Saturday, February 27, 2010

〔羞恥と良心〕第九章 良心と羞恥とふりをすること

 我が国でも最近めっきり熟年離婚するカップルが増えてきた。そして老人もまた貴重な労働力として考えられてきた。その結果一つの仕事をずっと一生続けていくことよりも、勿論そういうタイプの人々もまた今でもいることはいるのだが、人生のしかもかなり年齢を積み重ねた後に転職したり、方向転換したりする人々も決して珍しくはなくなってきた。
 例えば熟年離婚と年齢が高くなってからの転職にはどこか共通性がある。それは何か長年勤しんできた努力にもかかわらず、そのことでは成果が得られないということに覚醒すること、しかもかなり後になって分かることにおいて共通している。
 例えば自分にとって向いていることというのはある意味ではある程度の時間を得て経てみなければ分からないものである。それは仕事に関してもそうであるし、愛情のレヴェルでの相性というものでもそうである。しかし人間は長い時間においてある程度人間関係的な意味では固定化した世界を築き上げる。そこで転職も離婚もそう容易なことではなくなるのである。人間という動物は社会的な動物であるので、築き上げられた人間関係というものはあくまでその人間の対他者、対社会としての誠実性によって構築されている。そこで「本当は自分にとっては自分はこういう人間なのだ。」と思っていても、尚外部世界、人間で言えば社会とか他者一般からすれば「あなたはこういう人間です。」と規定されやすい部分というものはあり、またその実像というものは他人一般がその人間を見るステレオタイプにしか過ぎないのであるが、同時に全く真実がないとも言えないものである。
 そこで人間はディレンマに陥るのだ。他人とか世間とか社会一般が自己を規定する自己の資質を受け入れて生きてゆくか、そうではなく内的な自己の選択に忠実に生きていくか、そのどちらがその個人にとって良質の選択であるかは個人毎しかもケース毎に異なり、一律に自分の内部、世間一般の評定どちらかが正しいとは言えない。だから自分の内的な願望とか欲求が正しい場合もあればそうではない場合もあるとしか言えない。
 しかし年齢が高くなってからの転職とか離婚といったケースでは世間一般による自己裁定に対して随順して生活してきた人間により多く起るケースであるとは言えよう。つまり自己真意に悖る形で人生を選択してきた、とある日はたと気付くというわけである。しかしその決断を鈍らせるものとして世間体とか社会一般の常識とか、要するに私の見るところ勇気ある決断を躊躇させる羞恥感情というものが立ちはだかるように思われる。そしてこの羞恥感情というものがどこかで自己と自己を取り巻く社会が一体化して構築してきたそれまでの自己に齎される恩恵というものに対する配慮と、それを一旦全て反故にしてでも冒険に打って出ることを抑制する良心、しかもどちらかと言うと保守的で逸脱を恐れる安泰希求的な小市民的良心が改変に伴う痛みを痛烈に告発し、潔い決断を鈍らせるのである。しかしこの冒険に踏み切ることに伴う逡巡というものが意味のない心理であるとは決して言えない。というのも人間はこの保守安泰的な心理によって日頃多くの不祥事とか危機を招き寄せることを予防しているからである。だからこの失敗と挫折を未然に防止する保守安泰的な判断は政治的でもそうであるし、個人人生設計においても極めて大きな役割を果たす。簡単に言えば夢を諦めることから人生の現実はスタートするからである。しかしある一定の年齢を超えると、そのことに対する懐疑もまた大きく頭を擡げてくるのである。そこで改革とか改変とか人生の一大決心という奴がかなりの高齢になってから押し寄せてくるのである。そしてその時良心というものが羞恥の味方をせずに、今度は人生全体を彩る人生観の味方をするのだ。(良心が保守安泰的な時には小心の味方をし、人生の転機においては勇気の味方をする)例えば二人の異性に惹かれることというのは、ある意味では倫理的にはよくないことだとされる。しかし同時にそういうインモラルなことばかりを追究することはよくないことであると知りつつも、時にはそういう選択の方が結果的には福を齎す場合もある。そしてそれはある程度結果論であるのだが、離婚して正解の場合もあるし、転職して正解の場合もある。(勿論失敗の場合もあるし、その方がずっと多いだろうけれど。)そして本当は一度も離婚することなく、一生一人の伴侶とうまくやってゆき、しかも幸福が追究出来ればそれが一番よいであろう。しかし人生というものはそう必ず巧くゆくものではなく、寧ろ失敗と挫折の方がよほど多く待ち受けているものである。そういう意味では一回くらい小さな失敗をしたり、挫折をしたりした人間をこそ基準とした人生哲学というものがあってもよい、と私は思うのである。その時私たちは人間は他者に対して羨んだり、嫉妬したり、妬んだり、要するに邪悪な心理を必ずしも完全には払拭することなど不可能であるという立脚点に立った考察というものが必要とされていると私は思うのである。その際に羞恥感情とそれ自体の揺れ動きという現象(それは恐らく人間の自信のなさが引き起こすものであると思われるが)、そして羞恥がいい意味でも悪い意味でも良心と結託しているという事態を直視すべきであると思うのである。
 そこで本論ではまず羞恥の揺れ動きという事態について暫く考えてみようと思う
 例えば我々の社会には通常では普通に結婚して子供を儲け、幸福を追求出来るのであれば、それが一番いいという倫理観もあるが、実際には一度も結婚することなく終わる人生というものもあるし、また性同一性障害等によって通常の性生活とか(どういうものが通常と言うのか私は知らないが、もしそんなものがあったとしての話なのだが)結婚観、家庭観があったとしてであるが、そういうものから逸脱して生活する人も大勢いる。あるいは通常のエリートコースからは逸脱した職業、つまり青少年の教育的観点からはあまり推奨されることの少ない職業というものも、それは健康管理上から言ってもそうだし、道徳的観点から言ってもそうだが、要するに通常余り表立っては自己の職業を他者に公言することを自ら憚る職種のこの世の中には沢山ある。(本当はこういう世間体のようなことは下らないことであると知りつつ、何故か抱いてしまうこともある)しかし実際そういう非順当的な要素を自分の人生に持っている人をあらゆるレヴェルから考慮すると、ひょっとすると借金があるとか、前科があるとか、要するにそういうものの皆無で清廉潔白で汚点も問題点も苦悩もない真っ白な人生というものは殆ど無いに等しいと私は思う。するとそういう脛に傷を持つなどと言ったら多少浪花節的になるが、不完全な理想からはほど遠いという事態こそ人生の最もありふれた実像ということになりはしないだろうか?しかし同時にそういう不完全で理想からほど遠い状態にある自分の事情とか秘密というものは往々にしてどんなに親しい他者にも公言することを憚ることも多いものである。そこに我々が本来的に携えている羞恥感情というものがある。そしてその羞恥感情を誘引するものとは意外にも理性的判断によってその他者が自分に対する心象を悪くしないように配慮するある種の策略であり、それは保守安泰希求的な心的様相ではあるものの、寧ろ良心の叫びでもあるのである。人間は自分はそうではないが、どこかで本来自分はこうあるのが一番いい筈だという倫理的にも能力的にもそういう自分独自に理想というものを持っているものである。それは当然人生の価値観であるから、個人毎に異なる。寧ろこの実現されていない理想に対する考えこそその人間の信条であり、思想であると言って差し支えない。この非実現的理想への思念の仕方こそ、その人間の行動パターンとか危機的状況に対する対処の仕方とか、要するにいざという時のその人間の決断の仕方、そしてその成果(よいものであれ、悪いものであれ)を決定するのである。
 ハイデッガーがしきりと「存在と時間」で本来性とか非本来性と呼ぶものとは実は、この自分はそうではないのだが、本来はこうあるべきであり、またもし理想の状態であれば、こうあるべきだという、ある種の思い込み、こう言ってよければ幻想のことについての叙述ではないかと私は思うのである。このテーゼは実はサルトルもまた「存在と無」で「それであらぬというありかたで私がそれである」という謂い(表現)によっても指し示されている。つまりサルトルは「本当ならこうあるべき筈なのに、事実としては常に自分はそうではない」現実の側から見据えてハイデッガーの言う本来性について述べているのである。この理想として設定したある種の「あるべき姿」とは私の理想であるとただそう考えるが、私の考えではそれを極端に逸脱すると、それは最早その時は私が私ではなくなる、という臨界値設定基準であるような気がするのである。それは恐らく「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」という一線であると思われるのだ。そしてその臨界値というものは当然のことながら、その設定されるものから設定値に至るまで個人毎に異なっている。それは当然であろう。何故なら我々一人一人が立たされた環境から生まれた時代の状況から、個人の性格、行動してきた軌跡、要するに経験や記憶の全てが異なるからである。そしてその「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」ということは「自分で自分が許せない」からそれをもししたとしたら一生後悔が残るということであり、要するに羞恥感情であり同時に良心でもあるのだ。そして社会に迷惑をかけずに真っ当に生きていく知恵として考えるなら、その臨界値設定とその基準のあり方そのものは良質の良心であると言えるだろう。そしてその羞恥感情もある程度必要不可欠のものであると言えるだろう。
 しかし厄介なことに人間という動物は他の多くの動物同様良心に従ってのみ生きることに関しては苦痛に感じ、あるいは時には気楽に考えなければ生きていけないくらいの日常的ストレスをも請負って生きている。そこでレジャーとか息抜きとか娯楽とかが要求される。聴きたい音楽もクラシックが素晴らしい音楽であると知っていても、そればかりでは面白みがないということで全く異なったジャンルの純正統的な音楽以外のものへも嗜好傾向を持つようになる。時にはパチンコもしたいし、ギャンブルもしたいという想念が沸く。
 この日常的な安穏とした倦怠的で退屈な連鎖を打ち破りたいという欲求は人間では極めて重要な心的様相である。これを私は「ギャンブル的感性」と呼んでいる。ギャンブル的感性というものは、その努力によって報われる可能性が報われない可能性よりも甚だ大きい場合、それでも尚もし報われた時には一挙に明るい未来が開けるという一縷の望みに支えられた綱渡り的な賭けのことを言うのだ。
 例えばそれは必ずしも今している仕事が自分に不向きで嫌いだから止めようというような単純な決断に潜む心理とは言えない。寧ろその逆で自分でも気がつかない自分の能力に賭けてみるという冒険に顕著に見られる心理である。
 例えば再び職業のことに立ち戻って考えてみよう。世の中には自分にとって向いていてしかもそれが好きで、世の中もまた彼にはその仕事が最も向いていると感じてその職業で生活を成り立たせている所謂幸福な人の方が実際は少ない。寧ろ殆どの人が「自分は本当はこういう職業の方が向いているし、好きなのだが、社会が自分がそう自分のことを思う考えを受けて入れてくれないから仕方なしに今の職業を選択しているのだ。」と告白する人の方がずっと多いに違いない。
 例えば世の中というものはあながち自分が得意であるからその職業で生活してゆけるというものでもない。一番重要なことというのは社会全体が自分がする業務を価値あるものとして認めてくれるかというレヴェルでの判断が、その仕事で世間を渡っていけるか否かを決する。だからもし「何故今の仕事を選択したのですか?」と問われれば、「寧ろ自分では好きでないのだけれど、社会が自分に対してその職能を求めるからそれに応じて今の職業を選択しているのだ。」と答える人の方が私はずっと多いと思う。また自分で得意だと思う能力と社会がその人に対してその業務が向いていると判断する能力とは必ずしも一致しないどころか、寧ろずれているケースの方がずっと多いだろう。だからいい仕事をする人で、それが一番自分に向いていると感じられる人というのは極めて幸福なケースであると言えるだろう。そしてまたこれも言えることなのだが、自分にとって向いていると思ったり、得意だと思ったりしていることと、その能力が正当に評価されるという事態は全く異なっていることであり、それが一致することの方が少ない。そして社会がその人の能力を正当に評価するからこそ、自分でもその職務が向いているのだ、と考えるようになるケースの方がずっと多いであろう。
 そしてその事実は社会というものが自己というものの存在理由を構築するのだ、ということと、それに受け答えねばというような責務的な感情とか、対社会的な奉仕の倫理とかを醸成するものが、あながち自分の内部の欲求からではなく、外部的な状況とか時代的な要請とかに応じたその都度の自分の自己保存欲動的な判断によって形成されたものとして自己の良心とか羞恥(それ以上逸脱してはまずいと自分でも思う)が位置付けられる可能性を示唆している。つまり自分本来のものであったと自分で勝手に思っていたものの大半が実は自分が対社会的に対処してきた自分なりの対処法に応じて形成されたものであるという事態は、実は本来自分という観念そのものは幻想によってのみ支えられているということを物語っている。
 例えば子供を儲けるという家庭創造行為は実は何も自分の努力によって成し遂げられた能力ではない。それは遺伝的性質としてたまたま自分にも備わっていた能力であるに過ぎない。勿論子供を作り育てることが可能な環境それ自体を構築することはそれで一つ能力であり、ある努力の成果であるが、子供を儲ける能力そのものは自分の努力によってどうなるものではない。それは遺伝的身体的な能力に支えられている部分であり、意志的努力では逆にどうにもならないことである。しかししばしば人間はその能力が宗教的表現を赦して貰えば、「神によって付与された」とか「神の思し召しである」とか「神のお恵みによる」といった謙虚な気持ちになかなかならないで、自分の能力であると考え勝ちなものなのだ。そこで私たちは自分とは一体何なのか、という哲学的命題に再び立ち戻ることになる。
 自分が自分では向いていると思っていることが社会では認可されないディレンマを韓国人は「ハン」と呼ぶそうであるが、そのような心的様相を招来する事態とは実際的には如何ともし難い現実である。そこで我々は何故そうなのだろうか、何故自分の考えるように社会は自分を認めてくれないのだろうか、と考えるようになる。その時哲学的問いが自分にとって切実になる。そして今まで自分が考えてきた羞恥感情がただ単に自己の側から自己に対して推し着せた幻想でしかなかったのではないか、あるいは自己の変化とか日常的な惰性を破壊することで齎される日常的な生活の変化に対する恐怖と不安が齎した小心でしかないのではないかという疑念が、つまり寧ろ自分にとって大切だと自分で思っていただけのことで、そのことで寧ろ自分のあらゆる可能性を閉じ込めてきただけのことではなかったのだろうか?といった思念が浮上してくるのだ。そういう想念が沸々と湧き起るようになるのだ。その時私たちは初めて考える。日常的な安穏と変化のなさをどうにかしよう、と。その時変化のない日常を激変させる事態の到来に対して自然と身構える保守的安泰希求の打破を要求する。それこそがギャンブル的感性の活躍する場が設定されたことを意味する。
 ギャンブル的感性というものはある意味では保守安泰希求型の良心と安穏とした日常を受容している羞恥に対する疑念であり、同時にそれをぶち破ろうとする内的な攻撃的欲求に他ならない。
 人間には本質的に他者に対して身構えるという性質もある。特によくその人間の性格とか性質を把握しきっていない他人に対してはそうである。しかしそのような構えは徐々にその他人に対する信頼感が醸成されるに従って解除されていく。勿論その人間の実像を知るに反比例して武装を解除することに臆する場合もあるにはある。しかし通常実像を知りたいと望む心理にはその他者をどこかで信用してもいるのである。しかしそれをすることが出来ない人物に対して我々は通常いつまでたっても武装解除しない。その時我々は対他的攻撃欲求を顕在化させているのだ。日常性の打破と極度の生活の変化に対する怯えに対しても、実はこの攻撃欲求は役に立つのだ。

 その女性は結婚した。そして夫と共に生活する道を選んだ。彼女は愛しているふりをしていた。しかし愛してしまった。愛してしまった以上は身を焦がすほど接近することを求め始める。求め始めると所有したくなる。しかし所有は所詮不可能なので、常に距離が感じられる。他性認識の発生である。距離が彼女の愛を求めることを更に促す。求めることは求めるふりをすることから始まる。求めるふりをすることが愛するふりをすることになる。だから何かをすることとは、何かをするふりをすることと寸分違わないのだ。ふりをすることは示すことであり、それを受け取る者がその通りに受け取ることを望むことである。自己の本意とその本意の外面的現れは一致しないこともあるかも知れないが、一致しないことばかりであるということもまたあり得ない。だから愛しているから愛しているふりをすることとなるが、愛しているふりをすると、愛することともなるのだ。行為の持続がその行為を望むこととなるのだ。愛するふりをすることの下手な者は、愛しているが、そのふりをすることが出来ない(嬉しい時に嬉しい表情が出来ない。)こともあるし、逆にそれが上手な者は愛していないのに、そのふりをすることがどうということもないのかも知れないが、表面だけのふりは長くは続かない。それを見破る者が必ず現れるからである。だから表面的な取り繕いは他者に対する社交辞令的な行為と見做される。
 憂鬱な態度、刺々しい性格といったものも、その人間の身体病理、例えば胃や肝臓を治すとか、痔を治すとか改善する部分があるからそういう風であるなら、心と身体は一繋がりである。だから逆に身体病理を抱えているのに、晴れやかな顔をするのは、偽装となる。それ以外の偽装は相手を快く思っていないのに、好感を抱いたふりすることがよく見受けられる。しかしそれを持続してゆくとストレスが溜まり、一気に爆発してしまうであろう。だから逆に楽しいのににこにこしないで、ぶすっとした態度を採っていると、段々と本当に楽しくなくなるものなのだ。だから「ふりをする」ことは、それが本意であるのなら、不可欠な大切な行為である。それは意思表示なのである。意思表示はその時の心の内容を伝える意志の表示であると同時に、その表示が真意に基づくものであることの態度表明である。それは表情と見つめ合うことの中で取り交わされる。
 ただ「ふりをする」ことは、職務上のマナーである場合、偽装であるということも考えられる。例えば幼児なら両親に連れられてどこかの商店に入店した時に、にこやかに来客に笑顔で接する店員に対して「ねえ、あのお姉さん笑っていたよ。あの人僕のこと好きなの?」などと両親に問い詰めるかも知れない。(尤も私の幼い頃はそういう素直な無垢な子供が多かったが、今時の子供はテレビ等からの影響があって、そのような純真な感慨は持てないのかも知れないが。)しかし職務上のマナーはたとえ笑顔でも「ふりをする」ことであり、その人間の真心であるかどうか断言することは極めて難しい。たとえ消費者金融の事務職員さえ、金を借りに来る客に愛想よく笑顔で接するに違いない。
 勿論今の例は極端なケースである。しかし社会は偽装であれ本意であれ、見かけを重視する。それが消費社会の現実である。そのことについて少し考えてみよう。
 例えば私たちは皆顔だけは晒して生きている。他人同士がアイデンティティーを確認し合えるのは、顔だけだからである(直に接する時の場合)しかし顔を見て笑顔で接する人当たりのよい人間全てが善行に励んでいるわけではない、というシビアな事実を私たちは知っており、悪人がいい人のふりをすることは一方で悪事を働いていても尚対人関係上での礼儀や友愛的態度とは異なっているという真実を我々に語っている。だから一方で銀行やコンビニ、CDショップは盗難防止、防犯措置としてヴィデオ・カメラやスキャンを設置しているが、顔を隠すことはそれだけで犯罪者の行為(挙動不審)とされる。
 確かに顔を晒していてもただいい人の「ふりをする」だけの場合もあるが、その真偽を問うことを他人同士ではしないのが社会の通常の有様である。社会ではだから建前の方が重要なのだ。見かけが重要なのだ。もし悪行を重ねる人がいて、その人の知人が、挨拶もきちんとして愛想もよく親切な人が仮に逮捕されると、決まって「あんないい人が信じられない。」とテレビカメラの前の取材クルーに対して返答する場面が日常でもよく見られるが、その知人が犯罪者の日常に関して善人であると思うことそれ自体は間違いではないのだ。社会にとって人間の行為が悪なのであって、性格とか人間性とかはまた別のことなのだ。このことはルソーは「社会契約論」で社会人としての責務は人間性からではなく、奉仕の義務とその行為から評価すべきであるとしている主張にも繋がる。つまり性格が悪い人が社会的には善行をすることもあれば、逆に性格のよい人が悪行をすることもある、と考えた方が自然なのだ。すると「ふりをする」ことというのは意図的ではなく、一つ一つの行為の振舞いが個別の真実であり、真相であり、それら全てを統合した評定というものは又別であるということ、そして一々自分の全ての行動を見ず知らずの他人に知って貰うことは出来ないからこそ第一印象が大切であったりすることもあるし、顔つきや表情だけではその人間の全ては推し量れないが、表情くらいは真摯な態度で他人に接することが西欧社会では特に求められている(introvertよりもextrovertな真実を欧米社会では重要視する面がある。)という現実の根拠が示されるのである。(日本人はこういう社会倫理は欧米とは少し異なっているが)又だからこそ他人に全てを告白し、報告する必要もなければ、他人のプライヴァシーを詮索することはよくないことである、と社会ではされているのだ。しかし「ふりをする」行為が意図的ではなく、自然であることの方が多いことはここではっきりしたが(悪人の日常的な善人振りは技とではない。)人間は職業的な責務として例えばサラ金の事務所の職員がにこやかに債務者になる可能性のある客に応対するような偽装は、そうそう持続出来るものでもない。又通り一遍の挨拶程度の社交辞令だけで全ての人間関係を裁くことも又人間には出来るものではない。それは職務中でもそうだし、地域コミュニティーにおける人間関係でもそうである。だから逆に「ふりをする」ことも「真意を告げる」ことも両方その人間の真意であると考えた方が分かりやすいのだ。それは心の内容ということなのだ。人間の内面は外面から推察可能なのだ。顔が直に露出しているという事実がそれを証明している。しかし同時に心の内容の様相は理解出来ても、全てのデータを他人が推し量ることは不可能なのだ。ただ今の瞬間においてこの人は真剣に仕事をしているとか、物思いに耽っているとか、何かを思い出そうとしているかとかが了解されるだけのことである。行為とはその行為のための意識を集中させていることだからだ。だからこそ心とは心の内容であり、心の内容は外面にも表出するということなのだ。
 よって今私が心の内容を思い描くことそのこと自体は、ついさっきまでの自分の心の内容を、つまり過去の自分の関心と志向性(例えば今の私で言えば、このように文章を書くことで何かを残したいという思いとその何かという心の内容)なのである。しかし私の心の内容とは何かと今思い始める時、必ずついさっきまでの私の心の内容が関心対象として浮上するのだ。そのように過去の自分の心の在り様自体を対象化する志向性が、私の心の内容の中でも重要な意識であるということは間違いない。これを反省意識と呼ぶべきか、哲学的思考と呼ぶべきかはともかくとして。
 例えば社会人は(勿論学生でもよいのだが)テレビを見ている時、その番組の放送内容に関して刻々と感想を抱きつつ、内容的に何かを考えている。例えばある政治家の死去のニュースを見てその政治家の在りし日の姿を映像的に想起したり、自分の死んだ伯父のことを思い出したり、そう言えば最近見ないあの役者はどうなったかとか次々と連想を働かせる。そしてこうやって自己分析する私と、自己分析される私の次々と連想を働かせる私の心の内容は、対自的認識であると同時に即自的認識であり、私の考えとその私の考えに対するもう一つの私の考えという無限後退を余儀なくさせるような関係それ自体を綜合的に見た時に生ずる判断によって形成された像が「人格」となり、今私が自分なりに見たことによって判断する像の内容が今私にとっての私の「人格の内容」に他ならない。それは内容として位置付けられた結果である。後付作用による判断である。
 明日彼女に会えるという場合、彼女の姿を想像することは、過去の彼女のデータを通した追想である。しかしその全体像を裏切るように明日あなたが彼女と会うと彼女はそれまでの髪型を変えてあなたの前に現れるかも知れない。この場合、最初に彼女の顔を想像した時は彼女の顔の具体的想起が心の内容だが、「いや、ひょっとすると明日会う彼女は髪型を変えているかも知れない。」と思い次の瞬間、ロングヘアのいつもの彼女にショートカットの彼女を重ね合わせる。そのロングヘアの想起からショートカットの想像へと転換する一瞬、彼女の具体的像は消え失せ、意識の死が挿入される。つまり意識転換する時には、必ず具体的像に対する想起的集中が途切れ、その想起持続する「心の内容」それ自体を俯瞰するもう一人の客観的思念が浮上する。外在主義的な認識の登場である。その瞬間具体的像は消え失せ、抽象的思念が支配する。何かを具体的に想起する時、思念は純粋な志向性に裏打ちされているが、一旦その思念を打ち消すように客観的に思考する時、対対象的な志向性は途切れ、その「心の内容」を鏡に映して確認するように「心の内容」それ自体を反省する。それは日常的な自分の思念自体に対する思念である。しかし何かを想起する時には、必ず過去に見た姿の記憶が呼び出されるが、同時に眼を瞑って想念するのでない限り必ず今現在私が見る、例えば目の前のスタンドとかパソコンとかと、過去想起映像とが同時に「心の内容」に浮上している。その時過去と現在の、つまり記憶映像と現在知覚の観念連合が生じる。現実認識+過去想起である。ここには現実に対する認知と判断(前者)+過去現実に対する認識(後者)の複雑な様相が展開されている。
 私が他者に自己の本意を伝えようとする場合、その他者に私が好感を持っている場合、その他者に関する過去映像がフラッシュバックすることは少なく、私はその他者の瞳を見つめて話すだろう。そしてその他者に対して好感を抱いていることの「ふりをする」ことは非意図的になるだろう。しかし仮に今相対している他者に対して私が嫌悪を抱いている場合、私はその他者に纏わる嫌な思い出に纏わる過去映像を記憶として呼び覚ましているだろう。その時私は出来る限り嫌な他者に対して社交辞令として嫌な態度を見せまいとして好感を抱いている「ふりをする」であろう。そしてどこかその他者に対して瞳を見つめる行為もぎこちなく、敢えて直視することを差し控えようと無意識に私は考えている。つまり人間にはその対象に対して好感を抱いている場合は非意図的であるが、嫌悪の情を抱いている場合、意図的に振舞うのだ。つまり「ふりをする」ことが意図的な場合というのは嫌悪の情を抱いていたり、非常の場合で緊張していたり、要するに気を張っていなければならない状況下の場合なのである。だから銀行のATMで他人の口座から金を引き出そうとしている悪事を働く人間の心理は、写ったカメラに顔を向けないように工夫しながらも、それが悪事であるとばれないように気を配り、出来る限り通常の風を装うだろう。要するに普通の「ふりをする」のだ。しかしこのことはこのような犯罪の場面での人間の心理ばかりではなく、日常的な人間関係、家族内の感情に関しても起り得るのである。
 
 ここでひとまずその心理の分析をお預けにして、今度はその「普通のふりをする」ことで購わなければならない我々一人一人の人生における意識転換をある例を挙げて考えてみようと思う。
 彼女は結婚した。そして夫と共に生活するようになる。子供も生まれる。彼女はごく平凡で倹しいささやかな生活にも満足するようになるし、そのことで得る幸福を享受するようになる。そしてそれを幸福であると自己規定し、幸福とはそういうものだ、と概念規定するようになる。そして当然のことながら、幸せであるとはこういう振る舞いであるという世間一般の振る舞い(表情とか態度とか言動の全て)をする。要するに幸せである「ふりをする」。その振舞うという事態がどういう意味を持っているのかということに関して彼女は別段問い掛けたりはしない。そのことに取り敢えずは意味を見出せないからである。
 しかし彼女の前に、それまで自分でも気付くことのなかった全く自分にとっても予想外な夫にはない魅力を持つ、と自分でも思われる男性が現れたとしよう。彼女は結婚して子供もいるのだから、彼女の内面のこのような自分でも驚くような恋心とは、今まで持った経験がないのだから形容出来よう筈もない。しかしこの思いというものを彼女は何が何でも抑えつけねばならないのだろうか?そうではないだろう。確かに彼女はその男性に惹かれて夫も子供も何もかも振り捨ててその男性との生活を手に入れることが正しいとは言えまい。しかしだからと言って、内面のときめきの全てを断ち切ってしまわなければいけない、とも言い切れない。そのように強制することは、業務上致し方なく無礼な客に対しても笑顔で接客するような業種の人に、内面でも無礼な客に対しても好感を抱けと言って脅迫するのと同じことである。
 今のところ夫に不満はない。しかも夫と子供のいる生活に対してもそうである。だから新たに現れた魅力的な男性と、これまでの家庭とを天秤にかけて後者を選ぶことは社会的見識上では順当なことと言えよう。しかしにもかかわらず、この女性が仮に魅力的な男性との生活の方を選んだとしても、それをただちに正しくはない誤った選択であった、間違った決断であったともまた言えない。例えば義務教育とか、大学生くらいまでの教育機関ではこのような生き方を奨励することは殆どあり得ないであろう。しかしこのような殆ど突飛な選択がもしあったとしても(事実世の中にはこういうケースも実は沢山あるのだけれど)それを間違っているとは言えない部分にこそ我々は人生の不可思議を見出すのである。
 例えば人を殺すことはいけないことである。しかし同じことが戦場に立たされた兵士に言えるだろうか?例えばこちらから率先して敵兵に突撃することなく、ただ向こうからの攻撃を待っているある格別戦争に対して肯定的ではない兵士がいるとしよう。彼はだからもし出来得ることならば一人の敵兵も殺すことなく兵役義務を全うすることが出来ればよいとさえ考えている、つまり平常時であるなら寧ろ平和主義者と言ってもよいタイプである。しかしある時突発的に彼の眼前に敵兵が現れ、向こうがこちらに向かって銃口を突きつけ、今まさにこちら目掛けて射撃しようとしているとしよう。この時彼は人を殺したくはないのだから、どんなに向こうから攻撃されても、尚一発の銃弾も発射しないという選択肢も当然残されている。しかし、もしそうしたなら間違いなく彼は射殺されてしまうだろう。この場合彼は恐らく咄嗟の判断に自分の身を委ねるであろう。この場合彼は考えている暇はないのだから。(このことは先述した。)
世の中には正解が幾つも存在し、その中のどれが一番正しいかというような判断を必ずしも下せないものの方が、たった一つの正解しかないものよりもずっと多い。
 また何かを選んでそのことによって結果的に引き起こされた事態を通してしか何事も判断することは出来ない。しかしまた同時に仮に何かを選択したとして、そのことによって引き起こされた結果が芳しいものでなかったとしても尚、その選択が正しくなかったとは言えないこともある。
 そのことに関して哲学的に追究している映画監督がクリント・イーストウッドである。彼は自身が主演を努める映画を監督することもあれば(「センチメンタル・アドヴェンチャー」、「許されざる者」、「マディソン群の橋」、「ミリオンダラー・ベイビー」)、そうではなく他の役者を主演させて自身は監督に徹する(「バード」、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」)こともある。彼にとって行為選択というものは、そのことで結果的に取り返しのつかないことになったとしても尚意味あるものであるという認識を持つことがある、という思想に裏打ちされている。それは肺病を煩ったシンガーへの夢を捨て切れない中年男が彼を慕い憧れる甥を伴って旅をするロード・ムーヴィー「センチメンタル・アドヴェンチャー」においてもそうだし、やはり肺結核で若くしてこの世を去る不世出のアルト・サックス・プレイヤーのチャーリー・パーカーが選ぶ殆ど医師の診断を受けつけないような破天荒な生活態度(「バード」)もそうだし、一度は完全に足を洗った殺し屋ガンマンが友人たちへの復讐に燃えて再び無法者の人生へと立ち返る「許されざる者」もうそうだし、たった一晩の情事はそれが社会倫理的には許されないことであると分かっているにもかかわらず一晩の恋に燃える男と女もそうだ。(「マディソン群の橋」)いつかは自分が、倒して生涯障害を背負わせるかも知れないような痛手をずっと負わせ続けてきてその見返りとして倒されるかも知れないという可能性がありつつも尚、次の勝利を求めて止まない女性ボクサー(結局最後は汚い相手に打ち負かされ全身麻痺になって安楽死をトレーナー兼マネージャーに求め、それを恩人に受け入れて貰い安楽死する。(「ミリオンダラー・ベイビー」)、そして必ず負けて最後は戦死することが分かっているのに最後まで敵兵に対して最大の攻撃と防御を模索する中将の生き方を示すことにそれは表れている。(「硫黄島からの手紙」)、そのどれを取っても生物学的な種の生存戦略的意味合いからは矛盾だらけの行動を彼は描いてきた。そこにはある意味では人間だけが考えることの出来るとされる「生きることの意味」という哲学が脈打っていることの証拠だ。
 人間の行為とか行動は自然に、殆ど何も考えないようにしている場合は、意図的ではなく、無意識であり、そのことに関して取り立てて問う必要のないと知っているのであり、人生とは恐らくそのような問う意味のある行為や行動の方がずっと少ない。しかし同時にだからこそその結果死ぬことになっても尚、あるいはもしかしたら死の危険があっても尚、チャレンジし続けることの方に、ただ保守安泰希求的な安全だけを願うことよりも意味がある、と捉えることの出来る存在である。イーストウッド監督はそのことを言いたいがために映画作品を作り続けているようにさえ思われる。そしてこのイーストウッド映画哲学は我々の人生にも当て嵌まることなのだ。もし一々説明を要する必要のない行為だけで人生が成り立っているのなら、そもそも哲学のような学問など要らない。しかし私たちは問うことばかりでは先へは進めないが、先に進むだけが人生ではない、という風にも考える。そしてその時初めて普段は問い掛けもしなかった行為(その連鎖こそが生活という実態なのだが)をただそういう風に行為しているのではなく、問うことの意味を放棄している、あるいは放棄する「ふりをしている」自分を発見するのである。だからこそ「ふりをする」行為が実際はことの他多いにもかかわらず、それをころりと忘れていて、一旦そのことに対して自覚的にならなければならない必要性から我々は、「ふりをする」ことを自らの行動や考え(それもまたそのように「思おうとしている」、「考えようとしている」という風にも捉えられるのだから)を一回全て言語的に、あるいはそれを通して人生全体における意味として捉え直すことをしようと考えるのだ。そしてその時、我々の日常の何気ない行為の全てが、ライル(哲学者)の言うようにただ「何かをする」のではなく、「何かをする<ふりをする>」行為の連鎖であると気付くのだ。そのことに対する覚醒は実は哲学的な反省意識がなければなされないのだ。そしてそれは対自的な(即自的ではない)認識に基づいているのである。つまりあの時私は自分の気持ちに従ってああいう風にしたからこそ、あの行為が成し遂げられたのだ、とか、ある人に自分の気持ちを告白したからこそ今友人であり、あるいは恋人であり、伴侶である、あるいは逆に交際することなく終えたのであり、要するに自分の意図したことによる成功例を常に判例としながら我々は一個一個の行為を積み重ねているのである。それはある程度経験的事実というデータの暗黙の有効利用とも言えるのである。そしてある行為が自覚的であり、意図的であるかどうかの判定基準とは、概して非意図的であるような経験的判断ではない決断に見られる心的様相とは、習慣的、慣習的である行為の連鎖に対する懐疑が呼び起こしたものである、という側面があり、つまりそういう惰性的な人生の時間のない人間には意図的な決断というものもまた不必要である、ということである。人生の大きな転機というようなものは概して非意図的行為の連鎖、つまり慣れという惰性に埋没している生活実態があればこそ、その反省から生み出されるものなのだ。そしてその惰性に対する反省というものは、実は惰性的にしてきた行為の連鎖を、もう一度ただ「する」ことなのではなく、する「ふりをする」というレヴェルまで行為の意味を捉え返す必要があるのである。何故なら「ふりをする」という行為はあくまで意図的で、敢えてする行為だからである。
 だから嬉しいから嬉しい表情をする、ということは通常の認識である。しかし逆に捉えれば嬉しい時に嬉しい表情をした方が、概して我々は他者からは好感が持たれるという先験的事実を我々は無意識の内から認識しており、だからこそ我々はそういう態度を採ってきたのだ、というもう一つの事実に着目すれば、我々がそういう態度を採ることは、必ずしも嬉しいから嬉しい表情と仕種をするのではなく、限りなく嬉しいふりをし、嬉しい表情や仕種をするからこそ嬉しくなるのだという事実として相貌を転換するように我々に迫ってくるのである。このことはただ認識の転換を意味するばかりではない。我々の生の実存が、経験的な行為の連鎖によって、習慣化された行動パターンに埋没することの素朴な人生の信仰が、我々の行為選択から言語的思考に至るまで支配しており、我々が通常考える価値とか幸福感とかいったものさえ、自己内にインプットされたステレオタイプによる瞬時の非意図的判断でしかない、しかし同時にその判断をなし得るのはただ単に、時間的にも、生存維持の観点からも健康で、今のところ死は遠い先のことである、という非哲学的態度の無自覚な採用以外の何物でもないということを意味する。しかし実は時間の猶予も、健康の維持も、死もある日突然襲い掛かるということが実は人生のもう一つの事実なのである。このことは多くの哲学者たちも論じてきた。そしてイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公の女性プロボクサーのようにどんなに連勝していきても、ある時突然気の緩みで、突如活躍どころか健康的な生の持続さえ危ぶまれる危機に直面するような可能性に私たちは常に隣接して、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしているとだけだ、ということなのだ。
 だからこそ逆に親しい友人や愛する家族に対して我々は楽しい時には楽しい振る舞いをし、辛い時には辛い表情や態度や仕種をすることで、相互の本意を読み取りやすいように心掛けているのである。つまり内心の本意を正直に表わすことという行為には、「ふりをする」ことが内心の真意であることを示すことによって肉親、家族、親友といった自己にとって大切でかけがえのない人々に対して、そうしてきたからこそ信頼と信用と愛情を獲得し得たという記憶が拭い難く我々の脳裏を席捲しているからこそそうしてきた(殆ど無意識に)のである。それは考えてそうしてきたのではなく、寧ろ非意図的にそうしてきただけであり、またそのように自らの意図をごく自然な、「ふりをする」ことをしないで、常に偽装的態度でのみ他者と接し続けていたら、我々は心が窒息して生きてゆくことが出来ないと、本能的に(この言葉は哲学上では、あるいは進化論上でもご法度とされているようだが、これを使用するしか、この場合手はないのだ。)覚知しているからである。つまり我々は実は無意識に自分が死んだ時のことを考慮に入れて全ての行為に臨んでいるのだ。だから「ふりをする」こともまた明らかに意志である。それは真摯な嘘である。そして真摯な嘘とは誠実で偽らないことなのである。意志には「どうしようか」という逡巡に対して、あるいはそういう思念に対して「こうせよ」と指示することに等しい。それは思索の断念なのだ。そこには必然的に対自的な「語らい」がある。「語らい」とは思索の意味ではない。それは存在論的な決定なのだ。そして何かを決心している時我々はどこかで巧くいった時の記憶を呼び戻しながらも同時に、それを少しだけ逸脱した不確定要素へと飛翔するギャンブル的感性をも採用し、その未知の可能性に対して賭けるという意識がある。
 ギャンブル的感性が日常生活で役に立つようなことがあるということの背景には、必ずその不確実なものに対する賭けを意味あるものにする確実なことというのがなければならない。それが日常のルティン・ワークである。日常のルティンがあるからこそ我々は時として常習的な事柄から逸脱することに意味を見出せるのだ。
 例えば我々はテレビで悲惨なニュースを見て、それが自分の目で確かめた(実際にその現場で見た)わけではないのに、「酷いな。」とか「気の毒に。」とかその映像を目にした時思う。実際に自分の目で近所の火事の現場を見た時我々はその日の夕方テレビにニュースで報じられた火事の映像を見ると「実際とは違うみたいだ。」と思う。誰しも一度は経験していることではないだろうか?それなのに我々は自分の目で見たものではない多くのニュースをあたかも自分で目撃してきているような錯覚に陥る。しかし実際それらはテレビの映像がただ脳裏に記憶して焼きついているだけのことなのに、我々はそれが各放送局のニュース報道を巡る放送姿勢によってある程度の脚色をされて報じられているのに、それらを実像として受け入れる。このような日常もまたルティン的な行為の連鎖の一部に位置付けられる。さて我々はしかし時としてマスコミ報道そのものに対してある種疑いの目を差し向けたいと思う。それはある程度意識的に冒険心、逸脱希求的な心理が要求される。そして見て見ぬふりをする、敢えて苛酷な日常の報道の渦中にいながら、報道されることを幻想として認識することをしようとすると、全然今まで気が付かなかったことに気づく。それは報道とは事実ではなく、事実像なのだということを。しかしその時同時に思う。報道されることはある程度放送局の思惑によってどの局のものも恣意的にトップニュースになるもの、敢えて報道する必要のないものと選別されているわけだが、では報道されないことが全て意味のない事件的価値のないものであるとは決めつけられという意味では全ての報道を疑ってみることは大切だが、だからと言って報道されること全体が虚像であると決め付けることもまた一つの大きな思い違いであろう、と。
 私たちは自分が他者を適当にあしらったりすることがある。鬱陶しい奴というのは誰でもいて、そういうタイプの他者にはすげなくしたりする。しかしその時その行為が特に悪意のあるものでなくても、そういう態度をとられた他者(そういう態度を採られる最初のきっかけはその他者が他人に対してある程度そういう態度を採ってきているからであるケースが殆どなのだが)が昨今問題化しているいじめ被害者の心理に陥ることがあればまずいな、一種のハラスメントになりはすまいか、と自分でも反省することはある。そういう時我々は自分が他人から騙されているのではないかという被害者意識を持つことがある。例えば今言ったマスコミ全体が国民を扇動しているのではないかというような妄想を抱くことは現代人の一種の特徴的傾向性かも知れない。その被害者である自分はまた同時に誰かに対しては加害者かも知れないふと思うこともある。昨日彼に言った一言は彼を傷つけたかも知れないと反省しながら、彼に対していじめることまでしなくても、どこかであしらいつつ誠実に接していないのなら、それもまた一種の騙しであるかも知れない、と明日からは彼にそういう態度をとることはやめにしよう、と思う。しかし一旦そうしだすと、それまで彼にとってきた態度そのものに関しては既に今はやめているのだから時効なのだということで見て見ぬ「ふりをする」。相手には自分がそういう態度をずっととってきたかも知れないと思いつつ、表面的にはそういう反省の意図を悟られないようにする。演技しているわけだ。
 さてその他者からの騙しをあざとく見抜くことが出来るのか出来ないのかがある程度騙され難い人間、つまり世間を渡っていける巧みさにも繋がるという面もあるが、同時に狼少年ではないけれど、他者からの悪意に敏感になり過ぎることというのは、ある意味では他人を信用しなさ過ぎる(最初から信用し過ぎてもいけないが)ことを意味するから、擦れた人格と他者から見做されるようになって人間社会では実害を被ることも多い。ある程度の自己防衛心は必要だが、必要以上に他者に対して猜疑心があり過ぎると逆に警戒され人間関係的には巧くいかないのが社会である。
 しかし人間はごく無意識の内に、つまり自分でも気がつかない内に作り笑いをしていたり、おべっかを使ってみたり、要するに何か今の自分の心の奥底に内在する本意とは違った、社会的に取り繕った何かいい子ぶる、つまり善人の「ふりをする」のだ。それは猜疑心の塊で、誰も真に信用しないことに比べれば一見よいことのように思われるが、そうではない。そういう偽装的態度というのは本質的に他者に対して猜疑心を抱いていればこそ、採る自己防衛と真意表出差し控えの態度なのである。それは話が戻るが自己の中に巣食う保守安泰希求型の心理に対抗し、撃破する構えの攻撃欲求(これを私は自己改革の精神なので人生の良心と私が呼ぶものに裏打ちされていると考える。)とは違った変化に対する恐怖が支配した惰性的慣習埋没型の心理で、それを私は生活の良心と呼ぶ。
 生活とは人間にとって経済レヴェルの安定を常に求めるから、それは惰性の死守である。しかし人生とはある時は生活を打破することも意味するのである。すると一切の生活の打破をしないでみみっちい生活の良心にぶら下がって生きている人間は、人生という最も大きな賭け(それは全体的に言えばやはり一種の賭けであると言ってよいだろう。)に損失を齎しているとも言えるのである。
 この人生の良心は何も必ずしも離婚とか転職にのみ存しているわけではない。そういう生活レヴェルから一転するような内的な革命のことばかりを言うのではない。例えて言うなら、道端に転がっている石ころに対しても、今までは目にさえ留めなかったのに、もののあわれを感じるというようなレヴェルの意識変革のこと言っている。
 そもそも人生という奴は不思議である。これこれこういうものが人生の在り方であり、それに沿って生きることが一番幸福であるなどと最早誰も考えてはいない。だから自分の好きなように生きられればそれが一番いいのだが、実際そのように自由に生きるということには金がかかるのだ。余程の経済力のある人間以外にはそのような悠長な生き方は許されない。そうなってくると、必然的に価値観における構成要素とか評定基準に他者とか社会一般に対する意識が含まれてくる。そもそも離婚も転職も自己にとっての他者、社会、あるいは他者、社会から見た自分というものの実像という認識が不可欠だからである。
 つまり人生は自分のものである、という認識に既に他者の存在が抜き差しがたく介在しているのである。だから他者は配偶者から親子に至るまで、あるいは友人から同僚、同業者に至るまで生涯その関係から離脱して生きることは実質上不可能な存在なのだ。そして本来良心と羞恥という感情、認識が存在し得るのは他者、社会というものがあってのことなのである。
 ここで羞恥感情というものの起源について考えてみよう。明らかに聖書にもあるように、人間はある時期から着衣し、裸の状態を他者に見せることに羞恥を感じるようになった。ここら辺はルソーの「人間不平等起源論」などに人間の内的現実に関して詳しく述べられているので、私は私なりの考えを述べてみようと思う。
 まず羞恥はどのホモ・サピエンス個体も同じように身体機能を携えているも、各器官の形状というものは外面的に、それは勿論顔とか頭の形も含めてなのだが、個人毎に異なる。そして当然のことながらある思念、それも誰でも抱くようなもの(哲学ではその普遍客観的個々の事象に対する認識を表象と呼ぶ。)においても、個的意味感受に関する内的過程とか意味把握に纏わる背景も違う。私は前章で我々が内的に言語習得する過程に至る前にも先験的に「世界や宇宙という語彙が語る真実」をア・プリオリに存在させていると述べた。これはどういうことかと言うと、そういうものがあったら表現したいけれど、語彙を知らないので内的にそういう感じというカオスを抱いているのだ。この段階では恐らく未だ表象とは言えない。表象とはもう少し他者との間で了解し得る、説明可能であると内的に明示している状態であると私は捉える。しかしこのカオスは例えば世界という概念も、自分とその周囲の外延的な一纏まりであることは確かだが、要するに世界の内容は当然のことながら個人毎に異なる。そこで普段何気なく我々が使用する世界とは明らかに語彙習得するプロセスにおいては、自分にとっての世界であった筈である。それを丁度大人が世界という(語彙習得している人間を子供も含めてここでは大人と言っている。)語彙を発話した時、「ああ、あのことだな。」と内的に納得してその語彙を他者と交わすようになってきているのだ。そしてこの内的プロセスに纏わる自分しか知らない事情とかエピソードがずっと記憶に、それがはっきりした形でではないけれど、残存する。それがその人間に纏わる語彙に関するクオリアなのかも知れない。しかしこの個的意味の世界、つまり語彙習得に纏わる幼児体験性に根差したもう一つのトラウマというものは、恐らく他者にそう容易に口外し難いものである。余程親しくならなければ、そうおいそれとは他者に告げられないニュアンスのものであると言える。それは羞恥の魁ではないだろうか?勿論衣服を剥がされた状態を他者に見られることに纏わる羞恥というものもある。しかしこの内的幼児体験に起源を持つ羞恥は、精神的であるが故になかなか根は深いと言えるのではないか?
 世界は自分の家族とか自分の住む環境である。赤ん坊にとって最初は部屋の中、次第に外界も知る。そして宇宙は最初空であろう。尤も宇宙という概念は空とか無とかの獲得の後に醸成されてゆく可能性もあるし、逆に無が宇宙の後に意味把握されてゆく可能性もあるが、何か宇宙というものの原形は世界とも異なったものとして先験的に存在し得る気が私にはするのである。

Wednesday, February 3, 2010

〔羞恥と良心〕第八章「ふりをする」ことの哲学(1)

 私たちの生活で日常的な思念というものは往々にして生活することが出来ればそれでよい、つまり出来るだけ保守安泰希求型の安定性、そして固定化された人間関係を維持しようとする。その生活を豊かにする意味で自然科学の認識は有用で、現代社会は自然科学認識とそのテクノロジーに多大な恩恵を蒙っている。しかし同時に私たちは便利なだけの生活には心では満足せずに、各個人に固有のものとしての幸福を追求したいと願う。
 脳科学者の茂木健一郎は「世界知」を人間の自然科学的認識を主体とした「神の時間」として、客観的な自然認識を機軸とした人間の存在はその中の一駒であるに過ぎない捉え方として、もう一つの「生活知」と対置させている。この「生活知」は自然科学的認識で割り切ることに対してある種の躊躇を感じる人間主体の「人間の時間」で、前者があくまで過去も現在も未来も予定調和的な捉え方をするのに対して、もっと主観的な人間中心で、常に現在を機軸とした時間の捉え方であるとする。(「「脳」整理法」ちくま新書刊)
 この捉え方は理解しやすく、特に人間が自然の一部であるとしながらも、同時にその客観認識の部分集合とする合理主義的考え方に対して楔を入れるような哲学的思考という風に「人間の時間」と「生活知」を考えてもいいだろう。さて氏はもう一つ重要な概念を提出している。それがセレンディピティーである。これは偶然的な出会いを必然的な意味に置換してゆく知恵であり、我々の日常的な心掛け次第で掴むことが出来る場合もあれば見逃すという、どこかジャ・メ・ヴュにも似た発見である。
 茂木氏の論点でこの部分で最も面白いのは、我々の人生の時間は限られているのだから、何か自分から主体的に行動する(例えば普段出かけない近場でリラックス出来る場所にまには出かけてみるとかの)、そしてその際に普段に目に留めない何かを発見する、そしてその出会いを切実なものとして受容する、つまり「行動」、「気づき」、「受容」の三本柱を機軸とした偶然の必然化である。実は芸術行為というものは全てこの連動であるし、氏に言わせれば日本のノーベル賞受賞科学者たちや人類の歴史上の偉大な発見、発明は総じてこのセレンディピティーによるもののオンパレードであると言う。そう言えばあの遺伝の法則を発見したメンデルは牧師で、教会の庭で育てたエンドマメから法則を発見したものであり、それもまた偶然の必然化だった。
 さて人間がそのような偶然の必然化をなす行為の一つの哲学的認識もまた含まれよう。この章では少し人間の日常的行動の意味について考えてみたい。
 精神分析では意識と無意識というのがあり、医学の世界では人間の身体の運動を随意と不随意と呼ぶものがあるが、前者は両方とも自分で意図的に何かをなすことであり、その運動とか行動をしながら何をしているのか他者に説明が出来る。つまり言語化しやすいのだ。しかし後者は精神分析と医学では多少異なるが、無意識とは潜在意識のことであり、深層心理と言うこともある、自分の中にある自分でも気がつかない欲求とか願望のことである。そして不随意とは自分身体内部で、あるいは外部(皮膚の発汗作用とかの)で身体が勝手に作用することである。例えば血流がそうであるし、怪我をした時傷口が自然に塞がり血液が凝固したりする、要するに医学・生理学的作用である。
 この章では哲学的認識について考えるわけだから、取り敢えず精神分析の無意識と、身体作用の運動性の中間くらいに位置する行動とその振舞いというレヴェルで考えてみよう。この現象に目をつけたのが最初はデカルトであり、その心身二元論は有名である。そして現代ではギルバート・ライルという哲学者が心の内面と外面的な行動の関係を詳しく論じた。心は自分で他者に説明がつく部分と、そうではない部分とがあり、それは欲求レヴェルでもそうだし、願望レヴェルでもそうである。また自分固有の考え方や行動であると思っているものが実は誰でも同じように行動する一種の人間という種固有の本能的なパターンを踏襲しているだけであることも多く、要するにこの自分、人間社会の成員、種といった捉え方のどれに今自分が考えたこと、あるいは行動したことが位置しているのか規定することは極めて難しい。
 例えば人間はどんなに哲学的思考を思い巡らしていても腹が減ったら腹の虫は鳴るし、食事をしたいと願い、用を足しなくなればトイレに行って済ます。そして恋愛というものもまた実に厄介で、人間的な愛情を(と言うより神への愛を)アガペーというように表現するかと思えば性欲とかそういうレヴェルをも含めてエロスとも言うし、一体全体恋愛感情とは人間的理性によるものなのか、あるいは動物的本能なのかという問題は永遠の謎であると言ってもよい。
 だが好きな異性の前では我々はどこか演技をする。そして今直にでも「君を抱きたい。」とそう率直に告白出来て、またそれを向こうも受け入れられるのならことは簡単であるが、そういうものがいつもであるわけでもない。そうかと言って衝動的な両性の合意による恋愛とセックスをただ闇雲に欲望にのみ身を任せた汚らわしいものであるなどとも言い切れない。そんなことを言ったら人類全てが汚らわしい存在ということになる。尤もキリスト教には原罪という観念があるのだが。
 そしてこの振舞うということに関しては極めて難しい問題が潜んでいる。 
 例えば就業しているビジネスマンは仕事がどんなに楽しくても尚、雇用されある一定の成果をあげることを通して報酬を得ているわけだから、レジャーに打ち興じている時のような表情で社内でも対外的にも振舞っていても駄目であろう。と言って仕事は生き甲斐でもあるのだからある程度楽しんでしなくては周囲にも不快な感情を与える。この義務履行性と幸福的振舞いの表情とか態度の配分というものは実に難しい。
 ビジネスにおいて営業は明らかにどこかで売る立場の人間が買う立場の人間の深層心理に「率先して買いたくなる衝動」を引き出すという意味ではある種の騙し、騙される、しかも騙される側が喜んで騙されるような関係を構築することであるのだから、心理ゲームの様相である。
 例えば同一の商品でも陳列棚に一個だけが残っているのと、他にも同一の商品が沢山まだ棚に載っているとでは前者だと、どこか売れ残りという印象を与え、それが食品であると鮮度に問題がありはしないかと消費者は考え込んでしまう心理を誘引する。そういう意味では商品のフェイスアップとは実は極めて心理学的な企業戦略であると言える。そして明らかに売る側は買う側に喜んで騙されることを選択させるように仕向けている。大安売りというキャッチフレーズもそうである。
 カッコウは他の鳥類の巣に託卵する。しかしその卵があまりにもその鳥類のそれと似ているので、他種の鳥は気がつかない。そしてその鳥が自分の本当の子供に餌を巣に運んでくる時に我先にとその餌をせしめるし、そればかりか他種の鳥の雛を巣から落してまんまと自分だけその被害者の雛の親鳥からの分配を独り占めしようとさえする。しかし騙される側の親鳥はそれに気がつかない。リチャード・ドーキンスという動物行動遺伝学者は余程カッコウの雛には騙される側の親鳥をも欺くような魅力があるのだ、そして何か未知のフェロモンのようなものを発散して騙される鳥に催眠をかけているのではないかというような推理をあの有名な「利己的遺伝子」というテクストで述べている。このカッコウのいい子ぶる、本当の子供の「ふりをする」行為は明らかに種の生存を賭けた巧みな戦術である。
 このように自然界、動物界においても人間社会においても「騙す」、「騙される」行為の連鎖は日常茶飯である。
 会社で部下が上司に好印象を得ようとするのは当然の振舞いであるが、これもまた誠実で有能な社員の「ふりをする」行為に他ならない。勿論現代社会は益々成果主義的発想になってきているから、成果が上がればどんな態度でもいいのだ、と言ってもやはり最低限のマナー、礼儀、態度は社員同士でも必要だ。どんなに有能な社員でも、その能力を鼻にかけるようでは部下はついては来ないし、上司も気持ちよく仕事の指令を出すことが出来ないであろう。そういう意味ではその人の振舞いは人格とかその人間の職業人、社会人としての常識とか、果ては能力の有無さえ見かけから判断されかねない。だから「ふりをする」こととはその人間の本質的な内面まで表わされるという意味ではギルバート・ライルの行動こそがその人間の内面の表出であるという考え方は極めて現代社会に応用可能な哲学だったと言ってよい。
 表側の振舞い、表情、愛想、仕種といった全てはある意味では本来隠されている筈の内面のその人間の美とか礼節とか知性とか理性的判断力とか仕事の能力をいい意味で象徴するものではないだろうか?勿論それに行動が一番重要なこととして加わる。
 しかし人間のこの見かけの美という奴はどこかで偽装的な行動、偽善をも生む温床にもなってきた。現代社会では外面的印象とは確かに大切であるが、同時にそれは戦略的な行為であると、例えば実務的レヴェルから「私はタレント出身者の政治家というのはどうも。」と考えたりする有権者の心理も理解出来ないこともない、要するに見かけによる価値判断とは諸刃の剣である。人間は巧く他者を乗せてやりたいという意識と、誰からも騙されまいでいようという両方の欲求がある。そのことに関して私は例えば多少人よりもマスコミの報道姿勢そのものに対して「騙されないぞ。」という意識を強く抱いている。
 哲学者の信原幸弘は「心の現代哲学」でカエルの捕食行動について考察している。
「カエルは飛ぶ昆虫を見ると、舌をのばしてそれを食べる習慣がある。しかし、カエルが舌をのばすのは飛ぶ昆虫だけではなく、薄黒い動く小片なら何でもカエルは舌をのばして口に入れてしまう。カエルの神経機構は、飛ぶ昆虫を含めて一般に薄黒い動く小片が刺激として与えられると、ある神経状態Sを形成し、このSにもとづいてカエルにその小片に向かって舌を出させる。この神経状態Sはどのようなことを表象するのだろうか。それはカエルの眼前のある方向に飛ぶ昆虫がいることを表象するのだろうか、それとも薄黒い動く小片があることを表象するのだろうか。」(「心の現代哲学」101ページより・頸草書房刊)
 さてこの昆虫が舌で捕まえようとする飛翔し移動する物体を昆虫と同じくらいの大きさのものであるならどれでもあたり構わず摑まえようとするわけではないのだろうが、ただの薄黒い物体(人間がフェイクで仕掛けたもの)と昆虫を識別するほどの脳も神経細胞も持ち合わせていないことは確かだ。それでは表象されたものとは一体何かと問われれば、それは要するに自分の周囲に旋回する何らかの薄黒い物体があれば、それは確率の問題として大体が昆虫である可能性の方が大きいのだから、それらは構わず虱潰しに捕獲せよ、とある遺伝子座が指令を出しているということは考えられる。だからそれが表象と言えるのかどうかは疑問の余地があるのだが、しかしそれでは騙される確率も大きいかと言えば、そういうことは日常殆どないからこそそれだけの識別能力が備わっていないと考えるのは自然である。もし我々がカエルを試すような行為を一匹が数匹のカエル、あるいはそれ以上やったとしても尚、カエルという種全体が被る実害というものは高が知れている。だから自然選択がカエルに昆虫とフェイクを識別する能力を付与するように自然に仕向けるためには恐ろしく過大な選択圧をカエルに条件として与え続けねばならない。どう見積もっても一万年以上の期間ずっと全てのカエル個体にそのようなフェイクを仕掛けることが恣意的に出来たのなら、あるいは多少の変化の兆しというものが立ち現れる可能性はなきにしもあらずだが、実際上は不可能である。あまりにも持続的にフェイクをかけてきている個体の中の幾つかが辛うじて学習し、捕獲を差し控える行動が時たまあるようになるくらいのことが考えられるというのが関の山であろう。要するに自然選択というものは人間の時間感覚からすれば気が遠くなるくらいの(しかし地球環境全体の歴史からすればほんの一瞬なのだが)、時間が必要であり、要するにカエルが自分の個体の周囲を旋回する物体の識別能力を自然が付与するコストを、カエルがフェイクに騙されて種全体の生存の危機に晒されるコストが上回る事態になりでもしない限り、たとえ我々が数万匹のカエルを騙し最終的にはストレスを与え過ぎて死に至らしめたとしても尚、カエルという種全体からすれば、殆ど極小の犠牲的コストにしか過ぎないのだ。自然は人間が自分とはかかわりのないニュースを見て「酷い。」、「気の毒だ。」などといった要するに偽善的な心情は皆無である。自然というものは絶対に不必要なコストを払わない。(だからこそ人間は時としてギャンブル的感性に身を委ねようとするのかも知れないが、それすらも自然の法則で割り切ろうとするのが自然科学である。ここら辺のことも茂木健一郎著「「脳」整理法」<ちくま新書刊>を参照されたし。)だから人間がヒューマニズムというものを振り翳すことをするその実像を見てニーチェはその欺瞞性を鋭く指摘したのだ。
 そのことを考慮に入れて考えると我々人間もまたどんなに地球の裏側で悲惨な出来事があったとしても尚、近所の火事ほどにもそのニュースを見ている時、鬱な気分になりはしない。要するにニュースというものはそれが自分にかかわりのないものを見て、それを見ている自分が蚊帳の外にいて、安全地帯にいてよかったと安堵の溜息をつくものなのだ。仮に地球の裏側で起きたことでも、それが自分の家族の中に一人でもその地域に住んででもいない限り関心がそれほどは起きないが、一旦そういう事態に直面したら、その家族が心配で何もない時には世間でもっと大きなニュースがあればそれを見て「悲惨だ。」と思いつつも他人事に対して抱く好奇心から興奮すらするものなのに、自分の家族が心配で仮に東京で大地震が起きても自分がそこに住んでいない限りそんなニュースなどは意識の上ではそっちのけで、例えば東京で震災があった時と同時に悲惨な事件のあった外国にいる自分の家族の消息を一番に心配するのが人間である。
 まるでマスコミとは正義の味方の「ふりをする」安全地帯にいる人々を被害者から守る砦のようではないか。何故なら被害者をいつも気の毒ぶりながら見せ物にしているからだ。
 デズモンド・モリスは、人間とはせいぜいどんなに多く見積もっても、自分が暮らす社会で百人くらいの知人がいれば、生活には困らない(それは職場、自分の居住する地域環境で)と指摘しているが、ある固定化された必要最低限の人間だけを大事にして、後は全部ただの他人として切り捨てることが社会で生活するということなのだ。ということは逆に我々は他人に対してはどうでもよい態度で暮らしているが、知人とか自分にとって人間関係的に重要な他人は大切にしなければ生きてはいけないということを意味する。そしてそういう大切な人に対しては少なくとも自分のプライヴァシーの全てを公表する必要はないものの、全て取り繕って偽装的態度で接していては良好な人間関係は維持出来ないし、建前もある程度は必要であるし、相互に不干渉でいることも大切だが、嘘で塗り固めることも不可能である。そういう態度で生活していれば必ず世間的評判を落すことになるし、第一信用されはしないだろう。そういう意味では非意図的に行為する真意表明型の意思疎通がある程度自然に要求されるし(不自然な行為というものは作為性に満ち溢れている。)、その時「ふりをする」行為というものは、誠実に振舞うということ以外にはないだろう。人を落し入れるような行為をしながら善人の「ふりをする」ことは、偽善者のレッテルを貼られて利他的行動を動物界で粒さに報告した生物学者のハミルトンの言うように、生存戦略的にはそういう利他的集団における利己的行動の行為選択の連鎖は、長い目で見れば損失の方がずっと大きいであろう。だからカントが善意志とか道徳的法則といったことは心情倫理的な意味合いばかりではなく、責任倫理的な意味合いもあるのだろうと思われる。