Thursday, February 4, 2016
〔羞恥と良心〕第三十四章 表情がメッセージであることを知っている我々は Chart2
本ブログ来場者の皆さんもお気づきのことと思う、人は銀行等の金融機関から出て来る時の表情がどんな場所から出て来る時よりも一番険しく訝しい表情であるということを。通常我々はそういう機関の建造物に入っていく時、重々しい気分にもなっている。それは金を引き下ろすことが大概の目的だからである。つまりその部分で我々は誰しも完全に社会全体へ性悪説的な見方しかしていないということだ。金を下ろして来る人を暴漢が狙うという可能性が一番高いと我々は周知している。
要するに我々は資本主義社会に生活している以上、金が無いという事実が貧困だけでなく、犯罪的誘惑をも生むと考えているのだ。
このことはリベラリズムでも、リバタリアン的な自由主義でなく、思想信条的自由を資本主義社会礼賛的でない位相からも容認し得るという形では、一般社会は通用しないということを意味する。
このことはかなり重要だ。つまり敗者を社会が容認しないからだ。敗者とは経済的弱者のことではない。所謂犯罪者や、社会的な意味で不穏当な発言を繰り返す人とか、実際にテロ等へ突き進む人のことだ。
李下に冠を正さずという謂いは現代社会でも通用するのだ。従ってATMの利用を待っている時我々は余り馴れ馴れしく社交的であるべきではない。
そういうある種の厳かな、訝しい他者観を持つことは現代社会では都市空間では一つの不文律的なマナーとなっている。
それは日本社会の伝統的コードである行儀(箸の使い方や、洋食を取る時にエチケットとかも含む、所作的なこと)とも又少し違う暗黙の現代人同士の同意である。満員電車では座っている人も足を組まないとか、要するにそういう心得である。
痴漢に間違われない様にするには満員電車には乗らないで済む様な職種を探すしかないという観念で此処二十数年生きてきたので、私は幸い映画<それでも僕はやっていない>(周防正行監督、加瀬亮主演)の様な悲劇に見舞われずに今の処済んでいる。勿論今後どんな災難が待ち構えているかも分からないけれど。
そういった意味で現代都市空間は足腰が丈夫でてきぱきとあらゆる社会インフラ的な機器を使いこなせなければ闊歩出来ない様になりつつある。
都市空間全体が老人にとって極めて不自由になっているのである。このことはしかし実はかなりユニヴァーサルデザイン的見地からすれば問題はあるのだ。
よく色々な機器を扱う仕方が分からずまごついている老人が居たら、ちょっと手助けしてあげれば、それでいいのだ。その点では若い世代にそういった心得があるか否かは道徳教育にかかっているとも言えよう。私なら直ぐ分かる範囲でならお年寄りにアドヴァイスすることに吝かではないが、そういうこと一切を嫌がる人も居るかも知れない。
別ブログ(トラフック・モメント)で<老いることを許さない社会>に就いては以前触れた。→< 〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十章 老いることを許さない社会 http://trafficmoment.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html>社会インフラが益々時間節約性に於いて加速度的に連動を求めてきているのだ。連動に就いても別ブログ(意図論)で<都市文明に於ける連動と与えられた市民の幸福観>というタイトルで記事を書いた。→<http://logicofintention.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html>
これ等は要するに市民社会にスピードの競争という原理を与えているけれど、それは幸福感に直結しているだろうかという疑問から出たものだった。今もその考えに変わりはない。
つまり便利になり時間が節約されること自体が、強制的に我々に覆い被さってくると、自分なりの時間の使い方が徐々に摩滅していくのだ。余暇の時間の使い方から、行く観光地迄全て商業活動の収益アップに供せられる様に社会全体が仕組んでいるのではないかと思える要素は現代社会ではあり得る。だから私自身はそういったあらゆる触れ込みを一切無視して行きたいと思う場所だけ選んで行っている。今は~に行くのは旬だという観念は少なくとも私には無い。
それが本当の自由主義である。社会全体が便利にならなければいけないと考えることは、一種の全体主義である。思想も娯楽もそういう風に一番大企業とか国家全体の収益にならないものは積極的に無視していこうとするなら、それも又全体主義である。そしてそういう風にややもするとなりやすい性向も日本人には在ると思ってもいい。
さて社会全体は性悪説的に機能していることは確かだと分かった。ではどの様にそういった社会全体の連動から自由になることが出来ると大勢の人達が覚醒していけるかというと、メディアのご都合主義的な報道だけに振り回されずに自ら主体的にウェブサイト等で時事的な情報を摂取する様にするしかないとも言える。メディア、つまりテレビや新聞は書き立てることは大体相場が決まっている。だからそれ以外の稀有な情報の方を自分自身にとって価値あるものと認識出来るか否かということである。
金融機関を利用するしかないという意味で現代人はまず資本主義社会で通貨を利用するということに同意している以上、我々は性悪説的な前提で全てを考えている。警察も必要だし、監視カメラも(盗聴システムも場合に拠っては)必要だと思って生活している。
しかし重要なことは、それでも尚他者と信頼し合うということも重要だし、不可欠だと考えていられるかということだ。先程の老いることを許さない社会だけでは駄目だ。老いることを自由にさせてあげられる社会でなければいけない。そういった意味では結局結婚して子供を育てられる一部の富裕層的な人達にとってのみ社会へ貢献してきているという評定を齎す様に益々機能している。
だから意図的に我々は色々な意味でのユニヴァーサルデザインでなければいけない、という風に、しかも機器等も色々な角度から利用しやすい様に取り計らえるディヴァイスがインフラ的にも求められているし、そういった意味ではプロダクトデザイナーの出番は未だ未だかなり必要である。
分析哲学的には我々は他者の心は決して自分の心の様には読めないし、それを知っている。だから逆に他者の心は他者の表情と態度、所作でのみ知ることが出来る訳だから、必要以上に歩きスマホや車中スマホで意識を液晶画面にのみ釘づけにしない様に心掛けるべきだとも言える。独在論的都市空間闊歩から時折自己を解放させていくべきである。
Wednesday, December 23, 2015
〔羞恥と良心〕第三十三章 表情がメッセージであることを知っている我々は Chart1
語彙は文字化された時明らかに一種の形而上的存在意義を獲得した。それは文字がヴィジュアル化された自己肉体からすれば外在的な地点に意識を集中させることを旨として考案されたものだからだ。だから意味は必ずその言葉=語彙の連なりを産出した当人の感情が素の侭剥き出しではない。そもそも感情が剥き出しなのは心だけである。だがそれは丁寧に断りを述べる文章でも心の中では拒絶があるから成立している訳だから、心は断る場合は誘われたり頼まれたりしたことに対して閉ざしている。
だが文字でも心でもないものとして直に相手と接触する場合には表情が重要な記号となっている。表情を示すことは一つの感情の意味だ。怒りを必死に抑えようとしていることも、怒りを爆発させたい気持ちも共に素の心だが、直に相手へ断る場合にはネット上で文字入力している場合より、より表情で拒絶感情を示し得るし、その様に相手に相対している場合相手への威嚇的効果があると知っていて、我々は常にそれとなくきちんと相手に拒絶感情を示している。
そういう一々の応対が億劫であればこそ入社試験に落ちた人に対しては誠に遺憾ながら貴殿のご主旨に添えなく申し訳ありません、等と書くのだ。それは表情を示すことで相互に後々迄感情的しこりが残ること自体を避けている証拠だ。
文字は、だからある意味ではそういった素の心が剥き出しになりやすい表情を隠蔽する強かな悪意隠蔽装置なのだ。勿論既に形而上的な意味伝達を知ってしまっている我々は慇懃無礼に書く文章であればある程、侮蔑や拒絶の感情が書き手の素の心に巣食っていると知ってしまう。
素の心は相手に表情を一切見せなければ、一つのブラックボックスであるが、表情を相手に知られるということは一つのヴィジュアルの極めて読み取りやすいメッセージとなる。文章とはだから意味=語彙の連なりから読み取る相手の意図から、感情的な応酬を回避する為の巧妙な措置である。だから相手へ感情を読み取られてしまう羞恥心を利用して、相手を傷つけまいとする意図こそ良心だと言える。だがそういった配慮をされてしまえばしまう程儀礼的・形式的な冷たさを我々は感じ取ってしまう。しかしウェブサイト利用時代の我々はそのある種のロボティックな突っ放し、感情を剥き出しにした侭に決してさせない様にツール・ディヴァイスリテラシー的なナルシスを相互に認め合う形で相手へ断りのメッセージを示すことはSNS(とりわけTwitter)で気に入らないフォロワーをブロックしたりすることで示すことが出来る。
つまり既に手紙で返信したりすることと違って、ウェブサイトでは冷たい突っ放し自体が全ユーザーに共有されているし、それを前提として、それはゲームなのだと我々はウェブサイトコミュニケーションリアルを理解している。
文字は本として出版されているものだと、あくまで書物を出版へ漕ぎ付かせるのにはかなり時間が要るので、それがある程度長期永続的な著者の読者へのメッセージだと我々は了解している。この部分はテレビのニュースやウェブサイトのニュース告知とは性質が違う。当然SNSでの遣り取りはその時々の気分が最も支配的である。
感情は素に相手と接している時と、文章化する時と、ウェブサイト上で通信として遣り取りする時では性質が違ってくる。羞恥的な事は意外と大きいのがウェブサイト上で気分で書く時でも余り時節や時代的常識を知らずに書き散らすと恥ずかしい思いをするから、余りよく知らないことは書き込まない様にする、アップしない様にするという心は誰しも持っている。
素に相手と接している時は相手に侮蔑の感情を知られない様に巧く素の心での相手への気持ちを伝えない様なポーカーフェイスを我々は作ろうとする。それでもあざとい心の読み手には直ぐばれてしまう。言葉でも直に相手と接して伝える言葉と、文章化して読ませるのと、本等に記述するのとでは伝える相手と伝える自分との間の距離感が物理的にも精神的にも性質が違うので当然語彙や例証する時の選び方が変わってくる。
選び方も変われば伝え方も伝える時の伝えたい相手への感情も変わってくるという訳だ。だからある意味では語彙も言葉も文章も言語を伝達する論理も、それぞれのケースに応じて(当然ウェブサイト上でのネットコミュニケーションもその一つだが)全く在り方が違って我々に拠って認識されているとも言える。
表情を晒している場合には表情のメッセージを読み取られやすいと思われまいとする配慮が、表情が一切出ない場合には、形而上的な意思疎通の壁を如何に読解する側は取っ払い、素の感情を読み取ろうとするかという配慮が働く。
しかしポストモダン思想では明らかに後者の配慮を悪い意味での深読みであり、それは正統な文章の読み方ではないと考えていた。
次回はそのこと、つまり書かれたものは既に直に相手へ伝えるコミュニケーション(発せられる語と表情)とは全く違っているだけでなく切り離されているものだという認識に就いて考えてみる。
Thursday, January 29, 2015
〔羞恥と良心〕第三十二章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart4 完成に懐疑的な現代人類
田辺元は『種の哲学』で種概念の規定を行った。この種の上位概念として類を設定した。類は人類自体であり、種は民族のことである。
さて前回から引き継ぎ今回は羞恥を隠蔽するシステムとしても機能する民族共同体とか民族社会とか民族国家等とグローバル
な人類、つまり世界とは対立し得るだろうか、という問いを行ってみたい。
率直に言ってそれは徐々にどころかかなり急転直下的に瓦解してきたと言える。民族は感性も育むが個人の感性も育む。だから例えば日本人が日本国家だけを中心に考える時には天皇制等の宗教伝統的なコードは憩いであったり、精神的支柱であったりするも、現代社会の利便性に満ちた生活ではそういった感情に到る事の方が少ない。それは何かの拍子に突発的に起きる感情である。例えば北朝鮮からミサイルが日本海や太平洋へ向けて発射されたりといった事態に於いてである。だが日頃はそういったこと迄意識には上らない。そして寧ろ世界市民性がウェブサイトの拡充に拠ってより強固になってきている。
ISILに拠る様々な悪辣なる暴挙に拠って世界中が引っ掻き回されているが、後藤氏の生命保全に向けて意識している時は日本人は日本民族の連帯とか結束を意識するも、この組織の壊滅自体を意図した心では明らかに世界市民性を最優先している。だからこそ国際協調で色々な打開策を講じている訳である。
世界経済はあらゆる意味で国際協調的解決を求め、我々は世界的規模でしか一市民性を確保出来ない事を誰しも(どの民族のどの市民も)自覚している。
ウェブサイトが世界を変えてきたという要素も否めないが、寧ろウェブサイトを通して世界を変える様に人類がしてきた部分では、明らかにウェブサイト以前にも多くその変わっていく兆候は読み取れる。
映画ではディレクターズカット等という別ヴァージョンを一般映画では普及してきている。これはプロデューサーの意向と監督の意向が合わない場合、プロデューサーは出資者である為そちらを優先した編集になるが、監督は上映作品の作者なので、その意向を最初の封切以降に汲み取る仕方のビジネスである。
大体ディレクターズカット版の方が余剰、剰余が表現に漲っている。それは纏めてしまっていることへの潔しとせぬ<ある未完成性>への執着である。
これは日頃我々が短文を掲示させるSNSで既に経験していることである。ブログ等でも長文を読ませるより、短文を羅列して何処から読んでもいい様に配慮する方がずっと読む(来場する、検索する)側からすれば読み易いのだ。
結局長文を読むのにPCの画面自体が適していないということと、そもそも長文をじっくり読むのは本に任せ、それ以外は短文メッセージを数多く読むという習慣を現代人は選び取っているのである。
それは言語が意識下で行われていることとは心の言わば本音であるが、それを巧く(つまり差し障りのない様に)調整してから何か発言するのが我々の日常であるが、その無意識に出る本音的部分を我々は自分に対しても人に対しても知りたいという欲求がある。そして本音的心の部分は確かに未完成で混沌としていて、矛盾している。しかしそれを秩序化して意識的に伝達メッセージ化すると、其処では原初的には存在したある固有の輝くは損なわれることを知っているのだ。だからこそ原初的な、つまり荒削りではあるものの、何か根源的なメッセージになり得そうな何かを求めて我々はSNSに書き込んだメッセージを掘り起こすことをするのだ。
最近の著作物では哲学者、永井均の『哲学の賑やかな呟き』は彼のミクシーでの仲間達との対話から掘り起こした哲学エッセイ集となっているが、これは明らかにその原初的メッセージの持つ輝きを掘り起こそうとした意図の著作物である。事実この本では永井哲学の骨子となる幾つもの命題がかなり原初的に混沌としてはいるものの多様な意味を内包した哲学的疑問のマグマの様なものが読み取れる。
この読ませる為に変形を施す意識の作業に対する無意識の疑問や思考的な渇望に潜在するマグマ的力を未完成性と呼ぶとすると、其処には明らかに整理され尽した完成にはない生な叫びと呟き、囁き、要するに他者や自己へ向けた鮮烈なメッセージの輝きがある。
それを現代人は求めている。だからこそ短歌や俳句も益々見直されているのだ。と言うことは裏を返せば現代人は既に完成された、つまり本音的メッセージを整えて体裁良く設えた意図自体へ懐疑的な感性を持っている、と言う事が出来る。却って未完成なものの方に大いなる魅力を感じ取っているのだ。
展覧会で画家の作品を目にする時仕上げられた完成作品より、その段階へ至る前のドゥローイングとかデッサンとかエスキースの段階の平面の方に魅せられることもしばしばある。つまり其処には完成迄漕ぎ着けていないからこそ発見出来る新鮮な作者の欲求の塊を見出し得るのだ。それをこそ価値とする感性は宗教文化的呪縛から解放されている現代人(イスラム教は未だかなり厳格なものが求められているが、それ以外の大半の宗教文化伝統保持国では)は、表現の自由的な民主主義精神の普及と共に寧ろ生なメッセージを求めていると言える。それは未完成であればこそ却ってストレートな何かがその都度あり得るということである。
成熟はある意味では最も凡庸なものでもある。それは老成した中年を見れば分かる。寧ろ荒削りであっても、其処に変な衒いやいい子ぶった諂いがないからこそ惹きつける青年の魅力というものはあるし、未熟な部分を余り残し過ぎていると拒否反応を催すが、多少は残していた方が全くそれらを排除し切ったものより感性的には魅力を見出しやすいということを現代人は知っているのだ。
これを自然な逆説と呼ぼう。つまり現代人は自然な逆説を受け入れるくらいに鑑賞眼も判断基準も逆に成熟してきているのだ。つまり成熟した感性こそ未成熟な魅力にも価値を見出すということである。これは完成された文学作品以外に、作者が推敲に推敲を重ねた生な原稿用紙に価値を見出す感性とも基盤は同じであろう。勿論この場合は完成されたものが素晴らしいからこそ、その結論へ導かれた過程にも魅せられるという訳だ。
そしてこの未完成性へ魅せられ自然な逆説として受け入れる現代人の感性を完成させつつあるものこそウェブサイトであり、それを共有し合う現代人類は明らかにグローバルな世界市民性的感性を獲得してきている。其処では類的なものと個的なメッセージ性とがダイレクトに結び付いている。それは時として過激なメッセージを世界に送受信させ、テロリズムを誘発する危険性も帯びたものもあり得る。にも関わらずそれを超え得る可能性を既にウェブサイト上でのメッセージに見出し、未来を託している世界市民の方がずっと多いからこそ、ウェブサイトを廃止しようという声は上がらないのである。
現代人類はメッセージ発信性に於いては種的呪縛を超えて、こういった個々に使用する言語や文字は民族共同体、民族社会、民族国家性を保持しつつも、メッセージ発信形式や読解する習慣としてはスマホでも読み易いメッセージ、そして完成、それは多分に長文を前提として発展してきた作文秩序であったのだが、それを超えた未完成性を残したリアルな本音的メッセージの方を自己感性にフィットしたものとして選び取りつつある、と言える。それを支える現代人の感性は田辺元が言う所の種的なものを超えた類的なものであり、メッセージ受容グローバリズムとでも言うべき感性であると言い得る。(つづく)
Friday, July 11, 2014
〔羞恥と良心〕第三十一章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart3 感性論と理性論
羞恥とはかなりの部分体制的、革新性や創造性とは無縁の保守的な慣習踏襲性に彩られている。それは創造的見地から言えば無思考的である。
つまり創造性とは羞恥を払拭する必要がある、という事だ。創造的言語であるとは、言い回しとか慣用句の常套的利用とは対極の、慣例性への批判であり、無思考的に保守的思考を軸とした常套的説諭、常套的纏め方、在り来たりの論理思考の運び自体を否定する。
ところで概して芸術とは全て形式へと昇華させる事がクリエイターの目的である。だからこそ二十世紀にはインスタレーション等も勘案され、それも又一つの表現形式となった。ニューメディアアート以降のアートムーヴメントは従来迄のメソッドや新しいメソッドの総合であり、アート自体の持つ形式性の知的綜合を通したアートメッセージの読み直しである。
哲学も又論証性や推論といった事に纏わる論理思考性それ自体の論文的統合である。哲学は我々にとっての生や世界や空間や時間を形式的に、戸田山和久の謂いを借りれば概念工学的な見地から形式的な再構築(世界等がどうあるかを言語的に解説する事)を追求する事である。
この芸術、つまりアートと哲学の形式性に対して常に言葉自体は言語という論理形式を我々は借りているにも関わらず、その形式自体ではなく、その形式を通して伝えたい内容の方へ意識が行く事を概ね我々は自動的に(無意識的にと言ってもいいが)行っている。
文学はその自動性と形式依拠的事実自体への認識との両方が重なって統合されていたり、比較的に配置され対照性を示したりする事それ自体の事である。
日本語に拠る娯楽表現での言い回し、慣用句、言葉の運びそれ自体の韻律や調子の全ては歌舞伎、文楽、落語、講談等のジャンルに誰に対しても伝わる様式が確定的である。つまり其処には羞恥の払拭ではなく、羞恥を保守し、誰しもが身構えて創造しなくてもいい様な聞き心地の良さが込められている。それが一般的娯楽の定型である。都都逸もそうだし、追分もそうであれば、歌舞伎より古い歴史のある神楽の所作、リズム、全てがそういった日本民族にとっての鑑賞している時の心地良さ、それは祭りの囃子等と全く重なっている民族的文化コードに随順している。
短歌・俳句・川柳にはそういった様式的伝統的踏襲という意識が前提されている。だからこそ再解釈とか再創造の際には本家どり的な事が一つのチャレンジとなって為されるのだ。
だが理性論はそういった民族生理的な感性論とは常に真っ向から対立する。だからこそ言い回しとして言いやすさや聴き心地良さ等よりずっと重要な意味連関的な伝達事項の意味真理の構造的正当性が求められ、それは正統的とか異端的とかの二分法とは無縁である。
要するにそれは表現娯楽的ではなく、従って民族情感的だなどという事でなく、正義論的、社会倫理的な義務的な事と相通じる。表現娯楽が権利享受的だとすれば、メッセージの正当性の意味真理論では権利の感性論とは真っ向から対立する義務の理性論となる。要するにそういう意味ではカント的である。定言命法的なのである。
その意味ではメッセージ論的には近代以降の民主主義社会的な理性主義こそが五七調等全ての表現娯楽的な言い回しや聴き心地良さを否定する最大の存在である。
日本人の判官贔屓に似たものは韓国人にもある。癸酉靖難(ケユジョンナン)以降の歴史的推移の中で奪門の変で若干16歳で悲劇的死を遂げる端宗(タンジョン)を後の第十九代国王粛宗(スクチョン)の時代にやっと名誉回復が為された。
Wikipedia記述に拠ると、<秋益漢は前漢城府尹(現在で言うところのソウル市長)だった。時々端宗に山ぶどうを捧げて一緒に詩を作った。端宗が死んだ日、秋益漢の夢に白馬に乗った端宗が「太白山(韓国の山)に行く」と言って消えた。そのことから、韓国の民間信仰では端宗は太白山の神になったと信じられている。>とある。これ等は日本人の源義経贔屓、判官贔屓(頼朝より好きだという意味で)との共通性がある。<勧進帳>、<義経千本桜>等の世界観と韓国パンソリ等との共通性は確かに命題化してもいい比較文化論だ。
だがそういった熱い民族意識的気分(それはしばしば民族対立、国家間の軋轢さえ生む)と、グローバリティのある正義論や理性論、とりわけコミュニケーション的な倫理論とは対立するものである。
日本人にとって凄く聴き心地の良い響きとか語調、語呂等の全ては韓国語(ハングル)にもあるし、それは説話的なもの、物語的な筋の運びや比喩allegory等にも心地良く響き、理解しやすいものがある。そういった種的(田辺元『種の論理』的意味合いでの)感性論と対立する理性論とは、言ってみればグローバリティに拠って成立する。だがそのグローバリティとは本当にそれ程信用出来るものなのだろうか?
その点では確かに羞恥を隠蔽する心地良さのある種的感性論と、グローバルな正義論にも支えられている類的理性論とは対立するとは図式的には言い得るも、その二分法自体に正当性があるだろうか?次回はその事から考えてみたい。
Tuesday, July 8, 2014
〔羞恥と良心〕第三十章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart2 慣用性への疑いと再創造
先々月くらいにある芸術家の個展を鑑賞しに行った時その芸術家からある左翼活動家は一切言葉の語呂とか五七調を否定し、そういう文章は書かないという信条で居るという話を伺った。その話は極めて後々迄印象に残った。
何故なら常日頃私はその事をずっと考え続けてきていたからである。
私は詩を書いているが、詩自体は言語的創造である。従って書く側は真摯に何を詩を通し伝えたいかを考え、通り一遍の慣用句を避けねばならない、という事が詩人の使命としてある。しかし同時に一体何を伝えようとしているかに対して読む側が余りにも戸惑ってしまう言葉の選び方も避けねばならない。
だがこの事は極めて困難な作業である。
当然であろう。詩自体が言葉の創造と言っても、言語自体は自分自身の創造ではない。新種のプログラミング言語を発明しても、それはあらゆるシステムエンジニアをはじめとする関係者の間では通用するものでなければならない。それは私的言語であってはならないのだ。それと同じ事がかなりハイブローな詩の研究者に対してくらいは、読めるものでなければならないという事として言える。だがハイブローな詩の研究者は詩を客観的に分析する事には長けていても、優れた詩の創造者ではない。だから詩人の間だけで通用すればいいのかと言えば、そうも行かないのだ。結局詩人自身が言葉というある意味では極めて因襲的なツールを通して何かを伝えるので、結局詩人以外の人であっても誰にでも理解出来る様な言葉の選び方を選ぶだろうから、詩人だけに通用する言葉等という事自体が幻想という事になってしまう。
其処に詩人の良心と、革命的な言葉の選び方をしたいという野心的欲求があるにも関わらず、それへ羞恥も介在させず暴走する事も同時に避けたいという職業的欲求もあるだろう。
日本語にはこういう時にはこういう風に言いましょう、という様な慣用句が多く存在する。だがそういう事を熟知している事は、それ自体は俗世間的知性の踏襲という意味で無駄ではないが、同時にそれは凄くクリエイティヴではないと言える。寧ろあらゆる歴史的な大きな出来事から日本人が学んできた「君子危うきに近寄らず」的な訓戒や教条を知っていつつも、敢えてそれを使用せず、あくまで自分の言葉で何かを伝えなければならない。その結果、其処に読者が勝手に故事や教訓、諺を読み取っても、それは自由である。しかし少なくとも詩人は理解させるのに必要な伝統踏襲的手続き(短歌も俳句も規則がそれに当たる)が必要であるし、その上で自己に固有の言葉の選び方をしなければいけない。
ある部分哲学者は国語も文学も無視して彼等だけに固有の哲学概念、哲学的観念だけで世界を再構築しようとする人達である。従って文学をよく出版する出版社に哲学的文章を投稿しても没になる可能性は高い。最後迄読んでもくれないかも知れない。結局哲学者は哲学書専門の出版社に掛け合うしかないという事となる。
だが哲学者が世界に対して国語よりも文学よりも論理それ自体を重んじる様な一つの在り方は在っていいし、そういう風に詩人も従来の文学や、国語的因襲を批判したり、否定したりする様な言葉の選び方が在っていい。
だが、にも関わらずその言葉の選び方は百%その詩人の創造ではないのだ(この点は哲学者もきっと同意するだろう)。創造者の良心とは、それが一般の創造のプロの間だけに通用する様なものではない何かを提示する事である。同時に彼等の羞恥とは、とんでもなく誰もしていなかった事を詩を通してしたい、という強烈な野心を創造契機として認めつつも、その野心の末にとんでもない独りよがりに陥る事だけは避けたいという気分を羞恥が作っている。
どんなに独創的でもそのものが何処かでは制度への批判になっている、と言う事は制度の側からも理解されるものでなければいけないという事を彼等は知って居る筈だからである。だからこそ詩人とは、いい作品を提示したい、それは決して因襲的な陳腐なものであってはいけないという創造者の良心を持っているものの、それでいて独りよがりではいけないという職業的羞恥も持っている筈なのだ。
すると七五を巧妙に避けようと思っていても、それが何処かでは七五調をも育んできた日本語の構造には添っていて、尚且つ七五調にはなかった別の調べを要するという事は言える。或いはそれどころかそういった調べを一切拒絶し、純粋な意味だけの提示を最小限度の語彙だけ使用して伝えようという目論見も成立する。しかし後者の場合でも恐らく彼は何等かの調べを消す固有の彼自身が発見した調べを獲得していく筈なのである。それは動きを止めた動きとも言えるし、流れの堰き止められた流れとも言い得るであろう。
在る意味で全ての創造は創造を拒否する部分もある。つまり伝統踏襲とは、伝統が発生してきた過程(歴史)を何処かで無視して敢えて現代で古典が生まれた時代のメソッドを流用する事なので、非踏襲的であるとも言えるのだ。逆に現代には現代なりの歌舞伎を追求するとか文楽とか神楽をするという事は、伝統が発生してきた推移の中で培われてきた精神には準じるという事でもあるのだ。
その点では独創性と伝統踏襲性とはパラドックスの関係にあると言えるし、矛盾した相補性を持つ、と言える。
つまりあるメディアを利用する時、其処に時代への読み(今生きている我々の時代)と、洋画なら欧米絵画の歴史、ロックなら二十世紀の歴史を知るという意味で歴史の中に位置する現代という時代の読み(あるメディアや方法論やジャンルの発生した歴史と同時に今それをする意味への読み)があると言えよう。(つづき)
Sunday, July 6, 2014
〔羞恥と良心〕第二十九章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart1
二十世紀は十九世紀の産業革命以降のメディアの発達が異様に為された時代だと後世から振り返られるだろうが、恐らく全ての文章の世界のプロ達自身が最もプロではない普通のSNSのユーザーやウェブサイト全体の世界的動向からもの凄く影響を受け、文体から言葉の使用の仕方、語彙の選択の仕方に至る迄啓発されていく事は益々多くなるどころか、最早かつての文章家という様なプロの在り方とは全く異なる言葉と文章の構成の仕方が定着していくのが今、二十一世紀ではないだろうか?
そもそも駅の構内や街角に多く観られる看板や場所の目的や意図を表示する掲示板等の全て(新幹線車内の電光掲示板も含めて)は指示的なメッセージである。だからそれはここから先は危険だから足を進めてはいけない、という様なものだったりするし、タバコを買った購買者はタバコの箱に吸い過ぎには注意しましょうという表示を、余り吸い過ぎると健康を害しますというメッセージとして受け取っている(尤も最後の例は少し購買者へのメッセージとしては矛盾しているが)。
メッセージはある意味では「~しましょう」という訓示であっても、そういう事の良心的薦めであっても、自主的にそうする事を促す意図があるので、時にはそういうメッセージに異様に違和感を覚える哲学者でエッセイストである中島義道等から痛烈な批判が加えられる事もある。
だから論文や小説やエッセイ等の文藝ではそういう「~しましょう」というメッセージは一切形式的には書き込まれる事はない。それらは薦めではないのだ。では何かというと、ある時代のある時期に、ある内容を持った論文や文藝作品を通した、ある出版社を通してこれこれこういう主旨のものが書かれてあります、というあらゆるその出版物に関する宣伝媒体を通したメッセージであり、「~しましょう」と言う事はないが、ある時代にある出版社がある内容の本を世に問うという形で、既にだからそういう興味を惹かれるものには関心を持ちましょう、という間接的なメッセージである。それは「~しましょう」と書かれていないから、却ってそういう自主的に自分がそれ等を読んだ後に何かを感じて、その後の人生にどう役立てるか(只息抜きに読むという事も役立てる事の内の一つである)を考えればいいという促しである。
哲学者は「~しましょう」とは一切言わない。宗教家ならこうしましょうと迄は言わなくても、私ならこうしますとか、宗教ではそういう場合これこれこういう判断や行動を為す事を良しとしますとかなら言う。
哲学者はある部分では完全に自己の心に於ける世界への哲学的見方への飽くなき自己検証なので、当然その時々に心の中で生じた決意を反復的に書き留める。それが結果的に哲学論文となり、哲学書となっているのだ。それは必ず迷いがあるなら、その迷い自体も暈さず検証していく姿勢を彼等自身が哲学者使命として自覚しているので、そういう問いの反復をしていく事を自ら義務付けており、その自らへの義務の表明でもあるから、読む者にとってはこの哲学者はこういう事に関しては、こういう問いの仕方を自らに義務づけているのだな、という形で読んで納得する様なテクストとしてのメッセージを其処に見出す。
そうである。メッセージとは読む者が其処から自分なりに見出すものなのである。それはタバコの吸い過ぎには注意しましょうというのとは違う性質のメッセージなのである。つまりメッセージ指示という体裁で示されていない、しかしそのテクストを読み込み、読み出す事に於いて、そのテクストを読む自分自身にとってそのテクストの存在している意味を発見する事が、そのテクストを読む自分が見出すそのテクスト自体のメッセージとしてそのテクストを位置づける(意味付ける)事でもあるのだ。
文章には確かに言いやすさと聞き心地の良さという事が接合されているキャッチフレーズ的な言説や広告文等もあれば、逆にそういった言いやすさや聞き心地良さ自体への一切の追求を差し控え純粋に言葉化されてきた語彙の意味自体を意味構造的に伝達させる為の文章(論文の文章はそういうスタンスがメインである)とがある。勿論言語学者達は(或いは一部哲学者達も)、でもそういう風に何でも文章というものを目的性に応じて二分し得るものであろうか、とも問う。それは文章というものの持つ言語的メッセージ自体が、意味だけに於いて純粋である事自体が、一種の言葉の慣用性が与えてきている幻想でしかなく、そもそも言葉の意味に正統や異端、厳粛さと寛ぎとが在るという事自体が、既に正統や異端を示すのに丁度いい語呂や音の響きや連なりを我々が選択しているという語彙使用習慣、言語使用日常性事実自体とが不可分な関係で一体化されている、と考えている節も凄く在るからである。
「~しましょう」と抜け抜けと良心的お上の如く言い放つ事への羞恥が文化的素養や教養や知性を育んでいる。言わば哲学者や上質のエッセイストとは、そういう訓戒的、訓示的な事を差し控えつつ、実は暗に読者に自分自身の世界観的な見方を何処かで読者がそのテクストを読んだ事を思い出す事を通して癖の様に定着させる事を望んでいるのだ。これは書くという事に内在する決定的なナルシスである。だからある商品が販売される中でその商品に決定的に良いイメージを付帯させる為にコピーライターやCFクリエイター達が動員される様に、どんな硬い内容のテクストでもある時代のある時期にある固有の内容や主旨の論文を発表するという事が執筆者である著者(筆者)とそれを編集して出版へと漕ぎ着けている出版社のスタンス自体を、我々は一冊の本を紙素材の出版物であれウェブサイトの電子書籍であれ、それを手に取った時にメッセージとして受け取る事を習慣化されてきているという意味では、読むという事が筆者や著者の思想を読む事だけでなく、その筆者思想を読み取ろうとする一般読者である我々自身が、文章の送り手だけでなく自分達自身という受け手こそが、最終的に一つのテクストを通した思想を完成させる担い手であると自覚を得る、という事が一つの受け手固有のメッセージであり、それを感想としてブログに書く事もそうだし、それを実際に筆者や著者達が読もうが、読むまいが、その行為選択も又一つのメッセージとなる、という見方が容易に成立し得るメディアとウェブサイトとがシナジー的に連携作用を構築している時代に我々は生きていると言う事が出来る。(つづく)
Tuesday, February 18, 2014
〔羞恥と良心〕第二十八章 批評は感性のスポーツであるNo.1
今回は今迄書いてきたこと、つまり社会批評とかエッセイとかのこと、つまり書くという行為に就いて書いてみたい。
私自身自分で書くものに就いて特定の枠とか形式を与えている訳ではない。それを何等かの形で収めたいとするのが社会の管理職的発想と言っていいが、要するに文章があって、それを読んだ人が何かを自分自身の考えとか感性とか認識で読んでみて何か感じたり、考えたりすることが重要なのであり、それが~であるからどうであると思わなければいけないということはないのだ。
批評とはそれ自体世界への認識とか世界からの感受とか、世界への応答とか色々な意味があっていいのだし、それはものを書くという行為が原稿用紙であれワードを通してであれ、SNSでのツイートとかであれ近状であれ、全て何等かの形で書く自分を世界と世界の内部で生活する自己身体をインターフェイスとしているのだ。
その点ではエッセイと評論や批評との境界なんて実際はない。あるとするのは自分自身をエッセイストとか評論家とか批評家と標榜することか、それを受けてか、自分自身ではどういう風にも自称していない人へ他人がレッテルを貼ることに拠ってである。何故ならエッセイという散文と評論とか批評というものの何か確定的な定義自体が無く、定義があったとしても凄く曖昧だからである。
勿論学術論文とかそういう枠というのはある。しかしそれは学界等の各学会で通用するか否かのことでしかない。何かそういうuniversalな規定がある訳ではない。あるとするのはアカデミズム内部でだけの話である。それは一つの閉じた個々のcommunityにとって
の事情でしかない。
哲学と文学の境界も設定されてあるのではない。そんなものはない。昔から哲学者でもあり文学者でもある人は沢山居た。それを後付的にやはり彼はどちらかと言うと哲学者だ、とそう規定しようとする人の事情に拠ってそう語られてきただけである。
唯それがエッセイであれ評論であれ批評であれ、哲学論文であれ哲学的散文であれ、何か世界への提言、世界から受けたメッセージの返信という形で感性に拠って紡ぎ出された自分自身のスポーツ的なものだと言ってもいい。それは感性のスポーツとしての世界への返信なのである。
こんなことを書いていいのだろうか、というタブー視をしてしまうものをこそ書くべきだし、そういったタブー侵犯的感性が本音吐露的決意を促すことがあるが、それはタブーを忌避しようとする習慣的な自己の条件反射的な部分が因習的(因襲的)なことに拠って知らず知らずに自分自身が雁字搦めになっていることに時折我々は気づく。しかしそれはそう気づいた瞬間に克服すべき事態ともなる。
こんなことを書いていいのだろうかという懸念を払拭させる為に何かメッセージとして主張しようとする時には必ず、それを読む者にとって納得の行く形での論理を構築しなければいけないというささやかな使命感も生まれる。それを掬い取るということが必要である。
タブーへの挑戦的意図とモティヴェーションとその野心実現の為のプランこそが論理的策術を書く者へ探らせる。
因襲的羞恥はかなり根深いものがある。それは払拭することは自己にとって意識の革命である。そして因襲性の打破にも良心がある。
私自身はフィクションとノンフィクションとの間の境界さえないと考えている。何故ならば全てのノンフィクションも又一種のフィクションだからである。文章を書くということがそういうことだからだ。当然全てのフィクションも文章を書く行為という意味では全てノンフィクション行為なのである。
私自身は限りなく人類学的学術性も兼ね備えたエンタメ小説、そしてそれ自体が世界への批評としても機能する様な文章があっていいと考えており、それを日々試行錯誤的に模索している。
ところで旧来型のマスコミ言論人の言動をネット社会がチェックし、ネット社会が批評を担うかと思えば、ネット社会の実害の批判と警告を旧来型のマスコミの良心が行うという相互批判的システムが両者を双方向的なコミュニケーションシステムにしていくことが、同時作用的に顕現されることで、二つが異質ではなく、共通したメッセージ回路として機能していく様な未来が仄見える気が私にはするが、それ自体も一体どういうものが旧来型であるか、どういうものがイノヴェーションとして機能するものなのかという観念さえ個々の感性に拠って判断されていっていいとも言える。
所詮全ての定義、規定とは、言ってみれば他者存在というものへの認知と認識こそが生み出している。自己は他者から見れば他者であり、自己の中の他者性を自己が意識した時に、その自己性とか他者性に対して固有の感性的な把捉を得る。それをあたかもアスリート達の様に言葉を紡ぎ出して示していくことこそが世界への自分自身なりの批評であり、それは仮に詩形式で示されていても、散文形式で示されていても、論文的体裁を採っていても、或いはその中間的な体裁であってもいいと考えている。
一つは哲学が持つ哲学者自身を自嘲的に取り扱うエッセイスト的態度、シニシズムに就いてであるが、それは世界全体への懐疑心skepticismにあると考えている。つまり体裁が論文調であっても全く非哲学的であるのは無思考的に楽観主義的で非懐疑的であるということである。その点で哲学や哲学者を痛烈に批判するスピリットを縦横無尽に使いこなすエッセイはたとえ社会批評とか世相講談的なものであっても、それも又一つの世界への批評であり、哲学でもある、と言っていいのではないだろうか?
感性の進化とはそういうチャレンジに拠ってのみ具現化されるのではないだろうか?唯それをしなければいけないのは誰しも思うことなのだろう故、次回は少し具体的にそのことを書いてみたい。
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