Friday, April 2, 2010

〔羞恥と良心〕第十二章 言語と羞恥

 私たちは相手のことを知りたいと願う。親しくなればそれは当然のことである。しかし極めて重要なことだが、相互に相手のことを全て知りたいと願うからこそ、多くの対人関係は破綻するのだ。それは言語というものの存在理由を理解すれば我々は納得出来ることではないだろうか?
 何故なら言語とはそもそも相手の全てを知るということにおいて、相手自身が極度の嫌悪感、警戒心を持つからこそ、そのことを相手がこちら側に拒絶することを一定の緩衝地帯としてのロールを担ったものだからである。
 言語とは端的に全てを告白し合う為に設けられた道具ではない。寧ろそれを避ける為に、あるいはそれが本質的には不可能であることを相互に熟知していた存在者間において初めて成立し得たものであったのである。
 その意味では言語とは羞恥を相互に認め合うという作用において成立する。それは人類が最初に着衣の習慣を身につけたのとほぼ同時期であった可能性もある。尤もその立証は人類学者諸氏にお任せしよう。
 要するに言語とは相互に全ての感情を相手に伝えることが出来ないという物理的諦念と共に、それが仮に出来たとしても、決してそれを相手に相互に示し合いたくはないという歴然とした事実によってのみ命脈を保持し得るものである。
 つまり他者存在とはそれ自体で一つの壁である。例えば相手のちょっとした仕草とか物言い自体に対して不快感を抱いていたとしても尚我々はその全てに対して一々苦情など言わない。勿論それが度を過ぎたなら必ず何か一言は言いたくなるし、言わずにはおれまい。しかし些細なことには目を瞑る。
 その限度や目を瞑る内容自体はある意味ではかなり民族間に差異があるだろうし、個人間にも差異は存在しよう。それはある地域や地方では文化習俗的に当然のことが、別の地域、地方では非常識であるような意味で。
 例えば大体都市部(特にマンション街や山の手的区域)では隣人に対してそれほどお節介をしないということは不文律的に常識化しているが、地方では、あるいは伝統的文化都市、あるいは一般的に下町的区域ではそうではないというような差異は至る所で散見出来る。
 しかしそれは地域、区域的習慣の差異であり、個人間の差異はそれよりはずっと深刻である。例えば人に言えることと、言えないことということには当然ながら差異がある。
 そしてある人にとって容易に他者に告げられることが、別の人にとっては耐えられず、そのことは別の人にとって容易なことを、ある人にとって困難なことにしているという意味でかなり深刻である。
 例えば私はかなり多くのことを他人には一切語りたくはなくそれこそ墓場まで自分一人で抱え込んで死んでいきたいとさえ考えている。
 恐らくそういったことは多く都市部でも地方でもあり得るだろう。
 しかしよく考えてみよう。言葉とは相手がいなければ意味がないものである。だからウィトゲンシュタインはそのことを常識とする世界に対して、アンチを唱えたとも受け取れる。勿論そんな単純なことではないのだ。それは恐らく世界に対して、個というものの在り方を巡って脳内で考えあぐねること全てが他者一般と極度に乖離していたということに起因するものと思われる。だがそのルドウィヒによるトライアルとは実は、その常識において順応し得る(あるいは仕方なしにそうする)ことも、拒絶することも含めて一つの制度を生きるということ、言葉を使用して生活するということはそういうことだという確信の下で、ではその制度とは一体何か、私とは制度と共に派生する意識であるのかという問いが彼を哲学へと駆り立てた。そのことを永井均は独我論という病の治癒のために彼が哲学をしたと捉える。
 
 もう一つ言語にも責任があるということだ。一つに言語はそれ自体その言語を使用する民族に固有の性格によって決定されている部分もあるが、極めて偶然的である言語構造自体が民族に固有の文化を育むという側面もある。
 例えば日本語では主語+動詞+目的語のような英語の構造と異なっていて、端的にそれ以外の英語にはない助詞、形容動詞というものがある。とりわけ助詞の使用の仕方で男女の言葉遣いを峻別したり、相手の社会的地位とか立場に応じて弁別したりして使用するということが当然となっている。これは意味論的には他者一般に対して、つまり相対する存在者に対して純粋に抽象的意味論的対話をすることを困難にしている。
 つまり相手に応じて「言って善いこと」とか「訊いて善いこと」といった基準を厳密に査定していく方向へと流れやすい。助詞の中に重要な部分として敬語があるからだ。
 それは永井均も日本語には英語で言うところのIとかyouとか以外の、「俺」「おいら」「あたい」「あたし」「わし」といった多くの語彙があることを指摘する。
 それは配慮という行為自体を自発的なものとするのではなく、制度的な習慣にしようとする民族性を表わしている。
 尤も英語世界の一つであるアメリカでも今度は宗教倫理的な不文律は支配しているから、別箇の文化的強制を多くの人たちは感じているという実態はある。そして日本語のように助詞がないということが、逆に抑揚とかストレス、息継ぎ的な表現でニュアンスを示し合うという別の形での工夫は現出することとなるわけだ。
 だが再び日本語に戻ると、このことは言語自体が極めて恣意的にその都度の状況に応じて弁別するという意味ではソフィスティケートされてはいるが、哲学的誠実性においては、極めて呪縛が強い、本音を謂い難いものにしている。
 つまり良心といったものは本来自発的、内発的なものであるべきであるという倫理査定的には、礼儀、礼節という制度上での規約とは甚だ自発性とか内発性を削ぐ結果となっている。つまりそれが礼儀だから、ということ自体に既に有無を言わさぬ制度、規約、文化的強制からの呪縛、言ってみれば自立した個の考えを全て無視する不文律的構造が支配している。
 これは年功序列意識とも大いに関係がある。
 しかし同時に日本では既に明治期において一回、それまでの日本文化を徹底的に脱亜入欧という形で欧米化してきている。これは公官庁における書類の取り扱いとか上限関係において顕著である。
 しかしそれはあくまで公的場においてのみであり、井戸端会議的私的空間では通用しない。そのことを恐らくかつて作家の井沢元彦にして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのであろう。
 日本人の思い遣り意識の文化的不文律強制は協調性のない成員を四面楚歌にする一方、そういった成員を逆に何とか皆の和に加わらせようと画策し、それはテレビドラマなどでも頻繁にテーマ化する。
 その事実自体に対して痛烈な告発をする哲学者で作家こそ中島義道である。
 中島はある部分では極めてジャン・ジャック・ルソーの持っていた私的告白性から啓発されているとさえ言える。つまり自らの暗黙の了解的日本人の協調性へと加われなかった少年期から青年期までの苦悩と挫折を告白するスタイルの多くの著作を発表している(「孤独について」他)。
 しかしこれもよく考えれば、そもそも言語とは全て内的世界を語ること自体の不可能性、それは語る当人と、語られる別の人が他者同士であるということから起因する根源的な壁があるからだが、例えば「私は~です」と自己紹介する時必ず、ここまでは言っていいことだし、言えることであるが、それ以上は言う必要もないし、言いたくもないということ自体の表明となっているのだ。そしてその事実を踏まえてこそ敢えて「でも私はある部分では一般的に言ってはならないとされることを私は言う」という形でルソーとか中島の告白は言語意思疎通史上において命脈を保つことが可能となるのである。
 しかし人間はある部分で饒舌であるということは別のある部分では只管隠蔽し続けるということをも意味する。
 それは個人の感性や感受性においても言えることである。
 つまりあることに極度に他者に対して神経を遣うということは、別のある面ではおおっぴらに言っても構わなかったり、あるいは大して神経を遣わずに済ましたりするということを意味する。それは一般社会通念上での不文律に付従えない者にとって研ぎ澄まされた感性や感受性は、一般社会においては逆に大して重要な羞恥心ではなく、特殊であるという感性や感受性の人にとってざっくばらんであったり、極めておおっぴらであったりということが一般社会においては極めて羞恥を感受させることである、ということでもある。
 そしてそれはルソーや中島のように詳細に文筆活動において示し得ている成員以外の、物言わぬ全ての人々にとっても実はそうなのである。
 つまり全ての人が自分が書いた文章を多くの人々の目に触れさせることは出来ない。だが文章を書くということさえしない、あるいは能力的に出来ない全ての人々も実はその自分自身と社会全般の間にあるずれとか「仕方なしに合わせている」部分というのは必ずあり得るのだ。
 もしそういったことが一切ないという成員がいたとしたら、その者は狂人であると言ってさえよい。
 例えばそれは知らない業界へと転身した者が最初戸惑う様々な業界固有の習慣、その一つとして言葉遣いといった習慣から、引っ越して行った先での方言、あるいは時間厳守であるタイプの社会とそうではない社会の差異とか、そのような戸惑いは全ての人々について回る運命である。だがそれでも尚郷に入れば郷に従え式に皆ある程度は歩調を合わす。そして親しい友人が出来て腹を割って話せる機会があれば、思い切ってそのことを告白することもあるかも知れないし、永遠にそういうことは一切黙ったままで生涯を過ごす成員もいることだろう。
 つまりその親しい相手なら言いやすいことの内容的差異というものが個人間にはあるのである。あることは容易く言えるが、別のことではそうではないという常識の違いがあるいは親しい間柄とそうではない人の間の差異を各個人に構成するのだ。そして親しければ親しいほど言い難いこともある。それは相手が親友であれ家族であれ、事情は同じである。
 あるいは同性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるし、逆に異性だから言い合えることもあれば言い合えないこともあるわけだ。
 つまりこれこそが羞恥であり、その羞恥を相互に保有し合っているという了解の下で言語行為は成立している筈なのだ。
 例えば道端で知らない通りすがりの人にいきなり「年収は幾らですか」とか「今付き合っている恋人はいますか」と尋ねる者はいない。
 だからある意味では言語行為における羞恥とはどういう経路で相互に親しくなっていくべきかということ自体に纏わる倫理査定的な判断が各個人において異なっているということ、そしてその事実を容認しやすい成員と、そういうことは世間一般の不文律に従っておけばよいという考え方の違いとなって立ち現れていると言うことが出来よう。
 そしてそれをどこからどこまでが地域的、地方的な文化習俗や伝統からの影響か、どこからどこまでが個人的資質かということを実は厳密に区分けすること自体がかなり困難であるし、ある部分では不可能であるし、ある部分ではそういった判断自体が意味を成さないと言うことが出来る。
 だが地域的文化習俗であれ、そういうこととは無関係な個人における倫理的判断であれ、言語行為、言葉というもの自体が既に相互に羞恥を保持していることへの認可、承認、了解の下で行われる道具であるということ、そしてその規約を受け入れた瞬間人類は多くの感覚的授受の能力を失って今日まで来ているという事実だけはしっかりと受け止めておく必要がある。
 だから哲学的に言えば相互に一切のプライヴァシーが必要ないのであれば、一切言語行為など必要ないということなのである。そして言葉とは相手とは常に百パーセント理解し合うことも出来なければ、その必要もないという事実自体を我々は暗黙の内に言語行為をすることによって示し合い確認し合ってもいるということである。

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