Friday, March 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十章 羞恥の正体

 私は前章で羞恥の正体についてある語彙を習得したプロセスに対するおぼろげな記憶に起因しているのではないかということを示した。本章ではそのことに関してもう少し詳しく立ち入ってみよう。
 私が仮説した「世界や宇宙という語彙が語る真実」というものについて少し説明すると、これはもっと適切には「世界や宇宙という語彙が語る真実」とするともっといいかも知れない。つまり私たちは「世界」とか「宇宙」という語彙を覚える前に既に自分なりに、それはまさにウィトゲンシュタインが考察し、しかし最終的には否定した私的言語のようなものとしてであるが(哲学者の永井均氏は私的言語があると考えておられる。「なぜ意識は実在しないのか」)、何となく大きな纏まりというものを聴覚映像的に理解することが出来、その枠組みを両親が会話する中で度々登場する「せ・か・い」とどうも一致するのだなと覚知していくのだ。そしてその一致させるものこそ「世界や宇宙という語彙が語る真実」であるというわけだ。しかも世界は例えば赤ん坊が寝ている部屋のように一定の範囲に区切られている。その境界はあるが、その全体というニュアンスは赤ん坊でも得ることが可能だろうし、また宇宙という語彙は、それを習得する以前的には、何らかの感覚において、例えば今自分がいる部屋の外にも「向こう」があり、その向こうの先には更にもっと向こうがあるという意味で、漠然とした無限に対する意識が既に芽生えているように思う。それがもう少し成長すると、学校で習う語彙の中に含まれている「う・ちゅ・う」という語彙に相当するのだなと気づくというわけだ。宇宙とは前章でも述べたように漠然とした空とか無に対する意識が生じさせる把握であろう。
 要するに言語習得以前的な(自分なりの)心像のことを私は「世界や宇宙という語彙が語る真実」としたいということだ。そしてそれは両親が会話しているという現実を目の当たりにすると、脳は刺激され、自分もその輪に加わりたいとそう感じるようになって、その心像と、語彙の発音とを必死になって結びつけようとするのだ。
 ものは動いたり、止まったりするし、最初からちっとも動かないものもある。その段階で動くけれど機械のような無機質なものと、私たちのように生暖かい生き物とは基本的に区別出来る。あるいはそれらの印象は、それぞれ動き方が緩やかであったり、激しかったり、要するに動きや止まりといったことに対する印象も記憶されているだろう。感覚的にストックされた印象はやがて形容詞を習得する際に語彙化するための心像として利用されるだろう。記憶は語彙化という過程を踏むことで徐々に整理されていくのだ。
 しかし大人たちはそんなことは無頓着に自分たちだけでどんどん会話を続けていく。そして時には和やかであるが、時には険悪な雰囲気に包まれて会話するだろう。
 しかし幼い私たちにとって険悪な雰囲気というのは会話内容、表情、会話の語調や音声の発し方において幼心にも即座に理解出来る。勿論それは言語的な理解以前的なもっと直観的な理解である。それは要するに漠然と意味としてではなく感覚的に「よくない状態」なのである。そしてそうやって把握された語彙において、私たちは一方でポジティヴな意味合いの語彙と、そうではなくネガティヴな意味合いの語彙があることに徐々に覚醒していく。そして前者を使用する時大人たちは何故かにこやかに、しかし後者を使用する時は、何故か曇った表情や語調で話すことに気づく。そして特に後者の場合には、もしそのように語られることを自分がしたり、そう表現される状況に自分があったりすると、自分は両親や大人から厭な顔をされたり、あるいはある時には強く叱られたり、あるいは気の毒がられたりするのだなということを直観的に理解するようになるのだ。特にそういう状態に自分があったり、そういう状態のことをしたりすると自分は叱られたりするだろうというような行為語彙や形容語彙を理解する時には多少の後ろめたさを感じて記憶するだろう。勿論悪い語彙は習得しやすい。それは外国人が罵倒するイディオムなら即座に自分の祖国とは違う国にいても即座に習得するのと同じである。
 つまりこの語彙を習得する際に附帯する状況に対する固有の印象こそが、私たちに固有の羞恥心、つまり何かを覚える際に伴う私的な事情(例えば両親とか上の兄弟たちの喧嘩とか、ずるい大人の態度とか)に対して、それは他者にはあまり明確には悟られたくはないという対外的な体裁的なこととして仄かな防衛心を介在させるのだ。
 あるいは最初は大人の耳からすれば明らかに間違った発音とか、使い方がちぐはぐな覚え方をしている場合もあるだろう。そういうことをも含めてどの様にある語彙を覚えていったかということは明確な形でではないにしても、どこかでぼんやりあまり芳しくない覚え方であったり、よく明確に最初から理解して覚えたりとか語彙毎に違いがあるだろう。
それは大人になってからも一々他者に告白することは滅多にないものの、自分では憶えているものである。そしてその語彙を聴くと一人で気恥ずかしい思いをしたり、やるせない気分になったりするのだ。
 つまり語彙習得のプロセスにおける習得事情の私秘性こそが羞恥の正体ではないかとここで私は提案したいのだ。しかしこの羞恥は表面的には記憶ということにおいても、他者全般が使用する基準を完全に把握した段階で一挙に忘却の彼方へと押しやられる。つまり他者一般と会話する際に意思疎通し合うためには然程重要ではなくなるからだ。私たちは要するに言葉の「仕組み」から言葉を「伝えるべき内容」へと問題意識(勿論無意識に内に、と言うか自動的な意識であり、説明し得る意識ではない)を移行させていくのだ。その際には私秘的な習得事情などお荷物なのだから。
 しかし誰でも一人になった時ふと想起に包まれる瞬間はあり、例えばその日帰宅してから、もし一人で生活している人なら(結婚していて、帰宅後も誰か他者がいる場合、寝ている時にしか基本的には一人になれないが)その日同僚や知人、友人と会話した時に使用した語彙そのものが急に気になりだし、想起は向こうからやってくる。そしてある瞬間に幼い頃には「その使い方はおかしいですよ」と母親に注意されたこととか、父親に「そういう言い方を親に対してはするな」とか言われたことをふと思い出したりするのだ。
 そしてそうやって覚えたこと自体を習得の仕方のニュアンスとして記憶そのものが疼くということがあるのかも知れない。ある語彙を聴くと何故か気恥ずかしい思いに囚われたり私たちはするのもその時その語彙を使わざるを得ない状況という現実を生きているからである。つまり現実に進行している事柄と昔にあったおぼろげな記憶とが刺激し合うのだ。それは奇妙な共鳴作用であるが、そこには羞恥が伴われている。そうだ、そういう風にして、つまり大人が話しているところをじっと観察することによって、(自分なりに)把握していた「世界や宇宙という語彙が語る真実」が一挙にある時それぞれに語彙に対応するようになるのである。また必死に何を伝え合っているのかということを把握しようとしているからこそ、大人の会話に加わりたいという気持ちがその一致させる作用と協同して言語習得はなされていくということなのだろう。

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