Tuesday, February 18, 2014

〔羞恥と良心〕第二十八章 批評は感性のスポーツであるNo.1

 今回は今迄書いてきたこと、つまり社会批評とかエッセイとかのこと、つまり書くという行為に就いて書いてみたい。
 私自身自分で書くものに就いて特定の枠とか形式を与えている訳ではない。それを何等かの形で収めたいとするのが社会の管理職的発想と言っていいが、要するに文章があって、それを読んだ人が何かを自分自身の考えとか感性とか認識で読んでみて何か感じたり、考えたりすることが重要なのであり、それが~であるからどうであると思わなければいけないということはないのだ。
 批評とはそれ自体世界への認識とか世界からの感受とか、世界への応答とか色々な意味があっていいのだし、それはものを書くという行為が原稿用紙であれワードを通してであれ、SNSでのツイートとかであれ近状であれ、全て何等かの形で書く自分を世界と世界の内部で生活する自己身体をインターフェイスとしているのだ。
 その点ではエッセイと評論や批評との境界なんて実際はない。あるとするのは自分自身をエッセイストとか評論家とか批評家と標榜することか、それを受けてか、自分自身ではどういう風にも自称していない人へ他人がレッテルを貼ることに拠ってである。何故ならエッセイという散文と評論とか批評というものの何か確定的な定義自体が無く、定義があったとしても凄く曖昧だからである。
 勿論学術論文とかそういう枠というのはある。しかしそれは学界等の各学会で通用するか否かのことでしかない。何かそういうuniversalな規定がある訳ではない。あるとするのはアカデミズム内部でだけの話である。それは一つの閉じた個々のcommunityにとって の事情でしかない。
 哲学と文学の境界も設定されてあるのではない。そんなものはない。昔から哲学者でもあり文学者でもある人は沢山居た。それを後付的にやはり彼はどちらかと言うと哲学者だ、とそう規定しようとする人の事情に拠ってそう語られてきただけである。
 唯それがエッセイであれ評論であれ批評であれ、哲学論文であれ哲学的散文であれ、何か世界への提言、世界から受けたメッセージの返信という形で感性に拠って紡ぎ出された自分自身のスポーツ的なものだと言ってもいい。それは感性のスポーツとしての世界への返信なのである。
 こんなことを書いていいのだろうか、というタブー視をしてしまうものをこそ書くべきだし、そういったタブー侵犯的感性が本音吐露的決意を促すことがあるが、それはタブーを忌避しようとする習慣的な自己の条件反射的な部分が因習的(因襲的)なことに拠って知らず知らずに自分自身が雁字搦めになっていることに時折我々は気づく。しかしそれはそう気づいた瞬間に克服すべき事態ともなる。
 こんなことを書いていいのだろうかという懸念を払拭させる為に何かメッセージとして主張しようとする時には必ず、それを読む者にとって納得の行く形での論理を構築しなければいけないというささやかな使命感も生まれる。それを掬い取るということが必要である。
 タブーへの挑戦的意図とモティヴェーションとその野心実現の為のプランこそが論理的策術を書く者へ探らせる。
 因襲的羞恥はかなり根深いものがある。それは払拭することは自己にとって意識の革命である。そして因襲性の打破にも良心がある。
 私自身はフィクションとノンフィクションとの間の境界さえないと考えている。何故ならば全てのノンフィクションも又一種のフィクションだからである。文章を書くということがそういうことだからだ。当然全てのフィクションも文章を書く行為という意味では全てノンフィクション行為なのである。
 私自身は限りなく人類学的学術性も兼ね備えたエンタメ小説、そしてそれ自体が世界への批評としても機能する様な文章があっていいと考えており、それを日々試行錯誤的に模索している。  
 ところで旧来型のマスコミ言論人の言動をネット社会がチェックし、ネット社会が批評を担うかと思えば、ネット社会の実害の批判と警告を旧来型のマスコミの良心が行うという相互批判的システムが両者を双方向的なコミュニケーションシステムにしていくことが、同時作用的に顕現されることで、二つが異質ではなく、共通したメッセージ回路として機能していく様な未来が仄見える気が私にはするが、それ自体も一体どういうものが旧来型であるか、どういうものがイノヴェーションとして機能するものなのかという観念さえ個々の感性に拠って判断されていっていいとも言える。
 所詮全ての定義、規定とは、言ってみれば他者存在というものへの認知と認識こそが生み出している。自己は他者から見れば他者であり、自己の中の他者性を自己が意識した時に、その自己性とか他者性に対して固有の感性的な把捉を得る。それをあたかもアスリート達の様に言葉を紡ぎ出して示していくことこそが世界への自分自身なりの批評であり、それは仮に詩形式で示されていても、散文形式で示されていても、論文的体裁を採っていても、或いはその中間的な体裁であってもいいと考えている。
 一つは哲学が持つ哲学者自身を自嘲的に取り扱うエッセイスト的態度、シニシズムに就いてであるが、それは世界全体への懐疑心skepticismにあると考えている。つまり体裁が論文調であっても全く非哲学的であるのは無思考的に楽観主義的で非懐疑的であるということである。その点で哲学や哲学者を痛烈に批判するスピリットを縦横無尽に使いこなすエッセイはたとえ社会批評とか世相講談的なものであっても、それも又一つの世界への批評であり、哲学でもある、と言っていいのではないだろうか?
 感性の進化とはそういうチャレンジに拠ってのみ具現化されるのではないだろうか?唯それをしなければいけないのは誰しも思うことなのだろう故、次回は少し具体的にそのことを書いてみたい。

〔羞恥と良心〕第二十七章 現代日本人の精神分析Part2 SNS利用、闇ネット利用を巡り作られつつある本音の闇は大元ではマスコミの巨大第二権力が誘引してもいる、しかしそれでも…

 今回は久しぶりに本ブログに帰って来たので、前回お約束した失言問題そのものへいきなり突入せず、そういったマスコミの見せしめ性と血祭りに挙げる生贄儀式的な野次馬誘導型の現代社会の中で真実とか正義といった諸々の観念が恣意的にマスメディア言語に拠って捏造されるという観点から考えてみようと思う。
 実はマスコミとは戦後日本では常に反権力として機能してきた。しかし実際為政者の懸案する法律立案にせよ、施政方針にせよ全て正しいとは言い切れないが、同時に日本マスコミの多くが報道する様に全て為政者の偏った独断であるとは決して言い切れない。
 現実の日本で特定秘密保護法案を政権与党が急いだのにもそれなりに理由がある。
 例えば中国に拠る恣意的な防空識別圏設置にしても、必要以上の韓国に拠る反日的世論(昨今アメリカに拠る批判もあって、次第に日韓協調路線を模索する動向もあるが<尤もアメリカは安部総理に拠る靖国参拝へ否定的見解を示しており、日本の方に韓国へ歩み寄れ的見解である>)にしても、日本国内の余りにも能天気な国家機密自体への猛烈な野党に拠る(つい最近迄は与党民主党主導に拠る)否定的見解、つまりあらゆる密約を暴露する目論見が増長させてきたという側面も否定し得ない。日本では野党とマスコミが結託して行ってきた戦後民主主義の国民の知る権利への盲信自体への批判的見解をまず述べるに留めるが、問題は次の様なことである。
 マスコミ報道記者クラブ、作家連盟等が懸念して本法案可決阻止を目論んだ(昨今では弁護士等が憲法違反で提訴している)根拠は要するに戦前戦中の陸軍の暴走を想定に入れての話であることと、もう一つは言論統制を懸念してのことである。この点ではあらゆる取材を直接行う彼等と一般国民との間にも大きな温度差がある。
 そしてそのマスコミ全体の論調が国民の生命の安全と国際的な外交その他の多くの問題を却ってこじらせてきた、という部分に彼等は全く無頓着だ、ということだ。勿論法律として施行されれば、行政執行者の代が代われば確かにかマスコミの持つ懸念が実現してしまう可能性はゼロではない。しかし同時に余りにも野放図に全ての情報を政府筋がリークしてしまう侭にしておくことも、それはそれでかなり対中国防戦略的には忌々しきことであるとも言い得る。少なくともそれは米韓自体も望まないだろう。その点ではマスコミだけが異様に反対することにも懸念を持つべきだ、とは言える。その点ではもう少しこの法律が施行されることでどういう展開が待ち構えているか静観している必要はある。
 しかしこのマスコミの巨大権力全てを否定すべきでもない。それはそれでうっちゃっておくくらいには在って欲しいものである。但し自殺サイト他の闇の犯罪サイトが猛攻を降るってLineが性犯罪等を誘引している現在では、リアルタイムでの発信が余りにも自由なので、必然的に同一策謀をする者同士を引き付けやすい。しかしその引き付けを誘引しているのはやはり一つは何でも報道していこうとするマスコミ言説だとも言い得る。その点では確かに個々の訝しい欲望を喚起する面ではマスコミは極めて大きな悪影響を及ぼしてもいる。しかし重要なことにはそれはやはり必要悪necessity evilでもあるのだ。
 つまり邪悪な欲望を実現させる様な犯罪を喚起する当のマスコミが、そうすることで、却って犯罪等が一切起きない(ある意味では北朝鮮では日本の様には邪悪な犯罪が起きることがないくらいに巨大単一権力<朝鮮人民軍と朝鮮労働党>に抑圧されている)という逆説的な性悪説的自然性に逆らった強権政治を未然に防止しているからである。
 その点では中山元防衛大臣の辞任劇の発端となった日教組が戦後の日本を駄目にした発言は正しかった。何故なら日本の国防その他の無秩序は安穏とした戦後民主主義の民主主義万能主義的イデオロギーとその曖昧な倫理正義感が生んだマスコミの政府や国家秩序全てをなし崩しにしても守るべき知る権利といった過剰な清廉主義でもあったからだ。そしてそれを促進したのが日教組であったことは確かな事実である。しかしその正しさを情感に任せて発言したその手続きの無さが墓穴を掘った。そして手続きということに関してのみ日本のマスコミは長けていた。だから逆に言えば強権的に何事かの政治に拠る変革を目指す場合には、このマスコミの持つ手続き的正当性は官僚組織の持つ手続きの煩雑さとして永田町文学と称せられる憂えるべき実態と同様忌避すべきことではある。しかしマスコミは同時に官僚の永田町文学を通した絶大な権力への批判機構としても存在している。その点ではマスコミの邪悪な欲望を持った犯罪者へ刺激材料となることと、この官僚の絶大なる惰性的と言ってもいい保守的縦割り行政的安定秩序維持の保身を打破する意味合いでの存在理由は併存させていていい、そういう風な形でうっちゃっておいていいとも言える。
 しかし現在では既にネット社会全体が記者クラブでもニコ動等を筆頭に徐々に発言権が巨大化してきているので、mass communication自体がネット社会の無かった時代にはあり得ない様な形で少しずつ変質してきている。その点ではネット社会の方が率先して邪悪な犯罪を誘引する起爆剤となってもいるとは言えるし、その悪質さを摘発するのが旧来型のマスコミの記者クラブ等の持っている社会正義的良心だとも言えよう。
 しかし恐らくかなり長期に渡って旧来型の反権力的意識の記者クラブを筆頭とするマスコミエリート達とネット社会的な発信力を主張する現在の五十代以下の起業家達との攻防は、新聞社や出版社とテレビ局対ポータルサイトビジネスワールドという形で継続されていくことだろう。そういった攻防が繰り広げられることに於いて恐らく徐々にこの二つの境界は限りなくファジーとなっていくに違いない。
 内実的には正しかった失言とは久間章生防衛大臣(当時)に拠る「原爆仕方ない」発言であろう。勿論それをああいったぶら下がりに於いて発言することは差し控えるべきであったが、実質的に日本人自身は原爆投下を阻止する手立ては当時なかったという意味では氏の発言は間違いではない。又原爆投下の人類倫理学的なモラル論的な歴史再考それ自体はアメリカ人自身のモラルに委任するしかない(昨今ではオリヴァー・ストーン監督来日と青年達との討論会でも示されていたことも記憶に新しいのであるが)ことであるが、トルーマン大統領に拠る原爆投下計画はマンハッタン計画としてかなり長期に渡って画策されてきていたのだし、それを可笑しいと日本人自身が言ってみたところで一切の歴史の変更は既に効かない。その意味では久間発言が仮に2014年の今、為されていたとしたら、それでも尚退陣は免れないにしてもオフレコ的なウィンクに拠って為された発言であったなら、ネット社会でその事実に対するマスコミ批判、マスコミ自体が政府に大臣退陣へと追い込み政府批判へと展開していただろう。
 と言うことはとどのつまり我々は指導者層とは時節を弁えたという倫理に拠って全ての言動がチェックさせられているということを知る。しかし逆に言えばこのことは時節さえ弁えていれば何をしてもいいということにも繋がるのだ。何故なら集団的自衛権等に関して憲法改正を世論調査で六割以上の国民が望んでいる(その世論調査自体もどのくらい国民全体の考えを反映しているか否かの裁定も又別に問題ではあるのだが)という現状では神の国発言で辞任へと追い込まれた森総理のあの発言さえ時節に拠っては効力さえ発揮し、そのことで国民の喝采こそ得て、決して辞任する必要などないということもあり得るからである。
 確かに時節を弁えることそれ自体が、言動自体がチェックされる指導者層の倫理としてではなく、敢えて損失を自らに招くことだけは避けたいという直観的な時代の読み、世相的な感性を一般市民は処世として研ぎ澄ませておく必要はあるかも知れない。しかし同時に世相に阿るだけで君子危うきに近寄らず的に生きていくことを潔しとしない感性が時には個人の良心という意味では必要な時代とか時期というものもあるかも知れない。しかし今の処即座に処世的な損失回避を解除させるべきであるかはもう少し政治、政局、経済状態全ての国内状況を鑑みる必要だけはあるかも知れない。 付記 特定秘密保護法施行以降のその弊害や実害が発生した場合旧来型マスコミだけでなくネット社会が大きなロールを担うだろうとは容易に想像される。