Monday, January 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十一章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part2

 本章では内的良心と外在的にある個へ良心を責任倫理的に課すということの間の齟齬に就いて記憶の問題から、つまり記憶喪失者は果たして処罰し得るかという命題を、人格と刑法学的見地から考えてみたい。大仰な言い方をしたが、何のことはない、案外単純な論理である。
 思考実験として次の話をここで示す。
 ある中年の歌人がいるとしよう。彼は長い間別の職業をしてきた。そして本当には自分がしてみたいことと向いていることが短歌を創作することであると、ここ数年の間に覚醒して、人生上で方向転換をしようと試みてきた。その過程である同人と知遇を得る。それが二十歳そこそこの天才的歌人であったとしよう。彼はその天才歌人と交流を図る。そして二人とも同じ歌人の新人賞を狙っていたとしよう。ある日中年歌人は青年歌人と相互に自分達の作った短歌を披露し合う。場所は青年歌人に誘われて彼の一人暮らしの自宅であったとしよう。その時中年歌人は自分自身の短歌に絶対的自信があった。しかし僅かながら青年歌人の短歌の方が優れていると直観した。そしてその時の新人公募が彼にとって最後の世に出るチャンスだと思った中年歌人は衝動的に青年歌人を殺めてしまうとしよう。彼は咄嗟に青年歌人の頭を殴って殺してしまう。
 しかしそうしてしまってから酷く中年歌人は後悔の念に苛まれ、半ば精神錯乱的に青年歌人の自宅を出て彷徨い歩く。そうしている内に不覚にも彼は信号機のない横断歩道に迫っている車を確認せずに渡ろうとしていて、その車に轢かれてしまったとしよう。彼はその時その衝撃で衝突した時刻から丁度一週間の間の記憶を失ってしまったとしよう。
 彼はその時刻から一週間前迄は自分で殺した青年歌人へ良好な感情しかなかった。つまり彼は人生上で初めて出会った親友であると思っていたのである。一重に彼を青年歌人を殺害へと赴かせたのは、最終的に予想もしない凄い短歌を青年が作っていたことを相互の歌を披露し合った時のことであった。彼は既にその瞬間の記憶を全く喪失している。従って青年歌人の遺体が発見されて、警察の科捜研等の捜査によって立証されて捜査の手が伸び一週間の間の記憶を喪失した中年歌人が逮捕されてしまった時、手錠を嵌められた彼にとってその事態は青天の霹靂であった。何故なら一切彼はその時点では青年歌人を自分が殺したという記憶を持ち合わせていなかったし、尚且つ彼は一切青年歌人死去事実を記憶喪失して以来認知していず、まさに逮捕された時点で初めて親友(良好な感情しか持ち合わせていない状態で)が殺されたことをデカ達から知らされ、しかもその犯人が自分自身が失った一週間の記憶の時期の自分自身であると知らされ、二重の意味で彼は打ちひしがれる。さて刑法学的に彼は恐らく酷い打撃を脳に被ったが故に、その一週間の記憶を死ぬ迄取り戻せない可能性がある彼の人格に対して彼を物理的には犯人であるからと言って裁くことが可能だろうか?
 彼は紛れもなく自分で記憶を失っている間に自分が殺した青年歌人の死去事実に対して酷く落胆し、悲しんでいる。記憶を失ってしまった時点以降の彼にとって青年歌人の死去事実とは悲しい出来事なのである。彼は悲嘆に暮れている。人格とは記憶と現在の行為の総計であるとすれば、我々は記憶喪失者を罪状的に訴追することが倫理的に可能だろうか?
 私はそういう判例を知らない。ひょっとしたらあったのかも知れない。しかしその時点では精神医療的認識は未発達であったかも知れない。しかしその様なケースが今日起きた場合、我々は如何にその判例に向き合うべきだろうか?刑法学的に犯人を罰することが可能であるのは、少なくとも倫理的にはその犯罪事実に対して犯人としての認知を本人がしている、ということではないだろうか?
 さて貴方はこの判例に対してどの様な判決を下しますか?