Friday, October 30, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 説明できないものと不可知論

 我々は印象的である事柄全てを適切に言語化し得るほど言語を発達させてはいない。というより言語行為だけに、その責任の全てを負わせてもいない。だからと言って言語活動が重要ではない、とは言えない。この世界には表現することが難しい事象が無限にある。しかしその無限性は我々が今まであらゆる言語行為において述語表現してきたもの、形容修飾してきたものが実際本当に適切であったのであろうか、という反省を促す。述定行為というものは説明することを一方でその性格として請負っている。説明されることによって聞き手はその言辞から何ごとかを情報として受け取るのである。その発話をした人間の感情、その発話の内容そのものが語る真実、それらの一切を情報として認知することと、その認知自体がその発話、発言を受容する個人としての自己による受け手としての感情であるという覚知を前提に我々はそれを記憶に留める。我々は他者の発言を意味内容的にも認識しているが、その話者の感情としても認識しており、更にその発話自体の記憶は、それを聞いた時の聴者としての自己の感情として記憶格納庫へと収納されるのだ。
 論理実証主義者たちは真理条件とか真偽性を通して統語秩序と意味内容的な真理の観点から言語活動を捉えた。それは論理的無矛盾性へと依拠した認識姿勢であったと言ってよい。しかし言語哲学者たちは、そういった無矛盾性への信頼過剰に対して懐疑的であった。そこで日常言語行為をもっと意思疎通の内的動機を重視する。その際に発語内行為というオースティンが提唱した概念が重要な意味を持つ。これはある発言を通してその内容を語ることとは、その内容を語る意志、その内容を信じていること、またその内容を語る他者に対して正しいから信じるべきであると推奨していることでもある、という考えによっている。その意味では日常言語学派はフッサール流の現象学とも幾分共通したところがある。そのことは数学者であり哲学者であったファイグルも指摘している。(「こころともの」187~188ページより)(またこの論理実証主義者と日常言語学派との間の関係や考え方の違いについてはカッツの著作「言語と行為」<大修館書店刊>に詳しい。)
 私が「その話者の感情としても認識しており」と言ったのは、日常言語学派からも散見される考え方である。(「意味内容的に認識している」ということが論理実証主義者たちの考え方であるし、それもまた重要な観点である。)しかし私は更にそれに発話行為自体がある他者から得た発話からの情報が意味あるものであるのか、ということに対する評定というものは本質的に意味内容如何に係わらず、まずその他者に対する信頼感に、その他者の言うことは正しいことなのかどうか、ということの判断は依存する、ということを付け加えたいのである。しかしここからが難しい問題である。ある人間に対する評定というものはある人間の言動に依拠する。しかしその人物に対する過去データによって形成されたその人物像、つまりその人物に対する認識は長期間、言動の数々によって示された傾向に対する認識によって固定化される。そしてそういった評価がいったん固定化されてしまうと、仮に次の言動が正しいものであるか間違っているかに係わらずそれ以前の言動を基準にした評定によって信頼の有無が決定されてしまいがちである。いい評定が定着されていればたとえ間違った言動でも信頼されてしまうことはあり得るし、また逆に悪い評定が定着されていたなら、たとえいい言動でさえ一切信頼されることはない、ということもあり得る。そういう意思疎通の基盤にある話者同士の信頼感、他者に対する信用というものは今まで哲学においてはあまり重要視されてこなかった。そこを私はもう少し考えてもよい、と言いたかったのである。
 
 話しを戻そう。
 全ての印象的な事象が形容述定や修飾、述語的様相構築が容易であるわけではない、という厳然たる事実こそが「難しい」とか「不可能である」とか所謂困難さを表現する形容語彙と慣用句が齎されたことの理由であると思われる。しかし容易に形容出来るものは、ある意味では無個性である、とも言い得る。ただ理解しやすいものであるだけで、それが意義深いものであるとは限らない。我々が証明し得るもの、論理的に矛盾がないと評定し得るものとは、実際上は全事象の中のほんの一部でしかない。だからといって論理的に矛盾をきたす事象が実在的ではない、とは決して言えない。にもかかわらず科学は時として証明された事象だけを確然的であろうとする。証明不可のものの実在は明白である。それは我々の知のレヴェルがその事象を証明するに足るにはまだ発達途上であるに過ぎないのである。「あまりにも無個性的であるが故に、反って凄く印象的であった。」とか「影が薄かったのでよく覚えている。」というような言辞は、その人間が、というより我々の言語自体の現状における不備がそういったカテゴライズされ得ない事象のカテゴライズを永遠に反復してゆく運命を我々が背負っているということを覚醒させる。そういう形容し難いものを巧く形容しようとしていい表現や語彙を用意する。しかしその語彙では表現し切れない事象と、すぐに我々は遭遇する。また語彙を用意する。その繰返しである。
 このような形容不可物に対する一時的な一括処理的形容省略表現及び語彙(「無個性」、「影が薄い」、「殺風景」といったもの)はある意味では言語活動における無意識(この言葉は何とこういう場合に便利なのだろう。)的エポケーである。
 
 論理を超える多くの事象の存在について触れたが、しかし私は論理が必要ではない、と言っているのではない。勿論それは必要以上に必要であろう。例えば現代の棋士たちは綿密なデータ記憶とそれを瞬時に判断する能力を問われているが、彼らの必要以上に必要な論理性プラス最後に勝敗を決するものは何かと言えば、何か心理的なもの、物怖じせず、他者のことを必要以上に気に掛けないことなど、つまり論理性を超えた何物か、それは精神的なことでもあるし、何か他のことかも知れないが、そういうことが関係してくる。それは現代のスポーツにしても同じことが言える。現代の選手たちは綿密なる科学的合理性を熟知して試合に臨むが、最終的に敵方と競り合っている場合、ほんのちょっとした精神的な余裕とかが勝敗を決することということはよくあることである。勿論緊張せずにリラックスすれば何でも巧くゆくという簡単なものではない。適度の緊張は大切であろう。しかしその緊張を楽しむという心の余裕のようなものが要求される。そういう意味で論理というものは充分必要であるし、知識も同様であろう。しかし我々は同時に論理や知識が役に立たないこともあるのだ、ということも肝に銘じておかねばならないのだ。つまり無意識的エポケーによって保留にしている幾多の不可解さに対する形容語彙の見つからなさから、語彙創造に対する努力を意義あるものと認識してゆかねばならないのだ。
 論理というもの、つまり証明され得るものでなければ、それを否定してよい、ということにはならない、しかしだからと言って証明され得る論理を蔑ろにしてよいということにもならない、というような主張をカントは「純粋理性批判」で次のように述べている。

(前略)理性の思弁的使用においては、仮説は臆見としてそれ自体妥当性をもつものではなく、ただ相手の僭越的主張に関連して相対的な妥当性をもつにすぎない、ということである。可能的経験の諸原理を物一般の可能に及ぼすことが僭越的であるのは、或る種の概念_と言うのは、その対象が一切の可能的経験の限界外でしか見出され得ないような概念の客観的実在性を主張することが超越的であるのとまったく同様である。純粋理性が実然的(assertorisch)に_即ち真実として判断するところのものは、(理性の認識する一切のものと同じく)必然的でなければならない、さもなかったらそれはまったくの無である。それだから純粋理性は、実際には臆見を含むものではない。また上に述べたような仮設は、蓋然的判断にすぎない。かかる判断は、もちろん何ものによっても証明せられ得ないが、しかしそれかといってまた少なくとも否定されもしないのである。従ってこれらの仮説は決して個人的臆見ではないが、しかしややもすれば擡頭する疑念に対抗するものとして(安心のためにも)やはり欠くことができないのである。我々は仮説にかかる資格を与えるだけにとどめねばならない、それどころか仮説がそれ自体証明されたもの、或は幾分なりとも絶対的妥当性をもつものとして振舞い、理性を想像による拵え物やまやかし物のなかに惑溺させることのないように、十分に意を用いねばならないのである。(下、78ページより、篠田英雄訳、岩波文庫)

カントが理性の思弁的使用と言っていることとは、今日的に言えば論理的無矛盾性への、つまり理解する一つの仕方として論理的な整合性を持つことから真理を炙りだすことを目的とした行為と考えてよい。というのもカントはここで、「我々が経験によって知り得ることには限界があるし、そういった限られた経験によってのみ構築された法則のようなもので全ての事象を証明していては危険である。我々はある意味では全ての事象を経験にだけ頼って判断していくことは不可能であるし、時間の浪費だから、時には我々が経験によって設定された法則を使用して論理的思考にのみ頼って判断し結論を出さなければならない時もある。だが我々は経験外にあることをあたら存在し得ると主張し過ぎてもいけない。経験外の判断に頼り過ぎてもいけない。しかしまた同時にそういった仮説というものを有効に使用し得る時もあるのだから、真理であると証明され得ないからといって否定してもいけないのだ。にもかかわらず、その経験外の判断は思い違いではないものだが、あくまでそれは方便としてのみ留めておく必要もある、そうでなければ理性というものがたちまちの内に、経験などどうあってもよいというような思いあがりに陥る」ということを言っているのだ。ここには理性によって批判し、その理性をも同時に批判するというカントの反芻的手法が垣間見られる。
 我々は実際に社会に係わる上で情報というものを授受して生活している。それらの大多数は通信や放送などによって得たものであり、自分の目でその場で確認してきたものではない。プロクセミックスという学問の創始者としても有名な人類学者、エドワード・ホールは次のように示している。(「かくれた次元」みすず書房、7ページより)

人間は、驚くべき、そして非凡な過去をもった生物である。人間は自分の体の延長物(extension)と私がよぶものを作りだしたという事実によって、他の生物と区別される。人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。コンピューターは脳の一部の延長であり、電話は声を延長し、車は肢を延長した。言語は体験を、記述は言語を時間・空間内に延長した。人間は彼の延長物であまりにも作りだしすぎたので、われわれはともすれば人間の人間たるとが彼の動物的本性に根ざしていることをわすれがちである。人類学者のウェストン・ラ・バール(Weston La Barre)が指摘するとおり、人間は進化を自分の体からその延長物のほうへ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めたのである。

この考え方は独自の利己的遺伝子理論を持つことで知られる、進化論遺伝子生物学者リチャード・ドーキンスにも見られ、彼はビーバー等がダムを作り環境を作り替えることを自己身体のみによる活動を超えた種の利益を齎すこの種の動物の行為を、それは人間の社会や都市にも全く該当するのであるが、自己の行為の意志(環境に働きかける)を自己身体活動範囲の限界外にまで及ぼす環境自体の創造を<延長された表現型>であるとして、遺伝子の作用がそこまで及んでいる、と考えている。ドーキンスの考え方が遺伝子自体の能力の発現可能性と拡張された応用能力と捉えるか、遺伝子自体を過大評価するものであると捉えるかは、どの事実に焦点を当てて考えるかによると思われる。
 本論でも論じてきたマスメディアは我々が自己身体の移動を主とした経験によって自分の足を運んで自分の目で確かめる能力を通して知り得る範囲を遥かに超え得る情報を獲得しているが、それらはマスメディアが通信によって授受したものをそのまま流用させたものであり、自分で確認したものではない。あくまでメディアを通した情報でしかない。しかしだからと言って情報を遮断しては生きてはゆけないし、また情報によって我々は恩恵を受けてもいるのだから、それを認知し感受することは他者との意思疎通やニュースを見たり、新聞を読んだりすることなどから考えても大切である。このような便利さと言うよりはメディアの脅威とでも言うべき現状において、自己の確信というものと、自己が持つメディア自体が我々に認知させる情報に対する信頼というものの分離は既に不可能である。そういう観点からカントや他の哲学者の論理を読み解くと現代社会への提言であるように思われる無数な述定を我々はそこに見出すことが可能である。

 言語哲学者のサールはオースティンとストローソンから正統的な言語哲学派の考え方を継承してきた哲学者であるが、自ら影響を受けてきた哲学者のオースティンやライルを批判し、修正を加えている。サールの考え方は次のような骨子で構成されている。

同定⊂述定
同定⊂指示
指示∩述定=同定

 ライルは「ふりをする」という外面的顕現を齎す行為と、心的内容を一致させることを、認識の基本にした。(人間はそういう風に行かないこともあるが、殆どは一致すると思われる。)その態度こそ彼を行動主義哲学者と一般に呼ばせる所以である。しかし恐らくライルはサールにとっては明快過ぎたし、ストローソンは難解過ぎたのだろう。
 オースティンはconstativeとperformativeという二つの動詞使用を巡る解釈をしたが、彼が真に言いたかったのは、両方とも後者に吸引されるような発語内行為として捉えたいということであった。
 デヴィッドソンは意思決定は条件節を付帯させるような厳密さよりも、単刀直入で単純であることであると考えた(「行為と出来事」)が、それは同定と指示が必ずしも一致するとは限らない、という表明とも同義である。しかしサールは述定を志向性の顕現として捉え、その志向性を確定するものとして指示を捉えた。そしてその全体を事実として同定という行為として捉えた。要するに述定というパワー(クオリア)と、指示というイデアはその二つを交差して「生の時間」を構成しているように、前者をハレ、後者をケとして往復運動するその行為の全体を同定と捉える。同定は命題の肯定である。(否定は同定の否定、つまり命題全体の否定に他ならない。)クオリアは生の中の肯定的側面であり、長期持続は疲労を伴う。しかしイデアは認識なので、比較的持続可能である。

イデア=空、無、無常 クオリア=充実、生、有、不変

という図式がここで与えられる。ここで読者はイデアこそ普遍であり、不変であると反論されるかも知れないが、イデアは無常であること、つまり相対的であることは哲学史を見ても、各哲学者間におけるイデアに対する考え方の違いから明白であり、しかもその相対的で、無常であることにおいて不変で絶対である。そういうイデアの無常という事実(あるいは事態)に対するクオリアは絶対的に有であり、不変(普遍)なのだ。
 クオリアは通常それを感じる人間の過去の経験や第一印象も大きく関わるので、私たちはその感じ方をなかなか変更させることが出来ない。余程の人生全体に関わる価値転換(そういうものは通常の人間の場合、幼児期か思春期以内に経験済みである。)がなければ、容易に変わらない。我々は惰性としてクオリアをも引き受けがちである。惰性とは不変への傾向性であり、サルトルも大きく取り上げている。ライルとサルトルは異なった潮流の存在同士だが、方や内と外の一致、方や本質否定と実存のみを肯定する明快さにおいて極めて共通した哲学資質的クオリアの所有者たちである。
 私たちはこのように異質のもの同士に同質性を、逆に同質のもの同士に「異」性を、曖昧なものを一つの方向へ、逆に収斂されたものを分解することを個人史的にも、日常行為連関的にも、社会、政治、思想、生活スタイル、信条、心情、宗教心、流行といった場面でも常に往復運動をしてきている。平凡なものにどっぷり浸かっていると変化を、変化が激し過ぎると安定を求める。そういう意味では哲学は常にこの二つの往復運動によって哲学者個人においても、潮流や先人から後輩へと至る世代交代においても、反復してきていると言えよう。私たちは比較的四肢を中心とする身体が疲労しない会話を、通常の行為よりは持続することが可能だが、会話は頭が疲れるのだ。脳と身体の関係において述定は脳の判断、指示は決定(行為へと直結する)、同定は思惟も行為も含めたその全体(発語内行為として、あるいは説得、主張と言い換えてもよい。)のことを言う、とサールの論は読み取られる。
 ここから私たちが学べることとは、意志することが行為にせよ、発語にせよ、他者を取り込みながら自己の位置を確認し、自己領域を空間的にも、精神的にも確保することは、取りも直さず他者のそれを尊重することであり、他者存在そのものを承認することに他ならないということである。それを承知の上でマスメディアを我々は作ってきたし、利用してきたのだ。マスメディアが流す情報はある意味で他と共同体そのものの存在の幻影である。しかしそこから我々は実像を読み取る。その実像にはマスメディアの情報を摂取する私たち自身一人一人も当然含まれる。
 第一章でも述べたが、我々はいざという時には経験が何の役にも立たない面があるのを知っている。にもかかわらず、他者を裁定する時、信用出来るか、信頼出来るか、そうではないかの判断をその人間の履歴とか経歴を参考にする。そして経歴とか履歴といったものは権威という傘の下にあるものである。しかし経験がいざとなると役に立たないのに、一般常識という名の見識を有効に利用するということは、一つ一つの行為や判断に人生の全てを賭けて行動するにはあまりにも非常の場合に必要とされるエネルギー温存のためにはリスキーであるという一事に集約されると私は思う。我々は知識という経験をフルに利用している。実際我々が接する全ては未知のものであるにもかかわらず(従ってそれぞれは異なったクオリアを持っているのだ。)、それらを一括して概念規定したり、その他大勢としたりするのは、未知性を絶えず既知性へと送り込むことによって自分とって掛け替えのない未知性へと邂逅することを選択しているからである。何もかも新鮮に接することは、何もかも等閑にすることにも等しいということを我々は知るから、我々は取捨選択を行うのだ。そういう意味では我々は少数の他者との間でのみ善良な市民であり、他の大多数の他者の幸福も不幸も、大した大きな問題ではない、要するにそ知らぬふりをして生きている。
 家族、友人、同僚、そのいずれを大事にするかも個人の選択に委ねられている。そもそも哲学は、そういった選択には一切口を差し挟まない。だからこそどこからでも入ることが出来、どこからでも抜け出ることが出来るのだ。哲学への問いは社会、言語、人類の性格、性質、傾向性、本能、理性、感情、意志、意識、生と死といった問いをこれからも続けるであろう。しかし大切なこととは、その問いのいずれもが正しく、いずれもが普遍ではないということ、そして永遠に全ての謎が解かれることはないということ、しかしそれでも我々は絶えず問いをし続けることを止めないし、そうすることには意味があるということ、そしてその意味は何かを得るために意味なのではなく、問い続けるためにこそ意味があり、それ以外のことについては無意味でもよい。こうしている間にも大勢の人間が死に、大勢人間が誕生している。いつかは人類全体が死滅する瞬間も訪れることであろう。しかしその時までに我々一人一人が生を受けてこの世に生きたという事実が意味あることであると感じられるために我々は問い続けることを止めないであろう。それだけは確かである。人間の社会は我々が考えるよりずっと狭いし、小さい。自然全体から言えば、人間の自然へと与える影響力は、地球環境全体の荒廃が叫ばれているにもかかわらず、極めて小さいと思う。なぜなら仮に地球に人間が住めなくなることがあっても尚、地球環境そのものは何らかの形で存続し、別の種類の生物にとって恵みを与え続けるだけだからである。地球そのものが破滅するその瞬間まで人間がもし仮に生きられたとしても尚、地球滅亡後には宇宙の果てでいつかは地球に似た星も登場することであろう。その時にもまた人間と似た生物が登場し、我々のように何かものを考え、何かを残そうとするかも知れない。そもそも地球が誕生するよりも前にも、そういうことはあったのかも知れない。そういう生命同士の相互の交流は恐らく不可能であろうが、その可能性に賭けることには意味がある。なぜなら彼らもまた顔と表情をそれなりに持っていると考えられるからである。(了)




参考文献
釈迦無尼「ブッダのことば」(岩波文庫)、ルネ・デカルト「省察・情念論」(中公クラシックス)、インマニュエル・カント「純粋理性批判」、「実践理性批判」(岩波文庫)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)、ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学的考察」「探求」(大修館書店)、マルティン・ブーバー「我と汝」(岩波文庫)、ジャン・ポール・サルトル「存在と無」(人文書院)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波書店)、ギルバート・ライル「心の概念」(みすず書房)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)、エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」(岩波文庫)「存在の彼方に」(講談社学術文庫)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)、J・J・カッツ「言語」(大修館書店)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)、エドワ-ド・ホール「かくれた次元」(みすず書房)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(産業図書)、ドナルド・デヴィッドソン「行為と出来事」(勁草書房)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)、中島義道「時間と自由」(講談社学術文庫)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)、茂木健一郎「意識とはなにか」(ちくま新書)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)

 付記「顔と表情の意味」はここで終わりですが、ブログは引き続き「表情の言語哲学」②を更新していきます。数日休暇を取らせて頂きます。(河口ミカル)

Tuesday, October 27, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 対概念、肯定と否定の感情的個別性と非対称性

 選挙で政治家に投票する時一番重視するのはどのような選択基準を持つ人間でも、例えば一回聴いてもう一度聞きたいと思うようなミュージシャンのCDを買うということが最も大きな判断であるような意味で、何か民衆を惹きつけるべく要素、その部分に賭けてみようと思わせるところであろう。そういうものは肯定的なイメージを与えるであろう。そういう観点では言語活動において肯定的な言辞が果たす役割は否定的な言辞よりも説得力を持つ。説得力を持つものとは誰しもが正しいと思う真理である。それに引き換え否定的な真理とは本来肯定すべきもの、肯定したいけれど致し方なく否定せざるを得ないもののみに限定して、するべきものであるし、そうしたいと人間は望む。そういう意味では時として衝撃的なニュースをそれが自分とかかわりのない地域の不幸であるなら時として話題提供的な意味で人は歓迎するようなクールさも持っているが、それはあくまで自分を巡る日常的な生活が脅かされない範囲での話しである。
 動詞では行くべきところを行かないで済ました、ということが肯定的に捉えられる雑事であるような場合以外は行くということは警察や刑務所のような場所でない限り大概肯定的に捉えられるであろう。悪い事態を表わす動詞の否定形以外は肯定的な言辞を人は望む。
 「失う」、「亡くす」といったものは悪癖(悪い習慣)を「止める」ような場合にのみ肯定的であるが、そもそもそういう風に否定的に言辞する必要のない最初から肯定的であるだけのものが一番好ましいと人間は思う。「彼女綺麗だね。」という言辞が一番常に歓迎される心的様相である。その「彼女が綺麗でなくなった」、底意地が悪くなったということがあったとしよう。そして彼女が改心してまた昔の綺麗さを取り戻したとしよう。その時に「彼女一時期に比べて酷くなくなった。」と言う場合、それは肯定的な言辞であるものの、最初の言辞以上の肯定ではあり得ないという意味において否定を否定する言辞以上に肯定的でだけあることが最も望ましい状態であることは真理である。
 だから「変わる」とか「変わらない」という場合のように悪癖や悪事をすることにおいて「変わる」ということは肯定的なことであるし、またその場合「変わらない」ことはよくないことである。しかし肯定的な形容や評価しか当て嵌まらない人間に対してとか、真理に対しては「変わらない」ということは歓迎すべきことである。だからそのような意味において事件が「起こる」ことは通常好ましいことではないが、功を急いでいる若き刑事にとって事件が「起こる」ことは心躍ることであるかも知れない。しかし通常よくないことは「起こらない」方がよいとされるし、「起こる」こととは大概衝撃的な事実、現象である。また動詞や形容詞には対語というものが存在する。「生きる」の対語は「死ぬ」であるように、「開ける」に対して「閉める」が対応する。そのような観点から言えば「知る」の対語は「忘れる」とか「知らない」という否定形であるが、ハングルでは「知らない」は否定形ではない動詞として存在する。そのことに関してのみハングルは哲学的な言辞である。しかしこのことが他の全ての動詞に当て嵌まらない限り、例えば日本語よりハングルの方が哲学的な言語である、という判断は演繹され得ないであろう。ある一つの現象を取掛かりに真理として一般化することは、そのような事例に枚挙に暇がない場合のみ適用され得るとは言えよう。 
 あるいは形容詞において「大きい」ことは通常「小さい」ことよりも肯定的であるとされようが、人間の性格や業績や資質といったことを基準に評定する場合、身体が「小さい」こととは概してハンディーを克服して対処する能力や努力として賞賛される場合が多い。
 色や濃淡、頻度、明度といった形容基準をここで実例を挙げてみよう。

黒い_白い①
暗い_明るい②
長い_短い③
固い_柔らかい④
濃い_薄い⑤

ここで注目すべきことは①、②、④、⑤に関しては左の側の形容が「密なこと」であり、右の側の形容が「疎らなこと」であるのに③は「大きい」と「小さい」と同様例外的な物理的な現象であることが了解されよう。あるいは重い、軽いに関しては「重い」ことの方が「密なこと」が多いがただ単に大きければ必然的に重いものとなろう。(またこれは精神的なこととか音楽とかにおいて癒しを求める場合には「軽い」の方に肯定的に捉えられる場合もある。)そういう意味では③のケースと同一なものは「大きい」と「小さい」のみであろう。しかもこの「大きい」と「小さい」や「長い」と「短い」とは「密な」ことはマイナーな方に分がある場合も多い。逆にメジャーな方が「疎らなこと」である場合も多い。それは「広い」、「狭い」にも言えることである。しかしこの場合でもやはり「広い」の方が肯定的である。また「短い」ことの方が肯定的なのはスピード競技において競技時間に関しては肯定的であるが、この場合「速い」と言うことが通常である。また「早い」と「遅い」に関しても前者の方が肯定的である場合も多いが、人間の社会的成功に関してなどに顕著であるが(例えば出世)、いいことが常にいいこと尽くめではない場合も多く見られる。
 また④に関してはそのどちらが肯定的であるかは一概には言えないし、⑤に関しても内容(中身)に関してなら「濃い」の方に軍配があがるが、色彩的美に関しては「薄い」の方が軍配があがることもある。しかし日本語でも「あの人は影が薄い。」というような否定的言辞もある。③は「堅い」となると業務上の評価だと肯定的な場合もあるが、人間性評価においては必ずしも肯定的とばかりは言えない。
 纏めると、まず肯定的言辞は否定的言辞に比べて希望や安堵、期待感や爽快感、信頼感が伴うのに対して、否定的言辞には明らかに失望、落胆、懐疑、挫折感、憐憫の情、憔悴感等が漂う。そういう意味で我々は肯定的感情を伴う肯定的言辞を暗に聞きたい、見たいと願う。あるいは否定的言辞は、ある種悪意がある場合(例えばオリンピックで他国の選手の失敗を願うようなこと。しかしこれは他の悪意とは異なり、許される範囲の罪の少ない悪意であるが)を除いて概ね肯定的言辞よりも忌み嫌われる傾向があるということは特筆しておいて良いと思われる。
 我々人間は記述行為において顕著であるが、言語を意味として受け取り勝ちであり、その意味では表情を忘れがちである。例えばメールの文字そのものにはそれをメッセージとして受容するという事実において初めて感情を抱くのだし、受容した人間が何らかの表情をその時に持つ。しかしメールの文字自体は無表情である。他者の死を告げる文字もそれを言辞を交えて誰かが語る時とは自ずと異なった形式的な伝達でしかない。そこでややもすると陳述内容とか成否とか有無、是非という結果的な観点からのみ言語を考えがちであるが、それを告げる人間のさまざまな感情、つまりその時にそれを告げる人間の表情は極めて意思疎通においては不可欠な要素であるのだ。それを前言語段階に常にある赤ん坊や動物たちは敏感に察知するわけである。すると彼らの存在によって我々は知性とか理性とかの所謂生存維持的な知恵やモラル上の価値規範以前の感情を持っているということを教えられるのである。
 例えば前言語的思考というものはある。理性的に肉親を愛する感情を説いたとしても、それは前理性的な感情を語彙に置き換えているだけであり、それは理性以前の感情であり思考であると言ってよい。今一番したいこともまた前理性的そして前言語的思考である。腹が減ったということに言語的な思念があるとすれば、それは前言語的、身体生理的欲求をただ語彙に置換しているだけのことである。今の自分にとって一番大切なこと・ものもまた実際は前言語的であろう。しかしその中でも前理性的である場合もあるし(健康とか)、そうではない場合もある。(信条、モットー)今の自分にとって一番大切な人というカテゴリーもまた前理性的感情かつ前言語的感情である。サピアは言語を前理性的な行為であると捉えた。私も同感である。理性は前言語的、前理性的な感情や行為、欲求の上に成立しているのである。だからカントの言う定言命法とは、あるいは道徳的法則とか純粋理性とかはあくまで前言語的、前理性的であるものを言語というフィルターを通して感情を価値規範に置き換えた時に生じる倫理的な論理である、ということである。

 もっと解かりやすく考えてみよう。
 例えば「難しい」という言葉を述べる時我々はある具体的な心的な状態を思い浮かべるものではないだろうか?例えば難しい数学の問題を解こうとして頭を捻った時のこととか、人生において難局に局面した時の自分の経験を一瞬想起して語るものではないだろうか?そしてこの語彙を使用する時というのは、「やさしい」とか「簡単な」というような言葉を語る時には朗らかな表情であるのに対して、何か悩み事でもあるのような眉間に一瞬でも皺を寄せて語るものではなかろうか?
 つまり我々はこのように形容語彙というものが、その語彙が表現する感情を、その語彙を使用する時に一瞬でも想起して語る、そういうものではなかろうか?
 そのことは少なくともここで例証している形容語彙を使用するということは、その語彙が意味する事態を、自己にとって受け入れるべきものであるか、そうではなく逆に拒否すべきものであるか、あるいはそのどちらでもないものであるかというような、要するにある対象や事態や事実や現象や真理に遭遇した時に得る感情的な判断、印象といったものを回想したり、現に今ここで感じたり、認知したりしていることの言明である、ということである。私は実はそれらに対する認識というものと、対象、事態、現象、真理に対するものと感情というものを二分することは出来ないのではないか、と常々感じている方の人間である。勿論善悪の判断のようにある意味で理性論的にも倫理規定的にも明快な峻別可能なものもあれば、逆に同じように理性論的にも倫理規定的にもはっきりと峻別不能であるものも多いとも思われる。このように明快に峻別可能であるものに接する時我々が感じる心的な様相と、そうではなく曖昧であるものや、どちらともつかないものに接する時に我々が感じる心的な様相とは幾分異なっていることであろう。それは理解のレヴェルの問題でもあるし、感情的な認識のレヴェルの問題でもある。このことについて少し詳しく考えてみよう。
 形容するのに一般に難しいものの方が実際にこの世界には多いのではないだろうか、ということが私がまずこの対立形容、対語について思い巡らせた時に感じたことなのである。
 私たちは何かはっきりと白黒がつくと思われるものよりも、勿論それは私たち自身の判断(それは主観的な判断である場合もあるが、大体の標準というものはあるであろう。例えば2メートルの身長の人物とは背が凄く高い、とか巨人のようなという形容は、日本人が同じ日本人に対してなされる使用には該当するであろう。)によって形容表現へと対象、事態、事実、現象(これらを一括してこれからは事象と呼ぼう。)を形容する場面で語彙選択(語句選択でもよいが、今後これを一切語彙選択とする。)する時のことであるが、その述定による形容基準として白黒峻別し得ないものの方がより形容努力を要する、つまり多少それを述定する時発語において眉間に皺を寄せて形容語彙を検索する余地のあるものの方が遥かに世界には多く存在する筈である。それは我々がまだまだ未知のものを抱えて生きていると言うことにも関係がある。しかしこのように形容語彙が見つかり難いものの方がより、形容必要性から詳細さを要求される、ということも言い得るであろう。
 つまり端的に言えば、形容しやすいものとは一概にその特徴が一瞬にして判明し得るようなものである。ある誰にでも容易に了解し得るような形容基準、大小であるとか、長短であるとか、そういう誰の目から見てもそれを形容する場合に他と峻別するのに必要な形容基準が見出しやすいものとは格別の形容努力を要しない。
 しかしこれとは逆にかなり明確なイメージはあるのに、語彙的には形容し難いものというものはある。形状的にはその同じ種類のものに比して大きくも小さくでもないもの・ことは、そういう一般的な形容詞では述定し難い。それは長くも短くもないのなら、それも適切な基準とは言ない。人物の特徴記述による特定とかのケースにおいて我々は往々にしてこの種の形容基準が見出しえないことがある。その顕著な例は「これといった特徴のない人物」とか「無個性的な人物」とかである。しかしこういう風に形容語彙が容易に見つからないからと言って、そのものが無個性的である(そのように形容してさえ)とは限らない。あるいは印象的ではないとも言い切れない。
 例えばその如実なケースとして想定され得るのは、今までに我々自身が個別なケースとしてでも誰にとっても、見たこともないし、聞いたこともない要するに未知のもの・こと、不可思議なもの・こと、あるいはそのもの・ことに関して余りにも衝撃的であるが故に(所謂極端な場合にはPTSDを喚起し得る可能性さえ考えられるような)形容語彙が見つからないというようなケースも考えられる。
 我々は哲学的な設問において容易に形容基準を、見出し得ないものを一括ただそれらに対する形容基準が見出せないからと言って、つまり一瞬の判断で形容表現することが躊躇せざるを得ないからと言って、そういうものを明快ではないもの、あるいは形容基準に適合したものではないものとして大小とか長短というような形容しやすい対立概念として二分法に適合しないものとして無視してきた、あるいは保留にしてそのまま手付かずにしてきた、とは言えまいか?対立概念として二分法に採用出来ないものの方が実はこの世界にはずっと多い。しかし大小や長短というような基本的な対立概念というものは物事を理解する際にしやすいという理由から我々はそういった事項を思考実験的にも指示、特定、述定例としてしばしば採用してきたのである。二値論理的認識方法とは実はこのような形容しやすい二分法であるからこそ認識方策としての合理性として我々が採用してきた、というのは事実である。
 しかし繰り返すようであるが、我々の日常生活を顧みてみると、なるべく明快に意志決定し、行動を誘引する為に、というのも我々は一々の行為を逡巡していたら社会生活に支障を来たすので、そういった行動パターンが滞ることを未然に防止し、人生の活力を削ぐようなエネルギー・ロスを回避しつつ、躊躇的時間を少なくする為に我々は日常的な些細な事項に関しては、迷わずに行動するように、余分なことを考えずに行動するように心掛けている。(トイレに行く度に排泄するとはどういうことか、などと考えていては生活さもがままならなくなる。)あるいはそういう風に日常的な些細は合理的に処理して考え込まないように習慣化している。
 しかしよく考え出すと今度は、逆に我々がただ単に形容語彙を見つからないような難問は意図的に忌避することを通して不問に付しているに過ぎないということもまた判明する。
 例えば語句や語彙にもよくよく思い返してみると意図的に深くは追求しないように心掛け、安易に一括してその他のものとして認識しているものというものは案外多いということを思い当たる節はないであろうか?あるいはそれらは一瞬にして形容出来ないもの自体として実は極めて多様であるどころか無尽蔵であるのにもかかわらず一々考えてもみないものが満ち溢れているとは言えないだろうか?
 例えば殺風景という言葉がある。これは英語ではunimpressive location(landscape)とかnot impressive~とか表現出来るものである。あるいはless to missというような表現も可能であろう。しかしこの殺風景という概念はただ単に形容基準が容易に見出せない場合の付け焼刃的な処置として我々が勝手にそれらを一括して名付けた便宜的な形容にしか過ぎない。この場合には実は個々のケースにおいては甚だ無限なる個別性があるに違いない。殺風景な風景にも色々ある。シベリヤの平原も、サハラ砂漠も、宇宙も殺風景と言えばそう言えなくもないが、その殺風景さの性格や性質は皆固有のものであり、実質上は無限である。無限な無表情さの種類があるのだ。
 あるいは我々は実際に言語行為においてはあまりにも衝撃を受け(飽きれるということも含む)、あるいはそのようなことが契機で失語症的な状況に陥り、それが為に形容語彙を咄嗟に思いつかないというようなことも大いにあり得るのだ。そういう時はただ「凄かった」とか「まあまあだった」とか「なんて言えばいいものかねえ」とか言うのである。つまり述定において我々はこのように形容語彙選択に躊躇せざるを得ないようなケースというものの方が実は多く、それらは一括して何らかの言語行為における取り繕いをせざるを得ない。そういうケースにおける適用可能な好例として「無個性的な」とか「印象が薄い」とか「殺風景」とかいう表現、述語が与えられるのであるが、これらは実は極めて印象的なもの・ことたちなのである。ただ形容基準が見つからないというだけで我々はそれらを真に無個性的にしてきた、そういう風に認識してきた、という哲学上の歴史的事実がある。実はここに多値論理性への推移の必要性が我々に求められていることが立証されるのである。
 ここでサピアの次の一文が想起される。
「思想をもっぱらそれ自体のために定義する必要が切実になるにつれて、語はますます手段として不適切なものになってくる。したがって、数学者や記号論理学者が、なぜ語を捨てて。それぞれ厳密に単一の価値をもった記号の助けを借りて、おのれの思想を構築せざるを得ないのかが、容易に理解されるのである。」(「言語」60ページより)
 数学者や記号論理学者の代わりにここに芸術家、とりわけ画家を入れても同様のことが言えるであろう。あるいは他のあらゆる演劇、舞踏、ダンスや体操、フィギュア・スケートとかの創造的な身体行為遂行者においても、スポーツ選手やギャンブラーにおいても、その興奮には美創造にかかわることで得られる爽快感とか感動とかスリルというような語彙しか一応見当たらないが、実際は形容し難いケースというものの方がより多く、そういう形容不可能性領域への邁進が彼らの職業的、行為選択的な動機付けであるかも知れない。しかしそれにしても我々はテレビやヴィデオ、DVD等によってリアルタイムでそれらを見ることが可能であったり、再生したりすることが容易であったりする現代社会ではより形容語彙選択という必要性の消滅という事態も手伝って我々は極めて言語表現における危機的状況に立たされているという風にも捉えられる。しかしだからと言って我々にとって言語行為が必要でなくなった、とは誰にしも決して言えないであろう。語はますます手段として不適切となればなるほど語彙を創出する必要性は生じるし、また言語行為において言語表現的な認識必要性もより要求されるようになってくるのである。

Sunday, October 25, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 表情の述定

 述定を言語的に捉えてきたが、もう一つのシステムが表情であろう。
 人間がいつ頃から着衣する習慣を身につけたかは依然として謎のままであるが、もし人間が着衣することなく裸でいてそのまま進化していったのなら、今日ほど顔とその表情を通した感情記述という信号性は発達しなかったことであろう。しかし我々はチンパンジー等人間以外の霊長類にはない類稀な表情筋という固有のシステムによって表情で感情や意図を外在的に明示し、それを識別し得る意思疎通能力を身につけてきた。
 人間が性的欲求(種族保存本能)を抑制することで逆に内的感情の襞を進化させた、とも言い得る。仮に繁殖行為のみを優先させるのなら、顔の表情はさして大きな意味を持つことはなかったであろう。繁殖行為においてどの配偶者を選択するかという優良遺伝子の選択という雌の生物進化上の必然的意義において、人間は性的能力の優劣を着衣で隠蔽することで、直示を避け、逆に表情によって意思表示をすることが、仕事仲間として意思疎通するべく同性のみではなく異性をも繁殖行為へと直結し得る家庭構築の為に雌を惹き付ける為に奉仕されるようになってゆく。それは生存戦略的な間接的性的能力の誇示である。つまり表情は性的抑制システムの獲得と引き換えに人間が進化させた理性論的判断による対他的な意思表示システムに他ならない。しかしここでもまた前言語的思念が必然的に言語を通して顕現させる言語的行為、つまり倫理的感情(これは前言語的感情の一つであるが、これに言語的思考が加わることによって倫理が概念上の「倫理」である<法的秩序>となったり、常識的モラルへと昇華されるのだ。)さえも統語的能力によって自己と他者、自己と社会といったレヴェルで概念的に対他親和的感情を関係付け、感情そのものの意味を位置付けることを我々はしてきたのである。
 だからこうも言えよう。常識、モラル、愛情があるのなら人間には当然悪意もある。悪意の存在は人間に嘘をつかせる。従って真意をひたすら隠蔽し表情をすら偽装し得る。
 ここに今表情による表示によって真意を表出することにおいて誠実性に欠ける、つまり他者に対して接する時に習慣的に偽装表情で臨む(相手を騙そうとしているのに、誠実さを装うような)、そういう生存戦略を採る人間がいたとしよう。
 この人間は得てして怒りの感情を表には一切出さずにいて、常に笑顔で他者に接する。信頼してはいない人間に対してさえ、さも信頼しているかのような振る舞いを常に採るとしよう。しかし全ての共同体成員を信頼することなど出来ようか?真意レヴェルからも社会的構造における可能性レヴェルから言ってもそれは不可能以外の何物でもない。
 しかし今この人間をCとしよう。CはAともBとも友愛的に接する。しかしAとBは利害関係的に対立しているとする。このAとBの利害の一致不可能性において、AとB双方を同時に信頼しつつ更に同時に両方に対して利益を得ることが可能であろうか?しかしCはAからもBからも報酬を得ようとする。つまりCはAに対してはBを裏切るべくBの仲間を装うAのスパイとして振る舞い、逆にBに対してはAを裏切るべくAの仲間を装うBのスパイとして振る舞うとしよう。しかしやがてAもBもCの採る自己にのみ真意を表明しているかの如き偽装が漁夫の利を得る為にのみ徴用されていることに対して覚醒する。AとBはCを端的に警戒し出す。AもBもがCを警戒し出したことによって、Cは真意を表明する為の笑顔の偽装表情が効力を失っていることにやがて気付く。その時真意で笑顔を示しても最早その表示行為自体が信頼されないという事態を知る。そこでCは真意を表明することだけに表情表示をしてこなかった、つまり誠実性条件を満たしてこなかったという事実において、表情を真意表出(楽しい時にだけ楽しい表情をし、苦しい時にだけ苦しい表情をし、怒っている時にだけ怒りの表情をし、喜んだ時にだけ喜びの表情をし、悲しい時にだけ悲しみの表情をするということ、つまり素直に表情を示すこと)の手段としてのみ徴用してこなかったこと、表情の意思疎通上の作用を軽んじてきたことで、逆に真意表示の機能を果たせなくなったことを、つまり自分の意思表示そのものが信頼されなくなったことを知るに至るのだ。このような結果論的な負け組の存在や日常的に偽装して利益を貪ることで竹箆返しを受けるような事態を経験的に学んだ人類は、表情というものは概して偽装だけに供すべきでは決してない(時として真意の完全なる表出は羞恥を催すこととなるから、真意隠蔽の為に人間がする行為とは表情的な偽装である。例えば異性に対して好感情を抱く思春期の少年少女たちはこの種の羞恥を通して真意を悟られまいとするが、羞恥自体はそう容易く隠しおおせるものではない。)という教訓を得、表情を隠蔽するような覆面性(笑顔だけで常に接するような人間も当然この内に入る。中島義道もこのことを指摘している。「私が信用しない10のタイプの人間」)が結局その人間の真意を推し量る唯一のバロメーターを隠蔽することで喚起される弊害を回避させる為に、着衣しても顔だけは露出させることを習慣化させていったのではなかろうか?人間は顔を露出させることで実は次のように訴えているのである。
「私は表情だけは偽装することはしません。着衣して性的欲求を隠蔽しているように顔を偽装表情で常時覆うことは、私自身の真意表出の手段を失うことを意味するからです。私は真意を表出するのに最適なこの顔を隠蔽することは致しません。ですから私を信用して下さい。私をこの共同体の成員であることを認めて下さい。」
 このような意思表示の述定性として顔だけは着衣しないことの形而上的意味があるのだ。顔はAやBやSの人物間の識別をする(つまりもし仮に彼(女)らの顔の形や大きさがほぼ同じであってさえも、個々のパーツのみならず骨格や表情の示し方(全体的に利用した表情)によって識別する)手段ばかりではないのである。
 人間の表情信号説はモリスも指摘している。その最も顕著なものが彼が指摘する「赤ん坊が母親に示す微笑みの表情である。デズモンド・モリスの論述を以下に抜粋してみよう。

「七ヶ月になると、赤ん坊は完全に母親に刷りこみされている。母親は。今やどうなろうとも、赤ん坊の残りの人生の中に母親のイメージを残すであろう。カモの雛は、母親のうしろについていく行動を通じてこの刷りこみを獲得し、ヒトニザルの赤ん坊は母親にしがみつくことによって獲得する。われわれはこの決定的なきずなを、ほほえみ反応を通して獲得するのである。視覚的な刺激としてみれば、ほほえみの特有の形は主として口のすみをそり返すという単純な動作にある。口がいくら開かれ、唇が後方へひかれる点は、恐れの表情と同じであるが、口のすみがそり返る動作がつけくわえられることによって、表現の性質が根本的にちがってくる。このほほえみの発生は、次にもう一つのまったく対照的な表情_しかめっ面_を生じる可能性をもたらした。ほほえみとは正反対に、口をぴっちり閉じることによって、反微笑の信号が可能となる。ちょうど泣くことから笑いが進化し、笑いからほほえみが進化したように、親愛の表情は、振子を逆に振ることによって敵意ある表情へと進化した。
(中略)成人はただ唇をすこしひねるだけでこの気分を伝えることがきでるが、赤ん坊はそれにもっと多くのものをつけ加える。ほほえみが最高潮に達すると、赤ん坊は肢でけり、腕を動かし、両手を刺激の方向へ向けて伸ばして動かし、何かぶつぶついう声を発し、顎を後方にそらせて、おとがいを前のほうにつきだし、胴を前へ倒したりわきへねじったりし、ときには鼻すじにしわをよせる。鼻と口の両側にあるしわが目立ってきてわずかに舌を出すことがある。これらさまざまな体の動きは、それぞれ赤ん坊が母親と接触を保とうとする闘いを意味するのではないだろうか。おそらく赤ん坊はその不器用な体で、祖先の霊長類のしがみつき反応の名残りを示しているのであろう。
(中略)ほほえみは相互的な信号である。赤ん坊が母親にほほえみかければ、母親は同じような信号で反応する。こうして互いに報酬を与えあい、両者の結びつきは相互の方向に強められる。これは自明なことと思われるが、そこにわながあるかもしれない、一部の母親は、いらいらしているとき、心配事があるとき、あるいは赤ん坊のきげんをそこねたときに、無理にほほえむことによってそのような気分をかくそうとする。かの女たちはこのみせかけのほほえみによって、赤ん坊の気分を乱すことを避けようとするのだが、じっさいこのトリックがむしろ有害な結果をもたらすことがある。(中略)母親の気分に関して赤ん坊をごまかすことはほとんど不可能である。ごく幼い人間は、母親の動揺や落着きという微妙な信号に対してするどく反応するもののようである。記号による文化的コミュニケーションという巨大な機構にわれわれがはまりこんでしまう前の、前言語的段階においては、われわれの赤ん坊は、われわれがのちに必要とするよりもはるかに多く、微妙な動き、姿勢の変化、声の調子などにたよっている。他の種では、この点はとくに発達している。数の計算ができたので有名な"賢馬ハンス"の驚くべき能力は、じっさいには調教師のささいな姿勢の変化に対する鋭敏な反応能力にもとづくものであった。足し算を求められると、ハンスはちょうど正しい回数だけ足で床をたたくのだった。たとえ調教師が同じ部屋にいなくて、誰か他の人がかわっても、かれはちゃんと答えを出した。というのは、ウマが正しい数だけ床をたたいたとき、誰でも体をわずかに体を緊張させるからである。たしかに、われわれもみな、たとえ成人になったのちでもこの能力をもっている(うらない師は自分がいい線をいっているかどうかをこれで判定する)。しかし前言語段階にある赤ん坊では、とくにこの能力が発達しているらしい。母親が緊張し、動揺していれば、いかにかくそうとしても、それは赤ん坊に伝わってしまう。そして、このときかの女が強くほほえんだりすると、それは赤ん坊をごまかすどころか、混乱させてしまうだけである。矛盾する二つのメッセージが伝達されているからである。もしこのようなことが何回も繰返しおこなわれると、赤ん坊に永久的に障害を与え、大きくなってから社会的に接触し適応してゆく上で、非常な困難をひきおこすことがある。(「裸のサル」119~121ページより)

 人間の赤ん坊のほほえみとは人間がその一生の内の極初期に採る種として最初に接する他者の意識を釘付けにするための記号であり、最初の自己主張である。それは故に自我形成の上で重要な意思疎通のサインであり、意志伝達欲求の表明である。顔というものが嘘をつくことが出来ない、顔で嘘を付くことがモラル上であまりいいこととは見做されない、故にそう安易にはそれが出来ないからこそ、我々は通常一緒にいて楽しくない人間とは敬遠するように心掛ける。そうではなく顔で偽装することが容易く、あるいはそのような偽装表情を作ることが寛大に容認されているということが社会的通念であるなら、我々は婉曲な表現も信頼感喪失も経験せずに済ませられるかも知れない。しかし実際はそうではない。我々は偽装表情して友好的であるような印象を結果的に他者に与えたとしても、その好感情を確認出来たとする他者に対して非常なる失意を齎すことを重々承知しているからこそ、偽装表情を採ることは出来る限り避けたいと願うものなのだ。
 また後半のモリスの指摘は本章の主張と全く符合する。というのも動物は自分の悪口を言われると敏感にそれを察知する。人間がある陳述をする時に、その内容がポジティヴである場合と、そうではなくネガティヴな場合とでは明らかに声の調子(トーン)が異なっているのである。動物は人間のように言語を意味論的には決して理解し得ない。言わばモリスが指摘しているように赤ん坊同様全ての動物は一生の間中モリスの言葉を借りるなら前言語段階にあると言ってよい。そこで微妙なる褒め言葉と貶し言葉のニュアンスの相違を、あるいはそれを語る時の人間の表情のニュアンスの相違を識別するのである。(我々は肯定的な言辞の時とは違って否定的な言辞の時には顔を顰めて話すものなのだ。あるいは否定的記述を目にするとやはり顔の表情を曇らせるものである。)だからこそ動物は自分に向けられたネガティヴな言辞には敏感に察知するのだ。私の家で以前飼っていた猫は多少口臭が強かった。そのことを飼い主である我々が言及すると必ず我々の鼻を噛んだものだった。

Friday, October 23, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 「私は変わった」

 今度は「私は変わった。」とは、何故言わないのか、ということについて考えてみよう。
 「私の考えは変わった。」とか「私は変わった、と言われる。」とは言えても、「私は変わった。」と独り言を言う場合とか、その「変わった」ことを会話上既知のこととして一々説明する必要のない場合以外に、このような感慨めいた言い方はしないものである。
 「私の考えは変わった。」には何の問題もない。問題は「私は変わった、と言われる(と人は言う)。」である。これは私に対して誰かが、その外見か容貌(顔を中心とした)か、考え方か、行動(パターン)を指して言っているのだろう、と想像されよう。
 私にとって私の行動が変わったことを自分で言う場合、「私は以前~をしなかったのに、最近~をするようになった。」とか、それとは逆に「私は以前~をしていたのに、最近~しなくなった(するのを止めた)。」という風に具体的に言うことが通常であろう。(その後「私は変わった。」と付け加えることはあり得る。)
 体重や身長が変わった場合(「太った」、「痩せた」とか、「背が伸びた」、「縮んだ」とか言う場合。尤も身長の変化は大人にはあまり関係ないが)そのように具体的に言うであろうし、容貌に関してなら「最近顔(つき)が変わったって言われる。」とか「最近綺麗になったって言われる。」とか「最近表情が明るく(暗く)なったって言われる。」とか「最近人相が良くなった(悪くなった)って言われる。」と言うことが通常であろう。にもかかわらず他者から言われたり、他者に対して言う場合、そこまで具体的に言及される内容を説明しなくて、既に語られたことの全体的印象を述定して、「あいつは変わった。」とか「私は変わったって言われる。」(これは他者が私の全体的印象を述定しているのだから、他者の言うことをそのまま直示している。しかしこの言い方は私の何に対して今話題にしているかが相互に了解されている場合が多い。そうでなければ具体的に言及するであろう。例えば「私の性格」とか「私の考え方」とかいう風に。)という風に言うだけで済むのである。
 これは一体何故だろうか?
 他者に対して直接「あいつは変わった。」と言及する場合まず他者の様相的変化の事実を指摘しておいて、然る後に話者がその言及に対する返答として「どういうところが?」と聞き返すことが可能であろうが、またそのように他者の関心を喚起することを目的に全体的印象をまず語っておいてから話者を会話へと惹き込む(参加を促す)意味合いもあるのである。勿論「私は変わったって言われる。」も又、「どういうところが?」という疑問を誘発するように話者に対してこの発語者の発語は仕組まれていると言えよう。しかし兎に角自分の言うことを黙って聞いて欲しいと思う場合は、全体的印象を取り敢えず提出するようなことをする(このように全体的印象から導入して話者に関心を持たせようと画策する)ことなしに、いきなり単刀直入に具体的な言及をすることで説明しつつ発語を聞かせるであろう。発語行為が黙って聞いていて欲しいという要請である場合、その発語行為は、それだけで発語内行為としての側面を持つ。
 では何故「私は変わった。」とは言わないのであろうか?それは、実はあり得る。自分の考えについて相互に確認し合う会話中においてなら。「君変わったね。」と同一の志向性として。しかし、いきなり「私は変わった。」とだけ言うことは挑発目的である場合以外は通常考えられない。というのもそのようにいきなり言ったら必ず他者は「どんなところが?」とか「何が?」と聞かなければならない。そういう関心を促進させるような態度は余程親しい間柄に限られるし、もしそうであってもそういう言辞を度々繰り返すと、自分本位な態度からそういう言辞を浴びせかけられた相手は辟易してくるものである。もしそのように挑発的に全体的印象を自己言及においても行ったとしても、必ず何が変わったかを聞き返してくる他者に対して「考え方がさ。」とか「やることがさ。」とか「表情がさ。」とか「容貌がさ。」という風にもう一度言い直さなければならない。それは二度手間であろう。
 これは「私は変わった。」を一塊で捉えると、「私は変わったって言われる。」は第三者(今の例で言えば、そう言った人)がそういった述定する場合、それはあくまで一塊をAとすると、一般者としての人物(あるいは人物たち)BがAと言った、という意味の構文であるからである。しかし「私は変わった。」はただ単に自動詞の述定である。そこには他動詞の目的語たる対象や動作方向を表わす保護もなく、叙述様相が明確ではないからである。しかし同時に私はその場その時に応じて省略形としてそういう曖昧な言辞を巧みに挿入し得るし、その時はいつでも「変わった私」という語ることで示される意味内容の転換をし得るのである。しかもそのどれをとっても、紛れもなく私であるということを疑いもしない。このように語ることとは私に関してならば、その考え方なのか、容貌や体重などの状態なのか、行動なのかというような言及内容如何を問わず常に「私」の一言で省略し得るということである。しかもその省略とは、省略して語ってもよいかどうかが、相互に意思疎通する際の信頼感の有無に左右されるのである。信頼感のある話者同士ではこの種の省略は会話を円滑に運用する為の方策となるが、そうでなければ挑発的な自己中心主義的言辞となるであろう。敵対者に対して真意の吐露は危険である。

Wednesday, October 21, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 肯定と否定 形容詞の場合

 今仮に「長い」という概念はあるが、「短い」という概念が存在しない言語が存在するとしよう。(実際我々の使用する日本語には「わかる」という概念はあるが、朝鮮語、韓国語<ハングル>にあるような「わかる」の対概念の動詞は見当たらない。「わからない」はあくまで「わかる」の否定形でしかない。)この言語においては「AはBより長い」は陳述出来るが、「BはAより短い」とは陳述出来ない。すると「BはAより長く(は)ない」というようにしか陳述し得ないということになる。そのことは「短い」という概念しかなく、従って「長い」とは陳述出来ないような言語があるとしたら、そういう言語においても同様なことが言えよう。
 ということは我々の言語においては「長い」だけしかなく「短い」がない言語や「短い」しかなく「長い」がない言語における可能性として考えられる陳述のパターンの全てを駆使し得るということと論理的にはなるであろう。そこで用いられる用法は「長い」しかない言語(Lとしよう。)と「短い」しかない言語(Sとしよう。)(また我々のように「長い」、「短い」の両方を有する言語をNとしよう。)の全ての可能性を踏襲することが原理的には可能な言語の所有者であると我々自身を概念規定することが許されよう。
だから自動的に我々は①「AはBより長い」を次のように言い換えることが可能となる。

②「BはAより長く(は)ない。」(NとLでのみ使用可)

③「BはAより短い。」(NとSでのみ使用可)

④「AはBより短くない。」(NとSでのみ使用可)

では、この四つは真理条件的には確かに同一の事態を述定しているわけであるが、果たしてそれらを語る時我々は心的に全く同一の様相で語っているのであろうか?
 
 結論的に言えばそれは全く違うだろう、ということである。
 ①と③の二つは肯定形であり、残りの二つは否定形である。この否定形は話者が聴者(今後これも話者とする。)へ意外であると思わせることを想定し得ることに応じて発話の意義を自認し得る性質がある。否定的帰結の想定が裏切られる、つまり肯定的帰結こそ意外性が最大値となることもまた然りであろう。(後述する。)
しかもそればかりではない。話者への期待感に応じて陳述されることとはメジャー、マイナーの差が述定形容に存する。
 肯定形の内でも「長い」はメジャーであり、肯定的、「短い」はマイナーであり、否定的である。
するとこうなる。
「AはBより長い」
は肯定的内容の肯定形(A)
「BはAより短い」
は否定的内容の肯定形(B)
同様に残りの二つは次にようになる。
「BはAより長くない」
は肯定的内容の否定形(C)
「AはBよりも短くない」
は否定的内容の否定形(D)
ということとなる。
(A)は二重に肯定であり、(D)は二重否定となる。
この四つのパターンにおける心的様相を性質上検討してみよう。
(A)において述定そのものに逡巡はない。その点では(B)も同様である。それに対して(C)、(D)は命題設定とその否定という意味で逡巡が存在する。しかしそれは、この二つの文章の前後関係(文脈)に如何なる文章が来るかに依存する。
この4つの文章を仮に今次のような文章を置くことで考えてみよう。
疑問文「AとBはどちらが長いですか?」
この時(A)は最も順当な返答であり(尤も(A)よりも更に「Aです。」が最も順当であるが)(B)はそれよりは屈折している。
しかしそれは(C)よりはましである。だがこの4者の中で最も屈折しているのは(D)であろう。
この言い方は学者的言辞である。
「~するのに吝かではない。」式のものである。
この問いが「AとBどちらが短いですか?」
となると次のように反転する。
 上記の(A)が(B)に、上記の(B)が(A)に、上記の(C)が(D)に、上記の(D)が(C)へと反転する。
 しかしこの場合質問自体の心的様相にも違いがある。最初の質問は目立つものを指定させる意味で返答者に対して配慮があるが、次のものは挑発的である。
 この2つの質問が、たまたま質問者が手渡して欲しい特定の何かに対する請求でない限り、上の配慮の有無(後者は挑発的)は歴然としている。
 一つの真理条件を、その述定するパターンにおいて、その前後の文脈が作用することとは疑問文と返答文である場合、質問者と返答者の他者に対する誠実性であることは明らかである。
 一つのパターンはそれ自体では何ら命題論的意義を持つことはない。述定性としての様相でしかない。しかしそれは前後の文脈において初めて順当、非順当、適切、不適切、自然、不自然といった性格が浮かび上がる。その時初めて会話が事実となる。このことは文章の持つ真理条件及び述定そのものの性格はそれ自体では一つの様相にしか過ぎず命題論的な連関への認識によって事実の構成要素となる、ということを物語っている。そしてここで最も顕著なこととは4つのパターンはどのような質問と返答になろうとも、一つ一つの絶対的性格は相対性如何にかかわらず不変であるということである。
 「短い方の木っ端を取ってくれ。」と大工の頭領が部下に言ったりする場合以外、通常我々は何かを質問する時、マイナーな方を問質すような質問の仕方は順当でも自然でもない。
 例えばフィギュア・スケートの両雄AとBを比較した会話の時、その試合を観た方に対して観なかった方は通常「AとBのどちらの方がよくなかった(下手だった)?」という風には質問しないものである。これは文章にのみ特徴的なことなのだろうか?数学の場合全く当て嵌まらないのだろうか?
 プラスとマイナスの場合は_。(今後の課題としたい。)
 その問題に踏み込む前に上記の質問の可能性について考えてみよう。
 今まで挙げた二つの質問には、先述した4つのパターンの返答よりも最も順当な返答として「Aです。」があるが、それ以外の返答の存在可能性として4つのパターンが想定される時、その想定は質問自体に内在する命題条件に対する誠実性の有無を確認することから順当さを評定する意味を物語っている。
 今仮に質問を「AはBより長いですか?」に変えると最も順当かつ自然な返答はまごうことなく、「そうです。」となるわけだが、それに対して(A)は鸚鵡返しとなり、ただ返答内容を質問者が確認したい場合にはくどく多少不自然でもあるが、時としてある質問意図において話者(質問者)ともう一人の話者(返答者)間において、ある同意確認意図を持つ場合、後者の側の打診を前者が承認した時にのみ、より相互意図に対する信頼感確認行為となり得る。つまり質問に対する返答の順当さと意外さとは質問者と返答者の相互の意図を理解し合えるということと、相互にその質問意図と返答意図を尊重し合えるか否かという位相において初めて決定され、その質問意図と返答意図が波長を合致させ得た時にのみ我々はその意思疎通を意味あるものと確認出来る。結局意思疎通というものは質問意図と返答意図が相互に順当であると認識出来る(時には質問意図を返答者が怪訝に思うこともあるし、返答意図を質問者が怪訝に思うこともある。しかし質問意図を返答者が怪訝に思うということは大概質問者の質問の仕方に問題があったのであり、返答者が質問者の想定外でしかも非順当な返答の仕方をする場合、大概質問者の質問に対して返答者が怪訝に思えたことをの表明しているのである。)し、またその質問と返答の受け答えの自然さを相互に確認し合えるか否かということが、意思疎通上の充実を獲得しえるか否かということへと直結するのだ。
 だからこの場合BはAより長いという命題に対して否定する議論の上で成立する確認の様相であるということである。だからこそ鸚鵡返しにおいても相互に順当さを感じあえるということであり、それ以外のケースでは誠実性という観点からは鸚鵡返しはくどいばかりでなく、失礼である場合さえある。それは質問者に対する返答者の質問自体への不快感表明となる。
 これらのことは「AはBより短かく(は)ないですか?」となると一部反転することは前記同様である。(「そんなことはない。」と言えばよい。)また「BはAより短いですか?」であると前者においては(A)の返答は天邪鬼な返答となる。また「BはAより長くないですか?」という質問はそれ自体が「BはAより短い。」という誤った考えを指摘する意味(文脈)においてのみ順当な質問ということとなる。それ以外のこの言辞にはある種の不自然さが付き纏い、非順当ということとなる。その時(A)の返答をすることもやや不自然である。こういう場合「そんなことはないですよ。」と言えばよい。
 肯定する時は、一般的にある命題の真理条件の最も順当な記述をなしているので、心的様相において述定を聞く話者が、それを理解していることに疑いを差し挟まない。(もし話者が誤った真理を告げる場合でも、よほど偏った意見でもない限り注意していなければ聞き過ごし勝ちである。)しかし否定する時、否定された事態自体を主張する、つまり真理条件の矛盾を指摘するのであり、否定された真理条件に対する言及となり、批評となり、批判となるから、この時前提である真理条件自体の否定となるので、それを聞く話者は意外性を心的様相に抱く。構えるのだ。「待てよ。本当にその通りなのかな?」という心的構えである。勿論それは「まさかそうではあるまい。」と発語を聞く話者が通常思っているのに、発語する話者がそれを意外にも肯定する場合にも当て嵌まる。
 あるいは例えばまさかこの後に及んで彼が最早来るまいと思っていたのに、意外にも来たというような時、その意外な事実を誰かが告げる時よりも、彼が来ることは最早疑う余地がないと思われていたのに、来なかった場合の失望感の方がより大きいと思われる。というのも前者は明らかに彼に対して皆が悪意を持って臨んでいるのに、それを意外にも彼は意に介さないという結果となったのであり、「彼来なかったよね?」という質問に対して「いや来たよ。」という場合の質疑応答に見られる心的様相は失望というよりは、「してやられた。」という後悔である。それがどんなに政治的に許される最低限の決断であっても彼を来難くさせたこと自体は悪意に満ちた行為である。彼が来ることを阻止することが仮に正義であってもそれが滞りなく功を奏さなかったということは善意で彼に臨んだ時(例えばお願いだから来ないでくれないかと依頼するというような)よりも後悔を残す。卑怯な方法が巧くいかなかった時の地団太踏みである。しかしこれは大人社会ではよくあることであり、この嫌がらせが通じない相手に対しては「彼を見直した。」と言いながら、強い意志の持主であるという風に通常我々は彼を肯定的には捉えないものである。それに対して後者は「彼来たよね?」という確認の質問に対して「いやそれが来なかったんだよ。」という想定外の事実の報告となるのだ。それは最も失望感を聞く話者に齎す。というのも報告する者が失望した態度で報告しているに違いないからである。そうでなく喜んで報告したのなら質問者と返答者は信頼感が希薄である、つまり利害が一致していない人間関係であることとなる。
 纏めよう。前者の返答に対して質問者が抱くのは自己を含む複数の成員が彼に対して悪意を持ち、来難くさせたことに対する贖罪の心理を介在させることとなるのが最も一般的ではなかろうか?そうではなく、もし彼が実際話者を含む複数の成員の思惑通りに来なかった場合には安堵の心理を介在させることとなるのが最も一般的であろう。「そうだろう。よかったね。ほっとしたね。」という悪意の合意のウィンクが齎されるであろう。
 つまり来ない筈の彼が来た場合、失望感というよりは意外性という、あるいはもっと極端な場合には驚愕、狼狽を誘うのだ。あれだけ巧く婉曲に来ないで欲しいと切望する態度を示したのに彼には通じなかった、という心的内容である。
 肯定も否定も想定された通りにそれが告げられるのと、その逆のこととして告げられるのとでは、相対的に異なるのだ。まず悪意に満ちた策略が功を奏さない場合と、善意に満ちた努力が功を奏さない場合では前者の方が諦めもつく。もし結果報告において策略が巧くいかなくても、そういった想定外の報告に対する反応としての心的様相は展開された結果が、思惑と異なるも(つまりある程度そう巧くはゆくまいと思っていたとしても尚)、ある程度は想定されたことであるから諦めはつくも、悪意なく、善意のやり方で他者を引き入れようとして万全に臨んでも尚やはり好結果を齎さずに他者の信頼を得られない場合には、絶対値的に期待はずれであるということなので(引き入れようとした他者へ持つ人物評定を誤ったかという観念を抱きつつ)、失望感は善意にもかかわらず肯定的結果や帰結が裏切られる否定陳述(報告)の場合が最も大きい。だから、ある程度最初から舐めてかかっていたこと(あいつはのせられやすいから巧く利用してやろうぐらいに考えていたような悪意といまではいかないが、対象となる他者を舐めていたということを知っている場合)を実は薄々感づいていた場合には出されたものが好結果ではなくても「ある程度は予想されたことである。」という観念があるから諦めもつく。しかしそこまで事後的に反省すべき事態ではなく他者に対して善意で接している場合には、我々は想定されたこととは言え、悔しい思いを持つものである。
 次に今まで述べてきた好結果ではないことに関する否定的帰結陳述(報告)によって期待が裏切られることで齎される失望感の大きいものから順に列挙してみよう。
① 肯定的想定を裏切る否定的陳述(しかも善意である事項、対象に臨んでいる場合)
② 否定的想定を裏切る肯定的陳述(ある程度悪意を持って策略的にある事項、対象に臨んでいる場合)
③ 否定的想定を叶わせる否定的陳述(上に同じ)「やはりそうだったか。そりゃそうだよ。世の中そんなに甘くはないよ。」という心理である。
④ 肯定的想定を叶わせる肯定的陳述(①に同じ)
しかし意外性、つまり究極的には驚愕と狼狽という意味においては、次のような順序に改変されよう。
②、①、④、③
という風に。④と③が④の方が大きいのは努力しても、そういつも巧くはゆかないものである、という観念を持っている人間の場合には順当な反応であろう。というのもやはりどんなに努力していても、それが叶うことというものは嬉しいものだし、それはあくまで謙虚な態度で臨む人間の心理としては最もあり得ることであるから。それは意外性であるが、本当に努力して得た好結果であるなら、我々は通常それを順当な結果であるとその内に当然のこととして受け入れるものである。それに対して事後的に自己の努力や結果の想定の仕方に対して反省材料を見出せる場合には、そのよくない結果に対しては、潔く認め狼狽心や驚愕心は意外と少ない筈であろう。(②が最大なのは贖罪意識が働くからである。)
 
 
付記 最初の長い、短いという語彙の片方しかない場合、我々の文明ではないケースにおいては、例えばマヤとかアステカのような場合には小さいとか短いというマイナーなものの方に価値がある場合もあり得る。しかしこの論考においては敢えてそういう文化人類学的現実外の、つまり論理的性質としての片方の語彙しかないという思考実験であったことをお断りしておく。

Tuesday, October 20, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 夜盗の変節と結論

 そこで我々は「合わせる」行為は、法の順守としての日常的基本姿勢の顕現であり、即ち非常時に難局を乗り越えるためのエネルギー温存の為の知恵として、日常各瞬間に無意識の内に採用している、といわけなのである。しかここで問われるのは責任倫理的な日常スタンスとはどういうものであるべきか、という問題である。
 ここである思考実験をしてみようと思う。
 今住んでいるアパートの家賃の支払いに困窮して夜盗として悪事を働くために夜外出した人間が、たまたま犯行しようと思い立った家屋の前まで来た時に、犯行予定であったまさにその邸宅から出てきた先着の侵入者をその場で咄嗟に捕まえて、後日その犯行予定の邸宅の住人に感謝され、おまけに警察からも表彰され、その時住人からも褒章を得たとしよう。彼はどうにかその褒章金で家賃を払うことが出来たし、ヒーローとして褒め称えられたのだ。
 さてこの人間はたまたま遭遇した犯罪者に対してその場で咄嗟の判断をし、捕まえただけである。実際はその宅を夜盗として襲おうと思って出掛けたに過ぎない、もしこの先着者に出会わなければ自分がその家を夜盗していたに違いない、以上の理由から正直に自分の犯罪計画について告白すべきであろうか?勿論本当は自分が襲う筈であった家の住人から感謝され、警察からも賞状を貰ったのだ。内心彼の胸中においては穏やかならぬ良心の声も手伝って「こんなに褒められて申し訳ない」という思いに囚われていることであろう。しかし果たしてこの人間は全てを正直に告白すべきなのであろうか?
 もし住人も警察も何でそんな時間にその宅の界隈に歩いていたのかということに殊更追及することがないのなら、黙っているべきではないだろうか?敢えて周囲の人間の安堵に水をさす行為には果たして意味があるであろうか?感謝され、喜ばれているこの状況において犯罪はとにかく未然に防止出来てよかったと周囲の皆がそう思っているのならこの一件が周囲から忘却されるまでは沈黙を通すべきではなかろうか?しかし彼がもしキリスト教徒であれば、いつか神に対する背信行為であるところのこの悪行への目論見を告白すべき時期は来るであろう。そうでなくても自己内の良心がいつかは誰かに告白することを強いるであろう。その時彼は共同体への責任倫理と神への心情倫理の双方を解決し得たと言えるのではないだろうか?
 先述のマックス・ウェーバーの論理には心情倫理と責任倫理の狭間で引き裂かれながらも統合しようと躍起になっているプロテスタントの姿が読み取れた。
 このような形で我々は、キリスト教者の神に対する真摯な心情倫理と社会に対する責任倫理の遂行ということが、もし彼等西欧米文化圏の無神論者をも含めた暗黙の法に対する順守であるなら、彼等の残した多くの偉大なテクストに無意識の法の順守が示されているその痕跡を辿りながら、ディノテーションとコノテーションのどちらでもないもう一つの非意図的顕示という言語行為の法の順守を、そこに見出せるかも知れない、と思われるのである。それは恐らくシニフィエ、シニフィアンの双方からの探求が要求されてゆくことであろう。何故なら非意図的顕示(カントやウェーバーによって示されている)こそ、言語と社会共同体の法の一致点だと思われるからである。(私は無意識という語をなるべく使いたくない。)
 付録  全体対する注釈 
 人間の集合意識、あるいは集団同化意識が対社会的責任倫理として位置付けられ、逆に孤独確保意識が対神としての心情倫理(自己に対しては嘘をつかないという意識)と関連があると思われる。世間に対して過去の自己真意を表明しないでおくことはある意味では責務偽装であると言えよう。

Sunday, October 18, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 合わせる

「(前略)かかる経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまくもろもろの身体とについての二重の対象化的把握によって動機づけられている、と言った方がいいであろう。特に私が他の人々とともに或る共同のリズムのうちに拘束されていて、私がこのリズムを生じさせるのに寄与しているという事実は、私が一つの「主観‐われわれ」のうちに拘束された者として私をとらえるように、ことさら私をそそのかす作業の意味である。それは兵士たちの歩調をとった行進の意味であり、またボートのクルーのリズムカルな作業の意味である。それにしても、注意しなければならないが、その場合、リズムは自由に私から出てくるのである。それは私が私の超越によって実現する一つの企てである。リズムは規則的な反復のペルスペクチブにおいて未来と現在と過去を綜合する。このリズムを生み出すのは私である。けれども、それと同時に、このリズムは私をとりまく具体的な共同体の作業もしくは行進の一般的なリズムと融け合っている。このリズムはかかる具体的な共同体によってしか意味を獲得しない。そのことは、たとえば私の採りいれるリズムが《調子外れ》であるときに、私が体験するところのことである。」(「存在と無」下、809~810ページより)
 我々はまさにサルトルが言うように「調子はずれ」にはなりたくないのである。だから敢えて調子はずれで体制(大勢)に抵抗する行為は調子を合わせるという音楽的合一性に対する自由の行使、言ってみれば「合わせる」行為を前提した意思表示であり、それは滅多にするべきことではないのである。始終それをしていたら効果の全くないことなのである。それは寧ろ社会や共同体の一定のルールに随順する成員が義務履行の末に獲得した特権である。ニーチェという哲学者の示した反宗教的権威性は、彼が伝統的な哲学の徒であることの証でもあるのだ。
 サルトルの言うような「誰でもいい誰か」として対私的に、対他的にだけではなしに私をも捉えたある種の無名性、匿名性における自己認識として我々全成員が世界市民として生活していることは、一言語共同体成員としての意識を持ち、そこで実は「合わせる」ということの内に自己の在りようを発見してもいるのだ。
 「合わせる」ことがあるからこそ、「外れる」ことがあり、「離れる」ことがあり、「一人でやる」ことがあり、「一人でいる」ことがあるのだ。「一人でやる」こともまたそれをしていない他の皆に「合わせてやる」ことに他ならないのだ。「一人でいる」こともまた他の皆に「合わせて一人でいる」ことに他ならないのである。
 我々は思惟において、その内容はその場その時の独自のものであり、唯一的な考えとの出会いであるが、それらは概して「あれっ、こういうことって以前にも考えたことがあったよな。」というようなものであるし、かつ何かを考える仕方そのものは、いつものようなやり方であるし、その仕方、やり方はどこかで言語を発する時、思念を纏める仕方、やり方に極めて近く日頃独り言めいて思念する「かたち」へと収斂され得る。それをそのまま温存させつつ、それを文章や発話で具現化したりするか、そのまま内的にただ一人で抱え込んだり、その内別の思念の支配により自然と忘却されたりするかのどちらかへ帰着する。
 我々は明らかに「一人でやる」こととしての思念においても、自己を第一の他者として自己にとって理解しやすいように考えを纏めている。これはやはり一人でいる時に「一人でやる」、「合わせる」こと他ならない。我々は皆一人になった時でさえ、きっとサルトルが言うような意味での「誰でもいい誰か」であるし、それは都会の雑踏にいる時も、人っ子一人いない田舎の山道を歩いている時もそうである。自我というものは寧ろ他者に対する欲望によって醸成されるのだ。
 音楽を演奏したり、会議に出席したりするような意図と覚悟で我々は皆「一人でいる」時には「一人でやる」ことへと臨んでいるのである。そういう行為を敢えて選択しているのである。内的な言語的思念が「一人でやる」、「合わせる」ことである、というのはそのためである。敢えて沈黙することで内的に他者に向かってではなく、自己に対して話しかけるのである。それはある意味では皆何かをやりつつ「合わせる」ことも、「一人でやる」、「合わせる」こともその都度それら一切を統括する「合わせる」ことにおいて行為選択している、ということである。意志は行為されて初めて意志であったとされる。しようかと思い描くことは、意志ではない。
 しかし発話すること、つまり発語行為は意志だが、何かを言語的に思念することは、一個一個のことは内的事実にしか過ぎないのであり、ただそれらが一定の目的の渦中においてなされ得る限り、意志へと誘導される可能性が大いにある、というわけである。ある考えがある行動の合理性に裏打ちされている限りでそれは意志として発現される可能性が大きいと言える。
 だから対人間社会(共同体)内秩序としての「合わせる」という行為選択は、対社会(共同体)的な意味で責任倫理的側面が強い。しかしもし仮に社会全体が歪曲した風潮となってゆくと途端に内的葛藤が必然的に生じ、心情倫理の復権が内的に叫ばれだすのだ。そういうケースにおいてカントの倫理問題は極めて有効性があると思われる。
 しかしそのようなケースとはかなり稀であり、殆どの場合特殊な歴史的状況でしか起り得ず、例えばロシア革命以後のスターリニズム批判、第二次世界大戦中における兵役拒否その他反ナチズム運動とかのケースしか考えられないものである(事実この時期マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ、ワルター・ベンヤミン、ディトリッヒ・ボンヘッファーといった人物たちが苦悩する状況へ立ち向かったのであった)。

Friday, October 16, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 カントとサルトルとの出会い、西欧哲学における良心の問題

 さてサルトルのカント的なオマージュの典型的な例を示してみよう。それは「存在と無」下巻に数箇所記述されているサディストの挫折の下りである。これは明らかにカントの「純粋理性批判」や「実践理性批判」中の悪意ある人間の中に潜む善意の下りに対するオマージュである。私はここから哲学にける性善説的であり同時に楽観論的な考え方がキリスト教社会の良心の問題へと直結しており、知性主義的なコノテーションを回避するべくディノテーションの可能性を二人の叙述から読み取れることを示したい。
 サルトルの幾つかの記述からから2箇所、引用記述してからカントも概観してみよう。
 「サディストがその犠牲者からまなざしを向けられるとき、いいかえれば、サディストが他人の自由のうちにおける自分の存在の絶対的な他有化を体験するとき、彼は自分の誤謬を発見する。そのとき、サディストは、ただ単に、彼が自分の《外部‐存在》を取り戻さなかったことを実感するばかりではなく、さらにまた、彼が自分の《外部‐存在》を取り戻そうとこころみるときの活動までもが、超越されており、死せる‐諸可能性を附きしたがえた素質および特性として《サディズム》のうちに凝固させられていることを、実感する。しかも、サディストは、この変化が、彼の屈服させようとしている他人によって、また、他人にとって、生じるものであることを、実感する。そのとき、サディストは、いかに他人を強制して屈服させ、赦しを乞わせても、他人の自由に対して働きかけることはできないであろうことを、発見する。なぜなら、一人のサディスト、幾多の責め道具、屈服するため、自己を裏切るための数多くの口実などがそこに存在するような一つの世界が、存在するにいたるのは、まさに、他人の絶対的な自由においてであり、またそれによってであるからである。(この後彼は「拷問者に対する犠牲者のまなざしの力を描写したものとしては、フォークナーが『八月の光』の終りの方で示した描写ほどすぐれているものはない。」と述べて引用してから)かくして、サディストの世界における他者のまなざしのこの爆発は、サディズムの意味と目標とを崩壊させる。サディズムは、自己の屈服させようとしていたのが、そのような自由であったことを発見すると同時に、自分のあらゆる努力が空しいものであったことをさとる。われわれは、またしても、「まなざしを向けられる‐存在」へ指し向けられる。われわれはこの循環から外へと出ることがない。」(下巻、779~780ページより)
「(前略)私がある弱い男を打って、はずかしめている最中に、不意に、誰かが私を見つけたとしよう。この第三者の出現は、私を《鉤からはずす。》弱い男はもはや《打たれるべき》ものでもなく、《はずかしめられるべき》ものでもない。彼はもはや単なる存在より以外の何ものでもない。もはや何ものでもないのであるから、もはや《一人の弱い男》でもない。あるいは、彼がふたたび弱い男となるのは、第三者の通訳によってであろう。私は第三者から、それが一人の弱い男であったことを、教えられるであろう。(《お前は恥ずかしいと思わないのか。弱い者いじめをするなんて》)弱い男という性質は、私の眼のまえで、第三者によって彼に附与されるであろう。弱い男というその性質は、もはや私の世界の一部をなすのではなく、私がその弱い男といっしょに第三者にとって存在するときの或る宇宙の一部となるであろう。」(下巻、797ページより)(彼はこの後もたびたびこの第三者の視点が私と彼といった二人称の視点、吉本的に言えば対幻想的な視点を崩壊させることを述べている。このことは再び詳細に後述する。)<注、( )括弧内の記述は全部著者のものである。>
 次はカントである。
 カントに内在する倫理的な主張は、哲学史的な使命感としてのそれと全く個人的な資質に帰するところとが微妙な形で混合されており、その意味では時として論理的記述から逸脱するある種のアイロニックな述懐と論理的実証性とが綯い交ぜなったところに独自の見解があると思われる。カントが実証性以上に自己の主観を披瀝したという意味では「実践理性批判」に軍配が上がると言えるだろう。その中でも一際精彩を放っているのが次の箇所である。
「道徳性の定言的命令には、何びとでもまた何時でも従うことができる。ところが幸福〔を得るため〕の指定は、常に経験的条件にもとづいているので、この指定に従うことができる場合は、極めて稀であり、ただ一つの意図に関してすら、なかなか容易なことではないのである。(中略)しかし義務の名において道徳性の実現を命じることは、しごく道理にかなっている、道徳性の指定が傾向性と衝突する場合には、必ずしもすべての人が例外なくこの指定に服従するとは限らないが、しかしどうした道徳的法則に従うことができるかという方策を人から教えられる必要がないからである、それというのも、彼は自分欲することなら、またこれを実際にもなしうるからである。
 賭けごとに負けた人は、恐らく自分自身と自分の不明とを腹立たしく思うかも知れない、しかし彼がいかさましたこと(たとえそれによって勝ったとしても)を自分でよく知っているとしたら、自分の行為を道徳的法則に突き合わせてみさえすれば、彼は自分自身を軽蔑するに違いない。自分に向かって「私は、自分の財布をいっぱいにしたけれども、しかし録でなしのやくざ者だ」と告白せざるを得ないことは、こういう時に自分に喝采を送って「私は怜悧な人間だ、私は自分の金庫を富ませたのだから」と言うのとは、確かに判断の尺度を異にしているにちがいない。」(「実践理性批判」86~87ページより)
 ここでは明らかにカントは自分に対して恥じ入る博徒に対して共感し、かつそういうタイプこそ順当であり、本来人間はそういうものであるべきであるし、そうある筈だ、と言いたいのだ。そして言うに及ばずこの箇所はサルトルの「存在と無」における博徒に関するエピソードへと直結していると思われる。カントが良心の例えとして使用している博徒のいかさまをサルトルのいけない、いけないと思いながらつい賭博を止められないどうしようもない他律とカントが呼ぶものに引き寄せられる博徒の心理に対する言及はこの部分のカント哲学へのオマージュと受け取ることも可能である。そしてサルトルは明らかに先述引用部においてカント的な良心の拭い難き存在を主張しているのだ。
 つまりカントにはある種の性善説的な楽観主義があり、それはどこかキリスト教的ユーモアでもあるが、もっと別種の開き直り的なものでもあるように思われる。しかしカントには同時に非常に厳しい一面もある。それは彼が「道徳形而上学原論」や「実践理性批判」において明示しているところの、幸福欲と善の不一致という現実である。彼にあっては幸福欲的な自己本位は善的価値観とは一致しない、どころかある場面においては対立さえする、そこで彼はそういう場合善の方を優先せよ、と言うのである。ここに彼の言う善意志、つまりカント的な良心の問題がある。
 カントは生来的に温順であること(傾向性)よりも、意志の力による温順さ(義務による対他的な親切心の自覚的な行為選択)を優先する。彼にあっては、あくまで性格的に温順な人間であることよりも、性格的には怜悧で他者に対して対自己に対して厳しくあるような高水準を前提に、「他者もそういう風に自己に厳しい筈だ。」と他者に対して寛容さを持ち合わせていなくても、そういう態度を他者に対して採ることはいけないことだ、と自己に厳しく問い掛け、寛容であろうと意志的に遂行することの方を尊ぶのである。 
 これは心情倫理的な厳格さに裏打ちされた意志論である。このカント思想の性向をどのように理解したらよいのだろうか?
 キリスト教プロテスタンティズムの精神と相同のものがあるとは言えないだろうか?
 カントは神の存在を前提している。しかしそれはキリスト教教義から自己内的にはそう信じていても、哲学者の使命によって記述された意志論的な内容はキリスト教教義ともまた異なった意味合いを持っていよう。しかしにもかかわらず、キリスト教教義的な常識とか文化的な背景といったものがカント哲学において無意識の内に表出しているのだ、と捉えることは極めて自然なことである。
 マックス・ウェーバーは責任倫理(心情倫理に対立するものとしての)の推奨者であったが、彼の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、「カルヴァン派において<「隣人愛」は_被造物ではなく神の栄光への奉仕でなければならないから_何よりもまずlex naturae(自然法)によってあたえられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、しかもそのさいに、特有な事象的・非人格的な性格を、つまり、われわれを取り巻く社会秩序の合理的構成に役立つべきものという性格を帯びるようになる。」(同書166ページより)としながら、同時に神への栄光という箇所の注釈として、「善き行為でも、それが神への栄光のためではなくて、なんらかの他の目的のためになされる場合には、罪に染んだものなのだ」というハンサード・ノリーの信仰告白を引用している。
 この箇所でもウェーバーの論述は相反する二つの倫理に対する言及があると思われる。本文の方はあくまでプロテスタンティズムにおける責任倫理的な側面、そして注釈引用箇所は心情倫理的な側面の強調である。
 要するに人間は対社会的には責任倫理を遂行せねばならないも、神に対しては心情倫理的に接しよ、という主張がここにはあるのである。それは客観的に見たキリスト教社会の倫理規定であると同時にウェーバーにおいても無意識に表出した西欧社会文化人としての意識であったことであろう(この二値併存性は職務という形で現代にも生きている)。 
 この後者の心情倫理的な観点こそ、カントが意志的決断、つまり義務の履行と呼ぶものこそ、人間に神より付与された発現可能性としての能力であり、かつカント自らが言う「自由」における権利問題なのである。そしてその源流を探ると聖アウグスティヌスにまで遡ることが可能なのではあるまいか?
 ここで再び「存在と無」からの引用を通してサルトルが描出した重要な概念に対して言及してみよう。それは「合わせる」という行為である。(つづく)

Wednesday, October 14, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 序

 法に対する畏敬の念というものはある意味では共同体内では年長者に対する尊敬心とそれを行動で表意する敬語が担うべき意義は大きい。しかしそれにもかかわらず法そのものはそのような善意によって構成されてはいない。法とは寧ろ成員全員が必ずしも法令順守することはないであろう、という目測によって構成されている。それは最早前提と言っても過言ではない。法に背く者を裁くという側面から寧ろそれらは構成されている。このことは近代刑法学の父と呼ばれるフォイエルバッハの考えの中にも当然のことながらあったであろうと思われる。つまり近代と古代とにかかわらず法令を順守し、功のあったものには褒章を与えるが、それは同時にそれに背いた者には制裁と刑罰を与えるということを意味した筈である。それは概ね法令を順守する人間で構成される共同体において必ずある一定の割合で犯罪者も出現する(その頻度はともかくとして)ことを予め考慮に入れ刑法を成立させるということ、そしてそのことは実は平常ではどのような善良な人間でも何らかの拍子に何らかの突発的な契機をもって犯罪者になり得る可能性があるのであり、もし仮に犯罪者が逮捕されてもその人間が功労があったり、社会的地位の確立している人間であっても、逆に普段から素行が悪く、顰蹙を買うような人間であっても、そういうようなこととは無縁に公平に差別なく適用されることを旨とするものであった筈である。その時法というものの存在理由とは、一般的に人間は善良であるが、例外的な行為として時として規範逸脱的な行為へと赴くということを前提している抑制機能としてのものであるということとなる。これは例外出現可能性として、つまり行為としての平常さに対して異質性の発現可能性が全成員においてその本性上備わっているという性悪説から起因している。だから民法というようなものはかなり刑法よりも後に法秩序が洗練されてきてから、あるいはもっと言えば刑法体系の確立以後に犯罪が減少してきてから誕生したものであろう。ともあれ法とは人間の本性が性悪的であることの認知と、それを全成員において認知させることをも目的として、公共の利害においてある時期、つまりかなり私有財産的な観念が定着してきてから共有財産として認識されてきたものと思われる。
 その意味ではサールが「指摘する必要のないことは指摘しない」(「言語行為」坂本百大・土屋俊訳、勁草書房刊256ページより)という発語内的な暗黙の約定性において我々は日頃から法の順守を知らず知らずに実践していることとなる。
 言語活動において我々が考える最も有効なる例外例とは「座が白ける」とか「場の空気が引いた」というような心理的な表現であろう。サールの謂いに習えば「指摘する必要以上のことを指摘する」ことこそ、最も慣習的な言語行為としてのコードに抵抗することに他ならないであろう。つまり我々は本章において今度は意外性における肯定的な評価に直結し得るような魅力と、それとは対極の「座が白ける」とか「場の空気が引く」ような意外性というものの差はどこから生じ、どういうところなのか、という観点から分析、考察してみようと思う。
 文法があるということはその文法に従わないで発語することが何の意思疎通も果たさないという結果を招くことを人類は言語使用の極初期から恒常化させていたということではなかろうか?ある言語行為がラングとしての役割を果たすということは、紛れもなく法として、その言語を使用する(使用するとは言語自体の法に従うということを意味するのであるが)者とそうではない者との間に確実な差、共同体成員であるかそうではないかという結果を齎したであろう。ある行為が同一共同体成員であるかないかで許されたり、罰せられたりするという差を生じさせる。ある土地に居住すること、ある土地で狩猟すること、といった全てが同一成員間では認可され、そうではないと地域から追放される。
 刑法が明文化される、ということの背景にはその刑法を施行させるためのバックグラウンドたる言語行為がその刑法施行素地として恒常化していなければならない。刑法は言語行為が同一言語というラングなしに形成され得るとは思えない。少なくとも同一共同体である特定の専門家集団(狩猟なら狩猟の)が数人から十人くらいの単位で共同体秩序を構成しているとしよう。すると彼らは同一地域に居住してはいなかったある固有の非成員がその地域での居住と狩猟を認可する為には、同一地域での狩猟行動協力体制に加担し、その分配秩序を順守するという約定性に基づいてのみ判断された、というようなことは容易に察せられよう。勿論それ以前にはそういう新しいメンバーとなるというような紳士的な約定以前の略奪とか収奪とかが横行していたことも容易に察せられる。しかしある時期から(それが恐らく言語体系の完成期であったとも考えられるが)法体系が整備され、略奪、収奪がそう容易には可能ではなくなっていたとは考えられよう。そして別の地域に移住することが可能となるためにはある移住したいその地域で通用する言語の文法体系を習得し、その言語活動に加担しなければならなかった。言語行為恒常性への同化である。そして然る後に共同体全体の収穫量に対する一定の分配享受資格を獲得する努力が産出されるようになる。同一共同体成員資格とはそこでの言語活動への加担と同化、そして刑法その他の不文律に対する順守の誓約が基本的な条件であったであろう。そういった日常的な努力を明示しだしてから然る後改めて成員としての誓約を強いられたであろう。そしてそういう一連の行為をしながら成員資格享受において滞りなく認可されることの背景には明らかに同一地域でのみ通用する言語体系(それは体系として明文化されていなくても、既に慣習上ある特定の言語行為が日常化されている限り無意識であっても体系であると言える。)に準拠する意思疎通姿勢が示されて然るべきであろう。寧ろそのプロセスそのものこそ成員資格での最も重要な判定基準であったと言ってもよいであろう。何故なら言語行為において約定性が把握されて初めて彼は同一地域の法を理解することが出来たであろうからである。
 刑法制定以前にもその同一地域の利害に反する非成員に対する共同体防衛本能によって排他行動とか同一成員による特殊ケースにおける非分配規則順守により施行される制裁というものは当然あったであろう。しかしもっと重要なこととはその制裁は一番の強者である独裁者がライオンのプライドと同様にその都度変わるような共同体体制においては恐らく丼感情で施行されていた傾向が強いであろうと思われる。しかしそのような可変的で流動的な共同体運営体制に対して同一地域内の全成員から不満と共に疑念が噴出してくる(そういった疑念はある種の批判となって定着してゆく。そしてその民衆の不満を解消すべく、法を制定しつつ言語体系における細かい秩序を考え出した者がいた、という風にも考えられる。その人間は優秀な狩猟技術者を選択しつつその人間をリーダーとして持ち上げ権威を形成させつつ自分は中間管理職的な地位に安定を求めるようになる。初期官僚の登場であろうと思われる)。
 狩猟技術だけではなく成員統制に長けた強者による革命的に下克上的に共同体をその都度一変させるような不安定さを静定するために要求された万人にとって応用可能な狩猟技術とその収穫物保全方法とその技術が開発されてゆく。そこから社会の安定が少しずつ具現化されてゆく。そういった無法状態からの脱却と、日常的な成員の非安定的状態に対する不満の沈静化克服過程において法的整備による安定的な秩序を形成すべきであるという共同体全体の暗黙の考えが定着してゆく。それと共に賢者兼狩猟専門の優秀なる技術者とやはり賢者兼官僚的地位の人間が成員の中から選出されて全成員による自然発生的な社会のヒエラルキーが確立されていったことだろう。恐らく法的秩序と言語体系の秩序の形成は同時的である。それらは全成員の長年の安定的な生活基盤の獲得への願いが生んだ同意事項であり、リーダーとはその都度全成員による暗黙の了解の下で選出されていったであろう。しかし刑法その他の法の明文化は恐らく言語体系完成の後であったであろう(それ以前は言語体系の形成過程であっただろう)。言語定着と法整備の完成後やがて、その共同体運営に必須の狩猟技術者たちはその子孫にその技術を伝承して自然に血縁共同体的なギルドが構成されてゆく。そのギルドを中心に政治的経済的未分化の分配秩序が形成され、やがてそこから共同体の政治的運営、祈祷、女子護衛とかの役割分担が発生してゆく。その過程では当然文法的秩序が形成され言語行為の発語法は形成されていたであろう。官僚は官僚でその人心統握術という観点からギルド化されていったことも容易に想像される。(宮本常一は、年配者が権力を持つ年功序列集落は、非血縁的な集落<進化的形態>だと言う。)

 ここで最も重要なことは意思疎通における統語秩序や文法規則とは法秩序の形成(それは取りも直さず倫理体系の形成と期を一にしていると思われるが)と同時的に進行したということであり、例えば「よいこと」、「悪いこと」というような概念形成もこの共同体形成プロセスにおいて定着していったであろうということである。
 だから当然このプロセスにおいては意思疎通においての発語行為においてはおしなべてまだ余り「意外性」というような発語はそれほどまでには発展してはいなかったであろう。勿論個的レヴェルでは親しい者同士が冗談を言い合ったりするということはあったであろう。しかしそれが文化にまで発展するにはまず法秩序と言語体系の完成(勿論今日でもまだ完成してないないという面もあるのだが、取り敢えずラング的役割を果たすことが可能なまでには至るということである。)を持たねばならなかったであろう。勿論そのプロセスの途上でも当然<同調>、<揶揄>、<密告>、<裏切り>、<ほくそ笑み>等の行為や意思表明性はあったであろうが、だからと言ってそれが表立って文化コードにまで発展してゆくにはまだ多少時間を要したのではないか?ただその発語行為のやりとりの中では意外性の発言を有効に意思疎通上の知恵として案出する人間が登場すると、その人間は祭儀や祈祷、政治的な行為と不可分な詩の朗読とか他地域の異言語共同体とのやりとり(通訳と外交)といった特殊任務に配属されるようになり、やがて言語体系に複雑な人間心理の綾を導入し、言語体系に一定の貢献をしていったであろうことは容易に想像がつく。
 ところで言語社会学的な物の見方において一番重要なこととは何かということを考えると、それは言語活動というものがある一定の進化上の必然的展開として共同体に根付き、あるいは共同体形成という行為そのものが既に種全体の同意事項であるなら、そういった種間の連動を育む起源的な知性とは言語発生以前から当然あり、かつそれを円滑に捗らせるという目的一点において育む進化上、遺伝学上のある種生存を賭けた選択圧に対する返答として我々がたまたま偶然的に発展させてきたのが言語活動であるとすると、言語は前言語状態、つまり共同体護送船団的な運営を決定付ける前言語的な意思疎通の必要最低限のサインがあって、それをもっと円滑かつ複雑に共同体維持そのものに貢献するようなものとして位置付けられる技術開発の必要性(その結果が今の言語活動である)が前提されていた、と捉える必要性があるのである。
 そのような展開上において我々は前言語的サインを表情であると考えるのだが、同時に表情を察知することがただ単に友愛的なだけではなく、あくまで今日の営業的な戦略としても人類初期から発展していたのではないか、という臆測も成り立つ。ただその営業的な戦略も次章で述べることとなるが、表情の偽装性の有用性は同一ラング内では効力を発揮し得ないであろう。(次章、<述定の心的様相>を参照されたし)そこで当然考えられるのは世界で二番目に古い職業であるところの通訳である。彼らは同時に外交官であった。彼らは自ら所属する言語共同体の利害の為に偽装表情を異言語共同体の成員に示してきた筈である。その際に異言語集団間での偽装秩序というものが徐々に形成されていったとは考えられないであろうか?「ここまでの偽装は許されるが、ここから先の偽装はルール違反とする」というような。あまりにも唐突な意外性ばかりが恒常化すると表情を解釈することにおける表情の存在意義は滅却されてくる。そこで最低限のルールを施行しようという同意がやがて異言語間の協定事項と化してくる。そういった暗黙のルールの形成は同一言語共同体内においても異種言語間の広範囲な各種共同体間でも基本的にその必要性とか性質とかは厳密性においては構造的には殆ど等しかったであろう。近しい共同体内部でのそれと異種言語間では程度の差があるだけで、その構造上のあるいは暗黙の協定に対する意識レヴェルでの同意性において現実はそう変わらなかったことであろう。
 そこで重要なこととは初期人類の時代から意思疎通における意外性とはあくまで一定のルールを順守した上での許される範囲内での逸脱行為であったろう。そういった許される範囲内での逸脱行為であるなら、ある種のアイロニーとか皮肉とかジョークとかヒューモアとかといった言語行為上の日常的な人間関係維持の為の機微として作用していったことは充分に考えられる。(これが文学の誕生とも言えるのではないか?)
 通常進化というと縦の構造ばかりが重要視されがちであるが進化論生物学においてはある限定された期間において同一種内での通時的で遺伝的な祖先から子孫への進化以外の横の進化がしばしば考えられてきている。それは異種間にも徐々に浸透してゆくような同一機能の器官とかの進化である(収斂進化)。それはある一定の自然条件がその期間に、それまでの自然条件の常識では考えられないような異変が恒常化し、元の状態に中々戻らないような場合、その異変状態の定着という現象に対応すべく異種間でも有効な対処法としての対自然選択的進化が発展してゆき、まるでウィルス増殖の如く有効な処方を生存戦略的に進化上で採用可能な種が続々と出現してゆく。その際その横の進化を促進させるものとは実際にウィルスその他の要因が考えられよう。実はそのようなものとして言語活動というものそのものが結果的に異種言語共同体になっていった異種族間での表情偽装に関する暗黙協定策定(それはある言語が体系化されてゆく過程で既に生じていたのであろう。)過程と同時的に進行していたのであろう。ある地域に長期間居住する共同体とそうではなく常に移動を迫られる共同体同士ではその両者の生活上の時間では当然多少の邂逅機会とその為の一定期間の交流は考えられる。その際にその異共同体間の連動は相互の言語体系構築過程では異言語の語彙移入、文法秩序の形成におけるヒントとして異共同体の意思疎通技術の導入というような現象も手伝って個別的でありながらも共同的に体系上の完成へと一歩一歩近づいていったのではなかろうか?異種言語が自言語を体系化する促進剤として作用するということだ。
 移動民族と定住民族間の協調もあったろうし、隣接定住民族間の協調もあったであろう。移動民族の方がより定住民族間を行き来する可能性が大きいので通訳や外交を兼ねるようなタイプの成員を特殊任務として移動民族内で認可し、今日クレオールとかピジンとか言われる現象の萌芽が出現していたであろう。(そこから民族の分化が起こった可能性もある。)
 しかし最も重要なこととは言語活動というものがある文法的な体系を有するに至るにはただ単に発話行為が定着するだけではなく、社会的な法というものが不文律なりにも存在し、そこで文字表記が行われ、それが齎す思考の整理が人類にある種の行動的な規範を齎すようなシステムが既にあったということでなければ矛盾する。発話行為は文法体系以前に既にあったであろうが、その発話行為を文法体系的に秩序づけたのは文字表記であったとも考えられる。文字表記することが人間に思考の整理を強いるということを我々自身は日常的に経験している。
 純粋思念上ではいい考えが浮かばない時でも、いったん鉛筆やペン、ボールペンなどを手にしてそれを握って紙を前にした時、あるいはパソコンの前に座り、オンにしてキーボードに手を触れた時に、作曲家がスコア用紙を前に、演奏家が楽器を手にした時に突然ある考えが降臨してくるということはあり得るもである。これは物を書く、記述するということが考え方を整理する行為に等しいので、そのような心構えがそういう時に出来上がるということであろう。脳にある構えが出来上がるということである。
 しかしここで一つ疑問が起こる。そのように考えが纏まる、形をなすということはあくまで思考する為に必要な文法体系が既に我々によって認知されているからではないのか、ということである。それがあるからこそ鉛筆を握り、パソコンを前にすると考えが浮かぶのだ、というわけである。しかしこうも言える。ある考えというものはある行為、この場合であれば、鉛筆で何かを書こうとすること、パソコンのワードに何かを入力保存することによって閃くのだ、だから考えが纏まり、ある形をなすのはそういう行為への心構えから引起されるので、たとえ初期人類において何らの文法体系がまだ確立されていない状態ででも、その時人類は何かを書きとめようとする時に何らかの文法的な萌芽ともなり得るような秩序だった考えの形を現出せしめたのだ、と。
 考えがあり、それを形にする為に文法は形を整えたのだ、という側面と、その整えられた形を通して考えを纏めるという側面は相補的に作用しあって、文法と意味内容は相補的に進化していった、とは考えられるところである。
 物を書き、読むことの出来た一群の人々というものがいた、とは考えられる。彼らはインテリ階級であった。勿論狩猟技術率先開発者もいたであろう。彼らの中には狩猟技術だけではなく、文字表記し得る成員もいたであろう。しかしこのような分業と兼業の渾然一体化した社会システムにおいては、文字表記(それは恐らく絵文字だったから祈祷、祭事専門家でもあったであろうが)が編み出す思考の整理のシステムは口頭でやがて全ての成員(文字表記出来ない者も含めて)を統率する専門家の知識が全成員に伝わり共同体全体の不文律になってゆく。
 少なくとも人類の人類による歴史というものは文字表記によって形作られてきたのである。人類の身体的な進化のシステムやその生理的な機能性から読み取れる歴史というものを自然人類学者や動物進化学者や解剖学者たちが考える際の人類の歴史というものは生物学的な意味で形而下的なシステムとして我々の生命の歴史を物語っている。それは医学的、生理学的、進化学的な我々の存在そのものが語る歴史である。しかしそれともう一つは人類自身が(生命の歴史が神によるものであるとするなら)人類の手によって考えを後世に伝えたかったという思いもまたここで示されてもよいであろう。それは文字表記の事実自体が語る我々の歴史である。それは形而上的な意味でも、身体測定的な知性の曙としても、人類の心的な内実性においても極めて現代と太古を結び付ける絆である。
 古代から現代へと至るこの文字表記の歴史は人類によるものであるが、同時に彼をそう仕向けたのは身体の中に宿る生命記憶とその回帰欲求的な意志の顕現である。回帰することというのは生まれてから死ぬまでの間に起きる出来事の全てを体験しつつ、それを一括して人生であると考える人間の業のようなものから引き出された認識である。生まれて何かをこの地上に残し、再び生命が発祥した大本のエネルギーの場へと還元される(死)という事実が我々を文字表記へと駆り立ててきたのだ。
 野生の世界では捕食者たちは決してある一定以上の捕獲は自然システム上許されない。というより彼らは必死にそれに立ち向かっているのだが、彼らの脳がそれ以上の捕獲率を上げることを不可能にしているのだ。どのような動物であろうと捕獲率が10回に一回であろうと、5回に一回であろうと、これ以上追い求めても今回は捕獲不可能であるということが認識された段階において速やかに捕獲意図を撤回する、つまりこれ以上追い求めることを断念することを決定する何らかの根拠がその種毎に備わっているであろう。そうでなければ、彼らは一回一回の捕獲に費やされるエネルギーをある段階以上まで消費することが次回の捕獲行動を実践させるために摂って置かなければならない一定量以上を無駄に浪費することとなり、生存戦略上不利になるからだ。もしそれを出来ない個体が仮にあったとしたら、すぐさま生存を脅かされたであろう。彼は狙う立場であると同時に狙われる立場でもあるからである。衰弱した個体を狙う捕食者は至るところに待ち構えている。
 しかし彼らはそれを意識してやっているわけではないだろう。寧ろ殆ど無意識に身体が命令しているのだ。脳が命令していてもそのことが脳によるものだと彼らは思わない。実は事後的に解析してある行動が無意識のもので全く理性的な判断によるものではなかった、ということは人間でもあり得るのだ。これは認識上のことである、と考えても、実はその行動は無意識の欲求の表出であるかと思えば、無意識にしていたと考えることが、実はちゃんとした認識による行動である場合もあるのだ。そこの判断は結局のところ事後的にその行動の様相を些細に分析することでしかなされ得ないのだ。だが人間には意識や欲求だけではなく、未だ大きな武器がある。人間の場合、文字表記とか発話といった行為において解消される意思疎通の快楽がある。そこで我々は哲学史において、人間の人間に対する認識を歴史的に図ってきたのだ。意思疎通の快楽はあらゆる行動の中でも一際精彩を放っている。それはあらゆる行動の中で最も軽く、最も重い。そして最も多義的であり、最も他行為への依存性が弱い。行為目的論的にも独立性が強く、それ自体が目的であり、いかなる営業的な言辞さえ、人間が人間である限り純粋に手段であるということを、人間は考えたくはない。考えることは出来るが、そのようには割り切れない。
 ではなぜ我々はそのように人間による認識を営々と図る必要があったのであろうか?答えは簡単である。どの人間も同一の言語を持って意思疎通に臨んでも、異なった考えでその言語活動臨んできたからである。確かに我々は同一の言語共同体において、同一の文化コードを持ち、同一のラングをその都度有し、同一の法体系の下に居住してきた。しかしそれは一方で全ての成員が同一の見解を持ち、同一の世界観を持ち、同一のモラルを持っているということを意味するか、と言えば、それは全く当たらないのである。コミュニティーというものはそういったレヴェルでは誰一人同一のコードを持ち得ないという現実によって逆に必要性に迫られて形成されたものである、とさえ考えてもよいのである。
 概念的な意味合いにおいて、ある概念を使用する際の共通の認識というものは当然あり得る。それが言語共同体の成立前提である。しかしそれはその概念に対してどのような意図を持って意思疎通に臨んでいるのか、ということと、どの概念に対してどのような意味合いを付与し、使用しているか、ということにおいて全く各成員が共通した認識を持っているとは限らない、という現実を物語ってもいるのである。
 ある人間に約束したとしても、その人間が今日、明日のことくらいしか約束しない人間であり、そのことがその人間にとって常識であるのなら、その人間と一週間後の日程に約束をするという行為が、事後的にどれほど馬鹿げているかを知るだろう。しかしその約束をした時点ではそういう彼独自の常識を知らなかったのだから、致し方ない。
 我々は事前にその種のデータを知り得るケースと、そうではないケースの両方あることを知っている。しかし約束自体は可能である。それは言語がその人間固有の世界観とかその人間固有の人間観とか人間関係観とか、社会常識とは無縁に、それ自体で概念と意味を結び付ける、しかも共通のコードとして存在しているからである。
 人間にはそのような差異性を超えて触れ合う欲求がある。だから意思疎通をしようと欲し、共通のコードを探り合う。しかしそれさえしなかったなら、決して対立し得なかったろうけれど、意思疎通し合おうという欲求がために対立してゆくことにもなる。
 だから繰り返すことになるが、受容選択と拒否回避という保守性は次第に人間に対してこれ以上意思疎通し合う仲間を増やすまいと、決意させるに至るのである。そこから閉鎖的共同体が形成されてゆくこととなるのだ。だが歴史的に言っても、その種の閉鎖的共同体性格というものは腐敗を生んできた。腐敗の温床となった最も大きな理由とはそこに属する成員のメンバーが変化しなかったことである。新しい風が流入しないように全既成成員が心掛けてきたのだ。既得権益者集団の誕生である。
 そこに道徳という観念が派生する余地が生まれる。カントが「もし意志が自由であり、また神と来世とが存在するならば、我々は何をなすべきか、ということである。ところでこのことは、最高目的を目安とする我々の行状に関するものであるから、人間に理性を付与するに際して賢明な配慮を致した自然は、もともと自分の究極意図をもっぱら道徳的なものに向けたのである。」(「純粋理性批判」下、篠田英雄訳、岩波文庫94ページより)と言う時、そこには後にダーウィンが自然選択という考え方を採用してゆくこととなった基礎がある。それは人間が最初の内はただ他個体に対して閉鎖的に同族間でのみ利害を貪っていたことから(まさに閉鎖的共同体そのものである。)徐々にその閉鎖性に対する反省とそこからの離脱を要求するようになっていったのである。その工程そのものは実は神がデザインした脳の発達というものによって始めからある時期が来たら発現されるように仕組まれていたのである、とすると完璧な創造説となる。しかしカントは神を否定しなかったし、少なくとも神の存在を前提した上での認識と思惟を行ったが、ここでは自然という語彙に置き換わっている。まさにそれこそ、カントがダーウィンを先取りしていたことである。
 ダーウィンが活躍した時代にも未だキリスト教的創造説は盛んであり、それは今日においても変わりない。しかしダーウィンの後裔たちは確実にその芽を花に育ててきている。そしてそのダーウィンの仕事を色々な障害を齎しながらもやりやすいものにしたのがダーウィンの先人カントであり、後輩ヘーゲルだった。あるいはカントの前にはルソーがいた。
 ルソーやカントがそのように自然科学を離れ、悠々と哲学的な論議をすることが出来る余裕は近代的自我の確立が大きく関与している。近代的な自我意識が発進しなければ、恐らく哲学は形而上学的な限界にしがみ付き、自然科学へと命令するだけの指針に留まっていたであろう。それを一総務部的な学問から独立した学問へと導いたのは、彼ら以前を振り返ればデカルトやホッブスたちであろう。あるいはロックやヒュームたちであろう(実はこれを書いた時点からやや私の考えに変化が生じたのだが、そのまま掲載した。近代的自我と一口で言うことの中には実はもっと複雑なことが控えているように思うが、ここでは取り敢えずそれ以上に触れることを差し控えよう。このことは今後の宿題としたい)。
 言語にはディノテーションとコノテーションがある。ある言辞において、直裁に物事を語ることと、何かを語りながら、実はそのこと自体ではなく、別個のことを語ることを旨とする、という二つの意思疎通の在り方である。哲学者たちはこの二つを巧みに使い分けてきた。メタファー(暗喩)は明らかにコノテーションの一部である。またアレゴリー(隠喩)は明らかにこの二つの中間である。これらのことを少々まず基本的に頭に入れておいて欲しい。
 人間はそもそも意思疎通においては表情を明示することと言辞を織り交ぜて、意思疎通してきた。そのことに自覚的であったのはエソロジスト(動物行動学者)、一部の博物学者、あるいは自然人類学者たちのみであって、せいぜい心理学者、それに臨床心理学者くらいがそこに着目してきただけである。言語学者や記号学者たちはその範囲の考察をして来なかったと言って良い。哲学者もまたそれがかなり重要であることを知りながら敢えて避けてきたと言ってもよい。だが本来コミュニケーションを考えてゆくとなると、どうしても所作の中には表情の占める位置が大きくなる。言語学者たちは所作に関してはかなり考察してきた。しかしそれは言語を発する身体的な生理的メカニズムに依拠したそれであったのであり、心理的なそれであったのではない。心理的なことは心理学者に任せておけばそれでよい、ということであった。しかし心理言語学が登場して多少事情が異なってきた。それに言語社会学や社会言語学(どちらでも同じようなものである。同様に心理言語学も言語心理学と同じと考えてよい。)が加わって、考察の幅は広がってきた。個々の領域の専門性には配慮しながらも多分にクロスオーヴァーした研究態度が生じてきた。そこから普遍文法というような考え方も徐々に定着してきた、ということも言える。しかしまだ文法とか普遍的な統語法の考え方には表情は不随的なものでしかない。所謂言語学者たちが言う自然言語と人工言語という概念規定性そのものが極めて不自然である。勿論ここには自然言語は我々が日々使用する実際の言語であり、人工言語の方は我々がそれら自然言語を認識してゆくための思考実験的なモデル・ケースというものである、という範囲内でなら理解出来る。しかしそれが機械に言語を語らせ、機械に心を持たせるというような試みになると、いささか疑念の情を持たざるを得ない。これは一人ロボット工学者、心理学者や数理論学者たちの職業的なエゴではなかろうか?エンジニアという職業の持つ律儀さは理解出来る。しかしこれらの試みは機械というものそのものの発明されてからの時間と生命というものの歴史というものの長さの違いをあまりにも無視した無謀な試み以外の何物でもないのではないか?人間は本能的に機械と生命を峻別し得るのではないだろうか?
 人間はある言語行為において意味さえ伝達すればそれでこと足りるというわけではない。寧ろそのように語ることですっきりしたと感じたり、何であんなこと言ってしまったのだろう、と後悔したり、反省したり、あるいは何らかの言辞を齎されて傷ついたり、狼狽したり、喜んだり、楽しんだりしてきたのであり、そのことはこれからも変わりない。そういう側面がただ技術畑の職業的プロの研究材料でしかない、というようなことは断じてあり得ない。一部の哲学者たちはこの種の論議が極めて好きである。それはしかしある種の機械工学の発展には寄与するものであっても、人間そのものの実像には迫ることは出来はしないであろう。それは技工芸的な側面の研究である(この辺の考えにおいても私自身で弱冠の変化を来たしてきているのだが、それもまた今後の宿題としたい)。
 サールは「形而上学的な用語を使用するならば、価値が世界の中に存在する時、価値はもはや価値ではなく、世界の一部であるということになるゆえに、価値は世界の中にはないと述べることに等しい。」(「言語行為」327ページより)と述べる時、彼は恐らく「価値は世界の中に存在する」という言辞そのものの矛盾を示しいているのだ。このやり方は決して直示(ディノテーション)ではない。この言辞からは価値という言葉が正しいのか、あるいは価値という言葉を使用する仕方が正しいのか、価値が世界の中に存在することが正しいのかというような判断はつかない。それはこの文章の前後関係から推察するしかないのだが、それにしてもサールの言辞は思わせぶりである。これは手法的には明らかにコノテーションである。しかしここから少なくともサールが決して価値を否定しているのではないな、ということだけは解かる。だが彼が言う価値とは一体どんなものであろうか?
 まず文章から行くと、その価値はやはり世界の一部であるようなものではあり得ないということに尽きる。世界の一部であることは価値としての価値に矛盾を生じる、と彼はここで言っている。すると価値というものは世界とは切り離されたものでなければならない、ということになる。しかしここには論理矛盾がある。と言うのも彼が言う価値というものはそもそも彼が住む、彼がそこで考える世界という場によって齎されたものである限り、それは世界の一部であっても差し支えない、いやそうでなければならない、ということがまず考えられる。と同時に彼が価値と言う時、そこに何か大切なものというニュアンスも示されているわけだから、それは彼と共にあるべきものでなければならないのに、それでもそれは世界の一部ではないとなると、彼自身が世界とは切り離されてあらねばならない、ということとなる。<ブーバーは釈迦無尼の世界認識を批判している(「汝と我」)が、それは仏陀が世界を俗世間という意味で使用しているのに対し、ブーバーが世界全体(宇宙も含めた)を世界と呼んでいるということに起因している。サールが世界と価値が切り離されているとする時、その世界は俗世間ということを意味し、逆に世界の一部とする時、その世界は世界全体のことを意味する。>
 サール哲学はオースティンとストローソンの考えを批判しつつ融合した先駆的な存在と考えられているが、オースティンの律儀な厳密さに対して多少柔らか味を加えたということが出来ると思う。しかし彼の論理は多少曖昧にしてゆくところがあり、それがオースティンの持っていた厳格な輝きを多少損なっている(だから逆にオースティンの欠点は補っているが)観があり、どちらかと言うとストローソンをオースティン流に味付けした、といった観がある。そしてそこにクワインも加わる。サールが得意とするところはコリン・マッギンも得意とするコノテーションである。
 コノテーションにはある厳格な論理の窮屈なところ、明快過ぎると思われる論理の行き過ぎを是正する意味合いにおいては効果的である。しかし同時にそれがある批判力を失う(例えばもっと別の明快な論理が登場したりする)と途端に曖昧なものに写るという欠点もある。コノテーションは多義的なものを一義的なものとして理解しようとする論理の謁見に対して批判する力はある。しかしそれはその批判が効力を持っている間だけである。
 フランス現象学の雄であるメルロ・ポンティーにもそのような欠陥があると思われる。若い頃私はポンティーに痛烈に惹かれたが、私は今ではある種の行為目的論哲学者たちからは古いと思われているサルトルの方に寧ろ惹かれる。本論ではかなりの部分から、その大半は「存在と無」を参考にした。これからも彼との付き合いは続いてゆくであろう。サルトルにはかなりな部分からカントのオマージュと見做される部分を発見することが出来る。彼は恐らくカント以外にもヘーゲル、フッサール、ベルグソン、バタイユ、ブーバーそして恐らく、初期にはカミュ、メルロ・ポンティーらからも多大のエキスを注入している。彼にとって論理というものはベルグソン的なニュアンスも手伝って、要するに「散文的に流れるもの」である。それは学説中心主義的な哲学の放棄とっても良いでだろう。(サルトルのこの体質を理解せずしてサルトルを批判する(中才敏郎氏)のはお門違いである。まず批評というものはその論者の目指す志向性を理解して然る後に行動するのが筋であろう。)

Monday, October 12, 2009

〔顔と表情の意味〕1、日本人とアメリカ人

 私たちは日頃日本人として生活しているから、客観的に我々自身のことを描出することがなかなか出来ない。それは人間が人間自身のことを問う学問である哲学がなかなか人間の実像に関して答えを見出すことが出来ない(それは永遠に答えの出ない問いであると思われる。しかしそれでも問うことには意味がある。)のと同様である。日本人が最もその全体的な実像を常に想定してきたのがアメリカ人である。梅田望夫の「ウェブ進化論」では、アメリカ人のブロガーたちが記名記述するのに対して、日本人が匿名記述することを取り上げているが、このように自己の意思表示という明示行為の有無こそ日本人とアメリカ人の相違であるという風にも取り敢えず規定することは可能である。事実日本人はアメリカ人ほど個独自の見解を述べることが社会全体に要請されているとは言い難い。そういう意味では日本社会は沈黙の美、不言実行の美徳が浸透している文化的な土壌がある。
 英語で言えば日本人はintrovertな内面世界の真実を信じ、その内的な沈思黙考こそが美徳であり、人間は外面によって示されたさまからは全てを推し量ることが出来ないという暗黙の了解がある。これに対してアメリカ人は日本人に比べると、もっとextrovertな明示的態度に全てが込められているべきであり、本来そうであるべきだ、という観念が浸透している。ギルバート・ライルの哲学が「ふりをすること」と「そういうふりに対応した内面の心を持っている」ことが一致する地点こそ哲学的本意であるとする行動主義的観点もここ(日本人とアメリカ人の習慣の相違)に存している。
 アメリカ人はIt seems to be~というような言辞よりも、率直なI believe~という言辞を好むし、そういう陳述の仕方しか説得力を持たないのが、アメリカ人のソサエティーであると言える。しかし日本人は前者の言辞にどこか安定と、自己主張は希薄ではあるけれど、だからこそ最も冷静沈着な人格をそこに読み取る傾向がある。
 ビジネスに関してはアカウンタビリティーということが近年日本でも大きく取り上げられるようになってきたが、これは完全にアメリカ式の個人による責任の所在の明示行為に起因すると言ってよいだろう。これに対してかつて日本社会では個人による責任の所在を明確化することを回避し、責任転嫁のシステムとして「遺憾に思う。」とか「遺憾の意を表明する。」というような言辞を積極的に使用してきた。これはここで謝罪すると例えば企業のCEОとか経営者だと、企業全体の責任を背負い込むことになり、その企業の損失を被ることに繋がるからである。だから政治家も自分の属している国家に責任があるような場合には国家元首と言えども、謝意を表明することを忌避する傾向があるのである。
 しかし顔の見えないコミュニケーションであるとも言われるウェブ2.0の世界のブログやホームページの書き込みにおける匿名参加意志の表明には、その表明それ自体集団参加における意志表明には、それなりの顔の見え方が立ち現れている。つまり記名して自らの社会的立場とか固有名詞を明示することを忌避するという心的な決心、それは顔を隠したい、社会的個人の記号に対する依拠に逆らうという意志、つまりプライヴァシーの確保を望むという心理の表明である。
 
 昨今いじめが子供社会に横行してきている。実は大人社会にもまた歴然といじめというものは横行しているのだが、大人の場合はいじめに屈することが出来ないという家族に対しての、社会全体に対しての責任感と使命感が介在してくることはあるので、自殺という手段に訴えることが抑制される場合も多いので、顕在化してないだけの話である。尤も昨今の大人の自殺はいじめよりは、生活苦と就業難に原因があるのだが。
 中位者というものは上位者を何らかの形で設定することを望むものである。そして上位者が善良な場合でも、悪質の場合でも偶像に仕立て上げることを通して自己の地位を安定化することを図るのだ。そしてその安定化の作業の際に、中位者になり切れないぐずな人間を下位者として「足手まとい」というレッテルを貼り、爪弾きにしてしまうという行為選択をするのだ。これはその遅延者に対する社会全体の利益に対する損失という面からの認識を採用することを通していじめを正当化しながら行われる自己の責任転嫁的な行動である。実際遅延者を引き上げたりすることそれ自体は不可能であっても、少なくとも激励することくらいは容易な筈なのに、もしその遅延者が社会全体の停滞を齎したら、遅延者に対して温情を抱いたその責任を自己が取らなくてはならないかも知れない可能性に対する恐怖からいじめというものは醸成されるのだ。だから建前重視型の最低の責任倫理遂行という題目がいじめには潜在的には存するのである。
 そしていじめをする民族は殆ど世界中の全ての民族と言っても過言ではない。アメリカ人の人種差別はいじめの典型例であるし、日本人の中にある少数派に対する偏見もまたその一例であるだろう。内的な真意を隠蔽したいということもまたいじめに関係がある(前章において語ったホームページ製作会社若手社員の行為選択において、結婚を考える恋人に対して差し出される表情では、彼は恐らく彼の内的な不安を彼女には示さないように心掛けるという振る舞いも容易に想像し得るであろう)。
 いじめをするアメリカ人は陰湿ないじめよりも更に表立ったいじめ「有色人種入店拒否」というような形でなされてきた。恐らくアメリカではそういうネガティヴな面でもまた自由の提唱がなされているのである。そして高らかに差別を表明するのだ。まるで差別をすることもまた自由であり、当然の権利ででもあるかのような心理がかつてはアメリカ国内ではあったと思う。だからこそマルコムXは最初、黒人のみの人権の主張を行ってきた。しかしエジプトを訪問することで彼は次第に白人の差別に抗する黒人の正当性の主張というテーゼから脱してゆき、白人も黒人も含めた友愛の倫理へと目覚めてゆくこととなるのだ(彼の暗殺者の正体は坂本龍馬の暗殺者同様不明である。ところでオバマ大統領と、国民の結託を私は期待したい)。
 意思表示することを回避する姿勢の多く見られる日本の社会の沈思黙考型美徳賛美主義も、アメリカの意思表示積極遂行型称揚主義も、とどのつまり善行為へと至るか否かは、その時々の判断に委ねられているということであり、流儀そのものが結果の善悪を左右するとは限らないということである。そしてそれらの流儀とは文化様式であり、コードである。だからそれを個別に有用性を論じる以前の、もっと根源的な、何故日本人は日本人らしく、何故アメリカ人はアメリカ人らしく振舞うのか、という点から我々人類の本質を探っていく必要性がここに生じてきたと言える。そこで次章ではそのことに関して掘り下げてみたい。

Saturday, October 10, 2009

〔顔と表情の意味〕<批判の根源(序の結論)>

 ライルは感覚というものは基本的に観察不可能であると言っている。人間は感覚そのものが快・不快を知ることが出来るし、その事実自体が精神的に苦悩になることは滅多にない。日常的には皆無であると言って良い。それほど人間は柔ではないのだ。確かに愛する者がいなくなり、それでも尚、自分だけが意識と感覚があることは、そういった事態を客観的に考えれば耐え難いし、やり切れまい。しかし、例えば用を足したいと思ったその瞬間、その事実によって用を足すべきトイレが近くにないという認識を生じさせるが、そのようにトイレが見つからないで困窮している状況そのものを憂えて死にたいという風には思わない。基本的に人間は困窮そのものをその事態の打開という観念へと置換することで生の目的を認識する動物だからである。
 要するに感覚することそのものと、その事態を認識することというのは全く別個の事柄なのである。よって仮に脳波計で自分の脳波を書かせながら脳波の視覚的な表れをその場で知りえても尚、我々はそのことは、例えば自分の姿を鏡に映して見て確認出来ただけであり、その時の身体感覚自体は観察不能であり、眼で鏡に映った姿を認識するだけであるような意味で、決して感覚自体を観察し得たわけではない。
 今私の腕に痙攣が起きたとしよう。しかしその時の筋肉のピクッとした動きを視覚的に確認し得たとしても尚、目で確認し得ただけであり、その痙攣が起きた時の私の筋肉そのものの感覚が眼で確認され得たわけではない。ただ今痙攣が起きたのが自分以外の何者でもないという事実を知っているから、それを視覚的に目撃した時、同時に私が私の筋肉を感覚し得たということで、あたかも眼でそれが確認出来たという幻想を持っているだけのことである。それは理解であり、観察ではない。
 このことに対する問いは自己と他者のどうしようもない距離と壁といった問いへと我々を誘う。他人が腹痛を感じていると告白された時、自分もまたその他人と同様先ほど食べた河豚の毒にあたって、激痛を感じてでもいない限り、我々は自分がかつて腹痛を感じた時のことを想像して、他人の激痛の告白に対して憐憫の情を抱くだけのことであり、基本的にその時他人とは反対に自分の腹の具合が快調であるのなら尚更我々は他者の痛みとか感覚といったものは理解出来ないし、共有し得ないという当たり前の事実へと行き当たる。このことは知覚哲学とか痛みの感覚の哲学が実は他者哲学と極めて密接に関係があり、隣接領域同士であることを物語っている。知覚とか感覚を厳密に問うことというのは倫理的な問いを行うことと同じことなのだ。
 前章の別会社に移籍することを考えている若い社員と、老齢の個人投資家の例で考えてみよう。客観的に見て若い年齢の社員は仮に失敗したとしてもまだやり直しが効くという観念が思い浮かぶ。しかし知り合った彼女との一件を考慮に入れれば、そう簡単に結論を下すことは出来ないであろう。また老齢の個人投資家にしても、その投機的なビジネスチャンスも、まだ若いのであれば、一度くらい見送ったとしても尚、別のチャンスは到来するかも知れないが、彼女の年齢を考慮に入れると、一世一代の賭けはこれが最後かも知れない。しかし仮に失敗したとしたら、彼女がこれまで築き上げてきた苦労も一瞬にして水の泡となろう。その意味では彼等は、仮に失敗した時のことを考えて、それでも決行すべきか否かは結局彼等によって決心されるより他はないのである。何に対して一番重きを置くかということが決心のキーとなる。そこには自己の決済以外の何物も入り込む余地はない。それは自己という観念と他者という観念の絶対的な壁を我々に知らせる。失敗したとしても、それが自己による決済であったればこそ、何の悔いもないと捉えるか、周囲の人間や残される家族のことを中心に考えるかという一大決心というものは、所詮他者からどうのこうのと言われる筋合いのものではない。前者の賭けを選ぶか、後者の安定を選ぶかということは他者によっては推し量れない自己の領域の問題である。しかもその決心を促進するようなものに、健康であるとか精神的に安定しているとかの身体的な条件とか感覚の問題も大きく左右するであろう。これもまた他者から見た客観的な状態というものでは推し量れないものである。それら一切を含めて、決心に至るプロセスとか、いくら何度も思念したとしても、その思念内容とは別個の決断をいざとなったら下すような人間の心理というものは、所詮客観的な観察が不可能であるし、またそこには自己と他者のどうしようもない壁が立ちはだかっている。
 他者の健康状態そのものを外的な生理現象として判断することは可能であるが、その本人の身体の感覚、病気によって不快であるのか、それほどでもないのかというような判断というものは所詮自己でしか下せないし、その身体的な感覚というものが決心に影響を与えるかどうかも本人の決済による事項である。ここに知覚生理学的な考察の哲学と他者倫理という哲学の命題とが隣接していることが明確に了解されたことと思う。
 ある絶好のチャンスも、健康上の理由を優先させ、見送ることも本人の意志だし、健康上から言ったら休養が必要である場合でも、一世一代の大仕事であると認識している場合、生命を縮めてでもやり通すという選択をするのも本人の意志である。要するに我々は感覚という本人にしか分からないことを優先するのも、他者に対して向けられた仕事という社会的な行為を優先するのも、本人の選択であるような意味で、知覚的な認知も感覚もそれを通して社会に関わることも、常に相互に侵食し合うような関係にあることを十分自覚しながら哲学という学問を問い続けていかねばならないということである。
 社会という場において他者と関わることが意思疎通であり、仕事であるなら、その場で他者と関わるための道具としての身体を持つ我々はその場にいて、その場の空気を読み、自己と他者を弁別して生きているわけだから、感覚という個的な主張を部分的には他者に伝えねばならない。そこに哲学が社会学、言語学といった学問と隣接し、相互に影響を与え合っていることの意味が出てくる。ここで一つの結論めいたものを提出するとしたら、判断というものの根源には感覚というものがあり、何かを説得されて理解出来たのかそうでないのか(理解することにも感覚というものは関わる。)を他者に伝えねばならない。我々は感覚という個的な事項から発生し得る条件というものを言語に置換すること、つまり「今日は何かむかむか胸が苦しいから会社は一日休みたい。」と会社に伝えるような行為を遂行責任倫理の下に意志決定するわけだから、感覚を感覚のまましておいてよい、つまり他者に伝える必要のない意識(覚醒時を中心とした)の問題(「今日電車の中で美人の女性を見てときめいた。」とかの)と、公的な身体道具的な連関で他者と相互に関わるために伝えねばならないこととの両方を常に携えて生活しているということである。そのことからも感覚と他性とは哲学上では密接に関わりがあることが了解されよう。
 例えばUFОを信じるか信じないかというような設問も、ある未確認の飛行物体を私と私の隣に同席する他者が同時にある時空に視覚的に確認し合えたのなら、それは私が私にしか認知し得ない視覚的認知というものを他者と共有していることのよい証拠となろう。「あれ、あそこに見えるものあなたにも見えるでしょう?」という一言によって私と、私と同席する他者が同一の視覚的な現象を確認し得る、そういう事態は要するに感覚という名の自己固有性とは別個の対象的認知という知覚生理学的な作用の問題である。しかしそういう知覚さえ、実はそのように私と同席している他者に対して私が同意を求めない限り、それが私以外の誰しもが、確認し得るものであるということは立証され得ない。
 私が感じる緑や私が感じる青と、他者が感じるそれが多少ずれているという事態は可能性としてはあるだろう。色というものが地域毎に多少のずれがあり緑色のようなものと通常思われるものでさえ、青と呼ぶ地域というものもあるかも知れない。しかし赤いものを緑と呼ぶ、あるいは青と呼ぶ地域はないであろうと我々は判断し、かつ赤いものを青いとか緑であると言う人間がいたら、その人は色盲に違いないと判断するであろう。
 確かに私が見たものを他人が同じように見たと言い得るのか判然としないということを主張しだしたら、何もかも懐疑の対象と化してしまう。しかし通常私しか目撃していなかった轢き逃げ犯の運転する車がグレーであったという陳述は、私が以前偽証でもして社会的に信用が全くないというような状況ででもない限り、一応信用される。そのことは私がそれ以前に色に関することでないにせよ、何らかの形で社会生活を営んできたことによって、はっきりそのように見たと本人が言うのなら信用してもよいと社会が判断する、一々それが確かどうかを確認する必要はないと判断していているからなのだ。また百歩譲ってもし私が色盲であることを自分で承知している場合でも、赤く感じたなら、私はそれを青と他者に伝えるであろう。そこには他者に対する配慮というものが介在する。
 しかしUFОということとなると、途端に私の目撃を他者と共有し得る場とか機会がない限りなかなか難しくなる。それはUFОという存在が、ただ単に未確認(それが一体何なのかが判然としていないという意味で)であることだけではなく、それは宇宙人が乗った飛行物体であるという社会的なステレオタイプがあるからである。もしそのようなステレオタイプさえなければ、何か不思議な現象が空に確認されたという事態そのものは何ら信用され得ないことではないだろう。要するにUFОを見たと言わなければよいのだ。
 ここで一つの結論が導き出された。それは判断というものが公で認可されるか否かは社会的な通念、つまり私が何かを見たという事実が不可思議ではなく信用され得るものであるという判断を社会自体が下せるということにかかっている、ということである。そうでない場合には私以外の他者がそれを目撃したことが明白であるかどうかがキーとなる、ということである。
 判断というものは結局これ以上一々真偽を確かめるには及ぶまいとする判断以外の何物でもない。ある専門的な領域の評論家が社会でその批評眼に定評があるという事実は、たとえその人物が間違った鑑定をしたとしてのなかなかそれを覆すことは難しいということを物語っている。逆に仮に正しい判定を下したとしても、その下した人間の社会的地位とか社会的な認知が不確定である場合、それはなかなか社会では認可され得ないということをも意味する。だからある専門領域の評論家が、その専門の仕事を依頼されるという事態とは、そのことで発生する成果は信頼するに足るから、それを別の人に評定して貰う必要はないと社会が判断することである。しかしこれが無名の青年であったなら、社会は大概、その出来上がった主張や報告(話であろうと文章であろうと)を別の然るべき地位のある人に判定して貰おうと考えるであろう。実はそのようなものとして私が見た轢き逃げの車の色に関する私の目撃談と、私が見たUFОとの目撃談との信頼性の問題があると思われるのである。一般的な通念とか常識というものはそのようなものとして存在しているのである。要するにある事柄が言及される時、それが信頼され得るか否かという判定は、以前にもそのようなことがあった、という事実認定によるのである。勿論そのように帰納的判断を下せることが難しい事態も世の中には存在することは周知である。にもかかわらず我々には帰納的な判断が容易に下せる前例のあるものを優先するという傾向性が確かにあるのだ。
 しかし困ったことに人間は、その傾向性というものそのものに着目すると途端に、その事実に対して正義感を振りかざしだすのだ。真理とはそういうことではない、と主張するのだ。一般的で、多数の人間が支持するということはただ単にそれだけのことしかない、もっと本質的なことというのがあり、それは信じるに足ることである、という何かわけの分からない理想を持っている。
 動物行動学者のデズモンド・モリスは人間とは直角に寝ることが出来るようになったことを他の霊長類と人間とを分岐させる一つの境目であると捉えているが、宗教哲学者ブーバーの言う「我」と「汝」とは実際上、この性行為としては座位の姿勢となる向かい合いの姿勢の獲得から自己と他者の精神的な峻別、そしてそこから派生する自己と他者の壁、そのことへの克服という命題を取り込んだことから派生したのかも知れない。そして他人の全てが自分の娘の犯罪を信じていても尚、彼女自身が無罪を主張するのなら、一切の世間体を捨てて娘の無罪を信じるのが父親とか母親というものではないのか?そのような観念も向かい合うという行為から引き出されている気がする。そこでは判断の根源に悟性レヴェルの思惟を遥かに超えた家族とか肉親の愛という超越的な理性、合理的判断を超えた「信じる」という行為の切実さがある。
 前章の例から再び考えてみよう。別の会社に合格した若いホームページ制作会社員にとって結婚を意識する彼女さえいなければ、多少の冒険覚悟で新しい会社へ移籍することは間違いないだろう。ならば彼女に相談してみるというのは悪い考えではないだろう。その時頑強に彼女が反対すれば、それでも尚自分が彼女と人生を共にすることを真剣に考えているかどうかという自分の真意がよく確認出来るというものだ。仮に彼女が「あなたの人生でしょう?私のことで夢を諦めるの?」と背中を押してくれるのなら、彼女はひょっとすると人生最大の出会いだったかも知れない、そう思えるかも知れない。
 老齢な個人投資家の彼女は、絶好のビジネスチャンスのことを息子二人相談してみたら、ひょっとしたら背中を押してくれるかも知れない。そうなったら最早借財を背負うことにさえならなければ今持っている資産が無一文になったからとて、自分の夢を諦めることで、後悔するよりはましかも知れないではないか?
 つまり人生ではそのような分岐点において何らかの決断を下す時、他者が相談すべき対象であると思える事態そのものはその他者に対して真摯に向き合い、信頼することが出来るという事態に他ならない。それは他性ということが自己の人生を生きることにおいてかけがえのない事態であることを物語っている。
 
 しかし現代のマスコミニケーション、及びマスメディアは全く異なった社会の様相を形成しているとも言える。カントは「自らにおいて他の人間全てが行為の格律とすると思えるようなものに沿った行動をせよ。」と説く。カントはある意味では極めて日常的な他性に拘った哲学者であった。しかしカントが言うような行為の格律とは現代では最早自らの信条とか信念に忠実に生きよというような訓戒としてキリスト教徒とか一部の宗教信者や、モラリストにとってだけは現代でも尚有効な作用を持っているのであろうが、一般的な社会人にとってはもっと画一化された情報的な摂取によって左右されていると言っても過言ではない。言語ゲームという言葉を哲学で最初に語ったのはウィトゲンシュタインという現代哲学の基礎を築いたとされる人であるが、彼の言っている言語ゲームというものは現代の社会の様相にこそ相応しい語彙であると思われる。
 何故なら現代社会では、例えばニュースで報道される犯罪とか事件とかも大衆の関心を惹きつけるものを優先して選択され、編集されている。もし同じくらいの罪状の犯人がいたとしたら、明らかに大衆が関心を寄せる犯人を特集し、その犯人の精神分析を大きくクローズアップさせる。それは被害者の家族でも同様である。それらは報道機関や情報番組だけではない。法曹界さえ、ある意味では摘発対象を情報的価値のある、数年前の例で行けばIT長者とか物言う株主とか、要するに勝ち組の象徴的存在を槍玉に挙げることで、関心を惹きつけようとする。例えば金の工面に苦労する人がつい手を出してにっちもさっちも行かなくなる消費者金融機関を経営する人間はつとに摘発されない。仮に摘発されていたとしても、それほどのニュース的価値がないとなれば報道ではほんのちょっと触り程度のもので済まそうとする。そのような人々を摘発し、その犯罪を報道してもそれほどの関心を一般には惹かないからだ。それよりは知名度のある実業家の摘発の方がニュース的な価値があるというわけである。そして視聴者の側でもそのことを当然のこととしている。例えば何人かの幼児殺害者はまるでスターのような扱いで心理分析のような特番が組まれ、精神分析や検察の専門家がコメンテーターとして出演し、話題を作る。このような報道の姿勢と、それは致し方ないことなのだ、と割り切る視聴者たちとの間で繰り広げられることこそ、現代社会固有の言語ゲームである。
 そこでは他者という存在は社会的な常識(それは多分にマスメディアがでっちあげたものである場合が多いのだが)を共有し合える場合のみ、意思疎通する価値のある道具となるようなドライな、しかも実質的な触れ合いよりも数量化された、例えばある化粧品を売るメーカーの開発部や商品企画部、営業部が知恵を絞って一般顧客層を獲得するための社会動向の指数を形成する対象としての他者にしか過ぎない。要するに他者という存在は現代では一般的に個々の顔の見えない存在なのである。逆に顔が見えることというのは余計な事態なのだ。
 現代の哲学者で顔というものを存在論的にも認識論的にも拘り続けた人に、エマニュエル・レヴィナスという人がいる。この人はフッサールに師事し、彼やハイデッガーをフランスで最初に紹介した人としても知られる。彼にとって他者の存在と顔による意思疎通という事態は極めて現代で固有の役割を持っていることが示される。レヴィナスは顔が自己にとって他者に向けられた人質であると考える。顔はダーウィンも考察したが、表情を他者へと運ぶ一種の道具であるし、私を私以外の誰かと弁別する証拠でもあるし、ある種の記号である。レヴィナスによると語らないという行為は、それ自体で何ものかを雄弁に語るということとなる。ここら辺に東洋的な倫理感との共通性も感じさせ我々には極めて興味深いのであるが、他者哲学者としての彼がユダヤ出自であることが関係して、多くのユダヤ・キリスト教倫理の用語が登場する。そしてそんな彼が言わば神とか宗教に関しては否定的であったフッサールやハイデッガーたちによってその哲学的基礎を身につけたという事実が実に興味深い。ハイデッガー自身神学的立場にいた人間であり、そのことから来る精神的な諸々の問題から哲学に入っていたことを考え合わせると、意外と哲学と宗教の壁というものは薄いのかも知れない。
 デヴィッドソンが指摘していることなのだが(「行為と出来事」)、何か未来への意志を他者に伝える時、未来に関する予定なので、不側の事態を考慮に入れて、「来週私がかかわった業務不正が摘発されず私が逮捕されないのなら私は必ずその会議には出席するであろう。」というようにそれ以外にももっと多くの条件節をつけるとしよう。それは厳密に未来に関する責任倫理を遂行しているように見えるが、実際上はその未来に関する不安定な意志と責任回避を伝えていることに等しい。そのような意味で我々は社会生活上では様々な社会的責務に晒されているが、その責任遂行に関して、出来得る限り責任転嫁したり、連帯責任へと縺れ込ませようと画策したりして、要するに責任を逃れようとする。その一つの端的な例が匿名で記述するブログの内容である。そこにはレヴィナスが執拗に拘った顔という事態は全く見えない。勿論ネット社会そのものには限りない可能性が秘められているが、仮想性としての顔の見えなさは、マスメディアの戦略、数量化された世論の如き幻想が横行する社会を前提していると私にも感じられる。そのような通信の時代を生き抜くためには我々はもう一度個とは何なのか、他者とは何なのか、自己と他者の係わり合い、意思疎通、言語行為、感覚、認識といった多くの日常的な事項に対してもう一度捉え直すべき時期に来ていると私は考える。その際に哲学という学問が現代社会に提示する問題が、ある種の指針になり得ると真剣に私は考えるし、かつその問題提起的な可能性は、哲学に隣接する多くの学問にとっても有益であると思われる。
 
 しかしそのように述べておいて矛盾すると思われるかも知れないが、顔が見えるということとはでは一体何なのかということについて考えてみると、意外とそう容易く答えられるものではないことが了解される。
 確かに直に顔を意思疎通する他者に対して晒し、自己の意見を表明することを通して自己の真意を表明することは可能であろう。しかし真意の性質そのものがその他者にとって受け入れ難いものであるのなら、その他者は例えば私が表明した真意に対して敵意を持つかも知れない。自己と他者の係わり合いとは端的に顔を付き合わせるとか、直に意見を申し述べることであるという風に単純に理解すると、その率直さが仇となるということは日本社会ではしばしば見受けられてきたことである。アメリカ人でもそこら辺では同様の心理があるのではないか、と私は思う。他者、しかも社会的上位者に対して何もかも本意を告げることが許されるというほど社会の様相そのものは単純ではない。ある場合には本意を抑えることが積極的に求められるという事態も十分考えられる。債務者と債権者は立場上同等ではない。そういう意味で社会が常に対等な人間関係ではない以上、我々は本意を告白することを憚るという意志決定性に常に隣接して生活してきているのである。
 例えば学問間にもそれは言える。哲学それ自体に隣接した学問が、哲学に対して単刀直入に意見交換し得るようでいて、案外そうはいかない、例えば自然科学に対して哲学が意見することは出来ても、それはあくまで総論的な意見に過ぎないのであって、ある自然科学の学説に異論を唱えるとなると、それを証明することの能力と実際的なデータを例証して明示する実証性が求められるから、そうおいそれとはいかないということがあり得る。そこで単刀直入な意見交換という事態は、極めて理想主義的な机上の空論と化す、ということとなるのである。
 そしてまたそのように自己の意見を差し控えるという行為選択が一種の責任倫理として作用するということもあるのだ。するとレヴィナスの唱えた顔の論理もまた、ただ安易な意見交換という名の意志表示ではなく、もっと本質規定的な本意の表出、例えば面と向かって言い辛いことを敢えて言わなければならないことに対する逡巡の表出に続いて、その逡巡に対する払拭が、その本意表明をされる側に対して大きな宣告となるという事態もしばしば我々が経験してきたことである。だから画商が画家のアトリエに訪れた時に画家の絵を見た時の表情による反応とか、コレクターがある画家の個展において、その作品に対して抱く率直な感想というものが、その鑑賞者の絵を目にした時の表情と最初の一言に要約されている、つまり殊更詳細に述べなくても、全てを語るという事態は既に我々が熟知するところの状態である。
 ブログでの対話が匿名でも可能だからこそ、成立する事態という有用性も考えられるだろうが、そこには幾分「やらせ」的な対話を参加者全員が前提しているという部分はある。しかしストレス解消の意味合いからも、ブログの書き込みをする行為それ自体が全て悪であるとも決め付けられない。「やらせ」性が自己と他者のどうしようもない壁を取り払うという利便性もまたブログ匿名参加にはあるのだから。そこには新たな参加形態という有用性に対する可能性認識において、哲学の問いそれ自体をもう一度捉え直す契機をも我々に付与しているという風にも捉えられるのではないだろうか? 世論的幻想性それ自体を前提することによって却って本意の表出を可能にするということもまたブログの有用性の一つかも知れないが、そのことで立ちはだかる我々日本人の意思表示とアメリカ人の意思表示の相違を通してコミュニケーションの本質に対する問いを次章ではしてみようと思う。

Wednesday, October 7, 2009

〔顔と表情の意味〕<社会という場で考えられること>

 社会という場では貧乏な人、富裕な人、社会的地位の高い人、そうではない人という風にさまざまな社会的な階層が成立している。そこでは年齢とか性別とか職業とか色々のカテゴリーが存在し、そのカテゴリー毎にさまざまな考え方があり、一様に一般人というような区分けは意味をなさない。しかし同時に我々はそのような区分けそのものが実は社会によって強制されたものであるという思念に囚われることはないだろうか?つまりそのように思わなければならないと勝手に自分で決め込み、やがてそれを社会が押し付けるステレオタイプのように思い込む。しかしよく言うように他人がある人物に対して言うほどその本人というものは、その社会全体が規定する現実にあるわけでない場合の方が多い。社会自体にもそういうところはある。我々は勝手に世間というものを作るのだ。
 あの人は不幸だとか、あの人は幸せそうだとかといった他者の規定は本人からすれば、何の意味のない勝手な想像である場合も多い。例えば人によっては何らかの犯罪とか天災に見舞われ命を落とす人も含めて、寿命にもさまざまな違いがあり、長生きする人は一般的に短命な人よりも幸せであると言われる。しかし本当にそうなのだろうか?
 短い生涯を送った人が皆不幸だったのだろうか?あるいは長寿を全うした人が皆幸せだったのだろうか?あるいは富裕な人が皆幸せで、貧困な人が皆不幸なのだろうか?
 あるいは多くの他者に愛される人間が皆幸せで、友人の少ない人間は本当に寂しいのだろうか?そのことに一つの定義を与えることは不可能なのではないか?
 しかし世で通用する哲学には色々の哲学上の定義のようなものが存在する。その枠組みに読者を誘うように、その枠組みに対して共鳴し得ない人間にはそれ以上読み進めて貰いたくはないと訴えているかのようにである。しかしその事実こそが哲学の正体でもあると私は考える。
 例えば職業としての哲学者というものは確かに世間ではある。しかし真の哲学とはそのような職業的な分類ではどうしようもない何らかのメッセージ性があると思われる。そのことは文学とか芸術とか、あるいは社会的な福祉活動とかボランティア、あるいは平和運動などにも共通して言える。彼等は決して職業としてある行為を選択したのではない(職業の選択がいけないと言っているのではない)。何らかの人生における信念に基づいて行動していると言えはしまいか?
 だから必然的にそのような語らいとは如何に客観的に真理を追究しているようでいて、極めて主観的なものに過ぎず、それらには誤りというものも当然含まれる。しかしその誤りとかの欠点をも全て含めたものこそがここで私が言おうとしている哲学の本質であると私は言いたい。
 それでは愛というものはどうだろうか?愛と言うものの実態というものは案外誰しもその答えを一言で言い表すことが困難と感じはしないだろうか?愛は継続であると言う人もいる。しかしただ継続するだけのことなら案外簡単なことではないだろうか?ある時には何かを断念したり、今までしたことがないことを始めたり、人に対しての接し方を換えてみたり、要するに試行錯誤の中から結果的に、私はあの人を愛した(それは家族でもいいし、友人でもいい)とか愛さなかったとか言うことが出来るのではないだろうか?
 愛とは要するに「こうすれば、このような行為で臨めば愛になる」というようなマニュアルは存在しないものなのではないだろうか?あるいはこう言ってもよい。そのように計画的に行え、行うことであるなら打算でしかないとは言えまいか?
 でもそのようなことを問うのなら宗教というものがあるではないか、という意見が聞こえてきそうである。宗教というものと哲学というものの違いについて考えてみよう。
 尤もそのように宗教はここからここまで、というように何も厳密に区分けする必要はないという意見もあるだろう。事実近代以降にもマルティン・ブーバーといった哲学と宗教の境界上に位置した人もいた。しかし実際上はかなり昔から我々の先人はそのように思想、哲学、宗教というものを分けて考えてもきたのである。例えば20世紀の哲学者で言えばエイヤーがそうである。彼は哲学と密接であった形而上学と哲学と自然科学を厳密に区分けし、定義しようとした。それは誰でも一度は聴いたことがある名前の哲学者カントもそうであった。要するに端的に言えば、哲学は宗教とか思想と違い、そのように区分けすること、厳密に言語上で、その相違について述べる行為であるとも言えるのだ。勿論思想には思想の言語があるし、宗教には宗教の言語がある。しかし哲学での言語への問いは、哲学という得体の知れない分野自体とは何なのかという問いを離れては存在し得ないものなのだ。そのためには宗教、思想、芸術、政治、ビジネス等全ての分野(学問、技術、生活必需的な人間社会の存在)が哲学に対する定義のためにかかわってくる。まずそのようなものを哲学と呼ぼう。まだ結論が出ているわけではないが、とにかく哲学というものは、それがどういうものかという問いが不可欠なものであるとだけは言えよう。
 ではなぜそのように私たちは哲学において、言語的に説明する必要があるのだろうか?それは我々が何かものを考える時、言語的に思考する存在だからである。思想というものはその語られた言葉は実践のためにある。しかし哲学ではその語られた言葉は、考えるためにあるということも言えるだろう。
 つまりこういうことである。思想ではそこで語られる言葉は何か別のことをするためのものである。しかし哲学では語られた言葉は考えるためのものである、ということである。では宗教というものにおいて語られる言葉とは一体何なのだろうか?それはある同一の信仰を持つ者同士の連帯ではないだろうか?勿論連帯と言うものは思想にもあるであろうし、哲学にもあるかも知れないが、思想の場合には実践が伴うので、実践能力というものが極めて重要に作用しその思想にかかわる人間の価値を決める。しかし宗教ではおよそその能力とは別個に、ある共通のことを信じる仲間同士の心の連帯というものが重要である。そして哲学とはそこに求められる連帯というものは疑問を持つ者同士、問いかけ合う者同士ということになるであろう。そのような違いが微妙に哲学と宗教と思想にはあると思われるが実際それらは常に連動しながら発展してきたし、今もそうであると思われる。
 では科学とか技術といったレヴェルからそれらが哲学とどういう関係があるのかを見てゆこう。
 私たちは何かものを考える時、言語的な思考をする。その際には我々が今まで学校とかで習った言葉の力が思いの他強く働くということについて誰しも疑問はないであろう。しかしよく考えてみると、言葉とか言語といったものもまた日常我々が使用する鉛筆とか挟みとか歯ブラシ同様、極めて大切な我々の道具であり、その言葉の使用とは、何かを他者に伝達することであり、それは家族同士、友人、同僚、ビジネス相手誰であろうとも一つの技術である。だから言語自体の意味、在り方を問うこともまた哲学となる。
 あるいは我々は生きているのだから、自己の自覚とか、意識といったものも持っている。それらについて問うこともまた哲学であると言える。あるいは我々自身の社会的な行動に対して問うこともまた哲学の一部であるし、あるいは我々自身が社会行動する際に必然的に持つ倫理的な価値に関して考えることもまた哲学の一部であると言える。そして科学というものがあるけれど、科学というものの思考方法とはどのようなものなのか、あるいは科学で最も強い武器でもある数学とはどのようなものなのかということについて問うこともまた哲学である。
 してみると哲学というものの範囲というものが極めて広範なものであると理解して頂けたであろうか?そしてある程度結論的に言えば、社会という場で我々が哲学に求め得るものとしては、そういった色々な行動とか技術、思考方法自体の正体を求めて問い続けることそのものが哲学である、ということである。
  
 ちょっと卑近な例を挙げて、日常的なレヴェルから哲学のあり方について考えてみよう。我々が日常で感じることであるが、行動することと意志ということについて考えてみよう。
 ここにインターネットのホームページの制作会社の社員がいるとしよう。彼はこの会社に入社して一年、しかし学生の頃からパソコンのスクールに通ったりして、同好の仲間たちと切磋琢磨し合ったお陰でこの会社に勤めることが出来た。しかし何か物足りない。もっと一流の技術を持った集団に関わりたい。でも今の会社の給料は悪くない。そこで彼は悩む。というのもつい最近彼女が出来たばかりだ。彼女は彼との結婚を考えている。彼は実は今の会社には内緒で別の会社の入社試験を受け受かったのだ。彼女とは試験を受けた後に知り合った。今の会社ではかなりなレヴェルでいられるが、もし受かった会社に移ったら、当分は今の給料よりもずっと低い給料に甘んじなければならないし、ライヴァルたちも今の会社よりずっと多い。必ずしも勝ち組として残れるという保証はどこにもない。彼はどうしたらよいのだろうか?今の会社で粘ってこれから入ってくる新入社員たちの希望の星とか指導力ある先輩か上司になってゆくか、それとも成功すれば今の数倍以上の給料が保証されるレヴェルの数段上の会社に移って自分の輝かしい将来に賭けてみるべきなのであろうか?
 このような二つの道が今現在において眼前に分岐しているケースというものは人生には何度かある。こういった際の決断というものは日常的な考えというものが役に立つのかな、とふと疑問にさえ思われる状況とは言えまいか?このような際の意志決定を合理化するものというのは実際経験的なことなのだろうか?それとも経験を超えることなのだろうか?
 あるいは次のようなケースを考えてみよう。
 ある壮年の女性がいる。彼女は長く夫との生活において専業主婦であった。しかし彼女は夫の仕事の内助の功としての役割に徹し、実は若い頃からビジネスの夢があったのだが、夫は高給をとっていたのだが、生活設計とかそういうことは妻任せであり、貯金するとかそういう計画性がないタイプの人であったために彼女は子供たちのために夫の無頓着を尻目に必死で貯金したり、株に変えたりしていた。彼女は子供を夫と共に育て終え、子供が自立し、結婚した頃、まだ老人になるには多少期間がある年齢で未亡人になった。そこから彼女の昔抱いた夢、ビジネスの夢が蘇ってきた。そしてそれまで持っていた株を有効に活用し、夫の残した財産で買ったマンションに一人で住み、やがて株で一儲けする。かなりな財産を築いた(大金というものは若くして手にした人間には一晩で使い切ることも不可能ではない。生活上の切実さから言えば、大金獲得というものは本質的に若者にとっては大した意味がない)若い頃から苦労して年をとってやっと勝ち取った経済的成功者にとっては大金というものは浪費することの出来ない貴重なものである。しかし年齢もかなりで、それほどの大金を全部自分で使いきるには体力というものがついてゆかない。彼女には二人息子がおり、次男には二人の子供がおり、長男は不遇で独身である。彼女は資産を経済的に成功している息子と、不遇な息子とに残すことを考える。しかしそんなある日彼女がパソコンを使用して個人投資家としての活動をしてきた際に、相談役となってくれていた投資信託会社の人間が、絶好のビジネス・チャンスを彼女に伝えてきた。彼女はビジネスの夢も諦めきれない。やっと掴んだチャンスである。会社を興すことも不可能ではないのだ。彼女は残った体力の全てを振り絞ってビジネスに邁進すべきなのだろうか?それとも彼女の愛する二人の息子に遺産として全部残すべきなのだろうか?誘いを受けてたつべきであろうか?それとも最早かなりの財をなしているのだから、これ以上の欲を捨てて、息子たちに何とか折り合いをつけて配分して財産を残すことを選択すべきであろうか?
 先述の若いホームページ制作会社の社員は、もうすぐ合格した会社の入社に関して手続きをする期日が近づいている。もう一人の老齢に達した個人投資家もまた返事をする期日が近づいている。このような際一体彼等にとってそれまでの人生経験というものが意志決定に役に立つのであろうか?というのも我々の人生においてそのような大事、重要な分岐点というものはそう滅多にあるものではない。するとそういう重大事態に接すること自体実はどのような年齢であろうとも、いざという時にはそれまでの経験などというものは何の役にも立たないのではないか、という思念さえ湧いてくる。
 彼等の意志を最終的に決するものは一体何なのだろうか?
 例えば戦場に初めて立たされた一兵卒の戦士にとって敵を打ち倒した経験など勿論ない。今日彼は初めて最前線に立たされた。そんな時、目前に自分へ銃口を向けた敵兵がいる。さて彼はどうするべきなのか?彼は何も好き好んで敵兵に対峙しているわけではない。しかし彼はどうにかこの緊急な状況に対処してゆかねばならない。しかも彼は行動の全てを一瞬の判断に委ねられている。
 経験というものはある意味では継続的な単調な仕事においては役に立つこともあるだろう。しかし基本的に人生というものは何が起こるか分からない。仕事にしても、例えば医師にとってある患者は、他のどの患者とも異なった体質と遺伝性を保有する唯一無二のケースなのである。それ以前に診た別の患者と同じ病状であっても、異なった体質とか遺伝的傾向性があるのだから、それに応じて異なった処方を下すべきである。あるいはサラ金の借金に負われた家族が今日まさに取り立てに来る借金取りに対して、返済する工面が立たずに夜逃げしようと試みている時に、彼等にそれまでの人生の経験の何が役にたつと言うのだろう?
 本質的に人間にとって行動と意志というものはそう単純に定義し得るような性質のものでもないし、また何らかの考えを持つということがその考えに沿った行動へと直結し得るとも限らない。またじっくり時間をかけて考えた際に、最も頻繁に現れた思念に従っていざという時に、その通りに行動出来るわけでもない。あるいはじっくり考えたからと言って、理性的な判断が必ずしもし得るとは限らない。と言って勿論何も考えないでよい、あるいは考えない方がよいとも言えない。
 結局のところ我々は何にせよ、咄嗟の判断でなした行動を、事後的に「結果的に私はああしたのだから、私の意志というものはああだったのだ。」と判断しているのだ。要するにどんなに時間をかけて考え抜いたとしても、最終的には行動しなければならない時に行動したことが、その人間にとっての意志であり、かつ結果的にそういう行動へと直結し得るように考え抜いたのだ、と判断することとなるのである。
哲学の世界では何か行動する時に、自己を踏み切らせるものを意志決定の合理化とか判断の合理化とか合理的判断と呼ぶ。また何かに心を奪われることや、そこまで行かなくても何かを心に留め思念すること、何かに対して意識することとか、関心を持つことを命題的態度と呼ぶ。
 ここで一つ断っておかなければならないことがある。私は経験という語彙を使用する際、先述の例において、ただ単に人生経験のことを意味するように使用してきたが、哲学で通常使用するところの経験というものは、哲学で通常分析的という言い方で呼ぶものと相反するところの、綜合的とほぼ同義の、要するに専門学術的な使用の仕方であるということである。哲学で通常使用する経験的とは、ただ単に何かの技術や知識を習慣的に身に付けることだけではなく、哲学で言うところのア・プリオリ(先験的な、演繹的な)ではなく、ア・ポステリオリ(後天的な、帰納的な)であることを言うのであるが、敢えて私はそのことを理解しやすいように人生経験に照応させて使用してきた。本来経験的であるとは、帰納的であることを意味し、悟性的な立証を必要とするもののことを言うのである。
 哲学の世界でこのことを明確に定義付けたのは紛れもなくカントであった。カントは分析的と綜合的という二分化を試みたが、通常我々が哲学とは関係なく分析的と言う場合、戦後のアメリカの代表的哲学者であるソール・クリプキが自著「名指しと必然性」において語っているように、ア・ポステリオリのア・プリオリのことを言っているのである。それは予めそのものの真理として確定したものであるにもかかわらず、我々にはなかなかその本質が見え難くなっていることに対して一つ一つ解き解しながらその本質を見極めてゆくという行為やその方法の末にア・プリオリとされるものについて言及した語彙であると思われる。「分析する」ということはそのように哲学外的には、限定されているが、哲学においてはもっと広範なものとして、例えば何の検証を必要としない場合も含まれているのだ、ということを明言しておきたい。

序、哲学とは何か

 本稿は哲学の専門論文ではない。しかし専門で哲学を学ぶ読者にも、それなりの問題提起をしており、この論を読むことで得るものは何もないという事態だけは避け得るように書かれてある(少なくとも私はそのように心掛けた)。
 私は専門の哲学を大学で学んだ人間ではないので、哲学に関する権威ある学位なども一切持ってはいない。しかしだからこそ理解出来る部分、哲学というものを内側からではなく外側から一般読者と理解を共有し得る立場にあると心得てもいる。というのも現代の哲学には広範囲の学問や思想とのかかわりがあり、例えば一冊の哲学書において登場する人物や引用されるテクストも、例を挙げれば、精神分析、心理学といった哲学と一般的に馴染みの深いものから言語学、社会学、ある時には経済学、統計学、生物学が、古典的な意味合いで馴染みの深い数学、医学・生理学は勿論、最近では映画や美術、文学といったものも頻繁に登場する。しかしどれも哲学の周辺に位置する学問やジャンルは学問としての思想と捉えればよいと思う。哲学と思想とはどう違うのかということを論じだしたら、それだけで一冊の本が出来上がるくらいの分量になるがそうもしてはいられない。本論は一般的には忙しいビジネスマンに向けて書かれているから、大急ぎで何らかの理解を得てもらうように心掛けねばならない。要する本論は哲学というものが現代に生きる人間に対してどのような役割を持っているかをダイジェストとして示したものである。そのために、哲学を取り巻く状況とか社会的な様相をも盛り込み生きてゆく上で何らかの指針を見出す手伝いとなるように心掛けた。私の考えも随所に盛り込み何らかの問題提起をしたいと思う。
 現実世界の現実生活の上で我々は、貧乏に苦しみ、借金返済に追われたり、色々の困難な状況に生きる生活者も多いことであろう。しかしどのような金持ちであろうと、どのような貧乏人であろうと、等しく哲学に接する権利がある。そして幸福というものとは決して満たされた生活でもなければ、貧困な生活でもなく、心の有り様であるということをまず言っておきたい。生活の有り様の全てはそこから出発する。
 そのようなわけだから、本論を目にした読者に言いたいのだが、本論は裕福な読者が教養を高めるためのガイドと思って貰っても困るし、かつ貧困に喘ぐ読者のための励ましのものと思って貰っても困る。要するにそのような位相とかレヴェルのテクストというものは往々にして何も伝えないと私は考える者である。そのことさえ了解して頂けさえすればどなたに本論を読んで頂いてもそれなりに何かは感じ取って貰えるのではないだろうか、と私は考えている。
 科学哲学者のダニエル・デネットは自著「ダーウィンの危険な思想」で序説からいきなり次のような叙述で読者に警告を発する。
「この書物は、したがって、配慮するに値する人生のただ一つの意味は、それを検討する私たちの最善の努力に耐え得るような意味だということに同意する人のためのものである。そうでない人は今すぐ閉じてそっと立ち去られるように忠告しておく。」
 このダニエル・デネットという人は現代を代表する哲学者の一人であるが、敵も多く、彼はギルバート・ライルという哲学者の弟子であり、かつドナルド・デヴィッドソンという哲学者にも教えを乞うている。私はそこまでは言わない。しかしどこかこのデネットの言うことには真理があると私は思っているのである。まずはそこら辺から考えていってみよう。