Sunday, January 31, 2010

〔羞恥と良心〕第七章 羞恥と小心

 人間は弱い。だから本当は案外自分は不幸なのではないか、そう感じるということも実は自分よりずっと幸福で恵まれていると直観的にそう思える者を基準にして、その者に比べれば明らかに自分は恵まれていないとそう察知しているわけだが、とにかくそう了解した瞬間直ちに自分よりもっと不幸な誰かを何とかして探し出し、その者を憐れむことによって自分はそれよりはまだましだとほっと安堵の溜め息をつくのである。
 これは端的に人間の小心に根差している。しかも自分の不幸を、「私は不幸です」と声高に叫ぶ勇気のなさから、自らの他人と比べて不幸なことを必死になって隠蔽し、他人よりも自分の方が恵まれているとそう思いたがり、要するにそこに真の自分を他人に知られ、そのことで憐憫を持たれることを極度に忌避しようとする。つまりそこには明らかに羞恥感情が控えているのである。
 ではこの小心がいけないもので、一切排除すべきものであるかと言えば決してそうではない。人間の脳は楽観的に全てを考える傾向があると脳科学者ならそう言うに違いないが、実は全ての小心とは、端的に例えば科学的態度にも言えることだし、要するに価値ある勇気である場合も多いのだ。
 科学では断言することを出来る限り回避する必要がある。それはどんなに蓋然性の大きなことに対してでもなのである。つまりそうではない可能性がたとえ0.1パーセントだけでもあるのなら、その可能性を封鎖すべきではないという考えが科学者にはあるようで、従って慎重で配慮のある科学者なら、絶対百パーセント確信が持てないことには断言することを避けることを心がけている人というのは多い。
 それを勇気であると受け取るか、小心であると受け取るかということには諸説あるだろうが、小心が羞恥を常に伴っているということは事実であると思われる。しかし小心であるということを他者に対して適用する時、例えばいざ出陣という時に怖気づくということは、武者にとって恥だっただろうから、それは克服すべき対象だっただろう。しかし恐らく平時では、あるいはどちらに進むべきか岐路に迷う時には、人は失敗とか、とんでもない後戻りの出来ない状況を憂慮することというのは、求められる慎重さとして、例えば相手が責任ある地位にあることをこちらが心得ている場合、その者の小心を慮り、忖度したり、尊重したりする態度はよいことと言えるだろう。つまりこの場合ある他者に対してその小心な態度を石橋を叩いて渡る慎重さと、羞恥を有効に使用する賢明さにおいて尊重することを正当化するケースであると言えないだろうか?
 しかしだからと言って自分より不幸な人を探し、その人を憐れむことによって自分の拠って立つ地点に安堵するということは褒められたことではないということを、実は誰よりも自分が一番よく知っているのだ。そのことはある意味ではこのような小心というものが、いい反省材料になっているという意味では他者に公言すべきことではないものの、一人でそう思い噛み締めるということは無意味なことではないだろう。
 私たちはしばしばある嫌味な一言に対して「気が利いたことを言ってくれるじゃないか」とか「全くそういうことを言うなんざ、可愛げのある奴だぜ」とか表現する。それは勿論字義通りではなく、その反対のことを言うのに敢えて肯定的に表現するわけだ。
 それは英語でIt's so badという言い方が意味的にはIt's so goodとかIt's so coolとかいうことである場合がかなり多いのと似ている。
 つまりそこには皮肉交じりに何かを言う時、どこかで我々は正論を正面きって言うことを憚る羞恥が介在すること、そしてその羞恥は相手に対する若干の畏怖が手伝って、つまり小心的な判断によってそのように言う場合が多いだろう。しかもあまりにも相手が抜け抜けとそういう言辞を吐くということに対して飽きれる意味合いも込めて、そこには諦観的な感慨があって言うのである。つまりそこにはプロテスト的意志をもってしても、如何ともい難い雰囲気が漂っており、そのことに対するやんわりとした苦情の意味合いが込められている。しかもその相手に対してそういう阿漕なところがあることに対して一抹の憎めなさがあるという心理も手伝っている以上、そういう言辞には幾分、もし自分も彼(女)と似たような状況になったのなら、同じようなことを言うかも知れないという予感さえ漂っている。つまり羞恥という心理にはそれくらい小心と、確たる自信のなさに起因するお互い様という意識が濃厚に漂っている。これは自分よりも不幸の人を探す心理にも似ているところがある。つまり自分でもそうなったかも知れない可能性に対する着眼がこのような言い方において、和らいだ形での非難となって顕現しているのである。そして相手が自分よりも惨めな状況かも知れないという目測があって、その字義通りでは褒め言葉を貶し文句にこめているというわけである。

Monday, January 25, 2010

〔羞恥と良心〕第六章 良心と優先順位

 何らかの意志決定とか、行動の規範とするものとは、要するにその人間の人生に対する思想(前作「存在と意味」http://entityandmeaning.blogspot.com/で私が規定した考えである。要するにどういう風に人生を作品化するかということにおいて最もそれに相応しいと思えることを信条とする生き方に対する自らの指針)に随順して形成されている。それは若い世代よりは、大体45歳以上の年齢になっている人に多く感じられる生き方に対する決意である。だから日常会話とか、他人と何かを話題にする時にも、これこれこういう場合にはこれこれこういうことを言うのは適切ではないとか、これこれこういう場合にこれこれこういう対応を他者にとるのはよくないことだとか、憚られることであるとかいう判断を支えるものであると言ってよいだろう。
 しかし同時にそうではない例外的なこともあるのだという判断も成立することがある。そのような例外的なことも含めて全ての判断を支えるものこそ人生に対する思想の構成要素であるところの良心かも知れない。そして明らかに個人毎に異なった優先順位というものがある。その優先順位において全てに対して自己の欲望は慎まねばと考える向きもあるだろうし、逆に全てに対して自己の欲望を優先すべきであると考える向きもあるだろう。
 そして何が憚られ、何が尊ばれるかという判断も個人毎に異なっている。
 しかし私たちにとって最も眼にとめておかなくてはならない事実とは、端的にどのような判断や判定基準も、自分自身の経験したことをベースにしているということである。つまり私たちは他人が私によって何かあることを言われたら、自分ならこう思うだろうなということをベースにしてその他人の立場になって考えているのであって、それ以上にその他人になることは私たちにでは出来ないということである。そしてある他人から何らかのことをいきなり言われたら、きっと自分なら頭に来るだろうなという推測を下にして、我々は何かあることはいきなり他人には告げるべきではないとそう考えるわけである。
 それはある行動をとろうかと考えている時でも全く事情は同じである。つまりこれこれこういう時にはこういう行動をとるべきであろうかと考える時、我々は他人がそのことを知ったらどのように思うだろうかということをベースにして考えるのだ。
 つまり恐らく良心というものの本質とは、そのような自分なら他人がとるある行動に対して、あるいはある発言に対してこれこれこのように感じるだろうという推測において成立する他人の立場にたって考える何らかの心の作用ではないかということである。
 しかしそれはあくまで私なら私の経験を通してしか想像することが出来ないのであるから、私自身の経験の内容とか、深刻さとか、苦悩の度合いとか、感じ方から離れて抽象的に考えることなど出来ない相談である。だから良心という心の作用の基本は、自分ならこう感じるだろうということを他人に対して適用したものであるとはまず言えることである。
 しかしそのこう感じるだろうと他人の立場に取り敢えず立って考えるということの内でも、実は自分と同じような体験とかその内容を持って人というのは、この世には殆どいないのであり、仮に非常に似た人がいたとしても、その人と巡り合う可能性は極めて低いし、そういう人と自分がでは果たして巧くやっていけるのかということもまた別問題である。
 そこで自分と異なった体験、つまり履歴であれ、経歴であれそれを持つ他人に「私が彼のような立場になったらどう考えるだろうか」という仮定的な想像を巡らすということになろう。そしてその際にも自分ならこういうことを優先するだろうとか、自分ならこういうことをされることは厭だが、別のああいうことをされると嬉しいだろうなと考える。
 しかしこれは誰でも経験することではなく、ある特定の人に対して、その人に固有の経験、経歴、履歴の立場になることを想像するわけだから、より具体的な想像であるとは言えるだろう。そしてその想像をより可能にすることとは、端的にその人と親しければ親しいほど容易であるということもまた確かだろう。
 要するに我々は他人の立場になって考えてみるということにおいてさえ優先順位をつけているのである。そして良心そのものの内容さえ自分の経験を下に主観的にしか想像することなど出来はしないのである。だから当然自分の一個の世界全体から見れば狭い小さな頭で必死に考えたところで、所詮想像の域というものそのものに限界があるわけだから、私たちは他人はどういうことを考えているのだろうかということを必死に考えることをより可能なものにするために書物を読んだり、ある時には他人と会ったりしてその人の考え方を聴こうと思うわけである。そして「ああそうか、自分ならこういう時こう感じるが、この人はそういう時には、そう感じるのか」と納得することもあるし、益々疑問に感じるようになることもあるだろう。あるいは自分ではこういう時にこう感じるということはきっと自分に固有のことだと思っていたら、予想外にそのことについて尋ねた他人も、同じように感じることがあると知ると、妙に安心したりすることもあるというわけである。
 そして恐らく良心という奴は、何らかのそういう経験がいつの間には積み重なって、次第に自分自身の体験的事実をベースにした人生に対する思想が私たち自身に語りかけてくれるその都度の判断という風に考えるとより理解しやすいかも知れない。つまり自分のことを最初はベースにして考えているわけだが、ある時から何故か、例えば先ほど言ったような好きな人とか、親しい人に固有のことだけではなく、普段自分にとってあまり好きではない人とか、親しくはない人をも含めたもっと広い視野に立って考えたことがベースになってより一般的にはこういう時というのは人というのはこう感じる筈だという何らかの法則を見出しているものである。そしてその法則こそが理性とか呼ばれるような何らかの行動や考え、あるいは判断を育み、良心というものはそこから汲み出されてくるものであるとは言えないだろうか?
 そしてそのある時とは、自分中心の考えなどというものは取るに足らない、要するにこの世の中や世界には、自分以外の大勢の人がいて、彼らはそれぞれ必死に何か考え悩んでいるのだということを考え、自分対自分以外というものは、一対多であるということにまず気がつき、そのことに気がついた状態で、一切の自己固有の欲求を解消させ、他人の立場に立って、しかもその他人とは他人一般であり、自分にとって親しい固有の他人ではないもっと本当の他人の立場に立った考えがふと浮かんだ時のことなのではないだろうか?このことはどこか自分自身を最も後尾の側にして考えている状態であるから、優先順位としては見ず知らずの人というものが存在優先順位では最上である。
 しかしこのような考えは、やはり四六時中提出される考えではないだろう。人間はもっと些細なことでくよくよ悩む。しかしある時吹っ切れるようにそう感じられるとしたら余分の野心を捨てて、本質にだけ忠実になった時の心境ではないだろうか?つまり余分な欲求というものは、自分にはないものを強請っている心境であり、それをすっかり諦めること、つまり潔く自分が今現在持っている能力で勝負するしかないと腹を括る時の心境である。
 世の中の作家とか、詩人とか、評論家とか、学者たちは何らかの意味で常に自己と対話している。それはどういうことか?つまり先ほど言った他人の立場というものにどれだけ我々自身がなれるのか、どれくらい私情というものを排除して自分の行動や発言を有益なものとして履行し得るのかということに対する挑戦として、何かを書き、それを世に問うという職業の人たちにはあるからである。それは自己の能力に対する対話であり、自己の能力に対する対話のないところでは良心というものも育まれることなどないということも意味する。つまり良心とは、理性と呼ばれるような心の状態が、ある時、すっかり自分の余分な欲求を取り払った時ふと浮かぶ向こうからやってくるようなタイプの考えであり、脳科学などではセレンディピティーとは呼ぶようだが、インスピレーションとも近いものだろう。しかもそれはより一般化された価値像であるのだから、必然的に責任倫理にも近いものであるに違いない。
 つまり良心とは端的に自分の中にある想像力という力が、特定の、個人的なものから少しずつ離れて、自分以外の誰にでも該当するようなタイプの想像それ自体が、少なくとも自分がかなり具体的に想像し得るような形で出来るようになる状態によって生まれるものであるとするなら、必然的に個人的であること、私情的なことそれ自体が、次第に一般的なことに昇華していくことであり、具体的であることそのものが、抽象的な領域にまで踏み込み、小さな欲求や余分な欲求が価値として限りなくゼロに近づく状態と定義してもよいことになるのではないだろうか?
 つまりそれは欲求というものの内容に関する優先順位において、より真理に近いものが理想となるような状態、つまり意志的に、私情とか私欲においては意志的にならないことに赴くような心の状態であるということは言えそうである。それは理性という形で立ち現われるものの中でもより、他人の立場に自分がなってみているということである。これは責任にも言えることであるが、責任の場合には、より自分の立場の限られていることを全うする必要がある場合が多いので、必然的に相手とか、他人の立場になることがいい場合とそうではない場合とがあるのに対して、良心とは、その点他人の立場の方をより価値的に優先するようなタイプの意志であるということもまた言えそうである。

Wednesday, January 20, 2010

〔羞恥と良心〕第五章 羞恥と睡眠

 本来他人に対して容易に告白しえるものなど大して重要なことではない。ある種の夢の内容で他人に語れるものは概して抽象的な内容のものに限られる。要するに意味連関として客観的にその夢がどういう潜在意識を表しているのかということが推察しやすいものに限られるのだ。
 例えば私が最近見た夢は、昨日は昔描いた絵(紙に描いたドゥローイングだった)が油彩画になって完成した様子が出てきたが、それは最近取り組んできたシリーズが予想外に時間をとってしまったので、少々それを持続するのに飽きがきていたということも手伝って新たなアイデアを捻り出そうとしていた矢先に見た夢なので、その理由というものは推察しやすい。
 あるいはもう少し前に見た夢はこんなだった。ある観光旅行で深夜の特急電車に乗るために駅に急ぐと、もうちょっとで間に合うところが乗り遅れ、次の特急の停車駅まで深夜高速バスで急いだが、そこでも辿り着いてさて特急の乗り換えようと思ったところで乗り遅れ、特急は発車した直後だった。そういうことをいつまでも繰り返してとうとう目的地まで到着していまい、わざわざ先日緑の窓口で買い求めた特急券が無駄になってしまったというものである。
 しかしこの夢は(少々ゼノンのパラドックス<アキレスと亀の>を思わせる)ある程度分析可能である。何故なら私は11月初旬に出かけた京都旅行を、当初はJRの快速深夜便に乗って行く予定だったのだ。しかし行く直前になって深夜高速バス(ツアーバスと呼ばれる)のチケットの方が安価であることを知り私はインターネットと緑の窓口において行き帰りとも入手し得たものだから、その時に緑の窓口においてJR分のチケットをキャンセルしていたのだ。その時の記憶と、今私が取り組んでいる文筆活動に纏わる悩みとか焦りとか不安とかが複合化されてそのような夢を見たのかも知れないからだ。
 しかしこのようなことというのはまだ比較的他者に対して告白しやすい。もっとも他人に対して告白し難くさせる夢内容とは、端的にモラル外的な行動を自分がとったような内容である。要するに肉親を殺すとか、あるいは性的なモラルを外したような内容のものである。それもまだ他人との性交渉であるならいいが、肉親である場合すらあるからだ。
 要するに他人に告白し得ないことの方に寧ろ自分にとっては悩みの本質のようなものがあり、そういうことの方がより切実であるということである。
 
 ところで画家にとってあるフォルムが描かれてゆくということは、そのフォルムを色々あるフォルムの可能性の中から一つだけそれを選んで描いているのではなく、寧ろ最初からその描かれてゆくフォルム以外の何物も思い浮かばないような状態に画家があると言ってよい場合もある。勿論ある特定のイメージ、特定の感情を表現するために語彙を探すということもあるが、そうではなくある特定の語彙だけが予め発話する直前に心に思い浮かぶ場合もそうである。既に決定されたものだけを発話するということは、既に決定されたフォルムを定着させる画家の所作と近い。
 つまり選択ということの内には、全く異なった二つのタイプのものがあると言えるのだ。一つは他の一切の選択肢が眼に留まらないような場合、あるいは思念に入らないというような場合である。もう一つは一つに決定するまでに色々躊躇し、あちこちに行ったり来たりするようなことを繰り返しようやく何らかの形で落着させる(そうしながらも、そうしたこと自体に満足するケースと、そうではなくいつまでたっても不満が残るケースとがある)ような選択とがあるということである。
 夢とは一体その二つで言えばどちらに該当するのだろうか?何か突如出現するあるイメージなり出来事なりは、外界の知覚を休止している状態でなされる記憶内容の整理において、最初から他のものが登場する余地がないような出現の仕方であろう。しかしそのイメージなり出来事なりのその後の展開の仕方そのものは意外とあちこち行ったり来たりすることを繰り返す仕方なのかも知れない。
 つまり二つの相異なったタイプの選択の仕方を両方満喫することが出来るの夢であるということである。つまり何らかの記憶として長期保存されるべきイメージや出来事に対する意味づけそのものの試行錯誤がそのまま夢の内容になって我々のレム睡眠時に立ち現われるということである。つまり短期記憶だけ終わるものなのか、それともそれ以上長期記憶としてあるエピソードが残り得るという形で格上げされ得るものなのかという篩い分けの際の試行錯誤そのものが夢ではないのかということだ。
 しかし夢は常に一定の秩序だったストーリーで現われるものではない。もっと支離滅裂な内容の場合の方が多い。私が告白した先ほどの夢のストーリーは何とか説明が尽く範囲内のものである。そしてそういう類の夢はほんの僅かである。意味そのものもとんと説明し辛いものも多い。そういうものは、意味を履き違えて記憶していたことがある場合、ある夢に登場する道具において、その道具の意味そのものを、かつて自分が履き違えて理解していた方の意味と重なって使われるということがあるかも知れないし、本当はそういう連想をしてはいけないのだというインモラルなことに対してその抑圧が開放されて、そういう内容を夢見てしまうということもあるだろう。例えば私たちは大きな嘘を回避するために小さな嘘を、軽い世辞のようなものも含めて日頃から他人に対してつくことを躊躇わない。しかしどんなに些細な嘘でも嘘は嘘である。それらは積み重なれば潜在的に贖罪の対象と化す。それは自然と夢の中で登場する他者に対して素直に告白したり、他者から虚言を暴かれること、その際の極度の焦り、緊張などが出来事として登場しもするし、意味連関も露になっていくのだ。
 「こころと脳の対話」において河合隼雄氏は、夢で見る内容は、意味というものが通常では予想も尽かないタイプの連関で全てが繋がっているということを知ることが出来るものであると対談相手の茂木健一郎氏に対して述べている。注1

 要するに意味とはその意味連関というものにおいて成立するものである。それは概念として公的に通用する意味連関ともいささか個人史的には異なった部分がある。それは体験に根差した部分においてである。(勿論思い違いをしていたということも含めて)その体験的な知というものは、「そういうものである」と教え諭されたことどころの話ではない何らかの実存知である。だから自らの過去における羞恥的経験の幾つかさえ覚醒時にも想起させずにはおかない、しかも夢では抑制されるべき対外的な対象というものが取っ払われるので意味連関というものも、その幅を広げる。
 そのことは実は言葉を発するということが、私たちにとって一つの決意であるということを意味している。つまり言葉とは、内的に思念する内容に対する規制、あるいは検閲の意味合いもあるからだ。つまりいい大学に入学し、いい会社に就職することが命題である学生というものを考えると、親の期待通りの人生を歩むことはそれ自体懐疑の対象となり得るものであっても、そのことを表立って親に告白することは今の段階では差し控えようとしている高校生にとって「これからは部活動のことは一切忘れて、受験一筋でやっていくよ。」と両親を安心させる一言を告げるということは、そうしたいからそうするというより今の段階ではそう言って親の安心させることが第一だし、またある程度親の期待通りの人生を歩むことを印象づけることが、これから先々色々なことが人生で起きる可能性を考慮すれば、自分にとって我慢する時は我慢をするという試練を経験する上でも得策であるという判断による意志決定の合理化であり、そう親に直に発言することが一つの未来における自分の行動に関する決意でもあるのである。つまり言葉とは、意志を確たるものとする上で発話されることで、決心することに供するものなのである。
 と言うことは逆に生活している上で、私たちは言葉の決定力というものを、公的な意味での概念という規制に呪縛されているということを意味し、その呪縛は、意味連関そのものにも規制がかけられているということになるから、当然睡眠時には、そのような規制から自由になることを脳は私たちに求める。そこで夢では、意味連関そのものをタブー視している覚醒時の意味連関から、「それ以上立ち入ってはいけない」領域にまで踏み込もうとする。
 私たちは夢に対して抱くそのような見解は、実は、覚醒時に書かれるあらゆるテクストに対しての見方にも適用し得るということなのだ。つまり言説を作るということそれ自体に一つの決意というものが読み取れる以上、私たちはあらゆる文章に、それは文学者や哲学者、あるいは詩人やアーティストに至るまでの全ての創造者によるものだけではなしに、官僚や、ビジネスマンたちによる文章に至るまでありとあらゆる言葉に漲る一つの魔力について考えてみることは無意味ではあるまい。と言うのも、本音というものを隠蔽して書く文章というものがあったとしても、その本音を隠蔽しようとして、あらゆる規制を受け入れるという姿勢そのものは、その文章から読み取れるものだからである。
 つまり言葉化するということには、真意を何らかの形で他者に理解させられるように翻訳するという意味合いが含まれ、当然、私たちは文章を構成するということの内に本当のところはこういう感じなのだが、それを直接言っても理解して貰えないかも知れないので、いやきっとそうだから、もう少しやんわりと抽象的な当たらずとも遠からずの真理に置き換えて告げようという決意に満ちているのだ。そして少し話して、相手が自分の予想以上に自分の意図とか真意を理解してくれてきたのなら、その段になって初めて本当のところのこういう感じについて告げることを決意する。そしてそうしながらも、しかしそれはやはり何らかの形で言葉という抽象的なことに置き換えているわけだから、私自身が感じたこととは幾分ずれ込むということを自覚しないわけにはいかないというところが私たちが日頃察知している真理である。
 だから言葉が既に自己に対する他者という観念を、たとえ日記であるにせよ、含有している以上、私たちは言葉を書く時、言葉を発する時、必ず真理ということ、つまり状況や立場を変えても成立する普遍性ということを考慮に入れているわけである。そして夢ではそういった言葉に含有された意味の世界の規制に対して、日頃から感じ取っている本当のところのずれに対する気持ちが大々的に開放されてしまうのだ。それは当然生理的な感じ、リビドー的なことも大いに含まれる。いやそういうことの方が先に立ち、意味連関の概念化された通り一遍のことの方が背後に回る。そして直接的願望とか、全ての規制を取っ払った真意の核のようなものが立ち現われるというわけである。

Friday, January 15, 2010

〔羞恥と良心〕第四章 偽装の相関関係

 ここで偽装が成立する自‐他の関係について考えておこう。つまりその成立相関こそが、羞恥の在り方を決定するとも言えるし、良心がどういう場面で発揮されるかと関係があるように思われるからである。
 次のような関係から偽装の在り方を考えてみよう。

 ①自己(個)による偽装 対特定の他者(個)
 ②自己(個)による偽装 対多、つまり集団
 ③多、つまり集団による偽装 対特定の他者(個)
 ④多、つまり集団による偽装 対多、つまり集団

 考えられるところの偽装の在り方の内で①は最も標準的なことであろう。例えばお世話になっている人に対して多少考え方とか思想が異なることがあっても、一々それらに楯を突くことのないようにその場で適当に受け流すということには、これである。そして②は会議などで本当は自分は少し違う意見なのだが、例えば全体的な流れではその会議で決議されることが、概ね一致していて、その案に一旦は従うことが、展開上必要な場合、全面的にその案が理想的ではないとしても、まずその意に沿うという意志選択は、これに該当する。そして③は最も顕著な例として、ある独裁であるか無能であると思われている国家指導者、首相や大統領に対して国民が全体的に反意を抱き、更迭とか、退陣を要求するような場合の国民の心理である。
 昨今では経済状況と、それに伴う世論、あるいは社会風潮それ自体が政治を誘引し、政治指導が経済や世論や社会風潮を形作るということが極めて少なくなってきた。と言うより昔からある部分では今と同様だったのだろう。しかし恐らく今よりは政治指導力それ自体はもっと確固とした部分もあっただろう。現代では最早政治指導という観念それ自体が弱体化しており、マスコミそのものが既に政治指導をあまり期待していないどころか、世論を誘導することに躍起になっており、マスコミが好む政治指導を求めているきらいさえある。しかし国民は一定の配慮をマスコミに対しても政治に対しても持っている。それはどのどちらも完璧ではないという形でその都度判断するということである。だから独裁や無能による国民の不満は別にマスコミの誘導如何にかかわらず、体現すれば更迭や退陣を政治指導者たちは余儀なくされる。
 ④は要するに集団の持つ群集性によるものであり、団体競技で培われる同士的な結束というものに一応合わせるタイプの意志決定であり、国家間の戦争もこのうちに入る。
 羞恥ということを重ね合わせると、①では畏怖する相手とか、敬遠している相手、あるいは尊敬している相手とか、その相手に応じてこちら側の出方を変えてみたりしながら、要するに嫌厭の情が相手に対して固有の「構え」を築き、防衛本能を発動させる場合、あるいは憧れる相手に対して固有の「構え」を見せ、舞い上がり防衛本能の極度の解除を示す場合双方にあり得る原羞恥的態度、つまり対他的な応対に付き物の「私にとってのあなたという人の存在感」の表示が示されるということである。これはどんなに隠しおおせようとしても、どこかぎこちなさが顕在化し、要するに素直な羞恥の表示となる。
 しかし多数の意見につき従う場合②には、このような表示とはまた別の、適当にその場を切り抜けるという、本当の態度を保留するということが暗に示されはするが、その暗喩それ自体はあまり大きなものとしてはその時は位置づけられていない。ただ後で「そう言えばあの時、あなたはあまり明確な態度をとっておられなかったですね」とそう判断されることがあるということだけである。つまりあまり積極的ではない形での参意というものが全てこれに入る。これは真意を悟られないように目立たないようにしているということで貫徹される意志であり、羞恥それ自体を悟られないようにするという羞恥である。
 そして③は②が裏返しになったものとも受け取れる。懸案、議案といったものに対する態度が②であるなら、一人の人物に対する態度が③である。この場合も個々で少しずつ違う贔屓感情等もあるのだが、それを抑え、大局というものを見据え、多勢に対して「合わせる」ということにおいてである。これは真意を控える羞恥的態度である。
 そして④は完全に集団内がヒステリックにある一方向に世相が動いている時、例えば昨今の金融危機の状態では、有無を言わさず全ての人が経済危機を乗り切るということが至上目的化するという意味では、「何はさておいても」という心理に全ての国民が、あるいは世界中の市民がそうなるということである。勿論そういう状態でも、「こういう時代だからこそこんな商売が儲かるだろう」と考える成員はいるだろう。しかしそれは密かにそう画策すればよいのであり、景気のいい時期と違って、そういう夢だけを公言することは憚られるということがあり得るだろう。それは何か大きな事故や災害があって、そのことを皆が真剣に対処しようとしている時に、私的な願望を語ることが不謹慎であるように思われる状況下での対処の仕方としての羞恥である。
 羞恥と偽装とはあたかも人類とウィルス、病原菌たちとの共進化過程のように相互に影響し合っている。つまり偽装するということは、偽装しないでいる状態よりはましであるという咄嗟の判断でそうしているのだ。そして偽装することの背後には固有の羞恥が介在して真意や実情を他者には知られたくはないという心理が働くことを意味する。
 誰しも多少は咄嗟に身構えるが、その防衛姿勢を解除し得るか否かは深く経験的知というものが介在している。しかし人間が知り合える他者の数というのは限られており、その範囲内で類似したケースをその都度探るというわけである。
 
 さて羞恥が偽装を招聘し、偽装が羞恥されるべき内容を安全地帯へと仕舞い込むわけだが、この判断そのものは生来のものであるのか、後天的なものであるかということは相互に密接に絡まり合っていると考えていいだろう。つまり自然選択と突然変異との折り合いをどうつけるかということと、遺伝子自体の意志、細胞自体の意志とも言えるような作用を認可し得るか否かに今日の分子生物学以降の進化論生物学の課題があるように私には思える。つまり自然が細胞や遺伝子全てに介在して、遺伝子や細胞には一切選択権がないのか、それとも自然全体の都合(この表現は擬人化した言い方だが、要するに厳密な法則と考えればいいだろう)によって変異が生じるのか、それとも変異それ自体が遺伝子や細胞の側の都合によって突出するのかという問題は、ある現象に対してどういう視点から理解すべきかということに帰着するように思われる。そのことに似た状況を実は羞恥という心の作用と偽装という心理の両者には適用し得る気が私にはするのである。
 つまり羞恥を介在させる時の真意というものは、その際に私たちが何か特定の対象、現象、事実に対して固有の感情を抱くことに起因するわけだが、その羞恥とはそういう真意である、そういう感情を抱くことがある、あるいはそういう理解の仕方をすることがあるということそれら自体を他者に悟られることにある種の顰蹙を買う可能性があるのではないかとか、非難されるのではないかという目測の下で成立するからである。
 それに対して偽装は、その羞恥を隠蔽し、平静を保ち、平常を装うことを目的とした表情、言辞その他全て対外部的に、対外的に示される態度全般に漲る他者からの印象を決定付ける表示以外のものではないので、当然のことながら羞恥内容に沿った固有の表示意志努力と戦略を要する。その際にはフロイトが考えた超自我ということも考えの内に入れておいても間違いではないだろう。確かに脳科学ではフロイトのリビドーという考え方は否定されている状況下ではあるが、理解の仕方としてそれらは尚有効であると考えても間違いはないだろう。「実際のところ、フロイトの<超自我>は、結果的に当の個人にどのような損害が及びえようとも、社会の命法こそが個人の命法になるということを意味するからである」というミシェル・アンリの言葉(「共産主義から資本主義へ」野村正直訳、法政大学出版局刊 中 第二章より)をここで持ち出すなら、その社会の命法に随順する形で、ある他者の意見につき従うとか、真意を隠蔽してそのように振舞うということの内には、つき従うことが別に不本意ではない場合でも、不本意である場合でもつき従う、つまり自分によって他者より先んじてそうしようと思う場合とは別個のものとして考えてもいいだろう。つまり真意をあまり明確に持たないということの前者のケースと、真意はそうではあるが、それを捻じ曲げて相手に合わすということの後者のケースとは、真意を捻じ曲げないで明確に持つということの前ではそうその違いは大きくないからである。
 真意を捻じ曲げるということは社会の命法に対して不満があっても、それを表明することはいけないことだという抑圧によるものであり、逆に真意をそう明確には持たないということは、社会の命法そのものはどうすることも出来ないという諦念に支えられている。
 だから偽装という形で言うなら、明らかに真意を捻じ曲げることの方によりそのエネルギーが払われ、逆に真意を明確に持たないということは、判断保留を意味するから、必然的に個人の命法ということに対して懐疑的な見解を捨てていないということを意味しよう。
 個人というものは社会の命法に対してそれを素直に受け入れるか、それとも億劫であると思うかということでしかないという判断がこの考えにはあるように思われる。

Sunday, January 10, 2010

〔羞恥と良心〕第三章 良心という物語

 私たちは社会という仕着せに対して無頓着に生きることは出来ない。だから気がついた時には半ば自分の意志であるかのように何らかの教育機関とか何らかの集団の一員として位置づけられるが、それを強制という風には感じることはその段階ではなく、寧ろ慣れ親しんだ末に何か自分の周囲に問題が発生した時に「私たちはこのように強制的に社会の一部に組み込まれている」とそう感じだすという次第である。
 だから何かをいけないことであるとか、何かを潔いことであるとか、何かを積極的にした方がいいことであるとかいう判断が果たして純粋に自分の考えだけで下したことなのかということを問われれば、何と返答したらよいのだろう?ではその自分で考えたことというのはどういうことを指すのだろうか?つまり完全に自分の考えなどというものが果たして成立し得るものなのか、それとも全ての自分によって下された判断が自分の考えではなく、ただどこかにかつて存在した考えの引用であると一々考えることには意味がないのだろうか?
 それを問われるなら恐らく、自分で考えたことというのは自分が他人の考えに対してその都度どう思うかということでしかないのだし、だから当然完全に自分の考えなどありはしないし、そして最後の問いに対してはそう考えることはニヒリズムに陥ることさえなければ重要なことであるとだけ言い得るだろう。
 だから世の中に存在する人間の心の慈悲心とか、愛惜とかそういった類の全ての感情は、実は本当に自分の資質から出されたものである場合の方がずっと少ない。つまりこういうことである。「あの人が気の毒だ」とか「あの人のすることは立派なので共鳴出来る」とか言う時私たちは社会全体の通念とか、それまでに社会とかかわることによって会得した教訓とかそういうものに極めて忠実に判断しているのであり、勿論そういう判断をすることの方が自分の私利私欲から出た行動へと直結する判断よりも多いということそのものは多少その人間の資質とか性格と関係があるだろうが、私はその差というものは微々たるものであると思う。
 つまり「あいつは良心の欠片もない奴だ」と誰かが言う時、明らかにそれは私たちにとって良心というものをある種共通のコードとして認識して、その認識に合わすことを知らない者と判断しているのであり、それは「彼は冷たい奴だ」と言う時の判断とも少し違う気が私はするのである。それはカントが言っていて、「人倫の形而上学の基礎付け」において彼は自分の性格とか資質から出された判断とは道徳的ではないとしているが、要するに良心という心の作用は、実際社会的な規約とか通念に対して、道義的にそれが正しいと理性的に判断されたもの以外の何物でもないのであって、「あいつは冷たい奴だ」という判断は寧ろ私的な贔屓感情とか親密な間柄でのエゴイズムにしか過ぎない場合の方が多いだろう。それは前章で既に述べた私的共感とか仲間のよしみというレヴェルにおいてよく眼にする判断である。
 となると、良心とは法規とか、責任ともまた異なっていて、責任による良心もあるが、責任とは別個に成り立つ良心もあるかも知れない。となると法的な規約による判断ではなく、人間性、つまりヒューマニズムという側面から考えるべきものも含まれることになる。
 良心ということを社会での責任という側面から見ると、良心的である行動や振る舞い(良心的でなければならないという社会的義務的観念による)の全てはどこかしら真意とも完全に一致しないこともあり、その場合偽装的な態度となる。それを私は責務偽装と呼んでいる。社交辞令もそうだし、例えば若いアナウンサーがニュースでかつて活躍した政治家の死去を伝える場合、明らかに彼らはその時代を知らないのに、知っている世代に向けて語られるニュース内容なので、あたかも自分の知っているかのような表情でニュース原稿を読むことなどは、伝える側の伝えられる側への配慮である。
 社会ゲームということを私は常々考慮に入れて考察しているが、その最大の偽装は犯罪であるが、犯罪までいかなくてもサラリーローンの借り受けが直接出来るオフィスでの受付の女性の応対にも、止むに止まれずサラ金に駆け込む人に対してにこやかな表情をするだろうが、それは相手の立場を親身になって考えてあげているわけではないからやはり責務偽装であるし、悪質な金融機関におけるケースとは、私が策謀偽装と呼ぶものかも知れない。振り込め詐欺を誘引する犯罪者による言葉巧みな演技は全てこの策謀偽装である。本当はテロを起こす気でいる潜伏テロリストが一般市民を装い、日常生活を他者から怪しまれないように送るということも策謀偽装であろう。しかしこの偽装は、ある信念、つまり「私たちのしていることは正しい」という気持ちに基づいてしているので、ある意味では責務偽装の中の一特殊ケースとも言える。しかし私は責務偽装をもっと正しいとか正しくないとかとかかわりなく、要するに「合わせておいて間違いない」という一般的な態度、所作その他の習慣的なこととして考えているので、策謀偽装とは、信念に基づいてしていることをも含めたものとした。つまり犯罪者もまた、ある意味では「こういう生き方しか俺は出来ない」という、精神疾患的な犯罪もあるが、そういう精神疾患そのものをも誘引する自己に対する物語化、例えば「俺は負け犬だ」とは「負け組だ」といった考えそれ自体に内在する対自己信念である。だからサラ金の受付嬢の態度や笑顔は、部分的には責務偽装であると言えるし、相手をこちら側の術中に嵌らせるという意味では策謀偽装であると言ったが、またそういう観点から言えばスーパーの店員やレジ係りの客への応対もまた、精神的には多少の策謀性があるとは言える。しかしそれは法外なことではないし、策略という命名には当たらないので、区別した。
 しかしある意味では一番私たちの生活において馴染みのある偽装は、学会などで、どんなに偉い学者でも、一つか二つは皆が当たり前であるとして知っていていて当然のことを知らない場合がある。それは専門的な知識に関してではなく、どちらかというと一般教養的な面でのことである。そういう場合そのことに関する話題になっても、知らない者はあたかも皆と同様自分も周知のことであるとしてすました態度をとり続けようと目論むだろう。そういう場合知らないと正直に告白することに羞恥を覚えるので、私は羞恥偽装と呼んでいる。
 これらの偽装と社会ゲームで良心が一つの体裁として、建前として機能している場合、それは良心ということがどのように介在していると考えたらよいのだろう。
 つまり本音と建前ということで言えば、真意と偽装と考えればよいと思う。つまり本音で付き合う人間関係は、若い内は楽しいが、一定の年齢を超えると、どこか鬱陶しさが付き纏うこともある。勝手知った相手以外はそう容易に信用しなくなるのが大人の一般的姿である。 
 そうなると策謀偽装の場合は詐欺や犯罪ということに繋がる恐れが非常にあるが、それ以外の責務偽装と羞恥偽装では責務においてにこやかな表情を取り繕っている大型スーパーの店員やレジ係りの態度は、社会的良心に起因するだろうし、羞恥偽装は社会的地位に相応しい態度を周囲が自分に求めるので、それに対応しながら仕方なくそうしているという側面もあるから、やはり社会が自分に対して求める態度を取り繕うという意味では、良心という物語を偽装しているとも言える。
 また社会全体がこういう気持ちで臨みましょうと提案するということがマスコミや政府によって奨励されているという状態は、戦時においては当然のことながら、平和時でも経済危機的な事態においては考えられるところである。そういう場合私たちは明らかに社会コードとしての良心という物語を原音楽的に奏でているわけである。社会風潮とかもその内の一つであろう。つまりそれに合わせる形で私たちは個人の行動も考えていることがある。それは個人の対他的な心理である羞恥偽装ではなく、どのようなサイズの集団協調ということでもそうだし、それが責任ということにおいて自らの私情を排除した公の態度で臨むということであり、責務偽装となる。それは先ほどのニュース原稿を読むアナウンサーにとっての責務のような職業的なことは、公的な水準のものであるが、地域社会とか、友人関係での場合、明らかに私的な交際とか、職業から離れた社交では社会通念とか見識とか良識と呼ばれることである。それは半私的、半公的とでも言える水準のことであろう。
 勿論意志的に努力して厭な顔一つ見せずに何かするというようなことは、生来そういうことが嫌いではないということからすると、偽装であるが、それはカント的なモラル論からすると、そんなに責められるべきことではないことになる。しかしそのことには本論では立ち入らない。
 問題となるのは、そういう良心ということが物語化するということなのである。つまりそれが正しいという形でコード化されるということは、法化、記号化されることであるから、制度的な呪縛ともなる。それは誤った傾向でそうなった場合、暴動や革命を誘発するものと化す。ディアスポラやホロコーストといった形で、あるいはエスニッククレンジングという形で顕在化することがある。つまり全てある風潮とか思潮というものは正義とか倫理の物語化、つまりその物語の共有という側面からの極度の集合無意識的な陶酔状態と言えるものなのだ。
 あらゆる思想や哲学の何とか主義というものは全てこの正義とか倫理の物語化によるものであり、それが長い間の通念や制度となって我々を救ったり、苦しめたりする。だから私たちを救ってくれるコードは私たちの思考方法にまで昇華され、やがて新しいものであっても、古典的な性質のあるものと認可され、私たちの人生の物語に組み込まれていき、逆に苦しめるものはやがてコード化された物語としては衰退していく運命にあるものであろう。

Sunday, January 3, 2010

〔羞恥と良心〕第二章 悪と責任

 とは言え、私たちは常に私的な感情に流されて公的な意味でも私的な意味でも生きていけるほど社会自体が個人に対して寛容でもなければ、ある部分では惹かれていくものと、その惹かれることを他者にはそう容易に告げることが出来ないで、密かに惹かれるということの二つはしばしば両立し得ることだろう。つまり公的な場所とかで公言することを憚られるからこそ、惹かれるものには魅力があるのであり、逆にそのことが共に似た趣味とか、似たものに惹かれるということが、共犯関係的なニュアンスから一層親密になるということがある。
 さてこの二つの心の作用、つまり惹かれるということと、そのことを公言し得ないということは、時としてしかし社会全般の判断からすれば、決してその者の味方をすることが出来ないような場合もあるだろう。つまりそこに社会的責務とか、共感という私的感情を抑制することを社会全体から、あるいは社会通念において求められることもある、という意味では悪というものの魅力とか、逸脱者に対する共感は、時には否定する必要がある、深情け的な対人価値規範というものは、時として警戒されるので、周囲の皆が否定するような雰囲気の場合には極力その者に対して共感を示すことを控えるということはあり得る態度の採り方だろう。
 つまりそこに私的共感という奴と、公的な価値規範に対する順応や、体裁だけでも合わせるということは分離していて、時には後者に合わせるということがあり得るだろう。
 つまりだからこそそこに私たちは責任という概念を考える必要性があることになる。
 つまりある行動において、時には個人的感情を抑えるということは日常的にあり得ることなのであり、自分の嗜好を犠牲にしなくてはならないことというのは社会ではしばしば生じる。それは理念的な意味合いから、自らの社会信条からそうしなくてはならないこともあるし、本当は惹かれる者に対して拒否反応を自分以外の他者に示したりする必要がある場合というのは、例えば自分がお世話になっている人に対して気を遣うということであり得る。つまり世間体以前の、適度の親密度の高い人に対して合わせるということは充分あり得る。そこで自分の嗜好を抑えるようにして真意を語ることを控えるということは往々にしてある。前者は社会倫理的なことであり、後者は私的な事情による。よって責任というレヴェルでは前者により比重がかかっているわけであり、後者は柵ということになる。この柵という奴は、余程社会的に成功していて、充分黙っていても定収入があるような人にのみ逃れて生きることが許されるものであり、通常殆どの人はそれを除外したら、生活自体が成り立たないということがあり得るのだ。だから後者の場合は責任ということとはいささか違う。
 つまりここにある意味では半強制的な良心というものが生まれるのだ。それは仲間のよしみとか、要するに付き合い上での礼儀とかそういうことなのだ。だからこれは当然世間一般の良識に根差しているし、世代毎の礼節の尽くし方は異なってくる。
 しかし良心とは責任というレヴェルで取り払われる倫理的な水準のもの(社会正義的な大局的な認識)ともっと私的な親密度に応じた対応とではその性質は異なる。と言うのも前者はより公平であり、贔屓をしないということがあるが、後者は積極的にそして主体的に親密な関係のものを優先するということになる場合が多いからである。
 だからよしみである人間関係においてもかなり弊害となるような親密度というものも世の中にはあり、そういう場合別にやはりお世話になる人がいたとしても、そのお世話になる人それぞれは全く考え方も違い、思想も違い、性格的相性も悪い場合すらあるから、それらの間を掻い潜って双方と巧くやることすら社会では求められる場合すらある。
 責任とはそういうそれぞれの違いに応じた対応における礼節ということに内在している。悪とは逸脱した個性に対して応援するような贔屓感情もあるが、端的に責任上形式的に公的な意味でお世話になっている人に対してなされる礼節そのものに払われる真意とは別の対人処理という形で実は実践されている。つまり適当に対人関係をこなしていくという知恵に、その処理の仕方に慣れた成員と、そうではないタイプとの間に多くの世間的な対応に類する上手下手が顕在化し、他者に与える印象も異なってくる。つまり差が出てくるのだ。だから真意の暈し方そのものが技巧的でありながら、その技巧を感じさせない対人術こそが悪意ではないにしても、許される悪として社会通念上では暗黙の内に多くが認めていることなのである。
 つまりそれは対他的に必要悪的に払われる<許された悪>、つまり全ての成員に対して本音で接することなど人間には出来ないから、ある成員に対してこれこれこのようなことについては真意を語れるが、別のある成員に対してはそのことについてはあまり真意を語れないものの、別のことについては真意を他の誰よりも気兼ねなく語れるということがある。
 つまりその種の各人に応じて接し方そのものを使い分けるということそれ自体があまり難なくこなせるということ(技術)は世間的に巧く渡っていくという最低限の責務的な知恵には必要とされている。だから不文律的な意味でこの世間とか社会一般には、許される悪、と言うよりもっと積極的に最低限のマナーとして心得ておかなくてはならないタイプの対人処理法というものは、必要とされる最小限度の悪なのである。その最小限度の悪と責任を巧くタイアップさせて社会生活を成立させるということが求められているのは、どの成員においても変わりないだろう。
 だからこそ逆に本当の意味で人がどう言おうが、自分にとっての主観的価値としては、世間的な意味で、あるいは社会全般から白い眼で見られている人物に対して自分だけは真意ではそう責める気にもなれないということは、一般的には悪とされる者に対しても、自分だけは悪として捉えることが出来ないわけだから、良心という形で他者からは捉えられても、もっと本能的なレヴェルのその個人に内在する感性の問題なのである。それは人格的、性格的、資質的な相性とかの問題であり、社会的責任に密着した良心であるよりは、意志選択的な共感と言った方がいいだろう。
 私たちは人生を物語として生きる。思い出、後悔、期待、満足といった全ては、存在者が存在している事実に対して、自然なものであるとか偶然的なことであるということから感じるやるせなさを確固として価値、意味、目的のあるものに変えるために人生を物語として生きることを密かに決意する。それは殆ど無意識の内にそうしているのだ。そうして作られた人生という物語の中で出会う全てのものを「世界」と位置づける。
 自らをビジネスマン、公務員、教育者、文学者、科学者、格闘家、エンターテイナーといった位置づけを与えながら、その方針に沿った目的に従事しているという意識で、責任を果たそうとする。その責任は目的遂行のためには些細な私情を犠牲にするという美学によって構成されている。個人的感情を抑え自分の嗜好を犠牲にしなくてはならないという社会倫理的なことを私的事情より優先するという責任が、ともすれば私的場面では良心を発揮したり、あるいは贔屓する者やものに対しても拒否したり、ネガティヴな価値を他者に示したりするものもまた、羞恥である。原羞恥が呼び起こす原音楽的な羞恥である。
 つまりこの場合私たちは悪を構成することを可能とするエネルギーと能力を最低限のコードに自己を随順させるために責任によって発動させる。そしてその責任とは、原羞恥的な私情に対する克服を旨としている。原羞恥的私情では贔屓したり、拒否感情を抱いたりするものに対しても、それぞれ否定したり、賞賛したりすることが往々にしてあるのは、端的に原羞恥的感情を原音楽的な言説や通念や社会へ自己を同化させるためにそうするのであり、あるいはそれらの価値や存在理由を他者‐自己の相関の中に位置づけるからである。これは原羞恥(本能的な感情を育むもの)に対する原音楽的な客観化に他ならない。ここに思考と言語がかかわる余地があるのだ。
 つまり物語とは実は私たちの胸中には他者と遭遇した時に既に立ち現われているのである。つまり生きるということが既に一つの哲学であるような意味においてである。
 生きることそのものが一つの物語であるような視点から現実を見ることから、私たちは私たちに固有の物語を生きる。それは私にとっては私の物語であり、それが私の世界であるし、あなたにとってはそれがあなたの物語であり、それがあなたの世界である。そしてその二つの間には常に越えられない壁があり、その壁のことを我々は互いに知っていて、その見えない無数の壁の存在こそが私たちを私に固有の感じることという羞恥、つまり原羞恥を作っている。そしてその原羞恥を克服するためか、あるいはその存在があることを「ないことにする」誤魔化しによって私たちは原音楽的に他者に協調する。つまり「合わせる」わけだ。その時私たちは自己内の羞恥という事実自体を知らず知らずの内に客観化している。それが意思疎通し合うということであり、他者と語るということなのである。その自己内の羞恥を客観化するということが責任となる。責任はだから原羞恥的な欲望レヴェルの感情に対して「ちょっと待てよ」と自己内で対自的に囁く原音楽的な対他戦略なのであり、その際には本来なら贔屓したくなるような対象に対してさえ悪を発動させるためのエネルギーを利用して私的価値を剥奪し、公的な水準でそれらを評価しようとする。
 だから悪を発動させるエネルギーと能力は責任という名の他者‐自己との間での意思疎通において払われる意識に大いに活用されると考えればよいのだ。
 私たちは知らず知らずの内に悪を発動させるエネルギーと能力を羞恥の払拭と責任遂行という原音楽的な決意の下に利用する。そしてそのためには時には親しい間柄の人間に対しても素知らぬ振りをしたり、贔屓の者を揶揄したりさえする。それは本能的自己防衛であるが、ある意味では自ら作り上げた人生という物語に対してそうしながら内奥の自分でも気がつかないでいて、気がついても気がつかない振りをし続けるようなもう一人の自分に対して畏怖を感じる<自分の中のデーモン的な要素>の存在という不合理に対して、自分という物語における論理の合理との間での帳尻合わせのためでもある。