Monday, August 30, 2010

〔羞恥と良心〕第十七章 エリートとは一体何か?

 一般的にエリートと称される人達は国家とか大きな法人からかなりいい給料を貰っているので、日本では(恐らくアメリカでは本当のエリートは一般庶民などと同じレストランで食事などしないだろうけれど)余り横柄な態度を取らず、寧ろ一般庶民に対して自分達ばかりいい待遇をして貰って悪いという態度を示す事が多く、そういう謙った、要するに余り偉い人間ではないという謙虚さを示す度合いに応じて、エリートである可能性は高く、尤も大して凄い知性も優秀さも持ち合わせていず、それでいて謙った知性的態度を示すことだけは長けているそういう人が日本にも全くいないとも限らないので、その辺りの識別はそれこそ、あることに就いて自分自身がどれくらいの知性を持っているかということに最終的には依存していくので、全く何に対してもそれほどの知識も何もない人が仮に相手が本当のエリートかどうかを見抜く為のハウツー的な本を仮に書いたとしても尚、それはあくまで一つの目安にしか過ぎないということになるとは言える。
 私自身は全くエリート街道とは無縁の人生を送ってきたので、自分自身の周囲にどれくらいのエリートが(実は凄い人なのに爪を隠している様なタイプの人という意味で)いるかなど見当もつかないのだが、それ相応のエリートと言っていい人達とも多少なりとも知遇を得てもきたが、要するにもしエリートとは何かという定義を敢えてここで示すとしたら、それは敢えてリスキーな川及び橋を渡らない、安全且つ安定した道があるのなら敢えてそれに逆らわず、それを選ぶ、一応全ての自分より年配者の言うことは聴いておこうという態度を示せる、即座に全てを判断せず考える余裕を与えて欲しいという態度をどんな請求に対しても示せる、それでいて緊急の時にはそれなりに一般の誰よりも有効な手立てを考えそれを履行するか進言することが出来る、などの条件を全て兼ね備えているのなら、それをエリートと呼んでいいだろう。
 尤もそれはインテリとは少し違う。勿論インテリ且つエリートである場合も決して少なくはないものの、インテリではあるがエリートではない人も大勢いるし、あることに凄く秀でていることと違い、今述べた様な対人関係的に緊急の時の対処的知性に優れた要員とはそう多くいるわけではない。
 エリートではあるがインテリではない人もいるだろう。インテリとは端的によく本を読み、教養があるということに他ならず、そのこととエリート的条件は別箇であるし、エリートでもユーモアのある者もいるが、余りユーモアのない人もいる。只エリートで余りユーモアがないと心得ている人にはそれに何か代わり得る貴重な態度を示す事ができて、それが結局ユーモアであると受け取られることも多いかも知れない。
 インテリでユーモアのない人も大勢いるし、インテリでユーモアもありながら、緊急の時には誰よりもおたおたする様なタイプの、ある部分では間抜けなところさえある人も大勢いる。
 さて中生代に闊歩していた多くの恐竜は歯が鋭く強靭で、大きく分けてT字型で闊歩するタイプの二足歩行者と、Π字型で闊歩する四足歩行者とがあったらしい。
 面白いことにその両者とも肉食恐竜も草食恐竜も歯は尖っていて、それはどちらも強靭な咀嚼力が必要だからだが、又脚が極めて強靭な筋肉を持っていて、要するに走ることに長けていた。それは捕食者(predator)として獲物を狙いをつけて迅速に駆けて行き仕留める為であるし、その進化の軍拡競争に於いて被捕食者として逃走する為である。
 それはかなり目的的進化の産物だったことだろう。つまり脚力とそれを迅速に利用する為の反射神経に多大な進化のエネルギーを取られ、まさに生存していく為の条件自体がそれだけでかなりのパーセンテージを占めていたので、脳自体のそれ以外の部位の進化はその事実によるトレードオフで大したものではなかったと言えるだろう。
 その点同じ獲物を狙う敵対者や捕食者から生存を脅かされない様にする為に聴覚神経を発達させていた哺乳類にとって聴覚的進化が脳に齎したものは論理思考力だったと言える。それは只闇雲に獲物に突進したり、撃墜して噛み付くという様なエネルギーの代わりに、容易に獲物を捕獲出来ない時期やそういう機会に於いて別種の食料になり得るものを模索する様な知性を進化させてきたのである。
 要するに目的が一元化され特化されている場合、又そのことだけで生存が図れるのであれば、脳自体が突進し撃墜する為に要されるエネルギーと技能を進化させること以外に費やされる必要がなかったというのが恐竜の立場であれば、その逆に突進したり対抗馬と撃墜し合うことに於いては劣ってはいたものの、逃げて隠れたり、隠れている時に本格的食料以外の食べられるものを見つける知性を発展させた哺乳類はメキシコユカタン半島沖に隕石が衝突した際に、非常時を生延びることが出来たわけだ。
 それは知性そのものが特殊目的、しかも生存を最も大きく保証するものに特化していないという脳進化の条件によってだったと考えられる。
 つまり単一の目的に最適に特化した選択肢は、それ以外の選択肢への模索という知性を要求しなくて済んだが為に、ある部分では愚鈍なままに環境の一時的激変に耐えられなかったということが言える。それが恐竜が滅んだ理由であり、もし彼等の身体が巨大であっても、何らかの知性を同時に兼ね備えていたのなら、生延びた可能性もゼロではないだろう。
 要するにエリートとはある環境に特化し過ぎていないということがある部分では進化論的には求められているのである。つまり一つの環境に特化し過ぎていることは、かなりその同一の条件下に於いてはエリートとして君臨しやすい。しかしそれは現代世界経済社会に於いてなどに散見される様に、フレクシブルな対応を求められる激変的タームに於いては特化され過ぎていないということが精神的にも技能的にも求められている。
 勿論英語は重要だし、それが完璧であるなら、それだけで食べていけるとは言えるが、英語以外の語学に全く関心がなかったり、それを習得する意欲も能力も全くなかったりするよりは、いつ何時別の言語が自分が属する社会、共同体、国家で重要度が増すとも知れぬ場合には、英語+もう一つ別の言語への関心と情熱がある人の生活を救ってくれるということは大いにあり得る。
 エリートは時代毎に地球進化論の歴史に於いてそうであった様にその条件を変えてきている。それは職業に於いてもそうである。
 例えば大型コンピューターから小型化してきた時代の波でハードからソフトへと重要度が推移してきた歴史的経緯の中で、これからはハードもソフトもある時期が来たら、かなり安定してきて(需要的意味合いからも技術力的な意味合いからも)、不動点を模索し始め、今度はユーザーの天才が登場し、如何に既存の有益なメディアやツールやソフトを使いこなすかという局面に需要度がシフトしていっているものと思われる。
 事実未だに情報摂取と、情報提供と、創造的アイデアの提供に於けるスピードがより求められている時代であることだけは確かである。
 最早大学教授とか官僚であるとか、昔、常套的だった様な絵に描いた様なエリート像は有効ではなく、アウト・オブ・デイトであり、見てくれとか知識量とかイメージでエリートを推し量る時代そのものが終焉した、と言ってよい。
 尤も見てくれとか服装とか物腰よりも、これからの真のエリートはある種の好奇心、何事も既成の概念に囚われないでいて、しかも多様な関心領域へとアンテナを張って、又それでいてのんびりと何事にも対応していて、且つ仕事が速いということが条件となっていくのではないだろうか?それでも尚傲慢で人の言うことを聴かないタイプの成員ではないということだけは変わりないまま引き継がれて行く気だけは、あくまで私の直観ではあるがあるのである。
 それに未来のエリートとは厳密な意味で常に優秀である必要さえないかも知れない。適度に余り失敗のない様に全てをこなすのであれば、逆にある部分無知な部分が多くてさえ勤まる。つまり緊急の事態への対処(ある種の硬化した頭のインテリには不向きな)能力こそが求められているのではないだろうか?
 それは走ることに特化して獲物に撃墜して咀嚼していた恐竜が顎も頭も進行方向に尖っていた形状から逸脱していった形状の、つまり大脳を格納するのに相応しい形状になっていった我々の祖先の様なタイプの恐竜がもしいたのなら(その中でも羽を特化させた鳥類だけは例外的に隕石衝突後も生き残った)哺乳類との間で強力なるライヴァル関係を築き上げたであろう様なタイプの人類の危機に対処し得る様なタイプの知性(それは前世紀までに求められた天才性とは異なったタイプの)が求められているのではないだろうか?
 未来のエリートになり得る条件を満たしている者は全てに挫折してきた今の貴方かも知れない。