Thursday, February 4, 2016

〔羞恥と良心〕第三十四章 表情がメッセージであることを知っている我々は Chart2

 本ブログ来場者の皆さんもお気づきのことと思う、人は銀行等の金融機関から出て来る時の表情がどんな場所から出て来る時よりも一番険しく訝しい表情であるということを。通常我々はそういう機関の建造物に入っていく時、重々しい気分にもなっている。それは金を引き下ろすことが大概の目的だからである。つまりその部分で我々は誰しも完全に社会全体へ性悪説的な見方しかしていないということだ。金を下ろして来る人を暴漢が狙うという可能性が一番高いと我々は周知している。
 要するに我々は資本主義社会に生活している以上、金が無いという事実が貧困だけでなく、犯罪的誘惑をも生むと考えているのだ。 このことはリベラリズムでも、リバタリアン的な自由主義でなく、思想信条的自由を資本主義社会礼賛的でない位相からも容認し得るという形では、一般社会は通用しないということを意味する。 このことはかなり重要だ。つまり敗者を社会が容認しないからだ。敗者とは経済的弱者のことではない。所謂犯罪者や、社会的な意味で不穏当な発言を繰り返す人とか、実際にテロ等へ突き進む人のことだ。
 李下に冠を正さずという謂いは現代社会でも通用するのだ。従ってATMの利用を待っている時我々は余り馴れ馴れしく社交的であるべきではない。 そういうある種の厳かな、訝しい他者観を持つことは現代社会では都市空間では一つの不文律的なマナーとなっている。
 それは日本社会の伝統的コードである行儀(箸の使い方や、洋食を取る時にエチケットとかも含む、所作的なこと)とも又少し違う暗黙の現代人同士の同意である。満員電車では座っている人も足を組まないとか、要するにそういう心得である。
 痴漢に間違われない様にするには満員電車には乗らないで済む様な職種を探すしかないという観念で此処二十数年生きてきたので、私は幸い映画<それでも僕はやっていない>(周防正行監督、加瀬亮主演)の様な悲劇に見舞われずに今の処済んでいる。勿論今後どんな災難が待ち構えているかも分からないけれど。
 そういった意味で現代都市空間は足腰が丈夫でてきぱきとあらゆる社会インフラ的な機器を使いこなせなければ闊歩出来ない様になりつつある。
 都市空間全体が老人にとって極めて不自由になっているのである。このことはしかし実はかなりユニヴァーサルデザイン的見地からすれば問題はあるのだ。
 よく色々な機器を扱う仕方が分からずまごついている老人が居たら、ちょっと手助けしてあげれば、それでいいのだ。その点では若い世代にそういった心得があるか否かは道徳教育にかかっているとも言えよう。私なら直ぐ分かる範囲でならお年寄りにアドヴァイスすることに吝かではないが、そういうこと一切を嫌がる人も居るかも知れない。
 別ブログ(トラフック・モメント)で<老いることを許さない社会>に就いては以前触れた。→< 〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十章 老いることを許さない社会 http://trafficmoment.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html>社会インフラが益々時間節約性に於いて加速度的に連動を求めてきているのだ。連動に就いても別ブログ(意図論)で<都市文明に於ける連動と与えられた市民の幸福観>というタイトルで記事を書いた。→<http://logicofintention.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html>
 これ等は要するに市民社会にスピードの競争という原理を与えているけれど、それは幸福感に直結しているだろうかという疑問から出たものだった。今もその考えに変わりはない。
 つまり便利になり時間が節約されること自体が、強制的に我々に覆い被さってくると、自分なりの時間の使い方が徐々に摩滅していくのだ。余暇の時間の使い方から、行く観光地迄全て商業活動の収益アップに供せられる様に社会全体が仕組んでいるのではないかと思える要素は現代社会ではあり得る。だから私自身はそういったあらゆる触れ込みを一切無視して行きたいと思う場所だけ選んで行っている。今は~に行くのは旬だという観念は少なくとも私には無い。
 それが本当の自由主義である。社会全体が便利にならなければいけないと考えることは、一種の全体主義である。思想も娯楽もそういう風に一番大企業とか国家全体の収益にならないものは積極的に無視していこうとするなら、それも又全体主義である。そしてそういう風にややもするとなりやすい性向も日本人には在ると思ってもいい。
 さて社会全体は性悪説的に機能していることは確かだと分かった。ではどの様にそういった社会全体の連動から自由になることが出来ると大勢の人達が覚醒していけるかというと、メディアのご都合主義的な報道だけに振り回されずに自ら主体的にウェブサイト等で時事的な情報を摂取する様にするしかないとも言える。メディア、つまりテレビや新聞は書き立てることは大体相場が決まっている。だからそれ以外の稀有な情報の方を自分自身にとって価値あるものと認識出来るか否かということである。
 金融機関を利用するしかないという意味で現代人はまず資本主義社会で通貨を利用するということに同意している以上、我々は性悪説的な前提で全てを考えている。警察も必要だし、監視カメラも(盗聴システムも場合に拠っては)必要だと思って生活している。
 しかし重要なことは、それでも尚他者と信頼し合うということも重要だし、不可欠だと考えていられるかということだ。先程の老いることを許さない社会だけでは駄目だ。老いることを自由にさせてあげられる社会でなければいけない。そういった意味では結局結婚して子供を育てられる一部の富裕層的な人達にとってのみ社会へ貢献してきているという評定を齎す様に益々機能している。
 だから意図的に我々は色々な意味でのユニヴァーサルデザインでなければいけない、という風に、しかも機器等も色々な角度から利用しやすい様に取り計らえるディヴァイスがインフラ的にも求められているし、そういった意味ではプロダクトデザイナーの出番は未だ未だかなり必要である。
 分析哲学的には我々は他者の心は決して自分の心の様には読めないし、それを知っている。だから逆に他者の心は他者の表情と態度、所作でのみ知ることが出来る訳だから、必要以上に歩きスマホや車中スマホで意識を液晶画面にのみ釘づけにしない様に心掛けるべきだとも言える。独在論的都市空間闊歩から時折自己を解放させていくべきである。