Thursday, December 10, 2009

〔羞恥と良心〕第一章 悪の魅力

 戦争を体験した年配者や、四十代後半以上の人にとって悪の魅力を示した映画と配役とは「第三の男」のハリー・ライムだろう。言うまでもなく映画監督でもある著名な俳優であるオーソン・ウェルズによる演技が光っていた。登場回数とか出演時間は一応物語の水先案内人のジョセフ・コットン演じるホリー・マーチンスなのだが、最後のほんの数分登場するだけのこのライムの魅力は悪というものが生活力と結びついて、有名なラストシーンではライムの情夫だった女と挨拶しようとするホリーを無視して歩き去っていくシーンでそれが示されている。正義とか善意志などと言っても所詮飯のたねにはならないし、要するに善悪以前に必要なことというのがまず生活にはあるし、社会にもあるかも知れない。社会が善を追求出来るのは、一定の基盤があるということ、つまり豊かさがあるということであり、日本社会が昨今の金融危機において世界の国々と共に立ち往生をしているにしても、何とか生活が成立させられているのも、朝鮮特需とか、ベトナム戦争による景気であることを若い人でもある程度知っていることだろう。
 つまり精神的な善悪とか道徳とかを考える心の余裕は、通常の社会やビジネスマンにとっては端的に生活という基盤が成立していて、一定の精神生活を営める心の余裕があった後のことなのである。悪は確かにその行為に赴く時に躊躇を覚えるものである。しかしそういう躊躇というのは人を殺すとか取り返しのつかないことを除いては、例えば本当に盗みをしなくては飯を食っていけないような状態の人はそうするかも知れないし、そこまでの勇気がなければ、捨ててある弁当を拾って食うしかないだろう。こうなったら、最早格好よさの追求どころではない。羞恥をかなぐり捨てて全てにかかるしかない。
 そして生きているということは要するにそういう羞恥をかなぐり捨ててかかるということ以外のものではない。
 哲学者で悪というものを見据えて考えた人と言えばトマス・ホッブスがいる。カントは通常善意志とか言って要するにモラリストと考えられてもいるが、彼が道徳法則ということを主張したのにも、その時代に横行した悪に対して思うところがあったからだと言われている。悪は哲学においてはプラトンの「国家」でも捉えられていて、無視することの出来ない人間の本質の一つであり、要するにこれなしには善という観念も生じようがないのである。
 どんなに善良な人でも時には憂さ晴らしに格闘技を観に行ったり、悪党たちが活躍するアクション映画とかギャング映画を観に行ったりして自分の中に普段な隠されてある(いい子ぶっている)悪に味方する気持ちになって一時楽しむ。そうすることで普段色々抑圧されているような気持ちをどこかに吹き飛ばすわけである。そして誰しもがそうするということは、人間には潜在的には善にばかり味方するのではなしに、悪に対しても味方したり、自分の中の悪に惹かれる部分発見したりすることによってある種の息苦しさから開放されるということを望むのである。
 人間はある意味ではこの表裏の二重性を生きるということが普通な生き物である。そしてそれを相互に承知していて一々他人に説明するようなことをせずに、阿吽の呼吸で相互の小さな悪を容認し合うというところに社会生活というものを概ね正しい方向へと導くために必要な必要悪の容認という意味合いからの暗黙の了解がある。
 だから逆にこの暗黙の了解を全く知らずに全ての対人関係を押し通そうとすると、「あいつは人間というものが分かっていない」とか「堅い奴だ」とか「純粋過ぎる」というそしりを免れない。正しいことというのは分かっていても、時には正しくないことの方が正しい場合があるという阿吽の呼吸が必要なのである。
 勿論今日の社会では競争入札における不正入札とか官制談合とかそういう阿吽の呼吸は許されることではないだろうが、そういう社会システム上での旧制度的なことに代表される資本主義経済の正義という観念から逸脱する阿吽の呼吸は除外されるべきであるとしても、尚法的なこと以外のことでなら、私たちは積極的に「あいつは話の分かる奴だ」とか「人間が練れている」とか他人を評定する時に明らかに正しいこと以外に正しいことはない式の格式ばった頭ではない形での、要するに適度に不良っぽさが漂う、相手の心のつぼをよく心得た要するに洒落者的な魅力を漂わせた社会人というものがどこか部下や年少者からは尊敬されるというところさえある。
 要するに私たちは不完全ということにおいてどこか心の拠り所とか居心地のよさを感じているのであり、完全過ぎる、つまり欠点がないということは、ある意味では堅苦しく、息苦しく要するに親しみを持てない、それは神様のような私たち一般庶民には無縁の世界の秩序なのであり、私たち自身が完全無欠ではないのだから、その無欠でなさそれ自体を容認してくれて、暖かい眼差しを注いでくれる者に惹かれ、俗ということに安らぎを覚えるのである。
 勿論時には正しいことに邁進する必要もあるし、俗っぽさが厭になることもあるだろうが、四六時中良いこと、善いこと、正しいことをするということ、あるいは考えるということは生きていくことを困難にさえする。
 そして巧いことには、私たちはあまりの正しいこと善いことだけで塗り固めたものに対して、それが人格であれ、表現であれ、作品であれ魅力を感じないものである。つまりどこか一箇所抜けたところのある人に対して、その欠点を補うに余りある業績や意志を貫徹する部分を認めるなら、寧ろ積極的に応援する。つまり私たちにとって魅力を感じるものとは往々にしてある種の不良っぽさがあり、それでいて完全なる悪には突っ走らない危うい部分のあるものなのである。
 その証拠に女性は男性に対して結婚相手ということになると、定収入とか、安定した職ということを求めても、恋愛の対象としては男性から見たらどうしてあんな女ったらしに惹かれていくのかというくらいにだらしなさそのものにさえ魅力を感じることさえある。
 魅力そのものには悪に対してだけではなく、普通の人にとっては退屈極まりないものに対してその魅力の取り付かれた人というのは大勢いる。スポーツも本格的に行うとすると、厳しいトレーニングの世界であり、学問も本当に真剣にするとなると、なかなか厳しい世界である。芸術とか書とかそういう世界でも同じである。それらは全て平素はかなり格好悪いそして苦しい訓練を反復することによって本番的な場面でこそ格好よさを発揮するということなのだ。
 しかしそういう魅力とはどこかで理性的な判断、つまり「これこれこういうことは尊いものである」という価値判断が加わっている。しかしこの章で私が言いたい魅力とは、潜在的な部分、もっと本能的、動物的な部分で私がついいけないと知っていながら惹かれていってしまうもの、例えば酒もそうだし、タバコもそうだし、本当はいけないと知っていてやってはいけないものとして麻薬(ドラッグ)というものも薄々興味くらいなら誰でもある。ただ一旦そういうものというのは手をつけるとなかなか止められなくなるということを知っているからこそ、手を出さずにおくだけではなく関心から除外しているだけである。
 そして悪の魅力というものの中には権力そのものも含まれる。勿論権力であるからには法的には正当な行為であるものの、通常の心理では私たちは権力を遂行することは出来ない。だから何か特定の権力を誰かに託された時、その権力を行使する自信のない者は断ることもある。つまり権力にはそういう魔力があり、またその誰でも自分の言うことを聞くという状態に慣れる必要があり、寧ろ積極的に権力志向というものは、一定の社会的地位にある人には求められる。
 私は「権力の構造」というテクストを書いたが、その中でも悪の魅力についても触れている。要点を記した部分を少々長いが抜粋引用しておこう。
 
(前略)我々は悪にこそ魅力を感じ取る。善は往々にして退屈である。価値観が相対的なのだから、悪の魅力も相対的である。しかし善はどこか絶対的な感じを与える。勿論私にとっての善は、別のある人にとっては悪であることもある。しかし私が善というものは、私にとって敵対する人にとっても等しく善のことなのである。例えば太陽はその存在からして善であるというのは少なくとも生命にとってはそうである。そして光がそうである。光もまた太陽に起因する。あるいは生命そのもの、呼吸することという我々の基本的条件は善である。しかしそれを阻むもの全ては悪であると言ってよい。しかしこの世には闇もある。呼吸することが困難な世界もある。多くの生命の生息出来ない世界もある。尤もそういう世界ででも生息出来る生命というものが少なくとも地球上では確認出来る。しかし生命そのものが存在し得ない惑星もある。そういうものを悪としよう。しかしそういう闇の部分に我々はどこか光の部分との対比において悪の魅力を感じる。あるいはもっと積極的に言えば悪のない世界は魅力がないとさえ言える。それは光を引き立たせるし、光を欲しくなるくらいに闇が必要とされている、ということである。夜とは暗いからこそ眠るのに適しているのであり、夜がそもそも光に包まれているのなら(白夜でも完全に昼間に近いというわけではないだろう。)睡眠はまた異なった様相になっていたのではないだろうか?
 欠点がないことが最大の欠点という意味では、適度の欠点の所有が最大の魅力を引き出すということが言える。
 しかし適度の欠点という甘い部分は権力を持つ者にとっては適度の愛嬌として受けとめられる内はいいが、人情味というものになり変わる時、致命傷になることもある。
 例えば上に立つ者は寛容であることが求められる。しかしそれは部下と共に命運を共にするという正義感だけでは勤まらない。例えばこういうことを考えてみよう。社の方針に対して生ぬるいと感じていた部下の一人が寛容な上司である部長に対してあるプロジェクトを完遂するための方策としてあるやり方を打診する。しかし上司は明確にゴーサインを出さずに
「君の裁量に任せるよ、兎に角いい結果を出すように最善の仕方で臨んでくれ。」
と言ったとする。そしてその部下はその言葉をゴーサインと受け取りその方策で邁進するが、道半ばその方策によって失敗したとする。しかしその他にもプロジェクトにかかわっている者は大勢いて、別のやり方で成功をその者に持ってゆかれる。しかし失敗した部下が
「部長がゴーサインを出して頂いたじゃないですか。」
と糾弾しても時既に遅しである。その時上司である部長はこう受け答える。
「私は最善を尽くしてくれと言っただけで何も、こういう仕方でせよ、とは言わなかったよ。」
 つまり部長が今この失敗した部下と共に共倒れすることは彼自身にとっても、社全体にとっても何のメリットもない場合、こういう風に責任転嫁することは悪いことであるわけではないばかりか、当然の判断である、と言える。
 リーダーとしての職務は魅力を限定的なものに留め、責任を糾弾されるような形で欠点を示してはならない。あくまで彼に許容される欠点とは法的に、あるいは責任倫理的に糾弾されない範囲内でのことに限られるし、それを完遂してこそある意味では最大の魅力を湛えたリーダーということになる。その欠点が、あるいはその欠点故に発散される魅力がいかに悪辣であっても、行動の合理性させ備えておれば、糾弾される余地をなくす。それは
「悔しいけれど、巧くやっているから責任を遡及することが出来ないんだよな。」
と言わしめることそのものが欠点を最大の魅力に高じさせることに繋がるのだ。だからそういう能力のない者は初めからそういう危うい魅力を持つことを目指すべきではない。あるいは部下に思い切ったことを任すべきでもないだろう。尤もそういう風に融通の利かない者に上に立つ資格があると思われるか否かはまた別の問題である。
 
 責任倫理とは行動責任、結果責任、説明責任といったさまざまな責任言及範囲によって表されるが、実は責任の遂行とは、善的なこと、良心的なこと以外の、端的に言ってもっと悪辣なこと、その責任を全うする意味で対外的には良心の欠片さえ残さないようにすることが必要となる。よく「心を鬼にして」と言うようなこととはそういうことに該当する。
 つまり責任遂行の美とは、小さな善を捨て、大きな善を獲得するために、敢えて大きな悪さえ許されるという地点で行為を考えることであるから、必然的に責任遂行の美とは悪の魅力に接近していることになる。悪の魅力を湛えた責任遂行の美とは、全的に責任を負うことではなく、緊急の措置として必要不可欠であることを遂行するためには、小さな責任を無視すること、小さなヒューマニズムを捨て去ることを意味するから、当然諸々の使命から見れば悪の結晶ということになる。しかしこの悪の結晶的な小さな善に対する完全無視とは、トップリーダーには常に求められている資質であるし、事実トップリーダーの責任倫理とは、全的に善であるためにはかなりな悪の分量を自ら引き受けることでもあるのだから、当然冷厳さを求められ、悪の魅力として、小さな善行を怠ることを許してもらえる技量、つまり愛嬌さが必要である。従って大きな責任、つまりある集団やある集団の時代を支えるような行為を遂行するためには、端的に小さな善を全て無視し、捨て去る勇気が要求されるから、そういうタイプの大きな責任を負わされたトップリーダーは必然的に魅力ある悪に徹する必要がある、というわけである。
 悪の魅力を追求出来ない者は大きな責任、大きな善行を追及するべきではないし、大きな責任を背負うべきではないし、大きな善という観念を哲学的に思惟する必要などない。
(「権力の構造 ナルシシズムの意識」中第五章 悪の魅力 より)

 私が考えた魅力ある上司は、部下の失敗の責任をいざという時にはとるが、会社全体が困難な状況の時部下に対する義理とか責任だけで社全体の利益を考えずに責任をとって社を辞めてしまうということはどうなのだろうと考えてこう書いたのだ。引責辞任だけが責任の取り方の全てではない。減俸とか減給ということもある。つまり権力には絶対的に悪に加担する部分、あるいはその者に固有の権力者の孤独を紛らわす悪の魅力が、その下についていく人にも必要なのである。だから大きな善とか大きな正義とは、かなりそれと匹敵するくらいの大きな悪や不正義が付き纏うのだ。戦争は悪ではあるが、戦後の日本がアメリカに対して敗戦したということがせめて救いだったと考える人は大勢いるだろう。あるいは原爆投下それ自体は悪であるが、日本が無条件降伏をしたということそれ自体は、その後の日本の戦後社会の復興と、高度成長のエネルギーになったということは言えるだろう。
 ここで纏めておくと、悪とは潜在的に私たちの心の奥底にある他者に対する寛容さであり、潔癖であることはある意味で正義以外のものを認めず、要するに融通が利かず、正しいものだけを正しいと思うことである。他者の多少の悪に目を瞑ることが要するにもの分かりがいいということであり、俗であるということであり、それは責任ある立場の人間には積極的に人望を得るために求められる。それは私の考えでは人間にはどんなに正しいということが分かっていても、その正しさだけを追求することが時には息苦しく、全体を円滑にすることが出来ないのであれば、必要悪というものを積極的に作るということをも正義の範疇に入れるということを知っていて、そういう悪に加担する部分を有効に利用しようとする心理は全ての人に備わっている。そしてある時には略奪愛とか、略奪婚、あるいは愛人と逃避行する夫や妻の不貞にさえ魅力を感じるのが人間であるということである。そうでなければ太宰治に対していつまで経っても人々は共感を示すことなどないであろう。
 それは悪ということが制度的には悪であっても心情的にはそう悪ではない場合もこの世の中には多いということを私たちが知っているからである。つまり恋愛の場合息の詰まる家庭生活に嫌気がさして、つい別の異性に手を出すということそのものは、その正式な婚姻関係という側面からは確かに悪であることでも、その人間の内奥の心情ということからうすると、最早ちっとも愛していない妻を形式的なだけでずっと愛している振りをすることが、カント的な意味で言えばそれこそ根本悪ではないのだろうか?つまりその本当の気持ち(これはこれで難しいことで、曖昧なことなのだが)に忠実に生きることこそが誠実であり、キリスト教的な倫理感からしても、他人に嘘をつかないということ(カントも言っているが)なのだから、それは法的に悪であっても、倫理的には悪ではない場合も多いだろう。
 尤も私たちはそのような周囲から応援される法的な悪(不倫とか、不貞とか)にさえ共感する場合があるということは、逆に倫理的にも悪であるものにも、例えば犯罪者に対してさえ、愛嬌のある犯罪者にはどこかわくわくする気持ちで報道を見るということもある。つまりそういう根本的に本能的に危険な匂いのするものにも惹かれるという悪の魅力への誘惑に効しきれないということが、その不倫や不貞に対して応援喝采を送るという気持ちに拍車をかけているということは言えるかも知れない。つまり人間にもしそういう悪に対する怖いもの見たさというものが皆無であるなら、法的に逸脱しそうな気配のものに対しては、極力避けようという気持ちになり、わくわくすることどないだろうからである。
 つまりかつて生物学者たちが何かある特定の心的作用があるとすると、そういう感情を誘引する遺伝子があるのではないかと考えたものだが、その謂いに習えば、何かある法的な意味で、あるいは規則的な意味で抵抗するような行動全般に対して何らかの共感を得ることが自然になるような心的作用を誘引する、つまり自らの中にある自分に関してはあまり社会的に逸脱することがないままでいたいけれども、何故かあるあまり社会的に順応することが得意ではなくつい脱線するようなタイプの成員に憧れたり、共感したりすることを誘引する性格遺伝子か何かがあったとしたら、それは小さな悪、しかも憎めない悪に対して応援するようなことがあるかも知れない。
 悪の魅力はしかし私たちの社会の法規とか、社会一般の通念というものに抵抗する場合が多くなるから、一定の許される悪と、そうではなく許されざる悪ということの区分けに対して個人毎の差異が生じるだろう。従って悪には自分にとって許容し得るものとそうではないものとの二分という意味では、極めて私的な趣味レヴェルの決定要因、判断基準の差異があると思われる。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

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