Tuesday, May 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十四章 羞恥の正体Part2

 前回私は羞恥を言語習得に纏わる秘私的(私秘的)なことが想起される様な幼児体験的、言語的自我とでも呼べる自我発生論的なことから考えた。
 今回はそれを、では大人になってから喚起される羞恥とは一体どういう性格のものかということを考えてみよう。尤もそれは簡単に言えば幼児期的な記憶を誰しも持っていて、その頃から変わらぬ自分の中の恥部、例えば未だに克服されていない負い目なのであり、それはしばしば長生きをしている母親の前に出ると、いい中年男性でさえたじたじになってしまう様な意味での羞恥を他者に悟られたくはないという感情が喚起している。
 しかし羞恥を喚起される場面から中心に考えると、羞恥とは大人同士で親しくなればなるほど、その他者から自分自身のことを知られることに纏わる鬱陶しさ、心の負担からその他者から、或いはその他者との間の柵から解放されて自由になりたい、という心理によって支えられている。或いはその心理そのものであると言ってもいい。
 人間は他者から単純であるとなるべく悟られたくはない、思われたくはない。それは一面では極めて社会制度的なピア・レヴュー的な虚栄心にも起因している。要するに自らの価値を減じて見られることに近いと思えてしまうことから発している。
 だからこそ人間は他者との間に適度の距離を保ち、他者から適度に神秘的に見られることで人間内部の予想外の単純さをなるべく見抜かれたくはない。何故か?単純である。それは人間の心の内部などどの様な理性的人間であれ単純至極だからである。
 人間は単純であればこそ、その単純さを神秘化し、他者から神秘的(と言うことは実際より複雑に)見られることを望むのである。そしてその単純さを見透かされたくはない欲望こそ私達が羞恥と呼ぶものの正体なのである。
 勿論親しくなっていく相手との間では単純であると思われてもよい。それは虚栄心を持つ必要がない相手に対してなら、抱ける感情だ。しかしそれはその相手と対人関係が良好な内の話しである。いざ一度こじれてしまうと途端に、相手から軽く見られることに耐えられなくなってしまう。虚栄心が発生してしまうからだ。特に自分が孤立している状態の時には軽く見られることが耐えられない。逆にかなり人望を多くの他者から得てくると、相手に対する寛容さも持ちやすく、多少相手から侮られる態度を取られても相手を許すことが出来る。親しさ自体にも色々な種類があり、特に男性は男性社会的意味での年齢、階層、職業、収入その他による格差的な意味合いからそう単純に相手とどうすれば巧くいくということを決定することは出来ない。最初趣味で付き合った友人関係もどちらかが正業としていくに至って、正業としていくことを放棄した相手とは巧くいかなくなるということも大いにあり得る。つまり共通関心領域、共有される話題のずれが甚だしくなればなるほど単純であることを相互に認めることが厭になる。相手は今迄のままでもこちらではそうであって欲しくない。自分の方がずっと進化してきているのに、とそう思えてしまう。
 
 他者とは、とりわけ自己の実像をよく知る親しい他者による自己に関する認知量と認知内容の増大がある種の疎ましさ、鬱陶しさを喚起するとしたら、それは自己現実逃避願望に他ならない。つまり言語前的な内的な羞恥が他者から容易に知られることで齎される自己内の単純心理を読まれることへの恐怖であるなら、自己を最もよく知る他者は自己の現実、即ちやがて到来する死という現実自体への凝視からの逃避を誘発する恐怖対象に他ならない。
何故なら親しくしている間は楽しく心地よいので、深刻に死を眼差することはないから、逆に差し迫った時間の経済に於いて、哲学的生への問いは親しさの中で雲散霧消していってしまう。それは残された時間のことを考えると時間の浪費に繋がる。従って親しさとは節度ある距離から相手への配慮を剥ぎ取る残酷な一面もある、ということになる。
 我々にとって全ての社会的地位やあらゆる外部の装いは観念的形式的纏いでしかなく、それは言語前的な内発的な衝動(それは至って単純至極だ)の保有に対する隠蔽以外ではない。社会的地位や年齢差、階層差こそがそういった隠蔽、つまり羞恥喚起を予め用意周到に回避させるシステムとなっているのである。
 この現実凝視からの逃避願望こそが、我々に夢を見させ、あらゆる対外的な自己弁護、弁解の取り繕いたる形式踏襲的言語行為を誘引している。つまり言語前的内発的衝動こそが言語を対外的な内部衝動のカモフラージュの為のツールとして利用せしめるのだ。
 羞恥、つまり内部衝動を見透かされる恐怖こそが、私達に直にそれを触れられることを回避させつつ、相互にその了解の下での観念、つまり言語で纏おうとするのだ。
 羞恥とは他者から自己が神秘化されないことによって(距離が近づき過ぎることによって)得る、ある他者からの蔑みへの恐怖に他ならない。
 他者への神秘化、端的に一定の距離が近づいても他者を神秘化させるものとは人生経験以外ではない。それはある部分完全に不可知論であるし、それを実践させる人間修養は人生での挫折が他者愛を作ることからなされる。
 倫理とは(或いは慈愛の魁とは)近づき過ぎた距離にも拘らず失わない他者への神秘化、つまり分析哲学で言う現象的であること(哲学的私)の容認の切実化に他ならない。
 
 失望、とりわけ他者に対する失望は距離が近づき過ぎることで神秘性を失うことから生じる。
 もし羞恥が親しい他者からの衝動察知への恐怖が生むとしたら、それは血縁者に対する憎悪と非血縁者への支配欲求としての性格も併せ持っている。
 そして非血縁者への支配は実際の権力者から好意を持たれたり、関心を持たれたりすることなら或いは可能だと誰しも考えることにも繋がっている。長い者には巻かれろ的な心理がもしあるとすれば、それはそういう権力支配・被支配関係に自らを置くことによってその見返りとして自分なりの権力を保持することにある。そしてそういった人間関係に於いて我々は何処かでやはり自分の支配下にある者からも、自分を支配する者からも失望されたくはないという虚栄が羞恥によって喚起されているのである。