Tuesday, March 8, 2011

〔羞恥と良心〕第二十三章 予め用意されていること

 我々は生まれた時既に人類の間でミームとして定着していた言語体系に放り込まれる。つまりその既に用意されていた体系に必死に同化しようとする。
 それは幼児期に我々が確定的な仕方を、それぞれ個体毎に異なった経路からではあるかも知れないが、曲がりなりにも習得して、周囲とコミュニケーションを取ることが支障なく出来る迄になることを無意識の内に目指す。従って自閉症や言語障害なども、そういった一つの学習過程上での一つの様相である。
 さてそれはしかし大人になってある職業に就く時にも同じ様に待ち構えていることである。何故ならどんな職業でもその時代の使命とか、既に粗方決定されている、その職業が職業として成立する為の社会全体の中での役割が与えられ、それに準じた一つの業種毎のその時代なりの潮流があるからである。それはある方向を常に向いている。何かそういった旗が振られていたり、先端で指示したりしている様なことがない限り、一切の業務は成立し得ない。
 これは既に人類が誕生して以来、ある程度運命づけられている事態である。何故なら身体的な生物学的DNAが粗方決定されている様に、その脳内で考える内容も粗方決定されているとも言えるからだ。何か途轍もなく素晴らしいことを思いつく時我々は、それを自分の考えであると知るが、それはあくまで何時の時代にか、誰かが既に考えていたことでもある。それを知る過程そのものが、小学校から大学に行くまでの間の教育課程であり、就業してから今日迄の間に身につけてきた仕事の技術であり、理念であり、方法である。
 しかし予め自分が就業する時には形成されてしまっていて、その事実自体をどうすることも出来なさがあることは、一面ではその就業過程に於いて職場や職業に関わることで遭遇する社会環境自体の前提的な様相の前で就業者に固有の緊張を強いる。その強い方はそれぞれ職場や職種によっても違おう。しかしそこで何とか周囲の同僚との競争とか、協調、協力に於いて、それほど周囲の負担にはならない様に心がけるその構えには、内的な羞恥、つまりへまなことをして周囲から嘲笑を買わない様にしたい、という思いが巡っている。
 仕事上での使命に準じることで、我々は適度の競争と緊張によっていい成果を上げられる一方、その使命感に呪縛され緊張を持続する上で、相互に成員同士は周囲から「足手まとい」になりたくはないという気持を誰しも抱くが故に、予め相互に過度の負担を掛け合わない様にしようという智恵が働く。そういったことから組合も形成されてきたのだし、同僚間での親睦といった感情も生まれてきたのである。
 要は羞恥を相互に齎し合わぬ様にしたいという願望が、談合的な集団内様相を構成していくと考えられる。そしてそれもまた予め用意されたものの一つである。
 芸術家、学者、研究者、技術者などが同業者間で頻繁にパーティや懇親会をするのは、そういった相互に余りにも時代的潮流から外れていかない様に心がけたいという心理と、相互に異なった資質とか能力があること自体を確認し合い、相互に尊重し合う為に設けられた習慣である。それは一方では羞恥を相互に発動させ合わない様に工夫していると同時に、相互に些細なミステイクは大目に見てあげようという良心である。
 しかしそれが習慣的に定着して徹底化していってしまうと、例の大阪地検特捜部の書類改竄証拠隠滅事件とか、角界での八百長の様な事態を招聘するとも言えるのである。
 それは集団内部での協調的良心が過度に不文律化していってしまい、外部からの要請であるところの職業的使命よりも優先されていってしまう、就業者内での惰性的相互の心地よさへの追求の結果なのである。それはどの様な革新的な目的を帯びた集団であれ、組織であれ、法人であれ、必ず発生していく「予め用意されていること」自体が、円滑に業務を推進していく上で便利であるし、就業者にとって快適であるからなのだ。
 しかし就業者自身が快適に仕事が出来なければ、いい仕事は確かに出来ないが、その快適さの追求自体が職業的使命とか社会全体からの要請よりも優先していってしまうこと自体はモラルハザード以外のことではない。
 従ってある時には相互に羞恥を示し合う、つまりそういった心理に相互にならない様に図ることだけではなく、否もっと積極的にそういったこと、つまり暗黙の内に相互に批判し合わないという淀んだ空気を払拭して、要するに自由に批判し合うということ、変に上下関係とか対人的な恩によって齎される感情的配慮を無効化するくらいの徹底した集団内職業目的を純粋に追求する視点を常になくさない様にしていくべきなのである。そしてその様な円滑に集団内の対人関係的感情が維持されていくことだけに集団や組織が機能することを未然に防止する措置とか、チェック出来る体勢自体も、「予め用意されていること」に含めておくべきなのである。仕事上でのなあなあ関係ではない、要するに適度に相互にミステイクを大きくしない様に補正し合う機能を、対人関係的にも、仕事のプロセスに於いても、集団で相互に惰性的快適追求へと陥らすことのない様に計らうということが、実は最大の羞恥(それは集団全体の羞恥である)を未然に阻止する手立てなのである。
 そしてそれが意外と難しいのである。何故ならそういう風に巧く失敗なく業務が捗ることを目的として、「予め用意されていること」にする為の措置自体が惰性的機能に転化していってしまうことが多いからである。
 従って集団内では我々はこの措置自体を時々点検していく必要がある。つまり時々慣例的なこと全体を見直すということが求められているのである。そして「予め用意されていること」自体が完全固定化されていくこと自体を阻止する様にすること、少なくとも五年か六年に一回くらいは、全面的改正ということを行うということが求められていることなのである。

Tuesday, February 1, 2011

〔羞恥と良心〕第二十二章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part3

 前章で私は記憶と人格の問題に触れた。これは極めて重要な前提である。実際に自分のしたことを覚えていない場合には罪に問うこと自体が困難化する。仮に誰かを殺しても、その殺した記憶を失ってしまっている者を死刑にすることは倫理的には困難である。しかし巧妙に記憶喪失を装っているということは常に裁く側は考える。実際にそういう場合もあり得るからだ。だからこの問題はかなり厄介である。
 記憶は個人の所有である。そしてそれはかなり個的なことである。
 
 スーパーのレジの店員が女性で男性客に釣銭を渡す時、それを客が落とさない様に手を握らせる様に握ってくる(好意で)人がいる。同じことを男性店員が男性客にしても何の問題もない(何らかのゲイ的サインと受け取るかも知れない客以外では)が、同じことをもし女性客にしたら、或いはセクハラとして訴えられるかも知れない。迷惑条例違反に問われ得る。そこに奇妙なジェンダー的な歪さ(固有の差別意識、つまり女性に対する異様なる配慮)がある。そしてそれは日本ではかなり他の国よりも多いことではないだろうか?つまりそもそもそこまで客の為に心配りをするなどということは、よく聞くことであるがイギリスではあり得ないだろうし、アメリカでもそこまでではないだろう。
 しかし次の様な例ではどうだろう?
 スーパーのレジの店員に対して、その人が異性であった場合、しかもかなり美人であった様な場合(勿論そうではなくても)色々な想像をすることはあり得る。しかしそれは人には公言出来ない種類のものもあるだろう。しかし再び同じ店員がいるレジに向かうと、以前想像したことを思い出すということはあり得る。それは言語化し得ないものであっても、本人にとっては切実なことである。
 それはその想像を実行に移さない限り許されることである。少なくとも私はそう思う。つまりまさに記憶とは個的なことだからである。
 しかしそんな想像をすること自体をいけないことであるという倫理的考えの人も日本には多いだろう。何故なら日本は個人主義という考えが社会には根付いていないからだ。
 要するに日本は巨大な村なのだ。だから個人主義者、しかも徹底したそういう考えの人は絶対に出世出来ない。しかしその不文律にある種の息苦しさを感じ取っている人は実はかなり大勢いる。ツイッターをしているとそれを理解することが出来る。大半のツイートはそういった息苦しさ自体から出た呟きだからである。
 基本的に日本に都市構造というものが精神的に定着しているかと問われれば疑わしいとしか返答出来ない。
 確かに東京に行けば大きな銀行とか大きな役所に行けば、てきぱきと向こうから指示してくれる。そういう面だけ見れば都会とはそういう合理的な空間なのだ、とそう思える。
 しかしそういった職場の中に一歩従業員とか公務員とか行員とかとして入れば、そこでは極めて村社会的な精神構造を読み取ることは容易い。ブログ「トラフィック・モメント」の第五十三章でも書いたが、議員もマスコミも大局的な意見より、ずっと小規模な村社会的発想で物事を言う。これは議員(今では与党までもがであるが)がマスコミを意識しているということも出来るし、マスコミが議員の無策に影響されているとも言えるが、兎に角責任倫理的なことよりずっと心情倫理的なことを多く言う。最近の政治家では心情倫理より責任倫理を重んじたのは小泉純一郎という宰相だけだった(尤も彼の靖国参拝行為は少し違ったが)。
 日本では各職場では全体として和んでいる必要が各成員に求められる。これこそが村社会的だということである。ライヴァルがいてもいいし、仕事が終われば何も又別の居酒屋などに皆で繰り出す必要もない。その点で徹底的に友愛社会的である。しかしそれは決して都会風ではない。個々のケースでは都会風のバーで知らない人同士が声を交し合うことはあり得る。しかし少なくとも職場ではそうではない。
 これこそを制度的良心の日本型友愛主義と呼ばずして何と呼ぼう。そしてそれを成立させているものこそ、実は羞恥心があることが当然という心情倫理である。
 この国では勇気ある者を蔑む。皆の前で発言をすることを躊躇ない成員は出過ぎということになる。つまり慎みとは余り頻繁には意見を言わないということなのだ。それは公の場では少なくとも都会という空間は成立していない、つまり田舎芝居小屋での寄り合いと同じということを意味する。
 年配者、社会的上位者(その上位者はその場によって勿論異なる職務となるが)への配慮と集団全体の調和を常に取ろうとする。つまりある部分では葛藤とか意見の違いをそのままにするのではなく、巧く纏めようとする。そこで調停的な知性が異様に重んじられる空気が醸成される。そこからは永遠にユニークな意見は押し潰されていく。
 巧く穏便に全てを済まそうとする知性は日本人に固有のものではないだろうか?従って公職などで出世する人員はそういった知性の持ち主に限られている。だから逆に作家などの職種には勢い、そういった知性から程遠い人ばかりが寄せ集められる。そこに全ての職種に於けるワンパターンが構成されるのだ。だからこの社会には新陳代謝的なダイナミズム(それは年功的な意味合いではなく、資質論的なものとしての)が生まれないのである。全てがある程度先々まで読めてしまうということになる(まさに政治がそうである)。
 だから都市空間は確かに都市機能維持の面から言えば日本は他の国よりもずっと都会的ではある。しかしそれはあくまで飲食店などの店舗に於いては言えても、公共施設や役所、或いは民間企業のオフィス空間ではそうではない。つまり外見だけが都会的であり、内面つまり働く人達のメンタリティは村そのものなのだ。
 この点がこの国を極めて不可思議に矛盾した精神構造にしているし、又一方では奇妙な魅力ともなっている。
 確かにある会合でかなり場慣れした人はそうでない人に気を遣うべきではあろう。しかしもう既に何度も同じ会合に出席しているのに、一切ものを言わない人の方が、頻繁に意見する人よりも重宝がられるという側面はこの国では否定出来ない。それは会合自体の主催者の独裁的決裁をしやすくする為の巧妙な言い訳でしかない。大体に於いて何度も重ねて出席しているのに一切意見を言わない者は只の無能者である(意見を発言するという意味に於いてだけであるが)。その点でも機会平等の原理と発言の自由の原理がこの国では両立し難い。主体的であることは、公的である場合のみ許されるという雰囲気がこの国には支配的である。主体的であること自体が極めて個人的な色彩であることは、少なくとも日本ではクリエーションの世界以外では一切認められない(最近では東京都の条例で非実在青年という形で漫画やアニメの題材に於いて論議を醸したので、そうも言えなくなってきた)。
 要するに漫画やアニメ、ゲームソフトなどで過激な性表現が横行する背景には、実はものを容易には言えない空気を皆で美徳として作っているということが根底にはある。それが固有の日本人の羞恥である。本論文タイトルである「羞恥と良心」に於いて本章で初めて日本人に固有の羞恥に就いて私は触れている。第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる や第十五章 ツイッター上での人間関係論 に於いて私は現代社会固有の問題に就いて触れた。しかしそれは敢えて言えば何も日本に限ったことではないこととしてであった。しかし本章ではその禁を解こうと思う。何故ならこうして書いている自分自身がまぎれもなく日本国民だからである。
 端的に日本人が完全なるnationを生理的に嫌い、村落共同体を巨大化したものを尊ぶという社会性格的嗜好性とは、羞恥を美徳とするという暗黙の集団内秩序認識、そういった美徳に於いて人格形成してきたという集団論理に根差す。或いはそれは教育に於いてもそうである。従って日本ではインテリは概して温厚な性格でなければならず、エリートは一般人に対してジェントルであることが求められる。或いはそういったノブレス・オブリジは全ての先進国でそうかも知れない。しかし日本では極めて固有にそうなのである。
 それは集団内和気藹々体制への志向である。
 この点ではインテリ階級的な場ではそうとは限らない。しかし日本の集団、組織の大半はそういう性格のものではない。やはり決定的に凡庸な統括者の指揮の下で和やかに和気藹々に全てが対立など一切介在することなく進行していくということが大半ではないだろうか?
 要するにその辺がまさにかつての通産指導型的知性の民族なのである。護送船団方式は政治では批判されていても、精神構造には深く入り込んでいる。それは攻めと引きのタイミングとか、こういう時には発言をし、こういう時には黙っているべきであるという美徳から、その方法まである程度定型的に不文律化しているということをも意味する。
 今回述べたことが何故定着しているかということに対する根拠を歴史的、現実の実例をも考慮に入れて次回は考えてみたい。

Monday, January 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十一章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part2

 本章では内的良心と外在的にある個へ良心を責任倫理的に課すということの間の齟齬に就いて記憶の問題から、つまり記憶喪失者は果たして処罰し得るかという命題を、人格と刑法学的見地から考えてみたい。大仰な言い方をしたが、何のことはない、案外単純な論理である。
 思考実験として次の話をここで示す。
 ある中年の歌人がいるとしよう。彼は長い間別の職業をしてきた。そして本当には自分がしてみたいことと向いていることが短歌を創作することであると、ここ数年の間に覚醒して、人生上で方向転換をしようと試みてきた。その過程である同人と知遇を得る。それが二十歳そこそこの天才的歌人であったとしよう。彼はその天才歌人と交流を図る。そして二人とも同じ歌人の新人賞を狙っていたとしよう。ある日中年歌人は青年歌人と相互に自分達の作った短歌を披露し合う。場所は青年歌人に誘われて彼の一人暮らしの自宅であったとしよう。その時中年歌人は自分自身の短歌に絶対的自信があった。しかし僅かながら青年歌人の短歌の方が優れていると直観した。そしてその時の新人公募が彼にとって最後の世に出るチャンスだと思った中年歌人は衝動的に青年歌人を殺めてしまうとしよう。彼は咄嗟に青年歌人の頭を殴って殺してしまう。
 しかしそうしてしまってから酷く中年歌人は後悔の念に苛まれ、半ば精神錯乱的に青年歌人の自宅を出て彷徨い歩く。そうしている内に不覚にも彼は信号機のない横断歩道に迫っている車を確認せずに渡ろうとしていて、その車に轢かれてしまったとしよう。彼はその時その衝撃で衝突した時刻から丁度一週間の間の記憶を失ってしまったとしよう。
 彼はその時刻から一週間前迄は自分で殺した青年歌人へ良好な感情しかなかった。つまり彼は人生上で初めて出会った親友であると思っていたのである。一重に彼を青年歌人を殺害へと赴かせたのは、最終的に予想もしない凄い短歌を青年が作っていたことを相互の歌を披露し合った時のことであった。彼は既にその瞬間の記憶を全く喪失している。従って青年歌人の遺体が発見されて、警察の科捜研等の捜査によって立証されて捜査の手が伸び一週間の間の記憶を喪失した中年歌人が逮捕されてしまった時、手錠を嵌められた彼にとってその事態は青天の霹靂であった。何故なら一切彼はその時点では青年歌人を自分が殺したという記憶を持ち合わせていなかったし、尚且つ彼は一切青年歌人死去事実を記憶喪失して以来認知していず、まさに逮捕された時点で初めて親友(良好な感情しか持ち合わせていない状態で)が殺されたことをデカ達から知らされ、しかもその犯人が自分自身が失った一週間の記憶の時期の自分自身であると知らされ、二重の意味で彼は打ちひしがれる。さて刑法学的に彼は恐らく酷い打撃を脳に被ったが故に、その一週間の記憶を死ぬ迄取り戻せない可能性がある彼の人格に対して彼を物理的には犯人であるからと言って裁くことが可能だろうか?
 彼は紛れもなく自分で記憶を失っている間に自分が殺した青年歌人の死去事実に対して酷く落胆し、悲しんでいる。記憶を失ってしまった時点以降の彼にとって青年歌人の死去事実とは悲しい出来事なのである。彼は悲嘆に暮れている。人格とは記憶と現在の行為の総計であるとすれば、我々は記憶喪失者を罪状的に訴追することが倫理的に可能だろうか?
 私はそういう判例を知らない。ひょっとしたらあったのかも知れない。しかしその時点では精神医療的認識は未発達であったかも知れない。しかしその様なケースが今日起きた場合、我々は如何にその判例に向き合うべきだろうか?刑法学的に犯人を罰することが可能であるのは、少なくとも倫理的にはその犯罪事実に対して犯人としての認知を本人がしている、ということではないだろうか?
 さて貴方はこの判例に対してどの様な判決を下しますか?

Friday, October 22, 2010

〔羞恥と良心〕第二十章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part1

 人類に未だ国家がなかった時当然未だ貨幣経済が定着していたと言う事はないだろう(尤もバーター取引などはあった可能性は高いが)が、人が住む住居でない限り、農耕生活を営んでいたわけでもないだろうから、狩猟採集という形で、当然自然にあるものは只単に早い者獲りだっただろう。
 勿論先にある狩猟地を確保していた者が後から来た者を自己に追随させるということはあっただろうが、そういうことでない限り現在の様にどこかの自然が誰かの土地ということはなかったに違いない。少なくともそこに石が落ちていればそれを拾って自分のものにすることは基本的には自由だった筈だ。
 今日の社会では山を所有する人はいるだろうが、例えば石ころ一つ拾って自分のものにすることまで煩く取り締まることなどないだろうが、何らかの法的規制はあるだろう。まさか全ての木を切って勝手に持ち運んでいい筈はない。
 従って現代社会で生活するということは、人類にとって完全に自然のもの(木っ端とか石ころとか)以外では勝手にそこに置いてあるものを持って帰ってはまずいというのが常識である。
 しかし例えば貨幣が一つか二つ落ちていて、それが仮に一円とか五円、十円、百円というレヴェルだったら、それを拾って財布に入れるくらいのことは誰しも経験があるだろう。或いは千円紙幣くらいならそれを一々警察に届けるということを億劫でしないことの方が多いかも知れない。勿論交番の前で落ちていた千円冊を拾うのを躊躇するという心理は分からないではないが、たとえ千円でさえそれを拾って自分の財布に入れたことが発覚してその者を逮捕していたら、恐らく大半の日本人が逮捕されてしまうということになるのではないか?
 では幾らくらいの金額からなら、それを自分のものに勝手にすることがかなり良心の呵責に苛まれるものだろうか?(法的には勿論一円たりとも罪になり得るのだが、ここでは取り締まれるかということに対する考えとして)
 今の日本人の金銭感覚から言えば恐らく良心的な人で五千円、普通の人で一万円くらいが、それを持って交番に届ける下限ではないだろうか?
 勿論それは落ちている場所にも拠る。スーパーマーケットであるなら、落ちていた辺りで買い物をしていた人が落とした可能性は高いし、映画館なら鑑賞していた観客が落とした可能性は高い。しかし横断歩道や駅のホーム、駅のトイレに置き忘れてあったものを、自分で誰かが忘れるところを確認出来た場合以外で最初から置いてあったものということになると、確かに警察に届けることは義務でも落とした相手に届く可能性は低い。それでも勿論法的にも良心的にもそれはするべきではある。
 そこで今挙げた様な例に於いて幾らくらいなら勝手に自分のものにして、それを知人とか友人に告げてとやかく攻め立てられた時に「そんな大人げないことを言うなよ」と言い得て、逆にそう言われて白を切って「俺は拾ったものなんだから、俺のものだ」と言い張ることが犯罪めいていると自分自身でも思えるという境界設定とは一体何なのだろうか?
 つまり人間が社会的公衆道徳という規範に追随して生活しているということは、先ほどの例を発展させれば何処かの一般家屋の前に置かれてある自転車は確かにその家屋の住人のものである可能性、或いはそこに訪れている人のものである可能性が高いという意味で、我々はそれを「あっ、こんな所に自転車があった。これで駅まで行こう」などとは通常思わないということだ。それが常識で、それを逸脱すると非常識ということを言うこと自体が非常識にはならない。そしてその規準とは一体何なのだろうか?
 私は社会学者でも人類学者でも法学者でもないので、自分なりに判断していくしかないのであるが、例えばある地域のあるコミュニティーではその地域で生まれて育って死ぬまで過ごすということが大半の人の常識であれば、当然そこに移住してきた人というのは新参者として扱われるという不文律が形成されやすく、又そのことで後から来た者を排斥する様な空気でもない限り一応誰しもその地域に長く住んできた者の意見を尊重するということはあり得る。それは私の様に度々引っ越しをしてきた様な人間にとっては何度も味わってきたことである。
 しかし風が吹いてきて捨ててあった雑誌が自分の足元に転がってきたとして、その時一緒にその閉鎖的コミュニティーの長く住んできた人が隣にいて、それを私が仮に自分のものの様にしたとして、その時その先輩の住人が「私を差し置いて自分のものにするとは不届きな」などと言うことは通常現代社会ではありそうもない。
 勿論その風が吹いて飛んできたものにも拠るだろう。例えば仮に紙テープで一束に括られた百万円分の紙幣であったとしたなら、隣に人がいたならそれを自分の懐に仕舞いこむ者はいまい。しかし人が見ていなければかなり生活の苦しい者なら、それを猫糞するかも知れない。勿論その時彼(女)は内心では悪いことをしたという思いを後々味わっていくことだろう。これは誰かにとって必要な金だったのだ、ということを考えて、良心が疼く。
 人が隣にいてそれが決して出来ないというのは只単に羞恥である。それは恐らく人さえ見ていなければ一切警察に届けるということすらすまいと決め込んでいる者でさえ持っているだろう。それは端的に社会制度、つまり法的な拾得物に対する扱いということであり、それに対する規範逸脱を他者に知られることに対する羞恥である。
 しかし誰も見ていなくても仮に一万円でさえ、或いは千円でさえ交番に届けるという行為を決定させるものとは良心以外のものではないだろう。
 つまり我々はどこかで対外部的な行為や振舞いの体裁を取り繕うということと、そういうこととは無縁に自分の良心に忠実に行為しようという考えは全く違うことであり、前者には羞恥が介在しているということ自体が然程不思議ではないが、後者でそれをしないで自分のものにしてしまうということに対し羞恥を感じ取るということの間にはやはり歴然とした違いがあるのではないだろうか?
 これはある意味ではカント的命題でもある。
 前者の様に人が見ているから猫糞が出来ないというのは良心が介在していない。何故なら人から悪く思われたくはないという一点(対外的な振舞い所作的羞恥)で正しく振舞おうということだからだ。
 しかし後者の羞恥には内心の良心に於いて自然発生するものであるが故にカント的なのである。つまりここから理性というものが発生する根拠(或いはあり得べき理性とは何なのか)が問われ得るのだ。
 例えばもし先ほどの例の様に隣に長く自分が移り住んできた地域に住んできた人と共に歩いている時に風に吹かれて足元に飛んで転がり込んできた百万円をその先輩住人が「二人で山分けしよう」ということになった場合、それは間違っていると主張することは理性的である。しかしそれは当然正しい行為ではあるが、例えばその先輩住人に対してお世話になったとか負い目があるのなら多少は勇気が要る。そこで後からこの地域に移住してきた新入りであるとい手前適当に相手の言う通りに「そうしましょうか」と手打ちするという行為は最も悪しき俗人性による判断であり決断である。
 しかし昨今の証拠隠滅と改竄事件やら組織内での隠蔽体質を物語る多くの事例は全てこのケースに当て嵌まる。
 又もしその様に相手が共にいる場合だけ正義を貫こうとして、誰も見ていなければ黙って猫糞しようという目論みも当然あり得るが、それこそが最も卑怯な仕方であると言える。
 他人の前ではいいところを見せて、自分一人の時には平気でその他人に示した信念を裏切るということであるならいっそ、二人で山分けしようと提案された隣にいた先輩住人の誘いに乗る方がまだしも罪は軽い、と私は思う。勿論これは私の只単なる主観である。
 尤もそこら辺になると、罪とは組織的なことであれば許され、一人で遂行したのなら重いという議論へも直結するが故に混乱してはくる。その点で言えば恐らく一人でした罪の方がより制度的、社会的通念、或いは法的な意味では軽い。しかしそれではカント的な問掛けには答えたことにはならない。カント的な理性から考えればそちらの方がより重い、つまり良心を裏切ったことになるからだ。
 ここら辺になると、心情倫理的な正義(それはある部分では欧米社会では神に対する良心ということにもなるのだろうし、仮に欧米人的な意味では無神論者であっても、何らかの絶対的良心という問掛けではあり得る)を優先すべきか、それとも社会的正義、或いは公衆道徳的責任倫理を優先すべきか、という別種の問いへと発展する。
 ここで四つのケースを考えることが出来る。

① 隣に人がいるなら警察に届けるが一人でいる時には猫糞する
② 隣に人がいても共に山分けし、一人でいても猫糞する
③ 隣に人がいても一人でいる時にも警察に届ける
④ 隣に人がいても一人でいる時にも山分けするか一人で猫糞する

勿論これらのケースでは相手がどういう態度で臨むかによって変わってくるだろう。つまり相手が山分けする態度で臨むか、警察に届けようと主張するかによって、前者の場合には③では勇気が多少は要る(相手を窘めねばならないが故に)し、後者ならそうではない。
 又自分の足元に転がり込んできた場合を考えてきたが、隣に歩いている者の足元に転がり込んできた場合では相手から「山分けしよう」と言い出される可能性はより大きい。何故なら自分の足元に転がり込んできたのにも関わらず相手が「山分けしよう」と言い出すことは相手もかなりの悪であるし、厚かましさの極致であると言えるからだ。
 この思考実験では相手がいるとか、他者の目があるからということと、一人でいる事の間にある違いを無視してでも、正しいことは正しいと考えられるか否かという論点が問われている。
 この論点では絶対的善が問われているが、他人の前では正しく振舞わなければ恥ずかしいというのは相対的善的態度と言える。
 それに先ほどの組織内隠蔽体質とか集団犯罪と一人でする犯罪のどちらが重罪であるかという問いは法学的、社会学的問いである。その二つは前者では社会的影響力の有無を問うていないのに対して、後者ではそちらに重点を置いているという明確な違いがある。そして勿論そのいずれかが重要であるかということは言い切れるものではない。どちらも問いとしては充分価値あるものとして認識し得る。
 しかし先ほどの良心という問掛けとなれば、相手から悪いことを誘われればそれを跳ね除けるということで前者に、或いはそうでない限りは後者に大きく傾斜することとなる。何故なら良心とは内心の問題であり、責任とは又別箇の問掛けだからである。
 しかし羞恥というレヴェルに照準を合わせるとすると、確かにある意味では他人の前で正義を発揮することにも多少は付帯するし、又他人の前で自ら山分けしようと言い出したり、自らの良心を裏切って付和雷同したりして相手に合わせて山分けを承服することにも付帯する。この三つのケースでは明らかに最後のケースが良心に付帯する羞恥であり、欧米人なら多くが神に対する羞恥と呼ぶだろうし、前者であるなら羞恥的にも精神的には摩滅しているとも言える。
 この問いは重要な問いなので連続した何回かに分けて考えていってみたいので、今回はそろそろ終わりにするが、羞恥とは端的に対外的な素振り、振舞い、相手からどう見られているかということに纏わる装いの自然発生的、条件反射的態度の問題であり、内心をどこまで曝け出すべきかという対外的態度の取り方に対する社会的俗人的通念と自らの良心(余り相手に対して自己信念をひけらかすべきではない<それは日本人は欧米人より強いと言える>とか、相手を自己信念で縛ってはいけないとか、相手に対する信用度に応じて態度を使い分けるべきか否かという判断なども含む)との折り合いとか兼ね合いという問題が大きく関わりがあるとは言えよう。従ってこれ一つを問うにしてもかなり大きな問いなのであり、内的良心の命題とは別箇に外的良心の命題であると言える。
 そしてこの二つは容易に切り離して考えられない部分もあるのだ。そこら辺の問題を次回以降考えていってみよう。

Sunday, September 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十九章 人のことは分からない、それが羞恥の根源である/自分を追い詰める必要などない、何故なら人は自分のことしか考えていないからである/羞恥とは作られる 

 人のことは本質的に分からない、そうまず前提しおくこと、これが全ての理解の端緒である。何故なら人のことを容易に理解し得るのなら、そもそも我々に言語など必要なかったからである。
 私は前章に於いて「敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている」と言った。このことは極めて重要である。
 例えばスポーツ選手にとって最大の心得、長く競技を続ける秘訣とは何かと問われれば、多くの選手、アスリート達はこう返答するのではないだろうか?
 「負けた時余り落ち込まず、けろりと直ぐに立ち直ることが出来るということです。」と。
 いつも勝てると思わないところからスポーツは始まるのではないだろうか?
 これはあらゆる種類のビジネスマンにも言えることである。いつもいつもいい営業成績を取れると思わないこと、或いはいつもいつもいい顧客に恵まれると思わないことである。いつもいつもいい状態に自分がいなければ不安という状態そのものを棄てていく覚悟を持つことから全ては始まる。勿論いつもいつも最悪でも気にしないということとこれは同じではない。
 研究者はいつもいつもいい研究が出来て新しいいいアイデアが浮かぶと考えないこと、芸術家や文学者はいつもいつもいい作品が描けて(書けて)満足するということが普通であると考えるのを止めることから全ての問いがスタートする。
 だから当然他者一般のことも全て了解し得るのだ、という思い込みをまず棄てることから対人関係はスタートするし、全てを理解し合えるということをまず諦めるというところから全ての理解は始まるのだ。
 それは人生がいつもいつも楽しいということを諦めることから、あらゆる人生上での挫折に屈しない精神を養うということにも直結する。
 実はこの他人とは一体何を考えているか分からないということ自体が我々には羞恥があり、それを触れられると不快であるという当たり前の事実を示している。
 他人が何を考えているか分からないということは、向こうもまたこちらが何を考えているか分からないということを意味する。
 従って我々はこちらの考えていることを相手に伝えたい場合には相手もまたこちらに対してもそうであろう、と思い勝ちであるが、自分自身の胸に手を当ててよく考えてみると、自分が今考えていることを相手には余り知られたくはないと思うことは誰にだってあることであり、その場合には相手からこちらの考えていることを知りたいという態度を取られ、その相手の態度をこちら側が察知した時、相手に対して不快な印象を持つということもまた、誰しも経験していることではないか。つまりそこで相手にもまた羞恥があるということを我々は前提にして相手のことには必要以上には踏み込まない様にしているという事実を思い出すべきなのである。
 こちらが相手に踏み込まないでいれば大概は向こうもこちらへ踏み込んではこない。勿論時々例外はある。そういう場合にははっきりと相手に不快の意志を伝えればいいのだ。
 全ての世の中の理解は、全て理解し合えるということを前提としないこと、相手を理解することもそうだし、こちら側に対し向こう(相手)から完全な理解をして貰う様に相手に期待することも諦めることを前提とすべきなのだ。そういう風にまずこちらから前提しておけば向こうもまたそういうこちらの態度を通常読み取るものである。
 その様な前提をまず設定しておき、それを普通の状態であるとすることによって、相手は相手のことだけを考え、自分もまた自分のことだけを考える様にすることによって、相手は相手の責任だけを負い、自分もまた自分だけの責任を負うということに慣れていく様になるのだ。
 全ての挫折とは相手の責任をも自分が負おうとすること、或いは相手の存在の不在を必要以上に大きく捉え過ぎ、自分の存在を認可してくれる相手の存在に甘える様になることに起因する。甘えに慣れることが、甘えが実現しないことを挫折と捉える様に我々を仕向ける。と言うことは挫折を極力緩衝させる最大の方法とは甘えという心理が必ず挫折するということ、つまり甘えなどはそう容易には実現しないのだ、ということを常に念頭に置いておくことなのだ。
 それは孤独という感情を、相手不在であるが故に自己存在の認可者不在であると容易に思い込まない様に、相手という存在を全く期待しないでいることに慣れることで克服することを意味する。孤独を楽しむ心の余裕を持て、ということである。
 自分の能力を最大限に常に引き出せる様に思い込むのは、そうすることで少なくともその能力の行使が他人をも巻き込むことであるなら、自分自身によって相手を容易に変えられる(よくも悪くも)、或いはそうすることで相手から感謝されたり尊敬されたりすることを容易に期待することである。その期待に叶わない時に通常我々は挫折感を味わう。そもそも最初から期待していなかったことに挫折するということなどない。
 従って所詮他人は他人本人である自分のことしか考えてなどいないのだ、又それしか出来ないのであり、こちらのことまで期待などしていないのだ、とまず考えておくことが極めて重要であるということになる。
 要するに自分を追い詰める最大の要因とは、自分自身の中での他者一般への期待が大き過ぎることで、その他者から自分へ齎される恩恵を必要以上に肥大化させることによって、相手からこちら側への余りいい待遇をしないことに対する挫折感を大きくすることと、相手から感謝されたり尊敬されたりすることを普通だと思ってしまい、相手から見たこちら側の存在理由を大きく見積もることで相手から挿げない態度を取られた時に挫折感を味わうということと同じなのである。
 相手から期待されること、他者から待ち望まれることを普通の状態として心に持ち過ぎることが、自分自身が相手、他者に対し最大の貢献が出来ないでしまっていることに対し、自分の力不足であると深刻に思い悩む様に仕向けるのだ。
 所詮一定程度こちらも相手に対し礼節とするべきことをしておれば、後は多少こちらが至らなくても向こうは大して大きな幻滅を味わうことも失望することもないのである。
 もしこちらが相手に対し一定程度以上に礼節を保ち、努力して相手に尽くしたのに相手から何とも思われない時には相手に非があることもある故、当然のことながら自分の至らなさを追及して追い詰める必要など更々ない。
 羞恥とは相手に対してこちら側に齎されることを必要以上に期待し過ぎることで、相手を最大限に信頼し過ぎることから作られる。つまり、羞恥とはあるものである、というより、そういうものを発動させてしまう様にこちらから常に作られるのだ。羞恥とは我々自身が作ってしまうものである。それは端的に相手がこちらに期待しないのと同じ様にこちらも相手に期待せず、必要以上の負荷をかけないでおくことで避けられることである。
 その根拠とは端的に相手とは自分ではないということに尽きる。相手は自分にはなれないし、自分もまた相手にはなれない。だからこそ相手に対して期待しないこと、期待して相手のこちら側への出方自体に甘えてしまわない様にすることは大事なのだ。つまりそうすることで相手もこちらに期待し過ぎない様になるから、我々は大きな失敗でない限り相手から多少の過ちを看過して貰える様になるのだ。厭そう意識的にしていくべきなのである。
 本章の結論の様なことを述べるとすれば、相手に期待し過ぎて負荷をかけ過ぎることが、相手に羞恥を齎し、又それが引いては自分自身を追い込むという状態を作る。従って相互に期待過多でない状態をこそ常に自然である様にしておくことこそが、あらゆる必要以上の挫折を味わわずに済むということに他ならない。
 我々は他者の心に羞恥を呼び起こさない様に期待し過ぎず相手に精神的負荷を与えない限りで、自己を相手からも他者一般からも期待され過ぎない状態を常とすることによって自己の至らなさを必要以上に責めない自分を形作ることが出来るのである。
 相手を知りた過ぎることによって相手に羞恥を呼び起こすということが相手に期待し過ぎるということに他ならない。相手に期待しなければ相手もこちらに期待しない。そうすれば私達は相手に対し羞恥を感じることなくいられることが出来る。<注、相手とは世界そのものであることにも注意して頂きたい。世界とは社会から構成され、社会とは全ての自己にとっての相手、つまり他者によって構成されている。>

Saturday, September 18, 2010

〔羞恥と良心〕第十八章 ゼロサムゲームの興奮をどこかで望んでいる現代人

 経済社会では情報に対する希求がどこかで偶像的願望によって支えられている。それはより景気低迷期に顕著である。情報自体が既にある種のガセネタとかあらゆる種類の流言飛語と正式のデータとの違いが曖昧化している。特に株の遣り取り自体には、期待値というものが常に念頭にあり、消費行動を個人が決定する要因にある様な誘引作用と同じ様に、魅力的な市場、魅力的な株といったこと自体が既に集団内部で、国家規模であれ、同一業界規模であれ、会社規模であれ、その判定をピアプレッシャー的により他者を出し抜くということ、我さきに有効な情報を摂取しようという貪欲さ自体に翻弄され、次第にその有効な情報を誰よりも早く摂取するという手段の方が安全な株を買うという行為よりも目的化してしまい、デートレーダーの様な存在に象徴される様な、ゼロサムゲームを招聘してしまっている。
 マスコミもまたそういった市場や経済社会全体の動向を敏感に察知して、必ずしも有効な情報ばかりを報道するわけではなく、意外と多く流言飛語的情報に惑わされている。それはどの報道をトッププライオリティにしているかという選別と、決定に於いて極めて視聴率獲得とか購買数獲得の為に敢えて受けるニュースを発信するという本末転倒が起きているのである。
 ある部分では情報が期待と言うよりは欲望によって統制されている、と言った方がいいかも知れない。
 又そういった恣意的にショックを与えるビッグニュースを報じたいというマスコミ全体の欲求が、やらせを時に捏造させたり、より顕著にワイドショーネタ的な品格の片鱗もないこれ見よがしな視聴者の好奇を誘うものが余り多くなると、要するにマスコミ全体が国民を愚弄しているのだ、ということをまざまざと見せ付けられる。
 個人投資家はある意味では確かに誰よりも先んじて有効且つ信頼出来る情報をプロ筋から摂取することが死活問題である。しかしそれは一部だけがしているのではなく、全ての人達がしていることなのだ。すると当然ガセネタも多く混入することとなるし、仮にツイッターやブログを利用してもそれが混入する可能性は益々多くなる。
 しかしだからと言って現代人はそれらの便利なメディアを廃止してしまえ、とは思わない。それどころか加速度的にそういった利便性のあるメディアは増殖しつつある。すると我々現代人はそういったガセネタに踊らされる実害を被る被害者、まるでライブドアの株を膨大に買い占めていた株主が大損をする様な姿を「ざまあ見ろ」とでも野次馬根性で嘲りたいが為にそういった株式の遣り取りに参加しているという個人投資家も多いに違いない。つまりサディスティックな覗き趣味が潜在的には現代人にあるのではないだろうか?
 かつてあった五大新聞の信憑性とは、昨今では殆どスポーツ新聞や週刊誌とそう変わりないものとなっている。予想も大幅に外れることは多いし、だからこそこれからはインターネット、ブログ、ツイッターの時代であると仮に言ってみたところで、所詮それらも多くガセネタに占領されている。2ちゃんねる も大分社会問題化してきている。
 現代社会を生き抜くことの大きな一つの智恵とは既に何らかの形で外国であるなら戦争やテロの動画を容易にツイッターなどを通して観られると言う事、或いはそういった対岸の火事に対する物見遊山的な意味でのスリルを味わうことなのだ。それは恐らく戦時中からあったに違いない。何故なら戦争さえそれによって生命を失われずに助かる者にとって、そしてそれによって親族や家族を失わない者にとってスリルのあることだからである。
 戦争がないのであるなら、いっそその代わりに株式市場での失墜者と成り上がり者の興亡を外見的に見物するというスタンスが潜在的に我々の心に巣食っていたとしても不思議ではない。
 アクション映画よりも実際の世界経済の動向の方がずっとスリルがある、実際のサッカーの試合を見物するのと同じ気分で政治ゲームの興亡を見守る。全てが現実の虚構化ということなのである。現実を作り物の様に観察する、否そうとしか見ることが出来ないという心理こそが平素の我々にとっての自然なのだ。
 株式市場ゲームは、政治ゲームやスポーツのゲームと同じ様に興奮を誘うものである。そこにギャンブル的に参加する者に、参加者としての緊張感を与え、それが巧く行っている間は愉悦を感じ、いよいよやばくなってくると、心拍数が早くなり、次第に失墜する自己を想念する様になる。逃亡している犯罪者がいよいよ警察にお縄になる瞬間が近づいていることを自覚している様な気分である。
 従って敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている。いつ性病を移されるか分からないということで却って性的快楽に埋没している性行為依存症の様なものである。
 ネット中毒、ネトゲ廃人も同じ様な心理的傾向にあると言える。ある部分では現代人は露出狂的な自己顕示欲病患者であるとさえ言える。そうでなければツイッターで本音を吐露することの精神的傾向が平均化した現代人の像であることの説明も尽かない。
 勿論ツイッターをしているのは全ての市民ではない。しかし多かれ少なかれ現代人にそういった内心心情吐露的露出狂的要素があるからこそ、そういったメディアがどんどん作り出されるのである。
 やがて景気も少しずつではあるが、回復していく兆しも見えてくるだろうが、そうなっていった時再び景気後退へと加速する様な愚を繰り返さない様な心得を今から持っておく必要はあるだろうが、もう一度加速化する規制緩和の中で刹那的な興亡の行く末を見守りたいという欲望が全部消滅しきってしまっている訳ではないのだ。否寧ろ沸々とそういった欲望は潜在的に温存され、発酵されてさえいるのである。
 それは第一次産業的な生産に携わる人達よりずっと情報産業に携わる人達の方が多いという現代に顕著な特徴である。そして又ゼロサムゲームで誰が生き残り、誰が没落するかということを虎視眈々と観察してやろう、と世界中の人達がパソコンの前に座って注視している。

Monday, August 30, 2010

〔羞恥と良心〕第十七章 エリートとは一体何か?

 一般的にエリートと称される人達は国家とか大きな法人からかなりいい給料を貰っているので、日本では(恐らくアメリカでは本当のエリートは一般庶民などと同じレストランで食事などしないだろうけれど)余り横柄な態度を取らず、寧ろ一般庶民に対して自分達ばかりいい待遇をして貰って悪いという態度を示す事が多く、そういう謙った、要するに余り偉い人間ではないという謙虚さを示す度合いに応じて、エリートである可能性は高く、尤も大して凄い知性も優秀さも持ち合わせていず、それでいて謙った知性的態度を示すことだけは長けているそういう人が日本にも全くいないとも限らないので、その辺りの識別はそれこそ、あることに就いて自分自身がどれくらいの知性を持っているかということに最終的には依存していくので、全く何に対してもそれほどの知識も何もない人が仮に相手が本当のエリートかどうかを見抜く為のハウツー的な本を仮に書いたとしても尚、それはあくまで一つの目安にしか過ぎないということになるとは言える。
 私自身は全くエリート街道とは無縁の人生を送ってきたので、自分自身の周囲にどれくらいのエリートが(実は凄い人なのに爪を隠している様なタイプの人という意味で)いるかなど見当もつかないのだが、それ相応のエリートと言っていい人達とも多少なりとも知遇を得てもきたが、要するにもしエリートとは何かという定義を敢えてここで示すとしたら、それは敢えてリスキーな川及び橋を渡らない、安全且つ安定した道があるのなら敢えてそれに逆らわず、それを選ぶ、一応全ての自分より年配者の言うことは聴いておこうという態度を示せる、即座に全てを判断せず考える余裕を与えて欲しいという態度をどんな請求に対しても示せる、それでいて緊急の時にはそれなりに一般の誰よりも有効な手立てを考えそれを履行するか進言することが出来る、などの条件を全て兼ね備えているのなら、それをエリートと呼んでいいだろう。
 尤もそれはインテリとは少し違う。勿論インテリ且つエリートである場合も決して少なくはないものの、インテリではあるがエリートではない人も大勢いるし、あることに凄く秀でていることと違い、今述べた様な対人関係的に緊急の時の対処的知性に優れた要員とはそう多くいるわけではない。
 エリートではあるがインテリではない人もいるだろう。インテリとは端的によく本を読み、教養があるということに他ならず、そのこととエリート的条件は別箇であるし、エリートでもユーモアのある者もいるが、余りユーモアのない人もいる。只エリートで余りユーモアがないと心得ている人にはそれに何か代わり得る貴重な態度を示す事ができて、それが結局ユーモアであると受け取られることも多いかも知れない。
 インテリでユーモアのない人も大勢いるし、インテリでユーモアもありながら、緊急の時には誰よりもおたおたする様なタイプの、ある部分では間抜けなところさえある人も大勢いる。
 さて中生代に闊歩していた多くの恐竜は歯が鋭く強靭で、大きく分けてT字型で闊歩するタイプの二足歩行者と、Π字型で闊歩する四足歩行者とがあったらしい。
 面白いことにその両者とも肉食恐竜も草食恐竜も歯は尖っていて、それはどちらも強靭な咀嚼力が必要だからだが、又脚が極めて強靭な筋肉を持っていて、要するに走ることに長けていた。それは捕食者(predator)として獲物を狙いをつけて迅速に駆けて行き仕留める為であるし、その進化の軍拡競争に於いて被捕食者として逃走する為である。
 それはかなり目的的進化の産物だったことだろう。つまり脚力とそれを迅速に利用する為の反射神経に多大な進化のエネルギーを取られ、まさに生存していく為の条件自体がそれだけでかなりのパーセンテージを占めていたので、脳自体のそれ以外の部位の進化はその事実によるトレードオフで大したものではなかったと言えるだろう。
 その点同じ獲物を狙う敵対者や捕食者から生存を脅かされない様にする為に聴覚神経を発達させていた哺乳類にとって聴覚的進化が脳に齎したものは論理思考力だったと言える。それは只闇雲に獲物に突進したり、撃墜して噛み付くという様なエネルギーの代わりに、容易に獲物を捕獲出来ない時期やそういう機会に於いて別種の食料になり得るものを模索する様な知性を進化させてきたのである。
 要するに目的が一元化され特化されている場合、又そのことだけで生存が図れるのであれば、脳自体が突進し撃墜する為に要されるエネルギーと技能を進化させること以外に費やされる必要がなかったというのが恐竜の立場であれば、その逆に突進したり対抗馬と撃墜し合うことに於いては劣ってはいたものの、逃げて隠れたり、隠れている時に本格的食料以外の食べられるものを見つける知性を発展させた哺乳類はメキシコユカタン半島沖に隕石が衝突した際に、非常時を生延びることが出来たわけだ。
 それは知性そのものが特殊目的、しかも生存を最も大きく保証するものに特化していないという脳進化の条件によってだったと考えられる。
 つまり単一の目的に最適に特化した選択肢は、それ以外の選択肢への模索という知性を要求しなくて済んだが為に、ある部分では愚鈍なままに環境の一時的激変に耐えられなかったということが言える。それが恐竜が滅んだ理由であり、もし彼等の身体が巨大であっても、何らかの知性を同時に兼ね備えていたのなら、生延びた可能性もゼロではないだろう。
 要するにエリートとはある環境に特化し過ぎていないということがある部分では進化論的には求められているのである。つまり一つの環境に特化し過ぎていることは、かなりその同一の条件下に於いてはエリートとして君臨しやすい。しかしそれは現代世界経済社会に於いてなどに散見される様に、フレクシブルな対応を求められる激変的タームに於いては特化され過ぎていないということが精神的にも技能的にも求められている。
 勿論英語は重要だし、それが完璧であるなら、それだけで食べていけるとは言えるが、英語以外の語学に全く関心がなかったり、それを習得する意欲も能力も全くなかったりするよりは、いつ何時別の言語が自分が属する社会、共同体、国家で重要度が増すとも知れぬ場合には、英語+もう一つ別の言語への関心と情熱がある人の生活を救ってくれるということは大いにあり得る。
 エリートは時代毎に地球進化論の歴史に於いてそうであった様にその条件を変えてきている。それは職業に於いてもそうである。
 例えば大型コンピューターから小型化してきた時代の波でハードからソフトへと重要度が推移してきた歴史的経緯の中で、これからはハードもソフトもある時期が来たら、かなり安定してきて(需要的意味合いからも技術力的な意味合いからも)、不動点を模索し始め、今度はユーザーの天才が登場し、如何に既存の有益なメディアやツールやソフトを使いこなすかという局面に需要度がシフトしていっているものと思われる。
 事実未だに情報摂取と、情報提供と、創造的アイデアの提供に於けるスピードがより求められている時代であることだけは確かである。
 最早大学教授とか官僚であるとか、昔、常套的だった様な絵に描いた様なエリート像は有効ではなく、アウト・オブ・デイトであり、見てくれとか知識量とかイメージでエリートを推し量る時代そのものが終焉した、と言ってよい。
 尤も見てくれとか服装とか物腰よりも、これからの真のエリートはある種の好奇心、何事も既成の概念に囚われないでいて、しかも多様な関心領域へとアンテナを張って、又それでいてのんびりと何事にも対応していて、且つ仕事が速いということが条件となっていくのではないだろうか?それでも尚傲慢で人の言うことを聴かないタイプの成員ではないということだけは変わりないまま引き継がれて行く気だけは、あくまで私の直観ではあるがあるのである。
 それに未来のエリートとは厳密な意味で常に優秀である必要さえないかも知れない。適度に余り失敗のない様に全てをこなすのであれば、逆にある部分無知な部分が多くてさえ勤まる。つまり緊急の事態への対処(ある種の硬化した頭のインテリには不向きな)能力こそが求められているのではないだろうか?
 それは走ることに特化して獲物に撃墜して咀嚼していた恐竜が顎も頭も進行方向に尖っていた形状から逸脱していった形状の、つまり大脳を格納するのに相応しい形状になっていった我々の祖先の様なタイプの恐竜がもしいたのなら(その中でも羽を特化させた鳥類だけは例外的に隕石衝突後も生き残った)哺乳類との間で強力なるライヴァル関係を築き上げたであろう様なタイプの人類の危機に対処し得る様なタイプの知性(それは前世紀までに求められた天才性とは異なったタイプの)が求められているのではないだろうか?
 未来のエリートになり得る条件を満たしている者は全てに挫折してきた今の貴方かも知れない。