Tuesday, December 8, 2009

〔羞恥と良心〕序

 私たちは映画を観ている時、若くて格好いい俳優たちが颯爽とした姿で軍服に身を包み、あるいはテロリストに扮し、敵対する連中を次々と薙ぎ倒していく姿に酔いしれる。その映画中の彼らの行為がどんなに反理性的であれ、どんなに反道徳的であってもそんなことなどお構いなしにである。つまり私たちが格好いいとある映画のヒーローに対して向ける眼差しは明らかに理性的な判断からのものではない。もっと原羞恥的な欲望のレヴェルからのものである。それは格好いいということが、善良であるとか正しいということとは全く違う価値判断であることを意味している。だからこそ我々はそれが現実であれば、とても付き合えないようなタイプのヒーロー像にある理想を見る。その理想とはある意味で私たちが普段は薄々自分でもそういう意外な要素があることを知っていて他者に対しては隠している私たち自身でも「君も意外と悪だね」と言われると自分では改めて意外であるとさえ思える客観的に「これもまた本当の自分だ」という風に認められないようなタイプの自分による本音である。
 ある極めて暴力的なヒーローの破壊的人生を描いたフィルムにおいても私たちはその演じるアクターが格好よければ、これは現実ではない、しかしもしこういうことが自分にも出来たなら、格好いいだろうし、女性にももてるだろうな、とそう思う。その映画でのぐれ方の中にさえ我々は理想を発見する。
 しかしそれはスクリーンに映る虚構の世界での格好よさであり、本当の現実社会で私たちが尊敬するような人たちは、概してそういう格好よさとは無縁な人たちのほうが多いだろう。時として私たちは格闘技などではヒール的な役割の人に拍手喝采を送ったりするが、それは娯楽としてそれらを観戦しているからなのであり、現実社会で問題のある人を社会人としては自分でも敬遠する。格闘技は真剣勝負であるが、彼らを観ることは我々にとって娯楽であり、そこに私たちにとって求められている価値とは見てくれの格好よさ以外のものではない。それは苦労して描いた画家による作品に対してそれを鑑賞する人たちが夢とロマンを抱いて鑑賞するのと同じである。つまり見てくれの格好よさとは、その背後にある事情とか人間性の本質とは全く別のことなのである。しかしそういう見てくれ的な格好よさに惹かれる部分というのは我々にはある。
 と言うことは良いこと、善いことと格好良いことというのはまた別の価値観だということである。善良であるということは我々の内なる良心に根差している。だから本質的にはそういう良心というものだけを追求すれば、格好悪いこともしなくてはならない。しかし格好悪いことというのは羞恥を伴う。そこで私たちはそれが正しいとは言えないようなことでも、そのことによって多大の迷惑とか損害を誰か特定の人にかけないのであれば、出来るだけ自分の格好悪さを人に対しては知られたくはないし、そこで恥をかきたくはないとそう本心では思う。それでもそんなことをお構いなしに正しいと思うことを他者に示すということには幾分かの勇気が要る。あるいは格好悪いことを持続して他者に理性的な像を示すということにはある種の誇りが要るし、そういう勇気を持続してきた人間は誇りを持っていくことになるだろう。
 要するに羞恥とは私たちが何かをしようとする時、そこに立ちはだかる何らかの仕着せに対して無抵抗であることそのものなのであり、その仕着せによって我々の羞恥がある本当は正しいと思われる行為に赴くことを臆させるのである。それはフロイト的超自我を逸脱することの漠然とした恐怖であることもあれば、逆に自らの中に芽生えた悪(明らかに自分ではそうだと思えるような)からの誘惑の囁きに対する抵抗の意図であればそれは良心と呼んでいいだろう。
 しかしこの二つは意外とそう簡単に類別することが出来ない場合も生きている上では多い。これから行おうとしている行為が正しいことであるか、そうでないかが判然としない場合というものも多いからである。正しい行為であるなら、それを抑制するものは格好悪い姿を他者に晒しそれに対して羞恥を感じることに対する躊躇であり、そうではなくそうすることはただ単に悪からの誘惑に過ぎないとすれば、それは良心である。それは分かっている。しかし人間は正しいことを正しいと言われると腹が立つ生き物である。これは哲学者の中島義道氏も「カイン」において示していることでもある。
 本当は正しいけれども、ある場合にはその正しさを他者の前で示すことはあまり効果的ではないし、慎まなくてはならないこともあるし、逆に悪いことであると思えたり、気後れしたりすることしきりなのに、それでもことを決行する必要性に実は迫られていることもあるというのが人間の行動とか行為に纏わる難しさなのである。
 本論は前作の「存在と意味」(同じブロガーブログで掲載更新中)、あるいはそれ以前の「他者と衝動」、「羞恥論」(同じブロガーブログにて掲載)に引き続き羞恥という心理を前面に出し、且つ以前「責任論」(同じブロガーブログにて掲載)で論じた良心の問題に肉薄し、その二つの相関について、前の二つのパラグラフに示した問題点を中心に考えていきたい。

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