一般的にエリートと称される人達は国家とか大きな法人からかなりいい給料を貰っているので、日本では(恐らくアメリカでは本当のエリートは一般庶民などと同じレストランで食事などしないだろうけれど)余り横柄な態度を取らず、寧ろ一般庶民に対して自分達ばかりいい待遇をして貰って悪いという態度を示す事が多く、そういう謙った、要するに余り偉い人間ではないという謙虚さを示す度合いに応じて、エリートである可能性は高く、尤も大して凄い知性も優秀さも持ち合わせていず、それでいて謙った知性的態度を示すことだけは長けているそういう人が日本にも全くいないとも限らないので、その辺りの識別はそれこそ、あることに就いて自分自身がどれくらいの知性を持っているかということに最終的には依存していくので、全く何に対してもそれほどの知識も何もない人が仮に相手が本当のエリートかどうかを見抜く為のハウツー的な本を仮に書いたとしても尚、それはあくまで一つの目安にしか過ぎないということになるとは言える。
私自身は全くエリート街道とは無縁の人生を送ってきたので、自分自身の周囲にどれくらいのエリートが(実は凄い人なのに爪を隠している様なタイプの人という意味で)いるかなど見当もつかないのだが、それ相応のエリートと言っていい人達とも多少なりとも知遇を得てもきたが、要するにもしエリートとは何かという定義を敢えてここで示すとしたら、それは敢えてリスキーな川及び橋を渡らない、安全且つ安定した道があるのなら敢えてそれに逆らわず、それを選ぶ、一応全ての自分より年配者の言うことは聴いておこうという態度を示せる、即座に全てを判断せず考える余裕を与えて欲しいという態度をどんな請求に対しても示せる、それでいて緊急の時にはそれなりに一般の誰よりも有効な手立てを考えそれを履行するか進言することが出来る、などの条件を全て兼ね備えているのなら、それをエリートと呼んでいいだろう。
尤もそれはインテリとは少し違う。勿論インテリ且つエリートである場合も決して少なくはないものの、インテリではあるがエリートではない人も大勢いるし、あることに凄く秀でていることと違い、今述べた様な対人関係的に緊急の時の対処的知性に優れた要員とはそう多くいるわけではない。
エリートではあるがインテリではない人もいるだろう。インテリとは端的によく本を読み、教養があるということに他ならず、そのこととエリート的条件は別箇であるし、エリートでもユーモアのある者もいるが、余りユーモアのない人もいる。只エリートで余りユーモアがないと心得ている人にはそれに何か代わり得る貴重な態度を示す事ができて、それが結局ユーモアであると受け取られることも多いかも知れない。
インテリでユーモアのない人も大勢いるし、インテリでユーモアもありながら、緊急の時には誰よりもおたおたする様なタイプの、ある部分では間抜けなところさえある人も大勢いる。
さて中生代に闊歩していた多くの恐竜は歯が鋭く強靭で、大きく分けてT字型で闊歩するタイプの二足歩行者と、Π字型で闊歩する四足歩行者とがあったらしい。
面白いことにその両者とも肉食恐竜も草食恐竜も歯は尖っていて、それはどちらも強靭な咀嚼力が必要だからだが、又脚が極めて強靭な筋肉を持っていて、要するに走ることに長けていた。それは捕食者(predator)として獲物を狙いをつけて迅速に駆けて行き仕留める為であるし、その進化の軍拡競争に於いて被捕食者として逃走する為である。
それはかなり目的的進化の産物だったことだろう。つまり脚力とそれを迅速に利用する為の反射神経に多大な進化のエネルギーを取られ、まさに生存していく為の条件自体がそれだけでかなりのパーセンテージを占めていたので、脳自体のそれ以外の部位の進化はその事実によるトレードオフで大したものではなかったと言えるだろう。
その点同じ獲物を狙う敵対者や捕食者から生存を脅かされない様にする為に聴覚神経を発達させていた哺乳類にとって聴覚的進化が脳に齎したものは論理思考力だったと言える。それは只闇雲に獲物に突進したり、撃墜して噛み付くという様なエネルギーの代わりに、容易に獲物を捕獲出来ない時期やそういう機会に於いて別種の食料になり得るものを模索する様な知性を進化させてきたのである。
要するに目的が一元化され特化されている場合、又そのことだけで生存が図れるのであれば、脳自体が突進し撃墜する為に要されるエネルギーと技能を進化させること以外に費やされる必要がなかったというのが恐竜の立場であれば、その逆に突進したり対抗馬と撃墜し合うことに於いては劣ってはいたものの、逃げて隠れたり、隠れている時に本格的食料以外の食べられるものを見つける知性を発展させた哺乳類はメキシコユカタン半島沖に隕石が衝突した際に、非常時を生延びることが出来たわけだ。
それは知性そのものが特殊目的、しかも生存を最も大きく保証するものに特化していないという脳進化の条件によってだったと考えられる。
つまり単一の目的に最適に特化した選択肢は、それ以外の選択肢への模索という知性を要求しなくて済んだが為に、ある部分では愚鈍なままに環境の一時的激変に耐えられなかったということが言える。それが恐竜が滅んだ理由であり、もし彼等の身体が巨大であっても、何らかの知性を同時に兼ね備えていたのなら、生延びた可能性もゼロではないだろう。
要するにエリートとはある環境に特化し過ぎていないということがある部分では進化論的には求められているのである。つまり一つの環境に特化し過ぎていることは、かなりその同一の条件下に於いてはエリートとして君臨しやすい。しかしそれは現代世界経済社会に於いてなどに散見される様に、フレクシブルな対応を求められる激変的タームに於いては特化され過ぎていないということが精神的にも技能的にも求められている。
勿論英語は重要だし、それが完璧であるなら、それだけで食べていけるとは言えるが、英語以外の語学に全く関心がなかったり、それを習得する意欲も能力も全くなかったりするよりは、いつ何時別の言語が自分が属する社会、共同体、国家で重要度が増すとも知れぬ場合には、英語+もう一つ別の言語への関心と情熱がある人の生活を救ってくれるということは大いにあり得る。
エリートは時代毎に地球進化論の歴史に於いてそうであった様にその条件を変えてきている。それは職業に於いてもそうである。
例えば大型コンピューターから小型化してきた時代の波でハードからソフトへと重要度が推移してきた歴史的経緯の中で、これからはハードもソフトもある時期が来たら、かなり安定してきて(需要的意味合いからも技術力的な意味合いからも)、不動点を模索し始め、今度はユーザーの天才が登場し、如何に既存の有益なメディアやツールやソフトを使いこなすかという局面に需要度がシフトしていっているものと思われる。
事実未だに情報摂取と、情報提供と、創造的アイデアの提供に於けるスピードがより求められている時代であることだけは確かである。
最早大学教授とか官僚であるとか、昔、常套的だった様な絵に描いた様なエリート像は有効ではなく、アウト・オブ・デイトであり、見てくれとか知識量とかイメージでエリートを推し量る時代そのものが終焉した、と言ってよい。
尤も見てくれとか服装とか物腰よりも、これからの真のエリートはある種の好奇心、何事も既成の概念に囚われないでいて、しかも多様な関心領域へとアンテナを張って、又それでいてのんびりと何事にも対応していて、且つ仕事が速いということが条件となっていくのではないだろうか?それでも尚傲慢で人の言うことを聴かないタイプの成員ではないということだけは変わりないまま引き継がれて行く気だけは、あくまで私の直観ではあるがあるのである。
それに未来のエリートとは厳密な意味で常に優秀である必要さえないかも知れない。適度に余り失敗のない様に全てをこなすのであれば、逆にある部分無知な部分が多くてさえ勤まる。つまり緊急の事態への対処(ある種の硬化した頭のインテリには不向きな)能力こそが求められているのではないだろうか?
それは走ることに特化して獲物に撃墜して咀嚼していた恐竜が顎も頭も進行方向に尖っていた形状から逸脱していった形状の、つまり大脳を格納するのに相応しい形状になっていった我々の祖先の様なタイプの恐竜がもしいたのなら(その中でも羽を特化させた鳥類だけは例外的に隕石衝突後も生き残った)哺乳類との間で強力なるライヴァル関係を築き上げたであろう様なタイプの人類の危機に対処し得る様なタイプの知性(それは前世紀までに求められた天才性とは異なったタイプの)が求められているのではないだろうか?
未来のエリートになり得る条件を満たしている者は全てに挫折してきた今の貴方かも知れない。
Monday, August 30, 2010
Monday, July 19, 2010
〔羞恥と良心〕第十六章 親近的盲目と憧れ
私達は案外自分では自分のことをよく分かっていない部分がある。それは人から言われて気がつくこともあるが、自分でも実は薄々分かっているのだ。案外自分自身で目を瞑って自分の実に対して見まいとしている、ということを。が目を塞いできた時期が長ければ長いほどその目を塞ぐことを決め込んだ事自体を忘却していってしまうものなのだ。
自分ではよく知っている積もりの多くの事柄に対して、実は我々は案外何も知らないままでいることもあるのかも知れない。その知らないままでいる事自体が、一番自分でよく知っている部分である、という矛盾がある事も多い訳だ。
例えばそれを実感させる顕著なこととは、親近的ではあるが自分とは全く異なったタイプであると勝手に思い込んでいるタイプの対象に対し、ある時意外と自分と相似した要素を発見する時などである。今の今まで勝手に全く自分とはかけ離れた対象であると思い込んでいたものの、その発見を通して意外と自分の中にそのものやこととの共通性を見出すことも珍しくはない。
逆に自分とは無縁で、親近関係にもない対象に対しては、勝手に偶像化してしまい、憧れを持つことは多い。それは盲目の信頼となって一切のそのことへの反省を寄せ付けないようになっていくことも多い。
逆に最初に述べた様な自分に近い自分と相似性を多く持つものやこととは、端的に近過ぎることで、案外そのものやことと自分自身との共通性に対しては目を塞ぎがちである。
それに対し親近的ではない対象に対し我々は容易に自分との共通性を見出せるものである。しかしそれは長く付きあってみると誤解である場合も多い。存外そのものやことがかなり容易に理解することが困難である要素を次第に発見していくのである。
確かに憧れの対象と化すことがあるわけだからそのものやことは魅力を湛えているのだろう。がその魅力自体は惹き付けられることとは裏腹に理解しやすいものとは限らない。
それに対し自分ではよく知っているにもかかわらず自分とは明らかに違うと決め込んでいるものやことに対し我々は実は案外その共通性に眼を塞いでいることを今更ながらに覚醒することがある。そういう時には唖然とするものだ。だがそうだと気付けば意外とその後の対応はしやすい。
要するに自分とは全く異なったタイプであると勝手に決め込んでいるものやことに対し、それらと自分自身との意外な共通性という要素はかなり羞恥を我々に催すものである場合が多いかも知れない。つまりその羞恥を催す要素こそが実は我々にそのものやことの実を見まいと無意識に構えさせてきたのである。
それに対し自分では惹き付けられてきたが故に他者にもその理由を説明しやすいと踏んできたものやことの中には、案外それが困難であることを気付いていくものやことも多い。それは勝手に理解しやすいものやこととして判断してきたに過ぎないものやことなのかも知れない。
ここでも我々は自分で自分自身の実を見まいとする羞恥感情がかなり我々自身を支配していることを知るのである。特に普段から頻繁に接している他者とか愛着のある事物や行為全体は、慣れているが故にその実に対し客観的に観れなくなっているということも大いにあり得るのだ。よく知っている積もりのものやことに対し今更ながらに冷徹な視線を注ぐこと自体が羞恥的感情を喚起する。しかし意外と慣れきってしまっているものやことに対し我々は時として意識的にそういった眼差しを注ぐ必要性がある。
そうする事で実際にはかなり遠い存在であるのに惹き付けられてきたものやこと(それを最初は知っていたつもりでも、そのものやことに惹かれていく内にその事を忘れ去ってしまっていた)に対し、冷静に観察すると、かなり異質な部分を発見していくに連れ我々は近親的なものやことの価値を再考する気持ちへとシフトしていくことも決して珍しくはない。
よく接するものやことに対し我々はどこかでいつでもじっくりと観察出来るのだからということで、ぞんざいに接してしまいがちである。故にこそ一番自分と近い部分や要素に対し我々はそれこそ自分と最もかけ離れた部分であり要素であると決め込んでしまうのだ。
これは陥穽である。我々は親近的盲目という事態に対してもっと覚醒的であるべきなのだ。
我々は卑近で親近的なものやことに対してその価値認識を怠っている贖罪心理が実は疎遠ではあるが、惹き付けられる他者や習慣、行為に対し一時的に魅力を持ってしまうという部分もあるのだ。そしてある時それが意外と自分自身の資質や感性とかけ離れている対象であると気付くのだ。
しかしどちらが本当に親近的関係のものやことで、どちらが本当は疎遠であるべき筋合いのものやことであるかという判断自体が相対的であり得るという判断も同時に成立し得よう。しかしそこはある程度直観的に判断していってよいし、そうすべきことも多いのではないだろうか?
人間は可能無限的存在ではあるが、実は極めて限定的にしか可能性など開かれていないとも言い得るのだ。自分が勝手知った経験的項目とそうではないものやこととの差異とは一番自分がよく知っているとも言える。
憧れとはある部分では逃避的対象であるとも言える。つまり卑近で親近的存在に対する価値評定とか直視を回避する為に暫定的にその都度必要とするものとして憧れという感情は利用される。自分が勝手知った存在とは却って直視を避けたくなる羞恥を催す対象であることだけは確かだ。その直視を避けさせるいい方便として憧れの対象を我々は探し出すというわけだ。
自分で最も遠いものであり、理解し難いものであると決め込んでいてその事自体に露ほども疑いを持たないものやことこそ、実は再考の余地はあり、案外自分自身の一番よく知った内実を具えたものやことである可能性とはそれ自体常に羞恥的感情を喚起させやすいものである。そのことと憧れの対象を模索していってしまうという心的傾向とは実は相補的に裏腹の関係にあると言えるだろう。その相関性に対する認識さえ忘れずにいたのなら、我々は親近的盲目自体が逃避感情を正当化する偶像を追い求めさせるという我々の心理の傾向に覚醒していくことが出来る。
事実はもっと単純であるという謂いもここでは意外と役に立つ、と言える。
自分ではよく知っている積もりの多くの事柄に対して、実は我々は案外何も知らないままでいることもあるのかも知れない。その知らないままでいる事自体が、一番自分でよく知っている部分である、という矛盾がある事も多い訳だ。
例えばそれを実感させる顕著なこととは、親近的ではあるが自分とは全く異なったタイプであると勝手に思い込んでいるタイプの対象に対し、ある時意外と自分と相似した要素を発見する時などである。今の今まで勝手に全く自分とはかけ離れた対象であると思い込んでいたものの、その発見を通して意外と自分の中にそのものやこととの共通性を見出すことも珍しくはない。
逆に自分とは無縁で、親近関係にもない対象に対しては、勝手に偶像化してしまい、憧れを持つことは多い。それは盲目の信頼となって一切のそのことへの反省を寄せ付けないようになっていくことも多い。
逆に最初に述べた様な自分に近い自分と相似性を多く持つものやこととは、端的に近過ぎることで、案外そのものやことと自分自身との共通性に対しては目を塞ぎがちである。
それに対し親近的ではない対象に対し我々は容易に自分との共通性を見出せるものである。しかしそれは長く付きあってみると誤解である場合も多い。存外そのものやことがかなり容易に理解することが困難である要素を次第に発見していくのである。
確かに憧れの対象と化すことがあるわけだからそのものやことは魅力を湛えているのだろう。がその魅力自体は惹き付けられることとは裏腹に理解しやすいものとは限らない。
それに対し自分ではよく知っているにもかかわらず自分とは明らかに違うと決め込んでいるものやことに対し我々は実は案外その共通性に眼を塞いでいることを今更ながらに覚醒することがある。そういう時には唖然とするものだ。だがそうだと気付けば意外とその後の対応はしやすい。
要するに自分とは全く異なったタイプであると勝手に決め込んでいるものやことに対し、それらと自分自身との意外な共通性という要素はかなり羞恥を我々に催すものである場合が多いかも知れない。つまりその羞恥を催す要素こそが実は我々にそのものやことの実を見まいと無意識に構えさせてきたのである。
それに対し自分では惹き付けられてきたが故に他者にもその理由を説明しやすいと踏んできたものやことの中には、案外それが困難であることを気付いていくものやことも多い。それは勝手に理解しやすいものやこととして判断してきたに過ぎないものやことなのかも知れない。
ここでも我々は自分で自分自身の実を見まいとする羞恥感情がかなり我々自身を支配していることを知るのである。特に普段から頻繁に接している他者とか愛着のある事物や行為全体は、慣れているが故にその実に対し客観的に観れなくなっているということも大いにあり得るのだ。よく知っている積もりのものやことに対し今更ながらに冷徹な視線を注ぐこと自体が羞恥的感情を喚起する。しかし意外と慣れきってしまっているものやことに対し我々は時として意識的にそういった眼差しを注ぐ必要性がある。
そうする事で実際にはかなり遠い存在であるのに惹き付けられてきたものやこと(それを最初は知っていたつもりでも、そのものやことに惹かれていく内にその事を忘れ去ってしまっていた)に対し、冷静に観察すると、かなり異質な部分を発見していくに連れ我々は近親的なものやことの価値を再考する気持ちへとシフトしていくことも決して珍しくはない。
よく接するものやことに対し我々はどこかでいつでもじっくりと観察出来るのだからということで、ぞんざいに接してしまいがちである。故にこそ一番自分と近い部分や要素に対し我々はそれこそ自分と最もかけ離れた部分であり要素であると決め込んでしまうのだ。
これは陥穽である。我々は親近的盲目という事態に対してもっと覚醒的であるべきなのだ。
我々は卑近で親近的なものやことに対してその価値認識を怠っている贖罪心理が実は疎遠ではあるが、惹き付けられる他者や習慣、行為に対し一時的に魅力を持ってしまうという部分もあるのだ。そしてある時それが意外と自分自身の資質や感性とかけ離れている対象であると気付くのだ。
しかしどちらが本当に親近的関係のものやことで、どちらが本当は疎遠であるべき筋合いのものやことであるかという判断自体が相対的であり得るという判断も同時に成立し得よう。しかしそこはある程度直観的に判断していってよいし、そうすべきことも多いのではないだろうか?
人間は可能無限的存在ではあるが、実は極めて限定的にしか可能性など開かれていないとも言い得るのだ。自分が勝手知った経験的項目とそうではないものやこととの差異とは一番自分がよく知っているとも言える。
憧れとはある部分では逃避的対象であるとも言える。つまり卑近で親近的存在に対する価値評定とか直視を回避する為に暫定的にその都度必要とするものとして憧れという感情は利用される。自分が勝手知った存在とは却って直視を避けたくなる羞恥を催す対象であることだけは確かだ。その直視を避けさせるいい方便として憧れの対象を我々は探し出すというわけだ。
自分で最も遠いものであり、理解し難いものであると決め込んでいてその事自体に露ほども疑いを持たないものやことこそ、実は再考の余地はあり、案外自分自身の一番よく知った内実を具えたものやことである可能性とはそれ自体常に羞恥的感情を喚起させやすいものである。そのことと憧れの対象を模索していってしまうという心的傾向とは実は相補的に裏腹の関係にあると言えるだろう。その相関性に対する認識さえ忘れずにいたのなら、我々は親近的盲目自体が逃避感情を正当化する偶像を追い求めさせるという我々の心理の傾向に覚醒していくことが出来る。
事実はもっと単純であるという謂いもここでは意外と役に立つ、と言える。
Wednesday, July 7, 2010
〔羞恥と良心〕第十五章 ツイッター上での人間関係論
現代人にとってブログの登場は誰しも自由に自分の意見を掲載することが出来るという意味で画期的だったが、ブログとはそもそも余り大勢の人達の目に触れられる可能性は最初から想定に入れていない。
その点ツイッターは全く別である。そもそも好きな人だけ訪れてくれればいいという開き直りとは異なったタイプのメディアとしてツイッターはある意味では現代人の心理をよく突いてスタートした。
つまり個々は孤独であり、一人で行動しているという様相が濃厚にある現代人にとって携帯電話の存在が都会人的であると田舎的感覚の人間であるとに関わらず個的な空間で言葉を発することが如何に我々にとって本来的に楽であるかということをその登場の後で知った。そしてまさにツイッターはその携帯電話とタイアップして存在している。
しかもツイッターではフォロワー数を競い合うという規則的呪縛のない暗黙の心理的ルールがある。そしてフォロワーの人数だけでなく、フォロワーの参加理由や参加根拠と、フォロワー自体の人間的性格、つまりどういう目的でツイッターを利用するのかという考えを巡る共感者同士が次第に集合していく様になるタイプの新しい人間関係を構築しつつある。
しかも実際に会って話す人間関係と違ってツイッター上でだけ知人であること自体に別段不自然さを感じない現代人にとって容易に新たな知人を作ることも出来れば、気に入らなければ容易にこれまで親しくしてきたフォロワー達と絶縁することも出来る。
それはかなり心理的にイージーである様に思えてその実かなりその都度真剣に言葉の遣り取りをする様になってもいる。
フォロワー同士の繋がり自体も外部からも比較的容易に推察することが出来る。つまり実際の対人関係の場合、ある限定された性格のサークルに属している場合(会社にせよ、学会にせよ、趣味のサークルにせよ、株主総会にせよ)相手の対人関係とは相互に親しくなり告白し合うしか知りようがないが、ツイッターではそこが違う。全ての対人関係は少なくともツイッターユーザー間では表面に露出している。ダイレクトメールだけが辛うじてプライヴァシーを確保する事が出来るくらいだ。
ミクシーの場合我々は参加する際に既に参加者の誰かに紹介して貰わなければならないが、ツイッターではそういった面倒は一切ない。
しかも多くのユーザーにとって注目を集めているユーザーを知ることも容易である。
ツイッターでの言葉の呟きはある意味ではツイッターというシステム自体が用意されているが故に初めて可能となった本音でもある。つまり元々この様な本音を呟けるメディアのない時代では考えられもしない自分の中のアウトロー的性格、自分の中の陰鬱な性格的要素、自分の中の自由奔放な言葉の選択とか呟く内容の選択といったこと自体を知る為にこそ多くのユーザーが利用している、という側面も否めない。
勿論ツイートの内容も傾向も社会的地位から職種、年齢、性別、民族によって異なるという面はあるが、同時にかなり多くのそういった違いを踏まえても尚顕在化している共通性もあるのだという自覚は多くのユーザーを依存的な魔力へと惹きつけている。
人間は確かに個々違う。しかし同時にどんなに違う境遇でも言葉の遣り取りに於いてはかなり理解し合える部分もある。それは実際にツイッターからではなく普通の集団に属していて知遇を得る場合なら決して親しくなれない様な相手とさえツイッター上では親しくなれ、そのツイッター上の交際から実際の対人関係へと発展していくという新たな人間関係構築の可能性が開けてきたとも言えるのだ。
違うのに、同じであるという言語行為を通した対人関係が職種も社会的地位も著名人でない限りたとえ覆面的に自己の姿を隠蔽し、性別さえ装っていたとしても尚、理解はし合えるという事実の前で、我々は今更ながら言葉とは、それを通した意思疎通に於いて実際社会でのパワーバランスに伴う偽装性を剥ぎ取ることが可能であるという意思疎通性格に於いて我々は社会的地位、経済的優位劣位に関係なく対人的に触れ合う場を見出したとも言い得るのだ。
羞恥は実際の所社会的規約や実際社会の制約、法的秩序によって自然と対人的に構える人間に付与される。しかしそういった対人偽装性や建前性自体への維持や保有事実に対しある種の虚しさを感じる現代人は多く、その虚しさの共有事実こそが現代人にとっての心のオアシスを我々が自然と求める結果となっている。つまりそこにこそ現代人は社会的制約を度外視した自由と良心を読み取ることをしているとも言えるのだ。
ツイッターの無秩序的呟きこそ制限すべきではなく、今後もそれを通して実際の行動に移行させることを未然に防止する様な効用と共に、却ってツイッターで呟くことで得てしまうストレスや苦悩を知ることを通して、実際私達は自分の心をどう維持していくべきかという基本的な命題に行き着く。
そしてツイッター上での対人関係はそのことを相互に語り合う場として相応しいと言える。偉大な意思疎通自体が含有するアマチュアリズムの存在理由によって、今後は逆にプロ執筆家のプロ活動自体の様相さえどんどん変えていくことだろう。そしてこれまでプロであった人達がアマチュアになったり、これまでアマチュアであった人達がプロに転向していく様な様相的流動性も益々顕在化していくだろう、とだけは言える気がする。
その点ツイッターは全く別である。そもそも好きな人だけ訪れてくれればいいという開き直りとは異なったタイプのメディアとしてツイッターはある意味では現代人の心理をよく突いてスタートした。
つまり個々は孤独であり、一人で行動しているという様相が濃厚にある現代人にとって携帯電話の存在が都会人的であると田舎的感覚の人間であるとに関わらず個的な空間で言葉を発することが如何に我々にとって本来的に楽であるかということをその登場の後で知った。そしてまさにツイッターはその携帯電話とタイアップして存在している。
しかもツイッターではフォロワー数を競い合うという規則的呪縛のない暗黙の心理的ルールがある。そしてフォロワーの人数だけでなく、フォロワーの参加理由や参加根拠と、フォロワー自体の人間的性格、つまりどういう目的でツイッターを利用するのかという考えを巡る共感者同士が次第に集合していく様になるタイプの新しい人間関係を構築しつつある。
しかも実際に会って話す人間関係と違ってツイッター上でだけ知人であること自体に別段不自然さを感じない現代人にとって容易に新たな知人を作ることも出来れば、気に入らなければ容易にこれまで親しくしてきたフォロワー達と絶縁することも出来る。
それはかなり心理的にイージーである様に思えてその実かなりその都度真剣に言葉の遣り取りをする様になってもいる。
フォロワー同士の繋がり自体も外部からも比較的容易に推察することが出来る。つまり実際の対人関係の場合、ある限定された性格のサークルに属している場合(会社にせよ、学会にせよ、趣味のサークルにせよ、株主総会にせよ)相手の対人関係とは相互に親しくなり告白し合うしか知りようがないが、ツイッターではそこが違う。全ての対人関係は少なくともツイッターユーザー間では表面に露出している。ダイレクトメールだけが辛うじてプライヴァシーを確保する事が出来るくらいだ。
ミクシーの場合我々は参加する際に既に参加者の誰かに紹介して貰わなければならないが、ツイッターではそういった面倒は一切ない。
しかも多くのユーザーにとって注目を集めているユーザーを知ることも容易である。
ツイッターでの言葉の呟きはある意味ではツイッターというシステム自体が用意されているが故に初めて可能となった本音でもある。つまり元々この様な本音を呟けるメディアのない時代では考えられもしない自分の中のアウトロー的性格、自分の中の陰鬱な性格的要素、自分の中の自由奔放な言葉の選択とか呟く内容の選択といったこと自体を知る為にこそ多くのユーザーが利用している、という側面も否めない。
勿論ツイートの内容も傾向も社会的地位から職種、年齢、性別、民族によって異なるという面はあるが、同時にかなり多くのそういった違いを踏まえても尚顕在化している共通性もあるのだという自覚は多くのユーザーを依存的な魔力へと惹きつけている。
人間は確かに個々違う。しかし同時にどんなに違う境遇でも言葉の遣り取りに於いてはかなり理解し合える部分もある。それは実際にツイッターからではなく普通の集団に属していて知遇を得る場合なら決して親しくなれない様な相手とさえツイッター上では親しくなれ、そのツイッター上の交際から実際の対人関係へと発展していくという新たな人間関係構築の可能性が開けてきたとも言えるのだ。
違うのに、同じであるという言語行為を通した対人関係が職種も社会的地位も著名人でない限りたとえ覆面的に自己の姿を隠蔽し、性別さえ装っていたとしても尚、理解はし合えるという事実の前で、我々は今更ながら言葉とは、それを通した意思疎通に於いて実際社会でのパワーバランスに伴う偽装性を剥ぎ取ることが可能であるという意思疎通性格に於いて我々は社会的地位、経済的優位劣位に関係なく対人的に触れ合う場を見出したとも言い得るのだ。
羞恥は実際の所社会的規約や実際社会の制約、法的秩序によって自然と対人的に構える人間に付与される。しかしそういった対人偽装性や建前性自体への維持や保有事実に対しある種の虚しさを感じる現代人は多く、その虚しさの共有事実こそが現代人にとっての心のオアシスを我々が自然と求める結果となっている。つまりそこにこそ現代人は社会的制約を度外視した自由と良心を読み取ることをしているとも言えるのだ。
ツイッターの無秩序的呟きこそ制限すべきではなく、今後もそれを通して実際の行動に移行させることを未然に防止する様な効用と共に、却ってツイッターで呟くことで得てしまうストレスや苦悩を知ることを通して、実際私達は自分の心をどう維持していくべきかという基本的な命題に行き着く。
そしてツイッター上での対人関係はそのことを相互に語り合う場として相応しいと言える。偉大な意思疎通自体が含有するアマチュアリズムの存在理由によって、今後は逆にプロ執筆家のプロ活動自体の様相さえどんどん変えていくことだろう。そしてこれまでプロであった人達がアマチュアになったり、これまでアマチュアであった人達がプロに転向していく様な様相的流動性も益々顕在化していくだろう、とだけは言える気がする。
Wednesday, May 19, 2010
〔羞恥と良心〕第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる
現代人にとってアイデンティティーは完全に仕事人間としての誇りであるとか、ある業界で生きることの誇りである。
従って彼等にとっての羞恥は勤続何年という形で形成された「~家としての」「~者としての」「~―としての」「~イスト(リスト)としての」「~人としての」感性に色濃く影響された人生観である。
それはかなりバイアスがかかっていて、しかも始末の悪いことには私たちの先達の世代ではリタイアした後にどういう人生を歩むかという事が一部官僚などでは天下りなどによって敷かれたレールの上を進んでいけばいいだろうが、そうではなく満期一杯まで勤め上げてからいざ、地域社会にリタイア者としての生活を営んでいこうにも、妻からは粗大ゴミ扱いをされ、地域社会に溶け込むには余りにも偉大な職業的誇りがあって、それが禍して遂には休日にはゴルフなどに出かけていたそういう習慣も徐々になくなって、終いには毎日が休日であることに耐えられなくなるのだ。
要するに社会学者テンニースが考えた時代と今とは隔世の感がある。何故なら当時の社会では完全に資本主義社会とか財閥とかが幅を利かせ、失業者の群れがあった。勿論今日でもそれは同じかも知れない。
しかし基本的なところで当時の様に、では失業をしたからと言って帰っていくべき共同体などとっくになくなっているのである。
従ってどんなに都会の片隅でいじましく余り儲かりもしない営業をしていても、或いは失業しても、それまでに培ってきた職業的ノウハウを捨て去って一から出直すという事自体が大変である御仁も、そうではなく完全に転職自体に慣れている御仁も、人工的な都市空間に彷徨う都市徘徊者としての日常の中にこそ、ゲマインシャフトを構成し、寧ろかつてのゲマインシャフトとしての地域、地方共同体の方が人工的に観光化された形で人間関係に於いても重圧がある。そこではピアプレッシャーとは、相互にピアプレッシャーを感じずに生活していけない事自体への面当てである。リタイア老人の中で地方社会で顔でいる人達が挙って若者衆や個人営業の店主達と結託して都会からのホワイトカラーリタイア組を骨抜きにして、かつての威光を徹底的に失わせる。俺達こそがここを支配しているのだ、という触れ込みで。
それはテンニースの時代に彼が考えていた資本主義社会の完成以前のゲマインシャフトでは決してない。既にステレオタイプ化されたゲゼルシャフトの雛形である。
一部官僚達と違って民間企業のお偉方達は端的に一切の職業的ノウハウによって培った自分の習慣にとっての自然をリタイア後に棄てきれない。そこで地方ゲマインシャフトであった場所での顔役達は早く社会からドロップアウトして年金生活をしながら趣味をしている人達である。
従って仕事人間は何らかの形でリタイア後に今度は一切の年功序列も勤続年数も関係のない自力での転職を果たさねばならない。彼等にとっては既に職場こそがゲマインシャフトであり、妻達に独占された地域社会での対人関係こそは自分の人格のほんの一部だけを偽装して晒すゲゼルシャフトなのである。
これからは特にネットインフラが整備されてから就業年齢に達した人達が未来に於いてどんどんリタイアしていくとなると、次第に寛げる空間とは職場であり、職場の近くにある店舗であり、居酒屋である。しかも大半の女性も既にキャリアをどんどん積んで独身族も大勢になってきている。個人の自宅でパソコン一つで勝負していたとしても、既に地域共同体は故郷ではない。彼等にとってはネットインフラ上での交流こそがゲマインシャフトなのである。
彼等にとっての羞恥はかつてどういう職業に就いていたかであり、夫婦関係など十の昔に崩壊しているのだ。離婚していずに、結婚を持続していたとしても尚彼等は殆ど形式だけの夫婦である。
既に良心という精神さえ彼等にとっては職場の倫理であり、対外的な対人処理術である。従ってお互いに配偶者を粗大ゴミとして取り扱う事自体を忌避したいという願望があるので、何も無理してまで相手の羞恥を妻は夫を妻同士の付き合いの中に放り込むことなどないし、夫は夫で男同士の付き合いを妻にまで紹介する必要性自体をさらさら感じてなどいない。
寧ろその様に不干渉である事自体が相互に良心の発動であり、そうする事によって未然に相互の羞恥を感じさせない様に配慮しているのだ。つまりそれこそが夫婦愛というわけだ。
私達の行動の多くは既に25歳を超えたなら、大概が習慣化されてくる。それは殆ど自動的に身体が勝手に動く。それはまるで慣れ親しんだ夫婦同士のセックスの様なものである。パソコンを開く、メールチェックをする、ツイートする、そのレスを送信する、昨晩コンビニで買って冷蔵庫に入れていたハンバーガーを口に放り込む、コンビニを出て余分に買っておいたドトールコーヒーをレンジでもう一度温める。
そこには素の自分を晒すという事の羞恥を相互に忌避し合う社会成員の習慣化された行動論的なコードがある。
その習慣化されたコードの方が既に私達にとってのゲマインシャフトであり、それは確かに一面ではプライヴァシーの確保でもあるわけだが、言語行為のプライヴァシー性とは原始社会から古代、中世期までの方が寧ろ徹底化されていて、逆に今日では2ちゃんねる的存在に於いて徐々にそれを剥ぎ取る傾向にあると言える。
つまりプライヴァシーを剥ぎ取る行為自体が一種のプライヴァシーになっているのである。その仕方のノウハウ自体にある種の差別化において商標登録的アイデンティファイされたものを流用する習慣がツイッターのアバターなどに於いても既に顕在化している。
そこでは欧米の様に無記名、匿名の書き込みをする事が少ない社会でも、日本の様に無記名、匿名コメントに於いても同じである。
ネットインフラ上での対人関係の方こそ素の自分を見せ得るのであり、逆に夜中にコンビニで買い物をする時明らかにそこで出会う人達は完全に他人であり、マンションで生活する人達にとって擦れ違う人達の一部がかつてのゲマインシャフト的友愛性に彩られ、大半はそうではないのだ。
つまりブログ仲間、ツイッターフォロワー同士こそが私達にとってのゲマインシャフト化していて、地方の観光都市の対人関係こそがゲゼルシャフト(特にネット依存症的都市生活者にとっては)なのである。
従って彼等にとっての羞恥は勤続何年という形で形成された「~家としての」「~者としての」「~―としての」「~イスト(リスト)としての」「~人としての」感性に色濃く影響された人生観である。
それはかなりバイアスがかかっていて、しかも始末の悪いことには私たちの先達の世代ではリタイアした後にどういう人生を歩むかという事が一部官僚などでは天下りなどによって敷かれたレールの上を進んでいけばいいだろうが、そうではなく満期一杯まで勤め上げてからいざ、地域社会にリタイア者としての生活を営んでいこうにも、妻からは粗大ゴミ扱いをされ、地域社会に溶け込むには余りにも偉大な職業的誇りがあって、それが禍して遂には休日にはゴルフなどに出かけていたそういう習慣も徐々になくなって、終いには毎日が休日であることに耐えられなくなるのだ。
要するに社会学者テンニースが考えた時代と今とは隔世の感がある。何故なら当時の社会では完全に資本主義社会とか財閥とかが幅を利かせ、失業者の群れがあった。勿論今日でもそれは同じかも知れない。
しかし基本的なところで当時の様に、では失業をしたからと言って帰っていくべき共同体などとっくになくなっているのである。
従ってどんなに都会の片隅でいじましく余り儲かりもしない営業をしていても、或いは失業しても、それまでに培ってきた職業的ノウハウを捨て去って一から出直すという事自体が大変である御仁も、そうではなく完全に転職自体に慣れている御仁も、人工的な都市空間に彷徨う都市徘徊者としての日常の中にこそ、ゲマインシャフトを構成し、寧ろかつてのゲマインシャフトとしての地域、地方共同体の方が人工的に観光化された形で人間関係に於いても重圧がある。そこではピアプレッシャーとは、相互にピアプレッシャーを感じずに生活していけない事自体への面当てである。リタイア老人の中で地方社会で顔でいる人達が挙って若者衆や個人営業の店主達と結託して都会からのホワイトカラーリタイア組を骨抜きにして、かつての威光を徹底的に失わせる。俺達こそがここを支配しているのだ、という触れ込みで。
それはテンニースの時代に彼が考えていた資本主義社会の完成以前のゲマインシャフトでは決してない。既にステレオタイプ化されたゲゼルシャフトの雛形である。
一部官僚達と違って民間企業のお偉方達は端的に一切の職業的ノウハウによって培った自分の習慣にとっての自然をリタイア後に棄てきれない。そこで地方ゲマインシャフトであった場所での顔役達は早く社会からドロップアウトして年金生活をしながら趣味をしている人達である。
従って仕事人間は何らかの形でリタイア後に今度は一切の年功序列も勤続年数も関係のない自力での転職を果たさねばならない。彼等にとっては既に職場こそがゲマインシャフトであり、妻達に独占された地域社会での対人関係こそは自分の人格のほんの一部だけを偽装して晒すゲゼルシャフトなのである。
これからは特にネットインフラが整備されてから就業年齢に達した人達が未来に於いてどんどんリタイアしていくとなると、次第に寛げる空間とは職場であり、職場の近くにある店舗であり、居酒屋である。しかも大半の女性も既にキャリアをどんどん積んで独身族も大勢になってきている。個人の自宅でパソコン一つで勝負していたとしても、既に地域共同体は故郷ではない。彼等にとってはネットインフラ上での交流こそがゲマインシャフトなのである。
彼等にとっての羞恥はかつてどういう職業に就いていたかであり、夫婦関係など十の昔に崩壊しているのだ。離婚していずに、結婚を持続していたとしても尚彼等は殆ど形式だけの夫婦である。
既に良心という精神さえ彼等にとっては職場の倫理であり、対外的な対人処理術である。従ってお互いに配偶者を粗大ゴミとして取り扱う事自体を忌避したいという願望があるので、何も無理してまで相手の羞恥を妻は夫を妻同士の付き合いの中に放り込むことなどないし、夫は夫で男同士の付き合いを妻にまで紹介する必要性自体をさらさら感じてなどいない。
寧ろその様に不干渉である事自体が相互に良心の発動であり、そうする事によって未然に相互の羞恥を感じさせない様に配慮しているのだ。つまりそれこそが夫婦愛というわけだ。
私達の行動の多くは既に25歳を超えたなら、大概が習慣化されてくる。それは殆ど自動的に身体が勝手に動く。それはまるで慣れ親しんだ夫婦同士のセックスの様なものである。パソコンを開く、メールチェックをする、ツイートする、そのレスを送信する、昨晩コンビニで買って冷蔵庫に入れていたハンバーガーを口に放り込む、コンビニを出て余分に買っておいたドトールコーヒーをレンジでもう一度温める。
そこには素の自分を晒すという事の羞恥を相互に忌避し合う社会成員の習慣化された行動論的なコードがある。
その習慣化されたコードの方が既に私達にとってのゲマインシャフトであり、それは確かに一面ではプライヴァシーの確保でもあるわけだが、言語行為のプライヴァシー性とは原始社会から古代、中世期までの方が寧ろ徹底化されていて、逆に今日では2ちゃんねる的存在に於いて徐々にそれを剥ぎ取る傾向にあると言える。
つまりプライヴァシーを剥ぎ取る行為自体が一種のプライヴァシーになっているのである。その仕方のノウハウ自体にある種の差別化において商標登録的アイデンティファイされたものを流用する習慣がツイッターのアバターなどに於いても既に顕在化している。
そこでは欧米の様に無記名、匿名の書き込みをする事が少ない社会でも、日本の様に無記名、匿名コメントに於いても同じである。
ネットインフラ上での対人関係の方こそ素の自分を見せ得るのであり、逆に夜中にコンビニで買い物をする時明らかにそこで出会う人達は完全に他人であり、マンションで生活する人達にとって擦れ違う人達の一部がかつてのゲマインシャフト的友愛性に彩られ、大半はそうではないのだ。
つまりブログ仲間、ツイッターフォロワー同士こそが私達にとってのゲマインシャフト化していて、地方の観光都市の対人関係こそがゲゼルシャフト(特にネット依存症的都市生活者にとっては)なのである。
Tuesday, April 20, 2010
〔羞恥と良心〕第十三章 言語とはプライヴァシーの起源である
我々は言語活動をすることによって、寧ろ内的世界を獲得した、と言える。それは端的に言語自体がプライヴァシーを作ってきたということである。
例えば我々は何を他者に語っても、もっと何か言い足りないことがあるように常に思える。だがそれは内的世界が言語では表現し尽くせないほど豊かなのではない。それは言語自体がそこまで我々に思念させる力があるということ以外のことではないのだ。
言語は通常何かを伝達する為のものである、という位相でのみ語られてきた。
だが我々はもう一度よくその事実へ再考の余地を与えよう。
つまり私たちは語る者の真意、本音を語ることを抑制する意図として言語を捉え直す必要がありはしないだろうか?
言語行為が他者間で遣り取りされることは、その言葉の意味がどんなものであれ他者に痛烈な作用を齎すということだが、それは逆に言えば、我々が脳内で言語を通して考える能力がそれだけかなり広範囲であるということを意味する。故にその思考(少なくともここで今考えている言語を通した)の全てを他者に伝えるという愚を我々の理性は承知している筈である。ならば言語行為が進化してきたことの最大の理由とは本音を言い合うものだと我々の祖先が考えたのではない筈だ。本音とか意識とかクオリアといった概念自体が、言語によって生み出されている。それは一種の言語による幻想であり、そんなものは心の内部には実在しないと私は考えているのである。
例えば通常言葉とはそれによって他者を誹謗中傷する為に進化したとは到底思えない。もしそんなことの為の道具でだけあったのであれば、とっくに言葉等淘汰されてきた筈だ、と考えることの方がより自然であるからだ。
真意とは常に心の内奥で作られている。それは私達の思考によってである。そしてその真意が少なくとも他者には言うべきことではないと自覚している限り、それは言語による思考である。しかしそれを真意である故その真意を隠蔽して建前だけを語っていると自己自身を認識しているとすればそれは誤りである。
何故ならそれ自体が一つの言語的思考の過程であるとか経路の一つであるに過ぎないからである。
つまり私たちはそれを意識してか薄々かは別として曲がりなりにも知っているからこそ、相手に何もかも伝えていいとは思わず抑制的に言葉を利用するのだ。だから逆に言えば哲学などでよく語られている様に何かを言う為に「本当の気持ちや心を断念する」という考え自体が実は一種の言語的思考の過程や経路自体が我々に与える幻想なのである。
つまり私達が心の実体であるとか真意や本音だと思っているものの方が実はそうではなく只単に幻想であり、それが真意だとしたら告げられるべき内容ではない、要するに内容的に芳しいものではないと自覚して、それを抑制して語らずに済ます事自体の方を真意と呼ぶべきなのである。又そうであるが故に、つまり直接芳しい内容のこと(少なくとも事実の隠蔽という意味では決してなく、心に思い浮かんだことの内容が告げるべきではないと思った場合)それを直接伝える事を抑制することを心がけたが故に言語行為は今日にまで進化を遂げたと言うべきではないだろうか?
つまり形を変えて言えば、弁解の余地を相互に与え合うことで私達は言語を発展させてきたのである。
言語を、本音を言い合う為に進化したのではなく、相互に建前を踏襲する為に進化したと捉えた方がすっきりする。寧ろ建前の方こそ意志であり本音なのだ。そこら辺は中島義道の著作である「時間と自由」の論述が極めて参考になると私は考える。
もし今私が述べたことが正しいとすれば、言語とは言い訳の為の説明=論理思考能力を各発語者に要求する形で共同体内に進化してきた、と言えることとなる。
言い訳=弁解は個人の内面的感情に左右されずにそれ自体で言語行為に於いて、通用する故責任倫理に敵っている。
言語行為上の意味論とはある発語文及びそこで伝達される意味を伝達する成員への差別しなさである。つまりそこに言語の真理が「意味伝達行為が責任化されている」ということであることを示している。つまりある発語内容の持つ力、意味の真理がその発語者の人格査定とは無縁に成立している、という事が最も重要なのである。
もし私達の言語行為上で発語毎にある発語者固有の特権的なものであり得たなら、私たちは何の意味も持てないこととなろう。然るに我々が真意とか本音と思えるものの大半は思念上での思いつきにしか過ぎないし、或いはそう捉えるべきなのである(哲学も又そのような決意であるべきだ)。
思考内容の持つ様相はその都度の状況依拠的であるも、その意味は不変且つ万民に特権化されなく共有されるというところに言語の持つ大きな力と意義があると捉えるべきなのである。
例えば我々は何を他者に語っても、もっと何か言い足りないことがあるように常に思える。だがそれは内的世界が言語では表現し尽くせないほど豊かなのではない。それは言語自体がそこまで我々に思念させる力があるということ以外のことではないのだ。
言語は通常何かを伝達する為のものである、という位相でのみ語られてきた。
だが我々はもう一度よくその事実へ再考の余地を与えよう。
つまり私たちは語る者の真意、本音を語ることを抑制する意図として言語を捉え直す必要がありはしないだろうか?
言語行為が他者間で遣り取りされることは、その言葉の意味がどんなものであれ他者に痛烈な作用を齎すということだが、それは逆に言えば、我々が脳内で言語を通して考える能力がそれだけかなり広範囲であるということを意味する。故にその思考(少なくともここで今考えている言語を通した)の全てを他者に伝えるという愚を我々の理性は承知している筈である。ならば言語行為が進化してきたことの最大の理由とは本音を言い合うものだと我々の祖先が考えたのではない筈だ。本音とか意識とかクオリアといった概念自体が、言語によって生み出されている。それは一種の言語による幻想であり、そんなものは心の内部には実在しないと私は考えているのである。
例えば通常言葉とはそれによって他者を誹謗中傷する為に進化したとは到底思えない。もしそんなことの為の道具でだけあったのであれば、とっくに言葉等淘汰されてきた筈だ、と考えることの方がより自然であるからだ。
真意とは常に心の内奥で作られている。それは私達の思考によってである。そしてその真意が少なくとも他者には言うべきことではないと自覚している限り、それは言語による思考である。しかしそれを真意である故その真意を隠蔽して建前だけを語っていると自己自身を認識しているとすればそれは誤りである。
何故ならそれ自体が一つの言語的思考の過程であるとか経路の一つであるに過ぎないからである。
つまり私たちはそれを意識してか薄々かは別として曲がりなりにも知っているからこそ、相手に何もかも伝えていいとは思わず抑制的に言葉を利用するのだ。だから逆に言えば哲学などでよく語られている様に何かを言う為に「本当の気持ちや心を断念する」という考え自体が実は一種の言語的思考の過程や経路自体が我々に与える幻想なのである。
つまり私達が心の実体であるとか真意や本音だと思っているものの方が実はそうではなく只単に幻想であり、それが真意だとしたら告げられるべき内容ではない、要するに内容的に芳しいものではないと自覚して、それを抑制して語らずに済ます事自体の方を真意と呼ぶべきなのである。又そうであるが故に、つまり直接芳しい内容のこと(少なくとも事実の隠蔽という意味では決してなく、心に思い浮かんだことの内容が告げるべきではないと思った場合)それを直接伝える事を抑制することを心がけたが故に言語行為は今日にまで進化を遂げたと言うべきではないだろうか?
つまり形を変えて言えば、弁解の余地を相互に与え合うことで私達は言語を発展させてきたのである。
言語を、本音を言い合う為に進化したのではなく、相互に建前を踏襲する為に進化したと捉えた方がすっきりする。寧ろ建前の方こそ意志であり本音なのだ。そこら辺は中島義道の著作である「時間と自由」の論述が極めて参考になると私は考える。
もし今私が述べたことが正しいとすれば、言語とは言い訳の為の説明=論理思考能力を各発語者に要求する形で共同体内に進化してきた、と言えることとなる。
言い訳=弁解は個人の内面的感情に左右されずにそれ自体で言語行為に於いて、通用する故責任倫理に敵っている。
言語行為上の意味論とはある発語文及びそこで伝達される意味を伝達する成員への差別しなさである。つまりそこに言語の真理が「意味伝達行為が責任化されている」ということであることを示している。つまりある発語内容の持つ力、意味の真理がその発語者の人格査定とは無縁に成立している、という事が最も重要なのである。
もし私達の言語行為上で発語毎にある発語者固有の特権的なものであり得たなら、私たちは何の意味も持てないこととなろう。然るに我々が真意とか本音と思えるものの大半は思念上での思いつきにしか過ぎないし、或いはそう捉えるべきなのである(哲学も又そのような決意であるべきだ)。
思考内容の持つ様相はその都度の状況依拠的であるも、その意味は不変且つ万民に特権化されなく共有されるというところに言語の持つ大きな力と意義があると捉えるべきなのである。
Friday, April 2, 2010
〔羞恥と良心〕第十二章 言語と羞恥
私たちは相手のことを知りたいと願う。親しくなればそれは当然のことである。しかし極めて重要なことだが、相互に相手のことを全て知りたいと願うからこそ、多くの対人関係は破綻するのだ。それは言語というものの存在理由を理解すれば我々は納得出来ることではないだろうか?
何故なら言語とはそもそも相手の全てを知るということにおいて、相手自身が極度の嫌悪感、警戒心を持つからこそ、そのことを相手がこちら側に拒絶することを一定の緩衝地帯としてのロールを担ったものだからである。
言語とは端的に全てを告白し合う為に設けられた道具ではない。寧ろそれを避ける為に、あるいはそれが本質的には不可能であることを相互に熟知していた存在者間において初めて成立し得たものであったのである。
その意味では言語とは羞恥を相互に認め合うという作用において成立する。それは人類が最初に着衣の習慣を身につけたのとほぼ同時期であった可能性もある。尤もその立証は人類学者諸氏にお任せしよう。
要するに言語とは相互に全ての感情を相手に伝えることが出来ないという物理的諦念と共に、それが仮に出来たとしても、決してそれを相手に相互に示し合いたくはないという歴然とした事実によってのみ命脈を保持し得るものである。
つまり他者存在とはそれ自体で一つの壁である。例えば相手のちょっとした仕草とか物言い自体に対して不快感を抱いていたとしても尚我々はその全てに対して一々苦情など言わない。勿論それが度を過ぎたなら必ず何か一言は言いたくなるし、言わずにはおれまい。しかし些細なことには目を瞑る。
その限度や目を瞑る内容自体はある意味ではかなり民族間に差異があるだろうし、個人間にも差異は存在しよう。それはある地域や地方では文化習俗的に当然のことが、別の地域、地方では非常識であるような意味で。
例えば大体都市部(特にマンション街や山の手的区域)では隣人に対してそれほどお節介をしないということは不文律的に常識化しているが、地方では、あるいは伝統的文化都市、あるいは一般的に下町的区域ではそうではないというような差異は至る所で散見出来る。
しかしそれは地域、区域的習慣の差異であり、個人間の差異はそれよりはずっと深刻である。例えば人に言えることと、言えないことということには当然ながら差異がある。
そしてある人にとって容易に他者に告げられることが、別の人にとっては耐えられず、そのことは別の人にとって容易なことを、ある人にとって困難なことにしているという意味でかなり深刻である。
例えば私はかなり多くのことを他人には一切語りたくはなくそれこそ墓場まで自分一人で抱え込んで死んでいきたいとさえ考えている。
恐らくそういったことは多く都市部でも地方でもあり得るだろう。
しかしよく考えてみよう。言葉とは相手がいなければ意味がないものである。だからウィトゲンシュタインはそのことを常識とする世界に対して、アンチを唱えたとも受け取れる。勿論そんな単純なことではないのだ。それは恐らく世界に対して、個というものの在り方を巡って脳内で考えあぐねること全てが他者一般と極度に乖離していたということに起因するものと思われる。だがそのルドウィヒによるトライアルとは実は、その常識において順応し得る(あるいは仕方なしにそうする)ことも、拒絶することも含めて一つの制度を生きるということ、言葉を使用して生活するということはそういうことだという確信の下で、ではその制度とは一体何か、私とは制度と共に派生する意識であるのかという問いが彼を哲学へと駆り立てた。そのことを永井均は独我論という病の治癒のために彼が哲学をしたと捉える。
もう一つ言語にも責任があるということだ。一つに言語はそれ自体その言語を使用する民族に固有の性格によって決定されている部分もあるが、極めて偶然的である言語構造自体が民族に固有の文化を育むという側面もある。
例えば日本語では主語+動詞+目的語のような英語の構造と異なっていて、端的にそれ以外の英語にはない助詞、形容動詞というものがある。とりわけ助詞の使用の仕方で男女の言葉遣いを峻別したり、相手の社会的地位とか立場に応じて弁別したりして使用するということが当然となっている。これは意味論的には他者一般に対して、つまり相対する存在者に対して純粋に抽象的意味論的対話をすることを困難にしている。
つまり相手に応じて「言って善いこと」とか「訊いて善いこと」といった基準を厳密に査定していく方向へと流れやすい。助詞の中に重要な部分として敬語があるからだ。
それは永井均も日本語には英語で言うところのIとかyouとか以外の、「俺」「おいら」「あたい」「あたし」「わし」といった多くの語彙があることを指摘する。
それは配慮という行為自体を自発的なものとするのではなく、制度的な習慣にしようとする民族性を表わしている。
尤も英語世界の一つであるアメリカでも今度は宗教倫理的な不文律は支配しているから、別箇の文化的強制を多くの人たちは感じているという実態はある。そして日本語のように助詞がないということが、逆に抑揚とかストレス、息継ぎ的な表現でニュアンスを示し合うという別の形での工夫は現出することとなるわけだ。
だが再び日本語に戻ると、このことは言語自体が極めて恣意的にその都度の状況に応じて弁別するという意味ではソフィスティケートされてはいるが、哲学的誠実性においては、極めて呪縛が強い、本音を謂い難いものにしている。
つまり良心といったものは本来自発的、内発的なものであるべきであるという倫理査定的には、礼儀、礼節という制度上での規約とは甚だ自発性とか内発性を削ぐ結果となっている。つまりそれが礼儀だから、ということ自体に既に有無を言わさぬ制度、規約、文化的強制からの呪縛、言ってみれば自立した個の考えを全て無視する不文律的構造が支配している。
これは年功序列意識とも大いに関係がある。
しかし同時に日本では既に明治期において一回、それまでの日本文化を徹底的に脱亜入欧という形で欧米化してきている。これは公官庁における書類の取り扱いとか上限関係において顕著である。
しかしそれはあくまで公的場においてのみであり、井戸端会議的私的空間では通用しない。そのことを恐らくかつて作家の井沢元彦にして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのであろう。
日本人の思い遣り意識の文化的不文律強制は協調性のない成員を四面楚歌にする一方、そういった成員を逆に何とか皆の和に加わらせようと画策し、それはテレビドラマなどでも頻繁にテーマ化する。
その事実自体に対して痛烈な告発をする哲学者で作家こそ中島義道である。
中島はある部分では極めてジャン・ジャック・ルソーの持っていた私的告白性から啓発されているとさえ言える。つまり自らの暗黙の了解的日本人の協調性へと加われなかった少年期から青年期までの苦悩と挫折を告白するスタイルの多くの著作を発表している(「孤独について」他)。
しかしこれもよく考えれば、そもそも言語とは全て内的世界を語ること自体の不可能性、それは語る当人と、語られる別の人が他者同士であるということから起因する根源的な壁があるからだが、例えば「私は~です」と自己紹介する時必ず、ここまでは言っていいことだし、言えることであるが、それ以上は言う必要もないし、言いたくもないということ自体の表明となっているのだ。そしてその事実を踏まえてこそ敢えて「でも私はある部分では一般的に言ってはならないとされることを私は言う」という形でルソーとか中島の告白は言語意思疎通史上において命脈を保つことが可能となるのである。
しかし人間はある部分で饒舌であるということは別のある部分では只管隠蔽し続けるということをも意味する。
それは個人の感性や感受性においても言えることである。
つまりあることに極度に他者に対して神経を遣うということは、別のある面ではおおっぴらに言っても構わなかったり、あるいは大して神経を遣わずに済ましたりするということを意味する。それは一般社会通念上での不文律に付従えない者にとって研ぎ澄まされた感性や感受性は、一般社会においては逆に大して重要な羞恥心ではなく、特殊であるという感性や感受性の人にとってざっくばらんであったり、極めておおっぴらであったりということが一般社会においては極めて羞恥を感受させることである、ということでもある。
そしてそれはルソーや中島のように詳細に文筆活動において示し得ている成員以外の、物言わぬ全ての人々にとっても実はそうなのである。
つまり全ての人が自分が書いた文章を多くの人々の目に触れさせることは出来ない。だが文章を書くということさえしない、あるいは能力的に出来ない全ての人々も実はその自分自身と社会全般の間にあるずれとか「仕方なしに合わせている」部分というのは必ずあり得るのだ。
もしそういったことが一切ないという成員がいたとしたら、その者は狂人であると言ってさえよい。
例えばそれは知らない業界へと転身した者が最初戸惑う様々な業界固有の習慣、その一つとして言葉遣いといった習慣から、引っ越して行った先での方言、あるいは時間厳守であるタイプの社会とそうではない社会の差異とか、そのような戸惑いは全ての人々について回る運命である。だがそれでも尚郷に入れば郷に従え式に皆ある程度は歩調を合わす。そして親しい友人が出来て腹を割って話せる機会があれば、思い切ってそのことを告白することもあるかも知れないし、永遠にそういうことは一切黙ったままで生涯を過ごす成員もいることだろう。
つまりその親しい相手なら言いやすいことの内容的差異というものが個人間にはあるのである。あることは容易く言えるが、別のことではそうではないという常識の違いがあるいは親しい間柄とそうではない人の間の差異を各個人に構成するのだ。そして親しければ親しいほど言い難いこともある。それは相手が親友であれ家族であれ、事情は同じである。
あるいは同性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるし、逆に異性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるわけだ。
つまりこれこそが羞恥であり、その羞恥を相互に保有し合っているという了解の下で言語行為は成立している筈なのだ。
例えば道端で知らない通りすがりの人にいきなり「年収は幾らですか」とか「今付き合っている恋人はいますか」と尋ねる者はいない。
だからある意味では言語行為における羞恥とはどういう経路で相互に親しくなっていくべきかということ自体に纏わる倫理査定的な判断が各個人において異なっているということ、そしてその事実を容認しやすい成員と、そういうことは世間一般の不文律に従っておけばよいという考え方の違いとなって立ち現れていると言うことが出来よう。
そしてそれをどこからどこまでが地域的、地方的な文化習俗や伝統からの影響か、どこからどこまでが個人的資質かということを実は厳密に区分けすること自体がかなり困難であるし、ある部分では不可能であるし、ある部分ではそういった判断自体が意味を成さないと言うことが出来る。
だが地域的文化習俗であれ、そういうこととは無関係な個人における倫理的判断であれ、言語行為、言葉というもの自体が既に相互に羞恥を保持していることへの認可、承認、了解の下で行われる道具であるということ、そしてその規約を受け入れた瞬間人類は多くの感覚的授受の能力を失って今日まで来ているという事実だけはしっかりと受け止めておく必要がある。
だから哲学的に言えば相互に一切のプライヴァシーが必要ないのであれば、一切言語行為など必要ないということなのである。そして言葉とは相手とは常に百パーセント理解し合うことも出来なければ、その必要もないという事実自体を我々は暗黙の内に言語行為をすることによって示し合い確認し合ってもいるということである。
何故なら言語とはそもそも相手の全てを知るということにおいて、相手自身が極度の嫌悪感、警戒心を持つからこそ、そのことを相手がこちら側に拒絶することを一定の緩衝地帯としてのロールを担ったものだからである。
言語とは端的に全てを告白し合う為に設けられた道具ではない。寧ろそれを避ける為に、あるいはそれが本質的には不可能であることを相互に熟知していた存在者間において初めて成立し得たものであったのである。
その意味では言語とは羞恥を相互に認め合うという作用において成立する。それは人類が最初に着衣の習慣を身につけたのとほぼ同時期であった可能性もある。尤もその立証は人類学者諸氏にお任せしよう。
要するに言語とは相互に全ての感情を相手に伝えることが出来ないという物理的諦念と共に、それが仮に出来たとしても、決してそれを相手に相互に示し合いたくはないという歴然とした事実によってのみ命脈を保持し得るものである。
つまり他者存在とはそれ自体で一つの壁である。例えば相手のちょっとした仕草とか物言い自体に対して不快感を抱いていたとしても尚我々はその全てに対して一々苦情など言わない。勿論それが度を過ぎたなら必ず何か一言は言いたくなるし、言わずにはおれまい。しかし些細なことには目を瞑る。
その限度や目を瞑る内容自体はある意味ではかなり民族間に差異があるだろうし、個人間にも差異は存在しよう。それはある地域や地方では文化習俗的に当然のことが、別の地域、地方では非常識であるような意味で。
例えば大体都市部(特にマンション街や山の手的区域)では隣人に対してそれほどお節介をしないということは不文律的に常識化しているが、地方では、あるいは伝統的文化都市、あるいは一般的に下町的区域ではそうではないというような差異は至る所で散見出来る。
しかしそれは地域、区域的習慣の差異であり、個人間の差異はそれよりはずっと深刻である。例えば人に言えることと、言えないことということには当然ながら差異がある。
そしてある人にとって容易に他者に告げられることが、別の人にとっては耐えられず、そのことは別の人にとって容易なことを、ある人にとって困難なことにしているという意味でかなり深刻である。
例えば私はかなり多くのことを他人には一切語りたくはなくそれこそ墓場まで自分一人で抱え込んで死んでいきたいとさえ考えている。
恐らくそういったことは多く都市部でも地方でもあり得るだろう。
しかしよく考えてみよう。言葉とは相手がいなければ意味がないものである。だからウィトゲンシュタインはそのことを常識とする世界に対して、アンチを唱えたとも受け取れる。勿論そんな単純なことではないのだ。それは恐らく世界に対して、個というものの在り方を巡って脳内で考えあぐねること全てが他者一般と極度に乖離していたということに起因するものと思われる。だがそのルドウィヒによるトライアルとは実は、その常識において順応し得る(あるいは仕方なしにそうする)ことも、拒絶することも含めて一つの制度を生きるということ、言葉を使用して生活するということはそういうことだという確信の下で、ではその制度とは一体何か、私とは制度と共に派生する意識であるのかという問いが彼を哲学へと駆り立てた。そのことを永井均は独我論という病の治癒のために彼が哲学をしたと捉える。
もう一つ言語にも責任があるということだ。一つに言語はそれ自体その言語を使用する民族に固有の性格によって決定されている部分もあるが、極めて偶然的である言語構造自体が民族に固有の文化を育むという側面もある。
例えば日本語では主語+動詞+目的語のような英語の構造と異なっていて、端的にそれ以外の英語にはない助詞、形容動詞というものがある。とりわけ助詞の使用の仕方で男女の言葉遣いを峻別したり、相手の社会的地位とか立場に応じて弁別したりして使用するということが当然となっている。これは意味論的には他者一般に対して、つまり相対する存在者に対して純粋に抽象的意味論的対話をすることを困難にしている。
つまり相手に応じて「言って善いこと」とか「訊いて善いこと」といった基準を厳密に査定していく方向へと流れやすい。助詞の中に重要な部分として敬語があるからだ。
それは永井均も日本語には英語で言うところのIとかyouとか以外の、「俺」「おいら」「あたい」「あたし」「わし」といった多くの語彙があることを指摘する。
それは配慮という行為自体を自発的なものとするのではなく、制度的な習慣にしようとする民族性を表わしている。
尤も英語世界の一つであるアメリカでも今度は宗教倫理的な不文律は支配しているから、別箇の文化的強制を多くの人たちは感じているという実態はある。そして日本語のように助詞がないということが、逆に抑揚とかストレス、息継ぎ的な表現でニュアンスを示し合うという別の形での工夫は現出することとなるわけだ。
だが再び日本語に戻ると、このことは言語自体が極めて恣意的にその都度の状況に応じて弁別するという意味ではソフィスティケートされてはいるが、哲学的誠実性においては、極めて呪縛が強い、本音を謂い難いものにしている。
つまり良心といったものは本来自発的、内発的なものであるべきであるという倫理査定的には、礼儀、礼節という制度上での規約とは甚だ自発性とか内発性を削ぐ結果となっている。つまりそれが礼儀だから、ということ自体に既に有無を言わさぬ制度、規約、文化的強制からの呪縛、言ってみれば自立した個の考えを全て無視する不文律的構造が支配している。
これは年功序列意識とも大いに関係がある。
しかし同時に日本では既に明治期において一回、それまでの日本文化を徹底的に脱亜入欧という形で欧米化してきている。これは公官庁における書類の取り扱いとか上限関係において顕著である。
しかしそれはあくまで公的場においてのみであり、井戸端会議的私的空間では通用しない。そのことを恐らくかつて作家の井沢元彦にして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのであろう。
日本人の思い遣り意識の文化的不文律強制は協調性のない成員を四面楚歌にする一方、そういった成員を逆に何とか皆の和に加わらせようと画策し、それはテレビドラマなどでも頻繁にテーマ化する。
その事実自体に対して痛烈な告発をする哲学者で作家こそ中島義道である。
中島はある部分では極めてジャン・ジャック・ルソーの持っていた私的告白性から啓発されているとさえ言える。つまり自らの暗黙の了解的日本人の協調性へと加われなかった少年期から青年期までの苦悩と挫折を告白するスタイルの多くの著作を発表している(「孤独について」他)。
しかしこれもよく考えれば、そもそも言語とは全て内的世界を語ること自体の不可能性、それは語る当人と、語られる別の人が他者同士であるということから起因する根源的な壁があるからだが、例えば「私は~です」と自己紹介する時必ず、ここまでは言っていいことだし、言えることであるが、それ以上は言う必要もないし、言いたくもないということ自体の表明となっているのだ。そしてその事実を踏まえてこそ敢えて「でも私はある部分では一般的に言ってはならないとされることを私は言う」という形でルソーとか中島の告白は言語意思疎通史上において命脈を保つことが可能となるのである。
しかし人間はある部分で饒舌であるということは別のある部分では只管隠蔽し続けるということをも意味する。
それは個人の感性や感受性においても言えることである。
つまりあることに極度に他者に対して神経を遣うということは、別のある面ではおおっぴらに言っても構わなかったり、あるいは大して神経を遣わずに済ましたりするということを意味する。それは一般社会通念上での不文律に付従えない者にとって研ぎ澄まされた感性や感受性は、一般社会においては逆に大して重要な羞恥心ではなく、特殊であるという感性や感受性の人にとってざっくばらんであったり、極めておおっぴらであったりということが一般社会においては極めて羞恥を感受させることである、ということでもある。
そしてそれはルソーや中島のように詳細に文筆活動において示し得ている成員以外の、物言わぬ全ての人々にとっても実はそうなのである。
つまり全ての人が自分が書いた文章を多くの人々の目に触れさせることは出来ない。だが文章を書くということさえしない、あるいは能力的に出来ない全ての人々も実はその自分自身と社会全般の間にあるずれとか「仕方なしに合わせている」部分というのは必ずあり得るのだ。
もしそういったことが一切ないという成員がいたとしたら、その者は狂人であると言ってさえよい。
例えばそれは知らない業界へと転身した者が最初戸惑う様々な業界固有の習慣、その一つとして言葉遣いといった習慣から、引っ越して行った先での方言、あるいは時間厳守であるタイプの社会とそうではない社会の差異とか、そのような戸惑いは全ての人々について回る運命である。だがそれでも尚郷に入れば郷に従え式に皆ある程度は歩調を合わす。そして親しい友人が出来て腹を割って話せる機会があれば、思い切ってそのことを告白することもあるかも知れないし、永遠にそういうことは一切黙ったままで生涯を過ごす成員もいることだろう。
つまりその親しい相手なら言いやすいことの内容的差異というものが個人間にはあるのである。あることは容易く言えるが、別のことではそうではないという常識の違いがあるいは親しい間柄とそうではない人の間の差異を各個人に構成するのだ。そして親しければ親しいほど言い難いこともある。それは相手が親友であれ家族であれ、事情は同じである。
あるいは同性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるし、逆に異性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるわけだ。
つまりこれこそが羞恥であり、その羞恥を相互に保有し合っているという了解の下で言語行為は成立している筈なのだ。
例えば道端で知らない通りすがりの人にいきなり「年収は幾らですか」とか「今付き合っている恋人はいますか」と尋ねる者はいない。
だからある意味では言語行為における羞恥とはどういう経路で相互に親しくなっていくべきかということ自体に纏わる倫理査定的な判断が各個人において異なっているということ、そしてその事実を容認しやすい成員と、そういうことは世間一般の不文律に従っておけばよいという考え方の違いとなって立ち現れていると言うことが出来よう。
そしてそれをどこからどこまでが地域的、地方的な文化習俗や伝統からの影響か、どこからどこまでが個人的資質かということを実は厳密に区分けすること自体がかなり困難であるし、ある部分では不可能であるし、ある部分ではそういった判断自体が意味を成さないと言うことが出来る。
だが地域的文化習俗であれ、そういうこととは無関係な個人における倫理的判断であれ、言語行為、言葉というもの自体が既に相互に羞恥を保持していることへの認可、承認、了解の下で行われる道具であるということ、そしてその規約を受け入れた瞬間人類は多くの感覚的授受の能力を失って今日まで来ているという事実だけはしっかりと受け止めておく必要がある。
だから哲学的に言えば相互に一切のプライヴァシーが必要ないのであれば、一切言語行為など必要ないということなのである。そして言葉とは相手とは常に百パーセント理解し合うことも出来なければ、その必要もないという事実自体を我々は暗黙の内に言語行為をすることによって示し合い確認し合ってもいるということである。
Sunday, March 21, 2010
〔羞恥と良心〕第十一章 徳と理
私は「トラフィック・モメント(自由・責任・言語と偶像化)」という論文で次のように書いた。
「論語」に次のような一節がある。
子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁
子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。
先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)
言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られるということに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。
しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあるということだ。
それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。
ここで私が考えたこととは孔子は果たして徳というものが最も大切なものであると考えて、先の言葉を残したのかどうかということである。
例えば今徳のある人がいたとしよう。しかし彼には理ある言葉を吐くことが出来ないとしよう。従って私たちはその人から理ある言葉を聴くことが出来ないでいる。しかしにもかかわらず彼に対して徳があると考えていることというのは、ただ徳があるように思えるイメージでしかない。そのイメージとはどこか親しみやすさということを基準に我々は判断しているのだろう。しかしそれでは徳ということの本質が見え難い。
徳があるかどうかということはだから、寧ろ何か理ある言葉を誰かが吐いて、その言葉の持つ理の力が、逆にそういう理ある言葉を吐く人に徳を付与するのである。つまり徳は理のないところでは本当は成立し得ないものの筈だ。しかし理がある言葉を吐き、その言葉の理で大勢を説得出来ると、今度はその人に対して私たちは固有の徳を付与し、次第に偶像化していく。そしてその偶像化された徳があたかも理を生み出すように錯覚するようになる。
私は先日ある出版社とある友人に当てて次の文章(「徳と理」と題して)を送信した。
先日作家の五木寛之氏が、テレビの「週刊テレビ新書」(テレビ東京、田勢康弘氏司会)に出演され、得々と「人間は徳がまずあって然る後理を作り出す」と語っておられた。
しかし私はこの考えはあまり賛成することが出来ないという気持ちの方が、特に昨今は強いのだ。
というのも徳とは一体何を指すのだろうかということがまず私の脳裏を掠める。
理とは合理性とか、理性とか、要するに物事の仕組みである。しかし徳とは仁徳とか、道徳とか、要するにモラル的なことである。しかし最近のこの経済不況と、生活者の困窮という事態を受けて、多くのマスコミの論調は、経済優先主義とか、市場原理主義とかいう言葉が飛び交い、人間には私利私欲を追求するよりも大切なことがあるのだ、と多くの論客が発言するようになった。しかしそう語る彼らは私たち一般の庶民よりはいいギャラを貰い、自ら日比谷公園へ行って生活困窮者への介護活動などすることはない。
徳という言葉は、確かに聞き触りがいいし、暖かいヒューマンな志から他者に対する友愛も誕生するということは理解出来る。
しかしそう言いながら、私たちの生活は全て自己責任であり、本質的には他人は一切助けてはくれない、それが現実であることをどんなに慈悲深い人でも知っている。だから逆に徳という何だか得体の知れない人治主義よりは、ずっと理、つまり世の中の仕組み、あるいは物事の仕組みの方が信頼出来る。
それに私も日々介護の仕事とか、あるいは生活困窮者たちの面倒を見るような活動をしていてこそ、いざという時活躍し得るだろうが、経験のない人間は足手まといである。こういうことは全て日頃の訓練によって非常時に役立つか否かは決する。人間にとって最も必要なものとは即実践力以外のものではない。だから日頃から報われなくても、日々努力している、又は既に活躍している分野の中でだけ我々は何らかの貢献を果たし得るのだ。
そういう考えの下では寧ろ何だか判断するのに主観的な感情を交えずにすることの困難な徳とかよりは、理、つまり誰でも普遍的に理解し得る仕組みとか、法則の方がずっと信用出来ると私は思う。
だから私は敢えて孔子とは逆に、理こそが徳とか、そういう付帯的な厳かさとか、温かさとかを生むことが出来るのであり、それをまず得てから、理を構成するという考えには賛同することが出来ないのである。(孔子も実際どういう考えだったか不明であるが)
この社会でどのようなタイプの非正規社員でもフリーターでも、理解し得る作業手順とか、方法、仕事上での技術的ノウハウこそが、いざという時助けとなる(言葉がまず私たちにとって最低限且つ最大のノウハウだ)のであり、その形而下的実現こそが、徳とかそういう形而上的な完成度において求められるものを育む余裕を人の心に与えるのである。(だから徳をまず積めとのたまう人は生活力に余裕のある人だ)又だからこそ、私は哲学や論理学を支えている言葉というものをどこかで信頼している。つまり言葉は決して私と筆者が個人的知遇がない状態でも、私を裏切ることはしない。つまり言葉だけがそれを目にした時私たちを救うことが出来る。仮にその言葉を書いた人と私がじかに接した時その人格そのものからあまり得るものが仮になかったからと言って、その人が書いた文章から私が何らかの感銘を受けたということそのことに変わりはない。それこそが理というもの、言葉によって示される本質的な仕組みとか法則のことだが、それが実際に日比谷公園で炊き出しをして下される方々から得るレスキューとは違った形での精神的レスキューとなり得る。この違ったタイプのレスキューのどちらが尊いと規定することなど出来はしない性質のものである。
私はそう思うのである。
結局私は徳というものを孔子が最優先していたとは思えないのは、礼ということに孔子が拘ったのも、それが理のためだったのではないかと考えるからである。
この孔子と儒教のことについては浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」が詳細に、孔子その人と、彼を受け継ぐ後代の人々による布教活動に関して述べているが、かなり布教していくプロセスにおいては孔子を気高い血筋の人間であるように偽装工作したりして、その知恵を絞って孔子生存中には果たし得なかった野望に対するリヴェンジの意識があって、極めて興味深い。
私の先に引用した文章を送った19歳の青年T君は次のようなメールを返信してきてくれた。
お送りいただいた文章、拝読いたしました。
理と徳というのは難しいテーマですね。芸術的感性(永井均は、最近の日記で「変性感覚」という用語を使っていました)なんかは、理を超えているから徳の方に入るのかどうか・・・。そういえば、東浩紀が最近「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移のことを言っているようです。なお、孔子については、ぼくは『論語』は読んだのですが、けっこう中島義道に似ているという印象です。もちろん、形式的儀礼を嫌う中島氏と、礼(しきたり、儀礼)を重んじる孔子とは、全然違うわけですが。ひとつ事を進めるのにも時間がかかり、周囲の人間からは傍迷惑としか思われない孔子の「礼」への偏愛ぶりは、中島氏のいう「本来的偏食家」を思わせます。ところで、芸術における形式というのは理なのでしょうか。過剰な様式美への傾倒などは、理が自身を超え出ているようにも思われますね。
そこで私は更に次のような返信をした。
孔子の「論語」は私も読みましたが、中島氏的という指摘はとても面白いですね。
しかし「論語」の解釈は多様で、私は孔子は必ずしも徳を最優先していたとはどうも思えないんですね。 例えば浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」において記述されたその弟子たちによる布教工作、孔子の人柄と、人生からするとそう思えない。ここら辺は私は論文「責任論」で詳しく触れました。
また孔子の幾つかの言説は理を優先するのではないかということで、今執筆中の「自由と責任」には詳述しました。この論文も春先までには完成するでしょう。
うーん、アートにおける様式美の追求は、理と言えるでしょうか?私自身のアーティストとしての経験から言わせて頂ければ、どちらかと言うと、アーティストが自分の流儀に拘る時というのは、寧ろ生活レヴェルの安定が需要と供給とによって不動点に達した時に思惟するものなので、逆に徳的ではないでしょうか?
つまりもし理に随順して制作するのなら、様式美という枠組みに囚われないで実践し、その都度新たな発見に勤しむということの方がスタンスとしてずっと潔いと私は思います。それでもいい作品を作り続けていくというのは実は一番大変なのですが。
様式美というものはかなり戦略的なものなので、私はそう判断してT君にそう書き送ったが、実際形式美というと、それは理であるような気もするが、形式美そのものを追求していくと様式美になってしまう気が私にはするのである。形式美とは、形式とかそういうことを考えずに作品を作り続けることによってのみ得られる成果ではないだろうか?
それを言うなら、言葉もそれが齎す効果だけを考えに入れて発するのではなく、その言葉が本当に自分の考えに根差しているのかどうかということにおいてその言葉が説得力を持つかどうかが決まると思うが、そのことにおいてそれを徳と呼ぶのなら、それは確かに必要かも知れない。
しかしT君の指摘された東氏による「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移」という下りについても私は一言述べておきたいのだが、要するに地域住民同士の触れ合いということを言うなら、まさにそれは理によるものであると私は思う。その中でも特に親しい人同士のつきあいでは徳というものも生じるかも知れない。しかし逆に監視カメラについて言えば、それを監視する対象そのものを差別するようなこと(例えば社会的地位の高い人の多い地域ではそういうことをしないで、生活困窮者の多いところではそういう設置を多くするとかの)を未然に阻止するという観点からは確かにそれは理であるが、逆にその監視をするということの理由や動機という観点から言えば、それは徳の問題、つまり悪いこと(不徳なこと)をする人がいるから、そういう措置に踏み切るという意味では明らかに徳的なことである。
付記 このT君との遣り取りとか、「トラフィック・モメント」http://trafficmoment.blogspot.com/内の記述など丁度今現在2010年3月22日から一年ほど前のことである。この論文は既にその時点で書いていたが、幾多の事情で今公開することとなった。T君も去年12月に成人し、今も私とツイッターその他で交流は続いている。
この一年に私の中では若干の変化が起きている。尤もここで書いたことの大半は今でもそう信じている。
その変化とは言葉の力とは、言葉の意味するところ、例えば空腹で死にそうな人が炊き出しの前へ行って「一口私にも恵んで下さい」と声をかけることにおいては、意味内容だ。だが親しい家族の前では言葉は意味内容以前に、やはり存在論的に声を掛け合うという行為の持つ意味である。それは口ごもっていても同じである。今日ALSの人たちにとっての生とは何かというレポートをNHKで見たが、知性的には何の問題もないのに、意思疎通に非情な困難を伴うという事態が生む諸問題は、ある部分では弧絶という状態的な悲劇である。その場合しかし家族がいて意思疎通でも相手の言うことがある程度想像出来る者同士であるという状況と、家族のいない人では全く異なっているということも言えると思う。私自身幸いその種の病に今のところかかっていないが、いざそうなったなら、家族を持たない者であるが故にかなり深刻な気持ちになるだろうということは容易に想像出来る。
ある部分では人間は知性が邪魔をして、それ故に「死にたい」と思ってしまう。それは理を理解出来るからである。だが知性自体に障害のある人は、そこまで考えるのだろうか?ある部分では考えもするし、別のある部分では余り深刻には考えないかも知れない。だが徳ということを考える時我々はこの論文で私が書いたように、理という方法論から派生するという要素は多分にある、と私は今でも思っているが、実際存在する事、例えば一切の言語を理解する事が出来ない人間がいたとしても尚、そこには幸福感はあるかも知れない、という考えの方に私は傾きつつある。それがここ一年で私の中に生じた変化である。つまりたとえ言葉を持っていたとしても、全く他者を信頼することがなく、全く愛情というものが理解出来ない人間がいたとしたなら、それは真に理であり、幸福である、と言えるだろうか?
逆に言葉が一切理解出来ない人間がいたとしても愛情や信頼という気持ちだけは理解出来るということはあり得るかも知れないとも思う。それをもし徳と呼ぶのなら、強ち五木氏の仰ることも間違いではない、という気持ちにも今では私は傾く。
アートなどによる形式美ということは、その形式自体への我々の信頼による。例えば小説を読もうという気持ちになるのも我々が小説には作者がいて、彼らによる創作であり登場人物は実在の人物ではないが、リアリティを我々はそこに読み取ろうとする。それは一種の言語ゲームではあるが、そのゲームを只虚しいとは思わない。つまりそこに我々は作者と、自分、自分以外の読者ということを想定している。絵画作品の場合には、鑑賞者である自分と自分以外の鑑賞者、作者との構図にも置き換えられよう。そこが嘘とかデマということと、創作世界との関わりとの本質的違いである。
痛い時にレスキューを他者に求める時私は明らかに他者を信頼している。つまりレスキューをしてくれる相手として認可している。そうでなければ私は一切他者に声を発することを断念しているだろう。その意味では言葉という理は、ある部分では、声を発することでも、文字を書くことでも、誰かそれを聴いてくれる人、読んでくれる人を想定している。つまりそういう能力保持者、能力可能者の存在を信じている。それをデリダ的に著者の死と捉えても、オースティンのようにパフォマティヴと捉えても同じことである。
理には理だけで自立しているという強みは確かにあるが、事実上我々は理を理として捉える時点で既にその行為を徳として捉えてもいるのである。そしてその事実において我々は理である事の徳と、理がない形ででも存在論的には徳もあり得るかも知れないという存在自体への信頼を得ているのかも知れない。そこにこそ可能性を見出さずには生きていけない人もきっとおられることだろうし、その意味では本論の主張は全て反転させても尚、有効であるということを承知の上でのみ、私の一年前の主張は意味を持つのかも知れない。そしてこの問いは私にとって未だほんの始まりでしかない、ということだけは今現在確かである。
「論語」に次のような一節がある。
子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁
子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。
先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)
言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られるということに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。
しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあるということだ。
それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。
ここで私が考えたこととは孔子は果たして徳というものが最も大切なものであると考えて、先の言葉を残したのかどうかということである。
例えば今徳のある人がいたとしよう。しかし彼には理ある言葉を吐くことが出来ないとしよう。従って私たちはその人から理ある言葉を聴くことが出来ないでいる。しかしにもかかわらず彼に対して徳があると考えていることというのは、ただ徳があるように思えるイメージでしかない。そのイメージとはどこか親しみやすさということを基準に我々は判断しているのだろう。しかしそれでは徳ということの本質が見え難い。
徳があるかどうかということはだから、寧ろ何か理ある言葉を誰かが吐いて、その言葉の持つ理の力が、逆にそういう理ある言葉を吐く人に徳を付与するのである。つまり徳は理のないところでは本当は成立し得ないものの筈だ。しかし理がある言葉を吐き、その言葉の理で大勢を説得出来ると、今度はその人に対して私たちは固有の徳を付与し、次第に偶像化していく。そしてその偶像化された徳があたかも理を生み出すように錯覚するようになる。
私は先日ある出版社とある友人に当てて次の文章(「徳と理」と題して)を送信した。
先日作家の五木寛之氏が、テレビの「週刊テレビ新書」(テレビ東京、田勢康弘氏司会)に出演され、得々と「人間は徳がまずあって然る後理を作り出す」と語っておられた。
しかし私はこの考えはあまり賛成することが出来ないという気持ちの方が、特に昨今は強いのだ。
というのも徳とは一体何を指すのだろうかということがまず私の脳裏を掠める。
理とは合理性とか、理性とか、要するに物事の仕組みである。しかし徳とは仁徳とか、道徳とか、要するにモラル的なことである。しかし最近のこの経済不況と、生活者の困窮という事態を受けて、多くのマスコミの論調は、経済優先主義とか、市場原理主義とかいう言葉が飛び交い、人間には私利私欲を追求するよりも大切なことがあるのだ、と多くの論客が発言するようになった。しかしそう語る彼らは私たち一般の庶民よりはいいギャラを貰い、自ら日比谷公園へ行って生活困窮者への介護活動などすることはない。
徳という言葉は、確かに聞き触りがいいし、暖かいヒューマンな志から他者に対する友愛も誕生するということは理解出来る。
しかしそう言いながら、私たちの生活は全て自己責任であり、本質的には他人は一切助けてはくれない、それが現実であることをどんなに慈悲深い人でも知っている。だから逆に徳という何だか得体の知れない人治主義よりは、ずっと理、つまり世の中の仕組み、あるいは物事の仕組みの方が信頼出来る。
それに私も日々介護の仕事とか、あるいは生活困窮者たちの面倒を見るような活動をしていてこそ、いざという時活躍し得るだろうが、経験のない人間は足手まといである。こういうことは全て日頃の訓練によって非常時に役立つか否かは決する。人間にとって最も必要なものとは即実践力以外のものではない。だから日頃から報われなくても、日々努力している、又は既に活躍している分野の中でだけ我々は何らかの貢献を果たし得るのだ。
そういう考えの下では寧ろ何だか判断するのに主観的な感情を交えずにすることの困難な徳とかよりは、理、つまり誰でも普遍的に理解し得る仕組みとか、法則の方がずっと信用出来ると私は思う。
だから私は敢えて孔子とは逆に、理こそが徳とか、そういう付帯的な厳かさとか、温かさとかを生むことが出来るのであり、それをまず得てから、理を構成するという考えには賛同することが出来ないのである。(孔子も実際どういう考えだったか不明であるが)
この社会でどのようなタイプの非正規社員でもフリーターでも、理解し得る作業手順とか、方法、仕事上での技術的ノウハウこそが、いざという時助けとなる(言葉がまず私たちにとって最低限且つ最大のノウハウだ)のであり、その形而下的実現こそが、徳とかそういう形而上的な完成度において求められるものを育む余裕を人の心に与えるのである。(だから徳をまず積めとのたまう人は生活力に余裕のある人だ)又だからこそ、私は哲学や論理学を支えている言葉というものをどこかで信頼している。つまり言葉は決して私と筆者が個人的知遇がない状態でも、私を裏切ることはしない。つまり言葉だけがそれを目にした時私たちを救うことが出来る。仮にその言葉を書いた人と私がじかに接した時その人格そのものからあまり得るものが仮になかったからと言って、その人が書いた文章から私が何らかの感銘を受けたということそのことに変わりはない。それこそが理というもの、言葉によって示される本質的な仕組みとか法則のことだが、それが実際に日比谷公園で炊き出しをして下される方々から得るレスキューとは違った形での精神的レスキューとなり得る。この違ったタイプのレスキューのどちらが尊いと規定することなど出来はしない性質のものである。
私はそう思うのである。
結局私は徳というものを孔子が最優先していたとは思えないのは、礼ということに孔子が拘ったのも、それが理のためだったのではないかと考えるからである。
この孔子と儒教のことについては浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」が詳細に、孔子その人と、彼を受け継ぐ後代の人々による布教活動に関して述べているが、かなり布教していくプロセスにおいては孔子を気高い血筋の人間であるように偽装工作したりして、その知恵を絞って孔子生存中には果たし得なかった野望に対するリヴェンジの意識があって、極めて興味深い。
私の先に引用した文章を送った19歳の青年T君は次のようなメールを返信してきてくれた。
お送りいただいた文章、拝読いたしました。
理と徳というのは難しいテーマですね。芸術的感性(永井均は、最近の日記で「変性感覚」という用語を使っていました)なんかは、理を超えているから徳の方に入るのかどうか・・・。そういえば、東浩紀が最近「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移のことを言っているようです。なお、孔子については、ぼくは『論語』は読んだのですが、けっこう中島義道に似ているという印象です。もちろん、形式的儀礼を嫌う中島氏と、礼(しきたり、儀礼)を重んじる孔子とは、全然違うわけですが。ひとつ事を進めるのにも時間がかかり、周囲の人間からは傍迷惑としか思われない孔子の「礼」への偏愛ぶりは、中島氏のいう「本来的偏食家」を思わせます。ところで、芸術における形式というのは理なのでしょうか。過剰な様式美への傾倒などは、理が自身を超え出ているようにも思われますね。
そこで私は更に次のような返信をした。
孔子の「論語」は私も読みましたが、中島氏的という指摘はとても面白いですね。
しかし「論語」の解釈は多様で、私は孔子は必ずしも徳を最優先していたとはどうも思えないんですね。 例えば浅野裕一氏の「儒教ルサンチマンの宗教」において記述されたその弟子たちによる布教工作、孔子の人柄と、人生からするとそう思えない。ここら辺は私は論文「責任論」で詳しく触れました。
また孔子の幾つかの言説は理を優先するのではないかということで、今執筆中の「自由と責任」には詳述しました。この論文も春先までには完成するでしょう。
うーん、アートにおける様式美の追求は、理と言えるでしょうか?私自身のアーティストとしての経験から言わせて頂ければ、どちらかと言うと、アーティストが自分の流儀に拘る時というのは、寧ろ生活レヴェルの安定が需要と供給とによって不動点に達した時に思惟するものなので、逆に徳的ではないでしょうか?
つまりもし理に随順して制作するのなら、様式美という枠組みに囚われないで実践し、その都度新たな発見に勤しむということの方がスタンスとしてずっと潔いと私は思います。それでもいい作品を作り続けていくというのは実は一番大変なのですが。
様式美というものはかなり戦略的なものなので、私はそう判断してT君にそう書き送ったが、実際形式美というと、それは理であるような気もするが、形式美そのものを追求していくと様式美になってしまう気が私にはするのである。形式美とは、形式とかそういうことを考えずに作品を作り続けることによってのみ得られる成果ではないだろうか?
それを言うなら、言葉もそれが齎す効果だけを考えに入れて発するのではなく、その言葉が本当に自分の考えに根差しているのかどうかということにおいてその言葉が説得力を持つかどうかが決まると思うが、そのことにおいてそれを徳と呼ぶのなら、それは確かに必要かも知れない。
しかしT君の指摘された東氏による「環境管理型社会」という名前で呼んでいるのも、徳中心の社会(ご近所さんとの横の繋がりなどの重視)から、理中心の社会(防犯カメラなどの導入によるリスク管理)への遷移」という下りについても私は一言述べておきたいのだが、要するに地域住民同士の触れ合いということを言うなら、まさにそれは理によるものであると私は思う。その中でも特に親しい人同士のつきあいでは徳というものも生じるかも知れない。しかし逆に監視カメラについて言えば、それを監視する対象そのものを差別するようなこと(例えば社会的地位の高い人の多い地域ではそういうことをしないで、生活困窮者の多いところではそういう設置を多くするとかの)を未然に阻止するという観点からは確かにそれは理であるが、逆にその監視をするということの理由や動機という観点から言えば、それは徳の問題、つまり悪いこと(不徳なこと)をする人がいるから、そういう措置に踏み切るという意味では明らかに徳的なことである。
付記 このT君との遣り取りとか、「トラフィック・モメント」http://trafficmoment.blogspot.com/内の記述など丁度今現在2010年3月22日から一年ほど前のことである。この論文は既にその時点で書いていたが、幾多の事情で今公開することとなった。T君も去年12月に成人し、今も私とツイッターその他で交流は続いている。
この一年に私の中では若干の変化が起きている。尤もここで書いたことの大半は今でもそう信じている。
その変化とは言葉の力とは、言葉の意味するところ、例えば空腹で死にそうな人が炊き出しの前へ行って「一口私にも恵んで下さい」と声をかけることにおいては、意味内容だ。だが親しい家族の前では言葉は意味内容以前に、やはり存在論的に声を掛け合うという行為の持つ意味である。それは口ごもっていても同じである。今日ALSの人たちにとっての生とは何かというレポートをNHKで見たが、知性的には何の問題もないのに、意思疎通に非情な困難を伴うという事態が生む諸問題は、ある部分では弧絶という状態的な悲劇である。その場合しかし家族がいて意思疎通でも相手の言うことがある程度想像出来る者同士であるという状況と、家族のいない人では全く異なっているということも言えると思う。私自身幸いその種の病に今のところかかっていないが、いざそうなったなら、家族を持たない者であるが故にかなり深刻な気持ちになるだろうということは容易に想像出来る。
ある部分では人間は知性が邪魔をして、それ故に「死にたい」と思ってしまう。それは理を理解出来るからである。だが知性自体に障害のある人は、そこまで考えるのだろうか?ある部分では考えもするし、別のある部分では余り深刻には考えないかも知れない。だが徳ということを考える時我々はこの論文で私が書いたように、理という方法論から派生するという要素は多分にある、と私は今でも思っているが、実際存在する事、例えば一切の言語を理解する事が出来ない人間がいたとしても尚、そこには幸福感はあるかも知れない、という考えの方に私は傾きつつある。それがここ一年で私の中に生じた変化である。つまりたとえ言葉を持っていたとしても、全く他者を信頼することがなく、全く愛情というものが理解出来ない人間がいたとしたなら、それは真に理であり、幸福である、と言えるだろうか?
逆に言葉が一切理解出来ない人間がいたとしても愛情や信頼という気持ちだけは理解出来るということはあり得るかも知れないとも思う。それをもし徳と呼ぶのなら、強ち五木氏の仰ることも間違いではない、という気持ちにも今では私は傾く。
アートなどによる形式美ということは、その形式自体への我々の信頼による。例えば小説を読もうという気持ちになるのも我々が小説には作者がいて、彼らによる創作であり登場人物は実在の人物ではないが、リアリティを我々はそこに読み取ろうとする。それは一種の言語ゲームではあるが、そのゲームを只虚しいとは思わない。つまりそこに我々は作者と、自分、自分以外の読者ということを想定している。絵画作品の場合には、鑑賞者である自分と自分以外の鑑賞者、作者との構図にも置き換えられよう。そこが嘘とかデマということと、創作世界との関わりとの本質的違いである。
痛い時にレスキューを他者に求める時私は明らかに他者を信頼している。つまりレスキューをしてくれる相手として認可している。そうでなければ私は一切他者に声を発することを断念しているだろう。その意味では言葉という理は、ある部分では、声を発することでも、文字を書くことでも、誰かそれを聴いてくれる人、読んでくれる人を想定している。つまりそういう能力保持者、能力可能者の存在を信じている。それをデリダ的に著者の死と捉えても、オースティンのようにパフォマティヴと捉えても同じことである。
理には理だけで自立しているという強みは確かにあるが、事実上我々は理を理として捉える時点で既にその行為を徳として捉えてもいるのである。そしてその事実において我々は理である事の徳と、理がない形ででも存在論的には徳もあり得るかも知れないという存在自体への信頼を得ているのかも知れない。そこにこそ可能性を見出さずには生きていけない人もきっとおられることだろうし、その意味では本論の主張は全て反転させても尚、有効であるということを承知の上でのみ、私の一年前の主張は意味を持つのかも知れない。そしてこの問いは私にとって未だほんの始まりでしかない、ということだけは今現在確かである。
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