的にならないことに赴くような心の状態であるということは言えそうである。それは理性という形で立ち現われるものの中でもより、他人の立場に自分がなってみているということである。これは責任にも言えることであるが、責任の場合には、より自分の立場の限られていることを全うする必要がある場合が多いので、必然的に相手とか、他人の立場になることがいい場合とそうではない場合とがあるのに対して、良心とは、その点他人の立場の方をより価値的に優先するようなタイプの意志であるということもまた言えそうである。

Wednesday, January 20, 2010

〔羞恥と良心〕第五章 羞恥と睡眠

 本来他人に対して容易に告白しえるものなど大して重要なことではない。ある種の夢の内容で他人に語れるものは概して抽象的な内容のものに限られる。要するに意味連関として客観的にその夢がどういう潜在意識を表しているのかということが推察しやすいものに限られるのだ。
 例えば私が最近見た夢は、昨日は昔描いた絵(紙に描いたドゥローイングだった)が油彩画になって完成した様子が出てきたが、それは最近取り組んできたシリーズが予想外に時間をとってしまったので、少々それを持続するのに飽きがきていたということも手伝って新たなアイデアを捻り出そうとしていた矢先に見た夢なので、その理由というものは推察しやすい。
 あるいはもう少し前に見た夢はこんなだった。ある観光旅行で深夜の特急電車に乗るために駅に急ぐと、もうちょっとで間に合うところが乗り遅れ、次の特急の停車駅まで深夜高速バスで急いだが、そこでも辿り着いてさて特急の乗り換えようと思ったところで乗り遅れ、特急は発車した直後だった。そういうことをいつまでも繰り返してとうとう目的地まで到着していまい、わざわざ先日緑の窓口で買い求めた特急券が無駄になってしまったというものである。
 しかしこの夢は(少々ゼノンのパラドックス<アキレスと亀の>を思わせる)ある程度分析可能である。何故なら私は11月初旬に出かけた京都旅行を、当初はJRの快速深夜便に乗って行く予定だったのだ。しかし行く直前になって深夜高速バス(ツアーバスと呼ばれる)のチケットの方が安価であることを知り私はインターネットと緑の窓口において行き帰りとも入手し得たものだから、その時に緑の窓口においてJR分のチケットをキャンセルしていたのだ。その時の記憶と、今私が取り組んでいる文筆活動に纏わる悩みとか焦りとか不安とかが複合化されてそのような夢を見たのかも知れないからだ。
 しかしこのようなことというのはまだ比較的他者に対して告白しやすい。もっとも他人に対して告白し難くさせる夢内容とは、端的にモラル外的な行動を自分がとったような内容である。要するに肉親を殺すとか、あるいは性的なモラルを外したような内容のものである。それもまだ他人との性交渉であるならいいが、肉親である場合すらあるからだ。
 要するに他人に告白し得ないことの方に寧ろ自分にとっては悩みの本質のようなものがあり、そういうことの方がより切実であるということである。
 
 ところで画家にとってあるフォルムが描かれてゆくということは、そのフォルムを色々あるフォルムの可能性の中から一つだけそれを選んで描いているのではなく、寧ろ最初からその描かれてゆくフォルム以外の何物も思い浮かばないような状態に画家があると言ってよい場合もある。勿論ある特定のイメージ、特定の感情を表現するために語彙を探すということもあるが、そうではなくある特定の語彙だけが予め発話する直前に心に思い浮かぶ場合もそうである。既に決定されたものだけを発話するということは、既に決定されたフォルムを定着させる画家の所作と近い。
 つまり選択ということの内には、全く異なった二つのタイプのものがあると言えるのだ。一つは他の一切の選択肢が眼に留まらないような場合、あるいは思念に入らないというような場合である。もう一つは一つに決定するまでに色々躊躇し、あちこちに行ったり来たりするようなことを繰り返しようやく何らかの形で落着させる(そうしながらも、そうしたこと自体に満足するケースと、そうではなくいつまでたっても不満が残るケースとがある)ような選択とがあるということである。
 夢とは一体その二つで言えばどちらに該当するのだろうか?何か突如出現するあるイメージなり出来事なりは、外界の知覚を休止している状態でなされる記憶内容の整理において、最初から他のものが登場する余地がないような出現の仕方であろう。しかしそのイメージなり出来事なりのその後の展開の仕方そのものは意外とあちこち行ったり来たりすることを繰り返す仕方なのかも知れない。
 つまり二つの相異なったタイプの選択の仕方を両方満喫することが出来るの夢であるということである。つまり何らかの記憶として長期保存されるべきイメージや出来事に対する意味づけそのものの試行錯誤がそのまま夢の内容になって我々のレム睡眠時に立ち現われるということである。つまり短期記憶だけ終わるものなのか、それともそれ以上長期記憶としてあるエピソードが残り得るという形で格上げされ得るものなのかという篩い分けの際の試行錯誤そのものが夢ではないのかということだ。
 しかし夢は常に一定の秩序だったストーリーで現われるものではない。もっと支離滅裂な内容の場合の方が多い。私が告白した先ほどの夢のストーリーは何とか説明が尽く範囲内のものである。そしてそういう類の夢はほんの僅かである。意味そのものもとんと説明し辛いものも多い。そういうものは、意味を履き違えて記憶していたことがある場合、ある夢に登場する道具において、その道具の意味そのものを、かつて自分が履き違えて理解していた方の意味と重なって使われるということがあるかも知れないし、本当はそういう連想をしてはいけないのだというインモラルなことに対してその抑圧が開放されて、そういう内容を夢見てしまうということもあるだろう。例えば私たちは大きな嘘を回避するために小さな嘘を、軽い世辞のようなものも含めて日頃から他人に対してつくことを躊躇わない。しかしどんなに些細な嘘でも嘘は嘘である。それらは積み重なれば潜在的に贖罪の対象と化す。それは自然と夢の中で登場する他者に対して素直に告白したり、他者から虚言を暴かれること、その際の極度の焦り、緊張などが出来事として登場しもするし、意味連関も露になっていくのだ。
 「こころと脳の対話」において河合隼雄氏は、夢で見る内容は、意味というものが通常では予想も尽かないタイプの連関で全てが繋がっているということを知ることが出来るものであると対談相手の茂木健一郎氏に対して述べている。注1

 要するに意味とはその意味連関というものにおいて成立するものである。それは概念として公的に通用する意味連関ともいささか個人史的には異なった部分がある。それは体験に根差した部分においてである。(勿論思い違いをしていたということも含めて)その体験的な知というものは、「そういうものである」と教え諭されたことどころの話ではない何らかの実存知である。だから自らの過去における羞恥的経験の幾つかさえ覚醒時にも想起させずにはおかない、しかも夢では抑制されるべき対外的な対象というものが取っ払われるので意味連関というものも、その幅を広げる。
 そのことは実は言葉を発するということが、私たちにとって一つの決意であるということを意味している。つまり言葉とは、内的に思念する内容に対する規制、あるいは検閲の意味合いもあるからだ。つまりいい大学に入学し、いい会社に就職することが命題である学生というものを考えると、親の期待通りの人生を歩むことはそれ自体懐疑の対象となり得るものであっても、そのことを表立って親に告白することは今の段階では差し控えようとしている高校生にとって「これからは部活動のことは一切忘れて、受験一筋でやっていくよ。」と両親を安心させる一言を告げるということは、そうしたいからそうするというより今の段階ではそう言って親の安心させることが第一だし、またある程度親の期待通りの人生を歩むことを印象づけることが、これから先々色々なことが人生で起きる可能性を考慮すれば、自分にとって我慢する時は我慢をするという試練を経験する上でも得策であるという判断による意志決定の合理化であり、そう親に直に発言することが一つの未来における自分の行動に関する決意でもあるのである。つまり言葉とは、意志を確たるものとする上で発話されることで、決心することに供するものなのである。
 と言うことは逆に生活している上で、私たちは言葉の決定力というものを、公的な意味での概念という規制に呪縛されているということを意味し、その呪縛は、意味連関そのものにも規制がかけられているということになるから、当然睡眠時には、そのような規制から自由になることを脳は私たちに求める。そこで夢では、意味連関そのものをタブー視している覚醒時の意味連関から、「それ以上立ち入ってはいけない」領域にまで踏み込もうとする。
 私たちは夢に対して抱くそのような見解は、実は、覚醒時に書かれるあらゆるテクストに対しての見方にも適用し得るということなのだ。つまり言説を作るということそれ自体に一つの決意というものが読み取れる以上、私たちはあらゆる文章に、それは文学者や哲学者、あるいは詩人やアーティストに至るまでの全ての創造者によるものだけではなしに、官僚や、ビジネスマンたちによる文章に至るまでありとあらゆる言葉に漲る一つの魔力について考えてみることは無意味ではあるまい。と言うのも、本音というものを隠蔽して書く文章というものがあったとしても、その本音を隠蔽しようとして、あらゆる規制を受け入れるという姿勢そのものは、その文章から読み取れるものだからである。
 つまり言葉化するということには、真意を何らかの形で他者に理解させられるように翻訳するという意味合いが含まれ、当然、私たちは文章を構成するということの内に本当のところはこういう感じなのだが、それを直接言っても理解して貰えないかも知れないので、いやきっとそうだから、もう少しやんわりと抽象的な当たらずとも遠からずの真理に置き換えて告げようという決意に満ちているのだ。そして少し話して、相手が自分の予想以上に自分の意図とか真意を理解してくれてきたのなら、その段になって初めて本当のところのこういう感じについて告げることを決意する。そしてそうしながらも、しかしそれはやはり何らかの形で言葉という抽象的なことに置き換えているわけだから、私自身が感じたこととは幾分ずれ込むということを自覚しないわけにはいかないというところが私たちが日頃察知している真理である。
 だから言葉が既に自己に対する他者という観念を、たとえ日記であるにせよ、含有している以上、私たちは言葉を書く時、言葉を発する時、必ず真理ということ、つまり状況や立場を変えても成立する普遍性ということを考慮に入れているわけである。そして夢ではそういった言葉に含有された意味の世界の規制に対して、日頃から感じ取っている本当のところのずれに対する気持ちが大々的に開放されてしまうのだ。それは当然生理的な感じ、リビドー的なことも大いに含まれる。いやそういうことの方が先に立ち、意味連関の概念化された通り一遍のことの方が背後に回る。そして直接的願望とか、全ての規制を取っ払った真意の核のようなものが立ち現われるというわけである。

Friday, January 15, 2010

〔羞恥と良心〕第四章 偽装の相関関係

 ここで偽装が成立する自‐他の関係について考えておこう。つまりその成立相関こそが、羞恥の在り方を決定するとも言えるし、良心がどういう場面で発揮されるかと関係があるように思われるからである。
 次のような関係から偽装の在り方を考えてみよう。

 ①自己(個)による偽装 対特定の他者(個)
 ②自己(個)による偽装 対多、つまり集団
 ③多、つまり集団による偽装 対特定の他者(個)
 ④多、つまり集団による偽装 対多、つまり集団

 考えられるところの偽装の在り方の内で①は最も標準的なことであろう。例えばお世話になっている人に対して多少考え方とか思想が異なることがあっても、一々それらに楯を突くことのないようにその場で適当に受け流すということには、これである。そして②は会議などで本当は自分は少し違う意見なのだが、例えば全体的な流れではその会議で決議されることが、概ね一致していて、その案に一旦は従うことが、展開上必要な場合、全面的にその案が理想的ではないとしても、まずその意に沿うという意志選択は、これに該当する。そして③は最も顕著な例として、ある独裁であるか無能であると思われている国家指導者、首相や大統領に対して国民が全体的に反意を抱き、更迭とか、退陣を要求するような場合の国民の心理である。
 昨今では経済状況と、それに伴う世論、あるいは社会風潮それ自体が政治を誘引し、政治指導が経済や世論や社会風潮を形作るということが極めて少なくなってきた。と言うより昔からある部分では今と同様だったのだろう。しかし恐らく今よりは政治指導力それ自体はもっと確固とした部分もあっただろう。現代では最早政治指導という観念それ自体が弱体化しており、マスコミそのものが既に政治指導をあまり期待していないどころか、世論を誘導することに躍起になっており、マスコミが好む政治指導を求めているきらいさえある。しかし国民は一定の配慮をマスコミに対しても政治に対しても持っている。それはどのどちらも完璧ではないという形でその都度判断するということである。だから独裁や無能による国民の不満は別にマスコミの誘導如何にかかわらず、体現すれば更迭や退陣を政治指導者たちは余儀なくされる。
 ④は要するに集団の持つ群集性によるものであり、団体競技で培われる同士的な結束というものに一応合わせるタイプの意志決定であり、国家間の戦争もこのうちに入る。
 羞恥ということを重ね合わせると、①では畏怖する相手とか、敬遠している相手、あるいは尊敬している相手とか、その相手に応じてこちら側の出方を変えてみたりしながら、要するに嫌厭の情が相手に対して固有の「構え」を築き、防衛本能を発動させる場合、あるいは憧れる相手に対して固有の「構え」を見せ、舞い上がり防衛本能の極度の解除を示す場合双方にあり得る原羞恥的態度、つまり対他的な応対に付き物の「私にとってのあなたという人の存在感」の表示が示されるということである。これはどんなに隠しおおせようとしても、どこかぎこちなさが顕在化し、要するに素直な羞恥の表示となる。
 しかし多数の意見につき従う場合②には、このような表示とはまた別の、適当にその場を切り抜けるという、本当の態度を保留するということが暗に示されはするが、その暗喩それ自体はあまり大きなものとしてはその時は位置づけられていない。ただ後で「そう言えばあの時、あなたはあまり明確な態度をとっておられなかったですね」とそう判断されることがあるということだけである。つまりあまり積極的ではない形での参意というものが全てこれに入る。これは真意を悟られないように目立たないようにしているということで貫徹される意志であり、羞恥それ自体を悟られないようにするという羞恥である。
 そして③は②が裏返しになったものとも受け取れる。懸案、議案といったものに対する態度が②であるなら、一人の人物に対する態度が③である。この場合も個々で少しずつ違う贔屓感情等もあるのだが、それを抑え、大局というものを見据え、多勢に対して「合わせる」ということにおいてである。これは真意を控える羞恥的態度である。
 そして④は完全に集団内がヒステリックにある一方向に世相が動いている時、例えば昨今の金融危機の状態では、有無を言わさず全ての人が経済危機を乗り切るということが至上目的化するという意味では、「何はさておいても」という心理に全ての国民が、あるいは世界中の市民がそうなるということである。勿論そういう状態でも、「こういう時代だからこそこんな商売が儲かるだろう」と考える成員はいるだろう。しかしそれは密かにそう画策すればよいのであり、景気のいい時期と違って、そういう夢だけを公言することは憚られるということがあり得るだろう。それは何か大きな事故や災害があって、そのことを皆が真剣に対処しようとしている時に、私的な願望を語ることが不謹慎であるように思われる状況下での対処の仕方としての羞恥である。
 羞恥と偽装とはあたかも人類とウィルス、病原菌たちとの共進化過程のように相互に影響し合っている。つまり偽装するということは、偽装しないでいる状態よりはましであるという咄嗟の判断でそうしているのだ。そして偽装することの背後には固有の羞恥が介在して真意や実情を他者には知られたくはないという心理が働くことを意味する。
 誰しも多少は咄嗟に身構えるが、その防衛姿勢を解除し得るか否かは深く経験的知というものが介在している。しかし人間が知り合える他者の数というのは限られており、その範囲内で類似したケースをその都度探るというわけである。
 
 さて羞恥が偽装を招聘し、偽装が羞恥されるべき内容を安全地帯へと仕舞い込むわけだが、この判断そのものは生来のものであるのか、後天的なものであるかということは相互に密接に絡まり合っていると考えていいだろう。つまり自然選択と突然変異との折り合いをどうつけるかということと、遺伝子自体の意志、細胞自体の意志とも言えるような作用を認可し得るか否かに今日の分子生物学以降の進化論生物学の課題があるように私には思える。つまり自然が細胞や遺伝子全てに介在して、遺伝子や細胞には一切選択権がないのか、それとも自然全体の都合(この表現は擬人化した言い方だが、要するに厳密な法則と考えればいいだろう)によって変異が生じるのか、それとも変異それ自体が遺伝子や細胞の側の都合によって突出するのかという問題は、ある現象に対してどういう視点から理解すべきかということに帰着するように思われる。そのことに似た状況を実は羞恥という心の作用と偽装という心理の両者には適用し得る気が私にはするのである。
 つまり羞恥を介在させる時の真意というものは、その際に私たちが何か特定の対象、現象、事実に対して固有の感情を抱くことに起因するわけだが、その羞恥とはそういう真意である、そういう感情を抱くことがある、あるいはそういう理解の仕方をすることがあるということそれら自体を他者に悟られることにある種の顰蹙を買う可能性があるのではないかとか、非難されるのではないかという目測の下で成立するからである。
 それに対して偽装は、その羞恥を隠蔽し、平静を保ち、平常を装うことを目的とした表情、言辞その他全て対外部的に、対外的に示される態度全般に漲る他者からの印象を決定付ける表示以外のものではないので、当然のことながら羞恥内容に沿った固有の表示意志努力と戦略を要する。その際にはフロイトが考えた超自我ということも考えの内に入れておいても間違いではないだろう。確かに脳科学ではフロイトのリビドーという考え方は否定されている状況下ではあるが、理解の仕方としてそれらは尚有効であると考えても間違いはないだろう。「実際のところ、フロイトの<超自我>は、結果的に当の個人にどのような損害が及びえようとも、社会の命法こそが個人の命法になるということを意味するからである」というミシェル・アンリの言葉(「共産主義から資本主義へ」野村正直訳、法政大学出版局刊 中 第二章より)をここで持ち出すなら、その社会の命法に随順する形で、ある他者の意見につき従うとか、真意を隠蔽してそのように振舞うということの内には、つき従うことが別に不本意ではない場合でも、不本意である場合でもつき従う、つまり自分によって他者より先んじてそうしようと思う場合とは別個のものとして考えてもいいだろう。つまり真意をあまり明確に持たないということの前者のケースと、真意はそうではあるが、それを捻じ曲げて相手に合わすということの後者のケースとは、真意を捻じ曲げないで明確に持つということの前ではそうその違いは大きくないからである。
 真意を捻じ曲げるということは社会の命法に対して不満があっても、それを表明することはいけないことだという抑圧によるものであり、逆に真意をそう明確には持たないということは、社会の命法そのものはどうすることも出来ないという諦念に支えられている。
 だから偽装という形で言うなら、明らかに真意を捻じ曲げることの方によりそのエネルギーが払われ、逆に真意を明確に持たないということは、判断保留を意味するから、必然的に個人の命法ということに対して懐疑的な見解を捨てていないということを意味しよう。
 個人というものは社会の命法に対してそれを素直に受け入れるか、それとも億劫であると思うかということでしかないという判断がこの考えにはあるように思われる。

Sunday, January 10, 2010

〔羞恥と良心〕第三章 良心という物語

 私たちは社会という仕着せに対して無頓着に生きることは出来ない。だから気がついた時には半ば自分の意志であるかのように何らかの教育機関とか何らかの集団の一員として位置づけられるが、それを強制という風には感じることはその段階ではなく、寧ろ慣れ親しんだ末に何か自分の周囲に問題が発生した時に「私たちはこのように強制的に社会の一部に組み込まれている」とそう感じだすという次第である。
 だから何かをいけないことであるとか、何かを潔いことであるとか、何かを積極的にした方がいいことであるとかいう判断が果たして純粋に自分の考えだけで下したことなのかということを問われれば、何と返答したらよいのだろう?ではその自分で考えたことというのはどういうことを指すのだろうか?つまり完全に自分の考えなどというものが果たして成立し得るものなのか、それとも全ての自分によって下された判断が自分の考えではなく、ただどこかにかつて存在した考えの引用であると一々考えることには意味がないのだろうか?
 それを問われるなら恐らく、自分で考えたことというのは自分が他人の考えに対してその都度どう思うかということでしかないのだし、だから当然完全に自分の考えなどありはしないし、そして最後の問いに対してはそう考えることはニヒリズムに陥ることさえなければ重要なことであるとだけ言い得るだろう。
 だから世の中に存在する人間の心の慈悲心とか、愛惜とかそういった類の全ての感情は、実は本当に自分の資質から出されたものである場合の方がずっと少ない。つまりこういうことである。「あの人が気の毒だ」とか「あの人のすることは立派なので共鳴出来る」とか言う時私たちは社会全体の通念とか、それまでに社会とかかわることによって会得した教訓とかそういうものに極めて忠実に判断しているのであり、勿論そういう判断をすることの方が自分の私利私欲から出た行動へと直結する判断よりも多いということそのものは多少その人間の資質とか性格と関係があるだろうが、私はその差というものは微々たるものであると思う。
 つまり「あいつは良心の欠片もない奴だ」と誰かが言う時、明らかにそれは私たちにとって良心というものをある種共通のコードとして認識して、その認識に合わすことを知らない者と判断しているのであり、それは「彼は冷たい奴だ」と言う時の判断とも少し違う気が私はするのである。それはカントが言っていて、「人倫の形而上学の基礎付け」において彼は自分の性格とか資質から出された判断とは道徳的ではないとしているが、要するに良心という心の作用は、実際社会的な規約とか通念に対して、道義的にそれが正しいと理性的に判断されたもの以外の何物でもないのであって、「あいつは冷たい奴だ」という判断は寧ろ私的な贔屓感情とか親密な間柄でのエゴイズムにしか過ぎない場合の方が多いだろう。それは前章で既に述べた私的共感とか仲間のよしみというレヴェルにおいてよく眼にする判断である。
 となると、良心とは法規とか、責任ともまた異なっていて、責任による良心もあるが、責任とは別個に成り立つ良心もあるかも知れない。となると法的な規約による判断ではなく、人間性、つまりヒューマニズムという側面から考えるべきものも含まれることになる。
 良心ということを社会での責任という側面から見ると、良心的である行動や振る舞い(良心的でなければならないという社会的義務的観念による)の全てはどこかしら真意とも完全に一致しないこともあり、その場合偽装的な態度となる。それを私は責務偽装と呼んでいる。社交辞令もそうだし、例えば若いアナウンサーがニュースでかつて活躍した政治家の死去を伝える場合、明らかに彼らはその時代を知らないのに、知っている世代に向けて語られるニュース内容なので、あたかも自分の知っているかのような表情でニュース原稿を読むことなどは、伝える側の伝えられる側への配慮である。
 社会ゲームということを私は常々考慮に入れて考察しているが、その最大の偽装は犯罪であるが、犯罪までいかなくてもサラリーローンの借り受けが直接出来るオフィスでの受付の女性の応対にも、止むに止まれずサラ金に駆け込む人に対してにこやかな表情をするだろうが、それは相手の立場を親身になって考えてあげているわけではないからやはり責務偽装であるし、悪質な金融機関におけるケースとは、私が策謀偽装と呼ぶものかも知れない。振り込め詐欺を誘引する犯罪者による言葉巧みな演技は全てこの策謀偽装である。本当はテロを起こす気でいる潜伏テロリストが一般市民を装い、日常生活を他者から怪しまれないように送るということも策謀偽装であろう。しかしこの偽装は、ある信念、つまり「私たちのしていることは正しい」という気持ちに基づいてしているので、ある意味では責務偽装の中の一特殊ケースとも言える。しかし私は責務偽装をもっと正しいとか正しくないとかとかかわりなく、要するに「合わせておいて間違いない」という一般的な態度、所作その他の習慣的なこととして考えているので、策謀偽装とは、信念に基づいてしていることをも含めたものとした。つまり犯罪者もまた、ある意味では「こういう生き方しか俺は出来ない」という、精神疾患的な犯罪もあるが、そういう精神疾患そのものをも誘引する自己に対する物語化、例えば「俺は負け犬だ」とは「負け組だ」といった考えそれ自体に内在する対自己信念である。だからサラ金の受付嬢の態度や笑顔は、部分的には責務偽装であると言えるし、相手をこちら側の術中に嵌らせるという意味では策謀偽装であると言ったが、またそういう観点から言えばスーパーの店員やレジ係りの客への応対もまた、精神的には多少の策謀性があるとは言える。しかしそれは法外なことではないし、策略という命名には当たらないので、区別した。
 しかしある意味では一番私たちの生活において馴染みのある偽装は、学会などで、どんなに偉い学者でも、一つか二つは皆が当たり前であるとして知っていていて当然のことを知らない場合がある。それは専門的な知識に関してではなく、どちらかというと一般教養的な面でのことである。そういう場合そのことに関する話題になっても、知らない者はあたかも皆と同様自分も周知のことであるとしてすました態度をとり続けようと目論むだろう。そういう場合知らないと正直に告白することに羞恥を覚えるので、私は羞恥偽装と呼んでいる。
 これらの偽装と社会ゲームで良心が一つの体裁として、建前として機能している場合、それは良心ということがどのように介在していると考えたらよいのだろう。
 つまり本音と建前ということで言えば、真意と偽装と考えればよいと思う。つまり本音で付き合う人間関係は、若い内は楽しいが、一定の年齢を超えると、どこか鬱陶しさが付き纏うこともある。勝手知った相手以外はそう容易に信用しなくなるのが大人の一般的姿である。 
 そうなると策謀偽装の場合は詐欺や犯罪ということに繋がる恐れが非常にあるが、それ以外の責務偽装と羞恥偽装では責務においてにこやかな表情を取り繕っている大型スーパーの店員やレジ係りの態度は、社会的良心に起因するだろうし、羞恥偽装は社会的地位に相応しい態度を周囲が自分に求めるので、それに対応しながら仕方なくそうしているという側面もあるから、やはり社会が自分に対して求める態度を取り繕うという意味では、良心という物語を偽装しているとも言える。
 また社会全体がこういう気持ちで臨みましょうと提案するということがマスコミや政府によって奨励されているという状態は、戦時においては当然のことながら、平和時でも経済危機的な事態においては考えられるところである。そういう場合私たちは明らかに社会コードとしての良心という物語を原音楽的に奏でているわけである。社会風潮とかもその内の一つであろう。つまりそれに合わせる形で私たちは個人の行動も考えていることがある。それは個人の対他的な心理である羞恥偽装ではなく、どのようなサイズの集団協調ということでもそうだし、それが責任ということにおいて自らの私情を排除した公の態度で臨むということであり、責務偽装となる。それは先ほどのニュース原稿を読むアナウンサーにとっての責務のような職業的なことは、公的な水準のものであるが、地域社会とか、友人関係での場合、明らかに私的な交際とか、職業から離れた社交では社会通念とか見識とか良識と呼ばれることである。それは半私的、半公的とでも言える水準のことであろう。
 勿論意志的に努力して厭な顔一つ見せずに何かするというようなことは、生来そういうことが嫌いではないということからすると、偽装であるが、それはカント的なモラル論からすると、そんなに責められるべきことではないことになる。しかしそのことには本論では立ち入らない。
 問題となるのは、そういう良心ということが物語化するということなのである。つまりそれが正しいという形でコード化されるということは、法化、記号化されることであるから、制度的な呪縛ともなる。それは誤った傾向でそうなった場合、暴動や革命を誘発するものと化す。ディアスポラやホロコーストといった形で、あるいはエスニッククレンジングという形で顕在化することがある。つまり全てある風潮とか思潮というものは正義とか倫理の物語化、つまりその物語の共有という側面からの極度の集合無意識的な陶酔状態と言えるものなのだ。
 あらゆる思想や哲学の何とか主義というものは全てこの正義とか倫理の物語化によるものであり、それが長い間の通念や制度となって我々を救ったり、苦しめたりする。だから私たちを救ってくれるコードは私たちの思考方法にまで昇華され、やがて新しいものであっても、古典的な性質のあるものと認可され、私たちの人生の物語に組み込まれていき、逆に苦しめるものはやがてコード化された物語としては衰退していく運命にあるものであろう。

Sunday, January 3, 2010

〔羞恥と良心〕第二章 悪と責任

 とは言え、私たちは常に私的な感情に流されて公的な意味でも私的な意味でも生きていけるほど社会自体が個人に対して寛容でもなければ、ある部分では惹かれていくものと、その惹かれることを他者にはそう容易に告げることが出来ないで、密かに惹かれるということの二つはしばしば両立し得ることだろう。つまり公的な場所とかで公言することを憚られるからこそ、惹かれるものには魅力があるのであり、逆にそのことが共に似た趣味とか、似たものに惹かれるということが、共犯関係的なニュアンスから一層親密になるということがある。
 さてこの二つの心の作用、つまり惹かれるということと、そのことを公言し得ないということは、時としてしかし社会全般の判断からすれば、決してその者の味方をすることが出来ないような場合もあるだろう。つまりそこに社会的責務とか、共感という私的感情を抑制することを社会全体から、あるいは社会通念において求められることもある、という意味では悪というものの魅力とか、逸脱者に対する共感は、時には否定する必要がある、深情け的な対人価値規範というものは、時として警戒されるので、周囲の皆が否定するような雰囲気の場合には極力その者に対して共感を示すことを控えるということはあり得る態度の採り方だろう。
 つまりそこに私的共感という奴と、公的な価値規範に対する順応や、体裁だけでも合わせるということは分離していて、時には後者に合わせるということがあり得るだろう。
 つまりだからこそそこに私たちは責任という概念を考える必要性があることになる。
 つまりある行動において、時には個人的感情を抑えるということは日常的にあり得ることなのであり、自分の嗜好を犠牲にしなくてはならないことというのは社会ではしばしば生じる。それは理念的な意味合いから、自らの社会信条からそうしなくてはならないこともあるし、本当は惹かれる者に対して拒否反応を自分以外の他者に示したりする必要がある場合というのは、例えば自分がお世話になっている人に対して気を遣うということであり得る。つまり世間体以前の、適度の親密度の高い人に対して合わせるということは充分あり得る。そこで自分の嗜好を抑えるようにして真意を語ることを控えるということは往々にしてある。前者は社会倫理的なことであり、後者は私的な事情による。よって責任というレヴェルでは前者により比重がかかっているわけであり、後者は柵ということになる。この柵という奴は、余程社会的に成功していて、充分黙っていても定収入があるような人にのみ逃れて生きることが許されるものであり、通常殆どの人はそれを除外したら、生活自体が成り立たないということがあり得るのだ。だから後者の場合は責任ということとはいささか違う。
 つまりここにある意味では半強制的な良心というものが生まれるのだ。それは仲間のよしみとか、要するに付き合い上での礼儀とかそういうことなのだ。だからこれは当然世間一般の良識に根差しているし、世代毎の礼節の尽くし方は異なってくる。
 しかし良心とは責任というレヴェルで取り払われる倫理的な水準のもの(社会正義的な大局的な認識)ともっと私的な親密度に応じた対応とではその性質は異なる。と言うのも前者はより公平であり、贔屓をしないということがあるが、後者は積極的にそして主体的に親密な関係のものを優先するということになる場合が多いからである。
 だからよしみである人間関係においてもかなり弊害となるような親密度というものも世の中にはあり、そういう場合別にやはりお世話になる人がいたとしても、そのお世話になる人それぞれは全く考え方も違い、思想も違い、性格的相性も悪い場合すらあるから、それらの間を掻い潜って双方と巧くやることすら社会では求められる場合すらある。
 責任とはそういうそれぞれの違いに応じた対応における礼節ということに内在している。悪とは逸脱した個性に対して応援するような贔屓感情もあるが、端的に責任上形式的に公的な意味でお世話になっている人に対してなされる礼節そのものに払われる真意とは別の対人処理という形で実は実践されている。つまり適当に対人関係をこなしていくという知恵に、その処理の仕方に慣れた成員と、そうではないタイプとの間に多くの世間的な対応に類する上手下手が顕在化し、他者に与える印象も異なってくる。つまり差が出てくるのだ。だから真意の暈し方そのものが技巧的でありながら、その技巧を感じさせない対人術こそが悪意ではないにしても、許される悪として社会通念上では暗黙の内に多くが認めていることなのである。
 つまりそれは対他的に必要悪的に払われる<許された悪>、つまり全ての成員に対して本音で接することなど人間には出来ないから、ある成員に対してこれこれこのようなことについては真意を語れるが、別のある成員に対してはそのことについてはあまり真意を語れないものの、別のことについては真意を他の誰よりも気兼ねなく語れるということがある。
 つまりその種の各人に応じて接し方そのものを使い分けるということそれ自体があまり難なくこなせるということ(技術)は世間的に巧く渡っていくという最低限の責務的な知恵には必要とされている。だから不文律的な意味でこの世間とか社会一般には、許される悪、と言うよりもっと積極的に最低限のマナーとして心得ておかなくてはならないタイプの対人処理法というものは、必要とされる最小限度の悪なのである。その最小限度の悪と責任を巧くタイアップさせて社会生活を成立させるということが求められているのは、どの成員においても変わりないだろう。
 だからこそ逆に本当の意味で人がどう言おうが、自分にとっての主観的価値としては、世間的な意味で、あるいは社会全般から白い眼で見られている人物に対して自分だけは真意ではそう責める気にもなれないということは、一般的には悪とされる者に対しても、自分だけは悪として捉えることが出来ないわけだから、良心という形で他者からは捉えられても、もっと本能的なレヴェルのその個人に内在する感性の問題なのである。それは人格的、性格的、資質的な相性とかの問題であり、社会的責任に密着した良心であるよりは、意志選択的な共感と言った方がいいだろう。
 私たちは人生を物語として生きる。思い出、後悔、期待、満足といった全ては、存在者が存在している事実に対して、自然なものであるとか偶然的なことであるということから感じるやるせなさを確固として価値、意味、目的のあるものに変えるために人生を物語として生きることを密かに決意する。それは殆ど無意識の内にそうしているのだ。そうして作られた人生という物語の中で出会う全てのものを「世界」と位置づける。
 自らをビジネスマン、公務員、教育者、文学者、科学者、格闘家、エンターテイナーといった位置づけを与えながら、その方針に沿った目的に従事しているという意識で、責任を果たそうとする。その責任は目的遂行のためには些細な私情を犠牲にするという美学によって構成されている。個人的感情を抑え自分の嗜好を犠牲にしなくてはならないという社会倫理的なことを私的事情より優先するという責任が、ともすれば私的場面では良心を発揮したり、あるいは贔屓する者やものに対しても拒否したり、ネガティヴな価値を他者に示したりするものもまた、羞恥である。原羞恥が呼び起こす原音楽的な羞恥である。
 つまりこの場合私たちは悪を構成することを可能とするエネルギーと能力を最低限のコードに自己を随順させるために責任によって発動させる。そしてその責任とは、原羞恥的な私情に対する克服を旨としている。原羞恥的私情では贔屓したり、拒否感情を抱いたりするものに対しても、それぞれ否定したり、賞賛したりすることが往々にしてあるのは、端的に原羞恥的感情を原音楽的な言説や通念や社会へ自己を同化させるためにそうするのであり、あるいはそれらの価値や存在理由を他者‐自己の相関の中に位置づけるからである。これは原羞恥(本能的な感情を育むもの)に対する原音楽的な客観化に他ならない。ここに思考と言語がかかわる余地があるのだ。
 つまり物語とは実は私たちの胸中には他者と遭遇した時に既に立ち現われているのである。つまり生きるということが既に一つの哲学であるような意味においてである。
 生きることそのものが一つの物語であるような視点から現実を見ることから、私たちは私たちに固有の物語を生きる。それは私にとっては私の物語であり、それが私の世界であるし、あなたにとってはそれがあなたの物語であり、それがあなたの世界である。そしてその二つの間には常に越えられない壁があり、その壁のことを我々は互いに知っていて、その見えない無数の壁の存在こそが私たちを私に固有の感じることという羞恥、つまり原羞恥を作っている。そしてその原羞恥を克服するためか、あるいはその存在があることを「ないことにする」誤魔化しによって私たちは原音楽的に他者に協調する。つまり「合わせる」わけだ。その時私たちは自己内の羞恥という事実自体を知らず知らずの内に客観化している。それが意思疎通し合うということであり、他者と語るということなのである。その自己内の羞恥を客観化するということが責任となる。責任はだから原羞恥的な欲望レヴェルの感情に対して「ちょっと待てよ」と自己内で対自的に囁く原音楽的な対他戦略なのであり、その際には本来なら贔屓したくなるような対象に対してさえ悪を発動させるためのエネルギーを利用して私的価値を剥奪し、公的な水準でそれらを評価しようとする。
 だから悪を発動させるエネルギーと能力は責任という名の他者‐自己との間での意思疎通において払われる意識に大いに活用されると考えればよいのだ。
 私たちは知らず知らずの内に悪を発動させるエネルギーと能力を羞恥の払拭と責任遂行という原音楽的な決意の下に利用する。そしてそのためには時には親しい間柄の人間に対しても素知らぬ振りをしたり、贔屓の者を揶揄したりさえする。それは本能的自己防衛であるが、ある意味では自ら作り上げた人生という物語に対してそうしながら内奥の自分でも気がつかないでいて、気がついても気がつかない振りをし続けるようなもう一人の自分に対して畏怖を感じる<自分の中のデーモン的な要素>の存在という不合理に対して、自分という物語における論理の合理との間での帳尻合わせのためでもある。