Wednesday, July 7, 2010

〔羞恥と良心〕第十五章 ツイッター上での人間関係論

 現代人にとってブログの登場は誰しも自由に自分の意見を掲載することが出来るという意味で画期的だったが、ブログとはそもそも余り大勢の人達の目に触れられる可能性は最初から想定に入れていない。
 その点ツイッターは全く別である。そもそも好きな人だけ訪れてくれればいいという開き直りとは異なったタイプのメディアとしてツイッターはある意味では現代人の心理をよく突いてスタートした。
 つまり個々は孤独であり、一人で行動しているという様相が濃厚にある現代人にとって携帯電話の存在が都会人的であると田舎的感覚の人間であるとに関わらず個的な空間で言葉を発することが如何に我々にとって本来的に楽であるかということをその登場の後で知った。そしてまさにツイッターはその携帯電話とタイアップして存在している。
 しかもツイッターではフォロワー数を競い合うという規則的呪縛のない暗黙の心理的ルールがある。そしてフォロワーの人数だけでなく、フォロワーの参加理由や参加根拠と、フォロワー自体の人間的性格、つまりどういう目的でツイッターを利用するのかという考えを巡る共感者同士が次第に集合していく様になるタイプの新しい人間関係を構築しつつある。
 しかも実際に会って話す人間関係と違ってツイッター上でだけ知人であること自体に別段不自然さを感じない現代人にとって容易に新たな知人を作ることも出来れば、気に入らなければ容易にこれまで親しくしてきたフォロワー達と絶縁することも出来る。
 それはかなり心理的にイージーである様に思えてその実かなりその都度真剣に言葉の遣り取りをする様になってもいる。
 フォロワー同士の繋がり自体も外部からも比較的容易に推察することが出来る。つまり実際の対人関係の場合、ある限定された性格のサークルに属している場合(会社にせよ、学会にせよ、趣味のサークルにせよ、株主総会にせよ)相手の対人関係とは相互に親しくなり告白し合うしか知りようがないが、ツイッターではそこが違う。全ての対人関係は少なくともツイッターユーザー間では表面に露出している。ダイレクトメールだけが辛うじてプライヴァシーを確保する事が出来るくらいだ。
 ミクシーの場合我々は参加する際に既に参加者の誰かに紹介して貰わなければならないが、ツイッターではそういった面倒は一切ない。
 しかも多くのユーザーにとって注目を集めているユーザーを知ることも容易である。
 ツイッターでの言葉の呟きはある意味ではツイッターというシステム自体が用意されているが故に初めて可能となった本音でもある。つまり元々この様な本音を呟けるメディアのない時代では考えられもしない自分の中のアウトロー的性格、自分の中の陰鬱な性格的要素、自分の中の自由奔放な言葉の選択とか呟く内容の選択といったこと自体を知る為にこそ多くのユーザーが利用している、という側面も否めない。
 勿論ツイートの内容も傾向も社会的地位から職種、年齢、性別、民族によって異なるという面はあるが、同時にかなり多くのそういった違いを踏まえても尚顕在化している共通性もあるのだという自覚は多くのユーザーを依存的な魔力へと惹きつけている。
 人間は確かに個々違う。しかし同時にどんなに違う境遇でも言葉の遣り取りに於いてはかなり理解し合える部分もある。それは実際にツイッターからではなく普通の集団に属していて知遇を得る場合なら決して親しくなれない様な相手とさえツイッター上では親しくなれ、そのツイッター上の交際から実際の対人関係へと発展していくという新たな人間関係構築の可能性が開けてきたとも言えるのだ。
 違うのに、同じであるという言語行為を通した対人関係が職種も社会的地位も著名人でない限りたとえ覆面的に自己の姿を隠蔽し、性別さえ装っていたとしても尚、理解はし合えるという事実の前で、我々は今更ながら言葉とは、それを通した意思疎通に於いて実際社会でのパワーバランスに伴う偽装性を剥ぎ取ることが可能であるという意思疎通性格に於いて我々は社会的地位、経済的優位劣位に関係なく対人的に触れ合う場を見出したとも言い得るのだ。
 羞恥は実際の所社会的規約や実際社会の制約、法的秩序によって自然と対人的に構える人間に付与される。しかしそういった対人偽装性や建前性自体への維持や保有事実に対しある種の虚しさを感じる現代人は多く、その虚しさの共有事実こそが現代人にとっての心のオアシスを我々が自然と求める結果となっている。つまりそこにこそ現代人は社会的制約を度外視した自由と良心を読み取ることをしているとも言えるのだ。
 ツイッターの無秩序的呟きこそ制限すべきではなく、今後もそれを通して実際の行動に移行させることを未然に防止する様な効用と共に、却ってツイッターで呟くことで得てしまうストレスや苦悩を知ることを通して、実際私達は自分の心をどう維持していくべきかという基本的な命題に行き着く。
 そしてツイッター上での対人関係はそのことを相互に語り合う場として相応しいと言える。偉大な意思疎通自体が含有するアマチュアリズムの存在理由によって、今後は逆にプロ執筆家のプロ活動自体の様相さえどんどん変えていくことだろう。そしてこれまでプロであった人達がアマチュアになったり、これまでアマチュアであった人達がプロに転向していく様な様相的流動性も益々顕在化していくだろう、とだけは言える気がする。

Wednesday, May 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる

 現代人にとってアイデンティティーは完全に仕事人間としての誇りであるとか、ある業界で生きることの誇りである。
 従って彼等にとっての羞恥は勤続何年という形で形成された「~家としての」「~者としての」「~―としての」「~イスト(リスト)としての」「~人としての」感性に色濃く影響された人生観である。
 それはかなりバイアスがかかっていて、しかも始末の悪いことには私たちの先達の世代ではリタイアした後にどういう人生を歩むかという事が一部官僚などでは天下りなどによって敷かれたレールの上を進んでいけばいいだろうが、そうではなく満期一杯まで勤め上げてからいざ、地域社会にリタイア者としての生活を営んでいこうにも、妻からは粗大ゴミ扱いをされ、地域社会に溶け込むには余りにも偉大な職業的誇りがあって、それが禍して遂には休日にはゴルフなどに出かけていたそういう習慣も徐々になくなって、終いには毎日が休日であることに耐えられなくなるのだ。
 要するに社会学者テンニースが考えた時代と今とは隔世の感がある。何故なら当時の社会では完全に資本主義社会とか財閥とかが幅を利かせ、失業者の群れがあった。勿論今日でもそれは同じかも知れない。
 しかし基本的なところで当時の様に、では失業をしたからと言って帰っていくべき共同体などとっくになくなっているのである。
 従ってどんなに都会の片隅でいじましく余り儲かりもしない営業をしていても、或いは失業しても、それまでに培ってきた職業的ノウハウを捨て去って一から出直すという事自体が大変である御仁も、そうではなく完全に転職自体に慣れている御仁も、人工的な都市空間に彷徨う都市徘徊者としての日常の中にこそ、ゲマインシャフトを構成し、寧ろかつてのゲマインシャフトとしての地域、地方共同体の方が人工的に観光化された形で人間関係に於いても重圧がある。そこではピアプレッシャーとは、相互にピアプレッシャーを感じずに生活していけない事自体への面当てである。リタイア老人の中で地方社会で顔でいる人達が挙って若者衆や個人営業の店主達と結託して都会からのホワイトカラーリタイア組を骨抜きにして、かつての威光を徹底的に失わせる。俺達こそがここを支配しているのだ、という触れ込みで。
 それはテンニースの時代に彼が考えていた資本主義社会の完成以前のゲマインシャフトでは決してない。既にステレオタイプ化されたゲゼルシャフトの雛形である。
 一部官僚達と違って民間企業のお偉方達は端的に一切の職業的ノウハウによって培った自分の習慣にとっての自然をリタイア後に棄てきれない。そこで地方ゲマインシャフトであった場所での顔役達は早く社会からドロップアウトして年金生活をしながら趣味をしている人達である。
 従って仕事人間は何らかの形でリタイア後に今度は一切の年功序列も勤続年数も関係のない自力での転職を果たさねばならない。彼等にとっては既に職場こそがゲマインシャフトであり、妻達に独占された地域社会での対人関係こそは自分の人格のほんの一部だけを偽装して晒すゲゼルシャフトなのである。
 これからは特にネットインフラが整備されてから就業年齢に達した人達が未来に於いてどんどんリタイアしていくとなると、次第に寛げる空間とは職場であり、職場の近くにある店舗であり、居酒屋である。しかも大半の女性も既にキャリアをどんどん積んで独身族も大勢になってきている。個人の自宅でパソコン一つで勝負していたとしても、既に地域共同体は故郷ではない。彼等にとってはネットインフラ上での交流こそがゲマインシャフトなのである。
 彼等にとっての羞恥はかつてどういう職業に就いていたかであり、夫婦関係など十の昔に崩壊しているのだ。離婚していずに、結婚を持続していたとしても尚彼等は殆ど形式だけの夫婦である。
 既に良心という精神さえ彼等にとっては職場の倫理であり、対外的な対人処理術である。従ってお互いに配偶者を粗大ゴミとして取り扱う事自体を忌避したいという願望があるので、何も無理してまで相手の羞恥を妻は夫を妻同士の付き合いの中に放り込むことなどないし、夫は夫で男同士の付き合いを妻にまで紹介する必要性自体をさらさら感じてなどいない。
 寧ろその様に不干渉である事自体が相互に良心の発動であり、そうする事によって未然に相互の羞恥を感じさせない様に配慮しているのだ。つまりそれこそが夫婦愛というわけだ。
 私達の行動の多くは既に25歳を超えたなら、大概が習慣化されてくる。それは殆ど自動的に身体が勝手に動く。それはまるで慣れ親しんだ夫婦同士のセックスの様なものである。パソコンを開く、メールチェックをする、ツイートする、そのレスを送信する、昨晩コンビニで買って冷蔵庫に入れていたハンバーガーを口に放り込む、コンビニを出て余分に買っておいたドトールコーヒーをレンジでもう一度温める。
 そこには素の自分を晒すという事の羞恥を相互に忌避し合う社会成員の習慣化された行動論的なコードがある。
 その習慣化されたコードの方が既に私達にとってのゲマインシャフトであり、それは確かに一面ではプライヴァシーの確保でもあるわけだが、言語行為のプライヴァシー性とは原始社会から古代、中世期までの方が寧ろ徹底化されていて、逆に今日では2ちゃんねる的存在に於いて徐々にそれを剥ぎ取る傾向にあると言える。
 つまりプライヴァシーを剥ぎ取る行為自体が一種のプライヴァシーになっているのである。その仕方のノウハウ自体にある種の差別化において商標登録的アイデンティファイされたものを流用する習慣がツイッターのアバターなどに於いても既に顕在化している。
 そこでは欧米の様に無記名、匿名の書き込みをする事が少ない社会でも、日本の様に無記名、匿名コメントに於いても同じである。
 ネットインフラ上での対人関係の方こそ素の自分を見せ得るのであり、逆に夜中にコンビニで買い物をする時明らかにそこで出会う人達は完全に他人であり、マンションで生活する人達にとって擦れ違う人達の一部がかつてのゲマインシャフト的友愛性に彩られ、大半はそうではないのだ。
 つまりブログ仲間、ツイッターフォロワー同士こそが私達にとってのゲマインシャフト化していて、地方の観光都市の対人関係こそがゲゼルシャフト(特にネット依存症的都市生活者にとっては)なのである。

Tuesday, April 20, 2010

〔羞恥と良心〕第十三章 言語とはプライヴァシーの起源である

 我々は言語活動をすることによって、寧ろ内的世界を獲得した、と言える。それは端的に言語自体がプライヴァシーを作ってきたということである。
 例えば我々は何を他者に語っても、もっと何か言い足りないことがあるように常に思える。だがそれは内的世界が言語では表現し尽くせないほど豊かなのではない。それは言語自体がそこまで我々に思念させる力があるということ以外のことではないのだ。
 言語は通常何かを伝達する為のものである、という位相でのみ語られてきた。
 だが我々はもう一度よくその事実へ再考の余地を与えよう。
 つまり私たちは語る者の真意、本音を語ることを抑制する意図として言語を捉え直す必要がありはしないだろうか?
 言語行為が他者間で遣り取りされることは、その言葉の意味がどんなものであれ他者に痛烈な作用を齎すということだが、それは逆に言えば、我々が脳内で言語を通して考える能力がそれだけかなり広範囲であるということを意味する。故にその思考(少なくともここで今考えている言語を通した)の全てを他者に伝えるという愚を我々の理性は承知している筈である。ならば言語行為が進化してきたことの最大の理由とは本音を言い合うものだと我々の祖先が考えたのではない筈だ。本音とか意識とかクオリアといった概念自体が、言語によって生み出されている。それは一種の言語による幻想であり、そんなものは心の内部には実在しないと私は考えているのである。
 例えば通常言葉とはそれによって他者を誹謗中傷する為に進化したとは到底思えない。もしそんなことの為の道具でだけあったのであれば、とっくに言葉等淘汰されてきた筈だ、と考えることの方がより自然であるからだ。
 真意とは常に心の内奥で作られている。それは私達の思考によってである。そしてその真意が少なくとも他者には言うべきことではないと自覚している限り、それは言語による思考である。しかしそれを真意である故その真意を隠蔽して建前だけを語っていると自己自身を認識しているとすればそれは誤りである。
 何故ならそれ自体が一つの言語的思考の過程であるとか経路の一つであるに過ぎないからである。
 つまり私たちはそれを意識してか薄々かは別として曲がりなりにも知っているからこそ、相手に何もかも伝えていいとは思わず抑制的に言葉を利用するのだ。だから逆に言えば哲学などでよく語られている様に何かを言う為に「本当の気持ちや心を断念する」という考え自体が実は一種の言語的思考の過程や経路自体が我々に与える幻想なのである。
 つまり私達が心の実体であるとか真意や本音だと思っているものの方が実はそうではなく只単に幻想であり、それが真意だとしたら告げられるべき内容ではない、要するに内容的に芳しいものではないと自覚して、それを抑制して語らずに済ます事自体の方を真意と呼ぶべきなのである。又そうであるが故に、つまり直接芳しい内容のこと(少なくとも事実の隠蔽という意味では決してなく、心に思い浮かんだことの内容が告げるべきではないと思った場合)それを直接伝える事を抑制することを心がけたが故に言語行為は今日にまで進化を遂げたと言うべきではないだろうか?
 つまり形を変えて言えば、弁解の余地を相互に与え合うことで私達は言語を発展させてきたのである。
 言語を、本音を言い合う為に進化したのではなく、相互に建前を踏襲する為に進化したと捉えた方がすっきりする。寧ろ建前の方こそ意志であり本音なのだ。そこら辺は中島義道の著作である「時間と自由」の論述が極めて参考になると私は考える。
 もし今私が述べたことが正しいとすれば、言語とは言い訳の為の説明=論理思考能力を各発語者に要求する形で共同体内に進化してきた、と言えることとなる。
 言い訳=弁解は個人の内面的感情に左右されずにそれ自体で言語行為に於いて、通用する故責任倫理に敵っている。
 言語行為上の意味論とはある発語文及びそこで伝達される意味を伝達する成員への差別しなさである。つまりそこに言語の真理が「意味伝達行為が責任化されている」ということであることを示している。つまりある発語内容の持つ力、意味の真理がその発語者の人格査定とは無縁に成立している、という事が最も重要なのである。
 もし私達の言語行為上で発語毎にある発語者固有の特権的なものであり得たなら、私たちは何の意味も持てないこととなろう。然るに我々が真意とか本音と思えるものの大半は思念上での思いつきにしか過ぎないし、或いはそう捉えるべきなのである(哲学も又そのような決意であるべきだ)。
 思考内容の持つ様相はその都度の状況依拠的であるも、その意味は不変且つ万民に特権化されなく共有されるというところに言語の持つ大きな力と意義があると捉えるべきなのである。

Friday, April 2, 2010

〔羞恥と良心〕第十二章 言語と羞恥

 私たちは相手のことを知りたいと願う。親しくなればそれは当然のことである。しかし極めて重要なことだが、相互に相手のことを全て知りたいと願うからこそ、多くの対人関係は破綻するのだ。それは言語というものの存在理由を理解すれば我々は納得出来ることではないだろうか?
 何故なら言語とはそもそも相手の全てを知るということにおいて、相手自身が極度の嫌悪感、警戒心を持つからこそ、そのことを相手がこちら側に拒絶することを一定の緩衝地帯としてのロールを担ったものだからである。
 言語とは端的に全てを告白し合う為に設けられた道具ではない。寧ろそれを避ける為に、あるいはそれが本質的には不可能であることを相互に熟知していた存在者間において初めて成立し得たものであったのである。
 その意味では言語とは羞恥を相互に認め合うという作用において成立する。それは人類が最初に着衣の習慣を身につけたのとほぼ同時期であった可能性もある。尤もその立証は人類学者諸氏にお任せしよう。
 要するに言語とは相互に全ての感情を相手に伝えることが出来ないという物理的諦念と共に、それが仮に出来たとしても、決してそれを相手に相互に示し合いたくはないという歴然とした事実によってのみ命脈を保持し得るものである。
 つまり他者存在とはそれ自体で一つの壁である。例えば相手のちょっとした仕草とか物言い自体に対して不快感を抱いていたとしても尚我々はその全てに対して一々苦情など言わない。勿論それが度を過ぎたなら必ず何か一言は言いたくなるし、言わずにはおれまい。しかし些細なことには目を瞑る。
 その限度や目を瞑る内容自体はある意味ではかなり民族間に差異があるだろうし、個人間にも差異は存在しよう。それはある地域や地方では文化習俗的に当然のことが、別の地域、地方では非常識であるような意味で。
 例えば大体都市部(特にマンション街や山の手的区域)では隣人に対してそれほどお節介をしないということは不文律的に常識化しているが、地方では、あるいは伝統的文化都市、あるいは一般的に下町的区域ではそうではないというような差異は至る所で散見出来る。
 しかしそれは地域、区域的習慣の差異であり、個人間の差異はそれよりはずっと深刻である。例えば人に言えることと、言えないことということには当然ながら差異がある。
 そしてある人にとって容易に他者に告げられることが、別の人にとっては耐えられず、そのことは別の人にとって容易なことを、ある人にとって困難なことにしているという意味でかなり深刻である。
 例えば私はかなり多くのことを他人には一切語りたくはなくそれこそ墓場まで自分一人で抱え込んで死んでいきたいとさえ考えている。
 恐らくそういったことは多く都市部でも地方でもあり得るだろう。
 しかしよく考えてみよう。言葉とは相手がいなければ意味がないものである。だからウィトゲンシュタインはそのことを常識とする世界に対して、アンチを唱えたとも受け取れる。勿論そんな単純なことではないのだ。それは恐らく世界に対して、個というものの在り方を巡って脳内で考えあぐねること全てが他者一般と極度に乖離していたということに起因するものと思われる。だがそのルドウィヒによるトライアルとは実は、その常識において順応し得る(あるいは仕方なしにそうする)ことも、拒絶することも含めて一つの制度を生きるということ、言葉を使用して生活するということはそういうことだという確信の下で、ではその制度とは一体何か、私とは制度と共に派生する意識であるのかという問いが彼を哲学へと駆り立てた。そのことを永井均は独我論という病の治癒のために彼が哲学をしたと捉える。
 
 もう一つ言語にも責任があるということだ。一つに言語はそれ自体その言語を使用する民族に固有の性格によって決定されている部分もあるが、極めて偶然的である言語構造自体が民族に固有の文化を育むという側面もある。
 例えば日本語では主語+動詞+目的語のような英語の構造と異なっていて、端的にそれ以外の英語にはない助詞、形容動詞というものがある。とりわけ助詞の使用の仕方で男女の言葉遣いを峻別したり、相手の社会的地位とか立場に応じて弁別したりして使用するということが当然となっている。これは意味論的には他者一般に対して、つまり相対する存在者に対して純粋に抽象的意味論的対話をすることを困難にしている。
 つまり相手に応じて「言って善いこと」とか「訊いて善いこと」といった基準を厳密に査定していく方向へと流れやすい。助詞の中に重要な部分として敬語があるからだ。
 それは永井均も日本語には英語で言うところのIとかyouとか以外の、「俺」「おいら」「あたい」「あたし」「わし」といった多くの語彙があることを指摘する。
 それは配慮という行為自体を自発的なものとするのではなく、制度的な習慣にしようとする民族性を表わしている。
 尤も英語世界の一つであるアメリカでも今度は宗教倫理的な不文律は支配しているから、別箇の文化的強制を多くの人たちは感じているという実態はある。そして日本語のように助詞がないということが、逆に抑揚とかストレス、息継ぎ的な表現でニュアンスを示し合うという別の形での工夫は現出することとなるわけだ。
 だが再び日本語に戻ると、このことは言語自体が極めて恣意的にその都度の状況に応じて弁別するという意味ではソフィスティケートされてはいるが、哲学的誠実性においては、極めて呪縛が強い、本音を謂い難いものにしている。
 つまり良心といったものは本来自発的、内発的なものであるべきであるという倫理査定的には、礼儀、礼節という制度上での規約とは甚だ自発性とか内発性を削ぐ結果となっている。つまりそれが礼儀だから、ということ自体に既に有無を言わさぬ制度、規約、文化的強制からの呪縛、言ってみれば自立した個の考えを全て無視する不文律的構造が支配している。
 これは年功序列意識とも大いに関係がある。
 しかし同時に日本では既に明治期において一回、それまでの日本文化を徹底的に脱亜入欧という形で欧米化してきている。これは公官庁における書類の取り扱いとか上限関係において顕著である。
 しかしそれはあくまで公的場においてのみであり、井戸端会議的私的空間では通用しない。そのことを恐らくかつて作家の井沢元彦にして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのであろう。
 日本人の思い遣り意識の文化的不文律強制は協調性のない成員を四面楚歌にする一方、そういった成員を逆に何とか皆の和に加わらせようと画策し、それはテレビドラマなどでも頻繁にテーマ化する。
 その事実自体に対して痛烈な告発をする哲学者で作家こそ中島義道である。
 中島はある部分では極めてジャン・ジャック・ルソーの持っていた私的告白性から啓発されているとさえ言える。つまり自らの暗黙の了解的日本人の協調性へと加われなかった少年期から青年期までの苦悩と挫折を告白するスタイルの多くの著作を発表している(「孤独について」他)。
 しかしこれもよく考えれば、そもそも言語とは全て内的世界を語ること自体の不可能性、それは語る当人と、語られる別の人が他者同士であるということから起因する根源的な壁があるからだが、例えば「私は~です」と自己紹介する時必ず、ここまでは言っていいことだし、言えることであるが、それ以上は言う必要もないし、言いたくもないということ自体の表明となっているのだ。そしてその事実を踏まえてこそ敢えて「でも私はある部分では一般的に言ってはならないとされることを私は言う」という形でルソーとか中島の告白は言語意思疎通史上において命脈を保つことが可能となるのである。
 しかし人間はある部分で饒舌であるということは別のある部分では只管隠蔽し続けるということをも意味する。
 それは個人の感性や感受性においても言えることである。
 つまりあることに極度に他者に対して神経を遣うということは、別のある面ではおおっぴらに言っても構わなかったり、あるいは大して神経を遣わずに済ましたりするということを意味する。それは一般社会通念上での不文律に付従えない者にとって研ぎ澄まされた感性や感受性は、一般社会においては逆に大して重要な羞恥心ではなく、特殊であるという感性や感受性の人にとってざっくばらんであったり、極めておおっぴらであったりということが一般社会においては極めて羞恥を感受させることである、ということでもある。
 そしてそれはルソーや中島のように詳細に文筆活動において示し得ている成員以外の、物言わぬ全ての人々にとっても実はそうなのである。
 つまり全ての人が自分が書いた文章を多くの人々の目に触れさせることは出来ない。だが文章を書くということさえしない、あるいは能力的に出来ない全ての人々も実はその自分自身と社会全般の間にあるずれとか「仕方なしに合わせている」部分というのは必ずあり得るのだ。
 もしそういったことが一切ないという成員がいたとしたら、その者は狂人であると言ってさえよい。
 例えばそれは知らない業界へと転身した者が最初戸惑う様々な業界固有の習慣、その一つとして言葉遣いといった習慣から、引っ越して行った先での方言、あるいは時間厳守であるタイプの社会とそうではない社会の差異とか、そのような戸惑いは全ての人々について回る運命である。だがそれでも尚郷に入れば郷に従え式に皆ある程度は歩調を合わす。そして親しい友人が出来て腹を割って話せる機会があれば、思い切ってそのことを告白することもあるかも知れないし、永遠にそういうことは一切黙ったままで生涯を過ごす成員もいることだろう。
 つまりその親しい相手なら言いやすいことの内容的差異というものが個人間にはあるのである。あることは容易く言えるが、別のことではそうではないという常識の違いがあるいは親しい間柄とそうではない人の間の差異を各個人に構成するのだ。そして親しければ親しいほど言い難いこともある。それは相手が親友であれ家族であれ、事情は同じである。
 あるいは同性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるし、逆に異性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるわけだ。
 つまりこれこそが羞恥であり、その羞恥を相互に保有し合っているという了解の下で言語行為は成立している筈なのだ。
 例えば道端で知らない通りすがりの人にいきなり「年収は幾らですか」とか「今付き合っている恋人はいますか」と尋ねる者はいない。
 だからある意味では言語行為における羞恥とはどういう経路で相互に親しくなっていくべきかということ自体に纏わる倫理査定的な判断が各個人において異なっているということ、そしてその事実を容認しやすい成員と、そういうことは世間一般の不文律に従っておけばよいという考え方の違いとなって立ち現れていると言うことが出来よう。
 そしてそれをどこからどこまでが地域的、地方的な文化習俗や伝統からの影響か、どこからどこまでが個人的資質かということを実は厳密に区分けすること自体がかなり困難であるし、ある部分では不可能であるし、ある部分ではそういった判断自体が意味を成さないと言うことが出来る。
 だが地域的文化習俗であれ、そういうこととは無関係な個人における倫理的判断であれ、言語行為、言葉というもの自体が既に相互に羞恥を保持していることへの認可、承認、了解の下で行われる道具であるということ、そしてその規約を受け入れた瞬間人類は多くの感覚的授受の能力を失って今日まで来ているという事実だけはしっかりと受け止めておく必要がある。
 だから哲学的に言えば相互に一切のプライヴァシーが必要ないのであれば、一切言語行為など必要ないということなのである。そして言葉とは相手とは常に百パーセント理解し合うことも出来なければ、その必要もないという事実自体を我々は暗黙の内に言語行為をすることによって示し合い確認し合ってもいるということである。

Sunday, March 21, 2010

〔羞恥と良心〕第十一章 徳と理

 私は「トラフィック・モメント(自由・責任・言語と偶像化)」という論文で次のように書いた。

「論語」に次のような一節がある。

 子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁

 子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。

 先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)

 言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られるということに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
 つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
 仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。
 しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあるということだ。
 それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。

 ここで私が考えたこととは孔子は果たして徳というものが最も大切なものであると考えて、先の言葉を残したのかどうかということである。
 例えば今徳のある人がいたとしよう。しかし彼には理ある言葉を吐くことが出来ないとしよう。従って私たちはその人から理ある言葉を聴くことが出来ないでいる。しかしにもかかわらず彼に対して徳があると考えていることというのは、ただ徳があるように思えるイメージでしかない。そのイメージとはどこか親しみやすさということを基準に我々は判断しているのだろう。しかしそれでは徳ということの本質が見え難い。
 徳があるかどうかということはだから、寧ろ何か理ある言葉を誰かが吐いて、その言葉の持つ理の力が、逆にそういう理ある言葉を吐く人に徳を付与するのである。つまり徳は理のないところでは本当は成立し得ないものの筈だ。しかし理がある言葉を吐き、その言葉の理で大勢を説得出来ると、今度はその人に対して私たちは固有の徳を付与し、次第に偶像化していく。そしてその偶像化された徳があたかも理を生み出すように錯覚するようになる。
 私は先日ある出版社とある友人に当てて次の文章(「徳と理」と題して)を送信した。

 先日作家の五木寛之氏が、テレビの「週刊テレビ新書」(テレビ東京、田勢康弘氏司会)に出演され、得々と「人間は徳がまずあって然る後理を作り出す」と語っておられた。
 しかし私はこの考えはあまり賛成することが出来ないという気持ちの方が、特に昨今は強いのだ。
 というのも徳とは一体何を指すのだろうかということがまず私の脳裏を掠める。
 理とは合理性とか、理性とか、要するに物事の仕組みである。しかし徳とは仁徳とか、道徳とか、要するにモラル的なことである。しかし最近のこの経済不況と、生活者の困窮という事態を受けて、多くのマスコミの論調は、経済優先主義とか、市場原理主義とかいう言葉が飛び交い、人間には私利私欲を追求するよりも大切なことがあるのだ、と多くの論客が発言するようになった。しかしそう語る彼らは私たち一般の庶民よりはいいギャラを貰い、自ら日比谷公園へ行って生活困窮者への介護活動などすることはない。
 徳という言葉は、確かに聞き触りがいいし、暖かいヒューマンな志から他者に対する友愛も誕生するということは理解出来る。
 しかしそう言いながら、私たちの生活は全て自己責任であり、本質的には他人は一切助けてはくれない、それが現実であることをどんなに慈悲深い人でも知っている。だから逆に徳という何だか得体の知れない人治主義よりは、ずっと理、つまり世の中の仕組み、あるいは物事の仕組みの方が信頼出来る。
 それに私も日々介護の仕事とか、あるいは生活困窮者たちの面倒を見るような活動をしていてこそ、いざという時活躍し得るだろうが、経験のない人間は足手まといである。こういうことは全て日頃の訓練によって非常時に役立つか否かは決する。人間にとって最も必要なものとは即実践力以外のものではない。だから日頃から報われなくても、日々努力している、又は既に活躍している分野の中でだけ我々は何らかの貢献を果たし得るのだ。
 そういう考えの下では寧ろ何だか判断するのに主観的な感情を交えずにすることの困難な徳とかよりは、理、つまり誰でも普遍的に理解し得る仕組みとか、法則の方がずっと信用出来ると私は思う。
 だから私は敢えて孔子とは逆に、理こそが徳とか、そういう付帯的な厳かさとか、温かさとかを生むことが出来るのであり、それをまず得てから、理を構成するという考えには賛同することが出来ないのである。(孔子も実際どういう考えだったか不明であるが)
 この社会でどのようなタイプの非正規社員でもフリーターでも、理解し得る作業手順とか、方法、仕事上での技術的ノウハウこそが、いざという時助けとなる(言葉がまず私たちにとって最低限且つ最大のノウハウだ)のであり、その形而下的実現こそが、徳とかそういう形而上的な完成度において求められるものを育む余裕を人の心に与えるのである。(だから徳をまず積めとのたまう人は生活力に余裕のある人だ)又だからこそ、私は哲学や論理学を支えている言葉というものをどこかで信頼している。つまり言葉は決して私と筆者が個人的知遇がない状態でも、私を裏切ることはしない。つまり言葉だけがそれを目にした時私たちを救うことが出来る。仮にその言葉を書いた人と私がじかに接した時その人格そのものからあまり得るものが仮になかったからと言って、その人が書いた文章から私が何らかの感銘を受けたということそのことに変わりはない。それこそが理というもの、言葉によって示される本質的な仕組みとか法則のことだが、それが実際に日比谷公園で炊き出しをして下される方々から得るレスキューとは違った形での精神的レスキューとなり得る。この違ったタイプのレスキューのどちらが尊いと規定することなど出来はしない性質のものである。
 私はそう思うのである。

 結局私は徳というものを孔子が最優先していたとは思えないのは、礼ということに孔子が拘ったのも、それが理のためだったのではないかと考えるからである。
 この孔子と儒教のことについては浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」が詳細に、孔子その人と、彼を受け継ぐ後代の人々による布教活動に関して述べているが、かなり布教していくプロセスにおいては孔子を気高い血筋の人間であるように偽装工作したりして、その知恵を絞って孔子生存中には果たし得なかった野望に対するリヴェンジの意識があって、極めて興味深い。
 私の先に引用した文章を送った19歳の青年T君は次のようなメールを返信してきてくれた。

 お送りいただいた文章、拝読いたしました。
 理と徳というのは難しいテーマですね。芸術的感性(永井均は、最近の日記で「変性感覚」という用語を使っていました)なんかは、理を超えているから徳の方に入るのかどうか・・・。そういえば、東浩紀が最近「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移のことを言っているようです。なお、孔子については、ぼくは『論語』は読んだのですが、けっこう中島義道に似ているという印象です。もちろん、形式的儀礼を嫌う中島氏と、礼(しきたり、儀礼)を重んじる孔子とは、全然違うわけですが。ひとつ事を進めるのにも時間がかかり、周囲の人間からは傍迷惑としか思われない孔子の「礼」への偏愛ぶりは、中島氏のいう「本来的偏食家」を思わせます。ところで、芸術における形式というのは理なのでしょうか。過剰な様式美への傾倒などは、理が自身を超え出ているようにも思われますね。

 そこで私は更に次のような返信をした。

 孔子の「論語」は私も読みましたが、中島氏的という指摘はとても面白いですね。
 しかし「論語」の解釈は多様で、私は孔子は必ずしも徳を最優先していたとはどうも思えないんですね。 例えば浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」において記述されたその弟子たちによる布教工作、孔子の人柄と、人生からするとそう思えない。ここら辺は私は論文「責任論」で詳しく触れました。

 また孔子の幾つかの言説は理を優先するのではないかということで、今執筆中の「自由と責任」には詳述しました。この論文も春先までには完成するでしょう。
 
 うーん、アートにおける様式美の追求は、理と言えるでしょうか?私自身のアーティストとしての経験から言わせて頂ければ、どちらかと言うと、アーティストが自分の流儀に拘る時というのは、寧ろ生活レヴェルの安定が需要と供給とによって不動点に達した時に思惟するものなので、逆に徳的ではないでしょうか? 
 つまりもし理に随順して制作するのなら、様式美という枠組みに囚われないで実践し、その都度新たな発見に勤しむということの方がスタンスとしてずっと潔いと私は思います。それでもいい作品を作り続けていくというのは実は一番大変なのですが。

 様式美というものはかなり戦略的なものなので、私はそう判断してT君にそう書き送ったが、実際形式美というと、それは理であるような気もするが、形式美そのものを追求していくと様式美になってしまう気が私にはするのである。形式美とは、形式とかそういうことを考えずに作品を作り続けることによってのみ得られる成果ではないだろうか?
 それを言うなら、言葉もそれが齎す効果だけを考えに入れて発するのではなく、その言葉が本当に自分の考えに根差しているのかどうかということにおいてその言葉が説得力を持つかどうかが決まると思うが、そのことにおいてそれを徳と呼ぶのなら、それは確かに必要かも知れない。
 しかしT君の指摘された東氏による「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移」という下りについても私は一言述べておきたいのだが、要するに地域住民同士の触れ合いということを言うなら、まさにそれは理によるものであると私は思う。その中でも特に親しい人同士のつきあいでは徳というものも生じるかも知れない。しかし逆に監視カメラについて言えば、それを監視する対象そのものを差別するようなこと(例えば社会的地位の高い人の多い地域ではそういうことをしないで、生活困窮者の多いところではそういう設置を多くするとかの)を未然に阻止するという観点からは確かにそれは理であるが、逆にその監視をするということの理由や動機という観点から言えば、それは徳の問題、つまり悪いこと(不徳なこと)をする人がいるから、そういう措置に踏み切るという意味では明らかに徳的なことである。

 付記 このT君との遣り取りとか、「トラフィック・モメント」http://trafficmoment.blogspot.com/内の記述など丁度今現在2010年3月22日から一年ほど前のことである。この論文は既にその時点で書いていたが、幾多の事情で今公開することとなった。T君も去年12月に成人し、今も私とツイッターその他で交流は続いている。
 この一年に私の中では若干の変化が起きている。尤もここで書いたことの大半は今でもそう信じている。
 その変化とは言葉の力とは、言葉の意味するところ、例えば空腹で死にそうな人が炊き出しの前へ行って「一口私にも恵んで下さい」と声をかけることにおいては、意味内容だ。だが親しい家族の前では言葉は意味内容以前に、やはり存在論的に声を掛け合うという行為の持つ意味である。それは口ごもっていても同じである。今日ALSの人たちにとっての生とは何かというレポートをNHKで見たが、知性的には何の問題もないのに、意思疎通に非情な困難を伴うという事態が生む諸問題は、ある部分では弧絶という状態的な悲劇である。その場合しかし家族がいて意思疎通でも相手の言うことがある程度想像出来る者同士であるという状況と、家族のいない人では全く異なっているということも言えると思う。私自身幸いその種の病に今のところかかっていないが、いざそうなったなら、家族を持たない者であるが故にかなり深刻な気持ちになるだろうということは容易に想像出来る。
 ある部分では人間は知性が邪魔をして、それ故に「死にたい」と思ってしまう。それは理を理解出来るからである。だが知性自体に障害のある人は、そこまで考えるのだろうか?ある部分では考えもするし、別のある部分では余り深刻には考えないかも知れない。だが徳ということを考える時我々はこの論文で私が書いたように、理という方法論から派生するという要素は多分にある、と私は今でも思っているが、実際存在する事、例えば一切の言語を理解する事が出来ない人間がいたとしても尚、そこには幸福感はあるかも知れない、という考えの方に私は傾きつつある。それがここ一年で私の中に生じた変化である。つまりたとえ言葉を持っていたとしても、全く他者を信頼することがなく、全く愛情というものが理解出来ない人間がいたとしたなら、それは真に理であり、幸福である、と言えるだろうか?
 逆に言葉が一切理解出来ない人間がいたとしても愛情や信頼という気持ちだけは理解出来るということはあり得るかも知れないとも思う。それをもし徳と呼ぶのなら、強ち五木氏の仰ることも間違いではない、という気持ちにも今では私は傾く。
 アートなどによる形式美ということは、その形式自体への我々の信頼による。例えば小説を読もうという気持ちになるのも我々が小説には作者がいて、彼らによる創作であり登場人物は実在の人物ではないが、リアリティを我々はそこに読み取ろうとする。それは一種の言語ゲームではあるが、そのゲームを只虚しいとは思わない。つまりそこに我々は作者と、自分、自分以外の読者ということを想定している。絵画作品の場合には、鑑賞者である自分と自分以外の鑑賞者、作者との構図にも置き換えられよう。そこが嘘とかデマということと、創作世界との関わりとの本質的違いである。
 痛い時にレスキューを他者に求める時私は明らかに他者を信頼している。つまりレスキューをしてくれる相手として認可している。そうでなければ私は一切他者に声を発することを断念しているだろう。その意味では言葉という理は、ある部分では、声を発することでも、文字を書くことでも、誰かそれを聴いてくれる人、読んでくれる人を想定している。つまりそういう能力保持者、能力可能者の存在を信じている。それをデリダ的に著者の死と捉えても、オースティンのようにパフォマティヴと捉えても同じことである。
 理には理だけで自立しているという強みは確かにあるが、事実上我々は理を理として捉える時点で既にその行為を徳として捉えてもいるのである。そしてその事実において我々は理である事の徳と、理がない形ででも存在論的には徳もあり得るかも知れないという存在自体への信頼を得ているのかも知れない。そこにこそ可能性を見出さずには生きていけない人もきっとおられることだろうし、その意味では本論の主張は全て反転させても尚、有効であるということを承知の上でのみ、私の一年前の主張は意味を持つのかも知れない。そしてこの問いは私にとって未だほんの始まりでしかない、ということだけは今現在確かである。

Friday, March 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十章 羞恥の正体

 私は前章で羞恥の正体についてある語彙を習得したプロセスに対するおぼろげな記憶に起因しているのではないかということを示した。本章ではそのことに関してもう少し詳しく立ち入ってみよう。
 私が仮説した「世界や宇宙という語彙が語る真実」というものについて少し説明すると、これはもっと適切には「世界や宇宙という語彙が語る真実」とするともっといいかも知れない。つまり私たちは「世界」とか「宇宙」という語彙を覚える前に既に自分なりに、それはまさにウィトゲンシュタインが考察し、しかし最終的には否定した私的言語のようなものとしてであるが(哲学者の永井均氏は私的言語があると考えておられる。「なぜ意識は実在しないのか」)、何となく大きな纏まりというものを聴覚映像的に理解することが出来、その枠組みを両親が会話する中で度々登場する「せ・か・い」とどうも一致するのだなと覚知していくのだ。そしてその一致させるものこそ「世界や宇宙という語彙が語る真実」であるというわけだ。しかも世界は例えば赤ん坊が寝ている部屋のように一定の範囲に区切られている。その境界はあるが、その全体というニュアンスは赤ん坊でも得ることが可能だろうし、また宇宙という語彙は、それを習得する以前的には、何らかの感覚において、例えば今自分がいる部屋の外にも「向こう」があり、その向こうの先には更にもっと向こうがあるという意味で、漠然とした無限に対する意識が既に芽生えているように思う。それがもう少し成長すると、学校で習う語彙の中に含まれている「う・ちゅ・う」という語彙に相当するのだなと気づくというわけだ。宇宙とは前章でも述べたように漠然とした空とか無に対する意識が生じさせる把握であろう。
 要するに言語習得以前的な(自分なりの)心像のことを私は「世界や宇宙という語彙が語る真実」としたいということだ。そしてそれは両親が会話しているという現実を目の当たりにすると、脳は刺激され、自分もその輪に加わりたいとそう感じるようになって、その心像と、語彙の発音とを必死になって結びつけようとするのだ。
 ものは動いたり、止まったりするし、最初からちっとも動かないものもある。その段階で動くけれど機械のような無機質なものと、私たちのように生暖かい生き物とは基本的に区別出来る。あるいはそれらの印象は、それぞれ動き方が緩やかであったり、激しかったり、要するに動きや止まりといったことに対する印象も記憶されているだろう。感覚的にストックされた印象はやがて形容詞を習得する際に語彙化するための心像として利用されるだろう。記憶は語彙化という過程を踏むことで徐々に整理されていくのだ。
 しかし大人たちはそんなことは無頓着に自分たちだけでどんどん会話を続けていく。そして時には和やかであるが、時には険悪な雰囲気に包まれて会話するだろう。
 しかし幼い私たちにとって険悪な雰囲気というのは会話内容、表情、会話の語調や音声の発し方において幼心にも即座に理解出来る。勿論それは言語的な理解以前的なもっと直観的な理解である。それは要するに漠然と意味としてではなく感覚的に「よくない状態」なのである。そしてそうやって把握された語彙において、私たちは一方でポジティヴな意味合いの語彙と、そうではなくネガティヴな意味合いの語彙があることに徐々に覚醒していく。そして前者を使用する時大人たちは何故かにこやかに、しかし後者を使用する時は、何故か曇った表情や語調で話すことに気づく。そして特に後者の場合には、もしそのように語られることを自分がしたり、そう表現される状況に自分があったりすると、自分は両親や大人から厭な顔をされたり、あるいはある時には強く叱られたり、あるいは気の毒がられたりするのだなということを直観的に理解するようになるのだ。特にそういう状態に自分があったり、そういう状態のことをしたりすると自分は叱られたりするだろうというような行為語彙や形容語彙を理解する時には多少の後ろめたさを感じて記憶するだろう。勿論悪い語彙は習得しやすい。それは外国人が罵倒するイディオムなら即座に自分の祖国とは違う国にいても即座に習得するのと同じである。
 つまりこの語彙を習得する際に附帯する状況に対する固有の印象こそが、私たちに固有の羞恥心、つまり何かを覚える際に伴う私的な事情(例えば両親とか上の兄弟たちの喧嘩とか、ずるい大人の態度とか)に対して、それは他者にはあまり明確には悟られたくはないという対外的な体裁的なこととして仄かな防衛心を介在させるのだ。
 あるいは最初は大人の耳からすれば明らかに間違った発音とか、使い方がちぐはぐな覚え方をしている場合もあるだろう。そういうことをも含めてどの様にある語彙を覚えていったかということは明確な形でではないにしても、どこかでぼんやりあまり芳しくない覚え方であったり、よく明確に最初から理解して覚えたりとか語彙毎に違いがあるだろう。
それは大人になってからも一々他者に告白することは滅多にないものの、自分では憶えているものである。そしてその語彙を聴くと一人で気恥ずかしい思いをしたり、やるせない気分になったりするのだ。
 つまり語彙習得のプロセスにおける習得事情の私秘性こそが羞恥の正体ではないかとここで私は提案したいのだ。しかしこの羞恥は表面的には記憶ということにおいても、他者全般が使用する基準を完全に把握した段階で一挙に忘却の彼方へと押しやられる。つまり他者一般と会話する際に意思疎通し合うためには然程重要ではなくなるからだ。私たちは要するに言葉の「仕組み」から言葉を「伝えるべき内容」へと問題意識(勿論無意識に内に、と言うか自動的な意識であり、説明し得る意識ではない)を移行させていくのだ。その際には私秘的な習得事情などお荷物なのだから。
 しかし誰でも一人になった時ふと想起に包まれる瞬間はあり、例えばその日帰宅してから、もし一人で生活している人なら(結婚していて、帰宅後も誰か他者がいる場合、寝ている時にしか基本的には一人になれないが)その日同僚や知人、友人と会話した時に使用した語彙そのものが急に気になりだし、想起は向こうからやってくる。そしてある瞬間に幼い頃には「その使い方はおかしいですよ」と母親に注意されたこととか、父親に「そういう言い方を親に対してはするな」とか言われたことをふと思い出したりするのだ。
 そしてそうやって覚えたこと自体を習得の仕方のニュアンスとして記憶そのものが疼くということがあるのかも知れない。ある語彙を聴くと何故か気恥ずかしい思いに囚われたり私たちはするのもその時その語彙を使わざるを得ない状況という現実を生きているからである。つまり現実に進行している事柄と昔にあったおぼろげな記憶とが刺激し合うのだ。それは奇妙な共鳴作用であるが、そこには羞恥が伴われている。そうだ、そういう風にして、つまり大人が話しているところをじっと観察することによって、(自分なりに)把握していた「世界や宇宙という語彙が語る真実」が一挙にある時それぞれに語彙に対応するようになるのである。また必死に何を伝え合っているのかということを把握しようとしているからこそ、大人の会話に加わりたいという気持ちがその一致させる作用と協同して言語習得はなされていくということなのだろう。

Saturday, February 27, 2010

〔羞恥と良心〕第九章 良心と羞恥とふりをすること

 我が国でも最近めっきり熟年離婚するカップルが増えてきた。そして老人もまた貴重な労働力として考えられてきた。その結果一つの仕事をずっと一生続けていくことよりも、勿論そういうタイプの人々もまた今でもいることはいるのだが、人生のしかもかなり年齢を積み重ねた後に転職したり、方向転換したりする人々も決して珍しくはなくなってきた。
 例えば熟年離婚と年齢が高くなってからの転職にはどこか共通性がある。それは何か長年勤しんできた努力にもかかわらず、そのことでは成果が得られないということに覚醒すること、しかもかなり後になって分かることにおいて共通している。
 例えば自分にとって向いていることというのはある意味ではある程度の時間を得て経てみなければ分からないものである。それは仕事に関してもそうであるし、愛情のレヴェルでの相性というものでもそうである。しかし人間は長い時間においてある程度人間関係的な意味では固定化した世界を築き上げる。そこで転職も離婚もそう容易なことではなくなるのである。人間という動物は社会的な動物であるので、築き上げられた人間関係というものはあくまでその人間の対他者、対社会としての誠実性によって構築されている。そこで「本当は自分にとっては自分はこういう人間なのだ。」と思っていても、尚外部世界、人間で言えば社会とか他者一般からすれば「あなたはこういう人間です。」と規定されやすい部分というものはあり、またその実像というものは他人一般がその人間を見るステレオタイプにしか過ぎないのであるが、同時に全く真実がないとも言えないものである。
 そこで人間はディレンマに陥るのだ。他人とか世間とか社会一般が自己を規定する自己の資質を受け入れて生きてゆくか、そうではなく内的な自己の選択に忠実に生きていくか、そのどちらがその個人にとって良質の選択であるかは個人毎しかもケース毎に異なり、一律に自分の内部、世間一般の評定どちらかが正しいとは言えない。だから自分の内的な願望とか欲求が正しい場合もあればそうではない場合もあるとしか言えない。
 しかし年齢が高くなってからの転職とか離婚といったケースでは世間一般による自己裁定に対して随順して生活してきた人間により多く起るケースであるとは言えよう。つまり自己真意に悖る形で人生を選択してきた、とある日はたと気付くというわけである。しかしその決断を鈍らせるものとして世間体とか社会一般の常識とか、要するに私の見るところ勇気ある決断を躊躇させる羞恥感情というものが立ちはだかるように思われる。そしてこの羞恥感情というものがどこかで自己と自己を取り巻く社会が一体化して構築してきたそれまでの自己に齎される恩恵というものに対する配慮と、それを一旦全て反故にしてでも冒険に打って出ることを抑制する良心、しかもどちらかと言うと保守的で逸脱を恐れる安泰希求的な小市民的良心が改変に伴う痛みを痛烈に告発し、潔い決断を鈍らせるのである。しかしこの冒険に踏み切ることに伴う逡巡というものが意味のない心理であるとは決して言えない。というのも人間はこの保守安泰的な心理によって日頃多くの不祥事とか危機を招き寄せることを予防しているからである。だからこの失敗と挫折を未然に防止する保守安泰的な判断は政治的でもそうであるし、個人人生設計においても極めて大きな役割を果たす。簡単に言えば夢を諦めることから人生の現実はスタートするからである。しかしある一定の年齢を超えると、そのことに対する懐疑もまた大きく頭を擡げてくるのである。そこで改革とか改変とか人生の一大決心という奴がかなりの高齢になってから押し寄せてくるのである。そしてその時良心というものが羞恥の味方をせずに、今度は人生全体を彩る人生観の味方をするのだ。(良心が保守安泰的な時には小心の味方をし、人生の転機においては勇気の味方をする)例えば二人の異性に惹かれることというのは、ある意味では倫理的にはよくないことだとされる。しかし同時にそういうインモラルなことばかりを追究することはよくないことであると知りつつも、時にはそういう選択の方が結果的には福を齎す場合もある。そしてそれはある程度結果論であるのだが、離婚して正解の場合もあるし、転職して正解の場合もある。(勿論失敗の場合もあるし、その方がずっと多いだろうけれど。)そして本当は一度も離婚することなく、一生一人の伴侶とうまくやってゆき、しかも幸福が追究出来ればそれが一番よいであろう。しかし人生というものはそう必ず巧くゆくものではなく、寧ろ失敗と挫折の方がよほど多く待ち受けているものである。そういう意味では一回くらい小さな失敗をしたり、挫折をしたりした人間をこそ基準とした人生哲学というものがあってもよい、と私は思うのである。その時私たちは人間は他者に対して羨んだり、嫉妬したり、妬んだり、要するに邪悪な心理を必ずしも完全には払拭することなど不可能であるという立脚点に立った考察というものが必要とされていると私は思うのである。その際に羞恥感情とそれ自体の揺れ動きという現象(それは恐らく人間の自信のなさが引き起こすものであると思われるが)、そして羞恥がいい意味でも悪い意味でも良心と結託しているという事態を直視すべきであると思うのである。
 そこで本論ではまず羞恥の揺れ動きという事態について暫く考えてみようと思う
 例えば我々の社会には通常では普通に結婚して子供を儲け、幸福を追求出来るのであれば、それが一番いいという倫理観もあるが、実際には一度も結婚することなく終わる人生というものもあるし、また性同一性障害等によって通常の性生活とか(どういうものが通常と言うのか私は知らないが、もしそんなものがあったとしての話なのだが)結婚観、家庭観があったとしてであるが、そういうものから逸脱して生活する人も大勢いる。あるいは通常のエリートコースからは逸脱した職業、つまり青少年の教育的観点からはあまり推奨されることの少ない職業というものも、それは健康管理上から言ってもそうだし、道徳的観点から言ってもそうだが、要するに通常余り表立っては自己の職業を他者に公言することを自ら憚る職種のこの世の中には沢山ある。(本当はこういう世間体のようなことは下らないことであると知りつつ、何故か抱いてしまうこともある)しかし実際そういう非順当的な要素を自分の人生に持っている人をあらゆるレヴェルから考慮すると、ひょっとすると借金があるとか、前科があるとか、要するにそういうものの皆無で清廉潔白で汚点も問題点も苦悩もない真っ白な人生というものは殆ど無いに等しいと私は思う。するとそういう脛に傷を持つなどと言ったら多少浪花節的になるが、不完全な理想からはほど遠いという事態こそ人生の最もありふれた実像ということになりはしないだろうか?しかし同時にそういう不完全で理想からほど遠い状態にある自分の事情とか秘密というものは往々にしてどんなに親しい他者にも公言することを憚ることも多いものである。そこに我々が本来的に携えている羞恥感情というものがある。そしてその羞恥感情を誘引するものとは意外にも理性的判断によってその他者が自分に対する心象を悪くしないように配慮するある種の策略であり、それは保守安泰希求的な心的様相ではあるものの、寧ろ良心の叫びでもあるのである。人間は自分はそうではないが、どこかで本来自分はこうあるのが一番いい筈だという倫理的にも能力的にもそういう自分独自に理想というものを持っているものである。それは当然人生の価値観であるから、個人毎に異なる。寧ろこの実現されていない理想に対する考えこそその人間の信条であり、思想であると言って差し支えない。この非実現的理想への思念の仕方こそ、その人間の行動パターンとか危機的状況に対する対処の仕方とか、要するにいざという時のその人間の決断の仕方、そしてその成果(よいものであれ、悪いものであれ)を決定するのである。
 ハイデッガーがしきりと「存在と時間」で本来性とか非本来性と呼ぶものとは実は、この自分はそうではないのだが、本来はこうあるべきであり、またもし理想の状態であれば、こうあるべきだという、ある種の思い込み、こう言ってよければ幻想のことについての叙述ではないかと私は思うのである。このテーゼは実はサルトルもまた「存在と無」で「それであらぬというありかたで私がそれである」という謂い(表現)によっても指し示されている。つまりサルトルは「本当ならこうあるべき筈なのに、事実としては常に自分はそうではない」現実の側から見据えてハイデッガーの言う本来性について述べているのである。この理想として設定したある種の「あるべき姿」とは私の理想であるとただそう考えるが、私の考えではそれを極端に逸脱すると、それは最早その時は私が私ではなくなる、という臨界値設定基準であるような気がするのである。それは恐らく「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」という一線であると思われるのだ。そしてその臨界値というものは当然のことながら、その設定されるものから設定値に至るまで個人毎に異なっている。それは当然であろう。何故なら我々一人一人が立たされた環境から生まれた時代の状況から、個人の性格、行動してきた軌跡、要するに経験や記憶の全てが異なるからである。そしてその「それ以上逸脱したら自分でも自分が恥ずかしい」ということは「自分で自分が許せない」からそれをもししたとしたら一生後悔が残るということであり、要するに羞恥感情であり同時に良心でもあるのだ。そして社会に迷惑をかけずに真っ当に生きていく知恵として考えるなら、その臨界値設定とその基準のあり方そのものは良質の良心であると言えるだろう。そしてその羞恥感情もある程度必要不可欠のものであると言えるだろう。
 しかし厄介なことに人間という動物は他の多くの動物同様良心に従ってのみ生きることに関しては苦痛に感じ、あるいは時には気楽に考えなければ生きていけないくらいの日常的ストレスをも請負って生きている。そこでレジャーとか息抜きとか娯楽とかが要求される。聴きたい音楽もクラシックが素晴らしい音楽であると知っていても、そればかりでは面白みがないということで全く異なったジャンルの純正統的な音楽以外のものへも嗜好傾向を持つようになる。時にはパチンコもしたいし、ギャンブルもしたいという想念が沸く。
 この日常的な安穏とした倦怠的で退屈な連鎖を打ち破りたいという欲求は人間では極めて重要な心的様相である。これを私は「ギャンブル的感性」と呼んでいる。ギャンブル的感性というものは、その努力によって報われる可能性が報われない可能性よりも甚だ大きい場合、それでも尚もし報われた時には一挙に明るい未来が開けるという一縷の望みに支えられた綱渡り的な賭けのことを言うのだ。
 例えばそれは必ずしも今している仕事が自分に不向きで嫌いだから止めようというような単純な決断に潜む心理とは言えない。寧ろその逆で自分でも気がつかない自分の能力に賭けてみるという冒険に顕著に見られる心理である。
 例えば再び職業のことに立ち戻って考えてみよう。世の中には自分にとって向いていてしかもそれが好きで、世の中もまた彼にはその仕事が最も向いていると感じてその職業で生活を成り立たせている所謂幸福な人の方が実際は少ない。寧ろ殆どの人が「自分は本当はこういう職業の方が向いているし、好きなのだが、社会が自分がそう自分のことを思う考えを受けて入れてくれないから仕方なしに今の職業を選択しているのだ。」と告白する人の方がずっと多いに違いない。
 例えば世の中というものはあながち自分が得意であるからその職業で生活してゆけるというものでもない。一番重要なことというのは社会全体が自分がする業務を価値あるものとして認めてくれるかというレヴェルでの判断が、その仕事で世間を渡っていけるか否かを決する。だからもし「何故今の仕事を選択したのですか?」と問われれば、「寧ろ自分では好きでないのだけれど、社会が自分に対してその職能を求めるからそれに応じて今の職業を選択しているのだ。」と答える人の方が私はずっと多いと思う。また自分で得意だと思う能力と社会がその人に対してその業務が向いていると判断する能力とは必ずしも一致しないどころか、寧ろずれているケースの方がずっと多いだろう。だからいい仕事をする人で、それが一番自分に向いていると感じられる人というのは極めて幸福なケースであると言えるだろう。そしてまたこれも言えることなのだが、自分にとって向いていると思ったり、得意だと思ったりしていることと、その能力が正当に評価されるという事態は全く異なっていることであり、それが一致することの方が少ない。そして社会がその人の能力を正当に評価するからこそ、自分でもその職務が向いているのだ、と考えるようになるケースの方がずっと多いであろう。
 そしてその事実は社会というものが自己というものの存在理由を構築するのだ、ということと、それに受け答えねばというような責務的な感情とか、対社会的な奉仕の倫理とかを醸成するものが、あながち自分の内部の欲求からではなく、外部的な状況とか時代的な要請とかに応じたその都度の自分の自己保存欲動的な判断によって形成されたものとして自己の良心とか羞恥(それ以上逸脱してはまずいと自分でも思う)が位置付けられる可能性を示唆している。つまり自分本来のものであったと自分で勝手に思っていたものの大半が実は自分が対社会的に対処してきた自分なりの対処法に応じて形成されたものであるという事態は、実は本来自分という観念そのものは幻想によってのみ支えられているということを物語っている。
 例えば子供を儲けるという家庭創造行為は実は何も自分の努力によって成し遂げられた能力ではない。それは遺伝的性質としてたまたま自分にも備わっていた能力であるに過ぎない。勿論子供を作り育てることが可能な環境それ自体を構築することはそれで一つ能力であり、ある努力の成果であるが、子供を儲ける能力そのものは自分の努力によってどうなるものではない。それは遺伝的身体的な能力に支えられている部分であり、意志的努力では逆にどうにもならないことである。しかししばしば人間はその能力が宗教的表現を赦して貰えば、「神によって付与された」とか「神の思し召しである」とか「神のお恵みによる」といった謙虚な気持ちになかなかならないで、自分の能力であると考え勝ちなものなのだ。そこで私たちは自分とは一体何なのか、という哲学的命題に再び立ち戻ることになる。
 自分が自分では向いていると思っていることが社会では認可されないディレンマを韓国人は「ハン」と呼ぶそうであるが、そのような心的様相を招来する事態とは実際的には如何ともし難い現実である。そこで我々は何故そうなのだろうか、何故自分の考えるように社会は自分を認めてくれないのだろうか、と考えるようになる。その時哲学的問いが自分にとって切実になる。そして今まで自分が考えてきた羞恥感情がただ単に自己の側から自己に対して推し着せた幻想でしかなかったのではないか、あるいは自己の変化とか日常的な惰性を破壊することで齎される日常的な生活の変化に対する恐怖と不安が齎した小心でしかないのではないかという疑念が、つまり寧ろ自分にとって大切だと自分で思っていただけのことで、そのことで寧ろ自分のあらゆる可能性を閉じ込めてきただけのことではなかったのだろうか?といった思念が浮上してくるのだ。そういう想念が沸々と湧き起るようになるのだ。その時私たちは初めて考える。日常的な安穏と変化のなさをどうにかしよう、と。その時変化のない日常を激変させる事態の到来に対して自然と身構える保守的安泰希求の打破を要求する。それこそがギャンブル的感性の活躍する場が設定されたことを意味する。
 ギャンブル的感性というものはある意味では保守安泰希求型の良心と安穏とした日常を受容している羞恥に対する疑念であり、同時にそれをぶち破ろうとする内的な攻撃的欲求に他ならない。
 人間には本質的に他者に対して身構えるという性質もある。特によくその人間の性格とか性質を把握しきっていない他人に対してはそうである。しかしそのような構えは徐々にその他人に対する信頼感が醸成されるに従って解除されていく。勿論その人間の実像を知るに反比例して武装を解除することに臆する場合もあるにはある。しかし通常実像を知りたいと望む心理にはその他者をどこかで信用してもいるのである。しかしそれをすることが出来ない人物に対して我々は通常いつまでたっても武装解除しない。その時我々は対他的攻撃欲求を顕在化させているのだ。日常性の打破と極度の生活の変化に対する怯えに対しても、実はこの攻撃欲求は役に立つのだ。

 その女性は結婚した。そして夫と共に生活する道を選んだ。彼女は愛しているふりをしていた。しかし愛してしまった。愛してしまった以上は身を焦がすほど接近することを求め始める。求め始めると所有したくなる。しかし所有は所詮不可能なので、常に距離が感じられる。他性認識の発生である。距離が彼女の愛を求めることを更に促す。求めることは求めるふりをすることから始まる。求めるふりをすることが愛するふりをすることになる。だから何かをすることとは、何かをするふりをすることと寸分違わないのだ。ふりをすることは示すことであり、それを受け取る者がその通りに受け取ることを望むことである。自己の本意とその本意の外面的現れは一致しないこともあるかも知れないが、一致しないことばかりであるということもまたあり得ない。だから愛しているから愛しているふりをすることとなるが、愛しているふりをすると、愛することともなるのだ。行為の持続がその行為を望むこととなるのだ。愛するふりをすることの下手な者は、愛しているが、そのふりをすることが出来ない(嬉しい時に嬉しい表情が出来ない。)こともあるし、逆にそれが上手な者は愛していないのに、そのふりをすることがどうということもないのかも知れないが、表面だけのふりは長くは続かない。それを見破る者が必ず現れるからである。だから表面的な取り繕いは他者に対する社交辞令的な行為と見做される。
 憂鬱な態度、刺々しい性格といったものも、その人間の身体病理、例えば胃や肝臓を治すとか、痔を治すとか改善する部分があるからそういう風であるなら、心と身体は一繋がりである。だから逆に身体病理を抱えているのに、晴れやかな顔をするのは、偽装となる。それ以外の偽装は相手を快く思っていないのに、好感を抱いたふりすることがよく見受けられる。しかしそれを持続してゆくとストレスが溜まり、一気に爆発してしまうであろう。だから逆に楽しいのににこにこしないで、ぶすっとした態度を採っていると、段々と本当に楽しくなくなるものなのだ。だから「ふりをする」ことは、それが本意であるのなら、不可欠な大切な行為である。それは意思表示なのである。意思表示はその時の心の内容を伝える意志の表示であると同時に、その表示が真意に基づくものであることの態度表明である。それは表情と見つめ合うことの中で取り交わされる。
 ただ「ふりをする」ことは、職務上のマナーである場合、偽装であるということも考えられる。例えば幼児なら両親に連れられてどこかの商店に入店した時に、にこやかに来客に笑顔で接する店員に対して「ねえ、あのお姉さん笑っていたよ。あの人僕のこと好きなの?」などと両親に問い詰めるかも知れない。(尤も私の幼い頃はそういう素直な無垢な子供が多かったが、今時の子供はテレビ等からの影響があって、そのような純真な感慨は持てないのかも知れないが。)しかし職務上のマナーはたとえ笑顔でも「ふりをする」ことであり、その人間の真心であるかどうか断言することは極めて難しい。たとえ消費者金融の事務職員さえ、金を借りに来る客に愛想よく笑顔で接するに違いない。
 勿論今の例は極端なケースである。しかし社会は偽装であれ本意であれ、見かけを重視する。それが消費社会の現実である。そのことについて少し考えてみよう。
 例えば私たちは皆顔だけは晒して生きている。他人同士がアイデンティティーを確認し合えるのは、顔だけだからである(直に接する時の場合)しかし顔を見て笑顔で接する人当たりのよい人間全てが善行に励んでいるわけではない、というシビアな事実を私たちは知っており、悪人がいい人のふりをすることは一方で悪事を働いていても尚対人関係上での礼儀や友愛的態度とは異なっているという真実を我々に語っている。だから一方で銀行やコンビニ、CDショップは盗難防止、防犯措置としてヴィデオ・カメラやスキャンを設置しているが、顔を隠すことはそれだけで犯罪者の行為(挙動不審)とされる。
 確かに顔を晒していてもただいい人の「ふりをする」だけの場合もあるが、その真偽を問うことを他人同士ではしないのが社会の通常の有様である。社会ではだから建前の方が重要なのだ。見かけが重要なのだ。もし悪行を重ねる人がいて、その人の知人が、挨拶もきちんとして愛想もよく親切な人が仮に逮捕されると、決まって「あんないい人が信じられない。」とテレビカメラの前の取材クルーに対して返答する場面が日常でもよく見られるが、その知人が犯罪者の日常に関して善人であると思うことそれ自体は間違いではないのだ。社会にとって人間の行為が悪なのであって、性格とか人間性とかはまた別のことなのだ。このことはルソーは「社会契約論」で社会人としての責務は人間性からではなく、奉仕の義務とその行為から評価すべきであるとしている主張にも繋がる。つまり性格が悪い人が社会的には善行をすることもあれば、逆に性格のよい人が悪行をすることもある、と考えた方が自然なのだ。すると「ふりをする」ことというのは意図的ではなく、一つ一つの行為の振舞いが個別の真実であり、真相であり、それら全てを統合した評定というものは又別であるということ、そして一々自分の全ての行動を見ず知らずの他人に知って貰うことは出来ないからこそ第一印象が大切であったりすることもあるし、顔つきや表情だけではその人間の全ては推し量れないが、表情くらいは真摯な態度で他人に接することが西欧社会では特に求められている(introvertよりもextrovertな真実を欧米社会では重要視する面がある。)という現実の根拠が示されるのである。(日本人はこういう社会倫理は欧米とは少し異なっているが)又だからこそ他人に全てを告白し、報告する必要もなければ、他人のプライヴァシーを詮索することはよくないことである、と社会ではされているのだ。しかし「ふりをする」行為が意図的ではなく、自然であることの方が多いことはここではっきりしたが(悪人の日常的な善人振りは技とではない。)人間は職業的な責務として例えばサラ金の事務所の職員がにこやかに債務者になる可能性のある客に応対するような偽装は、そうそう持続出来るものでもない。又通り一遍の挨拶程度の社交辞令だけで全ての人間関係を裁くことも又人間には出来るものではない。それは職務中でもそうだし、地域コミュニティーにおける人間関係でもそうである。だから逆に「ふりをする」ことも「真意を告げる」ことも両方その人間の真意であると考えた方が分かりやすいのだ。それは心の内容ということなのだ。人間の内面は外面から推察可能なのだ。顔が直に露出しているという事実がそれを証明している。しかし同時に心の内容の様相は理解出来ても、全てのデータを他人が推し量ることは不可能なのだ。ただ今の瞬間においてこの人は真剣に仕事をしているとか、物思いに耽っているとか、何かを思い出そうとしているかとかが了解されるだけのことである。行為とはその行為のための意識を集中させていることだからだ。だからこそ心とは心の内容であり、心の内容は外面にも表出するということなのだ。
 よって今私が心の内容を思い描くことそのこと自体は、ついさっきまでの自分の心の内容を、つまり過去の自分の関心と志向性(例えば今の私で言えば、このように文章を書くことで何かを残したいという思いとその何かという心の内容)なのである。しかし私の心の内容とは何かと今思い始める時、必ずついさっきまでの私の心の内容が関心対象として浮上するのだ。そのように過去の自分の心の在り様自体を対象化する志向性が、私の心の内容の中でも重要な意識であるということは間違いない。これを反省意識と呼ぶべきか、哲学的思考と呼ぶべきかはともかくとして。
 例えば社会人は(勿論学生でもよいのだが)テレビを見ている時、その番組の放送内容に関して刻々と感想を抱きつつ、内容的に何かを考えている。例えばある政治家の死去のニュースを見てその政治家の在りし日の姿を映像的に想起したり、自分の死んだ伯父のことを思い出したり、そう言えば最近見ないあの役者はどうなったかとか次々と連想を働かせる。そしてこうやって自己分析する私と、自己分析される私の次々と連想を働かせる私の心の内容は、対自的認識であると同時に即自的認識であり、私の考えとその私の考えに対するもう一つの私の考えという無限後退を余儀なくさせるような関係それ自体を綜合的に見た時に生ずる判断によって形成された像が「人格」となり、今私が自分なりに見たことによって判断する像の内容が今私にとっての私の「人格の内容」に他ならない。それは内容として位置付けられた結果である。後付作用による判断である。
 明日彼女に会えるという場合、彼女の姿を想像することは、過去の彼女のデータを通した追想である。しかしその全体像を裏切るように明日あなたが彼女と会うと彼女はそれまでの髪型を変えてあなたの前に現れるかも知れない。この場合、最初に彼女の顔を想像した時は彼女の顔の具体的想起が心の内容だが、「いや、ひょっとすると明日会う彼女は髪型を変えているかも知れない。」と思い次の瞬間、ロングヘアのいつもの彼女にショートカットの彼女を重ね合わせる。そのロングヘアの想起からショートカットの想像へと転換する一瞬、彼女の具体的像は消え失せ、意識の死が挿入される。つまり意識転換する時には、必ず具体的像に対する想起的集中が途切れ、その想起持続する「心の内容」それ自体を俯瞰するもう一人の客観的思念が浮上する。外在主義的な認識の登場である。その瞬間具体的像は消え失せ、抽象的思念が支配する。何かを具体的に想起する時、思念は純粋な志向性に裏打ちされているが、一旦その思念を打ち消すように客観的に思考する時、対対象的な志向性は途切れ、その「心の内容」を鏡に映して確認するように「心の内容」それ自体を反省する。それは日常的な自分の思念自体に対する思念である。しかし何かを想起する時には、必ず過去に見た姿の記憶が呼び出されるが、同時に眼を瞑って想念するのでない限り必ず今現在私が見る、例えば目の前のスタンドとかパソコンとかと、過去想起映像とが同時に「心の内容」に浮上している。その時過去と現在の、つまり記憶映像と現在知覚の観念連合が生じる。現実認識+過去想起である。ここには現実に対する認知と判断(前者)+過去現実に対する認識(後者)の複雑な様相が展開されている。
 私が他者に自己の本意を伝えようとする場合、その他者に私が好感を持っている場合、その他者に関する過去映像がフラッシュバックすることは少なく、私はその他者の瞳を見つめて話すだろう。そしてその他者に対して好感を抱いていることの「ふりをする」ことは非意図的になるだろう。しかし仮に今相対している他者に対して私が嫌悪を抱いている場合、私はその他者に纏わる嫌な思い出に纏わる過去映像を記憶として呼び覚ましているだろう。その時私は出来る限り嫌な他者に対して社交辞令として嫌な態度を見せまいとして好感を抱いている「ふりをする」であろう。そしてどこかその他者に対して瞳を見つめる行為もぎこちなく、敢えて直視することを差し控えようと無意識に私は考えている。つまり人間にはその対象に対して好感を抱いている場合は非意図的であるが、嫌悪の情を抱いている場合、意図的に振舞うのだ。つまり「ふりをする」ことが意図的な場合というのは嫌悪の情を抱いていたり、非常の場合で緊張していたり、要するに気を張っていなければならない状況下の場合なのである。だから銀行のATMで他人の口座から金を引き出そうとしている悪事を働く人間の心理は、写ったカメラに顔を向けないように工夫しながらも、それが悪事であるとばれないように気を配り、出来る限り通常の風を装うだろう。要するに普通の「ふりをする」のだ。しかしこのことはこのような犯罪の場面での人間の心理ばかりではなく、日常的な人間関係、家族内の感情に関しても起り得るのである。
 
 ここでひとまずその心理の分析をお預けにして、今度はその「普通のふりをする」ことで購わなければならない我々一人一人の人生における意識転換をある例を挙げて考えてみようと思う。
 彼女は結婚した。そして夫と共に生活するようになる。子供も生まれる。彼女はごく平凡で倹しいささやかな生活にも満足するようになるし、そのことで得る幸福を享受するようになる。そしてそれを幸福であると自己規定し、幸福とはそういうものだ、と概念規定するようになる。そして当然のことながら、幸せであるとはこういう振る舞いであるという世間一般の振る舞い(表情とか態度とか言動の全て)をする。要するに幸せである「ふりをする」。その振舞うという事態がどういう意味を持っているのかということに関して彼女は別段問い掛けたりはしない。そのことに取り敢えずは意味を見出せないからである。
 しかし彼女の前に、それまで自分でも気付くことのなかった全く自分にとっても予想外な夫にはない魅力を持つ、と自分でも思われる男性が現れたとしよう。彼女は結婚して子供もいるのだから、彼女の内面のこのような自分でも驚くような恋心とは、今まで持った経験がないのだから形容出来よう筈もない。しかしこの思いというものを彼女は何が何でも抑えつけねばならないのだろうか?そうではないだろう。確かに彼女はその男性に惹かれて夫も子供も何もかも振り捨ててその男性との生活を手に入れることが正しいとは言えまい。しかしだからと言って、内面のときめきの全てを断ち切ってしまわなければいけない、とも言い切れない。そのように強制することは、業務上致し方なく無礼な客に対しても笑顔で接客するような業種の人に、内面でも無礼な客に対しても好感を抱けと言って脅迫するのと同じことである。
 今のところ夫に不満はない。しかも夫と子供のいる生活に対してもそうである。だから新たに現れた魅力的な男性と、これまでの家庭とを天秤にかけて後者を選ぶことは社会的見識上では順当なことと言えよう。しかしにもかかわらず、この女性が仮に魅力的な男性との生活の方を選んだとしても、それをただちに正しくはない誤った選択であった、間違った決断であったともまた言えない。例えば義務教育とか、大学生くらいまでの教育機関ではこのような生き方を奨励することは殆どあり得ないであろう。しかしこのような殆ど突飛な選択がもしあったとしても(事実世の中にはこういうケースも実は沢山あるのだけれど)それを間違っているとは言えない部分にこそ我々は人生の不可思議を見出すのである。
 例えば人を殺すことはいけないことである。しかし同じことが戦場に立たされた兵士に言えるだろうか?例えばこちらから率先して敵兵に突撃することなく、ただ向こうからの攻撃を待っているある格別戦争に対して肯定的ではない兵士がいるとしよう。彼はだからもし出来得ることならば一人の敵兵も殺すことなく兵役義務を全うすることが出来ればよいとさえ考えている、つまり平常時であるなら寧ろ平和主義者と言ってもよいタイプである。しかしある時突発的に彼の眼前に敵兵が現れ、向こうがこちらに向かって銃口を突きつけ、今まさにこちら目掛けて射撃しようとしているとしよう。この時彼は人を殺したくはないのだから、どんなに向こうから攻撃されても、尚一発の銃弾も発射しないという選択肢も当然残されている。しかし、もしそうしたなら間違いなく彼は射殺されてしまうだろう。この場合彼は恐らく咄嗟の判断に自分の身を委ねるであろう。この場合彼は考えている暇はないのだから。(このことは先述した。)
世の中には正解が幾つも存在し、その中のどれが一番正しいかというような判断を必ずしも下せないものの方が、たった一つの正解しかないものよりもずっと多い。
 また何かを選んでそのことによって結果的に引き起こされた事態を通してしか何事も判断することは出来ない。しかしまた同時に仮に何かを選択したとして、そのことによって引き起こされた結果が芳しいものでなかったとしても尚、その選択が正しくなかったとは言えないこともある。
 そのことに関して哲学的に追究している映画監督がクリント・イーストウッドである。彼は自身が主演を努める映画を監督することもあれば(「センチメンタル・アドヴェンチャー」、「許されざる者」、「マディソン群の橋」、「ミリオンダラー・ベイビー」)、そうではなく他の役者を主演させて自身は監督に徹する(「バード」、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」)こともある。彼にとって行為選択というものは、そのことで結果的に取り返しのつかないことになったとしても尚意味あるものであるという認識を持つことがある、という思想に裏打ちされている。それは肺病を煩ったシンガーへの夢を捨て切れない中年男が彼を慕い憧れる甥を伴って旅をするロード・ムーヴィー「センチメンタル・アドヴェンチャー」においてもそうだし、やはり肺結核で若くしてこの世を去る不世出のアルト・サックス・プレイヤーのチャーリー・パーカーが選ぶ殆ど医師の診断を受けつけないような破天荒な生活態度(「バード」)もそうだし、一度は完全に足を洗った殺し屋ガンマンが友人たちへの復讐に燃えて再び無法者の人生へと立ち返る「許されざる者」もうそうだし、たった一晩の情事はそれが社会倫理的には許されないことであると分かっているにもかかわらず一晩の恋に燃える男と女もそうだ。(「マディソン群の橋」)いつかは自分が、倒して生涯障害を背負わせるかも知れないような痛手をずっと負わせ続けてきてその見返りとして倒されるかも知れないという可能性がありつつも尚、次の勝利を求めて止まない女性ボクサー(結局最後は汚い相手に打ち負かされ全身麻痺になって安楽死をトレーナー兼マネージャーに求め、それを恩人に受け入れて貰い安楽死する。(「ミリオンダラー・ベイビー」)、そして必ず負けて最後は戦死することが分かっているのに最後まで敵兵に対して最大の攻撃と防御を模索する中将の生き方を示すことにそれは表れている。(「硫黄島からの手紙」)、そのどれを取っても生物学的な種の生存戦略的意味合いからは矛盾だらけの行動を彼は描いてきた。そこにはある意味では人間だけが考えることの出来るとされる「生きることの意味」という哲学が脈打っていることの証拠だ。
 人間の行為とか行動は自然に、殆ど何も考えないようにしている場合は、意図的ではなく、無意識であり、そのことに関して取り立てて問う必要のないと知っているのであり、人生とは恐らくそのような問う意味のある行為や行動の方がずっと少ない。しかし同時にだからこそその結果死ぬことになっても尚、あるいはもしかしたら死の危険があっても尚、チャレンジし続けることの方に、ただ保守安泰希求的な安全だけを願うことよりも意味がある、と捉えることの出来る存在である。イーストウッド監督はそのことを言いたいがために映画作品を作り続けているようにさえ思われる。そしてこのイーストウッド映画哲学は我々の人生にも当て嵌まることなのだ。もし一々説明を要する必要のない行為だけで人生が成り立っているのなら、そもそも哲学のような学問など要らない。しかし私たちは問うことばかりでは先へは進めないが、先に進むだけが人生ではない、という風にも考える。そしてその時初めて普段は問い掛けもしなかった行為(その連鎖こそが生活という実態なのだが)をただそういう風に行為しているのではなく、問うことの意味を放棄している、あるいは放棄する「ふりをしている」自分を発見するのである。だからこそ「ふりをする」行為が実際はことの他多いにもかかわらず、それをころりと忘れていて、一旦そのことに対して自覚的にならなければならない必要性から我々は、「ふりをする」ことを自らの行動や考え(それもまたそのように「思おうとしている」、「考えようとしている」という風にも捉えられるのだから)を一回全て言語的に、あるいはそれを通して人生全体における意味として捉え直すことをしようと考えるのだ。そしてその時、我々の日常の何気ない行為の全てが、ライル(哲学者)の言うようにただ「何かをする」のではなく、「何かをする<ふりをする>」行為の連鎖であると気付くのだ。そのことに対する覚醒は実は哲学的な反省意識がなければなされないのだ。そしてそれは対自的な(即自的ではない)認識に基づいているのである。つまりあの時私は自分の気持ちに従ってああいう風にしたからこそ、あの行為が成し遂げられたのだ、とか、ある人に自分の気持ちを告白したからこそ今友人であり、あるいは恋人であり、伴侶である、あるいは逆に交際することなく終えたのであり、要するに自分の意図したことによる成功例を常に判例としながら我々は一個一個の行為を積み重ねているのである。それはある程度経験的事実というデータの暗黙の有効利用とも言えるのである。そしてある行為が自覚的であり、意図的であるかどうかの判定基準とは、概して非意図的であるような経験的判断ではない決断に見られる心的様相とは、習慣的、慣習的である行為の連鎖に対する懐疑が呼び起こしたものである、という側面があり、つまりそういう惰性的な人生の時間のない人間には意図的な決断というものもまた不必要である、ということである。人生の大きな転機というようなものは概して非意図的行為の連鎖、つまり慣れという惰性に埋没している生活実態があればこそ、その反省から生み出されるものなのだ。そしてその惰性に対する反省というものは、実は惰性的にしてきた行為の連鎖を、もう一度ただ「する」ことなのではなく、する「ふりをする」というレヴェルまで行為の意味を捉え返す必要があるのである。何故なら「ふりをする」という行為はあくまで意図的で、敢えてする行為だからである。
 だから嬉しいから嬉しい表情をする、ということは通常の認識である。しかし逆に捉えれば嬉しい時に嬉しい表情をした方が、概して我々は他者からは好感が持たれるという先験的事実を我々は無意識の内から認識しており、だからこそ我々はそういう態度を採ってきたのだ、というもう一つの事実に着目すれば、我々がそういう態度を採ることは、必ずしも嬉しいから嬉しい表情と仕種をするのではなく、限りなく嬉しいふりをし、嬉しい表情や仕種をするからこそ嬉しくなるのだという事実として相貌を転換するように我々に迫ってくるのである。このことはただ認識の転換を意味するばかりではない。我々の生の実存が、経験的な行為の連鎖によって、習慣化された行動パターンに埋没することの素朴な人生の信仰が、我々の行為選択から言語的思考に至るまで支配しており、我々が通常考える価値とか幸福感とかいったものさえ、自己内にインプットされたステレオタイプによる瞬時の非意図的判断でしかない、しかし同時にその判断をなし得るのはただ単に、時間的にも、生存維持の観点からも健康で、今のところ死は遠い先のことである、という非哲学的態度の無自覚な採用以外の何物でもないということを意味する。しかし実は時間の猶予も、健康の維持も、死もある日突然襲い掛かるということが実は人生のもう一つの事実なのである。このことは多くの哲学者たちも論じてきた。そしてイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公の女性プロボクサーのようにどんなに連勝していきても、ある時突然気の緩みで、突如活躍どころか健康的な生の持続さえ危ぶまれる危機に直面するような可能性に私たちは常に隣接して、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしているとだけだ、ということなのだ。
 だからこそ逆に親しい友人や愛する家族に対して我々は楽しい時には楽しい振る舞いをし、辛い時には辛い表情や態度や仕種をすることで、相互の本意を読み取りやすいように心掛けているのである。つまり内心の本意を正直に表わすことという行為には、「ふりをする」ことが内心の真意であることを示すことによって肉親、家族、親友といった自己にとって大切でかけがえのない人々に対して、そうしてきたからこそ信頼と信用と愛情を獲得し得たという記憶が拭い難く我々の脳裏を席捲しているからこそそうしてきた(殆ど無意識に)のである。それは考えてそうしてきたのではなく、寧ろ非意図的にそうしてきただけであり、またそのように自らの意図をごく自然な、「ふりをする」ことをしないで、常に偽装的態度でのみ他者と接し続けていたら、我々は心が窒息して生きてゆくことが出来ないと、本能的に(この言葉は哲学上では、あるいは進化論上でもご法度とされているようだが、これを使用するしか、この場合手はないのだ。)覚知しているからである。つまり我々は実は無意識に自分が死んだ時のことを考慮に入れて全ての行為に臨んでいるのだ。だから「ふりをする」こともまた明らかに意志である。それは真摯な嘘である。そして真摯な嘘とは誠実で偽らないことなのである。意志には「どうしようか」という逡巡に対して、あるいはそういう思念に対して「こうせよ」と指示することに等しい。それは思索の断念なのだ。そこには必然的に対自的な「語らい」がある。「語らい」とは思索の意味ではない。それは存在論的な決定なのだ。そして何かを決心している時我々はどこかで巧くいった時の記憶を呼び戻しながらも同時に、それを少しだけ逸脱した不確定要素へと飛翔するギャンブル的感性をも採用し、その未知の可能性に対して賭けるという意識がある。
 ギャンブル的感性が日常生活で役に立つようなことがあるということの背景には、必ずその不確実なものに対する賭けを意味あるものにする確実なことというのがなければならない。それが日常のルティン・ワークである。日常のルティンがあるからこそ我々は時として常習的な事柄から逸脱することに意味を見出せるのだ。
 例えば我々はテレビで悲惨なニュースを見て、それが自分の目で確かめた(実際にその現場で見た)わけではないのに、「酷いな。」とか「気の毒に。」とかその映像を目にした時思う。実際に自分の目で近所の火事の現場を見た時我々はその日の夕方テレビにニュースで報じられた火事の映像を見ると「実際とは違うみたいだ。」と思う。誰しも一度は経験していることではないだろうか?それなのに我々は自分の目で見たものではない多くのニュースをあたかも自分で目撃してきているような錯覚に陥る。しかし実際それらはテレビの映像がただ脳裏に記憶して焼きついているだけのことなのに、我々はそれが各放送局のニュース報道を巡る放送姿勢によってある程度の脚色をされて報じられているのに、それらを実像として受け入れる。このような日常もまたルティン的な行為の連鎖の一部に位置付けられる。さて我々はしかし時としてマスコミ報道そのものに対してある種疑いの目を差し向けたいと思う。それはある程度意識的に冒険心、逸脱希求的な心理が要求される。そして見て見ぬふりをする、敢えて苛酷な日常の報道の渦中にいながら、報道されることを幻想として認識することをしようとすると、全然今まで気が付かなかったことに気づく。それは報道とは事実ではなく、事実像なのだということを。しかしその時同時に思う。報道されることはある程度放送局の思惑によってどの局のものも恣意的にトップニュースになるもの、敢えて報道する必要のないものと選別されているわけだが、では報道されないことが全て意味のない事件的価値のないものであるとは決めつけられという意味では全ての報道を疑ってみることは大切だが、だからと言って報道されること全体が虚像であると決め付けることもまた一つの大きな思い違いであろう、と。
 私たちは自分が他者を適当にあしらったりすることがある。鬱陶しい奴というのは誰でもいて、そういうタイプの他者にはすげなくしたりする。しかしその時その行為が特に悪意のあるものでなくても、そういう態度をとられた他者(そういう態度を採られる最初のきっかけはその他者が他人に対してある程度そういう態度を採ってきているからであるケースが殆どなのだが)が昨今問題化しているいじめ被害者の心理に陥ることがあればまずいな、一種のハラスメントになりはすまいか、と自分でも反省することはある。そういう時我々は自分が他人から騙されているのではないかという被害者意識を持つことがある。例えば今言ったマスコミ全体が国民を扇動しているのではないかというような妄想を抱くことは現代人の一種の特徴的傾向性かも知れない。その被害者である自分はまた同時に誰かに対しては加害者かも知れないふと思うこともある。昨日彼に言った一言は彼を傷つけたかも知れないと反省しながら、彼に対していじめることまでしなくても、どこかであしらいつつ誠実に接していないのなら、それもまた一種の騙しであるかも知れない、と明日からは彼にそういう態度をとることはやめにしよう、と思う。しかし一旦そうしだすと、それまで彼にとってきた態度そのものに関しては既に今はやめているのだから時効なのだということで見て見ぬ「ふりをする」。相手には自分がそういう態度をずっととってきたかも知れないと思いつつ、表面的にはそういう反省の意図を悟られないようにする。演技しているわけだ。
 さてその他者からの騙しをあざとく見抜くことが出来るのか出来ないのかがある程度騙され難い人間、つまり世間を渡っていける巧みさにも繋がるという面もあるが、同時に狼少年ではないけれど、他者からの悪意に敏感になり過ぎることというのは、ある意味では他人を信用しなさ過ぎる(最初から信用し過ぎてもいけないが)ことを意味するから、擦れた人格と他者から見做されるようになって人間社会では実害を被ることも多い。ある程度の自己防衛心は必要だが、必要以上に他者に対して猜疑心があり過ぎると逆に警戒され人間関係的には巧くいかないのが社会である。
 しかし人間はごく無意識の内に、つまり自分でも気がつかない内に作り笑いをしていたり、おべっかを使ってみたり、要するに何か今の自分の心の奥底に内在する本意とは違った、社会的に取り繕った何かいい子ぶる、つまり善人の「ふりをする」のだ。それは猜疑心の塊で、誰も真に信用しないことに比べれば一見よいことのように思われるが、そうではない。そういう偽装的態度というのは本質的に他者に対して猜疑心を抱いていればこそ、採る自己防衛と真意表出差し控えの態度なのである。それは話が戻るが自己の中に巣食う保守安泰希求型の心理に対抗し、撃破する構えの攻撃欲求(これを私は自己改革の精神なので人生の良心と私が呼ぶものに裏打ちされていると考える。)とは違った変化に対する恐怖が支配した惰性的慣習埋没型の心理で、それを私は生活の良心と呼ぶ。
 生活とは人間にとって経済レヴェルの安定を常に求めるから、それは惰性の死守である。しかし人生とはある時は生活を打破することも意味するのである。すると一切の生活の打破をしないでみみっちい生活の良心にぶら下がって生きている人間は、人生という最も大きな賭け(それは全体的に言えばやはり一種の賭けであると言ってよいだろう。)に損失を齎しているとも言えるのである。
 この人生の良心は何も必ずしも離婚とか転職にのみ存しているわけではない。そういう生活レヴェルから一転するような内的な革命のことばかりを言うのではない。例えて言うなら、道端に転がっている石ころに対しても、今までは目にさえ留めなかったのに、もののあわれを感じるというようなレヴェルの意識変革のこと言っている。
 そもそも人生という奴は不思議である。これこれこういうものが人生の在り方であり、それに沿って生きることが一番幸福であるなどと最早誰も考えてはいない。だから自分の好きなように生きられればそれが一番いいのだが、実際そのように自由に生きるということには金がかかるのだ。余程の経済力のある人間以外にはそのような悠長な生き方は許されない。そうなってくると、必然的に価値観における構成要素とか評定基準に他者とか社会一般に対する意識が含まれてくる。そもそも離婚も転職も自己にとっての他者、社会、あるいは他者、社会から見た自分というものの実像という認識が不可欠だからである。
 つまり人生は自分のものである、という認識に既に他者の存在が抜き差しがたく介在しているのである。だから他者は配偶者から親子に至るまで、あるいは友人から同僚、同業者に至るまで生涯その関係から離脱して生きることは実質上不可能な存在なのだ。そして本来良心と羞恥という感情、認識が存在し得るのは他者、社会というものがあってのことなのである。
 ここで羞恥感情というものの起源について考えてみよう。明らかに聖書にもあるように、人間はある時期から着衣し、裸の状態を他者に見せることに羞恥を感じるようになった。ここら辺はルソーの「人間不平等起源論」などに人間の内的現実に関して詳しく述べられているので、私は私なりの考えを述べてみようと思う。
 まず羞恥はどのホモ・サピエンス個体も同じように身体機能を携えているも、各器官の形状というものは外面的に、それは勿論顔とか頭の形も含めてなのだが、個人毎に異なる。そして当然のことながらある思念、それも誰でも抱くようなもの(哲学ではその普遍客観的個々の事象に対する認識を表象と呼ぶ。)においても、個的意味感受に関する内的過程とか意味把握に纏わる背景も違う。私は前章で我々が内的に言語習得する過程に至る前にも先験的に「世界や宇宙という語彙が語る真実」をア・プリオリに存在させていると述べた。これはどういうことかと言うと、そういうものがあったら表現したいけれど、語彙を知らないので内的にそういう感じというカオスを抱いているのだ。この段階では恐らく未だ表象とは言えない。表象とはもう少し他者との間で了解し得る、説明可能であると内的に明示している状態であると私は捉える。しかしこのカオスは例えば世界という概念も、自分とその周囲の外延的な一纏まりであることは確かだが、要するに世界の内容は当然のことながら個人毎に異なる。そこで普段何気なく我々が使用する世界とは明らかに語彙習得するプロセスにおいては、自分にとっての世界であった筈である。それを丁度大人が世界という(語彙習得している人間を子供も含めてここでは大人と言っている。)語彙を発話した時、「ああ、あのことだな。」と内的に納得してその語彙を他者と交わすようになってきているのだ。そしてこの内的プロセスに纏わる自分しか知らない事情とかエピソードがずっと記憶に、それがはっきりした形でではないけれど、残存する。それがその人間に纏わる語彙に関するクオリアなのかも知れない。しかしこの個的意味の世界、つまり語彙習得に纏わる幼児体験性に根差したもう一つのトラウマというものは、恐らく他者にそう容易に口外し難いものである。余程親しくならなければ、そうおいそれとは他者に告げられないニュアンスのものであると言える。それは羞恥の魁ではないだろうか?勿論衣服を剥がされた状態を他者に見られることに纏わる羞恥というものもある。しかしこの内的幼児体験に起源を持つ羞恥は、精神的であるが故になかなか根は深いと言えるのではないか?
 世界は自分の家族とか自分の住む環境である。赤ん坊にとって最初は部屋の中、次第に外界も知る。そして宇宙は最初空であろう。尤も宇宙という概念は空とか無とかの獲得の後に醸成されてゆく可能性もあるし、逆に無が宇宙の後に意味把握されてゆく可能性もあるが、何か宇宙というものの原形は世界とも異なったものとして先験的に存在し得る気が私にはするのである。