Wednesday, February 3, 2010

〔羞恥と良心〕第八章「ふりをする」ことの哲学(1)

 私たちの生活で日常的な思念というものは往々にして生活することが出来ればそれでよい、つまり出来るだけ保守安泰希求型の安定性、そして固定化された人間関係を維持しようとする。その生活を豊かにする意味で自然科学の認識は有用で、現代社会は自然科学認識とそのテクノロジーに多大な恩恵を蒙っている。しかし同時に私たちは便利なだけの生活には心では満足せずに、各個人に固有のものとしての幸福を追求したいと願う。
 脳科学者の茂木健一郎は「世界知」を人間の自然科学的認識を主体とした「神の時間」として、客観的な自然認識を機軸とした人間の存在はその中の一駒であるに過ぎない捉え方として、もう一つの「生活知」と対置させている。この「生活知」は自然科学的認識で割り切ることに対してある種の躊躇を感じる人間主体の「人間の時間」で、前者があくまで過去も現在も未来も予定調和的な捉え方をするのに対して、もっと主観的な人間中心で、常に現在を機軸とした時間の捉え方であるとする。(「「脳」整理法」ちくま新書刊)
 この捉え方は理解しやすく、特に人間が自然の一部であるとしながらも、同時にその客観認識の部分集合とする合理主義的考え方に対して楔を入れるような哲学的思考という風に「人間の時間」と「生活知」を考えてもいいだろう。さて氏はもう一つ重要な概念を提出している。それがセレンディピティーである。これは偶然的な出会いを必然的な意味に置換してゆく知恵であり、我々の日常的な心掛け次第で掴むことが出来る場合もあれば見逃すという、どこかジャ・メ・ヴュにも似た発見である。
 茂木氏の論点でこの部分で最も面白いのは、我々の人生の時間は限られているのだから、何か自分から主体的に行動する(例えば普段出かけない近場でリラックス出来る場所にまには出かけてみるとかの)、そしてその際に普段に目に留めない何かを発見する、そしてその出会いを切実なものとして受容する、つまり「行動」、「気づき」、「受容」の三本柱を機軸とした偶然の必然化である。実は芸術行為というものは全てこの連動であるし、氏に言わせれば日本のノーベル賞受賞科学者たちや人類の歴史上の偉大な発見、発明は総じてこのセレンディピティーによるもののオンパレードであると言う。そう言えばあの遺伝の法則を発見したメンデルは牧師で、教会の庭で育てたエンドマメから法則を発見したものであり、それもまた偶然の必然化だった。
 さて人間がそのような偶然の必然化をなす行為の一つの哲学的認識もまた含まれよう。この章では少し人間の日常的行動の意味について考えてみたい。
 精神分析では意識と無意識というのがあり、医学の世界では人間の身体の運動を随意と不随意と呼ぶものがあるが、前者は両方とも自分で意図的に何かをなすことであり、その運動とか行動をしながら何をしているのか他者に説明が出来る。つまり言語化しやすいのだ。しかし後者は精神分析と医学では多少異なるが、無意識とは潜在意識のことであり、深層心理と言うこともある、自分の中にある自分でも気がつかない欲求とか願望のことである。そして不随意とは自分身体内部で、あるいは外部(皮膚の発汗作用とかの)で身体が勝手に作用することである。例えば血流がそうであるし、怪我をした時傷口が自然に塞がり血液が凝固したりする、要するに医学・生理学的作用である。
 この章では哲学的認識について考えるわけだから、取り敢えず精神分析の無意識と、身体作用の運動性の中間くらいに位置する行動とその振舞いというレヴェルで考えてみよう。この現象に目をつけたのが最初はデカルトであり、その心身二元論は有名である。そして現代ではギルバート・ライルという哲学者が心の内面と外面的な行動の関係を詳しく論じた。心は自分で他者に説明がつく部分と、そうではない部分とがあり、それは欲求レヴェルでもそうだし、願望レヴェルでもそうである。また自分固有の考え方や行動であると思っているものが実は誰でも同じように行動する一種の人間という種固有の本能的なパターンを踏襲しているだけであることも多く、要するにこの自分、人間社会の成員、種といった捉え方のどれに今自分が考えたこと、あるいは行動したことが位置しているのか規定することは極めて難しい。
 例えば人間はどんなに哲学的思考を思い巡らしていても腹が減ったら腹の虫は鳴るし、食事をしたいと願い、用を足しなくなればトイレに行って済ます。そして恋愛というものもまた実に厄介で、人間的な愛情を(と言うより神への愛を)アガペーというように表現するかと思えば性欲とかそういうレヴェルをも含めてエロスとも言うし、一体全体恋愛感情とは人間的理性によるものなのか、あるいは動物的本能なのかという問題は永遠の謎であると言ってもよい。
 だが好きな異性の前では我々はどこか演技をする。そして今直にでも「君を抱きたい。」とそう率直に告白出来て、またそれを向こうも受け入れられるのならことは簡単であるが、そういうものがいつもであるわけでもない。そうかと言って衝動的な両性の合意による恋愛とセックスをただ闇雲に欲望にのみ身を任せた汚らわしいものであるなどとも言い切れない。そんなことを言ったら人類全てが汚らわしい存在ということになる。尤もキリスト教には原罪という観念があるのだが。
 そしてこの振舞うということに関しては極めて難しい問題が潜んでいる。 
 例えば就業しているビジネスマンは仕事がどんなに楽しくても尚、雇用されある一定の成果をあげることを通して報酬を得ているわけだから、レジャーに打ち興じている時のような表情で社内でも対外的にも振舞っていても駄目であろう。と言って仕事は生き甲斐でもあるのだからある程度楽しんでしなくては周囲にも不快な感情を与える。この義務履行性と幸福的振舞いの表情とか態度の配分というものは実に難しい。
 ビジネスにおいて営業は明らかにどこかで売る立場の人間が買う立場の人間の深層心理に「率先して買いたくなる衝動」を引き出すという意味ではある種の騙し、騙される、しかも騙される側が喜んで騙されるような関係を構築することであるのだから、心理ゲームの様相である。
 例えば同一の商品でも陳列棚に一個だけが残っているのと、他にも同一の商品が沢山まだ棚に載っているとでは前者だと、どこか売れ残りという印象を与え、それが食品であると鮮度に問題がありはしないかと消費者は考え込んでしまう心理を誘引する。そういう意味では商品のフェイスアップとは実は極めて心理学的な企業戦略であると言える。そして明らかに売る側は買う側に喜んで騙されることを選択させるように仕向けている。大安売りというキャッチフレーズもそうである。
 カッコウは他の鳥類の巣に託卵する。しかしその卵があまりにもその鳥類のそれと似ているので、他種の鳥は気がつかない。そしてその鳥が自分の本当の子供に餌を巣に運んでくる時に我先にとその餌をせしめるし、そればかりか他種の鳥の雛を巣から落してまんまと自分だけその被害者の雛の親鳥からの分配を独り占めしようとさえする。しかし騙される側の親鳥はそれに気がつかない。リチャード・ドーキンスという動物行動遺伝学者は余程カッコウの雛には騙される側の親鳥をも欺くような魅力があるのだ、そして何か未知のフェロモンのようなものを発散して騙される鳥に催眠をかけているのではないかというような推理をあの有名な「利己的遺伝子」というテクストで述べている。このカッコウのいい子ぶる、本当の子供の「ふりをする」行為は明らかに種の生存を賭けた巧みな戦術である。
 このように自然界、動物界においても人間社会においても「騙す」、「騙される」行為の連鎖は日常茶飯である。
 会社で部下が上司に好印象を得ようとするのは当然の振舞いであるが、これもまた誠実で有能な社員の「ふりをする」行為に他ならない。勿論現代社会は益々成果主義的発想になってきているから、成果が上がればどんな態度でもいいのだ、と言ってもやはり最低限のマナー、礼儀、態度は社員同士でも必要だ。どんなに有能な社員でも、その能力を鼻にかけるようでは部下はついては来ないし、上司も気持ちよく仕事の指令を出すことが出来ないであろう。そういう意味ではその人の振舞いは人格とかその人間の職業人、社会人としての常識とか、果ては能力の有無さえ見かけから判断されかねない。だから「ふりをする」こととはその人間の本質的な内面まで表わされるという意味ではギルバート・ライルの行動こそがその人間の内面の表出であるという考え方は極めて現代社会に応用可能な哲学だったと言ってよい。
 表側の振舞い、表情、愛想、仕種といった全てはある意味では本来隠されている筈の内面のその人間の美とか礼節とか知性とか理性的判断力とか仕事の能力をいい意味で象徴するものではないだろうか?勿論それに行動が一番重要なこととして加わる。
 しかし人間のこの見かけの美という奴はどこかで偽装的な行動、偽善をも生む温床にもなってきた。現代社会では外面的印象とは確かに大切であるが、同時にそれは戦略的な行為であると、例えば実務的レヴェルから「私はタレント出身者の政治家というのはどうも。」と考えたりする有権者の心理も理解出来ないこともない、要するに見かけによる価値判断とは諸刃の剣である。人間は巧く他者を乗せてやりたいという意識と、誰からも騙されまいでいようという両方の欲求がある。そのことに関して私は例えば多少人よりもマスコミの報道姿勢そのものに対して「騙されないぞ。」という意識を強く抱いている。
 哲学者の信原幸弘は「心の現代哲学」でカエルの捕食行動について考察している。
「カエルは飛ぶ昆虫を見ると、舌をのばしてそれを食べる習慣がある。しかし、カエルが舌をのばすのは飛ぶ昆虫だけではなく、薄黒い動く小片なら何でもカエルは舌をのばして口に入れてしまう。カエルの神経機構は、飛ぶ昆虫を含めて一般に薄黒い動く小片が刺激として与えられると、ある神経状態Sを形成し、このSにもとづいてカエルにその小片に向かって舌を出させる。この神経状態Sはどのようなことを表象するのだろうか。それはカエルの眼前のある方向に飛ぶ昆虫がいることを表象するのだろうか、それとも薄黒い動く小片があることを表象するのだろうか。」(「心の現代哲学」101ページより・頸草書房刊)
 さてこの昆虫が舌で捕まえようとする飛翔し移動する物体を昆虫と同じくらいの大きさのものであるならどれでもあたり構わず摑まえようとするわけではないのだろうが、ただの薄黒い物体(人間がフェイクで仕掛けたもの)と昆虫を識別するほどの脳も神経細胞も持ち合わせていないことは確かだ。それでは表象されたものとは一体何かと問われれば、それは要するに自分の周囲に旋回する何らかの薄黒い物体があれば、それは確率の問題として大体が昆虫である可能性の方が大きいのだから、それらは構わず虱潰しに捕獲せよ、とある遺伝子座が指令を出しているということは考えられる。だからそれが表象と言えるのかどうかは疑問の余地があるのだが、しかしそれでは騙される確率も大きいかと言えば、そういうことは日常殆どないからこそそれだけの識別能力が備わっていないと考えるのは自然である。もし我々がカエルを試すような行為を一匹が数匹のカエル、あるいはそれ以上やったとしても尚、カエルという種全体が被る実害というものは高が知れている。だから自然選択がカエルに昆虫とフェイクを識別する能力を付与するように自然に仕向けるためには恐ろしく過大な選択圧をカエルに条件として与え続けねばならない。どう見積もっても一万年以上の期間ずっと全てのカエル個体にそのようなフェイクを仕掛けることが恣意的に出来たのなら、あるいは多少の変化の兆しというものが立ち現れる可能性はなきにしもあらずだが、実際上は不可能である。あまりにも持続的にフェイクをかけてきている個体の中の幾つかが辛うじて学習し、捕獲を差し控える行動が時たまあるようになるくらいのことが考えられるというのが関の山であろう。要するに自然選択というものは人間の時間感覚からすれば気が遠くなるくらいの(しかし地球環境全体の歴史からすればほんの一瞬なのだが)、時間が必要であり、要するにカエルが自分の個体の周囲を旋回する物体の識別能力を自然が付与するコストを、カエルがフェイクに騙されて種全体の生存の危機に晒されるコストが上回る事態になりでもしない限り、たとえ我々が数万匹のカエルを騙し最終的にはストレスを与え過ぎて死に至らしめたとしても尚、カエルという種全体からすれば、殆ど極小の犠牲的コストにしか過ぎないのだ。自然は人間が自分とはかかわりのないニュースを見て「酷い。」、「気の毒だ。」などといった要するに偽善的な心情は皆無である。自然というものは絶対に不必要なコストを払わない。(だからこそ人間は時としてギャンブル的感性に身を委ねようとするのかも知れないが、それすらも自然の法則で割り切ろうとするのが自然科学である。ここら辺のことも茂木健一郎著「「脳」整理法」<ちくま新書刊>を参照されたし。)だから人間がヒューマニズムというものを振り翳すことをするその実像を見てニーチェはその欺瞞性を鋭く指摘したのだ。
 そのことを考慮に入れて考えると我々人間もまたどんなに地球の裏側で悲惨な出来事があったとしても尚、近所の火事ほどにもそのニュースを見ている時、鬱な気分になりはしない。要するにニュースというものはそれが自分にかかわりのないものを見て、それを見ている自分が蚊帳の外にいて、安全地帯にいてよかったと安堵の溜息をつくものなのだ。仮に地球の裏側で起きたことでも、それが自分の家族の中に一人でもその地域に住んででもいない限り関心がそれほどは起きないが、一旦そういう事態に直面したら、その家族が心配で何もない時には世間でもっと大きなニュースがあればそれを見て「悲惨だ。」と思いつつも他人事に対して抱く好奇心から興奮すらするものなのに、自分の家族が心配で仮に東京で大地震が起きても自分がそこに住んでいない限りそんなニュースなどは意識の上ではそっちのけで、例えば東京で震災があった時と同時に悲惨な事件のあった外国にいる自分の家族の消息を一番に心配するのが人間である。
 まるでマスコミとは正義の味方の「ふりをする」安全地帯にいる人々を被害者から守る砦のようではないか。何故なら被害者をいつも気の毒ぶりながら見せ物にしているからだ。
 デズモンド・モリスは、人間とはせいぜいどんなに多く見積もっても、自分が暮らす社会で百人くらいの知人がいれば、生活には困らない(それは職場、自分の居住する地域環境で)と指摘しているが、ある固定化された必要最低限の人間だけを大事にして、後は全部ただの他人として切り捨てることが社会で生活するということなのだ。ということは逆に我々は他人に対してはどうでもよい態度で暮らしているが、知人とか自分にとって人間関係的に重要な他人は大切にしなければ生きてはいけないということを意味する。そしてそういう大切な人に対しては少なくとも自分のプライヴァシーの全てを公表する必要はないものの、全て取り繕って偽装的態度で接していては良好な人間関係は維持出来ないし、建前もある程度は必要であるし、相互に不干渉でいることも大切だが、嘘で塗り固めることも不可能である。そういう態度で生活していれば必ず世間的評判を落すことになるし、第一信用されはしないだろう。そういう意味では非意図的に行為する真意表明型の意思疎通がある程度自然に要求されるし(不自然な行為というものは作為性に満ち溢れている。)、その時「ふりをする」行為というものは、誠実に振舞うということ以外にはないだろう。人を落し入れるような行為をしながら善人の「ふりをする」ことは、偽善者のレッテルを貼られて利他的行動を動物界で粒さに報告した生物学者のハミルトンの言うように、生存戦略的にはそういう利他的集団における利己的行動の行為選択の連鎖は、長い目で見れば損失の方がずっと大きいであろう。だからカントが善意志とか道徳的法則といったことは心情倫理的な意味合いばかりではなく、責任倫理的な意味合いもあるのだろうと思われる。

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