Sunday, April 1, 2012

〔羞恥と良心〕第二十六章 現代日本人の精神分析Part1 失言を<待ってました>とばかり揶揄し生贄を見物する現代日本人の逆差別構造

 ここ数年加速度的に日本人の中にある種の忍耐を失した態度が際立って表面化してきたと言える事の一つは明らかに失言をする政治家や官僚に対して即座に辞任せよと大騒ぎするという事だ。これは明らかに異常事態と言ってよい。そこにはあたかも生贄になる存在、つまりここでは失言者であるが、それをじっと待機していて、生贄が血祭りにあげられる事を楽しんで見物しているという野次馬心理が仄見えるのである。それは極めて精神的にも心理的にも悪質極まりない。
 それを助長しているものが戦後民主主義モラル的、もっと率直に言えば憲法九条死守的平和国家観、そして男女同権的教育機会均等的無個性主義であり、つまり一見個性を70年代の時代などでは標榜していながら、機会均等的なイデオロギーの下で却って無個性的な個性神話が跋扈してきてしまっている。それを後押ししてきた機関こそ日教組であり、NHKであり、大学教育機関では東大なのである。
 日本人は民族的にはある部分では極めて情感的であるものの、他方極めて合理主義的でもある。例えば多くの市民にとって政府とか政治家といった存在、人達とは普通の人達とは違い、完全にエリートであり、それはお上以外ではない、という観念で敬遠しているが、同時にだからこそそれは権力者達なのだから、一般民間人は批判する権利と自由があるのだ、という事から反権力的立場の人達全員は権力者達を引き摺り下ろすのは悪い事ではないという、そこに一切の反省的視点とか自己批判を介在させない非懐疑的信念である。
 だから昨今の政界での失言によって不信任決議案とか、即退陣を要求するという行動から我々は確かに一方では政治家自身が不用意な発言をしてしまうという倫理的欠如、モラルハザード的な失態が顕在化してきたとも言い得るも、他方それだけではなく、只単にそれら政治家達を見守る周囲の人達、直に政治家達と接する事が可能な人達全員が、本来ならオフレコの場面でさえ、そこで失言をした政治家や官僚の発言をリークすることは、社会道義上では悪いことではない、という悪びれもせぬある種の反権力的な非懐疑的無反省的な権利を絶対的に行使するという事、つまり政治という権力発動に纏わる責任の重大さの前で、それを指導する立場の人達は絶対に主観的意見とか感想を漏らしてはならないという過酷な要求を何とも思わない、権力者に対する許容範囲を極度に狭めていく忍耐力の欠如である。
 確かにここ数日日本では消費税率アップに関する決議で原則論主義者である小澤一郎氏や亀井静香氏などの反与党的スタンス、一方は連立離脱、他方はマニフェスト遵守によって失言問題は掻き消されている様に見えるが、実は同じことなのである。小澤氏や亀井氏による原則論自体が一つの時代と共に最初に立てた公約からずれていくことだって政治にはある(まさにつきものであり、それを理解出来ない者は実際の政治というものを理解していないという事に他ならない)ということへの無理解に於いて、一度公言したことは撤回出来ないという失言者への批判と同じレヴェルの無思考的な態度の取り方なのである。
 当然田中直樹防衛大臣に対する批判も自民党からは提出されているが、そもそも批判している自民党だって、田中氏が仮に防衛大臣を辞任しても尚政権中枢で役職を替えて鎮座し続けることを知っていて、時期的に失言を繰り返す大臣を罷免することに躍起になるポーズを取る事によって清廉さをアピールしようと画策する姑息な谷垣総裁の意図は国民には見え見えなのである。一川前防衛大臣さえ、今参議院幹事長職に留まっているのだ。そしてそうやって内閣の外野席に居てほとぼりが冷めたらまたぞろ閣僚として復帰することを待ち侘びているその事自体には自民党も一切目を瞑っている。
 要するに全てが猿芝居であると既に国民は気がついてる。否マスコミもジャーナリズムも全てそういったお膳立てされたゲームプレイをする事で生活を成り立たせている事を国民さえ白けて理解している。
 日本人は民族的にあらゆるお上のすることに対するノンシャランスを一方では保持し続けてきた民族である。それは江戸時代に顕著に体現されてきた。しかし明治以降徐々に近代化の波に晒され、欧州人と対等の社会秩序を持つに至って、お上とは不可侵のものではなくなってきた。勿論政治システム的には貴族院なども在ったし、女性には参政権さえなかった。しかしそれも戦後は因習的なこととして前近代的な遺物として参政権を得る事によって様々な身分差は改善されていき(そこには当然アメリカ進駐軍による占領政策というものが介在していたし、それを受け入れた日本政府の思惑もあったのだが)、次第に権力者である政治家や官僚達とは別個の独立した権力保持者としてマスコミ、マスメディア、ジャーナリズムが台頭してきたのである。
 しかしそれはかなり以前から日本には根付いたことであった。戦中も戦前も新聞からラジオ、そしてテレビと変遷してきた報道メディアではあるが、江戸時代的庶民性というものを隠れ蓑にしてきた、という意味では天皇制を形式的国家観の礎にしてきた明治期以降もずっと同じだったのである。
 勿論戦時中はそれらが軍部に積極的に協力さえしてきたが、戦後は政府それ自体へと徐々に批判、攻撃対象を移行させていった。その際に左翼的な思想が大きく日本文化人に浸透していったことは言うまでもない。勿論現今ではそういった思想は影を潜めているが、機関的なスタンスの中に脈打っている。それがNHKであり東大なのである。
 NHKの解説委員とは大半が左翼的倫理を礎に全報道スタンスを認識している。震災後で韓国やロシアから正確な原発事故情報を伝えなかった事を政府批判されている、と抜け抜けと報道するいう一事を取ってもそうである。本来その様な情報は被災地急務である復旧活動に従事する支援国、救助要請国にのみ伝えるべきことである、というのは国防的観点からも常識であるにも関わらず、国家による国民への情報統制的行為(戦時中に顕著であったマスコミぐるみの隠蔽体質)への批判という前提で全ての論説主旨が成り立っている、というところに問題がある。日本人は亡国へと誘引する発言をしてもいけないが、愛国的な対外的態度(その基本は全て正直に隣国と言えど、伝えるべきではないという事だ)を政府が画策しても尚批判を浴びるという奇妙な状況を戦後ずっと持続してきたのである。
 NHKの幹部、解説委員、日教組、東大等の職員達、彼らは一貫して反権力を指針として存在し続けてきた。それは端的に弱者とは強者に対してなら何を言っても許される、どんな手痛い痛烈なる批判もこき下ろしも、引き摺り下ろしも許されるという観念に頑丈に裏打ちされているのである。
 だから本来なら多少の公にしてはまずいが内々ではある程度許されると当事者達なら判断して然るべき発言でさえ許さないという不文律が出来上がってきてしまったのだ。しかし本音を一切言ってはいけない場から果たして伸び伸びとした気持ちで仕事など出来るだろうか?政府というものは端的に権力行使がいい意味で許されるべき場である(その事と菅前総理による采配への批判は又別である)。
 失言への見せしめ的非難の問題にもう一度戻ると、勿論幾つかの失言に対しては、それは公にされてしまった以上見過ごせないということは言い得る。しかし本当にそこ迄失言者は不用意な事を言ったのだろうか?大半は録画さえされていないことに対しても差し向けられている。或いは失言であるとされた部分だけピックアップされれば、確かに問題にせざるを得ない発言であっても、全体から見て、それが本当に問題として取り上げるべきであるかどうかは見解が分かれるところではないだろうか?或いはその部分に対してさえ然程問題化するに足るだけにしっかりとした根拠が一体存在するのだろうか、と思われる案件も多かった。
 そこで次回はここ十数年の間に起きた失言とそれに対する批判と退陣劇に就いて考えてみたい。