Wednesday, May 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる

 現代人にとってアイデンティティーは完全に仕事人間としての誇りであるとか、ある業界で生きることの誇りである。
 従って彼等にとっての羞恥は勤続何年という形で形成された「~家としての」「~者としての」「~―としての」「~イスト(リスト)としての」「~人としての」感性に色濃く影響された人生観である。
 それはかなりバイアスがかかっていて、しかも始末の悪いことには私たちの先達の世代ではリタイアした後にどういう人生を歩むかという事が一部官僚などでは天下りなどによって敷かれたレールの上を進んでいけばいいだろうが、そうではなく満期一杯まで勤め上げてからいざ、地域社会にリタイア者としての生活を営んでいこうにも、妻からは粗大ゴミ扱いをされ、地域社会に溶け込むには余りにも偉大な職業的誇りがあって、それが禍して遂には休日にはゴルフなどに出かけていたそういう習慣も徐々になくなって、終いには毎日が休日であることに耐えられなくなるのだ。
 要するに社会学者テンニースが考えた時代と今とは隔世の感がある。何故なら当時の社会では完全に資本主義社会とか財閥とかが幅を利かせ、失業者の群れがあった。勿論今日でもそれは同じかも知れない。
 しかし基本的なところで当時の様に、では失業をしたからと言って帰っていくべき共同体などとっくになくなっているのである。
 従ってどんなに都会の片隅でいじましく余り儲かりもしない営業をしていても、或いは失業しても、それまでに培ってきた職業的ノウハウを捨て去って一から出直すという事自体が大変である御仁も、そうではなく完全に転職自体に慣れている御仁も、人工的な都市空間に彷徨う都市徘徊者としての日常の中にこそ、ゲマインシャフトを構成し、寧ろかつてのゲマインシャフトとしての地域、地方共同体の方が人工的に観光化された形で人間関係に於いても重圧がある。そこではピアプレッシャーとは、相互にピアプレッシャーを感じずに生活していけない事自体への面当てである。リタイア老人の中で地方社会で顔でいる人達が挙って若者衆や個人営業の店主達と結託して都会からのホワイトカラーリタイア組を骨抜きにして、かつての威光を徹底的に失わせる。俺達こそがここを支配しているのだ、という触れ込みで。
 それはテンニースの時代に彼が考えていた資本主義社会の完成以前のゲマインシャフトでは決してない。既にステレオタイプ化されたゲゼルシャフトの雛形である。
 一部官僚達と違って民間企業のお偉方達は端的に一切の職業的ノウハウによって培った自分の習慣にとっての自然をリタイア後に棄てきれない。そこで地方ゲマインシャフトであった場所での顔役達は早く社会からドロップアウトして年金生活をしながら趣味をしている人達である。
 従って仕事人間は何らかの形でリタイア後に今度は一切の年功序列も勤続年数も関係のない自力での転職を果たさねばならない。彼等にとっては既に職場こそがゲマインシャフトであり、妻達に独占された地域社会での対人関係こそは自分の人格のほんの一部だけを偽装して晒すゲゼルシャフトなのである。
 これからは特にネットインフラが整備されてから就業年齢に達した人達が未来に於いてどんどんリタイアしていくとなると、次第に寛げる空間とは職場であり、職場の近くにある店舗であり、居酒屋である。しかも大半の女性も既にキャリアをどんどん積んで独身族も大勢になってきている。個人の自宅でパソコン一つで勝負していたとしても、既に地域共同体は故郷ではない。彼等にとってはネットインフラ上での交流こそがゲマインシャフトなのである。
 彼等にとっての羞恥はかつてどういう職業に就いていたかであり、夫婦関係など十の昔に崩壊しているのだ。離婚していずに、結婚を持続していたとしても尚彼等は殆ど形式だけの夫婦である。
 既に良心という精神さえ彼等にとっては職場の倫理であり、対外的な対人処理術である。従ってお互いに配偶者を粗大ゴミとして取り扱う事自体を忌避したいという願望があるので、何も無理してまで相手の羞恥を妻は夫を妻同士の付き合いの中に放り込むことなどないし、夫は夫で男同士の付き合いを妻にまで紹介する必要性自体をさらさら感じてなどいない。
 寧ろその様に不干渉である事自体が相互に良心の発動であり、そうする事によって未然に相互の羞恥を感じさせない様に配慮しているのだ。つまりそれこそが夫婦愛というわけだ。
 私達の行動の多くは既に25歳を超えたなら、大概が習慣化されてくる。それは殆ど自動的に身体が勝手に動く。それはまるで慣れ親しんだ夫婦同士のセックスの様なものである。パソコンを開く、メールチェックをする、ツイートする、そのレスを送信する、昨晩コンビニで買って冷蔵庫に入れていたハンバーガーを口に放り込む、コンビニを出て余分に買っておいたドトールコーヒーをレンジでもう一度温める。
 そこには素の自分を晒すという事の羞恥を相互に忌避し合う社会成員の習慣化された行動論的なコードがある。
 その習慣化されたコードの方が既に私達にとってのゲマインシャフトであり、それは確かに一面ではプライヴァシーの確保でもあるわけだが、言語行為のプライヴァシー性とは原始社会から古代、中世期までの方が寧ろ徹底化されていて、逆に今日では2ちゃんねる的存在に於いて徐々にそれを剥ぎ取る傾向にあると言える。
 つまりプライヴァシーを剥ぎ取る行為自体が一種のプライヴァシーになっているのである。その仕方のノウハウ自体にある種の差別化において商標登録的アイデンティファイされたものを流用する習慣がツイッターのアバターなどに於いても既に顕在化している。
 そこでは欧米の様に無記名、匿名の書き込みをする事が少ない社会でも、日本の様に無記名、匿名コメントに於いても同じである。
 ネットインフラ上での対人関係の方こそ素の自分を見せ得るのであり、逆に夜中にコンビニで買い物をする時明らかにそこで出会う人達は完全に他人であり、マンションで生活する人達にとって擦れ違う人達の一部がかつてのゲマインシャフト的友愛性に彩られ、大半はそうではないのだ。
 つまりブログ仲間、ツイッターフォロワー同士こそが私達にとってのゲマインシャフト化していて、地方の観光都市の対人関係こそがゲゼルシャフト(特にネット依存症的都市生活者にとっては)なのである。