序
私たちは日々情報の渦に巻き込まれずに、この社会に生きてゆくことは出来ない。しかし全ての情報は言語活動を基礎としているが、本来言語活動は人間にとって外在的自然の脅威と驚異を告知するためであったり、内面の告白へと転化してきた(外在的自然の様相の客観的告知が起源なのか、そうではなく内面の告白の方が起源なのかは難しい問題だ。しかし少なくとも今自分と他者<発話パートナーとしての>が共に関わる外部自然の全てが、自分と自分以外の全ての人々が同時に体験する世界であるという認識の前ではそのいずれが正しいかというような議論さえ空しい。)ものであったり、要するに外部と内部に対する認識というものは、私たちの存在そのものが自然の一部であると考えれば、私たちが知る自然とか自然の力を抽象した物理学とか、それを数値化したり、それ以前の悟性的判断による数学等の学問を考え出すことが出来る能力を付与された我々自身の自画像であると捉えることもまた可能である。
しかし言語活動の心的な起源は、あるいはそれを形式的に支えてきもしたものの大事なことの一つは誠実性とフッサールとかサールが呼んだ告知すべき内容の真偽にかかわらず、伝える意志が真意であるということ(虚偽的申告さえこの場合意志伝達意志としては真意である。)であり、それは言語活動全般を発達させてきた最も重要な指針である(誠実性とはニーチェも考えていたが、ここでもっとプラグマティックな意味合いからフッサールとサールを挙げた)。
私たちの言語活動が、ある固有の言語環境によって左右され、そこで生きる場として認識される以上、言語の形式の発展に纏わる何らかの真実を探求することは無意味ではない。言語活動の原初的サイン(シーニュ)として表情を重要な役割に据えるという見方は今後益々意味を得るであろうと私は確信する。まずその手始めとしてニュアンス表現をここに示そうと思うが、実はこれが最後まで基本的な私の考えの軸となっていくことを最初に述べておこうと思う。
本文
「~するのに吝かでない」とか「~せざるを得ない」とか「~と思われる」とか「~するのを惜しまない」というような表現を「~することにした」とか「~しなきゃならない」というような通常の報告文以外にどういう風に使い分けるかという能力が、ある報告をする人間の言語能力、つまり報告能力にかかわる事態であるということはまず間違いない。それを有効に使い分けることが、ある種の報告者と被報告者の間の関係とか、相互に立たされた立場とか状況を、その時以外の状況と弁別することを通して様相の差異を表現することにも繋がるからだ。これは一種の様相論理の命題であるとさえ言える。
つまり「AはBである」という真理が与えられた時、その真理最小値としての表現が実は背後に今述べたような心的様相を携えつつ、その心的様相を排除して、必要最低限の報告内容に敢えて転化させてきているのが「AはBである」であるということを我々はまず覚醒しなければならない。「AはBである」が基本にあり、そこからニュアンスが派生するのではない。ニュアンスは最初からあり、それを伴ってしか「AはBである」は伝えられない、という真理をまず頭に叩き込んでおかなければならないのである。それはニュアンスが伝わらなければ表現が陳腐なものになるというような生易しいレヴェルの問題ではない、ということである。
私たちの日常に眼を転じてみよう。私たちは人間として一個の生物として欲求を持っている。それは社会人であるという意識であると同時に内的には、そういう生物学的な意味における欲望の塊でもある。例えば二人の異性を同時に好きになるという事態は決して珍しくない。しかしそういう時でも既に自分が結婚している場合、あるいはその二人の異性の内どちらかを最初に交際する相手と定めた場合などは、両方の異性を同時に交際することはよくないことだ、と社会倫理的にそう考え、内的な憧れのレヴェルに留めておこうと思ったりするだけのことであり、そういう抑制力を社会的なタブーであると文化人類学的に捉えることも可能だし、フロイトその他の精神分析によると超自我であるとしているものと関連付けることも可能だろう。しかしそれらは既に思念されてしまった「いい人だ。」という対異性感情に対する結果論的評定という心的様相において登場することでしかない。実存的なレヴェルでは同時に二人の異性を好きになるという事態を予め私たちは、「我々はそういう存在なのだ。」とキリスト教的原罪という観念に結び付けなくても、考えることは出来る。それがよくないことだ、とか戒めねばというような考えはあくまでも後付け的な思念でしかない、ということをここでは言いたいのだ。
教育レヴェルではことに自然科学認識を醸成するのには、基礎学習が極めて重要であるとされる。数学とか物理学といった学問は、段階を踏んで、ある学習過程における学習順序というものが重要であるとされている。それは勿論正しい。しかし同時にその順序はあるレヴェルに到達すると、別にその順序ではなくても、こういう順序でもよいのだ、という認識を得るためものであると考えてもよい。つまり認識プロセスというものは、その認識を得るための方便であり、実は無限にある到達順序の一つの例証であるということを了解するために設けられた一個の試験場であると考えればよいのだ。
だから二人の異性を同時に配偶者にすることが出来る文明も世界中で捜せば勿論あり得るわけだが、通常の国では禁止されているから、それに従うという行為選択とは、これこれこういう順序で認識を得ることを教育レヴェルでの基本方針で定めているからという事実を後日知るために実は我々は最初それに従っていると考えればよい。そのことを言語に当て嵌めてみてもよく分かる。
「AはBである」という陳述は真理値であるとされるが、それは、「<AはBである>という事実をあなたに伝えたい」、とか「<AはBである>と一般にはされている」とか「<AはBである>ということは真理である」とかいった、要するに付帯的であるように結果的には思われる幾多の表現ニュアンスこそが、まず先験的に我々の心的様相としては浮上するのであり、そのニュアンスを敢えて「AはBである」とだけに収斂させて陳述することそのものは、実は教壇に立って先生が生徒に伝えたりする場合は、先生が言うことなのだから信用しなければならない、とか信用すべきであるとかの思念を予め発話(陳述、報告)を聞く立場の人が認知していることを前提しているのだ。しかしその真理陳述という事態には、必ず「<AはBである>であるは真理だから覚えておきなさい」とか「<AはBである>とは一般的には考えられていないが私はそう確信する」という心的様相がまず基本としては立ち現れており、然る後その心的様相における報告必要性に鑑みた必要以上以外は除外されるという道筋を辿るのである。
だから官僚とか学者のよく使用するニュアンス表現「~することに吝かでない」とか「~のように思われる」とか要するに一般的には持って回った言い回しも実は、彼等の立たされた立場の無意識の表明以外の何物でもない、と言えるのだ。そしてその真意表明性というものは、ある程度許容されているものと、忌避すべきものがある、ということも又例えば先述の例から言えば「通常二人の異性を同時に好きになることは社会的には、そう許容されるものではない」という結論を「Cさんが好きになった」、「Dさんも好きになった」という思念の後に反省を抱くのだ。そして私たちは「AはBである」という発語をすることとなるのである。つまり真理のような何かを語る。
だから学者がある発言をしたり、官僚がある事項を報告したり、政治家がある発言をしたりする時に彼等が細心の注意を払うことは「AはBである」という陳述に纏わるニュアンスをどう表現することがあるケースにおいては的確であるかということなのであり、明確に断言すべきケースもあれば、推測的言辞であることを明示すべきなのか、あるいは仄めかすレヴェルに留めておくべきかということなのであり、それは外的に出力された陳述の齎す外部効果をも考慮に入れた決断ということになる。しかしそれでも尚、その考慮された末になされる陳述は喜んでそうしたのか、逆に苦慮した末致し方なくそうしたのかというようなレヴェルでの真意のプライオリティーというものは無限に想定されることになろう。そしてそれは仮に考慮した末の陳述が「AはBである」というものであっても、その陳述をなす時に態度、物腰、仕種それら一切を私は言語哲学的には表情と呼ぶのであるが、要するに表情を伴っているのであり、もし仮に一切そういう表情を排除して陳述したとしても尚、そういう無表情としての陳述であるという、やはり一個の固有の表情による報告と我々は見做すのである。
だから学者、官僚、政治家、ビジネスマンといった人々がある陳述を行う際に、その陳述をなしたことにより、あるいはその陳述内容、陳述報告態度如何によって形式主義的なニュアンス表現如何によって真意の表出(それは報告する人への信頼によってさまざまなレヴェルとなり得るが)と真意の隠蔽の微妙なバランス配分そのものの報告ともなり、その陳述の背後に控えている陳述者の立場の表明にもなり、通常大人の会話では、陳述内容そのものと陳述報告態度を伴った全体からその陳述者の立場と、そのことによる陳述者の感情を読み取ること(友好的であるのか、敵対的であるのかというようなことも含めた)が要求されてくるのだ。
つまり言語活動においては、ある陳述報告は、それを報告する立場の人が、報告される立場の人に対する関係、感情、立場上の違い、信頼度、信用度といったものが常に陳述報告内容そのものと同時に表明されており、その二つは陳述報告する者にとっても、報告される者にとっても重要なメタ内容であり、その「内容」を報告すること、つまりメタ内容こそ実は、陳述内容以前の心的様相レヴェルの報告者の真意ということになるのだ。つまり我々は言語活動において、真意を告げるという基本的に思われる態度そのものさえもが、実は真意を全て報告する必要はなく、多少の隠蔽を伴いつつ報告することが赦されていたり、あるいは報告とは本来そういうものだ、という他者認識によって醸成された意思疎通の場という認識の俎板の上で初めて報告をしている、という事実に覚醒しなくてはならない。そして意思疎通というものは、実はこの真意をどこまで語るかというレヴェルにあるのではなく、真意をどこまで相手から引き出すことにあるのかという試験場としての意味合いがある、ということなのだ。それは数学とか物理学がある認識を得るための順序が予め教育レヴェルでは設定されており、それはある程度時代毎に微妙に異なりつつあるのだが、その設定基準を設けること自体の意味を把握するために我々は何ごとに関してもある順序を持って認識を得ているということなのだ。
言語活動という意思疎通手段とは、この真意の探り合いという試験場であるという事実は、逆に全て真意を最初に曝け出したら最早後は意思疎通の意味合いはなくなるという事実をも物語っているのだ。だから学者、ビジネスマン、政治家、官僚たちがそれぞれの立場で語る陳述に付帯するニュアンス表現は、言語を一つの競争、相互に自らの利害を得るために、利他的に振る舞いながらも、最終的には自己の側の利益に結び付けたいと願う者同士の信頼度、信用度の獲得のための手段として機能している、ということ物語っているのだ。だからどのような職業でもニュアンス表現が重要であるのは、実はそれが信頼度、信用度のバロメーターになり得る、いやそれをバロメーターにして言語活動をしているということの宣言が意思疎通であるという意味で重要なのである。
次に我々はニュアンス表現を意思疎通の場の宣言であるような相互の同意によって言語活動をしている実態に即して、幾つかの例を見ながら考えてゆきたい。
洗練、社会的地位安定性といったことが発話行為上でのニュアンス表現の常套的使用の一番いい例とは方言、あるいは職業毎の倫理基準に沿った言辞、例えば古い例で言えば、宮中言葉、大奥言葉、花柳界言葉、遊郭言葉であり、これらのものは伝統的にあるグループが別のあるグループに対して接触する機会(それが多いか少ないかはともかくとして)の有無によって微妙に異なるものとして発達してきたものと思われる。それは同一グループ内の同僚同士の意思疎通においてもそうだし、別々のグループに属する者同士の意思疎通においてもそうである。そして同一グループ内的な個人の個性とか、逆に異グループ間の個人の個性といったものは、おうおうにして前者は性格論的なレヴェルで、後者はグループ固有のラング(同一グループ内的秩序、法体系)の表明のレヴェルで活発に異的、個性が発揮されるものと思われる。つまり纏めると次のような図式が与えられる。
①対グループ内部的人間関係での発語=個人の個性(性格論的、個人的事情による話者間の相違)がバロメーターになる。 <話題設定基準>、<意見陳述態度>
②対グループ外部的人間関係での発語=個人が属する集団、社会の制度、形式的捉え方の個性がバロメーターになる。 <話題設定基準>、<意見陳述態度>
このことを分かりやすくするために、例えばスポーツの世界ということにしてみよう。テニスのような個人競技では、その選手たちがどこの国であれ、①の人間関係に即座に移行している。しかし体操とかそういう競技では、国体とか全日本選手権とかの場では①が、しかし世界選手権とかオリンピックとかでは②の意識がまず対外的には示される。
今食堂で午後の試合の前に昼食をとる選手同士の会話があると想定すると、当然どのような競技でも、最終的には個人の意志と能力が試され、それが目的(自己確立)なのであるが、最初に交わされる会話内容的な意味では国内選手同士であるなら、即座に①の心的様相になるが、世界選手権、オリンピックのような場では、まず出場選手同士は自分の属する国の統一的なチームの成員としての意識が、つまり②が先立つということは容易に想像される。そしてそれは国家というレヴェルでなくても、同一職業人同士の会合と、そうではなく様々な職業、つまり異種職業人同士の会合というようなレヴェルのものであっても同様である。つまり前者では個人間の存在意義が話題の中心にまずなりやすく、後者では同一職業間での常識とか世界観とかを代表して述べるという意識になりやすい、ということは容易に想像されよう。だから日本史的に見ても皇室(天皇家)と武士階級とか幕府とか異なった立場の人間同士の会話と同一階級、同一コミュニティー同士の会話では当然異なった展開と、話題設定、心的意識の設定が考えられる。勿論最終的な目的とか、友好的であるか敵対的であるかは問わず、対人関係的な意味合いは日本人同士でも外国人同士でも、同一立場同士でも、異なった立場同士でも(例えば弁護士同士、法曹界同士といったことから、弁護士と政治家とか、法曹界と経済界の人間同士とかいったこととか、被告同士、原告同士とか被告と原告の人間同士とかいったことが想定される。)相同のものがあり、それが哲学上の意思疎通の意味合いに対する認識の獲得に繋がる。しかしそれ以前的には明らかにこの同士の間柄でも同一のもの同士と異種の者同士ということでは真意表明性においても、ニュアンス表現使用様相においても明らかに異なった位相が立ち現れてくる可能性の方がずっと大きいということは真理である。
それでは一旦この意思疎通の同性と異性という問題から離れて、再び陳述のニュアンスの問題にも戻りつつ、言語表現の問題に着目しながら、考えてみよう。その前に先述の事柄を簡単におさらいしておこう。
例えば今ここに寿司職人同士がいたとしよう。その場合寿司についての職業的会話というものは想定される。そこでは百人いたら百人異なった味覚なのだから、当然同一専門職種同士のいきなり突っ込んだ専門的な内容の話になるであろう。この職業という外延をもう少し広げて寿司職人と中華料理シェフ同士の会話にしてみよう。ここでは専門は異なるが、同じ料理人同士ということになり、外延を広げた料理全体に話が話題として設定されやすいということは言えよう。今度は料理人と料理人を使用する経営者同士に会話を想定してみよう。するとここでは料理を作る立場と作らせる立場の違いが出て来るから当然職人同士の共通意識とは異なった今度は料理界全体の文化的、経済的様相についての会話が主たるものとなることが容易に想像される。そして今度は料理人(最初の寿司職人ということにしよう。)と食品メーカーの会社員の会話になると、今度は食文化そのものが話題となりやすく、今度は別の業界の職人同士となると、職人同士の個人の技を巡る哲学のことが話題になりやすく、要するに会話というものはその都度会話する者同士がその二人の共通点を探り合い、それを見出すことが容易ければ容易いほど、内容的に深度のある具体的なレヴェルへと到達し、共通点が見出し難ければ難いほど非具体的な抽象的論議に終始しやすいという、つまり同一焦点を持つ外延であるかどうかということ、そして別焦点の外延同士だとその会話はかなり困難になる。だから例えば職業が全然異なっていても尚同一地域の住民同士、同一地域で商売をしている者同士といったレヴェルでも当然外延は一にするものがあるわけだから当然話題を構成することというのはたやすいのだ。要するに意思疎通する相手とは通常それがどんなに離れた地域に住んでいても同一の目的でそこにいるわけであり、また逆に意思疎通相手とはどんなに離れた職種同士であっても同一の地域に住んでいたり、要するに何らかの共通性があるからこそ意思疎通し合えるのである。例えばある人気歌手のコンサートを見ている観客は全く住んでいる地域も、職業も異なっているけれども、その同じコンサートに集っているということが共通性で、そこで会話するとしたら、コンサートが始まる前や終了後にその歌手についての話題ということになるであろうし、同じ飲み屋で酒を飲んでいる人同士の会話は、余暇的時間のそういう場所での飲酒の習慣とか、他ではどういう場所で飲むのかというような会話の内容になりやすいであろう。要するに会話(言語行為の基本としての)はあくまで何らかの話者同士の共通関心領域の設定ということが行為性としては常に基本的に要求されるのである。
その共通関心領域を共通理解領域というレヴェルで考えてみよう、共通理解とは、それ以外の理解が成立し得ない普遍的な真理レヴェルでの共通性であり、その条件を満たさない限り、その真理に対する理解レヴェルでは話にならない、つまり職業的レヴェルから言えば、寿司職人にとっては必須の求められる能力、それは個々人の味覚の微妙な差異を超えた、例えば寿司職人であれば寿司ねたをご飯よりも際だたせるとか、中華料理シェフであれば、ラーメンの麺が伸び切らない内に迅速に調理するとかの何らかの必須の技術的条件があるものと思われる。それは概念とか認識に携わる職業の哲学者や論理学者でもそうであろうし、平和運動家とか慈善事業家のような職種においても又倫理的な心得如何の様々な条件が案出されるであろう。そういうものとしての真理条件について少し考えてみよう。それを先述の言語表現のレヴェルから考えると翻訳家の翻訳ニュアンスと翻訳技術のことを例にしてみるのは有効であろう。
例えば今次のような英語の文章があったとしよう。
I didn’t know what method she would like to adopt to that project.
この文章を私なりに日本語に訳すとすると、
「私は彼女がどういう遣り方でそのプロジェクトをしようとするか知らなかった。」
と今取り敢えずするとしてみよう。すると今度は私が原文から翻訳した日本語を更に英語に翻訳することを誰かが試みるとしよう。その人間は例えば次のように私の日本語の文章を翻訳するとしよう。
I wasn’t afraid to be known by anyone what course she tried to choose to accomplish that project
この文章を更に別の誰かが再び日本語に翻訳しようとする。そしてその結果
「私は彼女がどういう方針でそのプロジェクトを完遂しようとしているのかを知らされないことを気にしなかった。」
と取り敢えず翻訳したとしよう。
最初の文章よりもニュアンス的には明らかに彼女の行動に対する自分の無知に関する報告が、自分が下調べしなかったからであるというニュアンスから、やや人から知らされることが当然の筈なのに、それがなかったという非難の調子になっていることが了解されよう。自己責任や自然状態とか色々の事態が想定され得る最初の文章から一番下の日本語は明らかに外部的な圧力によって引き起こされた事態であるという認識へと表現が進化している。しかし重要なことは「私が彼女の遣り方(方法、方針その他)を知らなかった。」という事実であり、それが自己の努力の怠慢のせいであるか、外部的な不可避的条件によるものであるかはともかくとして、そういうことなのである。このようにもし仮に無限に翻訳を続けてゆくとしよう。試しに最後の日本語を再び私が翻訳したとしよう。
I didn’t need to be afraid that which way she took to finish that project.
この文章でも最初の原文のニュアンスは充分伝わるし、これは意味的には殆ど相同であると言ってよい。ただニュアンス上、彼女が何らかの方法を採用することに比重がかかっている最初の文章が、最後の文章ではそのことに関しての自分の立場に関する表明性に比重がかかっているということ、つまり当初の原文では彼女自身の事実関係に比重があるのに対して、最後の文章は明らかにそのことに関する自分の態度表明に比重があるのだ。これは第三番目の翻訳で、やや原文の事実報告内容率直性から、事実報告内容把握申告性へとニュアンスを変更したことに起因している。ここから流れが変わった。しかしニュアンスとはそれを直に報告したり、されたりした時には重大なことでもあるのだが、事実関係それ自体を確認する場合、それがどういう態度で表明されたか、どういうニュンスで報告されたり、説明されたり、叙述されたかということはそれほど重大ではない。
つまり事実関係に関する限り、その報告というものの性質上、ある一定以上に逸脱することさえなければ、どれをとっても本質上には差し障りがないということを表わしている。だからある事実例えば2005年の「自民歴史的大勝利」とか「自民圧勝」というような新聞の一面の見出しに対する解釈が肯定的であろうと否定的であろうとも、その事実関係に対する記述さえ誤っていなければ、その新聞報道に接する国民にとっては、つまりただ事実関係を知りたいというレヴェルから言えば「たいしたことではない」のである。
このようなある事実関係における報告を旨とする文章におけるさまざまなニュアンス上の差異をも克服し得るものを真理領域と言う。つまり私たちは通常ある陳述においては、この真理領域を無意識に指示しているのだ。だから逆にその真理領域の叙述という事態に対して、ある種の不明瞭部分が文章にあるとしたら、それは、その文章が未完成であり、不完全であるとするのだ。この文章は記述された場合であり、発語の場合には陳述となるのは言うまでもない。
そこで我々の意思疎通の真理条件の一つとして次のことが言えるであろう。
言語行為とはある真理領域の確定を旨とする。あるいは言語行為の意思疎通性とは真理領域の確定を志向する。
今分かりやすくするためにこの真理領域を円によるものであるとしよう。この真理領域に沿った各表現は全てこの円の円周上に位置する。そしてその同一の真理領域を志向する表現でないもの、つまり円周から離脱したものは、この私が与えた翻訳家間の翻訳技術上の真理条件から外れ、翻訳の態をなしていないものと見做されるわけである。つまり職能上の失格というわけである。私が仮に示したこの翻訳の連鎖においては、通常第三番目の英語が意訳であるとされよう。これはその状況を知っていて、この方が適切であるというケースを除けば恐らく翻訳ミスと見做されよう。それから後はこの第三番目の英語に比較的従順である。これをI wasn’t be heard~とすれば恐らくこのうような原文からの遊離はなかったであろう。恐らくこの翻訳家は原文を記述したり、あるいは発語した人物が何らかの狼狽振りを示してこの言辞を齎したことを知っていて、そのニュアンスをも伝えるべく意訳を施したと推察することが出来る。そして本質的に良質の翻訳というものは、その意思疎通上の感情表現でもあるところのそのニュアンス表現までするべきなのである。しかしそれにもかかわらず一般に我々の社会では、その報告に関して受け取るべき価値をほんの些細な事実関係のみ、つまり真理領域の値のみを記憶必須事実として採用しているというわけなのである。そしてしばしば意思疎通行為の権利獲得のためにはニュアンスまでをも含めた言辞全体が問題とされるが、報告陳述が報告内容、報告事実として記憶されるか、記述される場合には、この意思疎通の旨、意思疎通の志向性、要するに意思疎通の外部達成的目的というレヴェルでは明らかに真理領域のみで充分ということになるのだ。しかし少なくとも商売にかかわる人々がいくら売る商品が素晴らしくても、その売る時の態度が悪ければ、態度の悪いマスターの店のラーメンがいくら美味いからと言って、もう二度とあそこの店ではラーメンを食うかといった選択が成立するような意味では、我々は決してニュアンス表現が真意か偽装かのレヴェルではなく、社会通念上必要不可欠のレヴェルで意思疎通者としての心得を踏まえているか否かは、その報告内容とか報告事実の真偽性とか記憶必要事項としての認可の問題以前に重要となる。つまり「あいつの言うことは相手にするな。」という不文律が社会で成立するようではまずいということなのだ。しかしそれでも尚表現ニュアンスも重要であるが、まずもって報告事実の事実関係の真偽が真理領域設定性においてはまず第一義に求められる、そして建前上この真理領域の設定に対して、真理領域逸脱的事項、つまり真理領域逸脱的言辞(非倫理領域的言辞)を認めないということがもう一つの意思疎通上のルールであると言えるだろう。しかし間違いとか思い違いというものは誰にでもある。そこでこの間違いに対する指摘という行為の相互認定こそがもう一つの意思疎通上のルールであり、そのルールの受容こそが意思疎通者同士の連帯ということになる。
意思疎通上の連帯とは社会ゲームと私が呼ぶ言語行為を円滑に運営させるための成員の心得においては、間違いが派生することを前提に、一歩一歩確実に相互の内的価値システムを充足させるような行為として言語活動を位置付けたいと願望することによって言語行為そのものを価値ある行為にすることに他ならない。願望を抱くことがその願望を実現するための最も有効かつ実際的な行為である。そのためにこそ言語行為があるのだと相互了解し合うことそのこと自体が価値システムを構築している。
我々は皆同一円周上のどこかにいるのだが、永遠に円の中心には行けない(行きたいと希求しつつも)ということをどこかでは認め合っている。もし安易に円の中心にいると公言する者がいたとしたら、即座にそれが幻想であると説諭することが親切心であると皆考えているのだ。だからこそニュアンスを伝え合うことに我々はその人独自の円周上の位置を認め合うのだ。それは「あなた(お宅)はそっちにいるのですか、私はこっちにいるのですよ。」という受け答えであるということだ。大人社会というものの現実は、この遣り取りが至極簡単に遣り通せるか否かということにおいて、全ての職業が成立していると言っても過言ではなく、永遠に円の中心には行けないのだということを認め合うことにおいてのみ大人であることを通行手形として示し合うということである。それは職業という規定を個人に当て嵌めることで、存在認可し合うということでもある。
例えばジャーナリストは特有の言葉遣いをするし、セールスマンは自己がセールスマンである風に語ることに吝かではないということを他者一般に認めさせるように語るし、それを彼を取り巻く成員全員が期待していないように期待する。もし彼がセールスマンではないという風を装うとしたら、それはセールスマンとしては甚だ誠実性に欠けるということを彼も彼を取り巻く社会人全員が知っている。営業畑の人間はその了解において経済活動を円滑に執り行うように期待され、周囲の成員全員に対して期待しないように期待させる。巧い商品の宣伝は乗せられている社会成員を自発的にその商品を選んでいるという風に錯覚させることに長けている者に他ならない。だから彼の言葉遣いは外的対象としての消費者に対しては職業意識を仄かに漂わせながら、その漂う雰囲気は決して職人の頑固さとか依怙地さとかとは無縁であるべきであるという世間一般の常識に準拠しており、またそのように開発部とか製作部の人員と異なっている、つまり世間一般の消費者の目線で判断していると世間一般に認知させることを自然に強いているのだ。それこそが彼等の職業倫理でもあるのだ。他者一般に対して職業意識と職業倫理を認めさせるということは、ある意味では職業の意識を個人的に勝手に想像するようなものとしてはどの成員に対しても認めないという世間一般の常識に全ての成員の意識を結集させるように促すことでもある。それは職業人としての彼が他者一般に対して自己を位置付けることそのものが社会成員としての権利であることの主張でもある。彼はだから自己という内的対象に対しては個人的なパーソナリティーの保有者としての自覚を醸成し、世代的な感覚を同世代の人たちに対してはメッセージとして発信しつつ、別の世代に対しては世代に拘泥しないで生活していることを印象付けるのだ。その二つの行為は交互に立ち現われることもあるし、同世代の成員に対して同世代としての強制的な運命において相互に自覚することを忌避したいという欲求を表出することもある。それは世代というものはお互い何ら重要なことではないという表明をし合うために世代というものがあるのだ、と認め合うことでもある。
同一職場において同僚、上司、部下という人間関係があるのは、そのような関係の中に自己を位置付けることそのものがどの同一職場の成員間にも共通する権利であることを相互に認め合うことに他ならない。
しかしこの意識は一面では他者と自己を結び付けるが、一方では壁も作る。自己責任とか自己意識といったものを相互に認め合うということはそういうことだ。失敗経験は後悔を生むが、実は後悔とは良心があるからこそ引き出される現在の意識でもあるのだ。
他者に対して後悔させたくはないという意識は、自己内で後悔しないように全ての職務を執り行うことによって実現するのだ、と相互に認可し合うことから同僚同士の結束とか友愛とか友情とかが生まれる素地となっている。後悔のない理想形を設定しつつ、それは円の中心であることを皆で了解し合っているのだ。
このような一方で友愛的な結び付きと片方では壁として立ちはだかる自己と他者の規定がない世界では、ニュアンス表現そのものが成立しないし、またニュアンス表現のない意味規定だけの世界があるとしたら、それは実は観念上の世界でしかないのだが、恐らく機械だけが支配するシステムの世界ということになるし、無機質であり、無表情な世界であり、価値システムという高次の認識もない世界であるだろう。そういう世界には階層性も、地域的特色も、個性表現の機会も発露も見出せないであろう。しかしそういう世界を想像することは我々には出来るし、また一方ではそういう世界に安堵するような心的傾向性も我々にはあるのだ。社会そのものはゲームであるよりは恐らく事実の集合であるだろう。しかしその無数の事実世界をゲームと捉えることで世界を認識するのが人間なのだ。
自己同一性とか他者性とかは実は人間が記憶能力を飛躍的にどの生物よりも発達させ、その能力を認め合うからなのだが、その二つは人間に責任という観念を前提として意識させてもいる。
哲学者ウィトゲンシュタインは接頭辞、接尾辞といった言語の文法的な秩序とか文法の所在に関して大いに語ることを我々に促したが、それは言語を取り巻く社会の様相とか、規則を必然的に生じさせる人間のある傾向性とかを我々に彷彿とさせたのだが、発話者のある言辞が齎す意味を真と採るか偽と採るかというような価値判断の自由とか、感情の様相というレヴェルでは考察が不十分だった。例えば彼は使用とか了解とかの判断についてはよく考えていたから、機能主義的な認識においてはある頂点を極めたと言える。しかしニュアンス表現そのものの、発話者自身の感情の調節という生理学的な認識に関してはそれほど自覚的ではなかったと言える。法哲学的な認識を彼が採用する時、慣用というレヴェルから考察することで乗り切ろうとしたことが、後世に多大なヒントを齎したが、ソシュールの言うラングとパロールという構造的な相関性にある自己と他者との位置づけ作用そのものが慣用によって見出されるという主張としての彼の哲学は、しかし自己と他者という関係とは、実は意思疎通のためである以前に、まず相互の感情の調節であるとする認識からしか認め合うことが出来ないという現代的視点にまでは到達していなかった、と思う。我々は国家、民族、地域共同体、職業、それら一切をある固有の社会的地位の下で認識している。そのように実存的に体現されている事実を担い、請け負っているという現実は、それ自体で法的な認識を相互に認め合っていることなのだが、その事実は実は相互の感情を暗黙の内に調節し合っているということを我々はしっかりと認識するべきなのだ。
例えば私が物書きであるという職業的意識を持っているとしよう。するとそれは私が物を書くことを他者に認めさせることの請求として位置付けられるだろう。その行為はそれ自体で社会そのものに対して私が私のアイデンティティーを確保することを請求していることの事実を周囲の全ての成員に宣言していることである。
言語学ではヤコブソンが音韻的な詩学を実践したし、カルナップは統辞論的に捉えた。それらはしかしそのことを通して全体を把握することに対する試みであるとした時不毛な存在となる。それは世界像の認識の仕方に過ぎないのだ。それは彼等の言語である以上でも以下でもない。何故なら言語とは言語活動を通してのみ問えるものであるが、同時に活動として顕現された事実に対して全体を求めることには何らかの自己欺瞞があるからだ。彼等の言語は我々の言語でもあるが、それは全体ではなかったし、彼等もその積もりではなかった。だからこそ世界像の認識の仕方はそれ自体で一個の事実だが、事実を産む世界そのものではないのだ。全てのテクストは部分であるし、そのような位置付けにおいてのみ世界を全体として認識出来る。
例えば言語学者のように語彙の恣意性とかシニフィエとシニフィアンといった区分けによって言語活動を捉えると、確かにそこでは世界像を認識しやすくなる気がする。しかしそのような命題論理そのものは、結果的にはテクストであったり、宣言であったり、思想的結実であったりするのだが、行為を執り行う実践者たちにとっては、その時々の大脳生理学的な空間処理であったり、情報処理であったり、時間認識の把握の仕方を求める試みであったりするものである。勿論我々がそれ等の行為から意味を受け取る時、彼等の行為に内在する感情の調節という事実に必ずしも着目する必要はないかも知れない。
そのような生理的な感情調節それ自体をデリダのように原エクリチュールと捉えてもよいのかも知れないが、言語活動を成り立たせる何らかのヌーメノンがシニフィエとかシニフィアンと構造言語学者たちが呼んだものを二元論的に、ある意味では分裂した価値として捉えることを強いたものそのものが、我々をその二分法を無化する可能性の世界へと羽ばたかせることにもなるのである。
イヌをイヌと呼ぶ習慣そのものが我々にイヌを意味的世界の只中に認識させてきた。ネコをネコと呼ぶことはその体系の中にある。「寝る子」を「寝る」と「子」とに分解すると、「寝る」は「なる」や「煮る、似る」や「塗る」、あるいは「乗る、載る」といった意味的世界に隣接した音素的クオリアの世界の意味であることが分かる。その私による社会ゲームとしての言語の慣用的な了解そのものの認可こそが私がその「寝る子」を固有の意味的世界の要素として認可することの宣言を通した自己の発話権利と能力の誇示として機能している。それは自発的でありながら、依拠的な行為選択である。その制度依拠的な認識の限りで私は「寝る子」と発する行為を、メッセージ伝達のための言語の機能上の利便性を認め、それを他者に対して認めさせる感情と無縁ではないだろう。すると言語表現のニュアンス、あるいはニュアンス表現というものの在り方とは、即ち慣用される表現という事実に対してアポステリオリな成果ということになる。だがその成果は必ず意味を独立した世界であると認識するもう一つの安定した選択において成り立っている。
意味が独立した世界であるということの認識は、無意味な感情の表出によって齎されているのだ。意味が抽象された世界であるなら、意味を抽象させるものがあることになる。それは意味と出会うという行為を正当化させるものである。「寝る子は育つ」と私が実感してそのような言辞を齎す時私はその常套的な意味的世界を容認しているのだが、その容認を通して私がその言辞を齎す相手(意思疎通相手)を認可していることが意思疎通であるとするなら、私はそこに相手に対する時の感情を抜きには発話出来ないし、記述でさえ私の文章を読んでくれる人を期待していることに違いはない。そこには発話においては電話であってさえ声の表情が示されているし、書く行為もまた、文体とか論理的叙述の流れという表情が自然に滲み出ている。
表情とは顔の感情的表出であり、声の調子による感情の調節である。その二つは連動しているし、我々は齟齬があるようには話せないし、話さない。もし齟齬があるのなら、それは言語行為を分析した時だけである。分析とは分析する対象の認可に他ならない。
他者と出会うこととはそこに他者に対して差し向けられた表情を我々が隠蔽することなく秘密を解除していることである。表情はそれ自体で一つの感情表出であり、意味である。それは意志伝達なのだ。フロイトは自己保存欲動という観点から意思疎通を捉えた。それは存在の仕方としての自己と他者の壁を作ることでもある。元々世界の只中に放り出された我々はどこかで全てが繋がっているということを知っている。それは説明出来はしないが、真理として信じている。円の中心の定理である。しかし敵対する関係ではポーカーフェースを我々は決め込む。それは護身術であるし、自己真意隠蔽の権利主張である。その友愛的表情とポーカーフェースの差の段階そのものが信頼というカテゴリーの意味なのである。発声とは実はその表情の意志伝達の補足手段として発達した筈なのだ。
精神科医は患者の告白を事実としては型通りには受け取るが、告白の意味を吟味するのだ。精神科医は患者の表情を読む。表情には協調、理解、友愛から、尊敬、崇拝、卑下といった全てが宿る。それは感情的なメッセージである。我々は論理とか倫理とか意味を求めるが、それらは順序から言えば、表情の存在から言えば後付作用でしかないものである。表情は実存であり、存在であり、考えそのものであり、論理前的な意味の世界のものである。上の者である精神科医に対して患者は彼に同情すらするし、威圧さえするし、彼が自己卑下することを期待もする。それらは尊敬心と裏腹の必須の感情である。だからセッション時の彼の発声は、それ等全ての感情を含む表情の上に乗せられたメッセージニュアンスの自己確認の作業でしかない。発声は真意表出によって感情のサインともなるし、意味作用的思考の誕生を促す契機ともなる。だから感嘆詞とか敬語とか命令語であるような選択とは、実は意志伝達する感情を語る表情を引き立てるものであるに過ぎない。
発生論的には形容詞とは間投詞の発展進化したものであるとも捉えられる。感嘆語としての形容詞と間投詞は同時的共進化の産物であろう。(特化された間投詞が形容詞として定着したのではないだろうか?)
確かにシンタックスという観点からは名詞と動詞が重要である。しかし統語的秩序として成立しているこの二つの形式に意味を盛るのは感嘆語たちなのだ。その形式に対して意味を生じさせる感嘆語世界は、実は表情の真意性の他者に対する説明であり、宣言なのだ。
統語形式に意味了解契機としての感嘆語が付き加わり統合された時、それが文章となり、意味世界の構築宣言となる。それは言語の起源的な統合という考えの基本である。「寝る子」は比較的ミニマルなそのような統合例である。「寝る子」を選ぶということは語彙選択そのものが、表情的な意志伝達の存在意義を他者に訴えることでもあるのだ。
だから無表情という事態そのものもまた、不貞腐れることとか作り笑いすることとかと同じ一個のメッセージなのだ。それは豊かな表情を作ることが出来ませんという宣言でもあるのだ。
表情的実存のとんでもない豊かさと饒舌を自己弁護するようなニュアンスこそが統語秩序と名詞、動詞の多産を生んだと言える。そのカテゴリー化の過程において感嘆語のクオリア的認識が重要な役割を果たしてきたのだ。
表情とは社会の存在の認可である。社会のない世界では表情は生まれない。ニュアンスが付帯されることそのものは実はニュアンスからしか言語行為も、どんな意志伝達も為され得ないということの確認においてしか成立しないのだ。社会があって、表情があるという回路だけではない。恐らく表情があったからこそ社会が成立したのだ、という回路も考慮に入れておく必要がある。
例えば補足とか言い訳といった行為は、そもそも表情の言い訳として言語行為が、意志伝達が発達したという一事をもってしても必然的な人類の事実である。法とはそれ自体で一個の巨大な言い訳である。巨大な補足である。形容詞の誕生は我々の世界においては、表情の存在の有難さを理解し合う行為と相補的に発展したと考えられる。形容叙述そのものが付帯的であるような認識は、表情のア・プリオリに対して、言語のアポステリオリにおいて表情の確認と自己表情の存在の認可請求と権利主張と、宣言といった根源的な事態によって作られるのだ。それはカントの「判断力批判」のメッセージの出所でもある。
意思疎通上での同調とか、同意請求といった事態は、感嘆的表現の進化過程によって生まれたものと考えることも出来る。感嘆語の進化によって表情の友愛は、あるいは敵対は形成されてきたのだろうと私は思う。表情はそれ自体で全てを語る。しかしそれを敢えて言語で説明することを人類は選んだのだが、何故そのように選択したかと言うと、我々は嘘をつくこと、真意を隠蔽することを一方で能力として保持してきたからである。しかしその虚偽行為は、実際全ての悪辣なる成員をも含めストレスフルであったのだ。虚偽行為の持続は生理的にしんどい行為なのだ。
効果的な統語法であるところの全て、例えば倒置法、あるいは婉曲語法とかいったものたちは、同意や確認作業の様相的な多様性に起因する。疑問文もそうなのだ。例えば教えを請う行為それ自体は教えて貰う者の知識を認定することの宣言であるし、教える行為をなすその者の誠実性の認可であるし、率直に言ってそれは信頼性に依拠しているのだ。
人類が表情に対してそれを事実として表現するような意味でニュアンス表現を獲得したことの意味は恐らく社会全体に対する意識、それは話者同士の協調に留まらない世界の存在の認可が不可欠であったことだろう。全体の中での個別という認識が話者同士にあったという事実が、また表情に言語を付帯させることにも繋がったのだ。本来特定の職務が誕生することとなる素地として、我々は集団と集団内の個別という観念を表情的にも言語認識的にも獲得していなければならない。もし全体の中での個別という認識が人類に誕生していなければ、我々は名詞、動詞、形容詞といった発明をすることもなかったかも知れない。何故なら我々は世界を構築する時、勿論それは心的作用として世界という区分けをすることを意味するのであるが、世界内と世界外という認識を持つからだ。世界は全体であると同時に部分にもなり得るものである。全体という観念は世界認識を獲得するに従い必然的に生じてきただろうと思う。全体と部分という認識はそれ自体世界を必要とするからである。地に対して図であるような全体と部分は、世界自体の秩序化作用の結果生じる認識だからだ。ここで言う地とは自己の存在を他者によって知ることの現実、実存のア・プリオリのことである。(地は他者一般、自己を取り巻く全環境。)
世界自体は比較対象ではない。しかし世界認識の共有という事態は必然的に世界を区分けする認識を生じさせる。(君の世界、僕の世界etc。)その顕著な例こそ全体と部分である。
言語表現に常に不可避的にニュアンスが付け加わっているという事実は、それ自体で表情がニュアンスそのものであるというア・プリオリを助長していることを意味する。何らかの言語行為をなす時我々の大脳では常に何らかの情動を感情として認識するように脳内で放出されるアセチルコリンを受容していることでもある。感情の様相とか思考のタイプはそのまま表情を構成している。それはどちらが先であるということではない。ある表情をすることはある感情の結果であると通常は考えられる。しかし逆に私はある表情を選択することである感情が生まれるという回路も考案したい。例えば嬉しいから笑うのではなく、笑う、あるいは笑う表情を意図的に作るからこそ嬉しくなるという回路を我々は極自然に採り得るのだ。常に楽しくあるわけではないからこそ、積極的に楽しくあれと心掛けることとは我々は日常で自然に選択する意志であり、意図である。前頭前野での論理的思考、側頭葉の言語認識が、ベルグソンも言うように空間分析的本能の如き数学的空間把握能力が人類に備わっているとしたら、我々はそこから全体と部分という認識を得ているのかも知れない。例えば私たちは世界を親しいものとして捉える能力がある。そしてその世界を認識することを通して全体と部分という観念を得るのだ。それは殆ど同時的なことである。統語秩序の慣用はそれ自体で、分節化作用である。シラブレリゼーションとは、空間把握における全体と部分という視覚的メッセージを広さとか周囲とか脇とか中心とかいう認識(固有のクオリアとして顕現されている)によって自覚的であることと関係があるのかも知れない。言語というと我々はつい聴覚的システムばかりを考えがちだが、実は視覚的クオリアこそが言語統語秩序の分節化作用を促しているとも考えられる。それは一種の共感覚である。
エーデルマンもガザニガも価値システムということから脳を考えている。もし言語がある程度他のア・プリオリな知覚能力に促進されているとしたら、整理する行為とか、片付ける行為とか、保存しておく行為とか、要するに空間分析行為そのものを象徴しているとしたら、我々は言語を使用することで何らかの脳内の思考を整理していると考えられる。
だからベルグソンが時間を空間として把握せざるを得ない人類の思考傾向こそが言語の分節化を齎したと考えることは理に適っている。人類の思考的な不可抗力、つまり視覚的秩序として時間を捉える能力が言語を秩序付けるとしたら、幾何学的空間把握能力こそが、純粋視覚像把握もまた空間分節化作用によって構成されていると捉えることを可能にする。それは実は大脳生理学的な意味から言えば、それ自体で一種の情報処理工学的な作用と言える。
例えば視覚として飛び込んでくる像は、それ自体他の像と識別可能だ。その識別化そのものは、実は全ての存在事物対象を等価に見る見方を一方で育むこととなる。違うという認識が同じという認識を生む回路である。その際我々は言語を協力させている。言語習得のない段階の幼児でも、少なからず同じと違うという形態記憶のようなものはあるだろう。しかし世界認識がある親しさのある事物によって徐々に形成されるに従って、同一のものを異なるものの中で突出させるわけだから、その事実認識そのものが記憶になるのだ。それは要するに何を記憶して、何を忘却するかを一瞬にして選別しているということに他ならない。これは前言語的能力である。
整理能力と情報処理能力としてのア・プリオリこそが視覚を何かを記憶して何かを忘却することの選択を可能なものとする視覚認知能力を用意する。だから恐らく脳科学者たちが考える価値システムというものは個人毎に異なるものであるが、それを糧に視覚知覚行為や聴覚知覚行為を意味あるものとする選択であるに違いない。すると言語のニュアンスというものは表情の意味付けとして意思疎通上で生じる作用であると同時に、視覚、聴覚の微妙なるクオリア感知能力の言語的置換であると考えることも出来る。
山が見える。湖が見える。空を仰ぐと空は青い。そういった一連の風景認識は、それ自体で空間把握能力の行使である。それは外界を世界と捉える認識から生じる。山の頂上に聳える塔とか山小屋とかは山という視覚的なカテゴリーにおいて全体に対する部分像として我々は認識する。そのような認識は言語によって生じた部分もあるだろうが、前言語的な感覚としても把握し得る。その二つが鬩ぎ合っているという事実に対する認識は、言語において統語秩序とか文法を考える(勿論それらは長期記憶へとワーキング・メモリーの助力でもってセットされているのだが)ことの助けになっていると考えても間違いではないだろう。
世界を認識することは外界の像をある秩序で見ることである。それは視覚的認識そのものを秩序付けることであるが、秩序付ける能力がそのように世界を見ることを促すと捉えることも出来る。風景とは世界を全体と部分で区分けする認識によって意味的世界として君臨するのだ。
それは読書においても成立する。例えば「グラマトロジーについて」でデリダは言語活動においてとりわけ文字言語が記憶を助けるものであると同時に忘却する力であると捉える時、彼は恐らく全ての像を一挙に記憶することの不可能性を認識した上で知覚を行う人間の仕方について言っている。デリダが原エクリチュールと呼ぶものとは、恐らく世界の痕跡である。世界は開けているが、それは我々が世界を全体と部分で分節化する能力の保持によって「閉じられた」ものではない「開けた」ものであるとするのだ。
エクリチュールそれ自体は言語が社会ゲームの一旦であると我々が意味付けるよりも先に実は表情の無化を知らず知らずの内に実践していることなのだ。例えば文字それ自体は意味を運ぶものでしかない。しかし文字は文字を記入した者の存在を彷彿とさせる。その時デリダが差延と呼んだ行為の痕跡という観念が生じる。しかし我々はその行為を感情の調節として執り行ったが、文字自体が示す意味は秩序として認識される。そのギャップをもデリダが差延としたのなら、我々はエクリチュールを記述者の責任の世界において捉え直す必要がある。良心が後悔を生むとしたら、責任が行為を生む。主体的行為としての記述とは、古代の壁に書かれた文字も、現代のブログやネットの文字も変わりない。そして我々がそれらを視覚的に授受することを前提に書かれた文字群は、記述者の意図をそこに読み取ることを強いる形式として我々は同意している。
例えば文字ではなくても、視覚情報の中で記憶内容としてピックアップされるものとは全体と部分というカテゴリー認識の最中に生じる何らかの観念以外のものではない。知覚映像を知覚された像であり、脳内のニューラルネットワークの産物であると脳科学者を考えさせる世界とは、それ自体で一個の観念である。我々は言語的な意味でも、前言語的な意味でも観念としてしか世界を認識出来ない。あるいは知覚出来ないのだ。
観念の側からは我々は言語化し得ない不可解要素をも認識する。それは強い印象となる。それは長期記憶に残りやすいだろう。最終的に定着されるイメージは現在知覚によって瞬時にピックアップされたものに他ならない。それは個人毎に異なる様相である。第一印象から最終定着映像への推移それ自体は、その事物の、対象の、世界の一部の性格として記憶されるだろう。その推移が個的なその事物、対象、世界の一部の意味である。意味は記憶されたクオリアのことである。それがイヌであったとしよう。それはイヌであり、「犬」であり、しかし同時にそれを犬と、イヌと私に呼ばせた実体のクオリアである。それはある概念の下に私を収斂させた固有の実体としての映像記憶である。つまりそのようなイヌ体験、犬体験そのものが私が後日友人に対して語るその犬の形容叙述的なニュアンスを生む。そういった行為の積み重ねが行為経験記憶となり、私に言語的なニュアンスをシナジー的に進化させる。それは私が常に言語行為を採る時の私の表情に伴われているし、私の表情をその都度意味付けもするのだ。私の感情がそのまま表出された表情を維持することを通して私が感情を調節するホメオスタシス的な情動によって感情が認識されるような認知において言語が活躍するとしたら、私の脳内の思考過程による主語概念も述語概念も、名辞化された名詞も、それを性格付ける形容詞も、原初的な私のその世界の中の事物、対象という一部の実体(あるいは実体として私の脳が認識するイメージ)を取り巻く私のその時の感情を調節する意味合いを兼ねて私が言語化したのであり、その痕跡がそれと類似した知覚経験する時私の脳内で固有のセレンディピティーを生じさせることとなる。
すると言語的なニュアンスという考えそれ自体は、実は記憶作用と密接であることがはっきりする。ニュアンス表現とは、その時に私が示したであろう表情の意味付け作用の産物でありながら、実は記憶内容の様相を決定付ける、記憶した時と記憶を再び呼び覚ます時の、現在知覚状態の認識と必ずどこかで異質の変形を被っている時間的差異世界のことなのだ。
言語活動はそれ自体で社会ゲームとして容認されたものである。しかしニュアンス表現そのものは、語られる事実の過去における存在の主張を伴った記憶想起の感情調節以外の何物でもない。しかし結果として立ち現われた表現そのものは感情調節された結果であるので、生理的世界のものではない、要するに意味の世界である。意味は作用した時に生じる観念である。私が発するニュアンス表現は私のその時の感情調節であるが、ウィトゲンシュタインの「探求」的立場に立てば、それが真であるか偽であるかというような判断とか、それが共同体内での約束事として成立しているのかいないのかというような判断を即座に求めるような性質の意味作用と化しているのだ。それは感情調節しながら、その行為を意味付ける我々の思惟が、一個の意思疎通という了解事項として言語行為を認可しているからなのだが、結果として意味作用化するその私のニュアンス表現の、共同体の側の了解事項に対する確認が、私の表現の全てを感情如何の価値を無化するのだ。感情の無化とは意味の定着である。意味は言語が発せられる段階では明らかに浮遊している。しかし私が何らかのニュアンス表現をなす時、それは必ず私の発言自体を他の発言や私の過去の発言等によって先後関係の中に位置付けさせるのだ。だからこそ私が発したニュアンス表現の他者の側からのクオリア的な意味付け作用が、社会ゲームにおける私の発言の価値となり、定着した意味と化すのだ。そこには必ず時間的な差がある。
ある発話者が共同体内の約束事に適って発言しているか否かということに対する共同体の側の判断を含んだ了解事項の確認こそが、ア・プリオリにその発言の存在理由を規定する。その発言が発話されるその時同時に意味作用する事実が、あらゆる先後関係へと我々を誘うのだ。つまり意味作用する事実へ我々を伴うというわけだ。その意味作用事実の獲得こそが、発言を発話する者によって空気を構成する。ある概念、ある問題に対する提起といった全ては発話者の行為によって齎されるが、それは発話されることによってその発話が会話という文脈上に位置付けられる時、明らかに因果律を構成し、因果律の中でこそ概念把握方法も見出される。だからこそその発言の発話という事実は、空気の変化による時間論的な変化として考えられるのだ。その空気の変化が時間論的な認識を成立させる。(言語哲学というものは即ち時間論哲学であることの根拠はここにある。)
例えば今ある会話共同体があるとしよう。そこでは四人の人物がいるとしよう。彼等にとってAの死去という事実がBによって既成事実として報告されるとしよう。つまりCもDもEも含めた全てのこの共同体の成員にとってBによって報告される事実は意味作用的に受容するに足る関心事項である筈だ。Aという人間の存在自体は四人によってのみ意味があることもあるし、そうではなくても尚彼等にとってAの存在はBによって近状報告の対象となるだけの情報化され得る価値を有しているのだ。だから仮にBによって報告され得なかったにせよ、いずれCかDかEによって相互に報告される運命にあった筈である。それは共同体というものそのものが相互の共通関心領域の共有を基軸に構成されているという事実を我々に知らせる。そして報告がなされた後、Aの死去事実は共通了解事項へと転化する。そしてその事実を問うことそのものが言語哲学の存在意義となるが、同時にここではその報告においてなされるBの表情、報告表現上のニュアンスが重要なものとなる。それは付帯された事実であるが、同時に意味作用を構成するものでもあるからだ。
本質的に感情とは一瞬一瞬異なった唯一無二のものである。2007年五月十六日の午前十時二十二分に私が抱く感情は、それがどんなに平静なものであっても尚、その時の一回限りの感情の様相によって支配されている。感情にはその都度固有の様相がある。心的に固有の様相があるという事実が、その都度世界を異なったクオリアで認識する可能性を与えている。ある憂鬱な表情をある人間が浮かべる時、それはそれ以前にも似た経験をしていたにせよ、その時において一回的なことである。その事実は変わりない。誰かが「あいつは直ぐに興奮して激した表情を浮かべる性質だ。」と言ってその人間の例の表情を認めると、皆異口同音に「また始まった。」と言うと思う。しかしそのように揶揄された人間の激した表情は、その時において固有であるし、本人にとってもそうである。しかし私たちはその一回一回固有の表情とか、その表情の表出に伴われている感情のその時限りの性格という観念を捨ててはいけないのだ。ただ我々はそれをあるまとまりとして理解したいだけである。「また例の奴が始まった。」という風に。だから表情に伴われ発せられるニュアンスもまた常に一回限りの感情的様相と、その時に言葉を発する者に認められる固有の知覚的事実と、その知覚を促進するその時固有の知覚映像的なクオリアは、唯一のものである。そういう瞬間は二度と訪れないのだ。その事実は大切なことであるので念頭に入れておいて欲しい。
真理値について本章の最初にとくとくと述べたが、実はこの真理という考え方にはここで私が言う意識と感情の唯一無二性を無視する試みがなされていると言える。例えば私は世界で一個の唯一無二の人格であるが、私が嬉しい表情を他者に対して向ける時、その時の私にとって私の脳内でのニューラルネットワークの発火パターン、ウィリアム・カルヴィン流に言えばクラスターの活性、不活性の仕組みそのものは他者と私を容易に繋ぐ、例えば世界中のどのような人間であれ、エンパイア・ステート・ビルの屋上からダイヴィングするとしたらその全ての人間にかかる万有引力の法則のような例外を認めない同一のメカニズムが働いているという意味では人間は個別的存在ではない。その一般化され得る真理を究極まで研ぎ澄ましたものこそ物理学であるし、心理学一般の学問的傾向であり、脳科学の拠って立つ地点である。しかし精神分析医とか精神科医とかはクランケに対してその場その時の感情を読み取ろうと苦慮するだろう。そしてそれはどのような個人であれ、意識と感情のその場その時の固有性とは、その人間固有の経験と、記憶内容と、記憶傾向と、状況判断的な性格という言わば実存的な唯一無二性に取り巻かれている。この個別性は逃れようもない真実である。
構造言語学においてはある記号的認識の持つ制度的、ラング的(ソシュール的に言えば)、一般的な認識に関しては追求した。しかしその時に一般性と同時に個別性、つまり状況論的であり、意識保持者としての感情論的な意味合いにおける唯一無二性の奇妙な同居に関してはそれほど追求したわけではなかった。例えば私たちは誰しも誰か固有の両親を持って生まれてきている。しかし誰しも誰かが両親であるという歴然とした事実は、同時に同一の両親を持つことは兄弟姉妹以外にはあり得ようもないという事実と常に同居しているのだ。しかしその事実は次のようにも言い換えられる。私たちは固有の遺伝子の配列を持っているが、同時に遺伝子の作用そのもの、コドンであるとか、選択的スプライシングであるとか、動的平衡であるとか、代謝システムであるとかという一般性においては誰しもエンパイア・ステート・ビルの屋上からダイヴすれば万有引力の法則と、空気抵抗と、落下速度の微妙な法則性にどのような個人でも縛られているような意味で、そのホメオスタシスの仕組みそのものにおいては、欠損箇所とか個人的な難点を抱えつつも、同一の生物物理法則の網の目の中にいる。固有の遺伝子の傾向性という個別性は、要するに誰しも遺伝子の作用を避けられないという相同性において効力を発揮しているのだ。だからクオリアという認識もその場その時の唯一無二の感情によって左右されているが、同時に唯一無二のその時の感情的様相と密接であるという事実においては全ての人間の意識の瞬間は等価である、と言える。
哲学とはある意味では不可知領域に対する態度の採り方そのものに対して苦慮してきた思考史であると言える。それは藤原隆志の「ウィトゲンシュタイン」(講談社学術文庫刊)中の「(前略)K・クラウスはことばによって、A・ロースは建築により、人々に示そうとした。ウィトゲンシュタインが『論考』の中で「言いうること」を明確にいうことによって「言いえざること」を示そうとしたのも、同じ手法による」と述べる時、私たちは例えばカントもまたそのような思いで哲学に取り組んでいたに違いないと確信する。155年の生年月日のスパンがカントとウィトゲンシュタインには横たわっているが、その両者の試みにおいては藤原の指摘が全く相同に当て嵌まる。
かの有名なウィトゲンシュタインの「論考」の最後部の「語り得ぬものに関して沈黙せねばならない」という謂いには、語り得ぬものが何かを知り得るためにも、語り得るものをとことん語り尽くさねばならないという主張として読み取れる。
例えば論理は非論理によって取り巻かれている。論理とは論理であらざる多くの偶然性の中から汲み取る秩序である。そのカテゴリーで言うのなら、表情は非論理の世界の住人である。表情は意図的に作るものではない。意図的な表情は意図的であるという表出によって真意の隠蔽のメッセージとして送っている。しかし表情は意識の瞬間的な唯一無二性において現在知覚と対自的な意識が常に過去を食らいつつ、現在性の意識となっているのだが、その際我々は他者に対して例えば喜びの表情をその都度作っているわけでもない。
一回一回の喜びの表情とはその仕方をその都度変えていたら、喜びとして認知して貰えない。しかし私たちが感じる喜びの心的な様相はその都度書き換えられてもいるのだ。去年感じた喜びは今現在感じる喜びによって意味を換え、喜びという感情的なクオリア自体も常に現在によって書き換えられている。そこで我々は例えば、一ヶ月前に会った友人と久し振りに会う場合、その時の喜びの表情はその時固有のものとして堤示することを心掛けるだろう。それはその時に意図せずとも自然に湧きあがって来る所作としてである。しかし彼は恐らくいつもの通りの私の喜びの表情と受け取るであろう。私もまたどこかでその時に唯一の彼の私に示す喜びの表情を、いつものような彼の表情と受け取る。無数の唯一の瞬間の様相を常にいつもの通りだと受け取らせるものは記憶であろう。記憶内容は常に現在知覚に付き纏っている。
会社が不祥事を起こした時に経営者の代表が記者団に向って示す反省の態度は、その時に唯一の感情に支配されている筈だが、型どおりの遣り方を踏襲することで難局を切り抜けようとしている代表の意図を我々は致し方ないものとして認識する。それはそういう時にはこれこれしかじかの態度を採るべきであるという常識があり、その常識は社会全体の記憶となっていて、その社会全体の記憶を我々が個人の経験上記憶に留めているからである。
反省の訓示はある意味では社会的法意識に則っている。言語活動は言語認識や統語秩序を理解する先験的な人間の能力によって遂行されるが、言語行為が秩序あるものとなるためには、社会ゲームにその言語行為が機能発揮する形で巻き込まれなくてはならないのだ。
社会的法意識は言語活動の社会ゲームへの参画という現実がその我々が本来所有する言語的能力と特質として顕現させる。だから言語活動のない法意識はあり得ないし、法意識を育まないような言語活動とはあり得ない。しかし我々は一回の事例はあくまで法的にはいつものような判例基準に照応させるべく対象でしかないが、同時に当該者にとっても、その調停者にとっても唯一なケースでもある。しかし法はそのケースだけを特別扱いすることを忌避する形で進行するように求められる。それは各個別の判例間の平等、つまり責任倫理における公正さを求められているからだ。それは以前のあらゆるケースに対する社会全体の記憶がそうさせているのだ。
しかし個人的レヴェルでも私たちは嬉しい時には嬉しい表情を浮かべ、厳粛な場では、例えば式典会場とか、裁判ではそれなりに厳粛な態度で臨むように社会によって求められている。そしてその「合わせる」行為はあくまで個人内面ではその場その時の唯一の感情に支配されているのにもかかわらず、その唯一性を隠滅させて寧ろ公的な一般的基準に照応させるべく苦慮することを強いられている。ある意味では論理性に基づいた全てはこの照応行為に随順していると言える。例えば数学的真理もそうである。物理学法則もそうである。個別の事例を一般化された法則性と真理の名の下に了解することが求められているのは、そもそも真理値の説明箇所でも述べたが、一般的ケースとして個別の事例を照応させることで、理解促進するように言語自体が我々を運ぶからである。今日見た空は唯一のケースなのだが、だからと言って我々は今日の空に固有の名詞を付与するわけではない。
今日の空は「花衣」であると言うのは、文学者や詩人の自由の領域であるが、それは公的な報告に相応しいものではない。それを承知で行うのが文学や芸術の自由である。
脳内のニューラルな神経作用そのものは、ネットワークとして理解することが出来るが、同時に脳生理を活性化させる内分泌作用として理解することが出来、この二つは密接であり、二分され得るものでもない。あるいはグリシンとミオシンという蛋白質が重要な役割を果たすこととして知られる筋肉は骨と厳密には二分出来るものではなく、あくまで共同して身体の動勢を担っていると言える。それは構造的にも機能的にも二分出来るものではない。つまり身体全体のホメオスタシスと密接に存在自体も、機能活性に関してもそれらは絡まりあった作用と、存在様相を我々に提示していると言える。あるいは神経作用自体が電気信号と化学信号とが交互の反復しているということを挙げてもいいだろう。
そういう意味では表情は内的感情とか心的作用の全てと連動していると言える。だから意思疎通においてエクリチュール等によって示された文章やその論理構造それ自体は、発話者の声質とかその人間の内的感情それ自体と意味作用性とは峻別し得るような意味で、記述者の記述する際の心理といったものは何らかかわりがないが、意思疎通上での伝達事項の意味作用の自立と独立において、実は、その意味作用を作る当の本人の内的なモティヴェーションそのものの解析は無意味ではないということを次章では扱おうと思っている。
さて話者、記述者の内的モティヴェーションが容易に意味作用の真理値と分離出来はしないという観点からは、意味作用性の真理値さえ把握出来れば後はどうでもよいという主張に根拠を与えることに躊躇を我々は付与するであろう。
例えばある文章の統語秩序を発語行為において採用している限り、我々は内的必然性から言語論理に忠実に発声しているのだから、当然法的な常識とかモラルといったものでも、道徳的な思念という内的必然性に基づいて行動しているわけだから、規則そのものもまた文章の真理値が文章を作成する者のモティヴェーションと容易に分離出来はしないような意味で軽視することは許されないだろう。
私たちは敢えて規則に逆らうことを潔しとはしないという行為選択基準を携えている。規則とは違反する時然るべく必然性が内的にでさえ問われ得る可能性が大きいので、我々はそれをそうおいそれとは破ることが出来ないでいるのだ。その反則の内的必然性に対する自己了解と対他者説明責任はストレスフルな行為なのだ。
しかしそのような規則遵守という観念の基本には意思疎通上では嬉しい時には嬉しい表情をせよという常識的なモラルが横たわっているのだ。それはマナーであり、採るべしと常にされている態度の理想値である。実はこの態度の理想値というものこそが、法意識の起源であると考えられるのだ。私たちは特別なケース以外ではそう容易くは法規に背くべきではないという倫理を価値システム論的に認識している。それは法規に背くことによって生じる後味の悪さという良心による内的抑制作用の仕業であろう。だから逆にそれでも敢えて法規に背くことを正当化するためにはそれ相応の対他者一般としての、そして何より対自己としての論理的な説明責任が求められるのだ。そしてその納得させる術の披瀝とは多大なストレスを伴うものである。そうでなければ我々は弁護士等という職務を他者に依頼することもないだろう。
そして法規に背きたくはないという心理が言語心理学的に言えばニュアンス表現を正当なパワーたらしめている。例えば昨日休日だったサラリーマンにとって月曜日の午後はどこかけだるい感情を払拭出来ない。だからと言って職務怠慢に陥ることは許されない。しかし会社の法規は遵守する必要がある。そういう時同僚に向って昼休みを終えて職場に戻ってきた時相互に声を掛け合う時、「六時(退社時間)になるまで長いね、今日も。」と職務そのものを回避することの不可能性を怨めしく思う言辞を吐くことそれ自体は、願望でありながら今度の休日には必ず前から計画していた釣りに出掛けるぞという意気込みとは必然的に異なる決意であり、願望であるにせよ、積極的なものではないだろう。こういう時のニュアンス表現は対同僚にも、対上司にも、対部下にも微妙に消極的な願望表明であることが望まれよう。それはあまり露骨であっては好ましくないと言う当人も心得ているのである。
しかしニュアンス表現そのものの出所は明らかにクオリアに起因すると思われる。この感覚質という概念はデヴィッド・チャーマーズによってよりクローズアップされてきているが、彼以外にも生化学者のジェラルド・エーデルマン(免疫グロブリンの作用について解明し、ノーベル化学賞受賞。)を初めダニエル・デネット(哲学者、機能主義的心の概念を提唱。)、日本からは哲学者の信原幸弘(ジェリー・フォーダーを翻訳。)、脳科学者の茂木健一郎等が挙って問題視している。
我々は本来視覚情報を認知する過程で、論理思考の雛形を形成しているとも考えられるが、問題なのは我々が言語習得する過程においてはどの程度の空間把握能力があるのかということである。つまり空間把握能力そのものがかなりベーシックに備わっていて、それを糧に論理思考を身に付け、統語秩序をも理解することを促すのか、それとも前言語習得状態においては只漠然とした感覚だけが支配的であり、やがて今現在の我々のように言語習得することになって、その言語から得た論理思考によって空間把握をしっかりとしたものにするかという問題は残るのだ。
恐らく幼児は漠然と自分に近い位置のものと遠い位置のものを識別することくらいは先験的に有している。それは能力としても極めて初歩的なことである。我々の日常においてニュアンスの識別は明らかにクオリア感知能力である。だがそのクオリア的感性を滞りなく伝達するためには統語秩序や、言語を文章として認識する側頭葉の言語中枢的な能力、例えばシラブルを音的にも、間隙と密集において理解する能力は空間把握における分節化能力と似たものとも思われる。それは視覚情報の秩序付けが論理思考を育む(盲人はその分皮膚感覚と聴覚が優れてシャープとなるのだろう。そこには脳の可塑性が活躍している。)という事態も十分想定出来る。
文章においてストレスを置くこととか、大事なことをゆっくり説明するとか、周囲の語彙と間隙を設けるといった工夫は視覚情報によって空間的秩序を認識することからも促進される気がする。だからニュアンスを伝達するための文章の統語秩序と分節化作用の学習は、全知覚行為の統合的能力にも依存するということは考えられるところである。
ただ統語的なことを論理思考として秩序付けて考える能力はある程度言語能力が進化した段階以降であり、それ以前的なこととしては我々は慣用ということ、あるいは日本人であるなら和歌、俳句に伴われている五七調、あるいは「大政奉還」とか「抵抗勢力」といった古今の四文字熟語的な語呂が耳障りのよいものとして学習しやすいということは言えるだろう。だからそれもまた学習過程においてはキャッチーな響きという要するにクオリアの感得能力によるところが大きい。実はニュアンス表現はより形容詞の文化とも言える日本語では微妙な感性によって詳述出来るという利点が民族性としてあり、その分日本語では主語を省略するような、幾分「場の空気」的な言語認識力が他の欧米人を中心とした異文化圏よりは優れているかも知れない。勿論仮定法、条件節といった体裁はどの言語にも見出される。だから先ほどの例でいけば、上司の前では言い辛いことでも、同僚同士では「長い月曜日の午後ですね。」とか軽いジョーク調では日本語も英語もそれほど違いはないかも知れない。
しかし本章を何らかの結論めいたものとして堤示するとしたら、我々は言語行為を時間論的に捉える必要がありはしまいか、ということである。ニュアンスというものの伝達においてもそのことは顕著に示される筈だ。「場の空気」感というものとは言わば、臨場感である。臨場感というものは想起とか想念と無縁ではない。そこには無常観という観念を敢えて持ち出すことも許されるようなある種の共同体内部での共通理解という接点希求型の意志伝達行為として、例えばベルグソンの純粋持続という観念を持ち出して考えてもよい、と思われるのだ。あるいはフッサールの「内的時間意識」というものを再考することにも一理ある。
私たちは場の空気感によって他者を認識する。他性認識の在り方が他者像を支配するということは、要するにその他者を熟知している度合いに比例して生じる経験的な認識であるが、その他性の在り方を熟知していない内は、我々は場の空気感全体を調節する意味合いで他性を認識する。だから言語行為それ自体は常に状況論的なものであるし、また他性において信頼獲得を為し得るか否かという基準は、一重に場と状況の空気感と、調節意図の有無によって決定される。例えば上司の言葉というものは基本的に尊重すべきであると誰しも考えている。長老者とか年配者とかの意見でもそうなのだが、その意見の非順当性に対してその意見を述べる者の日頃の態度とか、信頼性に応じて非順当性に対する対処法には違いが出てくる。信頼度に応じて他性認識において他者の非順当的意見に対する進言において他者尊重の度合いが高まり、逆に信頼度の低い場合は婉曲の憐憫、間接的な揶揄(コノテーション的なデロゲーション)となるのだ。そういう時にニュアンス表現のあり方には違いが生じてくる。例えば他性認識においてその他者への信頼感が手薄になれば当然素っ気無い態度の間投詞が多用され、しかも対他的に請願する語調から、諦念的な感嘆に変化するだろう。だから全ての言語行為における発言とは予め決定されて、発せられると言っても過言ではない。
対他的な諦念には軽蔑が含まれている。しかし本来上司とは部下に対して、また部下は上司に対して対等ではない。つまり社会的相互の了解事項としての非対等性は、相互の発話、つまり対話にある壁を設ける。つまり上の者は下の者に対してある種の総合的な認識を得ることが容易な立場にあるが、その逆はない。部下は上司に対して部分的にしか把握することが通常出来ない。なればこそ逆に部下が上司に対して軽蔑するとしたら、そしてそのために見かけ上ではやんわりと同意を示しながらも、諦念的な感情を感嘆符的に付加するとしたら、それは真意レヴェルでは上司に対する忠誠心はないのだから、形式的な服従の意思表明となる。すると逆に真意レヴェルで下らない発言をした上司に尊敬心を持ち合わせた部下なら、その下らない発言に対して誠意をもって苦慮を示す表情を採るだろう。「止めてください。」という誠意ある懇願的な態度が言辞においても、発話内容的にも、それが間接的であれ示され得るだろう。しかし真意レヴェルでは服従心がなく、業務的な一環としてのみ、責任を果たすべく服従している場合、諦念的な態度が自然と立ち現われることになろう。それにあざとく気付くか否かが上司としての部下管理能力のバロメーターとなるだろう。
言語は本来感情の様相を意味付けするために存在する。と言うより人類は感情様相の意味付けという欲求故に言語を発見したのだ。意味付けされた感情様相は自然と語彙化されていっただろうし、それは今でも着々とそのようになされている筈だ。そしてその語彙化された事実となった語彙が多ケースにおいて慣用されるに連れて概念化されることになる。
表情とは感情の様相の外的表出であり、それが結果的に他者への自己感情様相の報告となるのだ。そして表情を他者に示した時既に脳内では発話意志を相互に認め合うこととなるのだろうと思われる。つまり発話意図の絶無な場合には対他的に感情様相を悟られまいと苦慮することが通常だと思われるからだ。
脳倫理学的視点で活躍する世界的神経学者のガザニガは責任という事態は脳内で認められない様相であるとしている。それは要するに社会的な価値システムに組みこめられるべきものであると言うことになる。しかし恐らく人類にとって責任という事態は、あるいはその観念は原初的な倫理規定として目覚められていたであろう。それは吉本隆明的な概念規定を借りれば対においても共同においても共に共通して幻想として立ちはだかった自覚だっただろう。すると上司の下らない、的をはずした発言とか命令に対して部下が採る態度が諦念的である場合、職務的な責任感が希薄であり、対人間的にも上司への誠実性は希薄であり、規則遵守性にのみ依拠した建前的な態度の採り方ということになり、逆に上司に部下の立場からの苦慮を伝える場合、職務的にも対人間的にも責任感があり、誠実であるということになる。
この上司と部下の立場上の非対等性に関しては哲学者のブーバーと心理学者のロジャーズの対談から得るところが大きい。彼等はサイコ・セラピストのセッションにおいて、クライエントに対してセラピストの立場は上であり、その強制的状況の特異性がセラピストの方に有利な立場を付与しているとブーバーが指摘していることに必ずしもロジャーズは賛意を示してはいないところに私は興味を惹かれた。
ブーバーとロジャーズの対談の内容とそれが示すことについては詳しく後で述べるとして、まずそのことと関係がある人間の対話の仕方を通じた性格的傾向性について少し考えてみよう。
ここに柔和で人の言うことを聞く態度が自然と備わり、かつ友好的態度を常々採ろうと努めるタイプの人がいるとしよう。それに対して逆に人に対してつっけんどんで、他者に対する真意に関して懐疑的なタイプの人がいるとしよう。その者は他者の思惑を邪推することに長けている。しかしそういうタイプの方が疑り深いから前者のような友好的な態度の人間より慎重で、他者から騙されることがないかと言えば、寧ろそうではなく、疑り深いということは裏を返せば一旦信用したとなるとその信用した者が善人である場合ならよいが、そうではなく悪辣な者である場合には却って騙されやすいということがある。
つまりこういうことだ。一旦他者を受け入れてその者に対して友好的な態度を取り敢えずは採る者の方が他者に対する媚び諂いの態度を見抜くことが容易なのに対して、逆に懐疑的な態度の人間は一旦信用するとその者に対して信用し過ぎる面が却ってある場合があり(常にそうだとは限らないが)、特に下手に出る者に対して防衛本能を解除しやすいということがある。だから他者攻撃欲求を容易に表出する者とは、他者に自己の真意を読み取られやすいし、またそのことに関して防衛本能がえてして希薄である。するとそういうタイプというものは、他者に対して真摯に接することを潔しとするのだから、懐疑的であるというのは表向きということになり、却って他者に対して友好的な態度をまず採るタイプの人間の方にこそ、中には(全てでは決してない。)下手に出て、建前的な偽装に長け、要するに狡猾なタイプもいるのだが、それとは逆にそのことに関して見抜けないということである。よって他者攻撃欲求を隠蔽することの苦手な者は、それほど悪辣さに長けた人間ではない、ということになる。その二つのタイプの人間の微妙な融合、つまりどちらか一方であることの方が現実には少ないから、ある意味では最初友好的態度を採ろうと努めるタイプと、防衛本能をむき出しにするタイプの態度を使い分けるというのが通常の殆どの人間のあり方であるから、私はその二つの人間の傾向性というものが結局ブーバーとロジャーズという二人の思想的巨頭の対談に示される考え方、着眼に見られると思うのだ。
例えばセラピストとクライエントというものは通常最初友好的態度を相互に採るのでも、予防線を張るのでもないというのが真実であろう。しかし長くセッションの関係を続けてゆけば、徐々に二人の関係においては依頼者と被依頼者の垣根が取り払われ、クライエントの方がセラピストの方を忖度するというケースも多々出てくるということにおいてはロジャーズの言うようにクライエントとセラピストの一致点というものは可能であろう。しかしこの二人において共通している事実とは、常にブーバーの言うようにクライエントの生活というものが本来二人の関心の的であり、その逆ではないということである。それはセッション自体の役割と目的からすれば至極順当な意見である。そしてブーバーはその垣根を常に、特にセラピストの方が見失ってはいけないと主張するのだ。たとえクライエントの方がセラピストに対して対等でいられるような気分を味わったとしても尚、そのようにクライエント主導型のセッションをしてクライエントの気持ちを常にリラックスさせる術の維持において、セラピストは「騙される振り」をすることが巧みであることが求められるとブーバーは考えているのだ。
そうなるとロジャーズの考えるセッションのあり方とブーバーの考えるセッションのあり方とは、誠実性の発揮のさせ方と、責任の取り方の違いが横たわっているということになる。
例えば真に悪辣な人間は友好的な表情を偽装することに長けているだろう。すると友好的ではない怪訝な表情を浮かべる者はその限りで、実は極めて真意を表出しているわけだから、却って誠実であるということになる。また真に友好的であるのに怪訝な表情を浮かべることというのは通常意味ある態度の採り方ではないのであまり考慮する必要はないだろうし、あり得るとしたら真意を直裁に表出することに羞恥を感じる文化的コードに依拠した者に見られるような友好的態度を正直に示すことを躊躇うケースくらいであろう。するとブーバー的な考え方からすると、柔和な表情をしてクライエントに接しながらも、どこかで覚めたそういう自己を責任の俎板に載せて俯瞰する態度が脳裏に介在させることが巧みな者こそが真に有能なセラピストであるということになる。しかしロジャーズはどうもそのことに関しては、覚めすぎていることとはクライエントの中にある繊細な感知能力、つまり嘘っぽい態度を直感的に見抜くことであるが、そういう能力には抗しきれない、故に却って自己内の躊躇すら真摯にクライエントに示す誠実性の方が分があると考えているようである。しかもロジャーズはブーバー(彼はロジャーズのことを指してあなた、彼のクライエントのことを彼と言っている。)がクライエントもセラピストも彼の知るブーバーの思想ではあくまで「あなたも彼もあなたの経験を見ているのではありません。」でありそれと対談でのブーバーの発言とは対立するように思えたようなのだ。つまりブーバーはロジャーズが知り共感する考え方としては、あくまで双方がセラピストの経験を信頼するところ(セラピスト本人は責任を持つという意味で)で成立する対話であると思っていたので、意外な気がしたようなのだ。しかしこの対談によるブーバーの考えは、決してロジャーズが知るブーバーと対立するものではないのだろう。つまり前提条件という意味作用からすれば確かにロジャーズが知るブーバーの双方のセッション自体の信頼という事態が不可欠であるが、同時にセッションの意味内容という側面から考えればあくまで主体となる関心事は常に彼、つまりクライエントである。ブーバーは敢えて自分の思想の謂いを反復することを避けて別の局面から彼の考えを述べたのかも知れない。ここにも対談という形式と、それを利用して自己の思想を明確化しようと試みる対談者同士の思惑のニュアンスというものが伺えて面白い。
フロイトは転移という概念を持ち出したが、転移とはある意味では共感作用とか相手の立場を相互に鑑みるということの自発的な心的傾向全体を述べたものである。そして寧ろセラピストが厳密に客観的にクライエントを観察すること、精神科医であれば、厳密に患者を客観的対象としてだけ観察することの不可能性を述べた概念であるとも言える。もっと重要なこととは恐らくロジャーズがブーバーの「あなたも彼もあなたの経験を見ているのではありません。」という謂いにおいて直感したブーバーの真意が、客観的に真意を、あるいは誠実に自己内の考えを述べるセラピストの彼自身の行動に対して観察する眼を失わないでいるということにあるのではないかと考えたロジャーズのブーバー発言に対する解釈が、主張するところさえ踏まえておれば、主観的な接し方の方がよりよいセッション、療法が進行するのだ、ということにあることと関係があるだろう。このクライエントとセラピストの関係は、我々に即座に生徒と教師、あるいは役者と舞台演出家、あるいは映画監督、あるいは先ほどの部下と上司といった関係を連想させるし、内的な心的メカニズムにはどれも共通するものがある。
これらの関係において重要なこととは、対談では正しい言い方というものが一律に決められているということではない、つまり状況判断的な言辞と、発言内容というものは個々の発言自体の発言意図を無視するととんでもないおかしなことになる、ということをも表している。つまり命題論理的な内容と主張する内容の選択意図はずれることがあるのだ。
それはある意味ではカントならカントのテクスト全体から読み取る後代の哲学者たちの先人に対するメッセージと、そのテクストが個々の部分で主張している発言とは一概には一致しないという真実をも語る。例えばベルグソンもルドルフ・シュタイナーも共にカント批判をしているが、カント自身はベルグソンやシュタイナーの批判する事実とは裏腹に彼等が「そうであるべきだ。」という主張と同じことをテクスト内では個々の事態として述べているのである。それはライルが人間の自己内の真意とか心的な意識作用と、行動は必ずしも一致するわけではないものの、そうだからと言って極端に常に相反するというのなら、それは誤りであるという考えともどこかで共通する。特にそれは時間論の解釈に関してである。(そのことは後に具体的に述べる。)それはベルグソンやシュタイナー自身がカントを全体的に咀嚼して捉える像とはカントの主張全体が外部に(後代の我々をも含めて)与える影響力というものを考慮した上でのカント批判であるということである。それはカントと言いながら、カントのテクスト自体であるよりは、カントテクストの後代に与える影響力という意味でのカントのことなのだ。そしてカントの論主張の文体のニュアンスが与える影響力という意味、それを意味作用と呼ぶにはあまりにも些細なことそれ自体に対して特にベルグソンは苦言を呈していると私は捉えているのだ。それこそニュアンス表現それ自体が命題内容外に我々に与える影響力、印象の与え方の問題なのである。
カントは精読することで得られる命題内容が極めて全体的主張と受け取られる事態と異なる印象を与える存在であると言える。
それは何故かを問うことにはあまり意味がない。寧ろ我々はそのことよりもまず構造主義者やポスト構造主義者たちがあのように執拗にその齟齬を論じていたことの主題の意味、つまり何故そのように語る者の真意とは別個に意味作用がどんどん暴走して行ってしまうのかということを考えねならない。私は例えばベルグソン哲学そのものの存在意義とは別個にカントに対する位置付けにおいてベルグソンは恣意的にカント像を捻じ曲げていると感じている者の一人なのだが(結論でカントの時間論解釈を巡ったベルグソン解釈について他の時間論との相関性において詳述する。)、先述したようにそのようにカントを捉える時カントの外部への影響力そのものに対して後代の論客の多くが言及したという事実は、意味作用そのものが記述者、発言者の内的モティヴェーションそのものとは別個に独立した作用として認めるべきであるという社会ゲームとしての同意の下に我々が意思疎通しているからである。それは責任という考え方である。
例えば精神分析における転移という考え方が定着した背景には明らかにセラピスト、精神科医の存在がどんなにクライエントや患者によって信頼に足るものであっても尚、例えばセラピストや精神科医自身が自身の判断さえもがその場その都度の主観的なものでしかないのだ、絶対的な基準というものがどんなに経験を積んだ者にもあり得ないのだ、ということに対して自覚する、言わば精神の相対論的な把握という自然科学的認識がある。それは彼(セラピストや精神科医)の発言というものはどんなに注意深く配慮してさえ、クライエントやクランケの精神状態如何ではどのように解釈されるかわかったものではない、という現場の人間からの正直な経験に基づく教訓があるのではないだろうか?つまりそれは感情のその場その時の唯一無二性を常に念頭に入れておかなくてならないという教訓である。そしてその教訓が活かされるのは彼等にプロとしての責任が課せられているからである。私はガザニガが責任は脳内のニューロンの作用そのものからは読み取れないと言っていると述べた。それはある意味では社会ゲームを正当化し、社会ゲームの参加者としての通行手形としての責任が我々に課せられて、その責務遂行性として顕現されたものこそ脳内のニューラルネットワークの発火現象の活性、不活性であるからである。
ニュアンスは我々が作るのだが、ニュアンスに支配されつつ脳内で思考しなくてならないのも我々の実像である。恐らく私の考えるニュアンスとは表情の基本である。それはクオリアが内的な認知として脳内の作用が我々に自我を付与するような意味合いで個人的でありつつ、他者と共有する体験として相互に報告し合うことその行為自体が意志疎通であるのなら、そのような形で自己内の抑制が不能な、極自然に考えるよりも先に立ち現われてしまう表情の対他者的な、対外的態度の様相であり、それは運命的な実存の認識であると言える。私はその重要性をクオリア以外に不可欠のものとして認識したいのだ。つまりこういうことだ。ニュアンスとは表情を支える最大の要素であり、我々の言語行為全部を表現的メッセージにするものである。それはサインとして示す意味作用の必然性であり、幾分常套的な解釈を呼ぶようなものなのである。それは一時期持て囃された構造言語学の言う記号認識とも少々異なる。彼等の捉えた記号認識とはソシュールの依拠したラングによる自主規制的な自己内強制であるような性質が濃厚なのに対して、私が言うニュアンスとは明らかに自主規制性とか自己内タブーとか共時的な強制力とは無縁であるからだ。それはもっと端的に言えば生理学的なことであるし、社会ゲームにおけるサインの読みに対する同意という事態であり、サイン供給者が意図しないでも作用するものだからだ。
Sunday, November 8, 2009
Friday, November 6, 2009
〔表情の言語哲学〕2 序
私はこの論文の下書きになるものをかなり以前、十年近く前に書いていた。しかしその当時は未だ私の中に哲学的思惟は芽生えていたにもかかわらず、それほど自身の哲学に対して確信が持てなかったために一切発表を差し控えてきた。しかし当時からスティーヴン・J・グールド等の書いた進化論テクストを読むのが好きだった私は、それ以後多くの進化論テクストをはじめそれ以外の多くの良書に出会い、その当時の私の思惟には、それほど卑下することもない、いやそれ以上に今後の私の進むべき方向性が既に指示されていたと現今感じ出してきたので、ここに再び前回の「表情の言語哲学1」(別ブログ「トラフィック・モメント」に掲載更新予定の「言語の幻想とその力」と本ブログのこれまでに掲載更新してきた「顔を表情の意味」を対にしたもの)に続いて改変する部分を持ちながらも、基本は当時抱いた私の思念に忠実に「表情の言語哲学2」として発表することにしたのだ。よって寧ろこの2の方が1よりも起源的なニュアンスが強い内容となっている。しかしこの起源性に対する視座こそ今後の哲学と進化論の交差し得る地点であるという私の確信を主張しているという意味では、このテクストは続編でありながらも、どこかでは基本的な思想が色濃く表わされていると私は思っている。そして言語活動とは、それを育む私たち人類が人類登場以前の我々自身の種の原型を作ってきたところの祖先たちの意志とか考え(それが私たちの意志とか考えの基礎となっているところの)がどこかでは相変わらず体現されているようなものとして位置付けることを試みるなら、このテクストの示すところの方向性と意味は誤ってはいないと私は確信するものである。
私たちは日々情報の渦に巻き込まれずにはこの社会を生きてゆくことが出来ない。しかし情報は言語活動を基礎としているが、本来言語活動は人類の最初期においては自然の脅威に対する外在的な認識から発していたのだろう。しかし人類は外在的なことばかりか内面的なことにおいて事実を認識することが出来たために、我々の祖先たちは内面の告白を外在的な事実の確認と常に共存させながら言語行為を営んできたのだ。外在的自然観察そのものが内面の告白となるような認識は既に人類の最初期から人類が相対性理論を実践していた証拠である。外在的観察が内面の願望と密接であることの自覚は、その時その場の状況に沿って何らかの表現をすることを満たすための方策として言語秩序を形成することを人類に促し、その事実が言語行為の様相的な進化を齎したと考える。
それは告知し得る内容の真偽はともかく、伝達意志という欲求を相互に認め合うという社会ゲームを我々が採用することを促したのだ。だから虚偽的申告さえもが我々にとっては信頼性の表現の一部、つまりある種の真意として組み込まれている。建前もまた本音なのだ。
私たちが言語環境に生きる限り言語表現とその形式に対する問いは継続してゆくだろう。形式は内容を問うが、内容は形式を問うことはないかも知れない。それはあらゆる表現が形式の差を飛び越えて進化する可能性として言語を位置付けるからだ。例えば芸術表現はその形式を超えて全て言語活動に位置付けられるだろう。それはメッセージの伝達であり、要するにコミュニケーションなのだ。
私たちは日々情報の渦に巻き込まれずにはこの社会を生きてゆくことが出来ない。しかし情報は言語活動を基礎としているが、本来言語活動は人類の最初期においては自然の脅威に対する外在的な認識から発していたのだろう。しかし人類は外在的なことばかりか内面的なことにおいて事実を認識することが出来たために、我々の祖先たちは内面の告白を外在的な事実の確認と常に共存させながら言語行為を営んできたのだ。外在的自然観察そのものが内面の告白となるような認識は既に人類の最初期から人類が相対性理論を実践していた証拠である。外在的観察が内面の願望と密接であることの自覚は、その時その場の状況に沿って何らかの表現をすることを満たすための方策として言語秩序を形成することを人類に促し、その事実が言語行為の様相的な進化を齎したと考える。
それは告知し得る内容の真偽はともかく、伝達意志という欲求を相互に認め合うという社会ゲームを我々が採用することを促したのだ。だから虚偽的申告さえもが我々にとっては信頼性の表現の一部、つまりある種の真意として組み込まれている。建前もまた本音なのだ。
私たちが言語環境に生きる限り言語表現とその形式に対する問いは継続してゆくだろう。形式は内容を問うが、内容は形式を問うことはないかも知れない。それはあらゆる表現が形式の差を飛び越えて進化する可能性として言語を位置付けるからだ。例えば芸術表現はその形式を超えて全て言語活動に位置付けられるだろう。それはメッセージの伝達であり、要するにコミュニケーションなのだ。
Friday, October 30, 2009
〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 説明できないものと不可知論
我々は印象的である事柄全てを適切に言語化し得るほど言語を発達させてはいない。というより言語行為だけに、その責任の全てを負わせてもいない。だからと言って言語活動が重要ではない、とは言えない。この世界には表現することが難しい事象が無限にある。しかしその無限性は我々が今まであらゆる言語行為において述語表現してきたもの、形容修飾してきたものが実際本当に適切であったのであろうか、という反省を促す。述定行為というものは説明することを一方でその性格として請負っている。説明されることによって聞き手はその言辞から何ごとかを情報として受け取るのである。その発話をした人間の感情、その発話の内容そのものが語る真実、それらの一切を情報として認知することと、その認知自体がその発話、発言を受容する個人としての自己による受け手としての感情であるという覚知を前提に我々はそれを記憶に留める。我々は他者の発言を意味内容的にも認識しているが、その話者の感情としても認識しており、更にその発話自体の記憶は、それを聞いた時の聴者としての自己の感情として記憶格納庫へと収納されるのだ。
論理実証主義者たちは真理条件とか真偽性を通して統語秩序と意味内容的な真理の観点から言語活動を捉えた。それは論理的無矛盾性へと依拠した認識姿勢であったと言ってよい。しかし言語哲学者たちは、そういった無矛盾性への信頼過剰に対して懐疑的であった。そこで日常言語行為をもっと意思疎通の内的動機を重視する。その際に発語内行為というオースティンが提唱した概念が重要な意味を持つ。これはある発言を通してその内容を語ることとは、その内容を語る意志、その内容を信じていること、またその内容を語る他者に対して正しいから信じるべきであると推奨していることでもある、という考えによっている。その意味では日常言語学派はフッサール流の現象学とも幾分共通したところがある。そのことは数学者であり哲学者であったファイグルも指摘している。(「こころともの」187~188ページより)(またこの論理実証主義者と日常言語学派との間の関係や考え方の違いについてはカッツの著作「言語と行為」<大修館書店刊>に詳しい。)
私が「その話者の感情としても認識しており」と言ったのは、日常言語学派からも散見される考え方である。(「意味内容的に認識している」ということが論理実証主義者たちの考え方であるし、それもまた重要な観点である。)しかし私は更にそれに発話行為自体がある他者から得た発話からの情報が意味あるものであるのか、ということに対する評定というものは本質的に意味内容如何に係わらず、まずその他者に対する信頼感に、その他者の言うことは正しいことなのかどうか、ということの判断は依存する、ということを付け加えたいのである。しかしここからが難しい問題である。ある人間に対する評定というものはある人間の言動に依拠する。しかしその人物に対する過去データによって形成されたその人物像、つまりその人物に対する認識は長期間、言動の数々によって示された傾向に対する認識によって固定化される。そしてそういった評価がいったん固定化されてしまうと、仮に次の言動が正しいものであるか間違っているかに係わらずそれ以前の言動を基準にした評定によって信頼の有無が決定されてしまいがちである。いい評定が定着されていればたとえ間違った言動でも信頼されてしまうことはあり得るし、また逆に悪い評定が定着されていたなら、たとえいい言動でさえ一切信頼されることはない、ということもあり得る。そういう意思疎通の基盤にある話者同士の信頼感、他者に対する信用というものは今まで哲学においてはあまり重要視されてこなかった。そこを私はもう少し考えてもよい、と言いたかったのである。
話しを戻そう。
全ての印象的な事象が形容述定や修飾、述語的様相構築が容易であるわけではない、という厳然たる事実こそが「難しい」とか「不可能である」とか所謂困難さを表現する形容語彙と慣用句が齎されたことの理由であると思われる。しかし容易に形容出来るものは、ある意味では無個性である、とも言い得る。ただ理解しやすいものであるだけで、それが意義深いものであるとは限らない。我々が証明し得るもの、論理的に矛盾がないと評定し得るものとは、実際上は全事象の中のほんの一部でしかない。だからといって論理的に矛盾をきたす事象が実在的ではない、とは決して言えない。にもかかわらず科学は時として証明された事象だけを確然的であろうとする。証明不可のものの実在は明白である。それは我々の知のレヴェルがその事象を証明するに足るにはまだ発達途上であるに過ぎないのである。「あまりにも無個性的であるが故に、反って凄く印象的であった。」とか「影が薄かったのでよく覚えている。」というような言辞は、その人間が、というより我々の言語自体の現状における不備がそういったカテゴライズされ得ない事象のカテゴライズを永遠に反復してゆく運命を我々が背負っているということを覚醒させる。そういう形容し難いものを巧く形容しようとしていい表現や語彙を用意する。しかしその語彙では表現し切れない事象と、すぐに我々は遭遇する。また語彙を用意する。その繰返しである。
このような形容不可物に対する一時的な一括処理的形容省略表現及び語彙(「無個性」、「影が薄い」、「殺風景」といったもの)はある意味では言語活動における無意識(この言葉は何とこういう場合に便利なのだろう。)的エポケーである。
論理を超える多くの事象の存在について触れたが、しかし私は論理が必要ではない、と言っているのではない。勿論それは必要以上に必要であろう。例えば現代の棋士たちは綿密なデータ記憶とそれを瞬時に判断する能力を問われているが、彼らの必要以上に必要な論理性プラス最後に勝敗を決するものは何かと言えば、何か心理的なもの、物怖じせず、他者のことを必要以上に気に掛けないことなど、つまり論理性を超えた何物か、それは精神的なことでもあるし、何か他のことかも知れないが、そういうことが関係してくる。それは現代のスポーツにしても同じことが言える。現代の選手たちは綿密なる科学的合理性を熟知して試合に臨むが、最終的に敵方と競り合っている場合、ほんのちょっとした精神的な余裕とかが勝敗を決することということはよくあることである。勿論緊張せずにリラックスすれば何でも巧くゆくという簡単なものではない。適度の緊張は大切であろう。しかしその緊張を楽しむという心の余裕のようなものが要求される。そういう意味で論理というものは充分必要であるし、知識も同様であろう。しかし我々は同時に論理や知識が役に立たないこともあるのだ、ということも肝に銘じておかねばならないのだ。つまり無意識的エポケーによって保留にしている幾多の不可解さに対する形容語彙の見つからなさから、語彙創造に対する努力を意義あるものと認識してゆかねばならないのだ。
論理というもの、つまり証明され得るものでなければ、それを否定してよい、ということにはならない、しかしだからと言って証明され得る論理を蔑ろにしてよいということにもならない、というような主張をカントは「純粋理性批判」で次のように述べている。
(前略)理性の思弁的使用においては、仮説は臆見としてそれ自体妥当性をもつものではなく、ただ相手の僭越的主張に関連して相対的な妥当性をもつにすぎない、ということである。可能的経験の諸原理を物一般の可能に及ぼすことが僭越的であるのは、或る種の概念_と言うのは、その対象が一切の可能的経験の限界外でしか見出され得ないような概念の客観的実在性を主張することが超越的であるのとまったく同様である。純粋理性が実然的(assertorisch)に_即ち真実として判断するところのものは、(理性の認識する一切のものと同じく)必然的でなければならない、さもなかったらそれはまったくの無である。それだから純粋理性は、実際には臆見を含むものではない。また上に述べたような仮設は、蓋然的判断にすぎない。かかる判断は、もちろん何ものによっても証明せられ得ないが、しかしそれかといってまた少なくとも否定されもしないのである。従ってこれらの仮説は決して個人的臆見ではないが、しかしややもすれば擡頭する疑念に対抗するものとして(安心のためにも)やはり欠くことができないのである。我々は仮説にかかる資格を与えるだけにとどめねばならない、それどころか仮説がそれ自体証明されたもの、或は幾分なりとも絶対的妥当性をもつものとして振舞い、理性を想像による拵え物やまやかし物のなかに惑溺させることのないように、十分に意を用いねばならないのである。(下、78ページより、篠田英雄訳、岩波文庫)
カントが理性の思弁的使用と言っていることとは、今日的に言えば論理的無矛盾性への、つまり理解する一つの仕方として論理的な整合性を持つことから真理を炙りだすことを目的とした行為と考えてよい。というのもカントはここで、「我々が経験によって知り得ることには限界があるし、そういった限られた経験によってのみ構築された法則のようなもので全ての事象を証明していては危険である。我々はある意味では全ての事象を経験にだけ頼って判断していくことは不可能であるし、時間の浪費だから、時には我々が経験によって設定された法則を使用して論理的思考にのみ頼って判断し結論を出さなければならない時もある。だが我々は経験外にあることをあたら存在し得ると主張し過ぎてもいけない。経験外の判断に頼り過ぎてもいけない。しかしまた同時にそういった仮説というものを有効に使用し得る時もあるのだから、真理であると証明され得ないからといって否定してもいけないのだ。にもかかわらず、その経験外の判断は思い違いではないものだが、あくまでそれは方便としてのみ留めておく必要もある、そうでなければ理性というものがたちまちの内に、経験などどうあってもよいというような思いあがりに陥る」ということを言っているのだ。ここには理性によって批判し、その理性をも同時に批判するというカントの反芻的手法が垣間見られる。
我々は実際に社会に係わる上で情報というものを授受して生活している。それらの大多数は通信や放送などによって得たものであり、自分の目でその場で確認してきたものではない。プロクセミックスという学問の創始者としても有名な人類学者、エドワード・ホールは次のように示している。(「かくれた次元」みすず書房、7ページより)
人間は、驚くべき、そして非凡な過去をもった生物である。人間は自分の体の延長物(extension)と私がよぶものを作りだしたという事実によって、他の生物と区別される。人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。コンピューターは脳の一部の延長であり、電話は声を延長し、車は肢を延長した。言語は体験を、記述は言語を時間・空間内に延長した。人間は彼の延長物であまりにも作りだしすぎたので、われわれはともすれば人間の人間たるとが彼の動物的本性に根ざしていることをわすれがちである。人類学者のウェストン・ラ・バール(Weston La Barre)が指摘するとおり、人間は進化を自分の体からその延長物のほうへ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めたのである。
この考え方は独自の利己的遺伝子理論を持つことで知られる、進化論遺伝子生物学者リチャード・ドーキンスにも見られ、彼はビーバー等がダムを作り環境を作り替えることを自己身体のみによる活動を超えた種の利益を齎すこの種の動物の行為を、それは人間の社会や都市にも全く該当するのであるが、自己の行為の意志(環境に働きかける)を自己身体活動範囲の限界外にまで及ぼす環境自体の創造を<延長された表現型>であるとして、遺伝子の作用がそこまで及んでいる、と考えている。ドーキンスの考え方が遺伝子自体の能力の発現可能性と拡張された応用能力と捉えるか、遺伝子自体を過大評価するものであると捉えるかは、どの事実に焦点を当てて考えるかによると思われる。
本論でも論じてきたマスメディアは我々が自己身体の移動を主とした経験によって自分の足を運んで自分の目で確かめる能力を通して知り得る範囲を遥かに超え得る情報を獲得しているが、それらはマスメディアが通信によって授受したものをそのまま流用させたものであり、自分で確認したものではない。あくまでメディアを通した情報でしかない。しかしだからと言って情報を遮断しては生きてはゆけないし、また情報によって我々は恩恵を受けてもいるのだから、それを認知し感受することは他者との意思疎通やニュースを見たり、新聞を読んだりすることなどから考えても大切である。このような便利さと言うよりはメディアの脅威とでも言うべき現状において、自己の確信というものと、自己が持つメディア自体が我々に認知させる情報に対する信頼というものの分離は既に不可能である。そういう観点からカントや他の哲学者の論理を読み解くと現代社会への提言であるように思われる無数な述定を我々はそこに見出すことが可能である。
言語哲学者のサールはオースティンとストローソンから正統的な言語哲学派の考え方を継承してきた哲学者であるが、自ら影響を受けてきた哲学者のオースティンやライルを批判し、修正を加えている。サールの考え方は次のような骨子で構成されている。
同定⊂述定
同定⊂指示
指示∩述定=同定
ライルは「ふりをする」という外面的顕現を齎す行為と、心的内容を一致させることを、認識の基本にした。(人間はそういう風に行かないこともあるが、殆どは一致すると思われる。)その態度こそ彼を行動主義哲学者と一般に呼ばせる所以である。しかし恐らくライルはサールにとっては明快過ぎたし、ストローソンは難解過ぎたのだろう。
オースティンはconstativeとperformativeという二つの動詞使用を巡る解釈をしたが、彼が真に言いたかったのは、両方とも後者に吸引されるような発語内行為として捉えたいということであった。
デヴィッドソンは意思決定は条件節を付帯させるような厳密さよりも、単刀直入で単純であることであると考えた(「行為と出来事」)が、それは同定と指示が必ずしも一致するとは限らない、という表明とも同義である。しかしサールは述定を志向性の顕現として捉え、その志向性を確定するものとして指示を捉えた。そしてその全体を事実として同定という行為として捉えた。要するに述定というパワー(クオリア)と、指示というイデアはその二つを交差して「生の時間」を構成しているように、前者をハレ、後者をケとして往復運動するその行為の全体を同定と捉える。同定は命題の肯定である。(否定は同定の否定、つまり命題全体の否定に他ならない。)クオリアは生の中の肯定的側面であり、長期持続は疲労を伴う。しかしイデアは認識なので、比較的持続可能である。
イデア=空、無、無常 クオリア=充実、生、有、不変
という図式がここで与えられる。ここで読者はイデアこそ普遍であり、不変であると反論されるかも知れないが、イデアは無常であること、つまり相対的であることは哲学史を見ても、各哲学者間におけるイデアに対する考え方の違いから明白であり、しかもその相対的で、無常であることにおいて不変で絶対である。そういうイデアの無常という事実(あるいは事態)に対するクオリアは絶対的に有であり、不変(普遍)なのだ。
クオリアは通常それを感じる人間の過去の経験や第一印象も大きく関わるので、私たちはその感じ方をなかなか変更させることが出来ない。余程の人生全体に関わる価値転換(そういうものは通常の人間の場合、幼児期か思春期以内に経験済みである。)がなければ、容易に変わらない。我々は惰性としてクオリアをも引き受けがちである。惰性とは不変への傾向性であり、サルトルも大きく取り上げている。ライルとサルトルは異なった潮流の存在同士だが、方や内と外の一致、方や本質否定と実存のみを肯定する明快さにおいて極めて共通した哲学資質的クオリアの所有者たちである。
私たちはこのように異質のもの同士に同質性を、逆に同質のもの同士に「異」性を、曖昧なものを一つの方向へ、逆に収斂されたものを分解することを個人史的にも、日常行為連関的にも、社会、政治、思想、生活スタイル、信条、心情、宗教心、流行といった場面でも常に往復運動をしてきている。平凡なものにどっぷり浸かっていると変化を、変化が激し過ぎると安定を求める。そういう意味では哲学は常にこの二つの往復運動によって哲学者個人においても、潮流や先人から後輩へと至る世代交代においても、反復してきていると言えよう。私たちは比較的四肢を中心とする身体が疲労しない会話を、通常の行為よりは持続することが可能だが、会話は頭が疲れるのだ。脳と身体の関係において述定は脳の判断、指示は決定(行為へと直結する)、同定は思惟も行為も含めたその全体(発語内行為として、あるいは説得、主張と言い換えてもよい。)のことを言う、とサールの論は読み取られる。
ここから私たちが学べることとは、意志することが行為にせよ、発語にせよ、他者を取り込みながら自己の位置を確認し、自己領域を空間的にも、精神的にも確保することは、取りも直さず他者のそれを尊重することであり、他者存在そのものを承認することに他ならないということである。それを承知の上でマスメディアを我々は作ってきたし、利用してきたのだ。マスメディアが流す情報はある意味で他と共同体そのものの存在の幻影である。しかしそこから我々は実像を読み取る。その実像にはマスメディアの情報を摂取する私たち自身一人一人も当然含まれる。
第一章でも述べたが、我々はいざという時には経験が何の役にも立たない面があるのを知っている。にもかかわらず、他者を裁定する時、信用出来るか、信頼出来るか、そうではないかの判断をその人間の履歴とか経歴を参考にする。そして経歴とか履歴といったものは権威という傘の下にあるものである。しかし経験がいざとなると役に立たないのに、一般常識という名の見識を有効に利用するということは、一つ一つの行為や判断に人生の全てを賭けて行動するにはあまりにも非常の場合に必要とされるエネルギー温存のためにはリスキーであるという一事に集約されると私は思う。我々は知識という経験をフルに利用している。実際我々が接する全ては未知のものであるにもかかわらず(従ってそれぞれは異なったクオリアを持っているのだ。)、それらを一括して概念規定したり、その他大勢としたりするのは、未知性を絶えず既知性へと送り込むことによって自分とって掛け替えのない未知性へと邂逅することを選択しているからである。何もかも新鮮に接することは、何もかも等閑にすることにも等しいということを我々は知るから、我々は取捨選択を行うのだ。そういう意味では我々は少数の他者との間でのみ善良な市民であり、他の大多数の他者の幸福も不幸も、大した大きな問題ではない、要するにそ知らぬふりをして生きている。
家族、友人、同僚、そのいずれを大事にするかも個人の選択に委ねられている。そもそも哲学は、そういった選択には一切口を差し挟まない。だからこそどこからでも入ることが出来、どこからでも抜け出ることが出来るのだ。哲学への問いは社会、言語、人類の性格、性質、傾向性、本能、理性、感情、意志、意識、生と死といった問いをこれからも続けるであろう。しかし大切なこととは、その問いのいずれもが正しく、いずれもが普遍ではないということ、そして永遠に全ての謎が解かれることはないということ、しかしそれでも我々は絶えず問いをし続けることを止めないし、そうすることには意味があるということ、そしてその意味は何かを得るために意味なのではなく、問い続けるためにこそ意味があり、それ以外のことについては無意味でもよい。こうしている間にも大勢の人間が死に、大勢人間が誕生している。いつかは人類全体が死滅する瞬間も訪れることであろう。しかしその時までに我々一人一人が生を受けてこの世に生きたという事実が意味あることであると感じられるために我々は問い続けることを止めないであろう。それだけは確かである。人間の社会は我々が考えるよりずっと狭いし、小さい。自然全体から言えば、人間の自然へと与える影響力は、地球環境全体の荒廃が叫ばれているにもかかわらず、極めて小さいと思う。なぜなら仮に地球に人間が住めなくなることがあっても尚、地球環境そのものは何らかの形で存続し、別の種類の生物にとって恵みを与え続けるだけだからである。地球そのものが破滅するその瞬間まで人間がもし仮に生きられたとしても尚、地球滅亡後には宇宙の果てでいつかは地球に似た星も登場することであろう。その時にもまた人間と似た生物が登場し、我々のように何かものを考え、何かを残そうとするかも知れない。そもそも地球が誕生するよりも前にも、そういうことはあったのかも知れない。そういう生命同士の相互の交流は恐らく不可能であろうが、その可能性に賭けることには意味がある。なぜなら彼らもまた顔と表情をそれなりに持っていると考えられるからである。(了)
参考文献
釈迦無尼「ブッダのことば」(岩波文庫)、ルネ・デカルト「省察・情念論」(中公クラシックス)、インマニュエル・カント「純粋理性批判」、「実践理性批判」(岩波文庫)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)、ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学的考察」「探求」(大修館書店)、マルティン・ブーバー「我と汝」(岩波文庫)、ジャン・ポール・サルトル「存在と無」(人文書院)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波書店)、ギルバート・ライル「心の概念」(みすず書房)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)、エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」(岩波文庫)「存在の彼方に」(講談社学術文庫)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)、J・J・カッツ「言語」(大修館書店)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)、エドワ-ド・ホール「かくれた次元」(みすず書房)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(産業図書)、ドナルド・デヴィッドソン「行為と出来事」(勁草書房)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)、中島義道「時間と自由」(講談社学術文庫)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)、茂木健一郎「意識とはなにか」(ちくま新書)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)
付記「顔と表情の意味」はここで終わりですが、ブログは引き続き「表情の言語哲学」②を更新していきます。数日休暇を取らせて頂きます。(河口ミカル)
論理実証主義者たちは真理条件とか真偽性を通して統語秩序と意味内容的な真理の観点から言語活動を捉えた。それは論理的無矛盾性へと依拠した認識姿勢であったと言ってよい。しかし言語哲学者たちは、そういった無矛盾性への信頼過剰に対して懐疑的であった。そこで日常言語行為をもっと意思疎通の内的動機を重視する。その際に発語内行為というオースティンが提唱した概念が重要な意味を持つ。これはある発言を通してその内容を語ることとは、その内容を語る意志、その内容を信じていること、またその内容を語る他者に対して正しいから信じるべきであると推奨していることでもある、という考えによっている。その意味では日常言語学派はフッサール流の現象学とも幾分共通したところがある。そのことは数学者であり哲学者であったファイグルも指摘している。(「こころともの」187~188ページより)(またこの論理実証主義者と日常言語学派との間の関係や考え方の違いについてはカッツの著作「言語と行為」<大修館書店刊>に詳しい。)
私が「その話者の感情としても認識しており」と言ったのは、日常言語学派からも散見される考え方である。(「意味内容的に認識している」ということが論理実証主義者たちの考え方であるし、それもまた重要な観点である。)しかし私は更にそれに発話行為自体がある他者から得た発話からの情報が意味あるものであるのか、ということに対する評定というものは本質的に意味内容如何に係わらず、まずその他者に対する信頼感に、その他者の言うことは正しいことなのかどうか、ということの判断は依存する、ということを付け加えたいのである。しかしここからが難しい問題である。ある人間に対する評定というものはある人間の言動に依拠する。しかしその人物に対する過去データによって形成されたその人物像、つまりその人物に対する認識は長期間、言動の数々によって示された傾向に対する認識によって固定化される。そしてそういった評価がいったん固定化されてしまうと、仮に次の言動が正しいものであるか間違っているかに係わらずそれ以前の言動を基準にした評定によって信頼の有無が決定されてしまいがちである。いい評定が定着されていればたとえ間違った言動でも信頼されてしまうことはあり得るし、また逆に悪い評定が定着されていたなら、たとえいい言動でさえ一切信頼されることはない、ということもあり得る。そういう意思疎通の基盤にある話者同士の信頼感、他者に対する信用というものは今まで哲学においてはあまり重要視されてこなかった。そこを私はもう少し考えてもよい、と言いたかったのである。
話しを戻そう。
全ての印象的な事象が形容述定や修飾、述語的様相構築が容易であるわけではない、という厳然たる事実こそが「難しい」とか「不可能である」とか所謂困難さを表現する形容語彙と慣用句が齎されたことの理由であると思われる。しかし容易に形容出来るものは、ある意味では無個性である、とも言い得る。ただ理解しやすいものであるだけで、それが意義深いものであるとは限らない。我々が証明し得るもの、論理的に矛盾がないと評定し得るものとは、実際上は全事象の中のほんの一部でしかない。だからといって論理的に矛盾をきたす事象が実在的ではない、とは決して言えない。にもかかわらず科学は時として証明された事象だけを確然的であろうとする。証明不可のものの実在は明白である。それは我々の知のレヴェルがその事象を証明するに足るにはまだ発達途上であるに過ぎないのである。「あまりにも無個性的であるが故に、反って凄く印象的であった。」とか「影が薄かったのでよく覚えている。」というような言辞は、その人間が、というより我々の言語自体の現状における不備がそういったカテゴライズされ得ない事象のカテゴライズを永遠に反復してゆく運命を我々が背負っているということを覚醒させる。そういう形容し難いものを巧く形容しようとしていい表現や語彙を用意する。しかしその語彙では表現し切れない事象と、すぐに我々は遭遇する。また語彙を用意する。その繰返しである。
このような形容不可物に対する一時的な一括処理的形容省略表現及び語彙(「無個性」、「影が薄い」、「殺風景」といったもの)はある意味では言語活動における無意識(この言葉は何とこういう場合に便利なのだろう。)的エポケーである。
論理を超える多くの事象の存在について触れたが、しかし私は論理が必要ではない、と言っているのではない。勿論それは必要以上に必要であろう。例えば現代の棋士たちは綿密なデータ記憶とそれを瞬時に判断する能力を問われているが、彼らの必要以上に必要な論理性プラス最後に勝敗を決するものは何かと言えば、何か心理的なもの、物怖じせず、他者のことを必要以上に気に掛けないことなど、つまり論理性を超えた何物か、それは精神的なことでもあるし、何か他のことかも知れないが、そういうことが関係してくる。それは現代のスポーツにしても同じことが言える。現代の選手たちは綿密なる科学的合理性を熟知して試合に臨むが、最終的に敵方と競り合っている場合、ほんのちょっとした精神的な余裕とかが勝敗を決することということはよくあることである。勿論緊張せずにリラックスすれば何でも巧くゆくという簡単なものではない。適度の緊張は大切であろう。しかしその緊張を楽しむという心の余裕のようなものが要求される。そういう意味で論理というものは充分必要であるし、知識も同様であろう。しかし我々は同時に論理や知識が役に立たないこともあるのだ、ということも肝に銘じておかねばならないのだ。つまり無意識的エポケーによって保留にしている幾多の不可解さに対する形容語彙の見つからなさから、語彙創造に対する努力を意義あるものと認識してゆかねばならないのだ。
論理というもの、つまり証明され得るものでなければ、それを否定してよい、ということにはならない、しかしだからと言って証明され得る論理を蔑ろにしてよいということにもならない、というような主張をカントは「純粋理性批判」で次のように述べている。
(前略)理性の思弁的使用においては、仮説は臆見としてそれ自体妥当性をもつものではなく、ただ相手の僭越的主張に関連して相対的な妥当性をもつにすぎない、ということである。可能的経験の諸原理を物一般の可能に及ぼすことが僭越的であるのは、或る種の概念_と言うのは、その対象が一切の可能的経験の限界外でしか見出され得ないような概念の客観的実在性を主張することが超越的であるのとまったく同様である。純粋理性が実然的(assertorisch)に_即ち真実として判断するところのものは、(理性の認識する一切のものと同じく)必然的でなければならない、さもなかったらそれはまったくの無である。それだから純粋理性は、実際には臆見を含むものではない。また上に述べたような仮設は、蓋然的判断にすぎない。かかる判断は、もちろん何ものによっても証明せられ得ないが、しかしそれかといってまた少なくとも否定されもしないのである。従ってこれらの仮説は決して個人的臆見ではないが、しかしややもすれば擡頭する疑念に対抗するものとして(安心のためにも)やはり欠くことができないのである。我々は仮説にかかる資格を与えるだけにとどめねばならない、それどころか仮説がそれ自体証明されたもの、或は幾分なりとも絶対的妥当性をもつものとして振舞い、理性を想像による拵え物やまやかし物のなかに惑溺させることのないように、十分に意を用いねばならないのである。(下、78ページより、篠田英雄訳、岩波文庫)
カントが理性の思弁的使用と言っていることとは、今日的に言えば論理的無矛盾性への、つまり理解する一つの仕方として論理的な整合性を持つことから真理を炙りだすことを目的とした行為と考えてよい。というのもカントはここで、「我々が経験によって知り得ることには限界があるし、そういった限られた経験によってのみ構築された法則のようなもので全ての事象を証明していては危険である。我々はある意味では全ての事象を経験にだけ頼って判断していくことは不可能であるし、時間の浪費だから、時には我々が経験によって設定された法則を使用して論理的思考にのみ頼って判断し結論を出さなければならない時もある。だが我々は経験外にあることをあたら存在し得ると主張し過ぎてもいけない。経験外の判断に頼り過ぎてもいけない。しかしまた同時にそういった仮説というものを有効に使用し得る時もあるのだから、真理であると証明され得ないからといって否定してもいけないのだ。にもかかわらず、その経験外の判断は思い違いではないものだが、あくまでそれは方便としてのみ留めておく必要もある、そうでなければ理性というものがたちまちの内に、経験などどうあってもよいというような思いあがりに陥る」ということを言っているのだ。ここには理性によって批判し、その理性をも同時に批判するというカントの反芻的手法が垣間見られる。
我々は実際に社会に係わる上で情報というものを授受して生活している。それらの大多数は通信や放送などによって得たものであり、自分の目でその場で確認してきたものではない。プロクセミックスという学問の創始者としても有名な人類学者、エドワード・ホールは次のように示している。(「かくれた次元」みすず書房、7ページより)
人間は、驚くべき、そして非凡な過去をもった生物である。人間は自分の体の延長物(extension)と私がよぶものを作りだしたという事実によって、他の生物と区別される。人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。コンピューターは脳の一部の延長であり、電話は声を延長し、車は肢を延長した。言語は体験を、記述は言語を時間・空間内に延長した。人間は彼の延長物であまりにも作りだしすぎたので、われわれはともすれば人間の人間たるとが彼の動物的本性に根ざしていることをわすれがちである。人類学者のウェストン・ラ・バール(Weston La Barre)が指摘するとおり、人間は進化を自分の体からその延長物のほうへ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めたのである。
この考え方は独自の利己的遺伝子理論を持つことで知られる、進化論遺伝子生物学者リチャード・ドーキンスにも見られ、彼はビーバー等がダムを作り環境を作り替えることを自己身体のみによる活動を超えた種の利益を齎すこの種の動物の行為を、それは人間の社会や都市にも全く該当するのであるが、自己の行為の意志(環境に働きかける)を自己身体活動範囲の限界外にまで及ぼす環境自体の創造を<延長された表現型>であるとして、遺伝子の作用がそこまで及んでいる、と考えている。ドーキンスの考え方が遺伝子自体の能力の発現可能性と拡張された応用能力と捉えるか、遺伝子自体を過大評価するものであると捉えるかは、どの事実に焦点を当てて考えるかによると思われる。
本論でも論じてきたマスメディアは我々が自己身体の移動を主とした経験によって自分の足を運んで自分の目で確かめる能力を通して知り得る範囲を遥かに超え得る情報を獲得しているが、それらはマスメディアが通信によって授受したものをそのまま流用させたものであり、自分で確認したものではない。あくまでメディアを通した情報でしかない。しかしだからと言って情報を遮断しては生きてはゆけないし、また情報によって我々は恩恵を受けてもいるのだから、それを認知し感受することは他者との意思疎通やニュースを見たり、新聞を読んだりすることなどから考えても大切である。このような便利さと言うよりはメディアの脅威とでも言うべき現状において、自己の確信というものと、自己が持つメディア自体が我々に認知させる情報に対する信頼というものの分離は既に不可能である。そういう観点からカントや他の哲学者の論理を読み解くと現代社会への提言であるように思われる無数な述定を我々はそこに見出すことが可能である。
言語哲学者のサールはオースティンとストローソンから正統的な言語哲学派の考え方を継承してきた哲学者であるが、自ら影響を受けてきた哲学者のオースティンやライルを批判し、修正を加えている。サールの考え方は次のような骨子で構成されている。
同定⊂述定
同定⊂指示
指示∩述定=同定
ライルは「ふりをする」という外面的顕現を齎す行為と、心的内容を一致させることを、認識の基本にした。(人間はそういう風に行かないこともあるが、殆どは一致すると思われる。)その態度こそ彼を行動主義哲学者と一般に呼ばせる所以である。しかし恐らくライルはサールにとっては明快過ぎたし、ストローソンは難解過ぎたのだろう。
オースティンはconstativeとperformativeという二つの動詞使用を巡る解釈をしたが、彼が真に言いたかったのは、両方とも後者に吸引されるような発語内行為として捉えたいということであった。
デヴィッドソンは意思決定は条件節を付帯させるような厳密さよりも、単刀直入で単純であることであると考えた(「行為と出来事」)が、それは同定と指示が必ずしも一致するとは限らない、という表明とも同義である。しかしサールは述定を志向性の顕現として捉え、その志向性を確定するものとして指示を捉えた。そしてその全体を事実として同定という行為として捉えた。要するに述定というパワー(クオリア)と、指示というイデアはその二つを交差して「生の時間」を構成しているように、前者をハレ、後者をケとして往復運動するその行為の全体を同定と捉える。同定は命題の肯定である。(否定は同定の否定、つまり命題全体の否定に他ならない。)クオリアは生の中の肯定的側面であり、長期持続は疲労を伴う。しかしイデアは認識なので、比較的持続可能である。
イデア=空、無、無常 クオリア=充実、生、有、不変
という図式がここで与えられる。ここで読者はイデアこそ普遍であり、不変であると反論されるかも知れないが、イデアは無常であること、つまり相対的であることは哲学史を見ても、各哲学者間におけるイデアに対する考え方の違いから明白であり、しかもその相対的で、無常であることにおいて不変で絶対である。そういうイデアの無常という事実(あるいは事態)に対するクオリアは絶対的に有であり、不変(普遍)なのだ。
クオリアは通常それを感じる人間の過去の経験や第一印象も大きく関わるので、私たちはその感じ方をなかなか変更させることが出来ない。余程の人生全体に関わる価値転換(そういうものは通常の人間の場合、幼児期か思春期以内に経験済みである。)がなければ、容易に変わらない。我々は惰性としてクオリアをも引き受けがちである。惰性とは不変への傾向性であり、サルトルも大きく取り上げている。ライルとサルトルは異なった潮流の存在同士だが、方や内と外の一致、方や本質否定と実存のみを肯定する明快さにおいて極めて共通した哲学資質的クオリアの所有者たちである。
私たちはこのように異質のもの同士に同質性を、逆に同質のもの同士に「異」性を、曖昧なものを一つの方向へ、逆に収斂されたものを分解することを個人史的にも、日常行為連関的にも、社会、政治、思想、生活スタイル、信条、心情、宗教心、流行といった場面でも常に往復運動をしてきている。平凡なものにどっぷり浸かっていると変化を、変化が激し過ぎると安定を求める。そういう意味では哲学は常にこの二つの往復運動によって哲学者個人においても、潮流や先人から後輩へと至る世代交代においても、反復してきていると言えよう。私たちは比較的四肢を中心とする身体が疲労しない会話を、通常の行為よりは持続することが可能だが、会話は頭が疲れるのだ。脳と身体の関係において述定は脳の判断、指示は決定(行為へと直結する)、同定は思惟も行為も含めたその全体(発語内行為として、あるいは説得、主張と言い換えてもよい。)のことを言う、とサールの論は読み取られる。
ここから私たちが学べることとは、意志することが行為にせよ、発語にせよ、他者を取り込みながら自己の位置を確認し、自己領域を空間的にも、精神的にも確保することは、取りも直さず他者のそれを尊重することであり、他者存在そのものを承認することに他ならないということである。それを承知の上でマスメディアを我々は作ってきたし、利用してきたのだ。マスメディアが流す情報はある意味で他と共同体そのものの存在の幻影である。しかしそこから我々は実像を読み取る。その実像にはマスメディアの情報を摂取する私たち自身一人一人も当然含まれる。
第一章でも述べたが、我々はいざという時には経験が何の役にも立たない面があるのを知っている。にもかかわらず、他者を裁定する時、信用出来るか、信頼出来るか、そうではないかの判断をその人間の履歴とか経歴を参考にする。そして経歴とか履歴といったものは権威という傘の下にあるものである。しかし経験がいざとなると役に立たないのに、一般常識という名の見識を有効に利用するということは、一つ一つの行為や判断に人生の全てを賭けて行動するにはあまりにも非常の場合に必要とされるエネルギー温存のためにはリスキーであるという一事に集約されると私は思う。我々は知識という経験をフルに利用している。実際我々が接する全ては未知のものであるにもかかわらず(従ってそれぞれは異なったクオリアを持っているのだ。)、それらを一括して概念規定したり、その他大勢としたりするのは、未知性を絶えず既知性へと送り込むことによって自分とって掛け替えのない未知性へと邂逅することを選択しているからである。何もかも新鮮に接することは、何もかも等閑にすることにも等しいということを我々は知るから、我々は取捨選択を行うのだ。そういう意味では我々は少数の他者との間でのみ善良な市民であり、他の大多数の他者の幸福も不幸も、大した大きな問題ではない、要するにそ知らぬふりをして生きている。
家族、友人、同僚、そのいずれを大事にするかも個人の選択に委ねられている。そもそも哲学は、そういった選択には一切口を差し挟まない。だからこそどこからでも入ることが出来、どこからでも抜け出ることが出来るのだ。哲学への問いは社会、言語、人類の性格、性質、傾向性、本能、理性、感情、意志、意識、生と死といった問いをこれからも続けるであろう。しかし大切なこととは、その問いのいずれもが正しく、いずれもが普遍ではないということ、そして永遠に全ての謎が解かれることはないということ、しかしそれでも我々は絶えず問いをし続けることを止めないし、そうすることには意味があるということ、そしてその意味は何かを得るために意味なのではなく、問い続けるためにこそ意味があり、それ以外のことについては無意味でもよい。こうしている間にも大勢の人間が死に、大勢人間が誕生している。いつかは人類全体が死滅する瞬間も訪れることであろう。しかしその時までに我々一人一人が生を受けてこの世に生きたという事実が意味あることであると感じられるために我々は問い続けることを止めないであろう。それだけは確かである。人間の社会は我々が考えるよりずっと狭いし、小さい。自然全体から言えば、人間の自然へと与える影響力は、地球環境全体の荒廃が叫ばれているにもかかわらず、極めて小さいと思う。なぜなら仮に地球に人間が住めなくなることがあっても尚、地球環境そのものは何らかの形で存続し、別の種類の生物にとって恵みを与え続けるだけだからである。地球そのものが破滅するその瞬間まで人間がもし仮に生きられたとしても尚、地球滅亡後には宇宙の果てでいつかは地球に似た星も登場することであろう。その時にもまた人間と似た生物が登場し、我々のように何かものを考え、何かを残そうとするかも知れない。そもそも地球が誕生するよりも前にも、そういうことはあったのかも知れない。そういう生命同士の相互の交流は恐らく不可能であろうが、その可能性に賭けることには意味がある。なぜなら彼らもまた顔と表情をそれなりに持っていると考えられるからである。(了)
参考文献
釈迦無尼「ブッダのことば」(岩波文庫)、ルネ・デカルト「省察・情念論」(中公クラシックス)、インマニュエル・カント「純粋理性批判」、「実践理性批判」(岩波文庫)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)、ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学的考察」「探求」(大修館書店)、マルティン・ブーバー「我と汝」(岩波文庫)、ジャン・ポール・サルトル「存在と無」(人文書院)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波書店)、ギルバート・ライル「心の概念」(みすず書房)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)、エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」(岩波文庫)「存在の彼方に」(講談社学術文庫)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)、J・J・カッツ「言語」(大修館書店)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)、エドワ-ド・ホール「かくれた次元」(みすず書房)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(産業図書)、ドナルド・デヴィッドソン「行為と出来事」(勁草書房)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)、中島義道「時間と自由」(講談社学術文庫)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)、茂木健一郎「意識とはなにか」(ちくま新書)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)
付記「顔と表情の意味」はここで終わりですが、ブログは引き続き「表情の言語哲学」②を更新していきます。数日休暇を取らせて頂きます。(河口ミカル)
Tuesday, October 27, 2009
〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 対概念、肯定と否定の感情的個別性と非対称性
選挙で政治家に投票する時一番重視するのはどのような選択基準を持つ人間でも、例えば一回聴いてもう一度聞きたいと思うようなミュージシャンのCDを買うということが最も大きな判断であるような意味で、何か民衆を惹きつけるべく要素、その部分に賭けてみようと思わせるところであろう。そういうものは肯定的なイメージを与えるであろう。そういう観点では言語活動において肯定的な言辞が果たす役割は否定的な言辞よりも説得力を持つ。説得力を持つものとは誰しもが正しいと思う真理である。それに引き換え否定的な真理とは本来肯定すべきもの、肯定したいけれど致し方なく否定せざるを得ないもののみに限定して、するべきものであるし、そうしたいと人間は望む。そういう意味では時として衝撃的なニュースをそれが自分とかかわりのない地域の不幸であるなら時として話題提供的な意味で人は歓迎するようなクールさも持っているが、それはあくまで自分を巡る日常的な生活が脅かされない範囲での話しである。
動詞では行くべきところを行かないで済ました、ということが肯定的に捉えられる雑事であるような場合以外は行くということは警察や刑務所のような場所でない限り大概肯定的に捉えられるであろう。悪い事態を表わす動詞の否定形以外は肯定的な言辞を人は望む。
「失う」、「亡くす」といったものは悪癖(悪い習慣)を「止める」ような場合にのみ肯定的であるが、そもそもそういう風に否定的に言辞する必要のない最初から肯定的であるだけのものが一番好ましいと人間は思う。「彼女綺麗だね。」という言辞が一番常に歓迎される心的様相である。その「彼女が綺麗でなくなった」、底意地が悪くなったということがあったとしよう。そして彼女が改心してまた昔の綺麗さを取り戻したとしよう。その時に「彼女一時期に比べて酷くなくなった。」と言う場合、それは肯定的な言辞であるものの、最初の言辞以上の肯定ではあり得ないという意味において否定を否定する言辞以上に肯定的でだけあることが最も望ましい状態であることは真理である。
だから「変わる」とか「変わらない」という場合のように悪癖や悪事をすることにおいて「変わる」ということは肯定的なことであるし、またその場合「変わらない」ことはよくないことである。しかし肯定的な形容や評価しか当て嵌まらない人間に対してとか、真理に対しては「変わらない」ということは歓迎すべきことである。だからそのような意味において事件が「起こる」ことは通常好ましいことではないが、功を急いでいる若き刑事にとって事件が「起こる」ことは心躍ることであるかも知れない。しかし通常よくないことは「起こらない」方がよいとされるし、「起こる」こととは大概衝撃的な事実、現象である。また動詞や形容詞には対語というものが存在する。「生きる」の対語は「死ぬ」であるように、「開ける」に対して「閉める」が対応する。そのような観点から言えば「知る」の対語は「忘れる」とか「知らない」という否定形であるが、ハングルでは「知らない」は否定形ではない動詞として存在する。そのことに関してのみハングルは哲学的な言辞である。しかしこのことが他の全ての動詞に当て嵌まらない限り、例えば日本語よりハングルの方が哲学的な言語である、という判断は演繹され得ないであろう。ある一つの現象を取掛かりに真理として一般化することは、そのような事例に枚挙に暇がない場合のみ適用され得るとは言えよう。
あるいは形容詞において「大きい」ことは通常「小さい」ことよりも肯定的であるとされようが、人間の性格や業績や資質といったことを基準に評定する場合、身体が「小さい」こととは概してハンディーを克服して対処する能力や努力として賞賛される場合が多い。
色や濃淡、頻度、明度といった形容基準をここで実例を挙げてみよう。
黒い_白い①
暗い_明るい②
長い_短い③
固い_柔らかい④
濃い_薄い⑤
ここで注目すべきことは①、②、④、⑤に関しては左の側の形容が「密なこと」であり、右の側の形容が「疎らなこと」であるのに③は「大きい」と「小さい」と同様例外的な物理的な現象であることが了解されよう。あるいは重い、軽いに関しては「重い」ことの方が「密なこと」が多いがただ単に大きければ必然的に重いものとなろう。(またこれは精神的なこととか音楽とかにおいて癒しを求める場合には「軽い」の方に肯定的に捉えられる場合もある。)そういう意味では③のケースと同一なものは「大きい」と「小さい」のみであろう。しかもこの「大きい」と「小さい」や「長い」と「短い」とは「密な」ことはマイナーな方に分がある場合も多い。逆にメジャーな方が「疎らなこと」である場合も多い。それは「広い」、「狭い」にも言えることである。しかしこの場合でもやはり「広い」の方が肯定的である。また「短い」ことの方が肯定的なのはスピード競技において競技時間に関しては肯定的であるが、この場合「速い」と言うことが通常である。また「早い」と「遅い」に関しても前者の方が肯定的である場合も多いが、人間の社会的成功に関してなどに顕著であるが(例えば出世)、いいことが常にいいこと尽くめではない場合も多く見られる。
また④に関してはそのどちらが肯定的であるかは一概には言えないし、⑤に関しても内容(中身)に関してなら「濃い」の方に軍配があがるが、色彩的美に関しては「薄い」の方が軍配があがることもある。しかし日本語でも「あの人は影が薄い。」というような否定的言辞もある。③は「堅い」となると業務上の評価だと肯定的な場合もあるが、人間性評価においては必ずしも肯定的とばかりは言えない。
纏めると、まず肯定的言辞は否定的言辞に比べて希望や安堵、期待感や爽快感、信頼感が伴うのに対して、否定的言辞には明らかに失望、落胆、懐疑、挫折感、憐憫の情、憔悴感等が漂う。そういう意味で我々は肯定的感情を伴う肯定的言辞を暗に聞きたい、見たいと願う。あるいは否定的言辞は、ある種悪意がある場合(例えばオリンピックで他国の選手の失敗を願うようなこと。しかしこれは他の悪意とは異なり、許される範囲の罪の少ない悪意であるが)を除いて概ね肯定的言辞よりも忌み嫌われる傾向があるということは特筆しておいて良いと思われる。
我々人間は記述行為において顕著であるが、言語を意味として受け取り勝ちであり、その意味では表情を忘れがちである。例えばメールの文字そのものにはそれをメッセージとして受容するという事実において初めて感情を抱くのだし、受容した人間が何らかの表情をその時に持つ。しかしメールの文字自体は無表情である。他者の死を告げる文字もそれを言辞を交えて誰かが語る時とは自ずと異なった形式的な伝達でしかない。そこでややもすると陳述内容とか成否とか有無、是非という結果的な観点からのみ言語を考えがちであるが、それを告げる人間のさまざまな感情、つまりその時にそれを告げる人間の表情は極めて意思疎通においては不可欠な要素であるのだ。それを前言語段階に常にある赤ん坊や動物たちは敏感に察知するわけである。すると彼らの存在によって我々は知性とか理性とかの所謂生存維持的な知恵やモラル上の価値規範以前の感情を持っているということを教えられるのである。
例えば前言語的思考というものはある。理性的に肉親を愛する感情を説いたとしても、それは前理性的な感情を語彙に置き換えているだけであり、それは理性以前の感情であり思考であると言ってよい。今一番したいこともまた前理性的そして前言語的思考である。腹が減ったということに言語的な思念があるとすれば、それは前言語的、身体生理的欲求をただ語彙に置換しているだけのことである。今の自分にとって一番大切なこと・ものもまた実際は前言語的であろう。しかしその中でも前理性的である場合もあるし(健康とか)、そうではない場合もある。(信条、モットー)今の自分にとって一番大切な人というカテゴリーもまた前理性的感情かつ前言語的感情である。サピアは言語を前理性的な行為であると捉えた。私も同感である。理性は前言語的、前理性的な感情や行為、欲求の上に成立しているのである。だからカントの言う定言命法とは、あるいは道徳的法則とか純粋理性とかはあくまで前言語的、前理性的であるものを言語というフィルターを通して感情を価値規範に置き換えた時に生じる倫理的な論理である、ということである。
もっと解かりやすく考えてみよう。
例えば「難しい」という言葉を述べる時我々はある具体的な心的な状態を思い浮かべるものではないだろうか?例えば難しい数学の問題を解こうとして頭を捻った時のこととか、人生において難局に局面した時の自分の経験を一瞬想起して語るものではないだろうか?そしてこの語彙を使用する時というのは、「やさしい」とか「簡単な」というような言葉を語る時には朗らかな表情であるのに対して、何か悩み事でもあるのような眉間に一瞬でも皺を寄せて語るものではなかろうか?
つまり我々はこのように形容語彙というものが、その語彙が表現する感情を、その語彙を使用する時に一瞬でも想起して語る、そういうものではなかろうか?
そのことは少なくともここで例証している形容語彙を使用するということは、その語彙が意味する事態を、自己にとって受け入れるべきものであるか、そうではなく逆に拒否すべきものであるか、あるいはそのどちらでもないものであるかというような、要するにある対象や事態や事実や現象や真理に遭遇した時に得る感情的な判断、印象といったものを回想したり、現に今ここで感じたり、認知したりしていることの言明である、ということである。私は実はそれらに対する認識というものと、対象、事態、現象、真理に対するものと感情というものを二分することは出来ないのではないか、と常々感じている方の人間である。勿論善悪の判断のようにある意味で理性論的にも倫理規定的にも明快な峻別可能なものもあれば、逆に同じように理性論的にも倫理規定的にもはっきりと峻別不能であるものも多いとも思われる。このように明快に峻別可能であるものに接する時我々が感じる心的な様相と、そうではなく曖昧であるものや、どちらともつかないものに接する時に我々が感じる心的な様相とは幾分異なっていることであろう。それは理解のレヴェルの問題でもあるし、感情的な認識のレヴェルの問題でもある。このことについて少し詳しく考えてみよう。
形容するのに一般に難しいものの方が実際にこの世界には多いのではないだろうか、ということが私がまずこの対立形容、対語について思い巡らせた時に感じたことなのである。
私たちは何かはっきりと白黒がつくと思われるものよりも、勿論それは私たち自身の判断(それは主観的な判断である場合もあるが、大体の標準というものはあるであろう。例えば2メートルの身長の人物とは背が凄く高い、とか巨人のようなという形容は、日本人が同じ日本人に対してなされる使用には該当するであろう。)によって形容表現へと対象、事態、事実、現象(これらを一括してこれからは事象と呼ぼう。)を形容する場面で語彙選択(語句選択でもよいが、今後これを一切語彙選択とする。)する時のことであるが、その述定による形容基準として白黒峻別し得ないものの方がより形容努力を要する、つまり多少それを述定する時発語において眉間に皺を寄せて形容語彙を検索する余地のあるものの方が遥かに世界には多く存在する筈である。それは我々がまだまだ未知のものを抱えて生きていると言うことにも関係がある。しかしこのように形容語彙が見つかり難いものの方がより、形容必要性から詳細さを要求される、ということも言い得るであろう。
つまり端的に言えば、形容しやすいものとは一概にその特徴が一瞬にして判明し得るようなものである。ある誰にでも容易に了解し得るような形容基準、大小であるとか、長短であるとか、そういう誰の目から見てもそれを形容する場合に他と峻別するのに必要な形容基準が見出しやすいものとは格別の形容努力を要しない。
しかしこれとは逆にかなり明確なイメージはあるのに、語彙的には形容し難いものというものはある。形状的にはその同じ種類のものに比して大きくも小さくでもないもの・ことは、そういう一般的な形容詞では述定し難い。それは長くも短くもないのなら、それも適切な基準とは言ない。人物の特徴記述による特定とかのケースにおいて我々は往々にしてこの種の形容基準が見出しえないことがある。その顕著な例は「これといった特徴のない人物」とか「無個性的な人物」とかである。しかしこういう風に形容語彙が容易に見つからないからと言って、そのものが無個性的である(そのように形容してさえ)とは限らない。あるいは印象的ではないとも言い切れない。
例えばその如実なケースとして想定され得るのは、今までに我々自身が個別なケースとしてでも誰にとっても、見たこともないし、聞いたこともない要するに未知のもの・こと、不可思議なもの・こと、あるいはそのもの・ことに関して余りにも衝撃的であるが故に(所謂極端な場合にはPTSDを喚起し得る可能性さえ考えられるような)形容語彙が見つからないというようなケースも考えられる。
我々は哲学的な設問において容易に形容基準を、見出し得ないものを一括ただそれらに対する形容基準が見出せないからと言って、つまり一瞬の判断で形容表現することが躊躇せざるを得ないからと言って、そういうものを明快ではないもの、あるいは形容基準に適合したものではないものとして大小とか長短というような形容しやすい対立概念として二分法に適合しないものとして無視してきた、あるいは保留にしてそのまま手付かずにしてきた、とは言えまいか?対立概念として二分法に採用出来ないものの方が実はこの世界にはずっと多い。しかし大小や長短というような基本的な対立概念というものは物事を理解する際にしやすいという理由から我々はそういった事項を思考実験的にも指示、特定、述定例としてしばしば採用してきたのである。二値論理的認識方法とは実はこのような形容しやすい二分法であるからこそ認識方策としての合理性として我々が採用してきた、というのは事実である。
しかし繰り返すようであるが、我々の日常生活を顧みてみると、なるべく明快に意志決定し、行動を誘引する為に、というのも我々は一々の行為を逡巡していたら社会生活に支障を来たすので、そういった行動パターンが滞ることを未然に防止し、人生の活力を削ぐようなエネルギー・ロスを回避しつつ、躊躇的時間を少なくする為に我々は日常的な些細な事項に関しては、迷わずに行動するように、余分なことを考えずに行動するように心掛けている。(トイレに行く度に排泄するとはどういうことか、などと考えていては生活さもがままならなくなる。)あるいはそういう風に日常的な些細は合理的に処理して考え込まないように習慣化している。
しかしよく考え出すと今度は、逆に我々がただ単に形容語彙を見つからないような難問は意図的に忌避することを通して不問に付しているに過ぎないということもまた判明する。
例えば語句や語彙にもよくよく思い返してみると意図的に深くは追求しないように心掛け、安易に一括してその他のものとして認識しているものというものは案外多いということを思い当たる節はないであろうか?あるいはそれらは一瞬にして形容出来ないもの自体として実は極めて多様であるどころか無尽蔵であるのにもかかわらず一々考えてもみないものが満ち溢れているとは言えないだろうか?
例えば殺風景という言葉がある。これは英語ではunimpressive location(landscape)とかnot impressive~とか表現出来るものである。あるいはless to missというような表現も可能であろう。しかしこの殺風景という概念はただ単に形容基準が容易に見出せない場合の付け焼刃的な処置として我々が勝手にそれらを一括して名付けた便宜的な形容にしか過ぎない。この場合には実は個々のケースにおいては甚だ無限なる個別性があるに違いない。殺風景な風景にも色々ある。シベリヤの平原も、サハラ砂漠も、宇宙も殺風景と言えばそう言えなくもないが、その殺風景さの性格や性質は皆固有のものであり、実質上は無限である。無限な無表情さの種類があるのだ。
あるいは我々は実際に言語行為においてはあまりにも衝撃を受け(飽きれるということも含む)、あるいはそのようなことが契機で失語症的な状況に陥り、それが為に形容語彙を咄嗟に思いつかないというようなことも大いにあり得るのだ。そういう時はただ「凄かった」とか「まあまあだった」とか「なんて言えばいいものかねえ」とか言うのである。つまり述定において我々はこのように形容語彙選択に躊躇せざるを得ないようなケースというものの方が実は多く、それらは一括して何らかの言語行為における取り繕いをせざるを得ない。そういうケースにおける適用可能な好例として「無個性的な」とか「印象が薄い」とか「殺風景」とかいう表現、述語が与えられるのであるが、これらは実は極めて印象的なもの・ことたちなのである。ただ形容基準が見つからないというだけで我々はそれらを真に無個性的にしてきた、そういう風に認識してきた、という哲学上の歴史的事実がある。実はここに多値論理性への推移の必要性が我々に求められていることが立証されるのである。
ここでサピアの次の一文が想起される。
「思想をもっぱらそれ自体のために定義する必要が切実になるにつれて、語はますます手段として不適切なものになってくる。したがって、数学者や記号論理学者が、なぜ語を捨てて。それぞれ厳密に単一の価値をもった記号の助けを借りて、おのれの思想を構築せざるを得ないのかが、容易に理解されるのである。」(「言語」60ページより)
数学者や記号論理学者の代わりにここに芸術家、とりわけ画家を入れても同様のことが言えるであろう。あるいは他のあらゆる演劇、舞踏、ダンスや体操、フィギュア・スケートとかの創造的な身体行為遂行者においても、スポーツ選手やギャンブラーにおいても、その興奮には美創造にかかわることで得られる爽快感とか感動とかスリルというような語彙しか一応見当たらないが、実際は形容し難いケースというものの方がより多く、そういう形容不可能性領域への邁進が彼らの職業的、行為選択的な動機付けであるかも知れない。しかしそれにしても我々はテレビやヴィデオ、DVD等によってリアルタイムでそれらを見ることが可能であったり、再生したりすることが容易であったりする現代社会ではより形容語彙選択という必要性の消滅という事態も手伝って我々は極めて言語表現における危機的状況に立たされているという風にも捉えられる。しかしだからと言って我々にとって言語行為が必要でなくなった、とは誰にしも決して言えないであろう。語はますます手段として不適切となればなるほど語彙を創出する必要性は生じるし、また言語行為において言語表現的な認識必要性もより要求されるようになってくるのである。
動詞では行くべきところを行かないで済ました、ということが肯定的に捉えられる雑事であるような場合以外は行くということは警察や刑務所のような場所でない限り大概肯定的に捉えられるであろう。悪い事態を表わす動詞の否定形以外は肯定的な言辞を人は望む。
「失う」、「亡くす」といったものは悪癖(悪い習慣)を「止める」ような場合にのみ肯定的であるが、そもそもそういう風に否定的に言辞する必要のない最初から肯定的であるだけのものが一番好ましいと人間は思う。「彼女綺麗だね。」という言辞が一番常に歓迎される心的様相である。その「彼女が綺麗でなくなった」、底意地が悪くなったということがあったとしよう。そして彼女が改心してまた昔の綺麗さを取り戻したとしよう。その時に「彼女一時期に比べて酷くなくなった。」と言う場合、それは肯定的な言辞であるものの、最初の言辞以上の肯定ではあり得ないという意味において否定を否定する言辞以上に肯定的でだけあることが最も望ましい状態であることは真理である。
だから「変わる」とか「変わらない」という場合のように悪癖や悪事をすることにおいて「変わる」ということは肯定的なことであるし、またその場合「変わらない」ことはよくないことである。しかし肯定的な形容や評価しか当て嵌まらない人間に対してとか、真理に対しては「変わらない」ということは歓迎すべきことである。だからそのような意味において事件が「起こる」ことは通常好ましいことではないが、功を急いでいる若き刑事にとって事件が「起こる」ことは心躍ることであるかも知れない。しかし通常よくないことは「起こらない」方がよいとされるし、「起こる」こととは大概衝撃的な事実、現象である。また動詞や形容詞には対語というものが存在する。「生きる」の対語は「死ぬ」であるように、「開ける」に対して「閉める」が対応する。そのような観点から言えば「知る」の対語は「忘れる」とか「知らない」という否定形であるが、ハングルでは「知らない」は否定形ではない動詞として存在する。そのことに関してのみハングルは哲学的な言辞である。しかしこのことが他の全ての動詞に当て嵌まらない限り、例えば日本語よりハングルの方が哲学的な言語である、という判断は演繹され得ないであろう。ある一つの現象を取掛かりに真理として一般化することは、そのような事例に枚挙に暇がない場合のみ適用され得るとは言えよう。
あるいは形容詞において「大きい」ことは通常「小さい」ことよりも肯定的であるとされようが、人間の性格や業績や資質といったことを基準に評定する場合、身体が「小さい」こととは概してハンディーを克服して対処する能力や努力として賞賛される場合が多い。
色や濃淡、頻度、明度といった形容基準をここで実例を挙げてみよう。
黒い_白い①
暗い_明るい②
長い_短い③
固い_柔らかい④
濃い_薄い⑤
ここで注目すべきことは①、②、④、⑤に関しては左の側の形容が「密なこと」であり、右の側の形容が「疎らなこと」であるのに③は「大きい」と「小さい」と同様例外的な物理的な現象であることが了解されよう。あるいは重い、軽いに関しては「重い」ことの方が「密なこと」が多いがただ単に大きければ必然的に重いものとなろう。(またこれは精神的なこととか音楽とかにおいて癒しを求める場合には「軽い」の方に肯定的に捉えられる場合もある。)そういう意味では③のケースと同一なものは「大きい」と「小さい」のみであろう。しかもこの「大きい」と「小さい」や「長い」と「短い」とは「密な」ことはマイナーな方に分がある場合も多い。逆にメジャーな方が「疎らなこと」である場合も多い。それは「広い」、「狭い」にも言えることである。しかしこの場合でもやはり「広い」の方が肯定的である。また「短い」ことの方が肯定的なのはスピード競技において競技時間に関しては肯定的であるが、この場合「速い」と言うことが通常である。また「早い」と「遅い」に関しても前者の方が肯定的である場合も多いが、人間の社会的成功に関してなどに顕著であるが(例えば出世)、いいことが常にいいこと尽くめではない場合も多く見られる。
また④に関してはそのどちらが肯定的であるかは一概には言えないし、⑤に関しても内容(中身)に関してなら「濃い」の方に軍配があがるが、色彩的美に関しては「薄い」の方が軍配があがることもある。しかし日本語でも「あの人は影が薄い。」というような否定的言辞もある。③は「堅い」となると業務上の評価だと肯定的な場合もあるが、人間性評価においては必ずしも肯定的とばかりは言えない。
纏めると、まず肯定的言辞は否定的言辞に比べて希望や安堵、期待感や爽快感、信頼感が伴うのに対して、否定的言辞には明らかに失望、落胆、懐疑、挫折感、憐憫の情、憔悴感等が漂う。そういう意味で我々は肯定的感情を伴う肯定的言辞を暗に聞きたい、見たいと願う。あるいは否定的言辞は、ある種悪意がある場合(例えばオリンピックで他国の選手の失敗を願うようなこと。しかしこれは他の悪意とは異なり、許される範囲の罪の少ない悪意であるが)を除いて概ね肯定的言辞よりも忌み嫌われる傾向があるということは特筆しておいて良いと思われる。
我々人間は記述行為において顕著であるが、言語を意味として受け取り勝ちであり、その意味では表情を忘れがちである。例えばメールの文字そのものにはそれをメッセージとして受容するという事実において初めて感情を抱くのだし、受容した人間が何らかの表情をその時に持つ。しかしメールの文字自体は無表情である。他者の死を告げる文字もそれを言辞を交えて誰かが語る時とは自ずと異なった形式的な伝達でしかない。そこでややもすると陳述内容とか成否とか有無、是非という結果的な観点からのみ言語を考えがちであるが、それを告げる人間のさまざまな感情、つまりその時にそれを告げる人間の表情は極めて意思疎通においては不可欠な要素であるのだ。それを前言語段階に常にある赤ん坊や動物たちは敏感に察知するわけである。すると彼らの存在によって我々は知性とか理性とかの所謂生存維持的な知恵やモラル上の価値規範以前の感情を持っているということを教えられるのである。
例えば前言語的思考というものはある。理性的に肉親を愛する感情を説いたとしても、それは前理性的な感情を語彙に置き換えているだけであり、それは理性以前の感情であり思考であると言ってよい。今一番したいこともまた前理性的そして前言語的思考である。腹が減ったということに言語的な思念があるとすれば、それは前言語的、身体生理的欲求をただ語彙に置換しているだけのことである。今の自分にとって一番大切なこと・ものもまた実際は前言語的であろう。しかしその中でも前理性的である場合もあるし(健康とか)、そうではない場合もある。(信条、モットー)今の自分にとって一番大切な人というカテゴリーもまた前理性的感情かつ前言語的感情である。サピアは言語を前理性的な行為であると捉えた。私も同感である。理性は前言語的、前理性的な感情や行為、欲求の上に成立しているのである。だからカントの言う定言命法とは、あるいは道徳的法則とか純粋理性とかはあくまで前言語的、前理性的であるものを言語というフィルターを通して感情を価値規範に置き換えた時に生じる倫理的な論理である、ということである。
もっと解かりやすく考えてみよう。
例えば「難しい」という言葉を述べる時我々はある具体的な心的な状態を思い浮かべるものではないだろうか?例えば難しい数学の問題を解こうとして頭を捻った時のこととか、人生において難局に局面した時の自分の経験を一瞬想起して語るものではないだろうか?そしてこの語彙を使用する時というのは、「やさしい」とか「簡単な」というような言葉を語る時には朗らかな表情であるのに対して、何か悩み事でもあるのような眉間に一瞬でも皺を寄せて語るものではなかろうか?
つまり我々はこのように形容語彙というものが、その語彙が表現する感情を、その語彙を使用する時に一瞬でも想起して語る、そういうものではなかろうか?
そのことは少なくともここで例証している形容語彙を使用するということは、その語彙が意味する事態を、自己にとって受け入れるべきものであるか、そうではなく逆に拒否すべきものであるか、あるいはそのどちらでもないものであるかというような、要するにある対象や事態や事実や現象や真理に遭遇した時に得る感情的な判断、印象といったものを回想したり、現に今ここで感じたり、認知したりしていることの言明である、ということである。私は実はそれらに対する認識というものと、対象、事態、現象、真理に対するものと感情というものを二分することは出来ないのではないか、と常々感じている方の人間である。勿論善悪の判断のようにある意味で理性論的にも倫理規定的にも明快な峻別可能なものもあれば、逆に同じように理性論的にも倫理規定的にもはっきりと峻別不能であるものも多いとも思われる。このように明快に峻別可能であるものに接する時我々が感じる心的な様相と、そうではなく曖昧であるものや、どちらともつかないものに接する時に我々が感じる心的な様相とは幾分異なっていることであろう。それは理解のレヴェルの問題でもあるし、感情的な認識のレヴェルの問題でもある。このことについて少し詳しく考えてみよう。
形容するのに一般に難しいものの方が実際にこの世界には多いのではないだろうか、ということが私がまずこの対立形容、対語について思い巡らせた時に感じたことなのである。
私たちは何かはっきりと白黒がつくと思われるものよりも、勿論それは私たち自身の判断(それは主観的な判断である場合もあるが、大体の標準というものはあるであろう。例えば2メートルの身長の人物とは背が凄く高い、とか巨人のようなという形容は、日本人が同じ日本人に対してなされる使用には該当するであろう。)によって形容表現へと対象、事態、事実、現象(これらを一括してこれからは事象と呼ぼう。)を形容する場面で語彙選択(語句選択でもよいが、今後これを一切語彙選択とする。)する時のことであるが、その述定による形容基準として白黒峻別し得ないものの方がより形容努力を要する、つまり多少それを述定する時発語において眉間に皺を寄せて形容語彙を検索する余地のあるものの方が遥かに世界には多く存在する筈である。それは我々がまだまだ未知のものを抱えて生きていると言うことにも関係がある。しかしこのように形容語彙が見つかり難いものの方がより、形容必要性から詳細さを要求される、ということも言い得るであろう。
つまり端的に言えば、形容しやすいものとは一概にその特徴が一瞬にして判明し得るようなものである。ある誰にでも容易に了解し得るような形容基準、大小であるとか、長短であるとか、そういう誰の目から見てもそれを形容する場合に他と峻別するのに必要な形容基準が見出しやすいものとは格別の形容努力を要しない。
しかしこれとは逆にかなり明確なイメージはあるのに、語彙的には形容し難いものというものはある。形状的にはその同じ種類のものに比して大きくも小さくでもないもの・ことは、そういう一般的な形容詞では述定し難い。それは長くも短くもないのなら、それも適切な基準とは言ない。人物の特徴記述による特定とかのケースにおいて我々は往々にしてこの種の形容基準が見出しえないことがある。その顕著な例は「これといった特徴のない人物」とか「無個性的な人物」とかである。しかしこういう風に形容語彙が容易に見つからないからと言って、そのものが無個性的である(そのように形容してさえ)とは限らない。あるいは印象的ではないとも言い切れない。
例えばその如実なケースとして想定され得るのは、今までに我々自身が個別なケースとしてでも誰にとっても、見たこともないし、聞いたこともない要するに未知のもの・こと、不可思議なもの・こと、あるいはそのもの・ことに関して余りにも衝撃的であるが故に(所謂極端な場合にはPTSDを喚起し得る可能性さえ考えられるような)形容語彙が見つからないというようなケースも考えられる。
我々は哲学的な設問において容易に形容基準を、見出し得ないものを一括ただそれらに対する形容基準が見出せないからと言って、つまり一瞬の判断で形容表現することが躊躇せざるを得ないからと言って、そういうものを明快ではないもの、あるいは形容基準に適合したものではないものとして大小とか長短というような形容しやすい対立概念として二分法に適合しないものとして無視してきた、あるいは保留にしてそのまま手付かずにしてきた、とは言えまいか?対立概念として二分法に採用出来ないものの方が実はこの世界にはずっと多い。しかし大小や長短というような基本的な対立概念というものは物事を理解する際にしやすいという理由から我々はそういった事項を思考実験的にも指示、特定、述定例としてしばしば採用してきたのである。二値論理的認識方法とは実はこのような形容しやすい二分法であるからこそ認識方策としての合理性として我々が採用してきた、というのは事実である。
しかし繰り返すようであるが、我々の日常生活を顧みてみると、なるべく明快に意志決定し、行動を誘引する為に、というのも我々は一々の行為を逡巡していたら社会生活に支障を来たすので、そういった行動パターンが滞ることを未然に防止し、人生の活力を削ぐようなエネルギー・ロスを回避しつつ、躊躇的時間を少なくする為に我々は日常的な些細な事項に関しては、迷わずに行動するように、余分なことを考えずに行動するように心掛けている。(トイレに行く度に排泄するとはどういうことか、などと考えていては生活さもがままならなくなる。)あるいはそういう風に日常的な些細は合理的に処理して考え込まないように習慣化している。
しかしよく考え出すと今度は、逆に我々がただ単に形容語彙を見つからないような難問は意図的に忌避することを通して不問に付しているに過ぎないということもまた判明する。
例えば語句や語彙にもよくよく思い返してみると意図的に深くは追求しないように心掛け、安易に一括してその他のものとして認識しているものというものは案外多いということを思い当たる節はないであろうか?あるいはそれらは一瞬にして形容出来ないもの自体として実は極めて多様であるどころか無尽蔵であるのにもかかわらず一々考えてもみないものが満ち溢れているとは言えないだろうか?
例えば殺風景という言葉がある。これは英語ではunimpressive location(landscape)とかnot impressive~とか表現出来るものである。あるいはless to missというような表現も可能であろう。しかしこの殺風景という概念はただ単に形容基準が容易に見出せない場合の付け焼刃的な処置として我々が勝手にそれらを一括して名付けた便宜的な形容にしか過ぎない。この場合には実は個々のケースにおいては甚だ無限なる個別性があるに違いない。殺風景な風景にも色々ある。シベリヤの平原も、サハラ砂漠も、宇宙も殺風景と言えばそう言えなくもないが、その殺風景さの性格や性質は皆固有のものであり、実質上は無限である。無限な無表情さの種類があるのだ。
あるいは我々は実際に言語行為においてはあまりにも衝撃を受け(飽きれるということも含む)、あるいはそのようなことが契機で失語症的な状況に陥り、それが為に形容語彙を咄嗟に思いつかないというようなことも大いにあり得るのだ。そういう時はただ「凄かった」とか「まあまあだった」とか「なんて言えばいいものかねえ」とか言うのである。つまり述定において我々はこのように形容語彙選択に躊躇せざるを得ないようなケースというものの方が実は多く、それらは一括して何らかの言語行為における取り繕いをせざるを得ない。そういうケースにおける適用可能な好例として「無個性的な」とか「印象が薄い」とか「殺風景」とかいう表現、述語が与えられるのであるが、これらは実は極めて印象的なもの・ことたちなのである。ただ形容基準が見つからないというだけで我々はそれらを真に無個性的にしてきた、そういう風に認識してきた、という哲学上の歴史的事実がある。実はここに多値論理性への推移の必要性が我々に求められていることが立証されるのである。
ここでサピアの次の一文が想起される。
「思想をもっぱらそれ自体のために定義する必要が切実になるにつれて、語はますます手段として不適切なものになってくる。したがって、数学者や記号論理学者が、なぜ語を捨てて。それぞれ厳密に単一の価値をもった記号の助けを借りて、おのれの思想を構築せざるを得ないのかが、容易に理解されるのである。」(「言語」60ページより)
数学者や記号論理学者の代わりにここに芸術家、とりわけ画家を入れても同様のことが言えるであろう。あるいは他のあらゆる演劇、舞踏、ダンスや体操、フィギュア・スケートとかの創造的な身体行為遂行者においても、スポーツ選手やギャンブラーにおいても、その興奮には美創造にかかわることで得られる爽快感とか感動とかスリルというような語彙しか一応見当たらないが、実際は形容し難いケースというものの方がより多く、そういう形容不可能性領域への邁進が彼らの職業的、行為選択的な動機付けであるかも知れない。しかしそれにしても我々はテレビやヴィデオ、DVD等によってリアルタイムでそれらを見ることが可能であったり、再生したりすることが容易であったりする現代社会ではより形容語彙選択という必要性の消滅という事態も手伝って我々は極めて言語表現における危機的状況に立たされているという風にも捉えられる。しかしだからと言って我々にとって言語行為が必要でなくなった、とは誰にしも決して言えないであろう。語はますます手段として不適切となればなるほど語彙を創出する必要性は生じるし、また言語行為において言語表現的な認識必要性もより要求されるようになってくるのである。
Sunday, October 25, 2009
〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 表情の述定
述定を言語的に捉えてきたが、もう一つのシステムが表情であろう。
人間がいつ頃から着衣する習慣を身につけたかは依然として謎のままであるが、もし人間が着衣することなく裸でいてそのまま進化していったのなら、今日ほど顔とその表情を通した感情記述という信号性は発達しなかったことであろう。しかし我々はチンパンジー等人間以外の霊長類にはない類稀な表情筋という固有のシステムによって表情で感情や意図を外在的に明示し、それを識別し得る意思疎通能力を身につけてきた。
人間が性的欲求(種族保存本能)を抑制することで逆に内的感情の襞を進化させた、とも言い得る。仮に繁殖行為のみを優先させるのなら、顔の表情はさして大きな意味を持つことはなかったであろう。繁殖行為においてどの配偶者を選択するかという優良遺伝子の選択という雌の生物進化上の必然的意義において、人間は性的能力の優劣を着衣で隠蔽することで、直示を避け、逆に表情によって意思表示をすることが、仕事仲間として意思疎通するべく同性のみではなく異性をも繁殖行為へと直結し得る家庭構築の為に雌を惹き付ける為に奉仕されるようになってゆく。それは生存戦略的な間接的性的能力の誇示である。つまり表情は性的抑制システムの獲得と引き換えに人間が進化させた理性論的判断による対他的な意思表示システムに他ならない。しかしここでもまた前言語的思念が必然的に言語を通して顕現させる言語的行為、つまり倫理的感情(これは前言語的感情の一つであるが、これに言語的思考が加わることによって倫理が概念上の「倫理」である<法的秩序>となったり、常識的モラルへと昇華されるのだ。)さえも統語的能力によって自己と他者、自己と社会といったレヴェルで概念的に対他親和的感情を関係付け、感情そのものの意味を位置付けることを我々はしてきたのである。
だからこうも言えよう。常識、モラル、愛情があるのなら人間には当然悪意もある。悪意の存在は人間に嘘をつかせる。従って真意をひたすら隠蔽し表情をすら偽装し得る。
ここに今表情による表示によって真意を表出することにおいて誠実性に欠ける、つまり他者に対して接する時に習慣的に偽装表情で臨む(相手を騙そうとしているのに、誠実さを装うような)、そういう生存戦略を採る人間がいたとしよう。
この人間は得てして怒りの感情を表には一切出さずにいて、常に笑顔で他者に接する。信頼してはいない人間に対してさえ、さも信頼しているかのような振る舞いを常に採るとしよう。しかし全ての共同体成員を信頼することなど出来ようか?真意レヴェルからも社会的構造における可能性レヴェルから言ってもそれは不可能以外の何物でもない。
しかし今この人間をCとしよう。CはAともBとも友愛的に接する。しかしAとBは利害関係的に対立しているとする。このAとBの利害の一致不可能性において、AとB双方を同時に信頼しつつ更に同時に両方に対して利益を得ることが可能であろうか?しかしCはAからもBからも報酬を得ようとする。つまりCはAに対してはBを裏切るべくBの仲間を装うAのスパイとして振る舞い、逆にBに対してはAを裏切るべくAの仲間を装うBのスパイとして振る舞うとしよう。しかしやがてAもBもCの採る自己にのみ真意を表明しているかの如き偽装が漁夫の利を得る為にのみ徴用されていることに対して覚醒する。AとBはCを端的に警戒し出す。AもBもがCを警戒し出したことによって、Cは真意を表明する為の笑顔の偽装表情が効力を失っていることにやがて気付く。その時真意で笑顔を示しても最早その表示行為自体が信頼されないという事態を知る。そこでCは真意を表明することだけに表情表示をしてこなかった、つまり誠実性条件を満たしてこなかったという事実において、表情を真意表出(楽しい時にだけ楽しい表情をし、苦しい時にだけ苦しい表情をし、怒っている時にだけ怒りの表情をし、喜んだ時にだけ喜びの表情をし、悲しい時にだけ悲しみの表情をするということ、つまり素直に表情を示すこと)の手段としてのみ徴用してこなかったこと、表情の意思疎通上の作用を軽んじてきたことで、逆に真意表示の機能を果たせなくなったことを、つまり自分の意思表示そのものが信頼されなくなったことを知るに至るのだ。このような結果論的な負け組の存在や日常的に偽装して利益を貪ることで竹箆返しを受けるような事態を経験的に学んだ人類は、表情というものは概して偽装だけに供すべきでは決してない(時として真意の完全なる表出は羞恥を催すこととなるから、真意隠蔽の為に人間がする行為とは表情的な偽装である。例えば異性に対して好感情を抱く思春期の少年少女たちはこの種の羞恥を通して真意を悟られまいとするが、羞恥自体はそう容易く隠しおおせるものではない。)という教訓を得、表情を隠蔽するような覆面性(笑顔だけで常に接するような人間も当然この内に入る。中島義道もこのことを指摘している。「私が信用しない10のタイプの人間」)が結局その人間の真意を推し量る唯一のバロメーターを隠蔽することで喚起される弊害を回避させる為に、着衣しても顔だけは露出させることを習慣化させていったのではなかろうか?人間は顔を露出させることで実は次のように訴えているのである。
「私は表情だけは偽装することはしません。着衣して性的欲求を隠蔽しているように顔を偽装表情で常時覆うことは、私自身の真意表出の手段を失うことを意味するからです。私は真意を表出するのに最適なこの顔を隠蔽することは致しません。ですから私を信用して下さい。私をこの共同体の成員であることを認めて下さい。」
このような意思表示の述定性として顔だけは着衣しないことの形而上的意味があるのだ。顔はAやBやSの人物間の識別をする(つまりもし仮に彼(女)らの顔の形や大きさがほぼ同じであってさえも、個々のパーツのみならず骨格や表情の示し方(全体的に利用した表情)によって識別する)手段ばかりではないのである。
人間の表情信号説はモリスも指摘している。その最も顕著なものが彼が指摘する「赤ん坊が母親に示す微笑みの表情である。デズモンド・モリスの論述を以下に抜粋してみよう。
「七ヶ月になると、赤ん坊は完全に母親に刷りこみされている。母親は。今やどうなろうとも、赤ん坊の残りの人生の中に母親のイメージを残すであろう。カモの雛は、母親のうしろについていく行動を通じてこの刷りこみを獲得し、ヒトニザルの赤ん坊は母親にしがみつくことによって獲得する。われわれはこの決定的なきずなを、ほほえみ反応を通して獲得するのである。視覚的な刺激としてみれば、ほほえみの特有の形は主として口のすみをそり返すという単純な動作にある。口がいくら開かれ、唇が後方へひかれる点は、恐れの表情と同じであるが、口のすみがそり返る動作がつけくわえられることによって、表現の性質が根本的にちがってくる。このほほえみの発生は、次にもう一つのまったく対照的な表情_しかめっ面_を生じる可能性をもたらした。ほほえみとは正反対に、口をぴっちり閉じることによって、反微笑の信号が可能となる。ちょうど泣くことから笑いが進化し、笑いからほほえみが進化したように、親愛の表情は、振子を逆に振ることによって敵意ある表情へと進化した。
(中略)成人はただ唇をすこしひねるだけでこの気分を伝えることがきでるが、赤ん坊はそれにもっと多くのものをつけ加える。ほほえみが最高潮に達すると、赤ん坊は肢でけり、腕を動かし、両手を刺激の方向へ向けて伸ばして動かし、何かぶつぶついう声を発し、顎を後方にそらせて、おとがいを前のほうにつきだし、胴を前へ倒したりわきへねじったりし、ときには鼻すじにしわをよせる。鼻と口の両側にあるしわが目立ってきてわずかに舌を出すことがある。これらさまざまな体の動きは、それぞれ赤ん坊が母親と接触を保とうとする闘いを意味するのではないだろうか。おそらく赤ん坊はその不器用な体で、祖先の霊長類のしがみつき反応の名残りを示しているのであろう。
(中略)ほほえみは相互的な信号である。赤ん坊が母親にほほえみかければ、母親は同じような信号で反応する。こうして互いに報酬を与えあい、両者の結びつきは相互の方向に強められる。これは自明なことと思われるが、そこにわながあるかもしれない、一部の母親は、いらいらしているとき、心配事があるとき、あるいは赤ん坊のきげんをそこねたときに、無理にほほえむことによってそのような気分をかくそうとする。かの女たちはこのみせかけのほほえみによって、赤ん坊の気分を乱すことを避けようとするのだが、じっさいこのトリックがむしろ有害な結果をもたらすことがある。(中略)母親の気分に関して赤ん坊をごまかすことはほとんど不可能である。ごく幼い人間は、母親の動揺や落着きという微妙な信号に対してするどく反応するもののようである。記号による文化的コミュニケーションという巨大な機構にわれわれがはまりこんでしまう前の、前言語的段階においては、われわれの赤ん坊は、われわれがのちに必要とするよりもはるかに多く、微妙な動き、姿勢の変化、声の調子などにたよっている。他の種では、この点はとくに発達している。数の計算ができたので有名な"賢馬ハンス"の驚くべき能力は、じっさいには調教師のささいな姿勢の変化に対する鋭敏な反応能力にもとづくものであった。足し算を求められると、ハンスはちょうど正しい回数だけ足で床をたたくのだった。たとえ調教師が同じ部屋にいなくて、誰か他の人がかわっても、かれはちゃんと答えを出した。というのは、ウマが正しい数だけ床をたたいたとき、誰でも体をわずかに体を緊張させるからである。たしかに、われわれもみな、たとえ成人になったのちでもこの能力をもっている(うらない師は自分がいい線をいっているかどうかをこれで判定する)。しかし前言語段階にある赤ん坊では、とくにこの能力が発達しているらしい。母親が緊張し、動揺していれば、いかにかくそうとしても、それは赤ん坊に伝わってしまう。そして、このときかの女が強くほほえんだりすると、それは赤ん坊をごまかすどころか、混乱させてしまうだけである。矛盾する二つのメッセージが伝達されているからである。もしこのようなことが何回も繰返しおこなわれると、赤ん坊に永久的に障害を与え、大きくなってから社会的に接触し適応してゆく上で、非常な困難をひきおこすことがある。(「裸のサル」119~121ページより)
人間の赤ん坊のほほえみとは人間がその一生の内の極初期に採る種として最初に接する他者の意識を釘付けにするための記号であり、最初の自己主張である。それは故に自我形成の上で重要な意思疎通のサインであり、意志伝達欲求の表明である。顔というものが嘘をつくことが出来ない、顔で嘘を付くことがモラル上であまりいいこととは見做されない、故にそう安易にはそれが出来ないからこそ、我々は通常一緒にいて楽しくない人間とは敬遠するように心掛ける。そうではなく顔で偽装することが容易く、あるいはそのような偽装表情を作ることが寛大に容認されているということが社会的通念であるなら、我々は婉曲な表現も信頼感喪失も経験せずに済ませられるかも知れない。しかし実際はそうではない。我々は偽装表情して友好的であるような印象を結果的に他者に与えたとしても、その好感情を確認出来たとする他者に対して非常なる失意を齎すことを重々承知しているからこそ、偽装表情を採ることは出来る限り避けたいと願うものなのだ。
また後半のモリスの指摘は本章の主張と全く符合する。というのも動物は自分の悪口を言われると敏感にそれを察知する。人間がある陳述をする時に、その内容がポジティヴである場合と、そうではなくネガティヴな場合とでは明らかに声の調子(トーン)が異なっているのである。動物は人間のように言語を意味論的には決して理解し得ない。言わばモリスが指摘しているように赤ん坊同様全ての動物は一生の間中モリスの言葉を借りるなら前言語段階にあると言ってよい。そこで微妙なる褒め言葉と貶し言葉のニュアンスの相違を、あるいはそれを語る時の人間の表情のニュアンスの相違を識別するのである。(我々は肯定的な言辞の時とは違って否定的な言辞の時には顔を顰めて話すものなのだ。あるいは否定的記述を目にするとやはり顔の表情を曇らせるものである。)だからこそ動物は自分に向けられたネガティヴな言辞には敏感に察知するのだ。私の家で以前飼っていた猫は多少口臭が強かった。そのことを飼い主である我々が言及すると必ず我々の鼻を噛んだものだった。
人間がいつ頃から着衣する習慣を身につけたかは依然として謎のままであるが、もし人間が着衣することなく裸でいてそのまま進化していったのなら、今日ほど顔とその表情を通した感情記述という信号性は発達しなかったことであろう。しかし我々はチンパンジー等人間以外の霊長類にはない類稀な表情筋という固有のシステムによって表情で感情や意図を外在的に明示し、それを識別し得る意思疎通能力を身につけてきた。
人間が性的欲求(種族保存本能)を抑制することで逆に内的感情の襞を進化させた、とも言い得る。仮に繁殖行為のみを優先させるのなら、顔の表情はさして大きな意味を持つことはなかったであろう。繁殖行為においてどの配偶者を選択するかという優良遺伝子の選択という雌の生物進化上の必然的意義において、人間は性的能力の優劣を着衣で隠蔽することで、直示を避け、逆に表情によって意思表示をすることが、仕事仲間として意思疎通するべく同性のみではなく異性をも繁殖行為へと直結し得る家庭構築の為に雌を惹き付ける為に奉仕されるようになってゆく。それは生存戦略的な間接的性的能力の誇示である。つまり表情は性的抑制システムの獲得と引き換えに人間が進化させた理性論的判断による対他的な意思表示システムに他ならない。しかしここでもまた前言語的思念が必然的に言語を通して顕現させる言語的行為、つまり倫理的感情(これは前言語的感情の一つであるが、これに言語的思考が加わることによって倫理が概念上の「倫理」である<法的秩序>となったり、常識的モラルへと昇華されるのだ。)さえも統語的能力によって自己と他者、自己と社会といったレヴェルで概念的に対他親和的感情を関係付け、感情そのものの意味を位置付けることを我々はしてきたのである。
だからこうも言えよう。常識、モラル、愛情があるのなら人間には当然悪意もある。悪意の存在は人間に嘘をつかせる。従って真意をひたすら隠蔽し表情をすら偽装し得る。
ここに今表情による表示によって真意を表出することにおいて誠実性に欠ける、つまり他者に対して接する時に習慣的に偽装表情で臨む(相手を騙そうとしているのに、誠実さを装うような)、そういう生存戦略を採る人間がいたとしよう。
この人間は得てして怒りの感情を表には一切出さずにいて、常に笑顔で他者に接する。信頼してはいない人間に対してさえ、さも信頼しているかのような振る舞いを常に採るとしよう。しかし全ての共同体成員を信頼することなど出来ようか?真意レヴェルからも社会的構造における可能性レヴェルから言ってもそれは不可能以外の何物でもない。
しかし今この人間をCとしよう。CはAともBとも友愛的に接する。しかしAとBは利害関係的に対立しているとする。このAとBの利害の一致不可能性において、AとB双方を同時に信頼しつつ更に同時に両方に対して利益を得ることが可能であろうか?しかしCはAからもBからも報酬を得ようとする。つまりCはAに対してはBを裏切るべくBの仲間を装うAのスパイとして振る舞い、逆にBに対してはAを裏切るべくAの仲間を装うBのスパイとして振る舞うとしよう。しかしやがてAもBもCの採る自己にのみ真意を表明しているかの如き偽装が漁夫の利を得る為にのみ徴用されていることに対して覚醒する。AとBはCを端的に警戒し出す。AもBもがCを警戒し出したことによって、Cは真意を表明する為の笑顔の偽装表情が効力を失っていることにやがて気付く。その時真意で笑顔を示しても最早その表示行為自体が信頼されないという事態を知る。そこでCは真意を表明することだけに表情表示をしてこなかった、つまり誠実性条件を満たしてこなかったという事実において、表情を真意表出(楽しい時にだけ楽しい表情をし、苦しい時にだけ苦しい表情をし、怒っている時にだけ怒りの表情をし、喜んだ時にだけ喜びの表情をし、悲しい時にだけ悲しみの表情をするということ、つまり素直に表情を示すこと)の手段としてのみ徴用してこなかったこと、表情の意思疎通上の作用を軽んじてきたことで、逆に真意表示の機能を果たせなくなったことを、つまり自分の意思表示そのものが信頼されなくなったことを知るに至るのだ。このような結果論的な負け組の存在や日常的に偽装して利益を貪ることで竹箆返しを受けるような事態を経験的に学んだ人類は、表情というものは概して偽装だけに供すべきでは決してない(時として真意の完全なる表出は羞恥を催すこととなるから、真意隠蔽の為に人間がする行為とは表情的な偽装である。例えば異性に対して好感情を抱く思春期の少年少女たちはこの種の羞恥を通して真意を悟られまいとするが、羞恥自体はそう容易く隠しおおせるものではない。)という教訓を得、表情を隠蔽するような覆面性(笑顔だけで常に接するような人間も当然この内に入る。中島義道もこのことを指摘している。「私が信用しない10のタイプの人間」)が結局その人間の真意を推し量る唯一のバロメーターを隠蔽することで喚起される弊害を回避させる為に、着衣しても顔だけは露出させることを習慣化させていったのではなかろうか?人間は顔を露出させることで実は次のように訴えているのである。
「私は表情だけは偽装することはしません。着衣して性的欲求を隠蔽しているように顔を偽装表情で常時覆うことは、私自身の真意表出の手段を失うことを意味するからです。私は真意を表出するのに最適なこの顔を隠蔽することは致しません。ですから私を信用して下さい。私をこの共同体の成員であることを認めて下さい。」
このような意思表示の述定性として顔だけは着衣しないことの形而上的意味があるのだ。顔はAやBやSの人物間の識別をする(つまりもし仮に彼(女)らの顔の形や大きさがほぼ同じであってさえも、個々のパーツのみならず骨格や表情の示し方(全体的に利用した表情)によって識別する)手段ばかりではないのである。
人間の表情信号説はモリスも指摘している。その最も顕著なものが彼が指摘する「赤ん坊が母親に示す微笑みの表情である。デズモンド・モリスの論述を以下に抜粋してみよう。
「七ヶ月になると、赤ん坊は完全に母親に刷りこみされている。母親は。今やどうなろうとも、赤ん坊の残りの人生の中に母親のイメージを残すであろう。カモの雛は、母親のうしろについていく行動を通じてこの刷りこみを獲得し、ヒトニザルの赤ん坊は母親にしがみつくことによって獲得する。われわれはこの決定的なきずなを、ほほえみ反応を通して獲得するのである。視覚的な刺激としてみれば、ほほえみの特有の形は主として口のすみをそり返すという単純な動作にある。口がいくら開かれ、唇が後方へひかれる点は、恐れの表情と同じであるが、口のすみがそり返る動作がつけくわえられることによって、表現の性質が根本的にちがってくる。このほほえみの発生は、次にもう一つのまったく対照的な表情_しかめっ面_を生じる可能性をもたらした。ほほえみとは正反対に、口をぴっちり閉じることによって、反微笑の信号が可能となる。ちょうど泣くことから笑いが進化し、笑いからほほえみが進化したように、親愛の表情は、振子を逆に振ることによって敵意ある表情へと進化した。
(中略)成人はただ唇をすこしひねるだけでこの気分を伝えることがきでるが、赤ん坊はそれにもっと多くのものをつけ加える。ほほえみが最高潮に達すると、赤ん坊は肢でけり、腕を動かし、両手を刺激の方向へ向けて伸ばして動かし、何かぶつぶついう声を発し、顎を後方にそらせて、おとがいを前のほうにつきだし、胴を前へ倒したりわきへねじったりし、ときには鼻すじにしわをよせる。鼻と口の両側にあるしわが目立ってきてわずかに舌を出すことがある。これらさまざまな体の動きは、それぞれ赤ん坊が母親と接触を保とうとする闘いを意味するのではないだろうか。おそらく赤ん坊はその不器用な体で、祖先の霊長類のしがみつき反応の名残りを示しているのであろう。
(中略)ほほえみは相互的な信号である。赤ん坊が母親にほほえみかければ、母親は同じような信号で反応する。こうして互いに報酬を与えあい、両者の結びつきは相互の方向に強められる。これは自明なことと思われるが、そこにわながあるかもしれない、一部の母親は、いらいらしているとき、心配事があるとき、あるいは赤ん坊のきげんをそこねたときに、無理にほほえむことによってそのような気分をかくそうとする。かの女たちはこのみせかけのほほえみによって、赤ん坊の気分を乱すことを避けようとするのだが、じっさいこのトリックがむしろ有害な結果をもたらすことがある。(中略)母親の気分に関して赤ん坊をごまかすことはほとんど不可能である。ごく幼い人間は、母親の動揺や落着きという微妙な信号に対してするどく反応するもののようである。記号による文化的コミュニケーションという巨大な機構にわれわれがはまりこんでしまう前の、前言語的段階においては、われわれの赤ん坊は、われわれがのちに必要とするよりもはるかに多く、微妙な動き、姿勢の変化、声の調子などにたよっている。他の種では、この点はとくに発達している。数の計算ができたので有名な"賢馬ハンス"の驚くべき能力は、じっさいには調教師のささいな姿勢の変化に対する鋭敏な反応能力にもとづくものであった。足し算を求められると、ハンスはちょうど正しい回数だけ足で床をたたくのだった。たとえ調教師が同じ部屋にいなくて、誰か他の人がかわっても、かれはちゃんと答えを出した。というのは、ウマが正しい数だけ床をたたいたとき、誰でも体をわずかに体を緊張させるからである。たしかに、われわれもみな、たとえ成人になったのちでもこの能力をもっている(うらない師は自分がいい線をいっているかどうかをこれで判定する)。しかし前言語段階にある赤ん坊では、とくにこの能力が発達しているらしい。母親が緊張し、動揺していれば、いかにかくそうとしても、それは赤ん坊に伝わってしまう。そして、このときかの女が強くほほえんだりすると、それは赤ん坊をごまかすどころか、混乱させてしまうだけである。矛盾する二つのメッセージが伝達されているからである。もしこのようなことが何回も繰返しおこなわれると、赤ん坊に永久的に障害を与え、大きくなってから社会的に接触し適応してゆく上で、非常な困難をひきおこすことがある。(「裸のサル」119~121ページより)
人間の赤ん坊のほほえみとは人間がその一生の内の極初期に採る種として最初に接する他者の意識を釘付けにするための記号であり、最初の自己主張である。それは故に自我形成の上で重要な意思疎通のサインであり、意志伝達欲求の表明である。顔というものが嘘をつくことが出来ない、顔で嘘を付くことがモラル上であまりいいこととは見做されない、故にそう安易にはそれが出来ないからこそ、我々は通常一緒にいて楽しくない人間とは敬遠するように心掛ける。そうではなく顔で偽装することが容易く、あるいはそのような偽装表情を作ることが寛大に容認されているということが社会的通念であるなら、我々は婉曲な表現も信頼感喪失も経験せずに済ませられるかも知れない。しかし実際はそうではない。我々は偽装表情して友好的であるような印象を結果的に他者に与えたとしても、その好感情を確認出来たとする他者に対して非常なる失意を齎すことを重々承知しているからこそ、偽装表情を採ることは出来る限り避けたいと願うものなのだ。
また後半のモリスの指摘は本章の主張と全く符合する。というのも動物は自分の悪口を言われると敏感にそれを察知する。人間がある陳述をする時に、その内容がポジティヴである場合と、そうではなくネガティヴな場合とでは明らかに声の調子(トーン)が異なっているのである。動物は人間のように言語を意味論的には決して理解し得ない。言わばモリスが指摘しているように赤ん坊同様全ての動物は一生の間中モリスの言葉を借りるなら前言語段階にあると言ってよい。そこで微妙なる褒め言葉と貶し言葉のニュアンスの相違を、あるいはそれを語る時の人間の表情のニュアンスの相違を識別するのである。(我々は肯定的な言辞の時とは違って否定的な言辞の時には顔を顰めて話すものなのだ。あるいは否定的記述を目にするとやはり顔の表情を曇らせるものである。)だからこそ動物は自分に向けられたネガティヴな言辞には敏感に察知するのだ。私の家で以前飼っていた猫は多少口臭が強かった。そのことを飼い主である我々が言及すると必ず我々の鼻を噛んだものだった。
Friday, October 23, 2009
〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 「私は変わった」
今度は「私は変わった。」とは、何故言わないのか、ということについて考えてみよう。
「私の考えは変わった。」とか「私は変わった、と言われる。」とは言えても、「私は変わった。」と独り言を言う場合とか、その「変わった」ことを会話上既知のこととして一々説明する必要のない場合以外に、このような感慨めいた言い方はしないものである。
「私の考えは変わった。」には何の問題もない。問題は「私は変わった、と言われる(と人は言う)。」である。これは私に対して誰かが、その外見か容貌(顔を中心とした)か、考え方か、行動(パターン)を指して言っているのだろう、と想像されよう。
私にとって私の行動が変わったことを自分で言う場合、「私は以前~をしなかったのに、最近~をするようになった。」とか、それとは逆に「私は以前~をしていたのに、最近~しなくなった(するのを止めた)。」という風に具体的に言うことが通常であろう。(その後「私は変わった。」と付け加えることはあり得る。)
体重や身長が変わった場合(「太った」、「痩せた」とか、「背が伸びた」、「縮んだ」とか言う場合。尤も身長の変化は大人にはあまり関係ないが)そのように具体的に言うであろうし、容貌に関してなら「最近顔(つき)が変わったって言われる。」とか「最近綺麗になったって言われる。」とか「最近表情が明るく(暗く)なったって言われる。」とか「最近人相が良くなった(悪くなった)って言われる。」と言うことが通常であろう。にもかかわらず他者から言われたり、他者に対して言う場合、そこまで具体的に言及される内容を説明しなくて、既に語られたことの全体的印象を述定して、「あいつは変わった。」とか「私は変わったって言われる。」(これは他者が私の全体的印象を述定しているのだから、他者の言うことをそのまま直示している。しかしこの言い方は私の何に対して今話題にしているかが相互に了解されている場合が多い。そうでなければ具体的に言及するであろう。例えば「私の性格」とか「私の考え方」とかいう風に。)という風に言うだけで済むのである。
これは一体何故だろうか?
他者に対して直接「あいつは変わった。」と言及する場合まず他者の様相的変化の事実を指摘しておいて、然る後に話者がその言及に対する返答として「どういうところが?」と聞き返すことが可能であろうが、またそのように他者の関心を喚起することを目的に全体的印象をまず語っておいてから話者を会話へと惹き込む(参加を促す)意味合いもあるのである。勿論「私は変わったって言われる。」も又、「どういうところが?」という疑問を誘発するように話者に対してこの発語者の発語は仕組まれていると言えよう。しかし兎に角自分の言うことを黙って聞いて欲しいと思う場合は、全体的印象を取り敢えず提出するようなことをする(このように全体的印象から導入して話者に関心を持たせようと画策する)ことなしに、いきなり単刀直入に具体的な言及をすることで説明しつつ発語を聞かせるであろう。発語行為が黙って聞いていて欲しいという要請である場合、その発語行為は、それだけで発語内行為としての側面を持つ。
では何故「私は変わった。」とは言わないのであろうか?それは、実はあり得る。自分の考えについて相互に確認し合う会話中においてなら。「君変わったね。」と同一の志向性として。しかし、いきなり「私は変わった。」とだけ言うことは挑発目的である場合以外は通常考えられない。というのもそのようにいきなり言ったら必ず他者は「どんなところが?」とか「何が?」と聞かなければならない。そういう関心を促進させるような態度は余程親しい間柄に限られるし、もしそうであってもそういう言辞を度々繰り返すと、自分本位な態度からそういう言辞を浴びせかけられた相手は辟易してくるものである。もしそのように挑発的に全体的印象を自己言及においても行ったとしても、必ず何が変わったかを聞き返してくる他者に対して「考え方がさ。」とか「やることがさ。」とか「表情がさ。」とか「容貌がさ。」という風にもう一度言い直さなければならない。それは二度手間であろう。
これは「私は変わった。」を一塊で捉えると、「私は変わったって言われる。」は第三者(今の例で言えば、そう言った人)がそういった述定する場合、それはあくまで一塊をAとすると、一般者としての人物(あるいは人物たち)BがAと言った、という意味の構文であるからである。しかし「私は変わった。」はただ単に自動詞の述定である。そこには他動詞の目的語たる対象や動作方向を表わす保護もなく、叙述様相が明確ではないからである。しかし同時に私はその場その時に応じて省略形としてそういう曖昧な言辞を巧みに挿入し得るし、その時はいつでも「変わった私」という語ることで示される意味内容の転換をし得るのである。しかもそのどれをとっても、紛れもなく私であるということを疑いもしない。このように語ることとは私に関してならば、その考え方なのか、容貌や体重などの状態なのか、行動なのかというような言及内容如何を問わず常に「私」の一言で省略し得るということである。しかもその省略とは、省略して語ってもよいかどうかが、相互に意思疎通する際の信頼感の有無に左右されるのである。信頼感のある話者同士ではこの種の省略は会話を円滑に運用する為の方策となるが、そうでなければ挑発的な自己中心主義的言辞となるであろう。敵対者に対して真意の吐露は危険である。
「私の考えは変わった。」とか「私は変わった、と言われる。」とは言えても、「私は変わった。」と独り言を言う場合とか、その「変わった」ことを会話上既知のこととして一々説明する必要のない場合以外に、このような感慨めいた言い方はしないものである。
「私の考えは変わった。」には何の問題もない。問題は「私は変わった、と言われる(と人は言う)。」である。これは私に対して誰かが、その外見か容貌(顔を中心とした)か、考え方か、行動(パターン)を指して言っているのだろう、と想像されよう。
私にとって私の行動が変わったことを自分で言う場合、「私は以前~をしなかったのに、最近~をするようになった。」とか、それとは逆に「私は以前~をしていたのに、最近~しなくなった(するのを止めた)。」という風に具体的に言うことが通常であろう。(その後「私は変わった。」と付け加えることはあり得る。)
体重や身長が変わった場合(「太った」、「痩せた」とか、「背が伸びた」、「縮んだ」とか言う場合。尤も身長の変化は大人にはあまり関係ないが)そのように具体的に言うであろうし、容貌に関してなら「最近顔(つき)が変わったって言われる。」とか「最近綺麗になったって言われる。」とか「最近表情が明るく(暗く)なったって言われる。」とか「最近人相が良くなった(悪くなった)って言われる。」と言うことが通常であろう。にもかかわらず他者から言われたり、他者に対して言う場合、そこまで具体的に言及される内容を説明しなくて、既に語られたことの全体的印象を述定して、「あいつは変わった。」とか「私は変わったって言われる。」(これは他者が私の全体的印象を述定しているのだから、他者の言うことをそのまま直示している。しかしこの言い方は私の何に対して今話題にしているかが相互に了解されている場合が多い。そうでなければ具体的に言及するであろう。例えば「私の性格」とか「私の考え方」とかいう風に。)という風に言うだけで済むのである。
これは一体何故だろうか?
他者に対して直接「あいつは変わった。」と言及する場合まず他者の様相的変化の事実を指摘しておいて、然る後に話者がその言及に対する返答として「どういうところが?」と聞き返すことが可能であろうが、またそのように他者の関心を喚起することを目的に全体的印象をまず語っておいてから話者を会話へと惹き込む(参加を促す)意味合いもあるのである。勿論「私は変わったって言われる。」も又、「どういうところが?」という疑問を誘発するように話者に対してこの発語者の発語は仕組まれていると言えよう。しかし兎に角自分の言うことを黙って聞いて欲しいと思う場合は、全体的印象を取り敢えず提出するようなことをする(このように全体的印象から導入して話者に関心を持たせようと画策する)ことなしに、いきなり単刀直入に具体的な言及をすることで説明しつつ発語を聞かせるであろう。発語行為が黙って聞いていて欲しいという要請である場合、その発語行為は、それだけで発語内行為としての側面を持つ。
では何故「私は変わった。」とは言わないのであろうか?それは、実はあり得る。自分の考えについて相互に確認し合う会話中においてなら。「君変わったね。」と同一の志向性として。しかし、いきなり「私は変わった。」とだけ言うことは挑発目的である場合以外は通常考えられない。というのもそのようにいきなり言ったら必ず他者は「どんなところが?」とか「何が?」と聞かなければならない。そういう関心を促進させるような態度は余程親しい間柄に限られるし、もしそうであってもそういう言辞を度々繰り返すと、自分本位な態度からそういう言辞を浴びせかけられた相手は辟易してくるものである。もしそのように挑発的に全体的印象を自己言及においても行ったとしても、必ず何が変わったかを聞き返してくる他者に対して「考え方がさ。」とか「やることがさ。」とか「表情がさ。」とか「容貌がさ。」という風にもう一度言い直さなければならない。それは二度手間であろう。
これは「私は変わった。」を一塊で捉えると、「私は変わったって言われる。」は第三者(今の例で言えば、そう言った人)がそういった述定する場合、それはあくまで一塊をAとすると、一般者としての人物(あるいは人物たち)BがAと言った、という意味の構文であるからである。しかし「私は変わった。」はただ単に自動詞の述定である。そこには他動詞の目的語たる対象や動作方向を表わす保護もなく、叙述様相が明確ではないからである。しかし同時に私はその場その時に応じて省略形としてそういう曖昧な言辞を巧みに挿入し得るし、その時はいつでも「変わった私」という語ることで示される意味内容の転換をし得るのである。しかもそのどれをとっても、紛れもなく私であるということを疑いもしない。このように語ることとは私に関してならば、その考え方なのか、容貌や体重などの状態なのか、行動なのかというような言及内容如何を問わず常に「私」の一言で省略し得るということである。しかもその省略とは、省略して語ってもよいかどうかが、相互に意思疎通する際の信頼感の有無に左右されるのである。信頼感のある話者同士ではこの種の省略は会話を円滑に運用する為の方策となるが、そうでなければ挑発的な自己中心主義的言辞となるであろう。敵対者に対して真意の吐露は危険である。
Wednesday, October 21, 2009
〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 肯定と否定 形容詞の場合
今仮に「長い」という概念はあるが、「短い」という概念が存在しない言語が存在するとしよう。(実際我々の使用する日本語には「わかる」という概念はあるが、朝鮮語、韓国語<ハングル>にあるような「わかる」の対概念の動詞は見当たらない。「わからない」はあくまで「わかる」の否定形でしかない。)この言語においては「AはBより長い」は陳述出来るが、「BはAより短い」とは陳述出来ない。すると「BはAより長く(は)ない」というようにしか陳述し得ないということになる。そのことは「短い」という概念しかなく、従って「長い」とは陳述出来ないような言語があるとしたら、そういう言語においても同様なことが言えよう。
ということは我々の言語においては「長い」だけしかなく「短い」がない言語や「短い」しかなく「長い」がない言語における可能性として考えられる陳述のパターンの全てを駆使し得るということと論理的にはなるであろう。そこで用いられる用法は「長い」しかない言語(Lとしよう。)と「短い」しかない言語(Sとしよう。)(また我々のように「長い」、「短い」の両方を有する言語をNとしよう。)の全ての可能性を踏襲することが原理的には可能な言語の所有者であると我々自身を概念規定することが許されよう。
だから自動的に我々は①「AはBより長い」を次のように言い換えることが可能となる。
②「BはAより長く(は)ない。」(NとLでのみ使用可)
③「BはAより短い。」(NとSでのみ使用可)
④「AはBより短くない。」(NとSでのみ使用可)
では、この四つは真理条件的には確かに同一の事態を述定しているわけであるが、果たしてそれらを語る時我々は心的に全く同一の様相で語っているのであろうか?
結論的に言えばそれは全く違うだろう、ということである。
①と③の二つは肯定形であり、残りの二つは否定形である。この否定形は話者が聴者(今後これも話者とする。)へ意外であると思わせることを想定し得ることに応じて発話の意義を自認し得る性質がある。否定的帰結の想定が裏切られる、つまり肯定的帰結こそ意外性が最大値となることもまた然りであろう。(後述する。)
しかもそればかりではない。話者への期待感に応じて陳述されることとはメジャー、マイナーの差が述定形容に存する。
肯定形の内でも「長い」はメジャーであり、肯定的、「短い」はマイナーであり、否定的である。
するとこうなる。
「AはBより長い」
は肯定的内容の肯定形(A)
「BはAより短い」
は否定的内容の肯定形(B)
同様に残りの二つは次にようになる。
「BはAより長くない」
は肯定的内容の否定形(C)
「AはBよりも短くない」
は否定的内容の否定形(D)
ということとなる。
(A)は二重に肯定であり、(D)は二重否定となる。
この四つのパターンにおける心的様相を性質上検討してみよう。
(A)において述定そのものに逡巡はない。その点では(B)も同様である。それに対して(C)、(D)は命題設定とその否定という意味で逡巡が存在する。しかしそれは、この二つの文章の前後関係(文脈)に如何なる文章が来るかに依存する。
この4つの文章を仮に今次のような文章を置くことで考えてみよう。
疑問文「AとBはどちらが長いですか?」
この時(A)は最も順当な返答であり(尤も(A)よりも更に「Aです。」が最も順当であるが)(B)はそれよりは屈折している。
しかしそれは(C)よりはましである。だがこの4者の中で最も屈折しているのは(D)であろう。
この言い方は学者的言辞である。
「~するのに吝かではない。」式のものである。
この問いが「AとBどちらが短いですか?」
となると次のように反転する。
上記の(A)が(B)に、上記の(B)が(A)に、上記の(C)が(D)に、上記の(D)が(C)へと反転する。
しかしこの場合質問自体の心的様相にも違いがある。最初の質問は目立つものを指定させる意味で返答者に対して配慮があるが、次のものは挑発的である。
この2つの質問が、たまたま質問者が手渡して欲しい特定の何かに対する請求でない限り、上の配慮の有無(後者は挑発的)は歴然としている。
一つの真理条件を、その述定するパターンにおいて、その前後の文脈が作用することとは疑問文と返答文である場合、質問者と返答者の他者に対する誠実性であることは明らかである。
一つのパターンはそれ自体では何ら命題論的意義を持つことはない。述定性としての様相でしかない。しかしそれは前後の文脈において初めて順当、非順当、適切、不適切、自然、不自然といった性格が浮かび上がる。その時初めて会話が事実となる。このことは文章の持つ真理条件及び述定そのものの性格はそれ自体では一つの様相にしか過ぎず命題論的な連関への認識によって事実の構成要素となる、ということを物語っている。そしてここで最も顕著なこととは4つのパターンはどのような質問と返答になろうとも、一つ一つの絶対的性格は相対性如何にかかわらず不変であるということである。
「短い方の木っ端を取ってくれ。」と大工の頭領が部下に言ったりする場合以外、通常我々は何かを質問する時、マイナーな方を問質すような質問の仕方は順当でも自然でもない。
例えばフィギュア・スケートの両雄AとBを比較した会話の時、その試合を観た方に対して観なかった方は通常「AとBのどちらの方がよくなかった(下手だった)?」という風には質問しないものである。これは文章にのみ特徴的なことなのだろうか?数学の場合全く当て嵌まらないのだろうか?
プラスとマイナスの場合は_。(今後の課題としたい。)
その問題に踏み込む前に上記の質問の可能性について考えてみよう。
今まで挙げた二つの質問には、先述した4つのパターンの返答よりも最も順当な返答として「Aです。」があるが、それ以外の返答の存在可能性として4つのパターンが想定される時、その想定は質問自体に内在する命題条件に対する誠実性の有無を確認することから順当さを評定する意味を物語っている。
今仮に質問を「AはBより長いですか?」に変えると最も順当かつ自然な返答はまごうことなく、「そうです。」となるわけだが、それに対して(A)は鸚鵡返しとなり、ただ返答内容を質問者が確認したい場合にはくどく多少不自然でもあるが、時としてある質問意図において話者(質問者)ともう一人の話者(返答者)間において、ある同意確認意図を持つ場合、後者の側の打診を前者が承認した時にのみ、より相互意図に対する信頼感確認行為となり得る。つまり質問に対する返答の順当さと意外さとは質問者と返答者の相互の意図を理解し合えるということと、相互にその質問意図と返答意図を尊重し合えるか否かという位相において初めて決定され、その質問意図と返答意図が波長を合致させ得た時にのみ我々はその意思疎通を意味あるものと確認出来る。結局意思疎通というものは質問意図と返答意図が相互に順当であると認識出来る(時には質問意図を返答者が怪訝に思うこともあるし、返答意図を質問者が怪訝に思うこともある。しかし質問意図を返答者が怪訝に思うということは大概質問者の質問の仕方に問題があったのであり、返答者が質問者の想定外でしかも非順当な返答の仕方をする場合、大概質問者の質問に対して返答者が怪訝に思えたことをの表明しているのである。)し、またその質問と返答の受け答えの自然さを相互に確認し合えるか否かということが、意思疎通上の充実を獲得しえるか否かということへと直結するのだ。
だからこの場合BはAより長いという命題に対して否定する議論の上で成立する確認の様相であるということである。だからこそ鸚鵡返しにおいても相互に順当さを感じあえるということであり、それ以外のケースでは誠実性という観点からは鸚鵡返しはくどいばかりでなく、失礼である場合さえある。それは質問者に対する返答者の質問自体への不快感表明となる。
これらのことは「AはBより短かく(は)ないですか?」となると一部反転することは前記同様である。(「そんなことはない。」と言えばよい。)また「BはAより短いですか?」であると前者においては(A)の返答は天邪鬼な返答となる。また「BはAより長くないですか?」という質問はそれ自体が「BはAより短い。」という誤った考えを指摘する意味(文脈)においてのみ順当な質問ということとなる。それ以外のこの言辞にはある種の不自然さが付き纏い、非順当ということとなる。その時(A)の返答をすることもやや不自然である。こういう場合「そんなことはないですよ。」と言えばよい。
肯定する時は、一般的にある命題の真理条件の最も順当な記述をなしているので、心的様相において述定を聞く話者が、それを理解していることに疑いを差し挟まない。(もし話者が誤った真理を告げる場合でも、よほど偏った意見でもない限り注意していなければ聞き過ごし勝ちである。)しかし否定する時、否定された事態自体を主張する、つまり真理条件の矛盾を指摘するのであり、否定された真理条件に対する言及となり、批評となり、批判となるから、この時前提である真理条件自体の否定となるので、それを聞く話者は意外性を心的様相に抱く。構えるのだ。「待てよ。本当にその通りなのかな?」という心的構えである。勿論それは「まさかそうではあるまい。」と発語を聞く話者が通常思っているのに、発語する話者がそれを意外にも肯定する場合にも当て嵌まる。
あるいは例えばまさかこの後に及んで彼が最早来るまいと思っていたのに、意外にも来たというような時、その意外な事実を誰かが告げる時よりも、彼が来ることは最早疑う余地がないと思われていたのに、来なかった場合の失望感の方がより大きいと思われる。というのも前者は明らかに彼に対して皆が悪意を持って臨んでいるのに、それを意外にも彼は意に介さないという結果となったのであり、「彼来なかったよね?」という質問に対して「いや来たよ。」という場合の質疑応答に見られる心的様相は失望というよりは、「してやられた。」という後悔である。それがどんなに政治的に許される最低限の決断であっても彼を来難くさせたこと自体は悪意に満ちた行為である。彼が来ることを阻止することが仮に正義であってもそれが滞りなく功を奏さなかったということは善意で彼に臨んだ時(例えばお願いだから来ないでくれないかと依頼するというような)よりも後悔を残す。卑怯な方法が巧くいかなかった時の地団太踏みである。しかしこれは大人社会ではよくあることであり、この嫌がらせが通じない相手に対しては「彼を見直した。」と言いながら、強い意志の持主であるという風に通常我々は彼を肯定的には捉えないものである。それに対して後者は「彼来たよね?」という確認の質問に対して「いやそれが来なかったんだよ。」という想定外の事実の報告となるのだ。それは最も失望感を聞く話者に齎す。というのも報告する者が失望した態度で報告しているに違いないからである。そうでなく喜んで報告したのなら質問者と返答者は信頼感が希薄である、つまり利害が一致していない人間関係であることとなる。
纏めよう。前者の返答に対して質問者が抱くのは自己を含む複数の成員が彼に対して悪意を持ち、来難くさせたことに対する贖罪の心理を介在させることとなるのが最も一般的ではなかろうか?そうではなく、もし彼が実際話者を含む複数の成員の思惑通りに来なかった場合には安堵の心理を介在させることとなるのが最も一般的であろう。「そうだろう。よかったね。ほっとしたね。」という悪意の合意のウィンクが齎されるであろう。
つまり来ない筈の彼が来た場合、失望感というよりは意外性という、あるいはもっと極端な場合には驚愕、狼狽を誘うのだ。あれだけ巧く婉曲に来ないで欲しいと切望する態度を示したのに彼には通じなかった、という心的内容である。
肯定も否定も想定された通りにそれが告げられるのと、その逆のこととして告げられるのとでは、相対的に異なるのだ。まず悪意に満ちた策略が功を奏さない場合と、善意に満ちた努力が功を奏さない場合では前者の方が諦めもつく。もし結果報告において策略が巧くいかなくても、そういった想定外の報告に対する反応としての心的様相は展開された結果が、思惑と異なるも(つまりある程度そう巧くはゆくまいと思っていたとしても尚)、ある程度は想定されたことであるから諦めはつくも、悪意なく、善意のやり方で他者を引き入れようとして万全に臨んでも尚やはり好結果を齎さずに他者の信頼を得られない場合には、絶対値的に期待はずれであるということなので(引き入れようとした他者へ持つ人物評定を誤ったかという観念を抱きつつ)、失望感は善意にもかかわらず肯定的結果や帰結が裏切られる否定陳述(報告)の場合が最も大きい。だから、ある程度最初から舐めてかかっていたこと(あいつはのせられやすいから巧く利用してやろうぐらいに考えていたような悪意といまではいかないが、対象となる他者を舐めていたということを知っている場合)を実は薄々感づいていた場合には出されたものが好結果ではなくても「ある程度は予想されたことである。」という観念があるから諦めもつく。しかしそこまで事後的に反省すべき事態ではなく他者に対して善意で接している場合には、我々は想定されたこととは言え、悔しい思いを持つものである。
次に今まで述べてきた好結果ではないことに関する否定的帰結陳述(報告)によって期待が裏切られることで齎される失望感の大きいものから順に列挙してみよう。
① 肯定的想定を裏切る否定的陳述(しかも善意である事項、対象に臨んでいる場合)
② 否定的想定を裏切る肯定的陳述(ある程度悪意を持って策略的にある事項、対象に臨んでいる場合)
③ 否定的想定を叶わせる否定的陳述(上に同じ)「やはりそうだったか。そりゃそうだよ。世の中そんなに甘くはないよ。」という心理である。
④ 肯定的想定を叶わせる肯定的陳述(①に同じ)
しかし意外性、つまり究極的には驚愕と狼狽という意味においては、次のような順序に改変されよう。
②、①、④、③
という風に。④と③が④の方が大きいのは努力しても、そういつも巧くはゆかないものである、という観念を持っている人間の場合には順当な反応であろう。というのもやはりどんなに努力していても、それが叶うことというものは嬉しいものだし、それはあくまで謙虚な態度で臨む人間の心理としては最もあり得ることであるから。それは意外性であるが、本当に努力して得た好結果であるなら、我々は通常それを順当な結果であるとその内に当然のこととして受け入れるものである。それに対して事後的に自己の努力や結果の想定の仕方に対して反省材料を見出せる場合には、そのよくない結果に対しては、潔く認め狼狽心や驚愕心は意外と少ない筈であろう。(②が最大なのは贖罪意識が働くからである。)
付記 最初の長い、短いという語彙の片方しかない場合、我々の文明ではないケースにおいては、例えばマヤとかアステカのような場合には小さいとか短いというマイナーなものの方に価値がある場合もあり得る。しかしこの論考においては敢えてそういう文化人類学的現実外の、つまり論理的性質としての片方の語彙しかないという思考実験であったことをお断りしておく。
ということは我々の言語においては「長い」だけしかなく「短い」がない言語や「短い」しかなく「長い」がない言語における可能性として考えられる陳述のパターンの全てを駆使し得るということと論理的にはなるであろう。そこで用いられる用法は「長い」しかない言語(Lとしよう。)と「短い」しかない言語(Sとしよう。)(また我々のように「長い」、「短い」の両方を有する言語をNとしよう。)の全ての可能性を踏襲することが原理的には可能な言語の所有者であると我々自身を概念規定することが許されよう。
だから自動的に我々は①「AはBより長い」を次のように言い換えることが可能となる。
②「BはAより長く(は)ない。」(NとLでのみ使用可)
③「BはAより短い。」(NとSでのみ使用可)
④「AはBより短くない。」(NとSでのみ使用可)
では、この四つは真理条件的には確かに同一の事態を述定しているわけであるが、果たしてそれらを語る時我々は心的に全く同一の様相で語っているのであろうか?
結論的に言えばそれは全く違うだろう、ということである。
①と③の二つは肯定形であり、残りの二つは否定形である。この否定形は話者が聴者(今後これも話者とする。)へ意外であると思わせることを想定し得ることに応じて発話の意義を自認し得る性質がある。否定的帰結の想定が裏切られる、つまり肯定的帰結こそ意外性が最大値となることもまた然りであろう。(後述する。)
しかもそればかりではない。話者への期待感に応じて陳述されることとはメジャー、マイナーの差が述定形容に存する。
肯定形の内でも「長い」はメジャーであり、肯定的、「短い」はマイナーであり、否定的である。
するとこうなる。
「AはBより長い」
は肯定的内容の肯定形(A)
「BはAより短い」
は否定的内容の肯定形(B)
同様に残りの二つは次にようになる。
「BはAより長くない」
は肯定的内容の否定形(C)
「AはBよりも短くない」
は否定的内容の否定形(D)
ということとなる。
(A)は二重に肯定であり、(D)は二重否定となる。
この四つのパターンにおける心的様相を性質上検討してみよう。
(A)において述定そのものに逡巡はない。その点では(B)も同様である。それに対して(C)、(D)は命題設定とその否定という意味で逡巡が存在する。しかしそれは、この二つの文章の前後関係(文脈)に如何なる文章が来るかに依存する。
この4つの文章を仮に今次のような文章を置くことで考えてみよう。
疑問文「AとBはどちらが長いですか?」
この時(A)は最も順当な返答であり(尤も(A)よりも更に「Aです。」が最も順当であるが)(B)はそれよりは屈折している。
しかしそれは(C)よりはましである。だがこの4者の中で最も屈折しているのは(D)であろう。
この言い方は学者的言辞である。
「~するのに吝かではない。」式のものである。
この問いが「AとBどちらが短いですか?」
となると次のように反転する。
上記の(A)が(B)に、上記の(B)が(A)に、上記の(C)が(D)に、上記の(D)が(C)へと反転する。
しかしこの場合質問自体の心的様相にも違いがある。最初の質問は目立つものを指定させる意味で返答者に対して配慮があるが、次のものは挑発的である。
この2つの質問が、たまたま質問者が手渡して欲しい特定の何かに対する請求でない限り、上の配慮の有無(後者は挑発的)は歴然としている。
一つの真理条件を、その述定するパターンにおいて、その前後の文脈が作用することとは疑問文と返答文である場合、質問者と返答者の他者に対する誠実性であることは明らかである。
一つのパターンはそれ自体では何ら命題論的意義を持つことはない。述定性としての様相でしかない。しかしそれは前後の文脈において初めて順当、非順当、適切、不適切、自然、不自然といった性格が浮かび上がる。その時初めて会話が事実となる。このことは文章の持つ真理条件及び述定そのものの性格はそれ自体では一つの様相にしか過ぎず命題論的な連関への認識によって事実の構成要素となる、ということを物語っている。そしてここで最も顕著なこととは4つのパターンはどのような質問と返答になろうとも、一つ一つの絶対的性格は相対性如何にかかわらず不変であるということである。
「短い方の木っ端を取ってくれ。」と大工の頭領が部下に言ったりする場合以外、通常我々は何かを質問する時、マイナーな方を問質すような質問の仕方は順当でも自然でもない。
例えばフィギュア・スケートの両雄AとBを比較した会話の時、その試合を観た方に対して観なかった方は通常「AとBのどちらの方がよくなかった(下手だった)?」という風には質問しないものである。これは文章にのみ特徴的なことなのだろうか?数学の場合全く当て嵌まらないのだろうか?
プラスとマイナスの場合は_。(今後の課題としたい。)
その問題に踏み込む前に上記の質問の可能性について考えてみよう。
今まで挙げた二つの質問には、先述した4つのパターンの返答よりも最も順当な返答として「Aです。」があるが、それ以外の返答の存在可能性として4つのパターンが想定される時、その想定は質問自体に内在する命題条件に対する誠実性の有無を確認することから順当さを評定する意味を物語っている。
今仮に質問を「AはBより長いですか?」に変えると最も順当かつ自然な返答はまごうことなく、「そうです。」となるわけだが、それに対して(A)は鸚鵡返しとなり、ただ返答内容を質問者が確認したい場合にはくどく多少不自然でもあるが、時としてある質問意図において話者(質問者)ともう一人の話者(返答者)間において、ある同意確認意図を持つ場合、後者の側の打診を前者が承認した時にのみ、より相互意図に対する信頼感確認行為となり得る。つまり質問に対する返答の順当さと意外さとは質問者と返答者の相互の意図を理解し合えるということと、相互にその質問意図と返答意図を尊重し合えるか否かという位相において初めて決定され、その質問意図と返答意図が波長を合致させ得た時にのみ我々はその意思疎通を意味あるものと確認出来る。結局意思疎通というものは質問意図と返答意図が相互に順当であると認識出来る(時には質問意図を返答者が怪訝に思うこともあるし、返答意図を質問者が怪訝に思うこともある。しかし質問意図を返答者が怪訝に思うということは大概質問者の質問の仕方に問題があったのであり、返答者が質問者の想定外でしかも非順当な返答の仕方をする場合、大概質問者の質問に対して返答者が怪訝に思えたことをの表明しているのである。)し、またその質問と返答の受け答えの自然さを相互に確認し合えるか否かということが、意思疎通上の充実を獲得しえるか否かということへと直結するのだ。
だからこの場合BはAより長いという命題に対して否定する議論の上で成立する確認の様相であるということである。だからこそ鸚鵡返しにおいても相互に順当さを感じあえるということであり、それ以外のケースでは誠実性という観点からは鸚鵡返しはくどいばかりでなく、失礼である場合さえある。それは質問者に対する返答者の質問自体への不快感表明となる。
これらのことは「AはBより短かく(は)ないですか?」となると一部反転することは前記同様である。(「そんなことはない。」と言えばよい。)また「BはAより短いですか?」であると前者においては(A)の返答は天邪鬼な返答となる。また「BはAより長くないですか?」という質問はそれ自体が「BはAより短い。」という誤った考えを指摘する意味(文脈)においてのみ順当な質問ということとなる。それ以外のこの言辞にはある種の不自然さが付き纏い、非順当ということとなる。その時(A)の返答をすることもやや不自然である。こういう場合「そんなことはないですよ。」と言えばよい。
肯定する時は、一般的にある命題の真理条件の最も順当な記述をなしているので、心的様相において述定を聞く話者が、それを理解していることに疑いを差し挟まない。(もし話者が誤った真理を告げる場合でも、よほど偏った意見でもない限り注意していなければ聞き過ごし勝ちである。)しかし否定する時、否定された事態自体を主張する、つまり真理条件の矛盾を指摘するのであり、否定された真理条件に対する言及となり、批評となり、批判となるから、この時前提である真理条件自体の否定となるので、それを聞く話者は意外性を心的様相に抱く。構えるのだ。「待てよ。本当にその通りなのかな?」という心的構えである。勿論それは「まさかそうではあるまい。」と発語を聞く話者が通常思っているのに、発語する話者がそれを意外にも肯定する場合にも当て嵌まる。
あるいは例えばまさかこの後に及んで彼が最早来るまいと思っていたのに、意外にも来たというような時、その意外な事実を誰かが告げる時よりも、彼が来ることは最早疑う余地がないと思われていたのに、来なかった場合の失望感の方がより大きいと思われる。というのも前者は明らかに彼に対して皆が悪意を持って臨んでいるのに、それを意外にも彼は意に介さないという結果となったのであり、「彼来なかったよね?」という質問に対して「いや来たよ。」という場合の質疑応答に見られる心的様相は失望というよりは、「してやられた。」という後悔である。それがどんなに政治的に許される最低限の決断であっても彼を来難くさせたこと自体は悪意に満ちた行為である。彼が来ることを阻止することが仮に正義であってもそれが滞りなく功を奏さなかったということは善意で彼に臨んだ時(例えばお願いだから来ないでくれないかと依頼するというような)よりも後悔を残す。卑怯な方法が巧くいかなかった時の地団太踏みである。しかしこれは大人社会ではよくあることであり、この嫌がらせが通じない相手に対しては「彼を見直した。」と言いながら、強い意志の持主であるという風に通常我々は彼を肯定的には捉えないものである。それに対して後者は「彼来たよね?」という確認の質問に対して「いやそれが来なかったんだよ。」という想定外の事実の報告となるのだ。それは最も失望感を聞く話者に齎す。というのも報告する者が失望した態度で報告しているに違いないからである。そうでなく喜んで報告したのなら質問者と返答者は信頼感が希薄である、つまり利害が一致していない人間関係であることとなる。
纏めよう。前者の返答に対して質問者が抱くのは自己を含む複数の成員が彼に対して悪意を持ち、来難くさせたことに対する贖罪の心理を介在させることとなるのが最も一般的ではなかろうか?そうではなく、もし彼が実際話者を含む複数の成員の思惑通りに来なかった場合には安堵の心理を介在させることとなるのが最も一般的であろう。「そうだろう。よかったね。ほっとしたね。」という悪意の合意のウィンクが齎されるであろう。
つまり来ない筈の彼が来た場合、失望感というよりは意外性という、あるいはもっと極端な場合には驚愕、狼狽を誘うのだ。あれだけ巧く婉曲に来ないで欲しいと切望する態度を示したのに彼には通じなかった、という心的内容である。
肯定も否定も想定された通りにそれが告げられるのと、その逆のこととして告げられるのとでは、相対的に異なるのだ。まず悪意に満ちた策略が功を奏さない場合と、善意に満ちた努力が功を奏さない場合では前者の方が諦めもつく。もし結果報告において策略が巧くいかなくても、そういった想定外の報告に対する反応としての心的様相は展開された結果が、思惑と異なるも(つまりある程度そう巧くはゆくまいと思っていたとしても尚)、ある程度は想定されたことであるから諦めはつくも、悪意なく、善意のやり方で他者を引き入れようとして万全に臨んでも尚やはり好結果を齎さずに他者の信頼を得られない場合には、絶対値的に期待はずれであるということなので(引き入れようとした他者へ持つ人物評定を誤ったかという観念を抱きつつ)、失望感は善意にもかかわらず肯定的結果や帰結が裏切られる否定陳述(報告)の場合が最も大きい。だから、ある程度最初から舐めてかかっていたこと(あいつはのせられやすいから巧く利用してやろうぐらいに考えていたような悪意といまではいかないが、対象となる他者を舐めていたということを知っている場合)を実は薄々感づいていた場合には出されたものが好結果ではなくても「ある程度は予想されたことである。」という観念があるから諦めもつく。しかしそこまで事後的に反省すべき事態ではなく他者に対して善意で接している場合には、我々は想定されたこととは言え、悔しい思いを持つものである。
次に今まで述べてきた好結果ではないことに関する否定的帰結陳述(報告)によって期待が裏切られることで齎される失望感の大きいものから順に列挙してみよう。
① 肯定的想定を裏切る否定的陳述(しかも善意である事項、対象に臨んでいる場合)
② 否定的想定を裏切る肯定的陳述(ある程度悪意を持って策略的にある事項、対象に臨んでいる場合)
③ 否定的想定を叶わせる否定的陳述(上に同じ)「やはりそうだったか。そりゃそうだよ。世の中そんなに甘くはないよ。」という心理である。
④ 肯定的想定を叶わせる肯定的陳述(①に同じ)
しかし意外性、つまり究極的には驚愕と狼狽という意味においては、次のような順序に改変されよう。
②、①、④、③
という風に。④と③が④の方が大きいのは努力しても、そういつも巧くはゆかないものである、という観念を持っている人間の場合には順当な反応であろう。というのもやはりどんなに努力していても、それが叶うことというものは嬉しいものだし、それはあくまで謙虚な態度で臨む人間の心理としては最もあり得ることであるから。それは意外性であるが、本当に努力して得た好結果であるなら、我々は通常それを順当な結果であるとその内に当然のこととして受け入れるものである。それに対して事後的に自己の努力や結果の想定の仕方に対して反省材料を見出せる場合には、そのよくない結果に対しては、潔く認め狼狽心や驚愕心は意外と少ない筈であろう。(②が最大なのは贖罪意識が働くからである。)
付記 最初の長い、短いという語彙の片方しかない場合、我々の文明ではないケースにおいては、例えばマヤとかアステカのような場合には小さいとか短いというマイナーなものの方に価値がある場合もあり得る。しかしこの論考においては敢えてそういう文化人類学的現実外の、つまり論理的性質としての片方の語彙しかないという思考実験であったことをお断りしておく。
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