Friday, October 7, 2011

〔羞恥と良心〕第二十五章 思想と行動とは全く別のことである 日本人はそれを区別しない思考の仕方をする事が多い

 思想に於いてある他者へ憎しみを抱くという事があったり、言い換えれば殺してやりたいという気持ちを抱くことは別段悪いことではない、と私は考えている.しかし日本人はそういう気持ちを抱くことで実際にそういう行動を引き起こすのだから、普段からそう考えることはよくない、とそう考える人が多いと私は思う。
 しかしこれは可笑しい。普段から心底ある他者を憎むということが直接、例えばその者を殺すという行動を引き起こすとは私は思わない。殺人の様な行為を引き起こすものとは端的にその人の思想ではなく、突発的衝動である。これは自殺にも言える。自分を殺すことも普段からの思想によってではない。
 従って日頃から憎しみを抱く相手に直接手を下す事よりも、全くそういうこととは関係なく犯罪とは誘引されると私は考えている。

 内心まで倫理的で道徳的であれ、と考える精神論は日本人にとっては極めて集団や組織、国家への忠誠心を持つことが美徳であるとする考えからは合理的であると考えている人はかなり日本では多い。それは地方部へ行くほどそうである。
 しかし基本的に思想とは自由であり、行動のみ我々は社会や国家、組織や集団に於いて規制される、それが現実でそれ以上でも以下でもない、と考える。
 例えば人を恨むこととか憎しみの感情を抱くことそれ自体は恥ずかしいことなのだろうか?それは極自然な感情なのではないだろうか?一々然程親しくもない他者にそういったことを告げるということがないというだけのことである。そういう感情自体は自然であり、仕方ないことである。従ってそういった感情を全て心の内部から封殺しようとすると、却ってフラストレーションを心の奥底に沈殿させ鬱積させることとなろう。そちらの方が余程よくない。
 思想とは欲求であると言うなら、誰かを殺したい欲求を思想としているということは正しい。しかしそれは実現させるべきだということではない。実現させたらよくないと考えることも思想だとすれば、却って思想とは一枚岩的に全てが同じ方向に整列されてあるわけではない。そういった相互に規制し合い、或いはあるネガティヴな行動をしたいという感情を抑えるかと思えば、それを押さえつけ過ぎて我慢に我慢が溜まることがよくないと相手へのネガティヴな感情を表出させる方が得策だとも判断する。それはその様に一つに収斂され得ない形で様々な方向へと伸びる思念を同居させていて、その都度の外部から齎される(それは憎しみを持つその他者からだけでなく、自己を取り巻く全ての他者や社会環境からである)何らかのパワーに対する反応を自己行動として採用する為に内心で必要な非単純化された態度保留なのである。

 そうである。全ての感情は対外的には一定の態度保留以外ではいない様に静観しつつ取り澄ましている。それ以上のアクティヴな反応を示す必要性があるか否かはその都度判断している。その静観自体をも善悪の基準から言って惰性的な悪であると捉えなければいけないことはあるが、それは外部から自己に齎されるパワーの水準が静観を維持していくこと自体を解除すべきであると倫理的にも条件反射的にも判断した時のことである。勿論対外的な攻撃的態度や行動には自ずと限界があるし、程度問題であることは知っての上である。
 つまり思想とはそれ自体根源的な憎しみとか殺意にさえ近い願望自体が、それを実際に行動に移さずに維持されているという形でこそ理性の所在を示している。寧ろそういった憎しみ自体を平素から抱かぬ様にのみ心理的に訓練されていなければ危険だという思想は、却って理性の所在を信用していない考えである。
 ネガティヴな方向に深く刻み付けられた感情は、それを保持しつつ、その願望に抑制を利かさずにいたらまずいという理性的考え、或いは功利的考えを抱かしめる自己保身的感情と共存することでバランスが保たれている。それはそういうものとして冷厳と認知しておくべきことで、そういった憎しみを持たない様にすべきだ、という考え自体が、内心を訓育して上位者に対して謀反的態度を持たない様にすべきだという皮相な社会教条的習慣でしかない。
 だからこそ社会行動と思想とを必ず切り離して考えるべきなのである。思想は在り方は自由だが、行動に直結させる部分では自ずとどの成員に於いても制限せざるを得ないし、そうであるべきだ、と誰しも実は気づいているのである。
 この問いはしかしもっと何か具体的な形でもう一度取り上げて検証していく必要があるとだけは今言える。後日別章で取り扱おう。その時は今回述べたことを羞恥と良心からもう一度考えていく必要だけはある様に思われる。

Tuesday, May 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十四章 羞恥の正体Part2

 前回私は羞恥を言語習得に纏わる秘私的(私秘的)なことが想起される様な幼児体験的、言語的自我とでも呼べる自我発生論的なことから考えた。
 今回はそれを、では大人になってから喚起される羞恥とは一体どういう性格のものかということを考えてみよう。尤もそれは簡単に言えば幼児期的な記憶を誰しも持っていて、その頃から変わらぬ自分の中の恥部、例えば未だに克服されていない負い目なのであり、それはしばしば長生きをしている母親の前に出ると、いい中年男性でさえたじたじになってしまう様な意味での羞恥を他者に悟られたくはないという感情が喚起している。
 しかし羞恥を喚起される場面から中心に考えると、羞恥とは大人同士で親しくなればなるほど、その他者から自分自身のことを知られることに纏わる鬱陶しさ、心の負担からその他者から、或いはその他者との間の柵から解放されて自由になりたい、という心理によって支えられている。或いはその心理そのものであると言ってもいい。
 人間は他者から単純であるとなるべく悟られたくはない、思われたくはない。それは一面では極めて社会制度的なピア・レヴュー的な虚栄心にも起因している。要するに自らの価値を減じて見られることに近いと思えてしまうことから発している。
 だからこそ人間は他者との間に適度の距離を保ち、他者から適度に神秘的に見られることで人間内部の予想外の単純さをなるべく見抜かれたくはない。何故か?単純である。それは人間の心の内部などどの様な理性的人間であれ単純至極だからである。
 人間は単純であればこそ、その単純さを神秘化し、他者から神秘的(と言うことは実際より複雑に)見られることを望むのである。そしてその単純さを見透かされたくはない欲望こそ私達が羞恥と呼ぶものの正体なのである。
 勿論親しくなっていく相手との間では単純であると思われてもよい。それは虚栄心を持つ必要がない相手に対してなら、抱ける感情だ。しかしそれはその相手と対人関係が良好な内の話しである。いざ一度こじれてしまうと途端に、相手から軽く見られることに耐えられなくなってしまう。虚栄心が発生してしまうからだ。特に自分が孤立している状態の時には軽く見られることが耐えられない。逆にかなり人望を多くの他者から得てくると、相手に対する寛容さも持ちやすく、多少相手から侮られる態度を取られても相手を許すことが出来る。親しさ自体にも色々な種類があり、特に男性は男性社会的意味での年齢、階層、職業、収入その他による格差的な意味合いからそう単純に相手とどうすれば巧くいくということを決定することは出来ない。最初趣味で付き合った友人関係もどちらかが正業としていくに至って、正業としていくことを放棄した相手とは巧くいかなくなるということも大いにあり得る。つまり共通関心領域、共有される話題のずれが甚だしくなればなるほど単純であることを相互に認めることが厭になる。相手は今迄のままでもこちらではそうであって欲しくない。自分の方がずっと進化してきているのに、とそう思えてしまう。
 
 他者とは、とりわけ自己の実像をよく知る親しい他者による自己に関する認知量と認知内容の増大がある種の疎ましさ、鬱陶しさを喚起するとしたら、それは自己現実逃避願望に他ならない。つまり言語前的な内的な羞恥が他者から容易に知られることで齎される自己内の単純心理を読まれることへの恐怖であるなら、自己を最もよく知る他者は自己の現実、即ちやがて到来する死という現実自体への凝視からの逃避を誘発する恐怖対象に他ならない。
何故なら親しくしている間は楽しく心地よいので、深刻に死を眼差することはないから、逆に差し迫った時間の経済に於いて、哲学的生への問いは親しさの中で雲散霧消していってしまう。それは残された時間のことを考えると時間の浪費に繋がる。従って親しさとは節度ある距離から相手への配慮を剥ぎ取る残酷な一面もある、ということになる。
 我々にとって全ての社会的地位やあらゆる外部の装いは観念的形式的纏いでしかなく、それは言語前的な内発的な衝動(それは至って単純至極だ)の保有に対する隠蔽以外ではない。社会的地位や年齢差、階層差こそがそういった隠蔽、つまり羞恥喚起を予め用意周到に回避させるシステムとなっているのである。
 この現実凝視からの逃避願望こそが、我々に夢を見させ、あらゆる対外的な自己弁護、弁解の取り繕いたる形式踏襲的言語行為を誘引している。つまり言語前的内発的衝動こそが言語を対外的な内部衝動のカモフラージュの為のツールとして利用せしめるのだ。
 羞恥、つまり内部衝動を見透かされる恐怖こそが、私達に直にそれを触れられることを回避させつつ、相互にその了解の下での観念、つまり言語で纏おうとするのだ。
 羞恥とは他者から自己が神秘化されないことによって(距離が近づき過ぎることによって)得る、ある他者からの蔑みへの恐怖に他ならない。
 他者への神秘化、端的に一定の距離が近づいても他者を神秘化させるものとは人生経験以外ではない。それはある部分完全に不可知論であるし、それを実践させる人間修養は人生での挫折が他者愛を作ることからなされる。
 倫理とは(或いは慈愛の魁とは)近づき過ぎた距離にも拘らず失わない他者への神秘化、つまり分析哲学で言う現象的であること(哲学的私)の容認の切実化に他ならない。
 
 失望、とりわけ他者に対する失望は距離が近づき過ぎることで神秘性を失うことから生じる。
 もし羞恥が親しい他者からの衝動察知への恐怖が生むとしたら、それは血縁者に対する憎悪と非血縁者への支配欲求としての性格も併せ持っている。
 そして非血縁者への支配は実際の権力者から好意を持たれたり、関心を持たれたりすることなら或いは可能だと誰しも考えることにも繋がっている。長い者には巻かれろ的な心理がもしあるとすれば、それはそういう権力支配・被支配関係に自らを置くことによってその見返りとして自分なりの権力を保持することにある。そしてそういった人間関係に於いて我々は何処かでやはり自分の支配下にある者からも、自分を支配する者からも失望されたくはないという虚栄が羞恥によって喚起されているのである。
 

Tuesday, March 8, 2011

〔羞恥と良心〕第二十三章 予め用意されていること

 我々は生まれた時既に人類の間でミームとして定着していた言語体系に放り込まれる。つまりその既に用意されていた体系に必死に同化しようとする。
 それは幼児期に我々が確定的な仕方を、それぞれ個体毎に異なった経路からではあるかも知れないが、曲がりなりにも習得して、周囲とコミュニケーションを取ることが支障なく出来る迄になることを無意識の内に目指す。従って自閉症や言語障害なども、そういった一つの学習過程上での一つの様相である。
 さてそれはしかし大人になってある職業に就く時にも同じ様に待ち構えていることである。何故ならどんな職業でもその時代の使命とか、既に粗方決定されている、その職業が職業として成立する為の社会全体の中での役割が与えられ、それに準じた一つの業種毎のその時代なりの潮流があるからである。それはある方向を常に向いている。何かそういった旗が振られていたり、先端で指示したりしている様なことがない限り、一切の業務は成立し得ない。
 これは既に人類が誕生して以来、ある程度運命づけられている事態である。何故なら身体的な生物学的DNAが粗方決定されている様に、その脳内で考える内容も粗方決定されているとも言えるからだ。何か途轍もなく素晴らしいことを思いつく時我々は、それを自分の考えであると知るが、それはあくまで何時の時代にか、誰かが既に考えていたことでもある。それを知る過程そのものが、小学校から大学に行くまでの間の教育課程であり、就業してから今日迄の間に身につけてきた仕事の技術であり、理念であり、方法である。
 しかし予め自分が就業する時には形成されてしまっていて、その事実自体をどうすることも出来なさがあることは、一面ではその就業過程に於いて職場や職業に関わることで遭遇する社会環境自体の前提的な様相の前で就業者に固有の緊張を強いる。その強い方はそれぞれ職場や職種によっても違おう。しかしそこで何とか周囲の同僚との競争とか、協調、協力に於いて、それほど周囲の負担にはならない様に心がけるその構えには、内的な羞恥、つまりへまなことをして周囲から嘲笑を買わない様にしたい、という思いが巡っている。
 仕事上での使命に準じることで、我々は適度の競争と緊張によっていい成果を上げられる一方、その使命感に呪縛され緊張を持続する上で、相互に成員同士は周囲から「足手まとい」になりたくはないという気持を誰しも抱くが故に、予め相互に過度の負担を掛け合わない様にしようという智恵が働く。そういったことから組合も形成されてきたのだし、同僚間での親睦といった感情も生まれてきたのである。
 要は羞恥を相互に齎し合わぬ様にしたいという願望が、談合的な集団内様相を構成していくと考えられる。そしてそれもまた予め用意されたものの一つである。
 芸術家、学者、研究者、技術者などが同業者間で頻繁にパーティや懇親会をするのは、そういった相互に余りにも時代的潮流から外れていかない様に心がけたいという心理と、相互に異なった資質とか能力があること自体を確認し合い、相互に尊重し合う為に設けられた習慣である。それは一方では羞恥を相互に発動させ合わない様に工夫していると同時に、相互に些細なミステイクは大目に見てあげようという良心である。
 しかしそれが習慣的に定着して徹底化していってしまうと、例の大阪地検特捜部の書類改竄証拠隠滅事件とか、角界での八百長の様な事態を招聘するとも言えるのである。
 それは集団内部での協調的良心が過度に不文律化していってしまい、外部からの要請であるところの職業的使命よりも優先されていってしまう、就業者内での惰性的相互の心地よさへの追求の結果なのである。それはどの様な革新的な目的を帯びた集団であれ、組織であれ、法人であれ、必ず発生していく「予め用意されていること」自体が、円滑に業務を推進していく上で便利であるし、就業者にとって快適であるからなのだ。
 しかし就業者自身が快適に仕事が出来なければ、いい仕事は確かに出来ないが、その快適さの追求自体が職業的使命とか社会全体からの要請よりも優先していってしまうこと自体はモラルハザード以外のことではない。
 従ってある時には相互に羞恥を示し合う、つまりそういった心理に相互にならない様に図ることだけではなく、否もっと積極的にそういったこと、つまり暗黙の内に相互に批判し合わないという淀んだ空気を払拭して、要するに自由に批判し合うということ、変に上下関係とか対人的な恩によって齎される感情的配慮を無効化するくらいの徹底した集団内職業目的を純粋に追求する視点を常になくさない様にしていくべきなのである。そしてその様な円滑に集団内の対人関係的感情が維持されていくことだけに集団や組織が機能することを未然に防止する措置とか、チェック出来る体勢自体も、「予め用意されていること」に含めておくべきなのである。仕事上でのなあなあ関係ではない、要するに適度に相互にミステイクを大きくしない様に補正し合う機能を、対人関係的にも、仕事のプロセスに於いても、集団で相互に惰性的快適追求へと陥らすことのない様に計らうということが、実は最大の羞恥(それは集団全体の羞恥である)を未然に阻止する手立てなのである。
 そしてそれが意外と難しいのである。何故ならそういう風に巧く失敗なく業務が捗ることを目的として、「予め用意されていること」にする為の措置自体が惰性的機能に転化していってしまうことが多いからである。
 従って集団内では我々はこの措置自体を時々点検していく必要がある。つまり時々慣例的なこと全体を見直すということが求められているのである。そして「予め用意されていること」自体が完全固定化されていくこと自体を阻止する様にすること、少なくとも五年か六年に一回くらいは、全面的改正ということを行うということが求められていることなのである。

Tuesday, February 1, 2011

〔羞恥と良心〕第二十二章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part3

 前章で私は記憶と人格の問題に触れた。これは極めて重要な前提である。実際に自分のしたことを覚えていない場合には罪に問うこと自体が困難化する。仮に誰かを殺しても、その殺した記憶を失ってしまっている者を死刑にすることは倫理的には困難である。しかし巧妙に記憶喪失を装っているということは常に裁く側は考える。実際にそういう場合もあり得るからだ。だからこの問題はかなり厄介である。
 記憶は個人の所有である。そしてそれはかなり個的なことである。
 
 スーパーのレジの店員が女性で男性客に釣銭を渡す時、それを客が落とさない様に手を握らせる様に握ってくる(好意で)人がいる。同じことを男性店員が男性客にしても何の問題もない(何らかのゲイ的サインと受け取るかも知れない客以外では)が、同じことをもし女性客にしたら、或いはセクハラとして訴えられるかも知れない。迷惑条例違反に問われ得る。そこに奇妙なジェンダー的な歪さ(固有の差別意識、つまり女性に対する異様なる配慮)がある。そしてそれは日本ではかなり他の国よりも多いことではないだろうか?つまりそもそもそこまで客の為に心配りをするなどということは、よく聞くことであるがイギリスではあり得ないだろうし、アメリカでもそこまでではないだろう。
 しかし次の様な例ではどうだろう?
 スーパーのレジの店員に対して、その人が異性であった場合、しかもかなり美人であった様な場合(勿論そうではなくても)色々な想像をすることはあり得る。しかしそれは人には公言出来ない種類のものもあるだろう。しかし再び同じ店員がいるレジに向かうと、以前想像したことを思い出すということはあり得る。それは言語化し得ないものであっても、本人にとっては切実なことである。
 それはその想像を実行に移さない限り許されることである。少なくとも私はそう思う。つまりまさに記憶とは個的なことだからである。
 しかしそんな想像をすること自体をいけないことであるという倫理的考えの人も日本には多いだろう。何故なら日本は個人主義という考えが社会には根付いていないからだ。
 要するに日本は巨大な村なのだ。だから個人主義者、しかも徹底したそういう考えの人は絶対に出世出来ない。しかしその不文律にある種の息苦しさを感じ取っている人は実はかなり大勢いる。ツイッターをしているとそれを理解することが出来る。大半のツイートはそういった息苦しさ自体から出た呟きだからである。
 基本的に日本に都市構造というものが精神的に定着しているかと問われれば疑わしいとしか返答出来ない。
 確かに東京に行けば大きな銀行とか大きな役所に行けば、てきぱきと向こうから指示してくれる。そういう面だけ見れば都会とはそういう合理的な空間なのだ、とそう思える。
 しかしそういった職場の中に一歩従業員とか公務員とか行員とかとして入れば、そこでは極めて村社会的な精神構造を読み取ることは容易い。ブログ「トラフィック・モメント」の第五十三章でも書いたが、議員もマスコミも大局的な意見より、ずっと小規模な村社会的発想で物事を言う。これは議員(今では与党までもがであるが)がマスコミを意識しているということも出来るし、マスコミが議員の無策に影響されているとも言えるが、兎に角責任倫理的なことよりずっと心情倫理的なことを多く言う。最近の政治家では心情倫理より責任倫理を重んじたのは小泉純一郎という宰相だけだった(尤も彼の靖国参拝行為は少し違ったが)。
 日本では各職場では全体として和んでいる必要が各成員に求められる。これこそが村社会的だということである。ライヴァルがいてもいいし、仕事が終われば何も又別の居酒屋などに皆で繰り出す必要もない。その点で徹底的に友愛社会的である。しかしそれは決して都会風ではない。個々のケースでは都会風のバーで知らない人同士が声を交し合うことはあり得る。しかし少なくとも職場ではそうではない。
 これこそを制度的良心の日本型友愛主義と呼ばずして何と呼ぼう。そしてそれを成立させているものこそ、実は羞恥心があることが当然という心情倫理である。
 この国では勇気ある者を蔑む。皆の前で発言をすることを躊躇ない成員は出過ぎということになる。つまり慎みとは余り頻繁には意見を言わないということなのだ。それは公の場では少なくとも都会という空間は成立していない、つまり田舎芝居小屋での寄り合いと同じということを意味する。
 年配者、社会的上位者(その上位者はその場によって勿論異なる職務となるが)への配慮と集団全体の調和を常に取ろうとする。つまりある部分では葛藤とか意見の違いをそのままにするのではなく、巧く纏めようとする。そこで調停的な知性が異様に重んじられる空気が醸成される。そこからは永遠にユニークな意見は押し潰されていく。
 巧く穏便に全てを済まそうとする知性は日本人に固有のものではないだろうか?従って公職などで出世する人員はそういった知性の持ち主に限られている。だから逆に作家などの職種には勢い、そういった知性から程遠い人ばかりが寄せ集められる。そこに全ての職種に於けるワンパターンが構成されるのだ。だからこの社会には新陳代謝的なダイナミズム(それは年功的な意味合いではなく、資質論的なものとしての)が生まれないのである。全てがある程度先々まで読めてしまうということになる(まさに政治がそうである)。
 だから都市空間は確かに都市機能維持の面から言えば日本は他の国よりもずっと都会的ではある。しかしそれはあくまで飲食店などの店舗に於いては言えても、公共施設や役所、或いは民間企業のオフィス空間ではそうではない。つまり外見だけが都会的であり、内面つまり働く人達のメンタリティは村そのものなのだ。
 この点がこの国を極めて不可思議に矛盾した精神構造にしているし、又一方では奇妙な魅力ともなっている。
 確かにある会合でかなり場慣れした人はそうでない人に気を遣うべきではあろう。しかしもう既に何度も同じ会合に出席しているのに、一切ものを言わない人の方が、頻繁に意見する人よりも重宝がられるという側面はこの国では否定出来ない。それは会合自体の主催者の独裁的決裁をしやすくする為の巧妙な言い訳でしかない。大体に於いて何度も重ねて出席しているのに一切意見を言わない者は只の無能者である(意見を発言するという意味に於いてだけであるが)。その点でも機会平等の原理と発言の自由の原理がこの国では両立し難い。主体的であることは、公的である場合のみ許されるという雰囲気がこの国には支配的である。主体的であること自体が極めて個人的な色彩であることは、少なくとも日本ではクリエーションの世界以外では一切認められない(最近では東京都の条例で非実在青年という形で漫画やアニメの題材に於いて論議を醸したので、そうも言えなくなってきた)。
 要するに漫画やアニメ、ゲームソフトなどで過激な性表現が横行する背景には、実はものを容易には言えない空気を皆で美徳として作っているということが根底にはある。それが固有の日本人の羞恥である。本論文タイトルである「羞恥と良心」に於いて本章で初めて日本人に固有の羞恥に就いて私は触れている。第十四章 ゲゼルシャフトがゲマインシャフトになり、ゲマインシャフトがゲゼルシャフトになる や第十五章 ツイッター上での人間関係論 に於いて私は現代社会固有の問題に就いて触れた。しかしそれは敢えて言えば何も日本に限ったことではないこととしてであった。しかし本章ではその禁を解こうと思う。何故ならこうして書いている自分自身がまぎれもなく日本国民だからである。
 端的に日本人が完全なるnationを生理的に嫌い、村落共同体を巨大化したものを尊ぶという社会性格的嗜好性とは、羞恥を美徳とするという暗黙の集団内秩序認識、そういった美徳に於いて人格形成してきたという集団論理に根差す。或いはそれは教育に於いてもそうである。従って日本ではインテリは概して温厚な性格でなければならず、エリートは一般人に対してジェントルであることが求められる。或いはそういったノブレス・オブリジは全ての先進国でそうかも知れない。しかし日本では極めて固有にそうなのである。
 それは集団内和気藹々体制への志向である。
 この点ではインテリ階級的な場ではそうとは限らない。しかし日本の集団、組織の大半はそういう性格のものではない。やはり決定的に凡庸な統括者の指揮の下で和やかに和気藹々に全てが対立など一切介在することなく進行していくということが大半ではないだろうか?
 要するにその辺がまさにかつての通産指導型的知性の民族なのである。護送船団方式は政治では批判されていても、精神構造には深く入り込んでいる。それは攻めと引きのタイミングとか、こういう時には発言をし、こういう時には黙っているべきであるという美徳から、その方法まである程度定型的に不文律化しているということをも意味する。
 今回述べたことが何故定着しているかということに対する根拠を歴史的、現実の実例をも考慮に入れて次回は考えてみたい。

Monday, January 24, 2011

〔羞恥と良心〕第二十一章 所有に纏わる制度的良心と羞恥Part2

 本章では内的良心と外在的にある個へ良心を責任倫理的に課すということの間の齟齬に就いて記憶の問題から、つまり記憶喪失者は果たして処罰し得るかという命題を、人格と刑法学的見地から考えてみたい。大仰な言い方をしたが、何のことはない、案外単純な論理である。
 思考実験として次の話をここで示す。
 ある中年の歌人がいるとしよう。彼は長い間別の職業をしてきた。そして本当には自分がしてみたいことと向いていることが短歌を創作することであると、ここ数年の間に覚醒して、人生上で方向転換をしようと試みてきた。その過程である同人と知遇を得る。それが二十歳そこそこの天才的歌人であったとしよう。彼はその天才歌人と交流を図る。そして二人とも同じ歌人の新人賞を狙っていたとしよう。ある日中年歌人は青年歌人と相互に自分達の作った短歌を披露し合う。場所は青年歌人に誘われて彼の一人暮らしの自宅であったとしよう。その時中年歌人は自分自身の短歌に絶対的自信があった。しかし僅かながら青年歌人の短歌の方が優れていると直観した。そしてその時の新人公募が彼にとって最後の世に出るチャンスだと思った中年歌人は衝動的に青年歌人を殺めてしまうとしよう。彼は咄嗟に青年歌人の頭を殴って殺してしまう。
 しかしそうしてしまってから酷く中年歌人は後悔の念に苛まれ、半ば精神錯乱的に青年歌人の自宅を出て彷徨い歩く。そうしている内に不覚にも彼は信号機のない横断歩道に迫っている車を確認せずに渡ろうとしていて、その車に轢かれてしまったとしよう。彼はその時その衝撃で衝突した時刻から丁度一週間の間の記憶を失ってしまったとしよう。
 彼はその時刻から一週間前迄は自分で殺した青年歌人へ良好な感情しかなかった。つまり彼は人生上で初めて出会った親友であると思っていたのである。一重に彼を青年歌人を殺害へと赴かせたのは、最終的に予想もしない凄い短歌を青年が作っていたことを相互の歌を披露し合った時のことであった。彼は既にその瞬間の記憶を全く喪失している。従って青年歌人の遺体が発見されて、警察の科捜研等の捜査によって立証されて捜査の手が伸び一週間の間の記憶を喪失した中年歌人が逮捕されてしまった時、手錠を嵌められた彼にとってその事態は青天の霹靂であった。何故なら一切彼はその時点では青年歌人を自分が殺したという記憶を持ち合わせていなかったし、尚且つ彼は一切青年歌人死去事実を記憶喪失して以来認知していず、まさに逮捕された時点で初めて親友(良好な感情しか持ち合わせていない状態で)が殺されたことをデカ達から知らされ、しかもその犯人が自分自身が失った一週間の記憶の時期の自分自身であると知らされ、二重の意味で彼は打ちひしがれる。さて刑法学的に彼は恐らく酷い打撃を脳に被ったが故に、その一週間の記憶を死ぬ迄取り戻せない可能性がある彼の人格に対して彼を物理的には犯人であるからと言って裁くことが可能だろうか?
 彼は紛れもなく自分で記憶を失っている間に自分が殺した青年歌人の死去事実に対して酷く落胆し、悲しんでいる。記憶を失ってしまった時点以降の彼にとって青年歌人の死去事実とは悲しい出来事なのである。彼は悲嘆に暮れている。人格とは記憶と現在の行為の総計であるとすれば、我々は記憶喪失者を罪状的に訴追することが倫理的に可能だろうか?
 私はそういう判例を知らない。ひょっとしたらあったのかも知れない。しかしその時点では精神医療的認識は未発達であったかも知れない。しかしその様なケースが今日起きた場合、我々は如何にその判例に向き合うべきだろうか?刑法学的に犯人を罰することが可能であるのは、少なくとも倫理的にはその犯罪事実に対して犯人としての認知を本人がしている、ということではないだろうか?
 さて貴方はこの判例に対してどの様な判決を下しますか?