Thursday, February 4, 2016

〔羞恥と良心〕第三十四章 表情がメッセージであることを知っている我々は Chart2

 本ブログ来場者の皆さんもお気づきのことと思う、人は銀行等の金融機関から出て来る時の表情がどんな場所から出て来る時よりも一番険しく訝しい表情であるということを。通常我々はそういう機関の建造物に入っていく時、重々しい気分にもなっている。それは金を引き下ろすことが大概の目的だからである。つまりその部分で我々は誰しも完全に社会全体へ性悪説的な見方しかしていないということだ。金を下ろして来る人を暴漢が狙うという可能性が一番高いと我々は周知している。
 要するに我々は資本主義社会に生活している以上、金が無いという事実が貧困だけでなく、犯罪的誘惑をも生むと考えているのだ。 このことはリベラリズムでも、リバタリアン的な自由主義でなく、思想信条的自由を資本主義社会礼賛的でない位相からも容認し得るという形では、一般社会は通用しないということを意味する。 このことはかなり重要だ。つまり敗者を社会が容認しないからだ。敗者とは経済的弱者のことではない。所謂犯罪者や、社会的な意味で不穏当な発言を繰り返す人とか、実際にテロ等へ突き進む人のことだ。
 李下に冠を正さずという謂いは現代社会でも通用するのだ。従ってATMの利用を待っている時我々は余り馴れ馴れしく社交的であるべきではない。 そういうある種の厳かな、訝しい他者観を持つことは現代社会では都市空間では一つの不文律的なマナーとなっている。
 それは日本社会の伝統的コードである行儀(箸の使い方や、洋食を取る時にエチケットとかも含む、所作的なこと)とも又少し違う暗黙の現代人同士の同意である。満員電車では座っている人も足を組まないとか、要するにそういう心得である。
 痴漢に間違われない様にするには満員電車には乗らないで済む様な職種を探すしかないという観念で此処二十数年生きてきたので、私は幸い映画<それでも僕はやっていない>(周防正行監督、加瀬亮主演)の様な悲劇に見舞われずに今の処済んでいる。勿論今後どんな災難が待ち構えているかも分からないけれど。
 そういった意味で現代都市空間は足腰が丈夫でてきぱきとあらゆる社会インフラ的な機器を使いこなせなければ闊歩出来ない様になりつつある。
 都市空間全体が老人にとって極めて不自由になっているのである。このことはしかし実はかなりユニヴァーサルデザイン的見地からすれば問題はあるのだ。
 よく色々な機器を扱う仕方が分からずまごついている老人が居たら、ちょっと手助けしてあげれば、それでいいのだ。その点では若い世代にそういった心得があるか否かは道徳教育にかかっているとも言えよう。私なら直ぐ分かる範囲でならお年寄りにアドヴァイスすることに吝かではないが、そういうこと一切を嫌がる人も居るかも知れない。
 別ブログ(トラフック・モメント)で<老いることを許さない社会>に就いては以前触れた。→< 〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十章 老いることを許さない社会 http://trafficmoment.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html>社会インフラが益々時間節約性に於いて加速度的に連動を求めてきているのだ。連動に就いても別ブログ(意図論)で<都市文明に於ける連動と与えられた市民の幸福観>というタイトルで記事を書いた。→<http://logicofintention.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html>
 これ等は要するに市民社会にスピードの競争という原理を与えているけれど、それは幸福感に直結しているだろうかという疑問から出たものだった。今もその考えに変わりはない。
 つまり便利になり時間が節約されること自体が、強制的に我々に覆い被さってくると、自分なりの時間の使い方が徐々に摩滅していくのだ。余暇の時間の使い方から、行く観光地迄全て商業活動の収益アップに供せられる様に社会全体が仕組んでいるのではないかと思える要素は現代社会ではあり得る。だから私自身はそういったあらゆる触れ込みを一切無視して行きたいと思う場所だけ選んで行っている。今は~に行くのは旬だという観念は少なくとも私には無い。
 それが本当の自由主義である。社会全体が便利にならなければいけないと考えることは、一種の全体主義である。思想も娯楽もそういう風に一番大企業とか国家全体の収益にならないものは積極的に無視していこうとするなら、それも又全体主義である。そしてそういう風にややもするとなりやすい性向も日本人には在ると思ってもいい。
 さて社会全体は性悪説的に機能していることは確かだと分かった。ではどの様にそういった社会全体の連動から自由になることが出来ると大勢の人達が覚醒していけるかというと、メディアのご都合主義的な報道だけに振り回されずに自ら主体的にウェブサイト等で時事的な情報を摂取する様にするしかないとも言える。メディア、つまりテレビや新聞は書き立てることは大体相場が決まっている。だからそれ以外の稀有な情報の方を自分自身にとって価値あるものと認識出来るか否かということである。
 金融機関を利用するしかないという意味で現代人はまず資本主義社会で通貨を利用するということに同意している以上、我々は性悪説的な前提で全てを考えている。警察も必要だし、監視カメラも(盗聴システムも場合に拠っては)必要だと思って生活している。
 しかし重要なことは、それでも尚他者と信頼し合うということも重要だし、不可欠だと考えていられるかということだ。先程の老いることを許さない社会だけでは駄目だ。老いることを自由にさせてあげられる社会でなければいけない。そういった意味では結局結婚して子供を育てられる一部の富裕層的な人達にとってのみ社会へ貢献してきているという評定を齎す様に益々機能している。
 だから意図的に我々は色々な意味でのユニヴァーサルデザインでなければいけない、という風に、しかも機器等も色々な角度から利用しやすい様に取り計らえるディヴァイスがインフラ的にも求められているし、そういった意味ではプロダクトデザイナーの出番は未だ未だかなり必要である。
 分析哲学的には我々は他者の心は決して自分の心の様には読めないし、それを知っている。だから逆に他者の心は他者の表情と態度、所作でのみ知ることが出来る訳だから、必要以上に歩きスマホや車中スマホで意識を液晶画面にのみ釘づけにしない様に心掛けるべきだとも言える。独在論的都市空間闊歩から時折自己を解放させていくべきである。

Wednesday, December 23, 2015

〔羞恥と良心〕第三十三章 表情がメッセージであることを知っている我々は Chart1

 語彙は文字化された時明らかに一種の形而上的存在意義を獲得した。それは文字がヴィジュアル化された自己肉体からすれば外在的な地点に意識を集中させることを旨として考案されたものだからだ。だから意味は必ずその言葉=語彙の連なりを産出した当人の感情が素の侭剥き出しではない。そもそも感情が剥き出しなのは心だけである。だがそれは丁寧に断りを述べる文章でも心の中では拒絶があるから成立している訳だから、心は断る場合は誘われたり頼まれたりしたことに対して閉ざしている。
 だが文字でも心でもないものとして直に相手と接触する場合には表情が重要な記号となっている。表情を示すことは一つの感情の意味だ。怒りを必死に抑えようとしていることも、怒りを爆発させたい気持ちも共に素の心だが、直に相手へ断る場合にはネット上で文字入力している場合より、より表情で拒絶感情を示し得るし、その様に相手に相対している場合相手への威嚇的効果があると知っていて、我々は常にそれとなくきちんと相手に拒絶感情を示している。
 そういう一々の応対が億劫であればこそ入社試験に落ちた人に対しては誠に遺憾ながら貴殿のご主旨に添えなく申し訳ありません、等と書くのだ。それは表情を示すことで相互に後々迄感情的しこりが残ること自体を避けている証拠だ。
 文字は、だからある意味ではそういった素の心が剥き出しになりやすい表情を隠蔽する強かな悪意隠蔽装置なのだ。勿論既に形而上的な意味伝達を知ってしまっている我々は慇懃無礼に書く文章であればある程、侮蔑や拒絶の感情が書き手の素の心に巣食っていると知ってしまう。
 素の心は相手に表情を一切見せなければ、一つのブラックボックスであるが、表情を相手に知られるということは一つのヴィジュアルの極めて読み取りやすいメッセージとなる。文章とはだから意味=語彙の連なりから読み取る相手の意図から、感情的な応酬を回避する為の巧妙な措置である。だから相手へ感情を読み取られてしまう羞恥心を利用して、相手を傷つけまいとする意図こそ良心だと言える。だがそういった配慮をされてしまえばしまう程儀礼的・形式的な冷たさを我々は感じ取ってしまう。しかしウェブサイト利用時代の我々はそのある種のロボティックな突っ放し、感情を剥き出しにした侭に決してさせない様にツール・ディヴァイスリテラシー的なナルシスを相互に認め合う形で相手へ断りのメッセージを示すことはSNS(とりわけTwitter)で気に入らないフォロワーをブロックしたりすることで示すことが出来る。
 つまり既に手紙で返信したりすることと違って、ウェブサイトでは冷たい突っ放し自体が全ユーザーに共有されているし、それを前提として、それはゲームなのだと我々はウェブサイトコミュニケーションリアルを理解している。
 文字は本として出版されているものだと、あくまで書物を出版へ漕ぎ付かせるのにはかなり時間が要るので、それがある程度長期永続的な著者の読者へのメッセージだと我々は了解している。この部分はテレビのニュースやウェブサイトのニュース告知とは性質が違う。当然SNSでの遣り取りはその時々の気分が最も支配的である。
 感情は素に相手と接している時と、文章化する時と、ウェブサイト上で通信として遣り取りする時では性質が違ってくる。羞恥的な事は意外と大きいのがウェブサイト上で気分で書く時でも余り時節や時代的常識を知らずに書き散らすと恥ずかしい思いをするから、余りよく知らないことは書き込まない様にする、アップしない様にするという心は誰しも持っている。
 素に相手と接している時は相手に侮蔑の感情を知られない様に巧く素の心での相手への気持ちを伝えない様なポーカーフェイスを我々は作ろうとする。それでもあざとい心の読み手には直ぐばれてしまう。言葉でも直に相手と接して伝える言葉と、文章化して読ませるのと、本等に記述するのとでは伝える相手と伝える自分との間の距離感が物理的にも精神的にも性質が違うので当然語彙や例証する時の選び方が変わってくる。
 選び方も変われば伝え方も伝える時の伝えたい相手への感情も変わってくるという訳だ。だからある意味では語彙も言葉も文章も言語を伝達する論理も、それぞれのケースに応じて(当然ウェブサイト上でのネットコミュニケーションもその一つだが)全く在り方が違って我々に拠って認識されているとも言える。
 表情を晒している場合には表情のメッセージを読み取られやすいと思われまいとする配慮が、表情が一切出ない場合には、形而上的な意思疎通の壁を如何に読解する側は取っ払い、素の感情を読み取ろうとするかという配慮が働く。
 しかしポストモダン思想では明らかに後者の配慮を悪い意味での深読みであり、それは正統な文章の読み方ではないと考えていた。 次回はそのこと、つまり書かれたものは既に直に相手へ伝えるコミュニケーション(発せられる語と表情)とは全く違っているだけでなく切り離されているものだという認識に就いて考えてみる。

Thursday, January 29, 2015

〔羞恥と良心〕第三十二章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart4 完成に懐疑的な現代人類

 田辺元は『種の哲学』で種概念の規定を行った。この種の上位概念として類を設定した。類は人類自体であり、種は民族のことである。
 さて前回から引き継ぎ今回は羞恥を隠蔽するシステムとしても機能する民族共同体とか民族社会とか民族国家等とグローバル な人類、つまり世界とは対立し得るだろうか、という問いを行ってみたい。
 率直に言ってそれは徐々にどころかかなり急転直下的に瓦解してきたと言える。民族は感性も育むが個人の感性も育む。だから例えば日本人が日本国家だけを中心に考える時には天皇制等の宗教伝統的なコードは憩いであったり、精神的支柱であったりするも、現代社会の利便性に満ちた生活ではそういった感情に到る事の方が少ない。それは何かの拍子に突発的に起きる感情である。例えば北朝鮮からミサイルが日本海や太平洋へ向けて発射されたりといった事態に於いてである。だが日頃はそういったこと迄意識には上らない。そして寧ろ世界市民性がウェブサイトの拡充に拠ってより強固になってきている。
 ISILに拠る様々な悪辣なる暴挙に拠って世界中が引っ掻き回されているが、後藤氏の生命保全に向けて意識している時は日本人は日本民族の連帯とか結束を意識するも、この組織の壊滅自体を意図した心では明らかに世界市民性を最優先している。だからこそ国際協調で色々な打開策を講じている訳である。
 世界経済はあらゆる意味で国際協調的解決を求め、我々は世界的規模でしか一市民性を確保出来ない事を誰しも(どの民族のどの市民も)自覚している。
 ウェブサイトが世界を変えてきたという要素も否めないが、寧ろウェブサイトを通して世界を変える様に人類がしてきた部分では、明らかにウェブサイト以前にも多くその変わっていく兆候は読み取れる。
 映画ではディレクターズカット等という別ヴァージョンを一般映画では普及してきている。これはプロデューサーの意向と監督の意向が合わない場合、プロデューサーは出資者である為そちらを優先した編集になるが、監督は上映作品の作者なので、その意向を最初の封切以降に汲み取る仕方のビジネスである。
 大体ディレクターズカット版の方が余剰、剰余が表現に漲っている。それは纏めてしまっていることへの潔しとせぬ<ある未完成性>への執着である。
 これは日頃我々が短文を掲示させるSNSで既に経験していることである。ブログ等でも長文を読ませるより、短文を羅列して何処から読んでもいい様に配慮する方がずっと読む(来場する、検索する)側からすれば読み易いのだ。
 結局長文を読むのにPCの画面自体が適していないということと、そもそも長文をじっくり読むのは本に任せ、それ以外は短文メッセージを数多く読むという習慣を現代人は選び取っているのである。
 それは言語が意識下で行われていることとは心の言わば本音であるが、それを巧く(つまり差し障りのない様に)調整してから何か発言するのが我々の日常であるが、その無意識に出る本音的部分を我々は自分に対しても人に対しても知りたいという欲求がある。そして本音的心の部分は確かに未完成で混沌としていて、矛盾している。しかしそれを秩序化して意識的に伝達メッセージ化すると、其処では原初的には存在したある固有の輝くは損なわれることを知っているのだ。だからこそ原初的な、つまり荒削りではあるものの、何か根源的なメッセージになり得そうな何かを求めて我々はSNSに書き込んだメッセージを掘り起こすことをするのだ。
 最近の著作物では哲学者、永井均の『哲学の賑やかな呟き』は彼のミクシーでの仲間達との対話から掘り起こした哲学エッセイ集となっているが、これは明らかにその原初的メッセージの持つ輝きを掘り起こそうとした意図の著作物である。事実この本では永井哲学の骨子となる幾つもの命題がかなり原初的に混沌としてはいるものの多様な意味を内包した哲学的疑問のマグマの様なものが読み取れる。
 この読ませる為に変形を施す意識の作業に対する無意識の疑問や思考的な渇望に潜在するマグマ的力を未完成性と呼ぶとすると、其処には明らかに整理され尽した完成にはない生な叫びと呟き、囁き、要するに他者や自己へ向けた鮮烈なメッセージの輝きがある。
 それを現代人は求めている。だからこそ短歌や俳句も益々見直されているのだ。と言うことは裏を返せば現代人は既に完成された、つまり本音的メッセージを整えて体裁良く設えた意図自体へ懐疑的な感性を持っている、と言う事が出来る。却って未完成なものの方に大いなる魅力を感じ取っているのだ。
 展覧会で画家の作品を目にする時仕上げられた完成作品より、その段階へ至る前のドゥローイングとかデッサンとかエスキースの段階の平面の方に魅せられることもしばしばある。つまり其処には完成迄漕ぎ着けていないからこそ発見出来る新鮮な作者の欲求の塊を見出し得るのだ。それをこそ価値とする感性は宗教文化的呪縛から解放されている現代人(イスラム教は未だかなり厳格なものが求められているが、それ以外の大半の宗教文化伝統保持国では)は、表現の自由的な民主主義精神の普及と共に寧ろ生なメッセージを求めていると言える。それは未完成であればこそ却ってストレートな何かがその都度あり得るということである。
 成熟はある意味では最も凡庸なものでもある。それは老成した中年を見れば分かる。寧ろ荒削りであっても、其処に変な衒いやいい子ぶった諂いがないからこそ惹きつける青年の魅力というものはあるし、未熟な部分を余り残し過ぎていると拒否反応を催すが、多少は残していた方が全くそれらを排除し切ったものより感性的には魅力を見出しやすいということを現代人は知っているのだ。
 これを自然な逆説と呼ぼう。つまり現代人は自然な逆説を受け入れるくらいに鑑賞眼も判断基準も逆に成熟してきているのだ。つまり成熟した感性こそ未成熟な魅力にも価値を見出すということである。これは完成された文学作品以外に、作者が推敲に推敲を重ねた生な原稿用紙に価値を見出す感性とも基盤は同じであろう。勿論この場合は完成されたものが素晴らしいからこそ、その結論へ導かれた過程にも魅せられるという訳だ。
 そしてこの未完成性へ魅せられ自然な逆説として受け入れる現代人の感性を完成させつつあるものこそウェブサイトであり、それを共有し合う現代人類は明らかにグローバルな世界市民性的感性を獲得してきている。其処では類的なものと個的なメッセージ性とがダイレクトに結び付いている。それは時として過激なメッセージを世界に送受信させ、テロリズムを誘発する危険性も帯びたものもあり得る。にも関わらずそれを超え得る可能性を既にウェブサイト上でのメッセージに見出し、未来を託している世界市民の方がずっと多いからこそ、ウェブサイトを廃止しようという声は上がらないのである。
 現代人類はメッセージ発信性に於いては種的呪縛を超えて、こういった個々に使用する言語や文字は民族共同体、民族社会、民族国家性を保持しつつも、メッセージ発信形式や読解する習慣としてはスマホでも読み易いメッセージ、そして完成、それは多分に長文を前提として発展してきた作文秩序であったのだが、それを超えた未完成性を残したリアルな本音的メッセージの方を自己感性にフィットしたものとして選び取りつつある、と言える。それを支える現代人の感性は田辺元が言う所の種的なものを超えた類的なものであり、メッセージ受容グローバリズムとでも言うべき感性であると言い得る。(つづく)

Friday, July 11, 2014

〔羞恥と良心〕第三十一章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart3 感性論と理性論

 羞恥とはかなりの部分体制的、革新性や創造性とは無縁の保守的な慣習踏襲性に彩られている。それは創造的見地から言えば無思考的である。 つまり創造性とは羞恥を払拭する必要がある、という事だ。創造的言語であるとは、言い回しとか慣用句の常套的利用とは対極の、慣例性への批判であり、無思考的に保守的思考を軸とした常套的説諭、常套的纏め方、在り来たりの論理思考の運び自体を否定する。
 ところで概して芸術とは全て形式へと昇華させる事がクリエイターの目的である。だからこそ二十世紀にはインスタレーション等も勘案され、それも又一つの表現形式となった。ニューメディアアート以降のアートムーヴメントは従来迄のメソッドや新しいメソッドの総合であり、アート自体の持つ形式性の知的綜合を通したアートメッセージの読み直しである。
 哲学も又論証性や推論といった事に纏わる論理思考性それ自体の論文的統合である。哲学は我々にとっての生や世界や空間や時間を形式的に、戸田山和久の謂いを借りれば概念工学的な見地から形式的な再構築(世界等がどうあるかを言語的に解説する事)を追求する事である。 この芸術、つまりアートと哲学の形式性に対して常に言葉自体は言語という論理形式を我々は借りているにも関わらず、その形式自体ではなく、その形式を通して伝えたい内容の方へ意識が行く事を概ね我々は自動的に(無意識的にと言ってもいいが)行っている。
 文学はその自動性と形式依拠的事実自体への認識との両方が重なって統合されていたり、比較的に配置され対照性を示したりする事それ自体の事である。
 日本語に拠る娯楽表現での言い回し、慣用句、言葉の運びそれ自体の韻律や調子の全ては歌舞伎、文楽、落語、講談等のジャンルに誰に対しても伝わる様式が確定的である。つまり其処には羞恥の払拭ではなく、羞恥を保守し、誰しもが身構えて創造しなくてもいい様な聞き心地の良さが込められている。それが一般的娯楽の定型である。都都逸もそうだし、追分もそうであれば、歌舞伎より古い歴史のある神楽の所作、リズム、全てがそういった日本民族にとっての鑑賞している時の心地良さ、それは祭りの囃子等と全く重なっている民族的文化コードに随順している。
 短歌・俳句・川柳にはそういった様式的伝統的踏襲という意識が前提されている。だからこそ再解釈とか再創造の際には本家どり的な事が一つのチャレンジとなって為されるのだ。
 だが理性論はそういった民族生理的な感性論とは常に真っ向から対立する。だからこそ言い回しとして言いやすさや聴き心地良さ等よりずっと重要な意味連関的な伝達事項の意味真理の構造的正当性が求められ、それは正統的とか異端的とかの二分法とは無縁である。
 要するにそれは表現娯楽的ではなく、従って民族情感的だなどという事でなく、正義論的、社会倫理的な義務的な事と相通じる。表現娯楽が権利享受的だとすれば、メッセージの正当性の意味真理論では権利の感性論とは真っ向から対立する義務の理性論となる。要するにそういう意味ではカント的である。定言命法的なのである。
 その意味ではメッセージ論的には近代以降の民主主義社会的な理性主義こそが五七調等全ての表現娯楽的な言い回しや聴き心地良さを否定する最大の存在である。
 日本人の判官贔屓に似たものは韓国人にもある。癸酉靖難(ケユジョンナン)以降の歴史的推移の中で奪門の変で若干16歳で悲劇的死を遂げる端宗(タンジョン)を後の第十九代国王粛宗(スクチョン)の時代にやっと名誉回復が為された。
 Wikipedia記述に拠ると、<秋益漢は前漢城府尹(現在で言うところのソウル市長)だった。時々端宗に山ぶどうを捧げて一緒に詩を作った。端宗が死んだ日、秋益漢の夢に白馬に乗った端宗が「太白山(韓国の山)に行く」と言って消えた。そのことから、韓国の民間信仰では端宗は太白山の神になったと信じられている。>とある。これ等は日本人の源義経贔屓、判官贔屓(頼朝より好きだという意味で)との共通性がある。<勧進帳>、<義経千本桜>等の世界観と韓国パンソリ等との共通性は確かに命題化してもいい比較文化論だ。
 だがそういった熱い民族意識的気分(それはしばしば民族対立、国家間の軋轢さえ生む)と、グローバリティのある正義論や理性論、とりわけコミュニケーション的な倫理論とは対立するものである。
 日本人にとって凄く聴き心地の良い響きとか語調、語呂等の全ては韓国語(ハングル)にもあるし、それは説話的なもの、物語的な筋の運びや比喩allegory等にも心地良く響き、理解しやすいものがある。そういった種的(田辺元『種の論理』的意味合いでの)感性論と対立する理性論とは、言ってみればグローバリティに拠って成立する。だがそのグローバリティとは本当にそれ程信用出来るものなのだろうか?
 その点では確かに羞恥を隠蔽する心地良さのある種的感性論と、グローバルな正義論にも支えられている類的理性論とは対立するとは図式的には言い得るも、その二分法自体に正当性があるだろうか?次回はその事から考えてみたい。

Tuesday, July 8, 2014

〔羞恥と良心〕第三十章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart2 慣用性への疑いと再創造

 先々月くらいにある芸術家の個展を鑑賞しに行った時その芸術家からある左翼活動家は一切言葉の語呂とか五七調を否定し、そういう文章は書かないという信条で居るという話を伺った。その話は極めて後々迄印象に残った。
 何故なら常日頃私はその事をずっと考え続けてきていたからである。
 私は詩を書いているが、詩自体は言語的創造である。従って書く側は真摯に何を詩を通し伝えたいかを考え、通り一遍の慣用句を避けねばならない、という事が詩人の使命としてある。しかし同時に一体何を伝えようとしているかに対して読む側が余りにも戸惑ってしまう言葉の選び方も避けねばならない。
 だがこの事は極めて困難な作業である。
 当然であろう。詩自体が言葉の創造と言っても、言語自体は自分自身の創造ではない。新種のプログラミング言語を発明しても、それはあらゆるシステムエンジニアをはじめとする関係者の間では通用するものでなければならない。それは私的言語であってはならないのだ。それと同じ事がかなりハイブローな詩の研究者に対してくらいは、読めるものでなければならないという事として言える。だがハイブローな詩の研究者は詩を客観的に分析する事には長けていても、優れた詩の創造者ではない。だから詩人の間だけで通用すればいいのかと言えば、そうも行かないのだ。結局詩人自身が言葉というある意味では極めて因襲的なツールを通して何かを伝えるので、結局詩人以外の人であっても誰にでも理解出来る様な言葉の選び方を選ぶだろうから、詩人だけに通用する言葉等という事自体が幻想という事になってしまう。
 其処に詩人の良心と、革命的な言葉の選び方をしたいという野心的欲求があるにも関わらず、それへ羞恥も介在させず暴走する事も同時に避けたいという職業的欲求もあるだろう。
 日本語にはこういう時にはこういう風に言いましょう、という様な慣用句が多く存在する。だがそういう事を熟知している事は、それ自体は俗世間的知性の踏襲という意味で無駄ではないが、同時にそれは凄くクリエイティヴではないと言える。寧ろあらゆる歴史的な大きな出来事から日本人が学んできた「君子危うきに近寄らず」的な訓戒や教条を知っていつつも、敢えてそれを使用せず、あくまで自分の言葉で何かを伝えなければならない。その結果、其処に読者が勝手に故事や教訓、諺を読み取っても、それは自由である。しかし少なくとも詩人は理解させるのに必要な伝統踏襲的手続き(短歌も俳句も規則がそれに当たる)が必要であるし、その上で自己に固有の言葉の選び方をしなければいけない。
 ある部分哲学者は国語も文学も無視して彼等だけに固有の哲学概念、哲学的観念だけで世界を再構築しようとする人達である。従って文学をよく出版する出版社に哲学的文章を投稿しても没になる可能性は高い。最後迄読んでもくれないかも知れない。結局哲学者は哲学書専門の出版社に掛け合うしかないという事となる。 だが哲学者が世界に対して国語よりも文学よりも論理それ自体を重んじる様な一つの在り方は在っていいし、そういう風に詩人も従来の文学や、国語的因襲を批判したり、否定したりする様な言葉の選び方が在っていい。
 だが、にも関わらずその言葉の選び方は百%その詩人の創造ではないのだ(この点は哲学者もきっと同意するだろう)。創造者の良心とは、それが一般の創造のプロの間だけに通用する様なものではない何かを提示する事である。同時に彼等の羞恥とは、とんでもなく誰もしていなかった事を詩を通してしたい、という強烈な野心を創造契機として認めつつも、その野心の末にとんでもない独りよがりに陥る事だけは避けたいという気分を羞恥が作っている。
 どんなに独創的でもそのものが何処かでは制度への批判になっている、と言う事は制度の側からも理解されるものでなければいけないという事を彼等は知って居る筈だからである。だからこそ詩人とは、いい作品を提示したい、それは決して因襲的な陳腐なものであってはいけないという創造者の良心を持っているものの、それでいて独りよがりではいけないという職業的羞恥も持っている筈なのだ。
 すると七五を巧妙に避けようと思っていても、それが何処かでは七五調をも育んできた日本語の構造には添っていて、尚且つ七五調にはなかった別の調べを要するという事は言える。或いはそれどころかそういった調べを一切拒絶し、純粋な意味だけの提示を最小限度の語彙だけ使用して伝えようという目論見も成立する。しかし後者の場合でも恐らく彼は何等かの調べを消す固有の彼自身が発見した調べを獲得していく筈なのである。それは動きを止めた動きとも言えるし、流れの堰き止められた流れとも言い得るであろう。 在る意味で全ての創造は創造を拒否する部分もある。つまり伝統踏襲とは、伝統が発生してきた過程(歴史)を何処かで無視して敢えて現代で古典が生まれた時代のメソッドを流用する事なので、非踏襲的であるとも言えるのだ。逆に現代には現代なりの歌舞伎を追求するとか文楽とか神楽をするという事は、伝統が発生してきた推移の中で培われてきた精神には準じるという事でもあるのだ。
 その点では独創性と伝統踏襲性とはパラドックスの関係にあると言えるし、矛盾した相補性を持つ、と言える。
 つまりあるメディアを利用する時、其処に時代への読み(今生きている我々の時代)と、洋画なら欧米絵画の歴史、ロックなら二十世紀の歴史を知るという意味で歴史の中に位置する現代という時代の読み(あるメディアや方法論やジャンルの発生した歴史と同時に今それをする意味への読み)があると言えよう。(つづき)

Sunday, July 6, 2014

〔羞恥と良心〕第二十九章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart1

 二十世紀は十九世紀の産業革命以降のメディアの発達が異様に為された時代だと後世から振り返られるだろうが、恐らく全ての文章の世界のプロ達自身が最もプロではない普通のSNSのユーザーやウェブサイト全体の世界的動向からもの凄く影響を受け、文体から言葉の使用の仕方、語彙の選択の仕方に至る迄啓発されていく事は益々多くなるどころか、最早かつての文章家という様なプロの在り方とは全く異なる言葉と文章の構成の仕方が定着していくのが今、二十一世紀ではないだろうか?
 そもそも駅の構内や街角に多く観られる看板や場所の目的や意図を表示する掲示板等の全て(新幹線車内の電光掲示板も含めて)は指示的なメッセージである。だからそれはここから先は危険だから足を進めてはいけない、という様なものだったりするし、タバコを買った購買者はタバコの箱に吸い過ぎには注意しましょうという表示を、余り吸い過ぎると健康を害しますというメッセージとして受け取っている(尤も最後の例は少し購買者へのメッセージとしては矛盾しているが)。
 メッセージはある意味では「~しましょう」という訓示であっても、そういう事の良心的薦めであっても、自主的にそうする事を促す意図があるので、時にはそういうメッセージに異様に違和感を覚える哲学者でエッセイストである中島義道等から痛烈な批判が加えられる事もある。
 だから論文や小説やエッセイ等の文藝ではそういう「~しましょう」というメッセージは一切形式的には書き込まれる事はない。それらは薦めではないのだ。では何かというと、ある時代のある時期に、ある内容を持った論文や文藝作品を通した、ある出版社を通してこれこれこういう主旨のものが書かれてあります、というあらゆるその出版物に関する宣伝媒体を通したメッセージであり、「~しましょう」と言う事はないが、ある時代にある出版社がある内容の本を世に問うという形で、既にだからそういう興味を惹かれるものには関心を持ちましょう、という間接的なメッセージである。それは「~しましょう」と書かれていないから、却ってそういう自主的に自分がそれ等を読んだ後に何かを感じて、その後の人生にどう役立てるか(只息抜きに読むという事も役立てる事の内の一つである)を考えればいいという促しである。
 哲学者は「~しましょう」とは一切言わない。宗教家ならこうしましょうと迄は言わなくても、私ならこうしますとか、宗教ではそういう場合これこれこういう判断や行動を為す事を良しとしますとかなら言う。
 哲学者はある部分では完全に自己の心に於ける世界への哲学的見方への飽くなき自己検証なので、当然その時々に心の中で生じた決意を反復的に書き留める。それが結果的に哲学論文となり、哲学書となっているのだ。それは必ず迷いがあるなら、その迷い自体も暈さず検証していく姿勢を彼等自身が哲学者使命として自覚しているので、そういう問いの反復をしていく事を自ら義務付けており、その自らへの義務の表明でもあるから、読む者にとってはこの哲学者はこういう事に関しては、こういう問いの仕方を自らに義務づけているのだな、という形で読んで納得する様なテクストとしてのメッセージを其処に見出す。
 そうである。メッセージとは読む者が其処から自分なりに見出すものなのである。それはタバコの吸い過ぎには注意しましょうというのとは違う性質のメッセージなのである。つまりメッセージ指示という体裁で示されていない、しかしそのテクストを読み込み、読み出す事に於いて、そのテクストを読む自分自身にとってそのテクストの存在している意味を発見する事が、そのテクストを読む自分が見出すそのテクスト自体のメッセージとしてそのテクストを位置づける(意味付ける)事でもあるのだ。
 文章には確かに言いやすさと聞き心地の良さという事が接合されているキャッチフレーズ的な言説や広告文等もあれば、逆にそういった言いやすさや聞き心地良さ自体への一切の追求を差し控え純粋に言葉化されてきた語彙の意味自体を意味構造的に伝達させる為の文章(論文の文章はそういうスタンスがメインである)とがある。勿論言語学者達は(或いは一部哲学者達も)、でもそういう風に何でも文章というものを目的性に応じて二分し得るものであろうか、とも問う。それは文章というものの持つ言語的メッセージ自体が、意味だけに於いて純粋である事自体が、一種の言葉の慣用性が与えてきている幻想でしかなく、そもそも言葉の意味に正統や異端、厳粛さと寛ぎとが在るという事自体が、既に正統や異端を示すのに丁度いい語呂や音の響きや連なりを我々が選択しているという語彙使用習慣、言語使用日常性事実自体とが不可分な関係で一体化されている、と考えている節も凄く在るからである。
 「~しましょう」と抜け抜けと良心的お上の如く言い放つ事への羞恥が文化的素養や教養や知性を育んでいる。言わば哲学者や上質のエッセイストとは、そういう訓戒的、訓示的な事を差し控えつつ、実は暗に読者に自分自身の世界観的な見方を何処かで読者がそのテクストを読んだ事を思い出す事を通して癖の様に定着させる事を望んでいるのだ。これは書くという事に内在する決定的なナルシスである。だからある商品が販売される中でその商品に決定的に良いイメージを付帯させる為にコピーライターやCFクリエイター達が動員される様に、どんな硬い内容のテクストでもある時代のある時期にある固有の内容や主旨の論文を発表するという事が執筆者である著者(筆者)とそれを編集して出版へと漕ぎ着けている出版社のスタンス自体を、我々は一冊の本を紙素材の出版物であれウェブサイトの電子書籍であれ、それを手に取った時にメッセージとして受け取る事を習慣化されてきているという意味では、読むという事が筆者や著者の思想を読む事だけでなく、その筆者思想を読み取ろうとする一般読者である我々自身が、文章の送り手だけでなく自分達自身という受け手こそが、最終的に一つのテクストを通した思想を完成させる担い手であると自覚を得る、という事が一つの受け手固有のメッセージであり、それを感想としてブログに書く事もそうだし、それを実際に筆者や著者達が読もうが、読むまいが、その行為選択も又一つのメッセージとなる、という見方が容易に成立し得るメディアとウェブサイトとがシナジー的に連携作用を構築している時代に我々は生きていると言う事が出来る。(つづく)

Tuesday, February 18, 2014

〔羞恥と良心〕第二十八章 批評は感性のスポーツであるNo.1

 今回は今迄書いてきたこと、つまり社会批評とかエッセイとかのこと、つまり書くという行為に就いて書いてみたい。
 私自身自分で書くものに就いて特定の枠とか形式を与えている訳ではない。それを何等かの形で収めたいとするのが社会の管理職的発想と言っていいが、要するに文章があって、それを読んだ人が何かを自分自身の考えとか感性とか認識で読んでみて何か感じたり、考えたりすることが重要なのであり、それが~であるからどうであると思わなければいけないということはないのだ。
 批評とはそれ自体世界への認識とか世界からの感受とか、世界への応答とか色々な意味があっていいのだし、それはものを書くという行為が原稿用紙であれワードを通してであれ、SNSでのツイートとかであれ近状であれ、全て何等かの形で書く自分を世界と世界の内部で生活する自己身体をインターフェイスとしているのだ。
 その点ではエッセイと評論や批評との境界なんて実際はない。あるとするのは自分自身をエッセイストとか評論家とか批評家と標榜することか、それを受けてか、自分自身ではどういう風にも自称していない人へ他人がレッテルを貼ることに拠ってである。何故ならエッセイという散文と評論とか批評というものの何か確定的な定義自体が無く、定義があったとしても凄く曖昧だからである。
 勿論学術論文とかそういう枠というのはある。しかしそれは学界等の各学会で通用するか否かのことでしかない。何かそういうuniversalな規定がある訳ではない。あるとするのはアカデミズム内部でだけの話である。それは一つの閉じた個々のcommunityにとって の事情でしかない。
 哲学と文学の境界も設定されてあるのではない。そんなものはない。昔から哲学者でもあり文学者でもある人は沢山居た。それを後付的にやはり彼はどちらかと言うと哲学者だ、とそう規定しようとする人の事情に拠ってそう語られてきただけである。
 唯それがエッセイであれ評論であれ批評であれ、哲学論文であれ哲学的散文であれ、何か世界への提言、世界から受けたメッセージの返信という形で感性に拠って紡ぎ出された自分自身のスポーツ的なものだと言ってもいい。それは感性のスポーツとしての世界への返信なのである。
 こんなことを書いていいのだろうか、というタブー視をしてしまうものをこそ書くべきだし、そういったタブー侵犯的感性が本音吐露的決意を促すことがあるが、それはタブーを忌避しようとする習慣的な自己の条件反射的な部分が因習的(因襲的)なことに拠って知らず知らずに自分自身が雁字搦めになっていることに時折我々は気づく。しかしそれはそう気づいた瞬間に克服すべき事態ともなる。
 こんなことを書いていいのだろうかという懸念を払拭させる為に何かメッセージとして主張しようとする時には必ず、それを読む者にとって納得の行く形での論理を構築しなければいけないというささやかな使命感も生まれる。それを掬い取るということが必要である。
 タブーへの挑戦的意図とモティヴェーションとその野心実現の為のプランこそが論理的策術を書く者へ探らせる。
 因襲的羞恥はかなり根深いものがある。それは払拭することは自己にとって意識の革命である。そして因襲性の打破にも良心がある。
 私自身はフィクションとノンフィクションとの間の境界さえないと考えている。何故ならば全てのノンフィクションも又一種のフィクションだからである。文章を書くということがそういうことだからだ。当然全てのフィクションも文章を書く行為という意味では全てノンフィクション行為なのである。
 私自身は限りなく人類学的学術性も兼ね備えたエンタメ小説、そしてそれ自体が世界への批評としても機能する様な文章があっていいと考えており、それを日々試行錯誤的に模索している。  
 ところで旧来型のマスコミ言論人の言動をネット社会がチェックし、ネット社会が批評を担うかと思えば、ネット社会の実害の批判と警告を旧来型のマスコミの良心が行うという相互批判的システムが両者を双方向的なコミュニケーションシステムにしていくことが、同時作用的に顕現されることで、二つが異質ではなく、共通したメッセージ回路として機能していく様な未来が仄見える気が私にはするが、それ自体も一体どういうものが旧来型であるか、どういうものがイノヴェーションとして機能するものなのかという観念さえ個々の感性に拠って判断されていっていいとも言える。
 所詮全ての定義、規定とは、言ってみれば他者存在というものへの認知と認識こそが生み出している。自己は他者から見れば他者であり、自己の中の他者性を自己が意識した時に、その自己性とか他者性に対して固有の感性的な把捉を得る。それをあたかもアスリート達の様に言葉を紡ぎ出して示していくことこそが世界への自分自身なりの批評であり、それは仮に詩形式で示されていても、散文形式で示されていても、論文的体裁を採っていても、或いはその中間的な体裁であってもいいと考えている。
 一つは哲学が持つ哲学者自身を自嘲的に取り扱うエッセイスト的態度、シニシズムに就いてであるが、それは世界全体への懐疑心skepticismにあると考えている。つまり体裁が論文調であっても全く非哲学的であるのは無思考的に楽観主義的で非懐疑的であるということである。その点で哲学や哲学者を痛烈に批判するスピリットを縦横無尽に使いこなすエッセイはたとえ社会批評とか世相講談的なものであっても、それも又一つの世界への批評であり、哲学でもある、と言っていいのではないだろうか?
 感性の進化とはそういうチャレンジに拠ってのみ具現化されるのではないだろうか?唯それをしなければいけないのは誰しも思うことなのだろう故、次回は少し具体的にそのことを書いてみたい。

〔羞恥と良心〕第二十七章 現代日本人の精神分析Part2 SNS利用、闇ネット利用を巡り作られつつある本音の闇は大元ではマスコミの巨大第二権力が誘引してもいる、しかしそれでも…

 今回は久しぶりに本ブログに帰って来たので、前回お約束した失言問題そのものへいきなり突入せず、そういったマスコミの見せしめ性と血祭りに挙げる生贄儀式的な野次馬誘導型の現代社会の中で真実とか正義といった諸々の観念が恣意的にマスメディア言語に拠って捏造されるという観点から考えてみようと思う。
 実はマスコミとは戦後日本では常に反権力として機能してきた。しかし実際為政者の懸案する法律立案にせよ、施政方針にせよ全て正しいとは言い切れないが、同時に日本マスコミの多くが報道する様に全て為政者の偏った独断であるとは決して言い切れない。
 現実の日本で特定秘密保護法案を政権与党が急いだのにもそれなりに理由がある。
 例えば中国に拠る恣意的な防空識別圏設置にしても、必要以上の韓国に拠る反日的世論(昨今アメリカに拠る批判もあって、次第に日韓協調路線を模索する動向もあるが<尤もアメリカは安部総理に拠る靖国参拝へ否定的見解を示しており、日本の方に韓国へ歩み寄れ的見解である>)にしても、日本国内の余りにも能天気な国家機密自体への猛烈な野党に拠る(つい最近迄は与党民主党主導に拠る)否定的見解、つまりあらゆる密約を暴露する目論見が増長させてきたという側面も否定し得ない。日本では野党とマスコミが結託して行ってきた戦後民主主義の国民の知る権利への盲信自体への批判的見解をまず述べるに留めるが、問題は次の様なことである。
 マスコミ報道記者クラブ、作家連盟等が懸念して本法案可決阻止を目論んだ(昨今では弁護士等が憲法違反で提訴している)根拠は要するに戦前戦中の陸軍の暴走を想定に入れての話であることと、もう一つは言論統制を懸念してのことである。この点ではあらゆる取材を直接行う彼等と一般国民との間にも大きな温度差がある。
 そしてそのマスコミ全体の論調が国民の生命の安全と国際的な外交その他の多くの問題を却ってこじらせてきた、という部分に彼等は全く無頓着だ、ということだ。勿論法律として施行されれば、行政執行者の代が代われば確かにかマスコミの持つ懸念が実現してしまう可能性はゼロではない。しかし同時に余りにも野放図に全ての情報を政府筋がリークしてしまう侭にしておくことも、それはそれでかなり対中国防戦略的には忌々しきことであるとも言い得る。少なくともそれは米韓自体も望まないだろう。その点ではマスコミだけが異様に反対することにも懸念を持つべきだ、とは言える。その点ではもう少しこの法律が施行されることでどういう展開が待ち構えているか静観している必要はある。
 しかしこのマスコミの巨大権力全てを否定すべきでもない。それはそれでうっちゃっておくくらいには在って欲しいものである。但し自殺サイト他の闇の犯罪サイトが猛攻を降るってLineが性犯罪等を誘引している現在では、リアルタイムでの発信が余りにも自由なので、必然的に同一策謀をする者同士を引き付けやすい。しかしその引き付けを誘引しているのはやはり一つは何でも報道していこうとするマスコミ言説だとも言い得る。その点では確かに個々の訝しい欲望を喚起する面ではマスコミは極めて大きな悪影響を及ぼしてもいる。しかし重要なことにはそれはやはり必要悪necessity evilでもあるのだ。
 つまり邪悪な欲望を実現させる様な犯罪を喚起する当のマスコミが、そうすることで、却って犯罪等が一切起きない(ある意味では北朝鮮では日本の様には邪悪な犯罪が起きることがないくらいに巨大単一権力<朝鮮人民軍と朝鮮労働党>に抑圧されている)という逆説的な性悪説的自然性に逆らった強権政治を未然に防止しているからである。
 その点では中山元防衛大臣の辞任劇の発端となった日教組が戦後の日本を駄目にした発言は正しかった。何故なら日本の国防その他の無秩序は安穏とした戦後民主主義の民主主義万能主義的イデオロギーとその曖昧な倫理正義感が生んだマスコミの政府や国家秩序全てをなし崩しにしても守るべき知る権利といった過剰な清廉主義でもあったからだ。そしてそれを促進したのが日教組であったことは確かな事実である。しかしその正しさを情感に任せて発言したその手続きの無さが墓穴を掘った。そして手続きということに関してのみ日本のマスコミは長けていた。だから逆に言えば強権的に何事かの政治に拠る変革を目指す場合には、このマスコミの持つ手続き的正当性は官僚組織の持つ手続きの煩雑さとして永田町文学と称せられる憂えるべき実態と同様忌避すべきことではある。しかしマスコミは同時に官僚の永田町文学を通した絶大な権力への批判機構としても存在している。その点ではマスコミの邪悪な欲望を持った犯罪者へ刺激材料となることと、この官僚の絶大なる惰性的と言ってもいい保守的縦割り行政的安定秩序維持の保身を打破する意味合いでの存在理由は併存させていていい、そういう風な形でうっちゃっておいていいとも言える。
 しかし現在では既にネット社会全体が記者クラブでもニコ動等を筆頭に徐々に発言権が巨大化してきているので、mass communication自体がネット社会の無かった時代にはあり得ない様な形で少しずつ変質してきている。その点ではネット社会の方が率先して邪悪な犯罪を誘引する起爆剤となってもいるとは言えるし、その悪質さを摘発するのが旧来型のマスコミの記者クラブ等の持っている社会正義的良心だとも言えよう。
 しかし恐らくかなり長期に渡って旧来型の反権力的意識の記者クラブを筆頭とするマスコミエリート達とネット社会的な発信力を主張する現在の五十代以下の起業家達との攻防は、新聞社や出版社とテレビ局対ポータルサイトビジネスワールドという形で継続されていくことだろう。そういった攻防が繰り広げられることに於いて恐らく徐々にこの二つの境界は限りなくファジーとなっていくに違いない。
 内実的には正しかった失言とは久間章生防衛大臣(当時)に拠る「原爆仕方ない」発言であろう。勿論それをああいったぶら下がりに於いて発言することは差し控えるべきであったが、実質的に日本人自身は原爆投下を阻止する手立ては当時なかったという意味では氏の発言は間違いではない。又原爆投下の人類倫理学的なモラル論的な歴史再考それ自体はアメリカ人自身のモラルに委任するしかない(昨今ではオリヴァー・ストーン監督来日と青年達との討論会でも示されていたことも記憶に新しいのであるが)ことであるが、トルーマン大統領に拠る原爆投下計画はマンハッタン計画としてかなり長期に渡って画策されてきていたのだし、それを可笑しいと日本人自身が言ってみたところで一切の歴史の変更は既に効かない。その意味では久間発言が仮に2014年の今、為されていたとしたら、それでも尚退陣は免れないにしてもオフレコ的なウィンクに拠って為された発言であったなら、ネット社会でその事実に対するマスコミ批判、マスコミ自体が政府に大臣退陣へと追い込み政府批判へと展開していただろう。
 と言うことはとどのつまり我々は指導者層とは時節を弁えたという倫理に拠って全ての言動がチェックさせられているということを知る。しかし逆に言えばこのことは時節さえ弁えていれば何をしてもいいということにも繋がるのだ。何故なら集団的自衛権等に関して憲法改正を世論調査で六割以上の国民が望んでいる(その世論調査自体もどのくらい国民全体の考えを反映しているか否かの裁定も又別に問題ではあるのだが)という現状では神の国発言で辞任へと追い込まれた森総理のあの発言さえ時節に拠っては効力さえ発揮し、そのことで国民の喝采こそ得て、決して辞任する必要などないということもあり得るからである。
 確かに時節を弁えることそれ自体が、言動自体がチェックされる指導者層の倫理としてではなく、敢えて損失を自らに招くことだけは避けたいという直観的な時代の読み、世相的な感性を一般市民は処世として研ぎ澄ませておく必要はあるかも知れない。しかし同時に世相に阿るだけで君子危うきに近寄らず的に生きていくことを潔しとしない感性が時には個人の良心という意味では必要な時代とか時期というものもあるかも知れない。しかし今の処即座に処世的な損失回避を解除させるべきであるかはもう少し政治、政局、経済状態全ての国内状況を鑑みる必要だけはあるかも知れない。 付記 特定秘密保護法施行以降のその弊害や実害が発生した場合旧来型マスコミだけでなくネット社会が大きなロールを担うだろうとは容易に想像される。

Sunday, April 1, 2012

〔羞恥と良心〕第二十六章 現代日本人の精神分析Part1 失言を<待ってました>とばかり揶揄し生贄を見物する現代日本人の逆差別構造

 ここ数年加速度的に日本人の中にある種の忍耐を失した態度が際立って表面化してきたと言える事の一つは明らかに失言をする政治家や官僚に対して即座に辞任せよと大騒ぎするという事だ。これは明らかに異常事態と言ってよい。そこにはあたかも生贄になる存在、つまりここでは失言者であるが、それをじっと待機していて、生贄が血祭りにあげられる事を楽しんで見物しているという野次馬心理が仄見えるのである。それは極めて精神的にも心理的にも悪質極まりない。
 それを助長しているものが戦後民主主義モラル的、もっと率直に言えば憲法九条死守的平和国家観、そして男女同権的教育機会均等的無個性主義であり、つまり一見個性を70年代の時代などでは標榜していながら、機会均等的なイデオロギーの下で却って無個性的な個性神話が跋扈してきてしまっている。それを後押ししてきた機関こそ日教組であり、NHKであり、大学教育機関では東大なのである。
 日本人は民族的にはある部分では極めて情感的であるものの、他方極めて合理主義的でもある。例えば多くの市民にとって政府とか政治家といった存在、人達とは普通の人達とは違い、完全にエリートであり、それはお上以外ではない、という観念で敬遠しているが、同時にだからこそそれは権力者達なのだから、一般民間人は批判する権利と自由があるのだ、という事から反権力的立場の人達全員は権力者達を引き摺り下ろすのは悪い事ではないという、そこに一切の反省的視点とか自己批判を介在させない非懐疑的信念である。
 だから昨今の政界での失言によって不信任決議案とか、即退陣を要求するという行動から我々は確かに一方では政治家自身が不用意な発言をしてしまうという倫理的欠如、モラルハザード的な失態が顕在化してきたとも言い得るも、他方それだけではなく、只単にそれら政治家達を見守る周囲の人達、直に政治家達と接する事が可能な人達全員が、本来ならオフレコの場面でさえ、そこで失言をした政治家や官僚の発言をリークすることは、社会道義上では悪いことではない、という悪びれもせぬある種の反権力的な非懐疑的無反省的な権利を絶対的に行使するという事、つまり政治という権力発動に纏わる責任の重大さの前で、それを指導する立場の人達は絶対に主観的意見とか感想を漏らしてはならないという過酷な要求を何とも思わない、権力者に対する許容範囲を極度に狭めていく忍耐力の欠如である。
 確かにここ数日日本では消費税率アップに関する決議で原則論主義者である小澤一郎氏や亀井静香氏などの反与党的スタンス、一方は連立離脱、他方はマニフェスト遵守によって失言問題は掻き消されている様に見えるが、実は同じことなのである。小澤氏や亀井氏による原則論自体が一つの時代と共に最初に立てた公約からずれていくことだって政治にはある(まさにつきものであり、それを理解出来ない者は実際の政治というものを理解していないという事に他ならない)ということへの無理解に於いて、一度公言したことは撤回出来ないという失言者への批判と同じレヴェルの無思考的な態度の取り方なのである。
 当然田中直樹防衛大臣に対する批判も自民党からは提出されているが、そもそも批判している自民党だって、田中氏が仮に防衛大臣を辞任しても尚政権中枢で役職を替えて鎮座し続けることを知っていて、時期的に失言を繰り返す大臣を罷免することに躍起になるポーズを取る事によって清廉さをアピールしようと画策する姑息な谷垣総裁の意図は国民には見え見えなのである。一川前防衛大臣さえ、今参議院幹事長職に留まっているのだ。そしてそうやって内閣の外野席に居てほとぼりが冷めたらまたぞろ閣僚として復帰することを待ち侘びているその事自体には自民党も一切目を瞑っている。
 要するに全てが猿芝居であると既に国民は気がついてる。否マスコミもジャーナリズムも全てそういったお膳立てされたゲームプレイをする事で生活を成り立たせている事を国民さえ白けて理解している。
 日本人は民族的にあらゆるお上のすることに対するノンシャランスを一方では保持し続けてきた民族である。それは江戸時代に顕著に体現されてきた。しかし明治以降徐々に近代化の波に晒され、欧州人と対等の社会秩序を持つに至って、お上とは不可侵のものではなくなってきた。勿論政治システム的には貴族院なども在ったし、女性には参政権さえなかった。しかしそれも戦後は因習的なこととして前近代的な遺物として参政権を得る事によって様々な身分差は改善されていき(そこには当然アメリカ進駐軍による占領政策というものが介在していたし、それを受け入れた日本政府の思惑もあったのだが)、次第に権力者である政治家や官僚達とは別個の独立した権力保持者としてマスコミ、マスメディア、ジャーナリズムが台頭してきたのである。
 しかしそれはかなり以前から日本には根付いたことであった。戦中も戦前も新聞からラジオ、そしてテレビと変遷してきた報道メディアではあるが、江戸時代的庶民性というものを隠れ蓑にしてきた、という意味では天皇制を形式的国家観の礎にしてきた明治期以降もずっと同じだったのである。
 勿論戦時中はそれらが軍部に積極的に協力さえしてきたが、戦後は政府それ自体へと徐々に批判、攻撃対象を移行させていった。その際に左翼的な思想が大きく日本文化人に浸透していったことは言うまでもない。勿論現今ではそういった思想は影を潜めているが、機関的なスタンスの中に脈打っている。それがNHKであり東大なのである。
 NHKの解説委員とは大半が左翼的倫理を礎に全報道スタンスを認識している。震災後で韓国やロシアから正確な原発事故情報を伝えなかった事を政府批判されている、と抜け抜けと報道するいう一事を取ってもそうである。本来その様な情報は被災地急務である復旧活動に従事する支援国、救助要請国にのみ伝えるべきことである、というのは国防的観点からも常識であるにも関わらず、国家による国民への情報統制的行為(戦時中に顕著であったマスコミぐるみの隠蔽体質)への批判という前提で全ての論説主旨が成り立っている、というところに問題がある。日本人は亡国へと誘引する発言をしてもいけないが、愛国的な対外的態度(その基本は全て正直に隣国と言えど、伝えるべきではないという事だ)を政府が画策しても尚批判を浴びるという奇妙な状況を戦後ずっと持続してきたのである。
 NHKの幹部、解説委員、日教組、東大等の職員達、彼らは一貫して反権力を指針として存在し続けてきた。それは端的に弱者とは強者に対してなら何を言っても許される、どんな手痛い痛烈なる批判もこき下ろしも、引き摺り下ろしも許されるという観念に頑丈に裏打ちされているのである。
 だから本来なら多少の公にしてはまずいが内々ではある程度許されると当事者達なら判断して然るべき発言でさえ許さないという不文律が出来上がってきてしまったのだ。しかし本音を一切言ってはいけない場から果たして伸び伸びとした気持ちで仕事など出来るだろうか?政府というものは端的に権力行使がいい意味で許されるべき場である(その事と菅前総理による采配への批判は又別である)。
 失言への見せしめ的非難の問題にもう一度戻ると、勿論幾つかの失言に対しては、それは公にされてしまった以上見過ごせないということは言い得る。しかし本当にそこ迄失言者は不用意な事を言ったのだろうか?大半は録画さえされていないことに対しても差し向けられている。或いは失言であるとされた部分だけピックアップされれば、確かに問題にせざるを得ない発言であっても、全体から見て、それが本当に問題として取り上げるべきであるかどうかは見解が分かれるところではないだろうか?或いはその部分に対してさえ然程問題化するに足るだけにしっかりとした根拠が一体存在するのだろうか、と思われる案件も多かった。
 そこで次回はここ十数年の間に起きた失言とそれに対する批判と退陣劇に就いて考えてみたい。

Friday, October 7, 2011

〔羞恥と良心〕第二十五章 思想と行動とは全く別のことである 日本人はそれを区別しない思考の仕方をする事が多い

 思想に於いてある他者へ憎しみを抱くという事があったり、言い換えれば殺してやりたいという気持ちを抱くことは別段悪いことではない、と私は考えている.しかし日本人はそういう気持ちを抱くことで実際にそういう行動を引き起こすのだから、普段からそう考えることはよくない、とそう考える人が多いと私は思う。
 しかしこれは可笑しい。普段から心底ある他者を憎むということが直接、例えばその者を殺すという行動を引き起こすとは私は思わない。殺人の様な行為を引き起こすものとは端的にその人の思想ではなく、突発的衝動である。これは自殺にも言える。自分を殺すことも普段からの思想によってではない。
 従って日頃から憎しみを抱く相手に直接手を下す事よりも、全くそういうこととは関係なく犯罪とは誘引されると私は考えている。

 内心まで倫理的で道徳的であれ、と考える精神論は日本人にとっては極めて集団や組織、国家への忠誠心を持つことが美徳であるとする考えからは合理的であると考えている人はかなり日本では多い。それは地方部へ行くほどそうである。
 しかし基本的に思想とは自由であり、行動のみ我々は社会や国家、組織や集団に於いて規制される、それが現実でそれ以上でも以下でもない、と考える。
 例えば人を恨むこととか憎しみの感情を抱くことそれ自体は恥ずかしいことなのだろうか?それは極自然な感情なのではないだろうか?一々然程親しくもない他者にそういったことを告げるということがないというだけのことである。そういう感情自体は自然であり、仕方ないことである。従ってそういった感情を全て心の内部から封殺しようとすると、却ってフラストレーションを心の奥底に沈殿させ鬱積させることとなろう。そちらの方が余程よくない。
 思想とは欲求であると言うなら、誰かを殺したい欲求を思想としているということは正しい。しかしそれは実現させるべきだということではない。実現させたらよくないと考えることも思想だとすれば、却って思想とは一枚岩的に全てが同じ方向に整列されてあるわけではない。そういった相互に規制し合い、或いはあるネガティヴな行動をしたいという感情を抑えるかと思えば、それを押さえつけ過ぎて我慢に我慢が溜まることがよくないと相手へのネガティヴな感情を表出させる方が得策だとも判断する。それはその様に一つに収斂され得ない形で様々な方向へと伸びる思念を同居させていて、その都度の外部から齎される(それは憎しみを持つその他者からだけでなく、自己を取り巻く全ての他者や社会環境からである)何らかのパワーに対する反応を自己行動として採用する為に内心で必要な非単純化された態度保留なのである。

 そうである。全ての感情は対外的には一定の態度保留以外ではいない様に静観しつつ取り澄ましている。それ以上のアクティヴな反応を示す必要性があるか否かはその都度判断している。その静観自体をも善悪の基準から言って惰性的な悪であると捉えなければいけないことはあるが、それは外部から自己に齎されるパワーの水準が静観を維持していくこと自体を解除すべきであると倫理的にも条件反射的にも判断した時のことである。勿論対外的な攻撃的態度や行動には自ずと限界があるし、程度問題であることは知っての上である。
 つまり思想とはそれ自体根源的な憎しみとか殺意にさえ近い願望自体が、それを実際に行動に移さずに維持されているという形でこそ理性の所在を示している。寧ろそういった憎しみ自体を平素から抱かぬ様にのみ心理的に訓練されていなければ危険だという思想は、却って理性の所在を信用していない考えである。
 ネガティヴな方向に深く刻み付けられた感情は、それを保持しつつ、その願望に抑制を利かさずにいたらまずいという理性的考え、或いは功利的考えを抱かしめる自己保身的感情と共存することでバランスが保たれている。それはそういうものとして冷厳と認知しておくべきことで、そういった憎しみを持たない様にすべきだ、という考え自体が、内心を訓育して上位者に対して謀反的態度を持たない様にすべきだという皮相な社会教条的習慣でしかない。
 だからこそ社会行動と思想とを必ず切り離して考えるべきなのである。思想は在り方は自由だが、行動に直結させる部分では自ずとどの成員に於いても制限せざるを得ないし、そうであるべきだ、と誰しも実は気づいているのである。
 この問いはしかしもっと何か具体的な形でもう一度取り上げて検証していく必要があるとだけは今言える。後日別章で取り扱おう。その時は今回述べたことを羞恥と良心からもう一度考えていく必要だけはある様に思われる。

Tuesday, May 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十四章 羞恥の正体Part2

 前回私は羞恥を言語習得に纏わる秘私的(私秘的)なことが想起される様な幼児体験的、言語的自我とでも呼べる自我発生論的なことから考えた。
 今回はそれを、では大人になってから喚起される羞恥とは一体どういう性格のものかということを考えてみよう。尤もそれは簡単に言えば幼児期的な記憶を誰しも持っていて、その頃から変わらぬ自分の中の恥部、例えば未だに克服されていない負い目なのであり、それはしばしば長生きをしている母親の前に出ると、いい中年男性でさえたじたじになってしまう様な意味での羞恥を他者に悟られたくはないという感情が喚起している。
 しかし羞恥を喚起される場面から中心に考えると、羞恥とは大人同士で親しくなればなるほど、その他者から自分自身のことを知られることに纏わる鬱陶しさ、心の負担からその他者から、或いはその他者との間の柵から解放されて自由になりたい、という心理によって支えられている。或いはその心理そのものであると言ってもいい。
 人間は他者から単純であるとなるべく悟られたくはない、思われたくはない。それは一面では極めて社会制度的なピア・レヴュー的な虚栄心にも起因している。要するに自らの価値を減じて見られることに近いと思えてしまうことから発している。
 だからこそ人間は他者との間に適度の距離を保ち、他者から適度に神秘的に見られることで人間内部の予想外の単純さをなるべく見抜かれたくはない。何故か?単純である。それは人間の心の内部などどの様な理性的人間であれ単純至極だからである。
 人間は単純であればこそ、その単純さを神秘化し、他者から神秘的(と言うことは実際より複雑に)見られることを望むのである。そしてその単純さを見透かされたくはない欲望こそ私達が羞恥と呼ぶものの正体なのである。
 勿論親しくなっていく相手との間では単純であると思われてもよい。それは虚栄心を持つ必要がない相手に対してなら、抱ける感情だ。しかしそれはその相手と対人関係が良好な内の話しである。いざ一度こじれてしまうと途端に、相手から軽く見られることに耐えられなくなってしまう。虚栄心が発生してしまうからだ。特に自分が孤立している状態の時には軽く見られることが耐えられない。逆にかなり人望を多くの他者から得てくると、相手に対する寛容さも持ちやすく、多少相手から侮られる態度を取られても相手を許すことが出来る。親しさ自体にも色々な種類があり、特に男性は男性社会的意味での年齢、階層、職業、収入その他による格差的な意味合いからそう単純に相手とどうすれば巧くいくということを決定することは出来ない。最初趣味で付き合った友人関係もどちらかが正業としていくに至って、正業としていくことを放棄した相手とは巧くいかなくなるということも大いにあり得る。つまり共通関心領域、共有される話題のずれが甚だしくなればなるほど単純であることを相互に認めることが厭になる。相手は今迄のままでもこちらではそうであって欲しくない。自分の方がずっと進化してきているのに、とそう思えてしまう。
 
 他者とは、とりわけ自己の実像をよく知る親しい他者による自己に関する認知量と認知内容の増大がある種の疎ましさ、鬱陶しさを喚起するとしたら、それは自己現実逃避願望に他ならない。つまり言語前的な内的な羞恥が他者から容易に知られることで齎される自己内の単純心理を読まれることへの恐怖であるなら、自己を最もよく知る他者は自己の現実、即ちやがて到来する死という現実自体への凝視からの逃避を誘発する恐怖対象に他ならない。
何故なら親しくしている間は楽しく心地よいので、深刻に死を眼差することはないから、逆に差し迫った時間の経済に於いて、哲学的生への問いは親しさの中で雲散霧消していってしまう。それは残された時間のことを考えると時間の浪費に繋がる。従って親しさとは節度ある距離から相手への配慮を剥ぎ取る残酷な一面もある、ということになる。
 我々にとって全ての社会的地位やあらゆる外部の装いは観念的形式的纏いでしかなく、それは言語前的な内発的な衝動(それは至って単純至極だ)の保有に対する隠蔽以外ではない。社会的地位や年齢差、階層差こそがそういった隠蔽、つまり羞恥喚起を予め用意周到に回避させるシステムとなっているのである。
 この現実凝視からの逃避願望こそが、我々に夢を見させ、あらゆる対外的な自己弁護、弁解の取り繕いたる形式踏襲的言語行為を誘引している。つまり言語前的内発的衝動こそが言語を対外的な内部衝動のカモフラージュの為のツールとして利用せしめるのだ。
 羞恥、つまり内部衝動を見透かされる恐怖こそが、私達に直にそれを触れられることを回避させつつ、相互にその了解の下での観念、つまり言語で纏おうとするのだ。
 羞恥とは他者から自己が神秘化されないことによって(距離が近づき過ぎることによって)得る、ある他者からの蔑みへの恐怖に他ならない。
 他者への神秘化、端的に一定の距離が近づいても他者を神秘化させるものとは人生経験以外ではない。それはある部分完全に不可知論であるし、それを実践させる人間修養は人生での挫折が他者愛を作ることからなされる。
 倫理とは(或いは慈愛の魁とは)近づき過ぎた距離にも拘らず失わない他者への神秘化、つまり分析哲学で言う現象的であること(哲学的私)の容認の切実化に他ならない。
 
 失望、とりわけ他者に対する失望は距離が近づき過ぎることで神秘性を失うことから生じる。
 もし羞恥が親しい他者からの衝動察知への恐怖が生むとしたら、それは血縁者に対する憎悪と非血縁者への支配欲求としての性格も併せ持っている。
 そして非血縁者への支配は実際の権力者から好意を持たれたり、関心を持たれたりすることなら或いは可能だと誰しも考えることにも繋がっている。長い者には巻かれろ的な心理がもしあるとすれば、それはそういう権力支配・被支配関係に自らを置くことによってその見返りとして自分なりの権力を保持することにある。そしてそういった人間関係に於いて我々は何処かでやはり自分の支配下にある者からも、自分を支配する者からも失望されたくはないという虚栄が羞恥によって喚起されているのである。
 

Tuesday, March 8, 2011

〔羞恥と良心〕第二十三章 予め用意されていること

 我々は生まれた時既に人類の間でミームとして定着していた言語体系に放り込まれる。つまりその既に用意されていた体系に必死に同化しようとする。
 それは幼児期に我々が確定的な仕方を、それぞれ個体毎に異なった経路からではあるかも知れないが、曲がりなりにも習得して、周囲とコミュニケーションを取ることが支障なく出来る迄になることを無意識の内に目指す。従って自閉症や言語障害なども、そういった一つの学習過程上での一つの様相である。
 さてそれはしかし大人になってある職業に就く時にも同じ様に待ち構えていることである。何故ならどんな職業でもその時代の使命とか、既に粗方決定されている、その職業が職業として成立する為の社会全体の中での役割が与えられ、それに準じた一つの業種毎のその時代なりの潮流があるからである。それはある方向を常に向いている。何かそういった旗が振られていたり、先端で指示したりしている様なことがない限り、一切の業務は成立し得ない。
 これは既に人類が誕生して以来、ある程度運命づけられている事態である。何故なら身体的な生物学的DNAが粗方決定されている様に、その脳内で考える内容も粗方決定されているとも言えるからだ。何か途轍もなく素晴らしいことを思いつく時我々は、それを自分の考えであると知るが、それはあくまで何時の時代にか、誰かが既に考えていたことでもある。それを知る過程そのものが、小学校から大学に行くまでの間の教育課程であり、就業してから今日迄の間に身につけてきた仕事の技術であり、理念であり、方法である。
 しかし予め自分が就業する時には形成されてしまっていて、その事実自体をどうすることも出来なさがあることは、一面ではその就業過程に於いて職場や職業に関わることで遭遇する社会環境自体の前提的な様相の前で就業者に固有の緊張を強いる。その強い方はそれぞれ職場や職種によっても違おう。しかしそこで何とか周囲の同僚との競争とか、協調、協力に於いて、それほど周囲の負担にはならない様に心がけるその構えには、内的な羞恥、つまりへまなことをして周囲から嘲笑を買わない様にしたい、という思いが巡っている。
 仕事上での使命に準じることで、我々は適度の競争と緊張によっていい成果を上げられる一方、その使命感に呪縛され緊張を持続する上で、相互に成員同士は周囲から「足手まとい」になりたくはないという気持を誰しも抱くが故に、予め相互に過度の負担を掛け合わない様にしようという智恵が働く。そういったことから組合も形成されてきたのだし、同僚間での親睦といった感情も生まれてきたのである。
 要は羞恥を相互に齎し合わぬ様にしたいという願望が、談合的な集団内様相を構成していくと考えられる。そしてそれもまた予め用意されたものの一つである。
 芸術家、学者、研究者、技術者などが同業者間で頻繁にパーティや懇親会をするのは、そういった相互に余りにも時代的潮流から外れていかない様に心がけたいという心理と、相互に異なった資質とか能力があること自体を確認し合い、相互に尊重し合う為に設けられた習慣である。それは一方では羞恥を相互に発動させ合わない様に工夫していると同時に、相互に些細なミステイクは大目に見てあげようという良心である。
 しかしそれが習慣的に定着して徹底化していってしまうと、例の大阪地検特捜部の書類改竄証拠隠滅事件とか、角界での八百長の様な事態を招聘するとも言えるのである。
 それは集団内部での協調的良心が過度に不文律化していってしまい、外部からの要請であるところの職業的使命よりも優先されていってしまう、就業者内での惰性的相互の心地よさへの追求の結果なのである。それはどの様な革新的な目的を帯びた集団であれ、組織であれ、法人であれ、必ず発生していく「予め用意されていること」自体が、円滑に業務を推進していく上で便利であるし、就業者にとって快適であるからなのだ。
 しかし就業者自身が快適に仕事が出来なければ、いい仕事は確かに出来ないが、その快適さの追求自体が職業的使命とか社会全体からの要請よりも優先していってしまうこと自体はモラルハザード以外のことではない。
 従ってある時には相互に羞恥を示し合う、つまりそういった心理に相互にならない様に図ることだけではなく、否もっと積極的にそういったこと、つまり暗黙の内に相互に批判し合わないという淀んだ空気を払拭して、要するに自由に批判し合うということ、変に上下関係とか対人的な恩によって齎される感情的配慮を無効化するくらいの徹底した集団内職業目的を純粋に追求する視点を常になくさない様にしていくべきなのである。そしてその様な円滑に集団内の対人関係的感情が維持されていくことだけに集団や組織が機能することを未然に防止する措置とか、チェック出来る体勢自体も、「予め用意されていること」に含めておくべきなのである。仕事上でのなあなあ関係ではない、要するに適度に相互にミステイクを大きくしない様に補正し合う機能を、対人関係的にも、仕事のプロセスに於いても、集団で相互に惰性的快適追求へと陥らすことのない様に計らうということが、実は最大の羞恥(それは集団全体の羞恥である)を未然に阻止する手立てなのである。
 そしてそれが意外と難しいのである。何故ならそういう風に巧く失敗なく業務が捗ることを目的として、「予め用意されていること」にする為の措置自体が惰性的機能に転化していってしまうことが多いからである。
 従って集団内では我々はこの措置自体を時々点検していく必要がある。つまり時々慣例的なこと全体を見直すということが求められているのである。そして「予め用意されていること」自体が完全固定化されていくこと自体を阻止する様にすること、少なくとも五年か六年に一回くらいは、全面的改正ということを行うということが求められていることなのである。

Tuesday, February 1, 2011

〔羞恥と良心〕第二十二章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part3

 前章で私は記憶と人格の問題に触れた。これは極めて重要な前提である。実際に自分のしたことを覚えていない場合には罪に問うこと自体が困難化する。仮に誰かを殺しても、その殺した記憶を失ってしまっている者を死刑にすることは倫理的には困難である。しかし巧妙に記憶喪失を装っているということは常に裁く側は考える。実際にそういう場合もあり得るからだ。だからこの問題はかなり厄介である。
 記憶は個人の所有である。そしてそれはかなり個的なことである。
 
 スーパーのレジの店員が女性で男性客に釣銭を渡す時、それを客が落とさない様に手を握らせる様に握ってくる(好意で)人がいる。同じことを男性店員が男性客にしても何の問題もない(何らかのゲイ的サインと受け取るかも知れない客以外では)が、同じことをもし女性客にしたら、或いはセクハラとして訴えられるかも知れない。迷惑条例違反に問われ得る。そこに奇妙なジェンダー的な歪さ(固有の差別意識、つまり女性に対する異様なる配慮)がある。そしてそれは日本ではかなり他の国よりも多いことではないだろうか?つまりそもそもそこまで客の為に心配りをするなどということは、よく聞くことであるがイギリスではあり得ないだろうし、アメリカでもそこまでではないだろう。
 しかし次の様な例ではどうだろう?
 スーパーのレジの店員に対して、その人が異性であった場合、しかもかなり美人であった様な場合(勿論そうではなくても)色々な想像をすることはあり得る。しかしそれは人には公言出来ない種類のものもあるだろう。しかし再び同じ店員がいるレジに向かうと、以前想像したことを思い出すということはあり得る。それは言語化し得ないものであっても、本人にとっては切実なことである。
 それはその想像を実行に移さない限り許されることである。少なくとも私はそう思う。つまりまさに記憶とは個的なことだからである。
 しかしそんな想像をすること自体をいけないことであるという倫理的考えの人も日本には多いだろう。何故なら日本は個人主義という考えが社会には根付いていないからだ。
 要するに日本は巨大な村なのだ。だから個人主義者、しかも徹底したそういう考えの人は絶対に出世出来ない。しかしその不文律にある種の息苦しさを感じ取っている人は実はかなり大勢いる。ツイッターをしているとそれを理解することが出来る。大半のツイートはそういった息苦しさ自体から出た呟きだからである。
 基本的に日本に都市構造というものが精神的に定着しているかと問われれば疑わしいとしか返答出来ない。
 確かに東京に行けば大きな銀行とか大きな役所に行けば、てきぱきと向こうから指示してくれる。そういう面だけ見れば都会とはそういう合理的な空間なのだ、とそう思える。
 しかしそういった職場の中に一歩従業員とか公務員とか行員とかとして入れば、そこでは極めて村社会的な精神構造を読み取ることは容易い。ブログ「トラフィック・モメント」の第五十三章でも書いたが、議員もマスコミも大局的な意見より、ずっと小規模な村社会的発想で物事を言う。これは議員(今では与党までもがであるが)がマスコミを意識しているということも出来るし、マスコミが議員の無策に影響されているとも言えるが、兎に角責任倫理的なことよりずっと心情倫理的なことを多く言う。最近の政治家では心情倫理より責任倫理を重んじたのは小泉純一郎という宰相だけだった(尤も彼の靖国参拝行為は少し違ったが)。
 日本では各職場では全体として和んでいる必要が各成員に求められる。これこそが村社会的だということである。ライヴァルがいてもいいし、仕事が終われば何も又別の居酒屋などに皆で繰り出す必要もない。その点で徹底的に友愛社会的である。しかしそれは決して都会風ではない。個々のケースでは都会風のバーで知らない人同士が声を交し合うことはあり得る。しかし少なくとも職場ではそうではない。
 これこそを制度的良心の日本型友愛主義と呼ばずして何と呼ぼう。そしてそれを成立させているものこそ、実は羞恥心があることが当然という心情倫理である。
 この国では勇気ある者を蔑む。皆の前で発言をすることを躊躇ない成員は出過ぎということになる。つまり慎みとは余り頻繁には意見を言わないということなのだ。それは公の場では少なくとも都会という空間は成立していない、つまり田舎芝居小屋での寄り合いと同じということを意味する。
 年配者、社会的上位者(その上位者はその場によって勿論異なる職務となるが)への配慮と集団全体の調和を常に取ろうとする。つまりある部分では葛藤とか意見の違いをそのままにするのではなく、巧く纏めようとする。そこで調停的な知性が異様に重んじられる空気が醸成される。そこからは永遠にユニークな意見は押し潰されていく。
 巧く穏便に全てを済まそうとする知性は日本人に固有のものではないだろうか?従って公職などで出世する人員はそういった知性の持ち主に限られている。だから逆に作家などの職種には勢い、そういった知性から程遠い人ばかりが寄せ集められる。そこに全ての職種に於けるワンパターンが構成されるのだ。だからこの社会には新陳代謝的なダイナミズム(それは年功的な意味合いではなく、資質論的なものとしての)が生まれないのである。全てがある程度先々まで読めてしまうということになる(まさに政治がそうである)。
 だから都市空間は確かに都市機能維持の面から言えば日本は他の国よりもずっと都会的ではある。しかしそれはあくまで飲食店などの店舗に於いては言えても、公共施設や役所、或いは民間企業のオフィス空間ではそうではない。つまり外見だけが都会的であり、内面つまり働く人達のメンタリティは村そのものなのだ。
 この点がこの国を極めて不可思議に矛盾した精神構造にしているし、又一方では奇妙な魅力ともなっている。
 確かにある会合でかなり場慣れした人はそうでない人に気を遣うべきではあろう。しかしもう既に何度も同じ会合に出席しているのに、一切ものを言わない人の方が、頻繁に意見する人よりも重宝がられるという側面はこの国では否定出来ない。それは会合自体の主催者の独裁的決裁をしやすくする為の巧妙な言い訳でしかない。大体に於いて何度も重ねて出席しているのに一切意見を言わない者は只の無能者である(意見を発言するという意味に於いてだけであるが)。その点でも機会平等の原理と発言の自由の原理がこの国では両立し難い。主体的であることは、公的である場合のみ許されるという雰囲気がこの国には支配的である。主体的であること自体が極めて個人的な色彩であることは、少なくとも日本ではクリエーションの世界以外では一切認められない(最近では東京都の条例で非実在青年という形で漫画やアニメの題材に於いて論議を醸したので、そうも言えなくなってきた)。
 要するに漫画やアニメ、ゲームソフトなどで過激な性表現が横行する背景には、実はものを容易には言えない空気を皆で美徳として作っているということが根底にはある。それが固有の日本人の羞恥である。本論文タイトルである「羞恥と良心」に於いて本章で初めて日本人に固有の羞恥に就いて私は触れている。第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる や第十五章 ツイッター上での人間関係論 に於いて私は現代社会固有の問題に就いて触れた。しかしそれは敢えて言えば何も日本に限ったことではないこととしてであった。しかし本章ではその禁を解こうと思う。何故ならこうして書いている自分自身がまぎれもなく日本国民だからである。
 端的に日本人が完全なるnationを生理的に嫌い、村落共同体を巨大化したものを尊ぶという社会性格的嗜好性とは、羞恥を美徳とするという暗黙の集団内秩序認識、そういった美徳に於いて人格形成してきたという集団論理に根差す。或いはそれは教育に於いてもそうである。従って日本ではインテリは概して温厚な性格でなければならず、エリートは一般人に対してジェントルであることが求められる。或いはそういったノブレス・オブリジは全ての先進国でそうかも知れない。しかし日本では極めて固有にそうなのである。
 それは集団内和気藹々体制への志向である。
 この点ではインテリ階級的な場ではそうとは限らない。しかし日本の集団、組織の大半はそういう性格のものではない。やはり決定的に凡庸な統括者の指揮の下で和やかに和気藹々に全てが対立など一切介在することなく進行していくということが大半ではないだろうか?
 要するにその辺がまさにかつての通産指導型的知性の民族なのである。護送船団方式は政治では批判されていても、精神構造には深く入り込んでいる。それは攻めと引きのタイミングとか、こういう時には発言をし、こういう時には黙っているべきであるという美徳から、その方法まである程度定型的に不文律化しているということをも意味する。
 今回述べたことが何故定着しているかということに対する根拠を歴史的、現実の実例をも考慮に入れて次回は考えてみたい。

Monday, January 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十一章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part2

 本章では内的良心と外在的にある個へ良心を責任倫理的に課すということの間の齟齬に就いて記憶の問題から、つまり記憶喪失者は果たして処罰し得るかという命題を、人格と刑法学的見地から考えてみたい。大仰な言い方をしたが、何のことはない、案外単純な論理である。
 思考実験として次の話をここで示す。
 ある中年の歌人がいるとしよう。彼は長い間別の職業をしてきた。そして本当には自分がしてみたいことと向いていることが短歌を創作することであると、ここ数年の間に覚醒して、人生上で方向転換をしようと試みてきた。その過程である同人と知遇を得る。それが二十歳そこそこの天才的歌人であったとしよう。彼はその天才歌人と交流を図る。そして二人とも同じ歌人の新人賞を狙っていたとしよう。ある日中年歌人は青年歌人と相互に自分達の作った短歌を披露し合う。場所は青年歌人に誘われて彼の一人暮らしの自宅であったとしよう。その時中年歌人は自分自身の短歌に絶対的自信があった。しかし僅かながら青年歌人の短歌の方が優れていると直観した。そしてその時の新人公募が彼にとって最後の世に出るチャンスだと思った中年歌人は衝動的に青年歌人を殺めてしまうとしよう。彼は咄嗟に青年歌人の頭を殴って殺してしまう。
 しかしそうしてしまってから酷く中年歌人は後悔の念に苛まれ、半ば精神錯乱的に青年歌人の自宅を出て彷徨い歩く。そうしている内に不覚にも彼は信号機のない横断歩道に迫っている車を確認せずに渡ろうとしていて、その車に轢かれてしまったとしよう。彼はその時その衝撃で衝突した時刻から丁度一週間の間の記憶を失ってしまったとしよう。
 彼はその時刻から一週間前迄は自分で殺した青年歌人へ良好な感情しかなかった。つまり彼は人生上で初めて出会った親友であると思っていたのである。一重に彼を青年歌人を殺害へと赴かせたのは、最終的に予想もしない凄い短歌を青年が作っていたことを相互の歌を披露し合った時のことであった。彼は既にその瞬間の記憶を全く喪失している。従って青年歌人の遺体が発見されて、警察の科捜研等の捜査によって立証されて捜査の手が伸び一週間の間の記憶を喪失した中年歌人が逮捕されてしまった時、手錠を嵌められた彼にとってその事態は青天の霹靂であった。何故なら一切彼はその時点では青年歌人を自分が殺したという記憶を持ち合わせていなかったし、尚且つ彼は一切青年歌人死去事実を記憶喪失して以来認知していず、まさに逮捕された時点で初めて親友(良好な感情しか持ち合わせていない状態で)が殺されたことをデカ達から知らされ、しかもその犯人が自分自身が失った一週間の記憶の時期の自分自身であると知らされ、二重の意味で彼は打ちひしがれる。さて刑法学的に彼は恐らく酷い打撃を脳に被ったが故に、その一週間の記憶を死ぬ迄取り戻せない可能性がある彼の人格に対して彼を物理的には犯人であるからと言って裁くことが可能だろうか?
 彼は紛れもなく自分で記憶を失っている間に自分が殺した青年歌人の死去事実に対して酷く落胆し、悲しんでいる。記憶を失ってしまった時点以降の彼にとって青年歌人の死去事実とは悲しい出来事なのである。彼は悲嘆に暮れている。人格とは記憶と現在の行為の総計であるとすれば、我々は記憶喪失者を罪状的に訴追することが倫理的に可能だろうか?
 私はそういう判例を知らない。ひょっとしたらあったのかも知れない。しかしその時点では精神医療的認識は未発達であったかも知れない。しかしその様なケースが今日起きた場合、我々は如何にその判例に向き合うべきだろうか?刑法学的に犯人を罰することが可能であるのは、少なくとも倫理的にはその犯罪事実に対して犯人としての認知を本人がしている、ということではないだろうか?
 さて貴方はこの判例に対してどの様な判決を下しますか?

Friday, October 22, 2010

〔羞恥と良心〕第二十章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part1

 人類に未だ国家がなかった時当然未だ貨幣経済が定着していたと言う事はないだろう(尤もバーター取引などはあった可能性は高いが)が、人が住む住居でない限り、農耕生活を営んでいたわけでもないだろうから、狩猟採集という形で、当然自然にあるものは只単に早い者獲りだっただろう。
 勿論先にある狩猟地を確保していた者が後から来た者を自己に追随させるということはあっただろうが、そういうことでない限り現在の様にどこかの自然が誰かの土地ということはなかったに違いない。少なくともそこに石が落ちていればそれを拾って自分のものにすることは基本的には自由だった筈だ。
 今日の社会では山を所有する人はいるだろうが、例えば石ころ一つ拾って自分のものにすることまで煩く取り締まることなどないだろうが、何らかの法的規制はあるだろう。まさか全ての木を切って勝手に持ち運んでいい筈はない。
 従って現代社会で生活するということは、人類にとって完全に自然のもの(木っ端とか石ころとか)以外では勝手にそこに置いてあるものを持って帰ってはまずいというのが常識である。
 しかし例えば貨幣が一つか二つ落ちていて、それが仮に一円とか五円、十円、百円というレヴェルだったら、それを拾って財布に入れるくらいのことは誰しも経験があるだろう。或いは千円紙幣くらいならそれを一々警察に届けるということを億劫でしないことの方が多いかも知れない。勿論交番の前で落ちていた千円冊を拾うのを躊躇するという心理は分からないではないが、たとえ千円でさえそれを拾って自分の財布に入れたことが発覚してその者を逮捕していたら、恐らく大半の日本人が逮捕されてしまうということになるのではないか?
 では幾らくらいの金額からなら、それを自分のものに勝手にすることがかなり良心の呵責に苛まれるものだろうか?(法的には勿論一円たりとも罪になり得るのだが、ここでは取り締まれるかということに対する考えとして)
 今の日本人の金銭感覚から言えば恐らく良心的な人で五千円、普通の人で一万円くらいが、それを持って交番に届ける下限ではないだろうか?
 勿論それは落ちている場所にも拠る。スーパーマーケットであるなら、落ちていた辺りで買い物をしていた人が落とした可能性は高いし、映画館なら鑑賞していた観客が落とした可能性は高い。しかし横断歩道や駅のホーム、駅のトイレに置き忘れてあったものを、自分で誰かが忘れるところを確認出来た場合以外で最初から置いてあったものということになると、確かに警察に届けることは義務でも落とした相手に届く可能性は低い。それでも勿論法的にも良心的にもそれはするべきではある。
 そこで今挙げた様な例に於いて幾らくらいなら勝手に自分のものにして、それを知人とか友人に告げてとやかく攻め立てられた時に「そんな大人げないことを言うなよ」と言い得て、逆にそう言われて白を切って「俺は拾ったものなんだから、俺のものだ」と言い張ることが犯罪めいていると自分自身でも思えるという境界設定とは一体何なのだろうか?
 つまり人間が社会的公衆道徳という規範に追随して生活しているということは、先ほどの例を発展させれば何処かの一般家屋の前に置かれてある自転車は確かにその家屋の住人のものである可能性、或いはそこに訪れている人のものである可能性が高いという意味で、我々はそれを「あっ、こんな所に自転車があった。これで駅まで行こう」などとは通常思わないということだ。それが常識で、それを逸脱すると非常識ということを言うこと自体が非常識にはならない。そしてその規準とは一体何なのだろうか?
 私は社会学者でも人類学者でも法学者でもないので、自分なりに判断していくしかないのであるが、例えばある地域のあるコミュニティーではその地域で生まれて育って死ぬまで過ごすということが大半の人の常識であれば、当然そこに移住してきた人というのは新参者として扱われるという不文律が形成されやすく、又そのことで後から来た者を排斥する様な空気でもない限り一応誰しもその地域に長く住んできた者の意見を尊重するということはあり得る。それは私の様に度々引っ越しをしてきた様な人間にとっては何度も味わってきたことである。
 しかし風が吹いてきて捨ててあった雑誌が自分の足元に転がってきたとして、その時一緒にその閉鎖的コミュニティーの長く住んできた人が隣にいて、それを私が仮に自分のものの様にしたとして、その時その先輩の住人が「私を差し置いて自分のものにするとは不届きな」などと言うことは通常現代社会ではありそうもない。
 勿論その風が吹いて飛んできたものにも拠るだろう。例えば仮に紙テープで一束に括られた百万円分の紙幣であったとしたなら、隣に人がいたならそれを自分の懐に仕舞いこむ者はいまい。しかし人が見ていなければかなり生活の苦しい者なら、それを猫糞するかも知れない。勿論その時彼(女)は内心では悪いことをしたという思いを後々味わっていくことだろう。これは誰かにとって必要な金だったのだ、ということを考えて、良心が疼く。
 人が隣にいてそれが決して出来ないというのは只単に羞恥である。それは恐らく人さえ見ていなければ一切警察に届けるということすらすまいと決め込んでいる者でさえ持っているだろう。それは端的に社会制度、つまり法的な拾得物に対する扱いということであり、それに対する規範逸脱を他者に知られることに対する羞恥である。
 しかし誰も見ていなくても仮に一万円でさえ、或いは千円でさえ交番に届けるという行為を決定させるものとは良心以外のものではないだろう。
 つまり我々はどこかで対外部的な行為や振舞いの体裁を取り繕うということと、そういうこととは無縁に自分の良心に忠実に行為しようという考えは全く違うことであり、前者には羞恥が介在しているということ自体が然程不思議ではないが、後者でそれをしないで自分のものにしてしまうということに対し羞恥を感じ取るということの間にはやはり歴然とした違いがあるのではないだろうか?
 これはある意味ではカント的命題でもある。
 前者の様に人が見ているから猫糞が出来ないというのは良心が介在していない。何故なら人から悪く思われたくはないという一点(対外的な振舞い所作的羞恥)で正しく振舞おうということだからだ。
 しかし後者の羞恥には内心の良心に於いて自然発生するものであるが故にカント的なのである。つまりここから理性というものが発生する根拠(或いはあり得べき理性とは何なのか)が問われ得るのだ。
 例えばもし先ほどの例の様に隣に長く自分が移り住んできた地域に住んできた人と共に歩いている時に風に吹かれて足元に飛んで転がり込んできた百万円をその先輩住人が「二人で山分けしよう」ということになった場合、それは間違っていると主張することは理性的である。しかしそれは当然正しい行為ではあるが、例えばその先輩住人に対してお世話になったとか負い目があるのなら多少は勇気が要る。そこで後からこの地域に移住してきた新入りであるとい手前適当に相手の言う通りに「そうしましょうか」と手打ちするという行為は最も悪しき俗人性による判断であり決断である。
 しかし昨今の証拠隠滅と改竄事件やら組織内での隠蔽体質を物語る多くの事例は全てこのケースに当て嵌まる。
 又もしその様に相手が共にいる場合だけ正義を貫こうとして、誰も見ていなければ黙って猫糞しようという目論みも当然あり得るが、それこそが最も卑怯な仕方であると言える。
 他人の前ではいいところを見せて、自分一人の時には平気でその他人に示した信念を裏切るということであるならいっそ、二人で山分けしようと提案された隣にいた先輩住人の誘いに乗る方がまだしも罪は軽い、と私は思う。勿論これは私の只単なる主観である。
 尤もそこら辺になると、罪とは組織的なことであれば許され、一人で遂行したのなら重いという議論へも直結するが故に混乱してはくる。その点で言えば恐らく一人でした罪の方がより制度的、社会的通念、或いは法的な意味では軽い。しかしそれではカント的な問掛けには答えたことにはならない。カント的な理性から考えればそちらの方がより重い、つまり良心を裏切ったことになるからだ。
 ここら辺になると、心情倫理的な正義(それはある部分では欧米社会では神に対する良心ということにもなるのだろうし、仮に欧米人的な意味では無神論者であっても、何らかの絶対的良心という問掛けではあり得る)を優先すべきか、それとも社会的正義、或いは公衆道徳的責任倫理を優先すべきか、という別種の問いへと発展する。
 ここで四つのケースを考えることが出来る。

① 隣に人がいるなら警察に届けるが一人でいる時には猫糞する
② 隣に人がいても共に山分けし、一人でいても猫糞する
③ 隣に人がいても一人でいる時にも警察に届ける
④ 隣に人がいても一人でいる時にも山分けするか一人で猫糞する

勿論これらのケースでは相手がどういう態度で臨むかによって変わってくるだろう。つまり相手が山分けする態度で臨むか、警察に届けようと主張するかによって、前者の場合には③では勇気が多少は要る(相手を窘めねばならないが故に)し、後者ならそうではない。
 又自分の足元に転がり込んできた場合を考えてきたが、隣に歩いている者の足元に転がり込んできた場合では相手から「山分けしよう」と言い出される可能性はより大きい。何故なら自分の足元に転がり込んできたのにも関わらず相手が「山分けしよう」と言い出すことは相手もかなりの悪であるし、厚かましさの極致であると言えるからだ。
 この思考実験では相手がいるとか、他者の目があるからということと、一人でいる事の間にある違いを無視してでも、正しいことは正しいと考えられるか否かという論点が問われている。
 この論点では絶対的善が問われているが、他人の前では正しく振舞わなければ恥ずかしいというのは相対的善的態度と言える。
 それに先ほどの組織内隠蔽体質とか集団犯罪と一人でする犯罪のどちらが重罪であるかという問いは法学的、社会学的問いである。その二つは前者では社会的影響力の有無を問うていないのに対して、後者ではそちらに重点を置いているという明確な違いがある。そして勿論そのいずれかが重要であるかということは言い切れるものではない。どちらも問いとしては充分価値あるものとして認識し得る。
 しかし先ほどの良心という問掛けとなれば、相手から悪いことを誘われればそれを跳ね除けるということで前者に、或いはそうでない限りは後者に大きく傾斜することとなる。何故なら良心とは内心の問題であり、責任とは又別箇の問掛けだからである。
 しかし羞恥というレヴェルに照準を合わせるとすると、確かにある意味では他人の前で正義を発揮することにも多少は付帯するし、又他人の前で自ら山分けしようと言い出したり、自らの良心を裏切って付和雷同したりして相手に合わせて山分けを承服することにも付帯する。この三つのケースでは明らかに最後のケースが良心に付帯する羞恥であり、欧米人なら多くが神に対する羞恥と呼ぶだろうし、前者であるなら羞恥的にも精神的には摩滅しているとも言える。
 この問いは重要な問いなので連続した何回かに分けて考えていってみたいので、今回はそろそろ終わりにするが、羞恥とは端的に対外的な素振り、振舞い、相手からどう見られているかということに纏わる装いの自然発生的、条件反射的態度の問題であり、内心をどこまで曝け出すべきかという対外的態度の取り方に対する社会的俗人的通念と自らの良心(余り相手に対して自己信念をひけらかすべきではない<それは日本人は欧米人より強いと言える>とか、相手を自己信念で縛ってはいけないとか、相手に対する信用度に応じて態度を使い分けるべきか否かという判断なども含む)との折り合いとか兼ね合いという問題が大きく関わりがあるとは言えよう。従ってこれ一つを問うにしてもかなり大きな問いなのであり、内的良心の命題とは別箇に外的良心の命題であると言える。
 そしてこの二つは容易に切り離して考えられない部分もあるのだ。そこら辺の問題を次回以降考えていってみよう。

Sunday, September 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十九章 人のことは分からない、それが羞恥の根源である/自分を追い詰める必要などない、何故なら人は自分のことしか考えていないからである/羞恥とは作られる 

 人のことは本質的に分からない、そうまず前提しおくこと、これが全ての理解の端緒である。何故なら人のことを容易に理解し得るのなら、そもそも我々に言語など必要なかったからである。
 私は前章に於いて「敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている」と言った。このことは極めて重要である。
 例えばスポーツ選手にとって最大の心得、長く競技を続ける秘訣とは何かと問われれば、多くの選手、アスリート達はこう返答するのではないだろうか?
 「負けた時余り落ち込まず、けろりと直ぐに立ち直ることが出来るということです。」と。
 いつも勝てると思わないところからスポーツは始まるのではないだろうか?
 これはあらゆる種類のビジネスマンにも言えることである。いつもいつもいい営業成績を取れると思わないこと、或いはいつもいつもいい顧客に恵まれると思わないことである。いつもいつもいい状態に自分がいなければ不安という状態そのものを棄てていく覚悟を持つことから全ては始まる。勿論いつもいつも最悪でも気にしないということとこれは同じではない。
 研究者はいつもいつもいい研究が出来て新しいいいアイデアが浮かぶと考えないこと、芸術家や文学者はいつもいつもいい作品が描けて(書けて)満足するということが普通であると考えるのを止めることから全ての問いがスタートする。
 だから当然他者一般のことも全て了解し得るのだ、という思い込みをまず棄てることから対人関係はスタートするし、全てを理解し合えるということをまず諦めるというところから全ての理解は始まるのだ。
 それは人生がいつもいつも楽しいということを諦めることから、あらゆる人生上での挫折に屈しない精神を養うということにも直結する。
 実はこの他人とは一体何を考えているか分からないということ自体が我々には羞恥があり、それを触れられると不快であるという当たり前の事実を示している。
 他人が何を考えているか分からないということは、向こうもまたこちらが何を考えているか分からないということを意味する。
 従って我々はこちらの考えていることを相手に伝えたい場合には相手もまたこちらに対してもそうであろう、と思い勝ちであるが、自分自身の胸に手を当ててよく考えてみると、自分が今考えていることを相手には余り知られたくはないと思うことは誰にだってあることであり、その場合には相手からこちらの考えていることを知りたいという態度を取られ、その相手の態度をこちら側が察知した時、相手に対して不快な印象を持つということもまた、誰しも経験していることではないか。つまりそこで相手にもまた羞恥があるということを我々は前提にして相手のことには必要以上には踏み込まない様にしているという事実を思い出すべきなのである。
 こちらが相手に踏み込まないでいれば大概は向こうもこちらへ踏み込んではこない。勿論時々例外はある。そういう場合にははっきりと相手に不快の意志を伝えればいいのだ。
 全ての世の中の理解は、全て理解し合えるということを前提としないこと、相手を理解することもそうだし、こちら側に対し向こう(相手)から完全な理解をして貰う様に相手に期待することも諦めることを前提とすべきなのだ。そういう風にまずこちらから前提しておけば向こうもまたそういうこちらの態度を通常読み取るものである。
 その様な前提をまず設定しておき、それを普通の状態であるとすることによって、相手は相手のことだけを考え、自分もまた自分のことだけを考える様にすることによって、相手は相手の責任だけを負い、自分もまた自分だけの責任を負うということに慣れていく様になるのだ。
 全ての挫折とは相手の責任をも自分が負おうとすること、或いは相手の存在の不在を必要以上に大きく捉え過ぎ、自分の存在を認可してくれる相手の存在に甘える様になることに起因する。甘えに慣れることが、甘えが実現しないことを挫折と捉える様に我々を仕向ける。と言うことは挫折を極力緩衝させる最大の方法とは甘えという心理が必ず挫折するということ、つまり甘えなどはそう容易には実現しないのだ、ということを常に念頭に置いておくことなのだ。
 それは孤独という感情を、相手不在であるが故に自己存在の認可者不在であると容易に思い込まない様に、相手という存在を全く期待しないでいることに慣れることで克服することを意味する。孤独を楽しむ心の余裕を持て、ということである。
 自分の能力を最大限に常に引き出せる様に思い込むのは、そうすることで少なくともその能力の行使が他人をも巻き込むことであるなら、自分自身によって相手を容易に変えられる(よくも悪くも)、或いはそうすることで相手から感謝されたり尊敬されたりすることを容易に期待することである。その期待に叶わない時に通常我々は挫折感を味わう。そもそも最初から期待していなかったことに挫折するということなどない。
 従って所詮他人は他人本人である自分のことしか考えてなどいないのだ、又それしか出来ないのであり、こちらのことまで期待などしていないのだ、とまず考えておくことが極めて重要であるということになる。
 要するに自分を追い詰める最大の要因とは、自分自身の中での他者一般への期待が大き過ぎることで、その他者から自分へ齎される恩恵を必要以上に肥大化させることによって、相手からこちら側への余りいい待遇をしないことに対する挫折感を大きくすることと、相手から感謝されたり尊敬されたりすることを普通だと思ってしまい、相手から見たこちら側の存在理由を大きく見積もることで相手から挿げない態度を取られた時に挫折感を味わうということと同じなのである。
 相手から期待されること、他者から待ち望まれることを普通の状態として心に持ち過ぎることが、自分自身が相手、他者に対し最大の貢献が出来ないでしまっていることに対し、自分の力不足であると深刻に思い悩む様に仕向けるのだ。
 所詮一定程度こちらも相手に対し礼節とするべきことをしておれば、後は多少こちらが至らなくても向こうは大して大きな幻滅を味わうことも失望することもないのである。
 もしこちらが相手に対し一定程度以上に礼節を保ち、努力して相手に尽くしたのに相手から何とも思われない時には相手に非があることもある故、当然のことながら自分の至らなさを追及して追い詰める必要など更々ない。
 羞恥とは相手に対してこちら側に齎されることを必要以上に期待し過ぎることで、相手を最大限に信頼し過ぎることから作られる。つまり、羞恥とはあるものである、というより、そういうものを発動させてしまう様にこちらから常に作られるのだ。羞恥とは我々自身が作ってしまうものである。それは端的に相手がこちらに期待しないのと同じ様にこちらも相手に期待せず、必要以上の負荷をかけないでおくことで避けられることである。
 その根拠とは端的に相手とは自分ではないということに尽きる。相手は自分にはなれないし、自分もまた相手にはなれない。だからこそ相手に対して期待しないこと、期待して相手のこちら側への出方自体に甘えてしまわない様にすることは大事なのだ。つまりそうすることで相手もこちらに期待し過ぎない様になるから、我々は大きな失敗でない限り相手から多少の過ちを看過して貰える様になるのだ。厭そう意識的にしていくべきなのである。
 本章の結論の様なことを述べるとすれば、相手に期待し過ぎて負荷をかけ過ぎることが、相手に羞恥を齎し、又それが引いては自分自身を追い込むという状態を作る。従って相互に期待過多でない状態をこそ常に自然である様にしておくことこそが、あらゆる必要以上の挫折を味わわずに済むということに他ならない。
 我々は他者の心に羞恥を呼び起こさない様に期待し過ぎず相手に精神的負荷を与えない限りで、自己を相手からも他者一般からも期待され過ぎない状態を常とすることによって自己の至らなさを必要以上に責めない自分を形作ることが出来るのである。
 相手を知りた過ぎることによって相手に羞恥を呼び起こすということが相手に期待し過ぎるということに他ならない。相手に期待しなければ相手もこちらに期待しない。そうすれば私達は相手に対し羞恥を感じることなくいられることが出来る。<注、相手とは世界そのものであることにも注意して頂きたい。世界とは社会から構成され、社会とは全ての自己にとっての相手、つまり他者によって構成されている。>

Saturday, September 18, 2010

〔羞恥と良心〕第十八章 ゼロサムゲームの興奮をどこかで望んでいる現代人

 経済社会では情報に対する希求がどこかで偶像的願望によって支えられている。それはより景気低迷期に顕著である。情報自体が既にある種のガセネタとかあらゆる種類の流言飛語と正式のデータとの違いが曖昧化している。特に株の遣り取り自体には、期待値というものが常に念頭にあり、消費行動を個人が決定する要因にある様な誘引作用と同じ様に、魅力的な市場、魅力的な株といったこと自体が既に集団内部で、国家規模であれ、同一業界規模であれ、会社規模であれ、その判定をピアプレッシャー的により他者を出し抜くということ、我さきに有効な情報を摂取しようという貪欲さ自体に翻弄され、次第にその有効な情報を誰よりも早く摂取するという手段の方が安全な株を買うという行為よりも目的化してしまい、デートレーダーの様な存在に象徴される様な、ゼロサムゲームを招聘してしまっている。
 マスコミもまたそういった市場や経済社会全体の動向を敏感に察知して、必ずしも有効な情報ばかりを報道するわけではなく、意外と多く流言飛語的情報に惑わされている。それはどの報道をトッププライオリティにしているかという選別と、決定に於いて極めて視聴率獲得とか購買数獲得の為に敢えて受けるニュースを発信するという本末転倒が起きているのである。
 ある部分では情報が期待と言うよりは欲望によって統制されている、と言った方がいいかも知れない。
 又そういった恣意的にショックを与えるビッグニュースを報じたいというマスコミ全体の欲求が、やらせを時に捏造させたり、より顕著にワイドショーネタ的な品格の片鱗もないこれ見よがしな視聴者の好奇を誘うものが余り多くなると、要するにマスコミ全体が国民を愚弄しているのだ、ということをまざまざと見せ付けられる。
 個人投資家はある意味では確かに誰よりも先んじて有効且つ信頼出来る情報をプロ筋から摂取することが死活問題である。しかしそれは一部だけがしているのではなく、全ての人達がしていることなのだ。すると当然ガセネタも多く混入することとなるし、仮にツイッターやブログを利用してもそれが混入する可能性は益々多くなる。
 しかしだからと言って現代人はそれらの便利なメディアを廃止してしまえ、とは思わない。それどころか加速度的にそういった利便性のあるメディアは増殖しつつある。すると我々現代人はそういったガセネタに踊らされる実害を被る被害者、まるでライブドアの株を膨大に買い占めていた株主が大損をする様な姿を「ざまあ見ろ」とでも野次馬根性で嘲りたいが為にそういった株式の遣り取りに参加しているという個人投資家も多いに違いない。つまりサディスティックな覗き趣味が潜在的には現代人にあるのではないだろうか?
 かつてあった五大新聞の信憑性とは、昨今では殆どスポーツ新聞や週刊誌とそう変わりないものとなっている。予想も大幅に外れることは多いし、だからこそこれからはインターネット、ブログ、ツイッターの時代であると仮に言ってみたところで、所詮それらも多くガセネタに占領されている。2ちゃんねる も大分社会問題化してきている。
 現代社会を生き抜くことの大きな一つの智恵とは既に何らかの形で外国であるなら戦争やテロの動画を容易にツイッターなどを通して観られると言う事、或いはそういった対岸の火事に対する物見遊山的な意味でのスリルを味わうことなのだ。それは恐らく戦時中からあったに違いない。何故なら戦争さえそれによって生命を失われずに助かる者にとって、そしてそれによって親族や家族を失わない者にとってスリルのあることだからである。
 戦争がないのであるなら、いっそその代わりに株式市場での失墜者と成り上がり者の興亡を外見的に見物するというスタンスが潜在的に我々の心に巣食っていたとしても不思議ではない。
 アクション映画よりも実際の世界経済の動向の方がずっとスリルがある、実際のサッカーの試合を見物するのと同じ気分で政治ゲームの興亡を見守る。全てが現実の虚構化ということなのである。現実を作り物の様に観察する、否そうとしか見ることが出来ないという心理こそが平素の我々にとっての自然なのだ。
 株式市場ゲームは、政治ゲームやスポーツのゲームと同じ様に興奮を誘うものである。そこにギャンブル的に参加する者に、参加者としての緊張感を与え、それが巧く行っている間は愉悦を感じ、いよいよやばくなってくると、心拍数が早くなり、次第に失墜する自己を想念する様になる。逃亡している犯罪者がいよいよ警察にお縄になる瞬間が近づいていることを自覚している様な気分である。
 従って敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている。いつ性病を移されるか分からないということで却って性的快楽に埋没している性行為依存症の様なものである。
 ネット中毒、ネトゲ廃人も同じ様な心理的傾向にあると言える。ある部分では現代人は露出狂的な自己顕示欲病患者であるとさえ言える。そうでなければツイッターで本音を吐露することの精神的傾向が平均化した現代人の像であることの説明も尽かない。
 勿論ツイッターをしているのは全ての市民ではない。しかし多かれ少なかれ現代人にそういった内心心情吐露的露出狂的要素があるからこそ、そういったメディアがどんどん作り出されるのである。
 やがて景気も少しずつではあるが、回復していく兆しも見えてくるだろうが、そうなっていった時再び景気後退へと加速する様な愚を繰り返さない様な心得を今から持っておく必要はあるだろうが、もう一度加速化する規制緩和の中で刹那的な興亡の行く末を見守りたいという欲望が全部消滅しきってしまっている訳ではないのだ。否寧ろ沸々とそういった欲望は潜在的に温存され、発酵されてさえいるのである。
 それは第一次産業的な生産に携わる人達よりずっと情報産業に携わる人達の方が多いという現代に顕著な特徴である。そして又ゼロサムゲームで誰が生き残り、誰が没落するかということを虎視眈々と観察してやろう、と世界中の人達がパソコンの前に座って注視している。

Monday, August 30, 2010

〔羞恥と良心〕第十七章 エリートとは一体何か?

 一般的にエリートと称される人達は国家とか大きな法人からかなりいい給料を貰っているので、日本では(恐らくアメリカでは本当のエリートは一般庶民などと同じレストランで食事などしないだろうけれど)余り横柄な態度を取らず、寧ろ一般庶民に対して自分達ばかりいい待遇をして貰って悪いという態度を示す事が多く、そういう謙った、要するに余り偉い人間ではないという謙虚さを示す度合いに応じて、エリートである可能性は高く、尤も大して凄い知性も優秀さも持ち合わせていず、それでいて謙った知性的態度を示すことだけは長けているそういう人が日本にも全くいないとも限らないので、その辺りの識別はそれこそ、あることに就いて自分自身がどれくらいの知性を持っているかということに最終的には依存していくので、全く何に対してもそれほどの知識も何もない人が仮に相手が本当のエリートかどうかを見抜く為のハウツー的な本を仮に書いたとしても尚、それはあくまで一つの目安にしか過ぎないということになるとは言える。
 私自身は全くエリート街道とは無縁の人生を送ってきたので、自分自身の周囲にどれくらいのエリートが(実は凄い人なのに爪を隠している様なタイプの人という意味で)いるかなど見当もつかないのだが、それ相応のエリートと言っていい人達とも多少なりとも知遇を得てもきたが、要するにもしエリートとは何かという定義を敢えてここで示すとしたら、それは敢えてリスキーな川及び橋を渡らない、安全且つ安定した道があるのなら敢えてそれに逆らわず、それを選ぶ、一応全ての自分より年配者の言うことは聴いておこうという態度を示せる、即座に全てを判断せず考える余裕を与えて欲しいという態度をどんな請求に対しても示せる、それでいて緊急の時にはそれなりに一般の誰よりも有効な手立てを考えそれを履行するか進言することが出来る、などの条件を全て兼ね備えているのなら、それをエリートと呼んでいいだろう。
 尤もそれはインテリとは少し違う。勿論インテリ且つエリートである場合も決して少なくはないものの、インテリではあるがエリートではない人も大勢いるし、あることに凄く秀でていることと違い、今述べた様な対人関係的に緊急の時の対処的知性に優れた要員とはそう多くいるわけではない。
 エリートではあるがインテリではない人もいるだろう。インテリとは端的によく本を読み、教養があるということに他ならず、そのこととエリート的条件は別箇であるし、エリートでもユーモアのある者もいるが、余りユーモアのない人もいる。只エリートで余りユーモアがないと心得ている人にはそれに何か代わり得る貴重な態度を示す事ができて、それが結局ユーモアであると受け取られることも多いかも知れない。
 インテリでユーモアのない人も大勢いるし、インテリでユーモアもありながら、緊急の時には誰よりもおたおたする様なタイプの、ある部分では間抜けなところさえある人も大勢いる。
 さて中生代に闊歩していた多くの恐竜は歯が鋭く強靭で、大きく分けてT字型で闊歩するタイプの二足歩行者と、Π字型で闊歩する四足歩行者とがあったらしい。
 面白いことにその両者とも肉食恐竜も草食恐竜も歯は尖っていて、それはどちらも強靭な咀嚼力が必要だからだが、又脚が極めて強靭な筋肉を持っていて、要するに走ることに長けていた。それは捕食者(predator)として獲物を狙いをつけて迅速に駆けて行き仕留める為であるし、その進化の軍拡競争に於いて被捕食者として逃走する為である。
 それはかなり目的的進化の産物だったことだろう。つまり脚力とそれを迅速に利用する為の反射神経に多大な進化のエネルギーを取られ、まさに生存していく為の条件自体がそれだけでかなりのパーセンテージを占めていたので、脳自体のそれ以外の部位の進化はその事実によるトレードオフで大したものではなかったと言えるだろう。
 その点同じ獲物を狙う敵対者や捕食者から生存を脅かされない様にする為に聴覚神経を発達させていた哺乳類にとって聴覚的進化が脳に齎したものは論理思考力だったと言える。それは只闇雲に獲物に突進したり、撃墜して噛み付くという様なエネルギーの代わりに、容易に獲物を捕獲出来ない時期やそういう機会に於いて別種の食料になり得るものを模索する様な知性を進化させてきたのである。
 要するに目的が一元化され特化されている場合、又そのことだけで生存が図れるのであれば、脳自体が突進し撃墜する為に要されるエネルギーと技能を進化させること以外に費やされる必要がなかったというのが恐竜の立場であれば、その逆に突進したり対抗馬と撃墜し合うことに於いては劣ってはいたものの、逃げて隠れたり、隠れている時に本格的食料以外の食べられるものを見つける知性を発展させた哺乳類はメキシコユカタン半島沖に隕石が衝突した際に、非常時を生延びることが出来たわけだ。
 それは知性そのものが特殊目的、しかも生存を最も大きく保証するものに特化していないという脳進化の条件によってだったと考えられる。
 つまり単一の目的に最適に特化した選択肢は、それ以外の選択肢への模索という知性を要求しなくて済んだが為に、ある部分では愚鈍なままに環境の一時的激変に耐えられなかったということが言える。それが恐竜が滅んだ理由であり、もし彼等の身体が巨大であっても、何らかの知性を同時に兼ね備えていたのなら、生延びた可能性もゼロではないだろう。
 要するにエリートとはある環境に特化し過ぎていないということがある部分では進化論的には求められているのである。つまり一つの環境に特化し過ぎていることは、かなりその同一の条件下に於いてはエリートとして君臨しやすい。しかしそれは現代世界経済社会に於いてなどに散見される様に、フレクシブルな対応を求められる激変的タームに於いては特化され過ぎていないということが精神的にも技能的にも求められている。
 勿論英語は重要だし、それが完璧であるなら、それだけで食べていけるとは言えるが、英語以外の語学に全く関心がなかったり、それを習得する意欲も能力も全くなかったりするよりは、いつ何時別の言語が自分が属する社会、共同体、国家で重要度が増すとも知れぬ場合には、英語+もう一つ別の言語への関心と情熱がある人の生活を救ってくれるということは大いにあり得る。
 エリートは時代毎に地球進化論の歴史に於いてそうであった様にその条件を変えてきている。それは職業に於いてもそうである。
 例えば大型コンピューターから小型化してきた時代の波でハードからソフトへと重要度が推移してきた歴史的経緯の中で、これからはハードもソフトもある時期が来たら、かなり安定してきて(需要的意味合いからも技術力的な意味合いからも)、不動点を模索し始め、今度はユーザーの天才が登場し、如何に既存の有益なメディアやツールやソフトを使いこなすかという局面に需要度がシフトしていっているものと思われる。
 事実未だに情報摂取と、情報提供と、創造的アイデアの提供に於けるスピードがより求められている時代であることだけは確かである。
 最早大学教授とか官僚であるとか、昔、常套的だった様な絵に描いた様なエリート像は有効ではなく、アウト・オブ・デイトであり、見てくれとか知識量とかイメージでエリートを推し量る時代そのものが終焉した、と言ってよい。
 尤も見てくれとか服装とか物腰よりも、これからの真のエリートはある種の好奇心、何事も既成の概念に囚われないでいて、しかも多様な関心領域へとアンテナを張って、又それでいてのんびりと何事にも対応していて、且つ仕事が速いということが条件となっていくのではないだろうか?それでも尚傲慢で人の言うことを聴かないタイプの成員ではないということだけは変わりないまま引き継がれて行く気だけは、あくまで私の直観ではあるがあるのである。
 それに未来のエリートとは厳密な意味で常に優秀である必要さえないかも知れない。適度に余り失敗のない様に全てをこなすのであれば、逆にある部分無知な部分が多くてさえ勤まる。つまり緊急の事態への対処(ある種の硬化した頭のインテリには不向きな)能力こそが求められているのではないだろうか?
 それは走ることに特化して獲物に撃墜して咀嚼していた恐竜が顎も頭も進行方向に尖っていた形状から逸脱していった形状の、つまり大脳を格納するのに相応しい形状になっていった我々の祖先の様なタイプの恐竜がもしいたのなら(その中でも羽を特化させた鳥類だけは例外的に隕石衝突後も生き残った)哺乳類との間で強力なるライヴァル関係を築き上げたであろう様なタイプの人類の危機に対処し得る様なタイプの知性(それは前世紀までに求められた天才性とは異なったタイプの)が求められているのではないだろうか?
 未来のエリートになり得る条件を満たしている者は全てに挫折してきた今の貴方かも知れない。

Monday, July 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十六章 親近的盲目と憧れ

 私達は案外自分では自分のことをよく分かっていない部分がある。それは人から言われて気がつくこともあるが、自分でも実は薄々分かっているのだ。案外自分自身で目を瞑って自分の実に対して見まいとしている、ということを。が目を塞いできた時期が長ければ長いほどその目を塞ぐことを決め込んだ事自体を忘却していってしまうものなのだ。
 自分ではよく知っている積もりの多くの事柄に対して、実は我々は案外何も知らないままでいることもあるのかも知れない。その知らないままでいる事自体が、一番自分でよく知っている部分である、という矛盾がある事も多い訳だ。
 例えばそれを実感させる顕著なこととは、親近的ではあるが自分とは全く異なったタイプであると勝手に思い込んでいるタイプの対象に対し、ある時意外と自分と相似した要素を発見する時などである。今の今まで勝手に全く自分とはかけ離れた対象であると思い込んでいたものの、その発見を通して意外と自分の中にそのものやこととの共通性を見出すことも珍しくはない。
 逆に自分とは無縁で、親近関係にもない対象に対しては、勝手に偶像化してしまい、憧れを持つことは多い。それは盲目の信頼となって一切のそのことへの反省を寄せ付けないようになっていくことも多い。
 逆に最初に述べた様な自分に近い自分と相似性を多く持つものやこととは、端的に近過ぎることで、案外そのものやことと自分自身との共通性に対しては目を塞ぎがちである。
 それに対し親近的ではない対象に対し我々は容易に自分との共通性を見出せるものである。しかしそれは長く付きあってみると誤解である場合も多い。存外そのものやことがかなり容易に理解することが困難である要素を次第に発見していくのである。
 確かに憧れの対象と化すことがあるわけだからそのものやことは魅力を湛えているのだろう。がその魅力自体は惹き付けられることとは裏腹に理解しやすいものとは限らない。
 それに対し自分ではよく知っているにもかかわらず自分とは明らかに違うと決め込んでいるものやことに対し我々は実は案外その共通性に眼を塞いでいることを今更ながらに覚醒することがある。そういう時には唖然とするものだ。だがそうだと気付けば意外とその後の対応はしやすい。
 要するに自分とは全く異なったタイプであると勝手に決め込んでいるものやことに対し、それらと自分自身との意外な共通性という要素はかなり羞恥を我々に催すものである場合が多いかも知れない。つまりその羞恥を催す要素こそが実は我々にそのものやことの実を見まいと無意識に構えさせてきたのである。
 それに対し自分では惹き付けられてきたが故に他者にもその理由を説明しやすいと踏んできたものやことの中には、案外それが困難であることを気付いていくものやことも多い。それは勝手に理解しやすいものやこととして判断してきたに過ぎないものやことなのかも知れない。
 ここでも我々は自分で自分自身の実を見まいとする羞恥感情がかなり我々自身を支配していることを知るのである。特に普段から頻繁に接している他者とか愛着のある事物や行為全体は、慣れているが故にその実に対し客観的に観れなくなっているということも大いにあり得るのだ。よく知っている積もりのものやことに対し今更ながらに冷徹な視線を注ぐこと自体が羞恥的感情を喚起する。しかし意外と慣れきってしまっているものやことに対し我々は時として意識的にそういった眼差しを注ぐ必要性がある。
 そうする事で実際にはかなり遠い存在であるのに惹き付けられてきたものやこと(それを最初は知っていたつもりでも、そのものやことに惹かれていく内にその事を忘れ去ってしまっていた)に対し、冷静に観察すると、かなり異質な部分を発見していくに連れ我々は近親的なものやことの価値を再考する気持ちへとシフトしていくことも決して珍しくはない。
 よく接するものやことに対し我々はどこかでいつでもじっくりと観察出来るのだからということで、ぞんざいに接してしまいがちである。故にこそ一番自分と近い部分や要素に対し我々はそれこそ自分と最もかけ離れた部分であり要素であると決め込んでしまうのだ。
 これは陥穽である。我々は親近的盲目という事態に対してもっと覚醒的であるべきなのだ。
 我々は卑近で親近的なものやことに対してその価値認識を怠っている贖罪心理が実は疎遠ではあるが、惹き付けられる他者や習慣、行為に対し一時的に魅力を持ってしまうという部分もあるのだ。そしてある時それが意外と自分自身の資質や感性とかけ離れている対象であると気付くのだ。
 しかしどちらが本当に親近的関係のものやことで、どちらが本当は疎遠であるべき筋合いのものやことであるかという判断自体が相対的であり得るという判断も同時に成立し得よう。しかしそこはある程度直観的に判断していってよいし、そうすべきことも多いのではないだろうか?
 人間は可能無限的存在ではあるが、実は極めて限定的にしか可能性など開かれていないとも言い得るのだ。自分が勝手知った経験的項目とそうではないものやこととの差異とは一番自分がよく知っているとも言える。
 憧れとはある部分では逃避的対象であるとも言える。つまり卑近で親近的存在に対する価値評定とか直視を回避する為に暫定的にその都度必要とするものとして憧れという感情は利用される。自分が勝手知った存在とは却って直視を避けたくなる羞恥を催す対象であることだけは確かだ。その直視を避けさせるいい方便として憧れの対象を我々は探し出すというわけだ。
 自分で最も遠いものであり、理解し難いものであると決め込んでいてその事自体に露ほども疑いを持たないものやことこそ、実は再考の余地はあり、案外自分自身の一番よく知った内実を具えたものやことである可能性とはそれ自体常に羞恥的感情を喚起させやすいものである。そのことと憧れの対象を模索していってしまうという心的傾向とは実は相補的に裏腹の関係にあると言えるだろう。その相関性に対する認識さえ忘れずにいたのなら、我々は親近的盲目自体が逃避感情を正当化する偶像を追い求めさせるという我々の心理の傾向に覚醒していくことが出来る。
 事実はもっと単純であるという謂いもここでは意外と役に立つ、と言える。

Wednesday, July 7, 2010

〔羞恥と良心〕第十五章 ツイッター上での人間関係論

 現代人にとってブログの登場は誰しも自由に自分の意見を掲載することが出来るという意味で画期的だったが、ブログとはそもそも余り大勢の人達の目に触れられる可能性は最初から想定に入れていない。
 その点ツイッターは全く別である。そもそも好きな人だけ訪れてくれればいいという開き直りとは異なったタイプのメディアとしてツイッターはある意味では現代人の心理をよく突いてスタートした。
 つまり個々は孤独であり、一人で行動しているという様相が濃厚にある現代人にとって携帯電話の存在が都会人的であると田舎的感覚の人間であるとに関わらず個的な空間で言葉を発することが如何に我々にとって本来的に楽であるかということをその登場の後で知った。そしてまさにツイッターはその携帯電話とタイアップして存在している。
 しかもツイッターではフォロワー数を競い合うという規則的呪縛のない暗黙の心理的ルールがある。そしてフォロワーの人数だけでなく、フォロワーの参加理由や参加根拠と、フォロワー自体の人間的性格、つまりどういう目的でツイッターを利用するのかという考えを巡る共感者同士が次第に集合していく様になるタイプの新しい人間関係を構築しつつある。
 しかも実際に会って話す人間関係と違ってツイッター上でだけ知人であること自体に別段不自然さを感じない現代人にとって容易に新たな知人を作ることも出来れば、気に入らなければ容易にこれまで親しくしてきたフォロワー達と絶縁することも出来る。
 それはかなり心理的にイージーである様に思えてその実かなりその都度真剣に言葉の遣り取りをする様になってもいる。
 フォロワー同士の繋がり自体も外部からも比較的容易に推察することが出来る。つまり実際の対人関係の場合、ある限定された性格のサークルに属している場合(会社にせよ、学会にせよ、趣味のサークルにせよ、株主総会にせよ)相手の対人関係とは相互に親しくなり告白し合うしか知りようがないが、ツイッターではそこが違う。全ての対人関係は少なくともツイッターユーザー間では表面に露出している。ダイレクトメールだけが辛うじてプライヴァシーを確保する事が出来るくらいだ。
 ミクシーの場合我々は参加する際に既に参加者の誰かに紹介して貰わなければならないが、ツイッターではそういった面倒は一切ない。
 しかも多くのユーザーにとって注目を集めているユーザーを知ることも容易である。
 ツイッターでの言葉の呟きはある意味ではツイッターというシステム自体が用意されているが故に初めて可能となった本音でもある。つまり元々この様な本音を呟けるメディアのない時代では考えられもしない自分の中のアウトロー的性格、自分の中の陰鬱な性格的要素、自分の中の自由奔放な言葉の選択とか呟く内容の選択といったこと自体を知る為にこそ多くのユーザーが利用している、という側面も否めない。
 勿論ツイートの内容も傾向も社会的地位から職種、年齢、性別、民族によって異なるという面はあるが、同時にかなり多くのそういった違いを踏まえても尚顕在化している共通性もあるのだという自覚は多くのユーザーを依存的な魔力へと惹きつけている。
 人間は確かに個々違う。しかし同時にどんなに違う境遇でも言葉の遣り取りに於いてはかなり理解し合える部分もある。それは実際にツイッターからではなく普通の集団に属していて知遇を得る場合なら決して親しくなれない様な相手とさえツイッター上では親しくなれ、そのツイッター上の交際から実際の対人関係へと発展していくという新たな人間関係構築の可能性が開けてきたとも言えるのだ。
 違うのに、同じであるという言語行為を通した対人関係が職種も社会的地位も著名人でない限りたとえ覆面的に自己の姿を隠蔽し、性別さえ装っていたとしても尚、理解はし合えるという事実の前で、我々は今更ながら言葉とは、それを通した意思疎通に於いて実際社会でのパワーバランスに伴う偽装性を剥ぎ取ることが可能であるという意思疎通性格に於いて我々は社会的地位、経済的優位劣位に関係なく対人的に触れ合う場を見出したとも言い得るのだ。
 羞恥は実際の所社会的規約や実際社会の制約、法的秩序によって自然と対人的に構える人間に付与される。しかしそういった対人偽装性や建前性自体への維持や保有事実に対しある種の虚しさを感じる現代人は多く、その虚しさの共有事実こそが現代人にとっての心のオアシスを我々が自然と求める結果となっている。つまりそこにこそ現代人は社会的制約を度外視した自由と良心を読み取ることをしているとも言えるのだ。
 ツイッターの無秩序的呟きこそ制限すべきではなく、今後もそれを通して実際の行動に移行させることを未然に防止する様な効用と共に、却ってツイッターで呟くことで得てしまうストレスや苦悩を知ることを通して、実際私達は自分の心をどう維持していくべきかという基本的な命題に行き着く。
 そしてツイッター上での対人関係はそのことを相互に語り合う場として相応しいと言える。偉大な意思疎通自体が含有するアマチュアリズムの存在理由によって、今後は逆にプロ執筆家のプロ活動自体の様相さえどんどん変えていくことだろう。そしてこれまでプロであった人達がアマチュアになったり、これまでアマチュアであった人達がプロに転向していく様な様相的流動性も益々顕在化していくだろう、とだけは言える気がする。