Tuesday, February 1, 2011

〔羞恥と良心〕第二十二章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part3

 前章で私は記憶と人格の問題に触れた。これは極めて重要な前提である。実際に自分のしたことを覚えていない場合には罪に問うこと自体が困難化する。仮に誰かを殺しても、その殺した記憶を失ってしまっている者を死刑にすることは倫理的には困難である。しかし巧妙に記憶喪失を装っているということは常に裁く側は考える。実際にそういう場合もあり得るからだ。だからこの問題はかなり厄介である。
 記憶は個人の所有である。そしてそれはかなり個的なことである。
 
 スーパーのレジの店員が女性で男性客に釣銭を渡す時、それを客が落とさない様に手を握らせる様に握ってくる(好意で)人がいる。同じことを男性店員が男性客にしても何の問題もない(何らかのゲイ的サインと受け取るかも知れない客以外では)が、同じことをもし女性客にしたら、或いはセクハラとして訴えられるかも知れない。迷惑条例違反に問われ得る。そこに奇妙なジェンダー的な歪さ(固有の差別意識、つまり女性に対する異様なる配慮)がある。そしてそれは日本ではかなり他の国よりも多いことではないだろうか?つまりそもそもそこまで客の為に心配りをするなどということは、よく聞くことであるがイギリスではあり得ないだろうし、アメリカでもそこまでではないだろう。
 しかし次の様な例ではどうだろう?
 スーパーのレジの店員に対して、その人が異性であった場合、しかもかなり美人であった様な場合(勿論そうではなくても)色々な想像をすることはあり得る。しかしそれは人には公言出来ない種類のものもあるだろう。しかし再び同じ店員がいるレジに向かうと、以前想像したことを思い出すということはあり得る。それは言語化し得ないものであっても、本人にとっては切実なことである。
 それはその想像を実行に移さない限り許されることである。少なくとも私はそう思う。つまりまさに記憶とは個的なことだからである。
 しかしそんな想像をすること自体をいけないことであるという倫理的考えの人も日本には多いだろう。何故なら日本は個人主義という考えが社会には根付いていないからだ。
 要するに日本は巨大な村なのだ。だから個人主義者、しかも徹底したそういう考えの人は絶対に出世出来ない。しかしその不文律にある種の息苦しさを感じ取っている人は実はかなり大勢いる。ツイッターをしているとそれを理解することが出来る。大半のツイートはそういった息苦しさ自体から出た呟きだからである。
 基本的に日本に都市構造というものが精神的に定着しているかと問われれば疑わしいとしか返答出来ない。
 確かに東京に行けば大きな銀行とか大きな役所に行けば、てきぱきと向こうから指示してくれる。そういう面だけ見れば都会とはそういう合理的な空間なのだ、とそう思える。
 しかしそういった職場の中に一歩従業員とか公務員とか行員とかとして入れば、そこでは極めて村社会的な精神構造を読み取ることは容易い。ブログ「トラフィック・モメント」の第五十三章でも書いたが、議員もマスコミも大局的な意見より、ずっと小規模な村社会的発想で物事を言う。これは議員(今では与党までもがであるが)がマスコミを意識しているということも出来るし、マスコミが議員の無策に影響されているとも言えるが、兎に角責任倫理的なことよりずっと心情倫理的なことを多く言う。最近の政治家では心情倫理より責任倫理を重んじたのは小泉純一郎という宰相だけだった(尤も彼の靖国参拝行為は少し違ったが)。
 日本では各職場では全体として和んでいる必要が各成員に求められる。これこそが村社会的だということである。ライヴァルがいてもいいし、仕事が終われば何も又別の居酒屋などに皆で繰り出す必要もない。その点で徹底的に友愛社会的である。しかしそれは決して都会風ではない。個々のケースでは都会風のバーで知らない人同士が声を交し合うことはあり得る。しかし少なくとも職場ではそうではない。
 これこそを制度的良心の日本型友愛主義と呼ばずして何と呼ぼう。そしてそれを成立させているものこそ、実は羞恥心があることが当然という心情倫理である。
 この国では勇気ある者を蔑む。皆の前で発言をすることを躊躇ない成員は出過ぎということになる。つまり慎みとは余り頻繁には意見を言わないということなのだ。それは公の場では少なくとも都会という空間は成立していない、つまり田舎芝居小屋での寄り合いと同じということを意味する。
 年配者、社会的上位者(その上位者はその場によって勿論異なる職務となるが)への配慮と集団全体の調和を常に取ろうとする。つまりある部分では葛藤とか意見の違いをそのままにするのではなく、巧く纏めようとする。そこで調停的な知性が異様に重んじられる空気が醸成される。そこからは永遠にユニークな意見は押し潰されていく。
 巧く穏便に全てを済まそうとする知性は日本人に固有のものではないだろうか?従って公職などで出世する人員はそういった知性の持ち主に限られている。だから逆に作家などの職種には勢い、そういった知性から程遠い人ばかりが寄せ集められる。そこに全ての職種に於けるワンパターンが構成されるのだ。だからこの社会には新陳代謝的なダイナミズム(それは年功的な意味合いではなく、資質論的なものとしての)が生まれないのである。全てがある程度先々まで読めてしまうということになる(まさに政治がそうである)。
 だから都市空間は確かに都市機能維持の面から言えば日本は他の国よりもずっと都会的ではある。しかしそれはあくまで飲食店などの店舗に於いては言えても、公共施設や役所、或いは民間企業のオフィス空間ではそうではない。つまり外見だけが都会的であり、内面つまり働く人達のメンタリティは村そのものなのだ。
 この点がこの国を極めて不可思議に矛盾した精神構造にしているし、又一方では奇妙な魅力ともなっている。
 確かにある会合でかなり場慣れした人はそうでない人に気を遣うべきではあろう。しかしもう既に何度も同じ会合に出席しているのに、一切ものを言わない人の方が、頻繁に意見する人よりも重宝がられるという側面はこの国では否定出来ない。それは会合自体の主催者の独裁的決裁をしやすくする為の巧妙な言い訳でしかない。大体に於いて何度も重ねて出席しているのに一切意見を言わない者は只の無能者である(意見を発言するという意味に於いてだけであるが)。その点でも機会平等の原理と発言の自由の原理がこの国では両立し難い。主体的であることは、公的である場合のみ許されるという雰囲気がこの国には支配的である。主体的であること自体が極めて個人的な色彩であることは、少なくとも日本ではクリエーションの世界以外では一切認められない(最近では東京都の条例で非実在青年という形で漫画やアニメの題材に於いて論議を醸したので、そうも言えなくなってきた)。
 要するに漫画やアニメ、ゲームソフトなどで過激な性表現が横行する背景には、実はものを容易には言えない空気を皆で美徳として作っているということが根底にはある。それが固有の日本人の羞恥である。本論文タイトルである「羞恥と良心」に於いて本章で初めて日本人に固有の羞恥に就いて私は触れている。第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる や第十五章 ツイッター上での人間関係論 に於いて私は現代社会固有の問題に就いて触れた。しかしそれは敢えて言えば何も日本に限ったことではないこととしてであった。しかし本章ではその禁を解こうと思う。何故ならこうして書いている自分自身がまぎれもなく日本国民だからである。
 端的に日本人が完全なるnationを生理的に嫌い、村落共同体を巨大化したものを尊ぶという社会性格的嗜好性とは、羞恥を美徳とするという暗黙の集団内秩序認識、そういった美徳に於いて人格形成してきたという集団論理に根差す。或いはそれは教育に於いてもそうである。従って日本ではインテリは概して温厚な性格でなければならず、エリートは一般人に対してジェントルであることが求められる。或いはそういったノブレス・オブリジは全ての先進国でそうかも知れない。しかし日本では極めて固有にそうなのである。
 それは集団内和気藹々体制への志向である。
 この点ではインテリ階級的な場ではそうとは限らない。しかし日本の集団、組織の大半はそういう性格のものではない。やはり決定的に凡庸な統括者の指揮の下で和やかに和気藹々に全てが対立など一切介在することなく進行していくということが大半ではないだろうか?
 要するにその辺がまさにかつての通産指導型的知性の民族なのである。護送船団方式は政治では批判されていても、精神構造には深く入り込んでいる。それは攻めと引きのタイミングとか、こういう時には発言をし、こういう時には黙っているべきであるという美徳から、その方法まである程度定型的に不文律化しているということをも意味する。
 今回述べたことが何故定着しているかということに対する根拠を歴史的、現実の実例をも考慮に入れて次回は考えてみたい。