Friday, October 7, 2011

〔羞恥と良心〕第二十五章 思想と行動とは全く別のことである 日本人はそれを区別しない思考の仕方をする事が多い

 思想に於いてある他者へ憎しみを抱くという事があったり、言い換えれば殺してやりたいという気持ちを抱くことは別段悪いことではない、と私は考えている.しかし日本人はそういう気持ちを抱くことで実際にそういう行動を引き起こすのだから、普段からそう考えることはよくない、とそう考える人が多いと私は思う。
 しかしこれは可笑しい。普段から心底ある他者を憎むということが直接、例えばその者を殺すという行動を引き起こすとは私は思わない。殺人の様な行為を引き起こすものとは端的にその人の思想ではなく、突発的衝動である。これは自殺にも言える。自分を殺すことも普段からの思想によってではない。
 従って日頃から憎しみを抱く相手に直接手を下す事よりも、全くそういうこととは関係なく犯罪とは誘引されると私は考えている。

 内心まで倫理的で道徳的であれ、と考える精神論は日本人にとっては極めて集団や組織、国家への忠誠心を持つことが美徳であるとする考えからは合理的であると考えている人はかなり日本では多い。それは地方部へ行くほどそうである。
 しかし基本的に思想とは自由であり、行動のみ我々は社会や国家、組織や集団に於いて規制される、それが現実でそれ以上でも以下でもない、と考える。
 例えば人を恨むこととか憎しみの感情を抱くことそれ自体は恥ずかしいことなのだろうか?それは極自然な感情なのではないだろうか?一々然程親しくもない他者にそういったことを告げるということがないというだけのことである。そういう感情自体は自然であり、仕方ないことである。従ってそういった感情を全て心の内部から封殺しようとすると、却ってフラストレーションを心の奥底に沈殿させ鬱積させることとなろう。そちらの方が余程よくない。
 思想とは欲求であると言うなら、誰かを殺したい欲求を思想としているということは正しい。しかしそれは実現させるべきだということではない。実現させたらよくないと考えることも思想だとすれば、却って思想とは一枚岩的に全てが同じ方向に整列されてあるわけではない。そういった相互に規制し合い、或いはあるネガティヴな行動をしたいという感情を抑えるかと思えば、それを押さえつけ過ぎて我慢に我慢が溜まることがよくないと相手へのネガティヴな感情を表出させる方が得策だとも判断する。それはその様に一つに収斂され得ない形で様々な方向へと伸びる思念を同居させていて、その都度の外部から齎される(それは憎しみを持つその他者からだけでなく、自己を取り巻く全ての他者や社会環境からである)何らかのパワーに対する反応を自己行動として採用する為に内心で必要な非単純化された態度保留なのである。

 そうである。全ての感情は対外的には一定の態度保留以外ではいない様に静観しつつ取り澄ましている。それ以上のアクティヴな反応を示す必要性があるか否かはその都度判断している。その静観自体をも善悪の基準から言って惰性的な悪であると捉えなければいけないことはあるが、それは外部から自己に齎されるパワーの水準が静観を維持していくこと自体を解除すべきであると倫理的にも条件反射的にも判断した時のことである。勿論対外的な攻撃的態度や行動には自ずと限界があるし、程度問題であることは知っての上である。
 つまり思想とはそれ自体根源的な憎しみとか殺意にさえ近い願望自体が、それを実際に行動に移さずに維持されているという形でこそ理性の所在を示している。寧ろそういった憎しみ自体を平素から抱かぬ様にのみ心理的に訓練されていなければ危険だという思想は、却って理性の所在を信用していない考えである。
 ネガティヴな方向に深く刻み付けられた感情は、それを保持しつつ、その願望に抑制を利かさずにいたらまずいという理性的考え、或いは功利的考えを抱かしめる自己保身的感情と共存することでバランスが保たれている。それはそういうものとして冷厳と認知しておくべきことで、そういった憎しみを持たない様にすべきだ、という考え自体が、内心を訓育して上位者に対して謀反的態度を持たない様にすべきだという皮相な社会教条的習慣でしかない。
 だからこそ社会行動と思想とを必ず切り離して考えるべきなのである。思想は在り方は自由だが、行動に直結させる部分では自ずとどの成員に於いても制限せざるを得ないし、そうであるべきだ、と誰しも実は気づいているのである。
 この問いはしかしもっと何か具体的な形でもう一度取り上げて検証していく必要があるとだけは今言える。後日別章で取り扱おう。その時は今回述べたことを羞恥と良心からもう一度考えていく必要だけはある様に思われる。