Thursday, January 29, 2015

〔羞恥と良心〕第三十二章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart4 完成に懐疑的な現代人類

 田辺元は『種の哲学』で種概念の規定を行った。この種の上位概念として類を設定した。類は人類自体であり、種は民族のことである。
 さて前回から引き継ぎ今回は羞恥を隠蔽するシステムとしても機能する民族共同体とか民族社会とか民族国家等とグローバル な人類、つまり世界とは対立し得るだろうか、という問いを行ってみたい。
 率直に言ってそれは徐々にどころかかなり急転直下的に瓦解してきたと言える。民族は感性も育むが個人の感性も育む。だから例えば日本人が日本国家だけを中心に考える時には天皇制等の宗教伝統的なコードは憩いであったり、精神的支柱であったりするも、現代社会の利便性に満ちた生活ではそういった感情に到る事の方が少ない。それは何かの拍子に突発的に起きる感情である。例えば北朝鮮からミサイルが日本海や太平洋へ向けて発射されたりといった事態に於いてである。だが日頃はそういったこと迄意識には上らない。そして寧ろ世界市民性がウェブサイトの拡充に拠ってより強固になってきている。
 ISILに拠る様々な悪辣なる暴挙に拠って世界中が引っ掻き回されているが、後藤氏の生命保全に向けて意識している時は日本人は日本民族の連帯とか結束を意識するも、この組織の壊滅自体を意図した心では明らかに世界市民性を最優先している。だからこそ国際協調で色々な打開策を講じている訳である。
 世界経済はあらゆる意味で国際協調的解決を求め、我々は世界的規模でしか一市民性を確保出来ない事を誰しも(どの民族のどの市民も)自覚している。
 ウェブサイトが世界を変えてきたという要素も否めないが、寧ろウェブサイトを通して世界を変える様に人類がしてきた部分では、明らかにウェブサイト以前にも多くその変わっていく兆候は読み取れる。
 映画ではディレクターズカット等という別ヴァージョンを一般映画では普及してきている。これはプロデューサーの意向と監督の意向が合わない場合、プロデューサーは出資者である為そちらを優先した編集になるが、監督は上映作品の作者なので、その意向を最初の封切以降に汲み取る仕方のビジネスである。
 大体ディレクターズカット版の方が余剰、剰余が表現に漲っている。それは纏めてしまっていることへの潔しとせぬ<ある未完成性>への執着である。
 これは日頃我々が短文を掲示させるSNSで既に経験していることである。ブログ等でも長文を読ませるより、短文を羅列して何処から読んでもいい様に配慮する方がずっと読む(来場する、検索する)側からすれば読み易いのだ。
 結局長文を読むのにPCの画面自体が適していないということと、そもそも長文をじっくり読むのは本に任せ、それ以外は短文メッセージを数多く読むという習慣を現代人は選び取っているのである。
 それは言語が意識下で行われていることとは心の言わば本音であるが、それを巧く(つまり差し障りのない様に)調整してから何か発言するのが我々の日常であるが、その無意識に出る本音的部分を我々は自分に対しても人に対しても知りたいという欲求がある。そして本音的心の部分は確かに未完成で混沌としていて、矛盾している。しかしそれを秩序化して意識的に伝達メッセージ化すると、其処では原初的には存在したある固有の輝くは損なわれることを知っているのだ。だからこそ原初的な、つまり荒削りではあるものの、何か根源的なメッセージになり得そうな何かを求めて我々はSNSに書き込んだメッセージを掘り起こすことをするのだ。
 最近の著作物では哲学者、永井均の『哲学の賑やかな呟き』は彼のミクシーでの仲間達との対話から掘り起こした哲学エッセイ集となっているが、これは明らかにその原初的メッセージの持つ輝きを掘り起こそうとした意図の著作物である。事実この本では永井哲学の骨子となる幾つもの命題がかなり原初的に混沌としてはいるものの多様な意味を内包した哲学的疑問のマグマの様なものが読み取れる。
 この読ませる為に変形を施す意識の作業に対する無意識の疑問や思考的な渇望に潜在するマグマ的力を未完成性と呼ぶとすると、其処には明らかに整理され尽した完成にはない生な叫びと呟き、囁き、要するに他者や自己へ向けた鮮烈なメッセージの輝きがある。
 それを現代人は求めている。だからこそ短歌や俳句も益々見直されているのだ。と言うことは裏を返せば現代人は既に完成された、つまり本音的メッセージを整えて体裁良く設えた意図自体へ懐疑的な感性を持っている、と言う事が出来る。却って未完成なものの方に大いなる魅力を感じ取っているのだ。
 展覧会で画家の作品を目にする時仕上げられた完成作品より、その段階へ至る前のドゥローイングとかデッサンとかエスキースの段階の平面の方に魅せられることもしばしばある。つまり其処には完成迄漕ぎ着けていないからこそ発見出来る新鮮な作者の欲求の塊を見出し得るのだ。それをこそ価値とする感性は宗教文化的呪縛から解放されている現代人(イスラム教は未だかなり厳格なものが求められているが、それ以外の大半の宗教文化伝統保持国では)は、表現の自由的な民主主義精神の普及と共に寧ろ生なメッセージを求めていると言える。それは未完成であればこそ却ってストレートな何かがその都度あり得るということである。
 成熟はある意味では最も凡庸なものでもある。それは老成した中年を見れば分かる。寧ろ荒削りであっても、其処に変な衒いやいい子ぶった諂いがないからこそ惹きつける青年の魅力というものはあるし、未熟な部分を余り残し過ぎていると拒否反応を催すが、多少は残していた方が全くそれらを排除し切ったものより感性的には魅力を見出しやすいということを現代人は知っているのだ。
 これを自然な逆説と呼ぼう。つまり現代人は自然な逆説を受け入れるくらいに鑑賞眼も判断基準も逆に成熟してきているのだ。つまり成熟した感性こそ未成熟な魅力にも価値を見出すということである。これは完成された文学作品以外に、作者が推敲に推敲を重ねた生な原稿用紙に価値を見出す感性とも基盤は同じであろう。勿論この場合は完成されたものが素晴らしいからこそ、その結論へ導かれた過程にも魅せられるという訳だ。
 そしてこの未完成性へ魅せられ自然な逆説として受け入れる現代人の感性を完成させつつあるものこそウェブサイトであり、それを共有し合う現代人類は明らかにグローバルな世界市民性的感性を獲得してきている。其処では類的なものと個的なメッセージ性とがダイレクトに結び付いている。それは時として過激なメッセージを世界に送受信させ、テロリズムを誘発する危険性も帯びたものもあり得る。にも関わらずそれを超え得る可能性を既にウェブサイト上でのメッセージに見出し、未来を託している世界市民の方がずっと多いからこそ、ウェブサイトを廃止しようという声は上がらないのである。
 現代人類はメッセージ発信性に於いては種的呪縛を超えて、こういった個々に使用する言語や文字は民族共同体、民族社会、民族国家性を保持しつつも、メッセージ発信形式や読解する習慣としてはスマホでも読み易いメッセージ、そして完成、それは多分に長文を前提として発展してきた作文秩序であったのだが、それを超えた未完成性を残したリアルな本音的メッセージの方を自己感性にフィットしたものとして選び取りつつある、と言える。それを支える現代人の感性は田辺元が言う所の種的なものを超えた類的なものであり、メッセージ受容グローバリズムとでも言うべき感性であると言い得る。(つづく)