Friday, July 11, 2014

〔羞恥と良心〕第三十一章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart3 感性論と理性論

 羞恥とはかなりの部分体制的、革新性や創造性とは無縁の保守的な慣習踏襲性に彩られている。それは創造的見地から言えば無思考的である。 つまり創造性とは羞恥を払拭する必要がある、という事だ。創造的言語であるとは、言い回しとか慣用句の常套的利用とは対極の、慣例性への批判であり、無思考的に保守的思考を軸とした常套的説諭、常套的纏め方、在り来たりの論理思考の運び自体を否定する。
 ところで概して芸術とは全て形式へと昇華させる事がクリエイターの目的である。だからこそ二十世紀にはインスタレーション等も勘案され、それも又一つの表現形式となった。ニューメディアアート以降のアートムーヴメントは従来迄のメソッドや新しいメソッドの総合であり、アート自体の持つ形式性の知的綜合を通したアートメッセージの読み直しである。
 哲学も又論証性や推論といった事に纏わる論理思考性それ自体の論文的統合である。哲学は我々にとっての生や世界や空間や時間を形式的に、戸田山和久の謂いを借りれば概念工学的な見地から形式的な再構築(世界等がどうあるかを言語的に解説する事)を追求する事である。 この芸術、つまりアートと哲学の形式性に対して常に言葉自体は言語という論理形式を我々は借りているにも関わらず、その形式自体ではなく、その形式を通して伝えたい内容の方へ意識が行く事を概ね我々は自動的に(無意識的にと言ってもいいが)行っている。
 文学はその自動性と形式依拠的事実自体への認識との両方が重なって統合されていたり、比較的に配置され対照性を示したりする事それ自体の事である。
 日本語に拠る娯楽表現での言い回し、慣用句、言葉の運びそれ自体の韻律や調子の全ては歌舞伎、文楽、落語、講談等のジャンルに誰に対しても伝わる様式が確定的である。つまり其処には羞恥の払拭ではなく、羞恥を保守し、誰しもが身構えて創造しなくてもいい様な聞き心地の良さが込められている。それが一般的娯楽の定型である。都都逸もそうだし、追分もそうであれば、歌舞伎より古い歴史のある神楽の所作、リズム、全てがそういった日本民族にとっての鑑賞している時の心地良さ、それは祭りの囃子等と全く重なっている民族的文化コードに随順している。
 短歌・俳句・川柳にはそういった様式的伝統的踏襲という意識が前提されている。だからこそ再解釈とか再創造の際には本家どり的な事が一つのチャレンジとなって為されるのだ。
 だが理性論はそういった民族生理的な感性論とは常に真っ向から対立する。だからこそ言い回しとして言いやすさや聴き心地良さ等よりずっと重要な意味連関的な伝達事項の意味真理の構造的正当性が求められ、それは正統的とか異端的とかの二分法とは無縁である。
 要するにそれは表現娯楽的ではなく、従って民族情感的だなどという事でなく、正義論的、社会倫理的な義務的な事と相通じる。表現娯楽が権利享受的だとすれば、メッセージの正当性の意味真理論では権利の感性論とは真っ向から対立する義務の理性論となる。要するにそういう意味ではカント的である。定言命法的なのである。
 その意味ではメッセージ論的には近代以降の民主主義社会的な理性主義こそが五七調等全ての表現娯楽的な言い回しや聴き心地良さを否定する最大の存在である。
 日本人の判官贔屓に似たものは韓国人にもある。癸酉靖難(ケユジョンナン)以降の歴史的推移の中で奪門の変で若干16歳で悲劇的死を遂げる端宗(タンジョン)を後の第十九代国王粛宗(スクチョン)の時代にやっと名誉回復が為された。
 Wikipedia記述に拠ると、<秋益漢は前漢城府尹(現在で言うところのソウル市長)だった。時々端宗に山ぶどうを捧げて一緒に詩を作った。端宗が死んだ日、秋益漢の夢に白馬に乗った端宗が「太白山(韓国の山)に行く」と言って消えた。そのことから、韓国の民間信仰では端宗は太白山の神になったと信じられている。>とある。これ等は日本人の源義経贔屓、判官贔屓(頼朝より好きだという意味で)との共通性がある。<勧進帳>、<義経千本桜>等の世界観と韓国パンソリ等との共通性は確かに命題化してもいい比較文化論だ。
 だがそういった熱い民族意識的気分(それはしばしば民族対立、国家間の軋轢さえ生む)と、グローバリティのある正義論や理性論、とりわけコミュニケーション的な倫理論とは対立するものである。
 日本人にとって凄く聴き心地の良い響きとか語調、語呂等の全ては韓国語(ハングル)にもあるし、それは説話的なもの、物語的な筋の運びや比喩allegory等にも心地良く響き、理解しやすいものがある。そういった種的(田辺元『種の論理』的意味合いでの)感性論と対立する理性論とは、言ってみればグローバリティに拠って成立する。だがそのグローバリティとは本当にそれ程信用出来るものなのだろうか?
 その点では確かに羞恥を隠蔽する心地良さのある種的感性論と、グローバルな正義論にも支えられている類的理性論とは対立するとは図式的には言い得るも、その二分法自体に正当性があるだろうか?次回はその事から考えてみたい。

Tuesday, July 8, 2014

〔羞恥と良心〕第三十章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart2 慣用性への疑いと再創造

 先々月くらいにある芸術家の個展を鑑賞しに行った時その芸術家からある左翼活動家は一切言葉の語呂とか五七調を否定し、そういう文章は書かないという信条で居るという話を伺った。その話は極めて後々迄印象に残った。
 何故なら常日頃私はその事をずっと考え続けてきていたからである。
 私は詩を書いているが、詩自体は言語的創造である。従って書く側は真摯に何を詩を通し伝えたいかを考え、通り一遍の慣用句を避けねばならない、という事が詩人の使命としてある。しかし同時に一体何を伝えようとしているかに対して読む側が余りにも戸惑ってしまう言葉の選び方も避けねばならない。
 だがこの事は極めて困難な作業である。
 当然であろう。詩自体が言葉の創造と言っても、言語自体は自分自身の創造ではない。新種のプログラミング言語を発明しても、それはあらゆるシステムエンジニアをはじめとする関係者の間では通用するものでなければならない。それは私的言語であってはならないのだ。それと同じ事がかなりハイブローな詩の研究者に対してくらいは、読めるものでなければならないという事として言える。だがハイブローな詩の研究者は詩を客観的に分析する事には長けていても、優れた詩の創造者ではない。だから詩人の間だけで通用すればいいのかと言えば、そうも行かないのだ。結局詩人自身が言葉というある意味では極めて因襲的なツールを通して何かを伝えるので、結局詩人以外の人であっても誰にでも理解出来る様な言葉の選び方を選ぶだろうから、詩人だけに通用する言葉等という事自体が幻想という事になってしまう。
 其処に詩人の良心と、革命的な言葉の選び方をしたいという野心的欲求があるにも関わらず、それへ羞恥も介在させず暴走する事も同時に避けたいという職業的欲求もあるだろう。
 日本語にはこういう時にはこういう風に言いましょう、という様な慣用句が多く存在する。だがそういう事を熟知している事は、それ自体は俗世間的知性の踏襲という意味で無駄ではないが、同時にそれは凄くクリエイティヴではないと言える。寧ろあらゆる歴史的な大きな出来事から日本人が学んできた「君子危うきに近寄らず」的な訓戒や教条を知っていつつも、敢えてそれを使用せず、あくまで自分の言葉で何かを伝えなければならない。その結果、其処に読者が勝手に故事や教訓、諺を読み取っても、それは自由である。しかし少なくとも詩人は理解させるのに必要な伝統踏襲的手続き(短歌も俳句も規則がそれに当たる)が必要であるし、その上で自己に固有の言葉の選び方をしなければいけない。
 ある部分哲学者は国語も文学も無視して彼等だけに固有の哲学概念、哲学的観念だけで世界を再構築しようとする人達である。従って文学をよく出版する出版社に哲学的文章を投稿しても没になる可能性は高い。最後迄読んでもくれないかも知れない。結局哲学者は哲学書専門の出版社に掛け合うしかないという事となる。 だが哲学者が世界に対して国語よりも文学よりも論理それ自体を重んじる様な一つの在り方は在っていいし、そういう風に詩人も従来の文学や、国語的因襲を批判したり、否定したりする様な言葉の選び方が在っていい。
 だが、にも関わらずその言葉の選び方は百%その詩人の創造ではないのだ(この点は哲学者もきっと同意するだろう)。創造者の良心とは、それが一般の創造のプロの間だけに通用する様なものではない何かを提示する事である。同時に彼等の羞恥とは、とんでもなく誰もしていなかった事を詩を通してしたい、という強烈な野心を創造契機として認めつつも、その野心の末にとんでもない独りよがりに陥る事だけは避けたいという気分を羞恥が作っている。
 どんなに独創的でもそのものが何処かでは制度への批判になっている、と言う事は制度の側からも理解されるものでなければいけないという事を彼等は知って居る筈だからである。だからこそ詩人とは、いい作品を提示したい、それは決して因襲的な陳腐なものであってはいけないという創造者の良心を持っているものの、それでいて独りよがりではいけないという職業的羞恥も持っている筈なのだ。
 すると七五を巧妙に避けようと思っていても、それが何処かでは七五調をも育んできた日本語の構造には添っていて、尚且つ七五調にはなかった別の調べを要するという事は言える。或いはそれどころかそういった調べを一切拒絶し、純粋な意味だけの提示を最小限度の語彙だけ使用して伝えようという目論見も成立する。しかし後者の場合でも恐らく彼は何等かの調べを消す固有の彼自身が発見した調べを獲得していく筈なのである。それは動きを止めた動きとも言えるし、流れの堰き止められた流れとも言い得るであろう。 在る意味で全ての創造は創造を拒否する部分もある。つまり伝統踏襲とは、伝統が発生してきた過程(歴史)を何処かで無視して敢えて現代で古典が生まれた時代のメソッドを流用する事なので、非踏襲的であるとも言えるのだ。逆に現代には現代なりの歌舞伎を追求するとか文楽とか神楽をするという事は、伝統が発生してきた推移の中で培われてきた精神には準じるという事でもあるのだ。
 その点では独創性と伝統踏襲性とはパラドックスの関係にあると言えるし、矛盾した相補性を持つ、と言える。
 つまりあるメディアを利用する時、其処に時代への読み(今生きている我々の時代)と、洋画なら欧米絵画の歴史、ロックなら二十世紀の歴史を知るという意味で歴史の中に位置する現代という時代の読み(あるメディアや方法論やジャンルの発生した歴史と同時に今それをする意味への読み)があると言えよう。(つづき)

Sunday, July 6, 2014

〔羞恥と良心〕第二十九章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart1

 二十世紀は十九世紀の産業革命以降のメディアの発達が異様に為された時代だと後世から振り返られるだろうが、恐らく全ての文章の世界のプロ達自身が最もプロではない普通のSNSのユーザーやウェブサイト全体の世界的動向からもの凄く影響を受け、文体から言葉の使用の仕方、語彙の選択の仕方に至る迄啓発されていく事は益々多くなるどころか、最早かつての文章家という様なプロの在り方とは全く異なる言葉と文章の構成の仕方が定着していくのが今、二十一世紀ではないだろうか?
 そもそも駅の構内や街角に多く観られる看板や場所の目的や意図を表示する掲示板等の全て(新幹線車内の電光掲示板も含めて)は指示的なメッセージである。だからそれはここから先は危険だから足を進めてはいけない、という様なものだったりするし、タバコを買った購買者はタバコの箱に吸い過ぎには注意しましょうという表示を、余り吸い過ぎると健康を害しますというメッセージとして受け取っている(尤も最後の例は少し購買者へのメッセージとしては矛盾しているが)。
 メッセージはある意味では「~しましょう」という訓示であっても、そういう事の良心的薦めであっても、自主的にそうする事を促す意図があるので、時にはそういうメッセージに異様に違和感を覚える哲学者でエッセイストである中島義道等から痛烈な批判が加えられる事もある。
 だから論文や小説やエッセイ等の文藝ではそういう「~しましょう」というメッセージは一切形式的には書き込まれる事はない。それらは薦めではないのだ。では何かというと、ある時代のある時期に、ある内容を持った論文や文藝作品を通した、ある出版社を通してこれこれこういう主旨のものが書かれてあります、というあらゆるその出版物に関する宣伝媒体を通したメッセージであり、「~しましょう」と言う事はないが、ある時代にある出版社がある内容の本を世に問うという形で、既にだからそういう興味を惹かれるものには関心を持ちましょう、という間接的なメッセージである。それは「~しましょう」と書かれていないから、却ってそういう自主的に自分がそれ等を読んだ後に何かを感じて、その後の人生にどう役立てるか(只息抜きに読むという事も役立てる事の内の一つである)を考えればいいという促しである。
 哲学者は「~しましょう」とは一切言わない。宗教家ならこうしましょうと迄は言わなくても、私ならこうしますとか、宗教ではそういう場合これこれこういう判断や行動を為す事を良しとしますとかなら言う。
 哲学者はある部分では完全に自己の心に於ける世界への哲学的見方への飽くなき自己検証なので、当然その時々に心の中で生じた決意を反復的に書き留める。それが結果的に哲学論文となり、哲学書となっているのだ。それは必ず迷いがあるなら、その迷い自体も暈さず検証していく姿勢を彼等自身が哲学者使命として自覚しているので、そういう問いの反復をしていく事を自ら義務付けており、その自らへの義務の表明でもあるから、読む者にとってはこの哲学者はこういう事に関しては、こういう問いの仕方を自らに義務づけているのだな、という形で読んで納得する様なテクストとしてのメッセージを其処に見出す。
 そうである。メッセージとは読む者が其処から自分なりに見出すものなのである。それはタバコの吸い過ぎには注意しましょうというのとは違う性質のメッセージなのである。つまりメッセージ指示という体裁で示されていない、しかしそのテクストを読み込み、読み出す事に於いて、そのテクストを読む自分自身にとってそのテクストの存在している意味を発見する事が、そのテクストを読む自分が見出すそのテクスト自体のメッセージとしてそのテクストを位置づける(意味付ける)事でもあるのだ。
 文章には確かに言いやすさと聞き心地の良さという事が接合されているキャッチフレーズ的な言説や広告文等もあれば、逆にそういった言いやすさや聞き心地良さ自体への一切の追求を差し控え純粋に言葉化されてきた語彙の意味自体を意味構造的に伝達させる為の文章(論文の文章はそういうスタンスがメインである)とがある。勿論言語学者達は(或いは一部哲学者達も)、でもそういう風に何でも文章というものを目的性に応じて二分し得るものであろうか、とも問う。それは文章というものの持つ言語的メッセージ自体が、意味だけに於いて純粋である事自体が、一種の言葉の慣用性が与えてきている幻想でしかなく、そもそも言葉の意味に正統や異端、厳粛さと寛ぎとが在るという事自体が、既に正統や異端を示すのに丁度いい語呂や音の響きや連なりを我々が選択しているという語彙使用習慣、言語使用日常性事実自体とが不可分な関係で一体化されている、と考えている節も凄く在るからである。
 「~しましょう」と抜け抜けと良心的お上の如く言い放つ事への羞恥が文化的素養や教養や知性を育んでいる。言わば哲学者や上質のエッセイストとは、そういう訓戒的、訓示的な事を差し控えつつ、実は暗に読者に自分自身の世界観的な見方を何処かで読者がそのテクストを読んだ事を思い出す事を通して癖の様に定着させる事を望んでいるのだ。これは書くという事に内在する決定的なナルシスである。だからある商品が販売される中でその商品に決定的に良いイメージを付帯させる為にコピーライターやCFクリエイター達が動員される様に、どんな硬い内容のテクストでもある時代のある時期にある固有の内容や主旨の論文を発表するという事が執筆者である著者(筆者)とそれを編集して出版へと漕ぎ着けている出版社のスタンス自体を、我々は一冊の本を紙素材の出版物であれウェブサイトの電子書籍であれ、それを手に取った時にメッセージとして受け取る事を習慣化されてきているという意味では、読むという事が筆者や著者の思想を読む事だけでなく、その筆者思想を読み取ろうとする一般読者である我々自身が、文章の送り手だけでなく自分達自身という受け手こそが、最終的に一つのテクストを通した思想を完成させる担い手であると自覚を得る、という事が一つの受け手固有のメッセージであり、それを感想としてブログに書く事もそうだし、それを実際に筆者や著者達が読もうが、読むまいが、その行為選択も又一つのメッセージとなる、という見方が容易に成立し得るメディアとウェブサイトとがシナジー的に連携作用を構築している時代に我々は生きていると言う事が出来る。(つづく)

Tuesday, February 18, 2014

〔羞恥と良心〕第二十八章 批評は感性のスポーツであるNo.1

 今回は今迄書いてきたこと、つまり社会批評とかエッセイとかのこと、つまり書くという行為に就いて書いてみたい。
 私自身自分で書くものに就いて特定の枠とか形式を与えている訳ではない。それを何等かの形で収めたいとするのが社会の管理職的発想と言っていいが、要するに文章があって、それを読んだ人が何かを自分自身の考えとか感性とか認識で読んでみて何か感じたり、考えたりすることが重要なのであり、それが~であるからどうであると思わなければいけないということはないのだ。
 批評とはそれ自体世界への認識とか世界からの感受とか、世界への応答とか色々な意味があっていいのだし、それはものを書くという行為が原稿用紙であれワードを通してであれ、SNSでのツイートとかであれ近状であれ、全て何等かの形で書く自分を世界と世界の内部で生活する自己身体をインターフェイスとしているのだ。
 その点ではエッセイと評論や批評との境界なんて実際はない。あるとするのは自分自身をエッセイストとか評論家とか批評家と標榜することか、それを受けてか、自分自身ではどういう風にも自称していない人へ他人がレッテルを貼ることに拠ってである。何故ならエッセイという散文と評論とか批評というものの何か確定的な定義自体が無く、定義があったとしても凄く曖昧だからである。
 勿論学術論文とかそういう枠というのはある。しかしそれは学界等の各学会で通用するか否かのことでしかない。何かそういうuniversalな規定がある訳ではない。あるとするのはアカデミズム内部でだけの話である。それは一つの閉じた個々のcommunityにとって の事情でしかない。
 哲学と文学の境界も設定されてあるのではない。そんなものはない。昔から哲学者でもあり文学者でもある人は沢山居た。それを後付的にやはり彼はどちらかと言うと哲学者だ、とそう規定しようとする人の事情に拠ってそう語られてきただけである。
 唯それがエッセイであれ評論であれ批評であれ、哲学論文であれ哲学的散文であれ、何か世界への提言、世界から受けたメッセージの返信という形で感性に拠って紡ぎ出された自分自身のスポーツ的なものだと言ってもいい。それは感性のスポーツとしての世界への返信なのである。
 こんなことを書いていいのだろうか、というタブー視をしてしまうものをこそ書くべきだし、そういったタブー侵犯的感性が本音吐露的決意を促すことがあるが、それはタブーを忌避しようとする習慣的な自己の条件反射的な部分が因習的(因襲的)なことに拠って知らず知らずに自分自身が雁字搦めになっていることに時折我々は気づく。しかしそれはそう気づいた瞬間に克服すべき事態ともなる。
 こんなことを書いていいのだろうかという懸念を払拭させる為に何かメッセージとして主張しようとする時には必ず、それを読む者にとって納得の行く形での論理を構築しなければいけないというささやかな使命感も生まれる。それを掬い取るということが必要である。
 タブーへの挑戦的意図とモティヴェーションとその野心実現の為のプランこそが論理的策術を書く者へ探らせる。
 因襲的羞恥はかなり根深いものがある。それは払拭することは自己にとって意識の革命である。そして因襲性の打破にも良心がある。
 私自身はフィクションとノンフィクションとの間の境界さえないと考えている。何故ならば全てのノンフィクションも又一種のフィクションだからである。文章を書くということがそういうことだからだ。当然全てのフィクションも文章を書く行為という意味では全てノンフィクション行為なのである。
 私自身は限りなく人類学的学術性も兼ね備えたエンタメ小説、そしてそれ自体が世界への批評としても機能する様な文章があっていいと考えており、それを日々試行錯誤的に模索している。  
 ところで旧来型のマスコミ言論人の言動をネット社会がチェックし、ネット社会が批評を担うかと思えば、ネット社会の実害の批判と警告を旧来型のマスコミの良心が行うという相互批判的システムが両者を双方向的なコミュニケーションシステムにしていくことが、同時作用的に顕現されることで、二つが異質ではなく、共通したメッセージ回路として機能していく様な未来が仄見える気が私にはするが、それ自体も一体どういうものが旧来型であるか、どういうものがイノヴェーションとして機能するものなのかという観念さえ個々の感性に拠って判断されていっていいとも言える。
 所詮全ての定義、規定とは、言ってみれば他者存在というものへの認知と認識こそが生み出している。自己は他者から見れば他者であり、自己の中の他者性を自己が意識した時に、その自己性とか他者性に対して固有の感性的な把捉を得る。それをあたかもアスリート達の様に言葉を紡ぎ出して示していくことこそが世界への自分自身なりの批評であり、それは仮に詩形式で示されていても、散文形式で示されていても、論文的体裁を採っていても、或いはその中間的な体裁であってもいいと考えている。
 一つは哲学が持つ哲学者自身を自嘲的に取り扱うエッセイスト的態度、シニシズムに就いてであるが、それは世界全体への懐疑心skepticismにあると考えている。つまり体裁が論文調であっても全く非哲学的であるのは無思考的に楽観主義的で非懐疑的であるということである。その点で哲学や哲学者を痛烈に批判するスピリットを縦横無尽に使いこなすエッセイはたとえ社会批評とか世相講談的なものであっても、それも又一つの世界への批評であり、哲学でもある、と言っていいのではないだろうか?
 感性の進化とはそういうチャレンジに拠ってのみ具現化されるのではないだろうか?唯それをしなければいけないのは誰しも思うことなのだろう故、次回は少し具体的にそのことを書いてみたい。

〔羞恥と良心〕第二十七章 現代日本人の精神分析Part2 SNS利用、闇ネット利用を巡り作られつつある本音の闇は大元ではマスコミの巨大第二権力が誘引してもいる、しかしそれでも…

 今回は久しぶりに本ブログに帰って来たので、前回お約束した失言問題そのものへいきなり突入せず、そういったマスコミの見せしめ性と血祭りに挙げる生贄儀式的な野次馬誘導型の現代社会の中で真実とか正義といった諸々の観念が恣意的にマスメディア言語に拠って捏造されるという観点から考えてみようと思う。
 実はマスコミとは戦後日本では常に反権力として機能してきた。しかし実際為政者の懸案する法律立案にせよ、施政方針にせよ全て正しいとは言い切れないが、同時に日本マスコミの多くが報道する様に全て為政者の偏った独断であるとは決して言い切れない。
 現実の日本で特定秘密保護法案を政権与党が急いだのにもそれなりに理由がある。
 例えば中国に拠る恣意的な防空識別圏設置にしても、必要以上の韓国に拠る反日的世論(昨今アメリカに拠る批判もあって、次第に日韓協調路線を模索する動向もあるが<尤もアメリカは安部総理に拠る靖国参拝へ否定的見解を示しており、日本の方に韓国へ歩み寄れ的見解である>)にしても、日本国内の余りにも能天気な国家機密自体への猛烈な野党に拠る(つい最近迄は与党民主党主導に拠る)否定的見解、つまりあらゆる密約を暴露する目論見が増長させてきたという側面も否定し得ない。日本では野党とマスコミが結託して行ってきた戦後民主主義の国民の知る権利への盲信自体への批判的見解をまず述べるに留めるが、問題は次の様なことである。
 マスコミ報道記者クラブ、作家連盟等が懸念して本法案可決阻止を目論んだ(昨今では弁護士等が憲法違反で提訴している)根拠は要するに戦前戦中の陸軍の暴走を想定に入れての話であることと、もう一つは言論統制を懸念してのことである。この点ではあらゆる取材を直接行う彼等と一般国民との間にも大きな温度差がある。
 そしてそのマスコミ全体の論調が国民の生命の安全と国際的な外交その他の多くの問題を却ってこじらせてきた、という部分に彼等は全く無頓着だ、ということだ。勿論法律として施行されれば、行政執行者の代が代われば確かにかマスコミの持つ懸念が実現してしまう可能性はゼロではない。しかし同時に余りにも野放図に全ての情報を政府筋がリークしてしまう侭にしておくことも、それはそれでかなり対中国防戦略的には忌々しきことであるとも言い得る。少なくともそれは米韓自体も望まないだろう。その点ではマスコミだけが異様に反対することにも懸念を持つべきだ、とは言える。その点ではもう少しこの法律が施行されることでどういう展開が待ち構えているか静観している必要はある。
 しかしこのマスコミの巨大権力全てを否定すべきでもない。それはそれでうっちゃっておくくらいには在って欲しいものである。但し自殺サイト他の闇の犯罪サイトが猛攻を降るってLineが性犯罪等を誘引している現在では、リアルタイムでの発信が余りにも自由なので、必然的に同一策謀をする者同士を引き付けやすい。しかしその引き付けを誘引しているのはやはり一つは何でも報道していこうとするマスコミ言説だとも言い得る。その点では確かに個々の訝しい欲望を喚起する面ではマスコミは極めて大きな悪影響を及ぼしてもいる。しかし重要なことにはそれはやはり必要悪necessity evilでもあるのだ。
 つまり邪悪な欲望を実現させる様な犯罪を喚起する当のマスコミが、そうすることで、却って犯罪等が一切起きない(ある意味では北朝鮮では日本の様には邪悪な犯罪が起きることがないくらいに巨大単一権力<朝鮮人民軍と朝鮮労働党>に抑圧されている)という逆説的な性悪説的自然性に逆らった強権政治を未然に防止しているからである。
 その点では中山元防衛大臣の辞任劇の発端となった日教組が戦後の日本を駄目にした発言は正しかった。何故なら日本の国防その他の無秩序は安穏とした戦後民主主義の民主主義万能主義的イデオロギーとその曖昧な倫理正義感が生んだマスコミの政府や国家秩序全てをなし崩しにしても守るべき知る権利といった過剰な清廉主義でもあったからだ。そしてそれを促進したのが日教組であったことは確かな事実である。しかしその正しさを情感に任せて発言したその手続きの無さが墓穴を掘った。そして手続きということに関してのみ日本のマスコミは長けていた。だから逆に言えば強権的に何事かの政治に拠る変革を目指す場合には、このマスコミの持つ手続き的正当性は官僚組織の持つ手続きの煩雑さとして永田町文学と称せられる憂えるべき実態と同様忌避すべきことではある。しかしマスコミは同時に官僚の永田町文学を通した絶大な権力への批判機構としても存在している。その点ではマスコミの邪悪な欲望を持った犯罪者へ刺激材料となることと、この官僚の絶大なる惰性的と言ってもいい保守的縦割り行政的安定秩序維持の保身を打破する意味合いでの存在理由は併存させていていい、そういう風な形でうっちゃっておいていいとも言える。
 しかし現在では既にネット社会全体が記者クラブでもニコ動等を筆頭に徐々に発言権が巨大化してきているので、mass communication自体がネット社会の無かった時代にはあり得ない様な形で少しずつ変質してきている。その点ではネット社会の方が率先して邪悪な犯罪を誘引する起爆剤となってもいるとは言えるし、その悪質さを摘発するのが旧来型のマスコミの記者クラブ等の持っている社会正義的良心だとも言えよう。
 しかし恐らくかなり長期に渡って旧来型の反権力的意識の記者クラブを筆頭とするマスコミエリート達とネット社会的な発信力を主張する現在の五十代以下の起業家達との攻防は、新聞社や出版社とテレビ局対ポータルサイトビジネスワールドという形で継続されていくことだろう。そういった攻防が繰り広げられることに於いて恐らく徐々にこの二つの境界は限りなくファジーとなっていくに違いない。
 内実的には正しかった失言とは久間章生防衛大臣(当時)に拠る「原爆仕方ない」発言であろう。勿論それをああいったぶら下がりに於いて発言することは差し控えるべきであったが、実質的に日本人自身は原爆投下を阻止する手立ては当時なかったという意味では氏の発言は間違いではない。又原爆投下の人類倫理学的なモラル論的な歴史再考それ自体はアメリカ人自身のモラルに委任するしかない(昨今ではオリヴァー・ストーン監督来日と青年達との討論会でも示されていたことも記憶に新しいのであるが)ことであるが、トルーマン大統領に拠る原爆投下計画はマンハッタン計画としてかなり長期に渡って画策されてきていたのだし、それを可笑しいと日本人自身が言ってみたところで一切の歴史の変更は既に効かない。その意味では久間発言が仮に2014年の今、為されていたとしたら、それでも尚退陣は免れないにしてもオフレコ的なウィンクに拠って為された発言であったなら、ネット社会でその事実に対するマスコミ批判、マスコミ自体が政府に大臣退陣へと追い込み政府批判へと展開していただろう。
 と言うことはとどのつまり我々は指導者層とは時節を弁えたという倫理に拠って全ての言動がチェックさせられているということを知る。しかし逆に言えばこのことは時節さえ弁えていれば何をしてもいいということにも繋がるのだ。何故なら集団的自衛権等に関して憲法改正を世論調査で六割以上の国民が望んでいる(その世論調査自体もどのくらい国民全体の考えを反映しているか否かの裁定も又別に問題ではあるのだが)という現状では神の国発言で辞任へと追い込まれた森総理のあの発言さえ時節に拠っては効力さえ発揮し、そのことで国民の喝采こそ得て、決して辞任する必要などないということもあり得るからである。
 確かに時節を弁えることそれ自体が、言動自体がチェックされる指導者層の倫理としてではなく、敢えて損失を自らに招くことだけは避けたいという直観的な時代の読み、世相的な感性を一般市民は処世として研ぎ澄ませておく必要はあるかも知れない。しかし同時に世相に阿るだけで君子危うきに近寄らず的に生きていくことを潔しとしない感性が時には個人の良心という意味では必要な時代とか時期というものもあるかも知れない。しかし今の処即座に処世的な損失回避を解除させるべきであるかはもう少し政治、政局、経済状態全ての国内状況を鑑みる必要だけはあるかも知れない。 付記 特定秘密保護法施行以降のその弊害や実害が発生した場合旧来型マスコミだけでなくネット社会が大きなロールを担うだろうとは容易に想像される。