Friday, October 22, 2010

〔羞恥と良心〕第二十章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part1

 人類に未だ国家がなかった時当然未だ貨幣経済が定着していたと言う事はないだろう(尤もバーター取引などはあった可能性は高いが)が、人が住む住居でない限り、農耕生活を営んでいたわけでもないだろうから、狩猟採集という形で、当然自然にあるものは只単に早い者獲りだっただろう。
 勿論先にある狩猟地を確保していた者が後から来た者を自己に追随させるということはあっただろうが、そういうことでない限り現在の様にどこかの自然が誰かの土地ということはなかったに違いない。少なくともそこに石が落ちていればそれを拾って自分のものにすることは基本的には自由だった筈だ。
 今日の社会では山を所有する人はいるだろうが、例えば石ころ一つ拾って自分のものにすることまで煩く取り締まることなどないだろうが、何らかの法的規制はあるだろう。まさか全ての木を切って勝手に持ち運んでいい筈はない。
 従って現代社会で生活するということは、人類にとって完全に自然のもの(木っ端とか石ころとか)以外では勝手にそこに置いてあるものを持って帰ってはまずいというのが常識である。
 しかし例えば貨幣が一つか二つ落ちていて、それが仮に一円とか五円、十円、百円というレヴェルだったら、それを拾って財布に入れるくらいのことは誰しも経験があるだろう。或いは千円紙幣くらいならそれを一々警察に届けるということを億劫でしないことの方が多いかも知れない。勿論交番の前で落ちていた千円冊を拾うのを躊躇するという心理は分からないではないが、たとえ千円でさえそれを拾って自分の財布に入れたことが発覚してその者を逮捕していたら、恐らく大半の日本人が逮捕されてしまうということになるのではないか?
 では幾らくらいの金額からなら、それを自分のものに勝手にすることがかなり良心の呵責に苛まれるものだろうか?(法的には勿論一円たりとも罪になり得るのだが、ここでは取り締まれるかということに対する考えとして)
 今の日本人の金銭感覚から言えば恐らく良心的な人で五千円、普通の人で一万円くらいが、それを持って交番に届ける下限ではないだろうか?
 勿論それは落ちている場所にも拠る。スーパーマーケットであるなら、落ちていた辺りで買い物をしていた人が落とした可能性は高いし、映画館なら鑑賞していた観客が落とした可能性は高い。しかし横断歩道や駅のホーム、駅のトイレに置き忘れてあったものを、自分で誰かが忘れるところを確認出来た場合以外で最初から置いてあったものということになると、確かに警察に届けることは義務でも落とした相手に届く可能性は低い。それでも勿論法的にも良心的にもそれはするべきではある。
 そこで今挙げた様な例に於いて幾らくらいなら勝手に自分のものにして、それを知人とか友人に告げてとやかく攻め立てられた時に「そんな大人げないことを言うなよ」と言い得て、逆にそう言われて白を切って「俺は拾ったものなんだから、俺のものだ」と言い張ることが犯罪めいていると自分自身でも思えるという境界設定とは一体何なのだろうか?
 つまり人間が社会的公衆道徳という規範に追随して生活しているということは、先ほどの例を発展させれば何処かの一般家屋の前に置かれてある自転車は確かにその家屋の住人のものである可能性、或いはそこに訪れている人のものである可能性が高いという意味で、我々はそれを「あっ、こんな所に自転車があった。これで駅まで行こう」などとは通常思わないということだ。それが常識で、それを逸脱すると非常識ということを言うこと自体が非常識にはならない。そしてその規準とは一体何なのだろうか?
 私は社会学者でも人類学者でも法学者でもないので、自分なりに判断していくしかないのであるが、例えばある地域のあるコミュニティーではその地域で生まれて育って死ぬまで過ごすということが大半の人の常識であれば、当然そこに移住してきた人というのは新参者として扱われるという不文律が形成されやすく、又そのことで後から来た者を排斥する様な空気でもない限り一応誰しもその地域に長く住んできた者の意見を尊重するということはあり得る。それは私の様に度々引っ越しをしてきた様な人間にとっては何度も味わってきたことである。
 しかし風が吹いてきて捨ててあった雑誌が自分の足元に転がってきたとして、その時一緒にその閉鎖的コミュニティーの長く住んできた人が隣にいて、それを私が仮に自分のものの様にしたとして、その時その先輩の住人が「私を差し置いて自分のものにするとは不届きな」などと言うことは通常現代社会ではありそうもない。
 勿論その風が吹いて飛んできたものにも拠るだろう。例えば仮に紙テープで一束に括られた百万円分の紙幣であったとしたなら、隣に人がいたならそれを自分の懐に仕舞いこむ者はいまい。しかし人が見ていなければかなり生活の苦しい者なら、それを猫糞するかも知れない。勿論その時彼(女)は内心では悪いことをしたという思いを後々味わっていくことだろう。これは誰かにとって必要な金だったのだ、ということを考えて、良心が疼く。
 人が隣にいてそれが決して出来ないというのは只単に羞恥である。それは恐らく人さえ見ていなければ一切警察に届けるということすらすまいと決め込んでいる者でさえ持っているだろう。それは端的に社会制度、つまり法的な拾得物に対する扱いということであり、それに対する規範逸脱を他者に知られることに対する羞恥である。
 しかし誰も見ていなくても仮に一万円でさえ、或いは千円でさえ交番に届けるという行為を決定させるものとは良心以外のものではないだろう。
 つまり我々はどこかで対外部的な行為や振舞いの体裁を取り繕うということと、そういうこととは無縁に自分の良心に忠実に行為しようという考えは全く違うことであり、前者には羞恥が介在しているということ自体が然程不思議ではないが、後者でそれをしないで自分のものにしてしまうということに対し羞恥を感じ取るということの間にはやはり歴然とした違いがあるのではないだろうか?
 これはある意味ではカント的命題でもある。
 前者の様に人が見ているから猫糞が出来ないというのは良心が介在していない。何故なら人から悪く思われたくはないという一点(対外的な振舞い所作的羞恥)で正しく振舞おうということだからだ。
 しかし後者の羞恥には内心の良心に於いて自然発生するものであるが故にカント的なのである。つまりここから理性というものが発生する根拠(或いはあり得べき理性とは何なのか)が問われ得るのだ。
 例えばもし先ほどの例の様に隣に長く自分が移り住んできた地域に住んできた人と共に歩いている時に風に吹かれて足元に飛んで転がり込んできた百万円をその先輩住人が「二人で山分けしよう」ということになった場合、それは間違っていると主張することは理性的である。しかしそれは当然正しい行為ではあるが、例えばその先輩住人に対してお世話になったとか負い目があるのなら多少は勇気が要る。そこで後からこの地域に移住してきた新入りであるとい手前適当に相手の言う通りに「そうしましょうか」と手打ちするという行為は最も悪しき俗人性による判断であり決断である。
 しかし昨今の証拠隠滅と改竄事件やら組織内での隠蔽体質を物語る多くの事例は全てこのケースに当て嵌まる。
 又もしその様に相手が共にいる場合だけ正義を貫こうとして、誰も見ていなければ黙って猫糞しようという目論みも当然あり得るが、それこそが最も卑怯な仕方であると言える。
 他人の前ではいいところを見せて、自分一人の時には平気でその他人に示した信念を裏切るということであるならいっそ、二人で山分けしようと提案された隣にいた先輩住人の誘いに乗る方がまだしも罪は軽い、と私は思う。勿論これは私の只単なる主観である。
 尤もそこら辺になると、罪とは組織的なことであれば許され、一人で遂行したのなら重いという議論へも直結するが故に混乱してはくる。その点で言えば恐らく一人でした罪の方がより制度的、社会的通念、或いは法的な意味では軽い。しかしそれではカント的な問掛けには答えたことにはならない。カント的な理性から考えればそちらの方がより重い、つまり良心を裏切ったことになるからだ。
 ここら辺になると、心情倫理的な正義(それはある部分では欧米社会では神に対する良心ということにもなるのだろうし、仮に欧米人的な意味では無神論者であっても、何らかの絶対的良心という問掛けではあり得る)を優先すべきか、それとも社会的正義、或いは公衆道徳的責任倫理を優先すべきか、という別種の問いへと発展する。
 ここで四つのケースを考えることが出来る。

① 隣に人がいるなら警察に届けるが一人でいる時には猫糞する
② 隣に人がいても共に山分けし、一人でいても猫糞する
③ 隣に人がいても一人でいる時にも警察に届ける
④ 隣に人がいても一人でいる時にも山分けするか一人で猫糞する

勿論これらのケースでは相手がどういう態度で臨むかによって変わってくるだろう。つまり相手が山分けする態度で臨むか、警察に届けようと主張するかによって、前者の場合には③では勇気が多少は要る(相手を窘めねばならないが故に)し、後者ならそうではない。
 又自分の足元に転がり込んできた場合を考えてきたが、隣に歩いている者の足元に転がり込んできた場合では相手から「山分けしよう」と言い出される可能性はより大きい。何故なら自分の足元に転がり込んできたのにも関わらず相手が「山分けしよう」と言い出すことは相手もかなりの悪であるし、厚かましさの極致であると言えるからだ。
 この思考実験では相手がいるとか、他者の目があるからということと、一人でいる事の間にある違いを無視してでも、正しいことは正しいと考えられるか否かという論点が問われている。
 この論点では絶対的善が問われているが、他人の前では正しく振舞わなければ恥ずかしいというのは相対的善的態度と言える。
 それに先ほどの組織内隠蔽体質とか集団犯罪と一人でする犯罪のどちらが重罪であるかという問いは法学的、社会学的問いである。その二つは前者では社会的影響力の有無を問うていないのに対して、後者ではそちらに重点を置いているという明確な違いがある。そして勿論そのいずれかが重要であるかということは言い切れるものではない。どちらも問いとしては充分価値あるものとして認識し得る。
 しかし先ほどの良心という問掛けとなれば、相手から悪いことを誘われればそれを跳ね除けるということで前者に、或いはそうでない限りは後者に大きく傾斜することとなる。何故なら良心とは内心の問題であり、責任とは又別箇の問掛けだからである。
 しかし羞恥というレヴェルに照準を合わせるとすると、確かにある意味では他人の前で正義を発揮することにも多少は付帯するし、又他人の前で自ら山分けしようと言い出したり、自らの良心を裏切って付和雷同したりして相手に合わせて山分けを承服することにも付帯する。この三つのケースでは明らかに最後のケースが良心に付帯する羞恥であり、欧米人なら多くが神に対する羞恥と呼ぶだろうし、前者であるなら羞恥的にも精神的には摩滅しているとも言える。
 この問いは重要な問いなので連続した何回かに分けて考えていってみたいので、今回はそろそろ終わりにするが、羞恥とは端的に対外的な素振り、振舞い、相手からどう見られているかということに纏わる装いの自然発生的、条件反射的態度の問題であり、内心をどこまで曝け出すべきかという対外的態度の取り方に対する社会的俗人的通念と自らの良心(余り相手に対して自己信念をひけらかすべきではない<それは日本人は欧米人より強いと言える>とか、相手を自己信念で縛ってはいけないとか、相手に対する信用度に応じて態度を使い分けるべきか否かという判断なども含む)との折り合いとか兼ね合いという問題が大きく関わりがあるとは言えよう。従ってこれ一つを問うにしてもかなり大きな問いなのであり、内的良心の命題とは別箇に外的良心の命題であると言える。
 そしてこの二つは容易に切り離して考えられない部分もあるのだ。そこら辺の問題を次回以降考えていってみよう。