Sunday, January 31, 2010

〔羞恥と良心〕第七章 羞恥と小心

 人間は弱い。だから本当は案外自分は不幸なのではないか、そう感じるということも実は自分よりずっと幸福で恵まれていると直観的にそう思える者を基準にして、その者に比べれば明らかに自分は恵まれていないとそう察知しているわけだが、とにかくそう了解した瞬間直ちに自分よりもっと不幸な誰かを何とかして探し出し、その者を憐れむことによって自分はそれよりはまだましだとほっと安堵の溜め息をつくのである。
 これは端的に人間の小心に根差している。しかも自分の不幸を、「私は不幸です」と声高に叫ぶ勇気のなさから、自らの他人と比べて不幸なことを必死になって隠蔽し、他人よりも自分の方が恵まれているとそう思いたがり、要するにそこに真の自分を他人に知られ、そのことで憐憫を持たれることを極度に忌避しようとする。つまりそこには明らかに羞恥感情が控えているのである。
 ではこの小心がいけないもので、一切排除すべきものであるかと言えば決してそうではない。人間の脳は楽観的に全てを考える傾向があると脳科学者ならそう言うに違いないが、実は全ての小心とは、端的に例えば科学的態度にも言えることだし、要するに価値ある勇気である場合も多いのだ。
 科学では断言することを出来る限り回避する必要がある。それはどんなに蓋然性の大きなことに対してでもなのである。つまりそうではない可能性がたとえ0.1パーセントだけでもあるのなら、その可能性を封鎖すべきではないという考えが科学者にはあるようで、従って慎重で配慮のある科学者なら、絶対百パーセント確信が持てないことには断言することを避けることを心がけている人というのは多い。
 それを勇気であると受け取るか、小心であると受け取るかということには諸説あるだろうが、小心が羞恥を常に伴っているということは事実であると思われる。しかし小心であるということを他者に対して適用する時、例えばいざ出陣という時に怖気づくということは、武者にとって恥だっただろうから、それは克服すべき対象だっただろう。しかし恐らく平時では、あるいはどちらに進むべきか岐路に迷う時には、人は失敗とか、とんでもない後戻りの出来ない状況を憂慮することというのは、求められる慎重さとして、例えば相手が責任ある地位にあることをこちらが心得ている場合、その者の小心を慮り、忖度したり、尊重したりする態度はよいことと言えるだろう。つまりこの場合ある他者に対してその小心な態度を石橋を叩いて渡る慎重さと、羞恥を有効に使用する賢明さにおいて尊重することを正当化するケースであると言えないだろうか?
 しかしだからと言って自分より不幸な人を探し、その人を憐れむことによって自分の拠って立つ地点に安堵するということは褒められたことではないということを、実は誰よりも自分が一番よく知っているのだ。そのことはある意味ではこのような小心というものが、いい反省材料になっているという意味では他者に公言すべきことではないものの、一人でそう思い噛み締めるということは無意味なことではないだろう。
 私たちはしばしばある嫌味な一言に対して「気が利いたことを言ってくれるじゃないか」とか「全くそういうことを言うなんざ、可愛げのある奴だぜ」とか表現する。それは勿論字義通りではなく、その反対のことを言うのに敢えて肯定的に表現するわけだ。
 それは英語でIt's so badという言い方が意味的にはIt's so goodとかIt's so coolとかいうことである場合がかなり多いのと似ている。
 つまりそこには皮肉交じりに何かを言う時、どこかで我々は正論を正面きって言うことを憚る羞恥が介在すること、そしてその羞恥は相手に対する若干の畏怖が手伝って、つまり小心的な判断によってそのように言う場合が多いだろう。しかもあまりにも相手が抜け抜けとそういう言辞を吐くということに対して飽きれる意味合いも込めて、そこには諦観的な感慨があって言うのである。つまりそこにはプロテスト的意志をもってしても、如何ともい難い雰囲気が漂っており、そのことに対するやんわりとした苦情の意味合いが込められている。しかもその相手に対してそういう阿漕なところがあることに対して一抹の憎めなさがあるという心理も手伝っている以上、そういう言辞には幾分、もし自分も彼(女)と似たような状況になったのなら、同じようなことを言うかも知れないという予感さえ漂っている。つまり羞恥という心理にはそれくらい小心と、確たる自信のなさに起因するお互い様という意識が濃厚に漂っている。これは自分よりも不幸の人を探す心理にも似ているところがある。つまり自分でもそうなったかも知れない可能性に対する着眼がこのような言い方において、和らいだ形での非難となって顕現しているのである。そして相手が自分よりも惨めな状況かも知れないという目測があって、その字義通りでは褒め言葉を貶し文句にこめているというわけである。

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