Sunday, March 21, 2010

〔羞恥と良心〕第十一章 徳と理

 私は「トラフィック・モメント(自由・責任・言語と偶像化)」という論文で次のように書いた。

「論語」に次のような一節がある。

 子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁

 子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。

 先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)

 言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られるということに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
 つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
 仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。
 しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあるということだ。
 それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。

 ここで私が考えたこととは孔子は果たして徳というものが最も大切なものであると考えて、先の言葉を残したのかどうかということである。
 例えば今徳のある人がいたとしよう。しかし彼には理ある言葉を吐くことが出来ないとしよう。従って私たちはその人から理ある言葉を聴くことが出来ないでいる。しかしにもかかわらず彼に対して徳があると考えていることというのは、ただ徳があるように思えるイメージでしかない。そのイメージとはどこか親しみやすさということを基準に我々は判断しているのだろう。しかしそれでは徳ということの本質が見え難い。
 徳があるかどうかということはだから、寧ろ何か理ある言葉を誰かが吐いて、その言葉の持つ理の力が、逆にそういう理ある言葉を吐く人に徳を付与するのである。つまり徳は理のないところでは本当は成立し得ないものの筈だ。しかし理がある言葉を吐き、その言葉の理で大勢を説得出来ると、今度はその人に対して私たちは固有の徳を付与し、次第に偶像化していく。そしてその偶像化された徳があたかも理を生み出すように錯覚するようになる。
 私は先日ある出版社とある友人に当てて次の文章(「徳と理」と題して)を送信した。

 先日作家の五木寛之氏が、テレビの「週刊テレビ新書」(テレビ東京、田勢康弘氏司会)に出演され、得々と「人間は徳がまずあって然る後理を作り出す」と語っておられた。
 しかし私はこの考えはあまり賛成することが出来ないという気持ちの方が、特に昨今は強いのだ。
 というのも徳とは一体何を指すのだろうかということがまず私の脳裏を掠める。
 理とは合理性とか、理性とか、要するに物事の仕組みである。しかし徳とは仁徳とか、道徳とか、要するにモラル的なことである。しかし最近のこの経済不況と、生活者の困窮という事態を受けて、多くのマスコミの論調は、経済優先主義とか、市場原理主義とかいう言葉が飛び交い、人間には私利私欲を追求するよりも大切なことがあるのだ、と多くの論客が発言するようになった。しかしそう語る彼らは私たち一般の庶民よりはいいギャラを貰い、自ら日比谷公園へ行って生活困窮者への介護活動などすることはない。
 徳という言葉は、確かに聞き触りがいいし、暖かいヒューマンな志から他者に対する友愛も誕生するということは理解出来る。
 しかしそう言いながら、私たちの生活は全て自己責任であり、本質的には他人は一切助けてはくれない、それが現実であることをどんなに慈悲深い人でも知っている。だから逆に徳という何だか得体の知れない人治主義よりは、ずっと理、つまり世の中の仕組み、あるいは物事の仕組みの方が信頼出来る。
 それに私も日々介護の仕事とか、あるいは生活困窮者たちの面倒を見るような活動をしていてこそ、いざという時活躍し得るだろうが、経験のない人間は足手まといである。こういうことは全て日頃の訓練によって非常時に役立つか否かは決する。人間にとって最も必要なものとは即実践力以外のものではない。だから日頃から報われなくても、日々努力している、又は既に活躍している分野の中でだけ我々は何らかの貢献を果たし得るのだ。
 そういう考えの下では寧ろ何だか判断するのに主観的な感情を交えずにすることの困難な徳とかよりは、理、つまり誰でも普遍的に理解し得る仕組みとか、法則の方がずっと信用出来ると私は思う。
 だから私は敢えて孔子とは逆に、理こそが徳とか、そういう付帯的な厳かさとか、温かさとかを生むことが出来るのであり、それをまず得てから、理を構成するという考えには賛同することが出来ないのである。(孔子も実際どういう考えだったか不明であるが)
 この社会でどのようなタイプの非正規社員でもフリーターでも、理解し得る作業手順とか、方法、仕事上での技術的ノウハウこそが、いざという時助けとなる(言葉がまず私たちにとって最低限且つ最大のノウハウだ)のであり、その形而下的実現こそが、徳とかそういう形而上的な完成度において求められるものを育む余裕を人の心に与えるのである。(だから徳をまず積めとのたまう人は生活力に余裕のある人だ)又だからこそ、私は哲学や論理学を支えている言葉というものをどこかで信頼している。つまり言葉は決して私と筆者が個人的知遇がない状態でも、私を裏切ることはしない。つまり言葉だけがそれを目にした時私たちを救うことが出来る。仮にその言葉を書いた人と私がじかに接した時その人格そのものからあまり得るものが仮になかったからと言って、その人が書いた文章から私が何らかの感銘を受けたということそのことに変わりはない。それこそが理というもの、言葉によって示される本質的な仕組みとか法則のことだが、それが実際に日比谷公園で炊き出しをして下される方々から得るレスキューとは違った形での精神的レスキューとなり得る。この違ったタイプのレスキューのどちらが尊いと規定することなど出来はしない性質のものである。
 私はそう思うのである。

 結局私は徳というものを孔子が最優先していたとは思えないのは、礼ということに孔子が拘ったのも、それが理のためだったのではないかと考えるからである。
 この孔子と儒教のことについては浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」が詳細に、孔子その人と、彼を受け継ぐ後代の人々による布教活動に関して述べているが、かなり布教していくプロセスにおいては孔子を気高い血筋の人間であるように偽装工作したりして、その知恵を絞って孔子生存中には果たし得なかった野望に対するリヴェンジの意識があって、極めて興味深い。
 私の先に引用した文章を送った19歳の青年T君は次のようなメールを返信してきてくれた。

 お送りいただいた文章、拝読いたしました。
 理と徳というのは難しいテーマですね。芸術的感性(永井均は、最近の日記で「変性感覚」という用語を使っていました)なんかは、理を超えているから徳の方に入るのかどうか・・・。そういえば、東浩紀が最近「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移のことを言っているようです。なお、孔子については、ぼくは『論語』は読んだのですが、けっこう中島義道に似ているという印象です。もちろん、形式的儀礼を嫌う中島氏と、礼(しきたり、儀礼)を重んじる孔子とは、全然違うわけですが。ひとつ事を進めるのにも時間がかかり、周囲の人間からは傍迷惑としか思われない孔子の「礼」への偏愛ぶりは、中島氏のいう「本来的偏食家」を思わせます。ところで、芸術における形式というのは理なのでしょうか。過剰な様式美への傾倒などは、理が自身を超え出ているようにも思われますね。

 そこで私は更に次のような返信をした。

 孔子の「論語」は私も読みましたが、中島氏的という指摘はとても面白いですね。
 しかし「論語」の解釈は多様で、私は孔子は必ずしも徳を最優先していたとはどうも思えないんですね。 例えば浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」において記述されたその弟子たちによる布教工作、孔子の人柄と、人生からするとそう思えない。ここら辺は私は論文「責任論」で詳しく触れました。

 また孔子の幾つかの言説は理を優先するのではないかということで、今執筆中の「自由と責任」には詳述しました。この論文も春先までには完成するでしょう。
 
 うーん、アートにおける様式美の追求は、理と言えるでしょうか?私自身のアーティストとしての経験から言わせて頂ければ、どちらかと言うと、アーティストが自分の流儀に拘る時というのは、寧ろ生活レヴェルの安定が需要と供給とによって不動点に達した時に思惟するものなので、逆に徳的ではないでしょうか? 
 つまりもし理に随順して制作するのなら、様式美という枠組みに囚われないで実践し、その都度新たな発見に勤しむということの方がスタンスとしてずっと潔いと私は思います。それでもいい作品を作り続けていくというのは実は一番大変なのですが。

 様式美というものはかなり戦略的なものなので、私はそう判断してT君にそう書き送ったが、実際形式美というと、それは理であるような気もするが、形式美そのものを追求していくと様式美になってしまう気が私にはするのである。形式美とは、形式とかそういうことを考えずに作品を作り続けることによってのみ得られる成果ではないだろうか?
 それを言うなら、言葉もそれが齎す効果だけを考えに入れて発するのではなく、その言葉が本当に自分の考えに根差しているのかどうかということにおいてその言葉が説得力を持つかどうかが決まると思うが、そのことにおいてそれを徳と呼ぶのなら、それは確かに必要かも知れない。
 しかしT君の指摘された東氏による「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移」という下りについても私は一言述べておきたいのだが、要するに地域住民同士の触れ合いということを言うなら、まさにそれは理によるものであると私は思う。その中でも特に親しい人同士のつきあいでは徳というものも生じるかも知れない。しかし逆に監視カメラについて言えば、それを監視する対象そのものを差別するようなこと(例えば社会的地位の高い人の多い地域ではそういうことをしないで、生活困窮者の多いところではそういう設置を多くするとかの)を未然に阻止するという観点からは確かにそれは理であるが、逆にその監視をするということの理由や動機という観点から言えば、それは徳の問題、つまり悪いこと(不徳なこと)をする人がいるから、そういう措置に踏み切るという意味では明らかに徳的なことである。

 付記 このT君との遣り取りとか、「トラフィック・モメント」http://trafficmoment.blogspot.com/内の記述など丁度今現在2010年3月22日から一年ほど前のことである。この論文は既にその時点で書いていたが、幾多の事情で今公開することとなった。T君も去年12月に成人し、今も私とツイッターその他で交流は続いている。
 この一年に私の中では若干の変化が起きている。尤もここで書いたことの大半は今でもそう信じている。
 その変化とは言葉の力とは、言葉の意味するところ、例えば空腹で死にそうな人が炊き出しの前へ行って「一口私にも恵んで下さい」と声をかけることにおいては、意味内容だ。だが親しい家族の前では言葉は意味内容以前に、やはり存在論的に声を掛け合うという行為の持つ意味である。それは口ごもっていても同じである。今日ALSの人たちにとっての生とは何かというレポートをNHKで見たが、知性的には何の問題もないのに、意思疎通に非情な困難を伴うという事態が生む諸問題は、ある部分では弧絶という状態的な悲劇である。その場合しかし家族がいて意思疎通でも相手の言うことがある程度想像出来る者同士であるという状況と、家族のいない人では全く異なっているということも言えると思う。私自身幸いその種の病に今のところかかっていないが、いざそうなったなら、家族を持たない者であるが故にかなり深刻な気持ちになるだろうということは容易に想像出来る。
 ある部分では人間は知性が邪魔をして、それ故に「死にたい」と思ってしまう。それは理を理解出来るからである。だが知性自体に障害のある人は、そこまで考えるのだろうか?ある部分では考えもするし、別のある部分では余り深刻には考えないかも知れない。だが徳ということを考える時我々はこの論文で私が書いたように、理という方法論から派生するという要素は多分にある、と私は今でも思っているが、実際存在する事、例えば一切の言語を理解する事が出来ない人間がいたとしても尚、そこには幸福感はあるかも知れない、という考えの方に私は傾きつつある。それがここ一年で私の中に生じた変化である。つまりたとえ言葉を持っていたとしても、全く他者を信頼することがなく、全く愛情というものが理解出来ない人間がいたとしたなら、それは真に理であり、幸福である、と言えるだろうか?
 逆に言葉が一切理解出来ない人間がいたとしても愛情や信頼という気持ちだけは理解出来るということはあり得るかも知れないとも思う。それをもし徳と呼ぶのなら、強ち五木氏の仰ることも間違いではない、という気持ちにも今では私は傾く。
 アートなどによる形式美ということは、その形式自体への我々の信頼による。例えば小説を読もうという気持ちになるのも我々が小説には作者がいて、彼らによる創作であり登場人物は実在の人物ではないが、リアリティを我々はそこに読み取ろうとする。それは一種の言語ゲームではあるが、そのゲームを只虚しいとは思わない。つまりそこに我々は作者と、自分、自分以外の読者ということを想定している。絵画作品の場合には、鑑賞者である自分と自分以外の鑑賞者、作者との構図にも置き換えられよう。そこが嘘とかデマということと、創作世界との関わりとの本質的違いである。
 痛い時にレスキューを他者に求める時私は明らかに他者を信頼している。つまりレスキューをしてくれる相手として認可している。そうでなければ私は一切他者に声を発することを断念しているだろう。その意味では言葉という理は、ある部分では、声を発することでも、文字を書くことでも、誰かそれを聴いてくれる人、読んでくれる人を想定している。つまりそういう能力保持者、能力可能者の存在を信じている。それをデリダ的に著者の死と捉えても、オースティンのようにパフォマティヴと捉えても同じことである。
 理には理だけで自立しているという強みは確かにあるが、事実上我々は理を理として捉える時点で既にその行為を徳として捉えてもいるのである。そしてその事実において我々は理である事の徳と、理がない形ででも存在論的には徳もあり得るかも知れないという存在自体への信頼を得ているのかも知れない。そこにこそ可能性を見出さずには生きていけない人もきっとおられることだろうし、その意味では本論の主張は全て反転させても尚、有効であるということを承知の上でのみ、私の一年前の主張は意味を持つのかも知れない。そしてこの問いは私にとって未だほんの始まりでしかない、ということだけは今現在確かである。

Friday, March 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十章 羞恥の正体

 私は前章で羞恥の正体についてある語彙を習得したプロセスに対するおぼろげな記憶に起因しているのではないかということを示した。本章ではそのことに関してもう少し詳しく立ち入ってみよう。
 私が仮説した「世界や宇宙という語彙が語る真実」というものについて少し説明すると、これはもっと適切には「世界や宇宙という語彙が語る真実」とするともっといいかも知れない。つまり私たちは「世界」とか「宇宙」という語彙を覚える前に既に自分なりに、それはまさにウィトゲンシュタインが考察し、しかし最終的には否定した私的言語のようなものとしてであるが(哲学者の永井均氏は私的言語があると考えておられる。「なぜ意識は実在しないのか」)、何となく大きな纏まりというものを聴覚映像的に理解することが出来、その枠組みを両親が会話する中で度々登場する「せ・か・い」とどうも一致するのだなと覚知していくのだ。そしてその一致させるものこそ「世界や宇宙という語彙が語る真実」であるというわけだ。しかも世界は例えば赤ん坊が寝ている部屋のように一定の範囲に区切られている。その境界はあるが、その全体というニュアンスは赤ん坊でも得ることが可能だろうし、また宇宙という語彙は、それを習得する以前的には、何らかの感覚において、例えば今自分がいる部屋の外にも「向こう」があり、その向こうの先には更にもっと向こうがあるという意味で、漠然とした無限に対する意識が既に芽生えているように思う。それがもう少し成長すると、学校で習う語彙の中に含まれている「う・ちゅ・う」という語彙に相当するのだなと気づくというわけだ。宇宙とは前章でも述べたように漠然とした空とか無に対する意識が生じさせる把握であろう。
 要するに言語習得以前的な(自分なりの)心像のことを私は「世界や宇宙という語彙が語る真実」としたいということだ。そしてそれは両親が会話しているという現実を目の当たりにすると、脳は刺激され、自分もその輪に加わりたいとそう感じるようになって、その心像と、語彙の発音とを必死になって結びつけようとするのだ。
 ものは動いたり、止まったりするし、最初からちっとも動かないものもある。その段階で動くけれど機械のような無機質なものと、私たちのように生暖かい生き物とは基本的に区別出来る。あるいはそれらの印象は、それぞれ動き方が緩やかであったり、激しかったり、要するに動きや止まりといったことに対する印象も記憶されているだろう。感覚的にストックされた印象はやがて形容詞を習得する際に語彙化するための心像として利用されるだろう。記憶は語彙化という過程を踏むことで徐々に整理されていくのだ。
 しかし大人たちはそんなことは無頓着に自分たちだけでどんどん会話を続けていく。そして時には和やかであるが、時には険悪な雰囲気に包まれて会話するだろう。
 しかし幼い私たちにとって険悪な雰囲気というのは会話内容、表情、会話の語調や音声の発し方において幼心にも即座に理解出来る。勿論それは言語的な理解以前的なもっと直観的な理解である。それは要するに漠然と意味としてではなく感覚的に「よくない状態」なのである。そしてそうやって把握された語彙において、私たちは一方でポジティヴな意味合いの語彙と、そうではなくネガティヴな意味合いの語彙があることに徐々に覚醒していく。そして前者を使用する時大人たちは何故かにこやかに、しかし後者を使用する時は、何故か曇った表情や語調で話すことに気づく。そして特に後者の場合には、もしそのように語られることを自分がしたり、そう表現される状況に自分があったりすると、自分は両親や大人から厭な顔をされたり、あるいはある時には強く叱られたり、あるいは気の毒がられたりするのだなということを直観的に理解するようになるのだ。特にそういう状態に自分があったり、そういう状態のことをしたりすると自分は叱られたりするだろうというような行為語彙や形容語彙を理解する時には多少の後ろめたさを感じて記憶するだろう。勿論悪い語彙は習得しやすい。それは外国人が罵倒するイディオムなら即座に自分の祖国とは違う国にいても即座に習得するのと同じである。
 つまりこの語彙を習得する際に附帯する状況に対する固有の印象こそが、私たちに固有の羞恥心、つまり何かを覚える際に伴う私的な事情(例えば両親とか上の兄弟たちの喧嘩とか、ずるい大人の態度とか)に対して、それは他者にはあまり明確には悟られたくはないという対外的な体裁的なこととして仄かな防衛心を介在させるのだ。
 あるいは最初は大人の耳からすれば明らかに間違った発音とか、使い方がちぐはぐな覚え方をしている場合もあるだろう。そういうことをも含めてどの様にある語彙を覚えていったかということは明確な形でではないにしても、どこかでぼんやりあまり芳しくない覚え方であったり、よく明確に最初から理解して覚えたりとか語彙毎に違いがあるだろう。
それは大人になってからも一々他者に告白することは滅多にないものの、自分では憶えているものである。そしてその語彙を聴くと一人で気恥ずかしい思いをしたり、やるせない気分になったりするのだ。
 つまり語彙習得のプロセスにおける習得事情の私秘性こそが羞恥の正体ではないかとここで私は提案したいのだ。しかしこの羞恥は表面的には記憶ということにおいても、他者全般が使用する基準を完全に把握した段階で一挙に忘却の彼方へと押しやられる。つまり他者一般と会話する際に意思疎通し合うためには然程重要ではなくなるからだ。私たちは要するに言葉の「仕組み」から言葉を「伝えるべき内容」へと問題意識(勿論無意識に内に、と言うか自動的な意識であり、説明し得る意識ではない)を移行させていくのだ。その際には私秘的な習得事情などお荷物なのだから。
 しかし誰でも一人になった時ふと想起に包まれる瞬間はあり、例えばその日帰宅してから、もし一人で生活している人なら(結婚していて、帰宅後も誰か他者がいる場合、寝ている時にしか基本的には一人になれないが)その日同僚や知人、友人と会話した時に使用した語彙そのものが急に気になりだし、想起は向こうからやってくる。そしてある瞬間に幼い頃には「その使い方はおかしいですよ」と母親に注意されたこととか、父親に「そういう言い方を親に対してはするな」とか言われたことをふと思い出したりするのだ。
 そしてそうやって覚えたこと自体を習得の仕方のニュアンスとして記憶そのものが疼くということがあるのかも知れない。ある語彙を聴くと何故か気恥ずかしい思いに囚われたり私たちはするのもその時その語彙を使わざるを得ない状況という現実を生きているからである。つまり現実に進行している事柄と昔にあったおぼろげな記憶とが刺激し合うのだ。それは奇妙な共鳴作用であるが、そこには羞恥が伴われている。そうだ、そういう風にして、つまり大人が話しているところをじっと観察することによって、(自分なりに)把握していた「世界や宇宙という語彙が語る真実」が一挙にある時それぞれに語彙に対応するようになるのである。また必死に何を伝え合っているのかということを把握しようとしているからこそ、大人の会話に加わりたいという気持ちがその一致させる作用と協同して言語習得はなされていくということなのだろう。