Tuesday, March 8, 2011

〔羞恥と良心〕第二十三章 予め用意されていること

 我々は生まれた時既に人類の間でミームとして定着していた言語体系に放り込まれる。つまりその既に用意されていた体系に必死に同化しようとする。
 それは幼児期に我々が確定的な仕方を、それぞれ個体毎に異なった経路からではあるかも知れないが、曲がりなりにも習得して、周囲とコミュニケーションを取ることが支障なく出来る迄になることを無意識の内に目指す。従って自閉症や言語障害なども、そういった一つの学習過程上での一つの様相である。
 さてそれはしかし大人になってある職業に就く時にも同じ様に待ち構えていることである。何故ならどんな職業でもその時代の使命とか、既に粗方決定されている、その職業が職業として成立する為の社会全体の中での役割が与えられ、それに準じた一つの業種毎のその時代なりの潮流があるからである。それはある方向を常に向いている。何かそういった旗が振られていたり、先端で指示したりしている様なことがない限り、一切の業務は成立し得ない。
 これは既に人類が誕生して以来、ある程度運命づけられている事態である。何故なら身体的な生物学的DNAが粗方決定されている様に、その脳内で考える内容も粗方決定されているとも言えるからだ。何か途轍もなく素晴らしいことを思いつく時我々は、それを自分の考えであると知るが、それはあくまで何時の時代にか、誰かが既に考えていたことでもある。それを知る過程そのものが、小学校から大学に行くまでの間の教育課程であり、就業してから今日迄の間に身につけてきた仕事の技術であり、理念であり、方法である。
 しかし予め自分が就業する時には形成されてしまっていて、その事実自体をどうすることも出来なさがあることは、一面ではその就業過程に於いて職場や職業に関わることで遭遇する社会環境自体の前提的な様相の前で就業者に固有の緊張を強いる。その強い方はそれぞれ職場や職種によっても違おう。しかしそこで何とか周囲の同僚との競争とか、協調、協力に於いて、それほど周囲の負担にはならない様に心がけるその構えには、内的な羞恥、つまりへまなことをして周囲から嘲笑を買わない様にしたい、という思いが巡っている。
 仕事上での使命に準じることで、我々は適度の競争と緊張によっていい成果を上げられる一方、その使命感に呪縛され緊張を持続する上で、相互に成員同士は周囲から「足手まとい」になりたくはないという気持を誰しも抱くが故に、予め相互に過度の負担を掛け合わない様にしようという智恵が働く。そういったことから組合も形成されてきたのだし、同僚間での親睦といった感情も生まれてきたのである。
 要は羞恥を相互に齎し合わぬ様にしたいという願望が、談合的な集団内様相を構成していくと考えられる。そしてそれもまた予め用意されたものの一つである。
 芸術家、学者、研究者、技術者などが同業者間で頻繁にパーティや懇親会をするのは、そういった相互に余りにも時代的潮流から外れていかない様に心がけたいという心理と、相互に異なった資質とか能力があること自体を確認し合い、相互に尊重し合う為に設けられた習慣である。それは一方では羞恥を相互に発動させ合わない様に工夫していると同時に、相互に些細なミステイクは大目に見てあげようという良心である。
 しかしそれが習慣的に定着して徹底化していってしまうと、例の大阪地検特捜部の書類改竄証拠隠滅事件とか、角界での八百長の様な事態を招聘するとも言えるのである。
 それは集団内部での協調的良心が過度に不文律化していってしまい、外部からの要請であるところの職業的使命よりも優先されていってしまう、就業者内での惰性的相互の心地よさへの追求の結果なのである。それはどの様な革新的な目的を帯びた集団であれ、組織であれ、法人であれ、必ず発生していく「予め用意されていること」自体が、円滑に業務を推進していく上で便利であるし、就業者にとって快適であるからなのだ。
 しかし就業者自身が快適に仕事が出来なければ、いい仕事は確かに出来ないが、その快適さの追求自体が職業的使命とか社会全体からの要請よりも優先していってしまうこと自体はモラルハザード以外のことではない。
 従ってある時には相互に羞恥を示し合う、つまりそういった心理に相互にならない様に図ることだけではなく、否もっと積極的にそういったこと、つまり暗黙の内に相互に批判し合わないという淀んだ空気を払拭して、要するに自由に批判し合うということ、変に上下関係とか対人的な恩によって齎される感情的配慮を無効化するくらいの徹底した集団内職業目的を純粋に追求する視点を常になくさない様にしていくべきなのである。そしてその様な円滑に集団内の対人関係的感情が維持されていくことだけに集団や組織が機能することを未然に防止する措置とか、チェック出来る体勢自体も、「予め用意されていること」に含めておくべきなのである。仕事上でのなあなあ関係ではない、要するに適度に相互にミステイクを大きくしない様に補正し合う機能を、対人関係的にも、仕事のプロセスに於いても、集団で相互に惰性的快適追求へと陥らすことのない様に計らうということが、実は最大の羞恥(それは集団全体の羞恥である)を未然に阻止する手立てなのである。
 そしてそれが意外と難しいのである。何故ならそういう風に巧く失敗なく業務が捗ることを目的として、「予め用意されていること」にする為の措置自体が惰性的機能に転化していってしまうことが多いからである。
 従って集団内では我々はこの措置自体を時々点検していく必要がある。つまり時々慣例的なこと全体を見直すということが求められているのである。そして「予め用意されていること」自体が完全固定化されていくこと自体を阻止する様にすること、少なくとも五年か六年に一回くらいは、全面的改正ということを行うということが求められていることなのである。