Wednesday, December 23, 2015

〔羞恥と良心〕第三十三章 表情がメッセージであることを知っている我々は Chart1

 語彙は文字化された時明らかに一種の形而上的存在意義を獲得した。それは文字がヴィジュアル化された自己肉体からすれば外在的な地点に意識を集中させることを旨として考案されたものだからだ。だから意味は必ずその言葉=語彙の連なりを産出した当人の感情が素の侭剥き出しではない。そもそも感情が剥き出しなのは心だけである。だがそれは丁寧に断りを述べる文章でも心の中では拒絶があるから成立している訳だから、心は断る場合は誘われたり頼まれたりしたことに対して閉ざしている。
 だが文字でも心でもないものとして直に相手と接触する場合には表情が重要な記号となっている。表情を示すことは一つの感情の意味だ。怒りを必死に抑えようとしていることも、怒りを爆発させたい気持ちも共に素の心だが、直に相手へ断る場合にはネット上で文字入力している場合より、より表情で拒絶感情を示し得るし、その様に相手に相対している場合相手への威嚇的効果があると知っていて、我々は常にそれとなくきちんと相手に拒絶感情を示している。
 そういう一々の応対が億劫であればこそ入社試験に落ちた人に対しては誠に遺憾ながら貴殿のご主旨に添えなく申し訳ありません、等と書くのだ。それは表情を示すことで相互に後々迄感情的しこりが残ること自体を避けている証拠だ。
 文字は、だからある意味ではそういった素の心が剥き出しになりやすい表情を隠蔽する強かな悪意隠蔽装置なのだ。勿論既に形而上的な意味伝達を知ってしまっている我々は慇懃無礼に書く文章であればある程、侮蔑や拒絶の感情が書き手の素の心に巣食っていると知ってしまう。
 素の心は相手に表情を一切見せなければ、一つのブラックボックスであるが、表情を相手に知られるということは一つのヴィジュアルの極めて読み取りやすいメッセージとなる。文章とはだから意味=語彙の連なりから読み取る相手の意図から、感情的な応酬を回避する為の巧妙な措置である。だから相手へ感情を読み取られてしまう羞恥心を利用して、相手を傷つけまいとする意図こそ良心だと言える。だがそういった配慮をされてしまえばしまう程儀礼的・形式的な冷たさを我々は感じ取ってしまう。しかしウェブサイト利用時代の我々はそのある種のロボティックな突っ放し、感情を剥き出しにした侭に決してさせない様にツール・ディヴァイスリテラシー的なナルシスを相互に認め合う形で相手へ断りのメッセージを示すことはSNS(とりわけTwitter)で気に入らないフォロワーをブロックしたりすることで示すことが出来る。
 つまり既に手紙で返信したりすることと違って、ウェブサイトでは冷たい突っ放し自体が全ユーザーに共有されているし、それを前提として、それはゲームなのだと我々はウェブサイトコミュニケーションリアルを理解している。
 文字は本として出版されているものだと、あくまで書物を出版へ漕ぎ付かせるのにはかなり時間が要るので、それがある程度長期永続的な著者の読者へのメッセージだと我々は了解している。この部分はテレビのニュースやウェブサイトのニュース告知とは性質が違う。当然SNSでの遣り取りはその時々の気分が最も支配的である。
 感情は素に相手と接している時と、文章化する時と、ウェブサイト上で通信として遣り取りする時では性質が違ってくる。羞恥的な事は意外と大きいのがウェブサイト上で気分で書く時でも余り時節や時代的常識を知らずに書き散らすと恥ずかしい思いをするから、余りよく知らないことは書き込まない様にする、アップしない様にするという心は誰しも持っている。
 素に相手と接している時は相手に侮蔑の感情を知られない様に巧く素の心での相手への気持ちを伝えない様なポーカーフェイスを我々は作ろうとする。それでもあざとい心の読み手には直ぐばれてしまう。言葉でも直に相手と接して伝える言葉と、文章化して読ませるのと、本等に記述するのとでは伝える相手と伝える自分との間の距離感が物理的にも精神的にも性質が違うので当然語彙や例証する時の選び方が変わってくる。
 選び方も変われば伝え方も伝える時の伝えたい相手への感情も変わってくるという訳だ。だからある意味では語彙も言葉も文章も言語を伝達する論理も、それぞれのケースに応じて(当然ウェブサイト上でのネットコミュニケーションもその一つだが)全く在り方が違って我々に拠って認識されているとも言える。
 表情を晒している場合には表情のメッセージを読み取られやすいと思われまいとする配慮が、表情が一切出ない場合には、形而上的な意思疎通の壁を如何に読解する側は取っ払い、素の感情を読み取ろうとするかという配慮が働く。
 しかしポストモダン思想では明らかに後者の配慮を悪い意味での深読みであり、それは正統な文章の読み方ではないと考えていた。 次回はそのこと、つまり書かれたものは既に直に相手へ伝えるコミュニケーション(発せられる語と表情)とは全く違っているだけでなく切り離されているものだという認識に就いて考えてみる。

Thursday, January 29, 2015

〔羞恥と良心〕第三十二章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart4 完成に懐疑的な現代人類

 田辺元は『種の哲学』で種概念の規定を行った。この種の上位概念として類を設定した。類は人類自体であり、種は民族のことである。
 さて前回から引き継ぎ今回は羞恥を隠蔽するシステムとしても機能する民族共同体とか民族社会とか民族国家等とグローバル な人類、つまり世界とは対立し得るだろうか、という問いを行ってみたい。
 率直に言ってそれは徐々にどころかかなり急転直下的に瓦解してきたと言える。民族は感性も育むが個人の感性も育む。だから例えば日本人が日本国家だけを中心に考える時には天皇制等の宗教伝統的なコードは憩いであったり、精神的支柱であったりするも、現代社会の利便性に満ちた生活ではそういった感情に到る事の方が少ない。それは何かの拍子に突発的に起きる感情である。例えば北朝鮮からミサイルが日本海や太平洋へ向けて発射されたりといった事態に於いてである。だが日頃はそういったこと迄意識には上らない。そして寧ろ世界市民性がウェブサイトの拡充に拠ってより強固になってきている。
 ISILに拠る様々な悪辣なる暴挙に拠って世界中が引っ掻き回されているが、後藤氏の生命保全に向けて意識している時は日本人は日本民族の連帯とか結束を意識するも、この組織の壊滅自体を意図した心では明らかに世界市民性を最優先している。だからこそ国際協調で色々な打開策を講じている訳である。
 世界経済はあらゆる意味で国際協調的解決を求め、我々は世界的規模でしか一市民性を確保出来ない事を誰しも(どの民族のどの市民も)自覚している。
 ウェブサイトが世界を変えてきたという要素も否めないが、寧ろウェブサイトを通して世界を変える様に人類がしてきた部分では、明らかにウェブサイト以前にも多くその変わっていく兆候は読み取れる。
 映画ではディレクターズカット等という別ヴァージョンを一般映画では普及してきている。これはプロデューサーの意向と監督の意向が合わない場合、プロデューサーは出資者である為そちらを優先した編集になるが、監督は上映作品の作者なので、その意向を最初の封切以降に汲み取る仕方のビジネスである。
 大体ディレクターズカット版の方が余剰、剰余が表現に漲っている。それは纏めてしまっていることへの潔しとせぬ<ある未完成性>への執着である。
 これは日頃我々が短文を掲示させるSNSで既に経験していることである。ブログ等でも長文を読ませるより、短文を羅列して何処から読んでもいい様に配慮する方がずっと読む(来場する、検索する)側からすれば読み易いのだ。
 結局長文を読むのにPCの画面自体が適していないということと、そもそも長文をじっくり読むのは本に任せ、それ以外は短文メッセージを数多く読むという習慣を現代人は選び取っているのである。
 それは言語が意識下で行われていることとは心の言わば本音であるが、それを巧く(つまり差し障りのない様に)調整してから何か発言するのが我々の日常であるが、その無意識に出る本音的部分を我々は自分に対しても人に対しても知りたいという欲求がある。そして本音的心の部分は確かに未完成で混沌としていて、矛盾している。しかしそれを秩序化して意識的に伝達メッセージ化すると、其処では原初的には存在したある固有の輝くは損なわれることを知っているのだ。だからこそ原初的な、つまり荒削りではあるものの、何か根源的なメッセージになり得そうな何かを求めて我々はSNSに書き込んだメッセージを掘り起こすことをするのだ。
 最近の著作物では哲学者、永井均の『哲学の賑やかな呟き』は彼のミクシーでの仲間達との対話から掘り起こした哲学エッセイ集となっているが、これは明らかにその原初的メッセージの持つ輝きを掘り起こそうとした意図の著作物である。事実この本では永井哲学の骨子となる幾つもの命題がかなり原初的に混沌としてはいるものの多様な意味を内包した哲学的疑問のマグマの様なものが読み取れる。
 この読ませる為に変形を施す意識の作業に対する無意識の疑問や思考的な渇望に潜在するマグマ的力を未完成性と呼ぶとすると、其処には明らかに整理され尽した完成にはない生な叫びと呟き、囁き、要するに他者や自己へ向けた鮮烈なメッセージの輝きがある。
 それを現代人は求めている。だからこそ短歌や俳句も益々見直されているのだ。と言うことは裏を返せば現代人は既に完成された、つまり本音的メッセージを整えて体裁良く設えた意図自体へ懐疑的な感性を持っている、と言う事が出来る。却って未完成なものの方に大いなる魅力を感じ取っているのだ。
 展覧会で画家の作品を目にする時仕上げられた完成作品より、その段階へ至る前のドゥローイングとかデッサンとかエスキースの段階の平面の方に魅せられることもしばしばある。つまり其処には完成迄漕ぎ着けていないからこそ発見出来る新鮮な作者の欲求の塊を見出し得るのだ。それをこそ価値とする感性は宗教文化的呪縛から解放されている現代人(イスラム教は未だかなり厳格なものが求められているが、それ以外の大半の宗教文化伝統保持国では)は、表現の自由的な民主主義精神の普及と共に寧ろ生なメッセージを求めていると言える。それは未完成であればこそ却ってストレートな何かがその都度あり得るということである。
 成熟はある意味では最も凡庸なものでもある。それは老成した中年を見れば分かる。寧ろ荒削りであっても、其処に変な衒いやいい子ぶった諂いがないからこそ惹きつける青年の魅力というものはあるし、未熟な部分を余り残し過ぎていると拒否反応を催すが、多少は残していた方が全くそれらを排除し切ったものより感性的には魅力を見出しやすいということを現代人は知っているのだ。
 これを自然な逆説と呼ぼう。つまり現代人は自然な逆説を受け入れるくらいに鑑賞眼も判断基準も逆に成熟してきているのだ。つまり成熟した感性こそ未成熟な魅力にも価値を見出すということである。これは完成された文学作品以外に、作者が推敲に推敲を重ねた生な原稿用紙に価値を見出す感性とも基盤は同じであろう。勿論この場合は完成されたものが素晴らしいからこそ、その結論へ導かれた過程にも魅せられるという訳だ。
 そしてこの未完成性へ魅せられ自然な逆説として受け入れる現代人の感性を完成させつつあるものこそウェブサイトであり、それを共有し合う現代人類は明らかにグローバルな世界市民性的感性を獲得してきている。其処では類的なものと個的なメッセージ性とがダイレクトに結び付いている。それは時として過激なメッセージを世界に送受信させ、テロリズムを誘発する危険性も帯びたものもあり得る。にも関わらずそれを超え得る可能性を既にウェブサイト上でのメッセージに見出し、未来を託している世界市民の方がずっと多いからこそ、ウェブサイトを廃止しようという声は上がらないのである。
 現代人類はメッセージ発信性に於いては種的呪縛を超えて、こういった個々に使用する言語や文字は民族共同体、民族社会、民族国家性を保持しつつも、メッセージ発信形式や読解する習慣としてはスマホでも読み易いメッセージ、そして完成、それは多分に長文を前提として発展してきた作文秩序であったのだが、それを超えた未完成性を残したリアルな本音的メッセージの方を自己感性にフィットしたものとして選び取りつつある、と言える。それを支える現代人の感性は田辺元が言う所の種的なものを超えた類的なものであり、メッセージ受容グローバリズムとでも言うべき感性であると言い得る。(つづく)