Wednesday, July 7, 2010

〔羞恥と良心〕第十五章 ツイッター上での人間関係論

 現代人にとってブログの登場は誰しも自由に自分の意見を掲載することが出来るという意味で画期的だったが、ブログとはそもそも余り大勢の人達の目に触れられる可能性は最初から想定に入れていない。
 その点ツイッターは全く別である。そもそも好きな人だけ訪れてくれればいいという開き直りとは異なったタイプのメディアとしてツイッターはある意味では現代人の心理をよく突いてスタートした。
 つまり個々は孤独であり、一人で行動しているという様相が濃厚にある現代人にとって携帯電話の存在が都会人的であると田舎的感覚の人間であるとに関わらず個的な空間で言葉を発することが如何に我々にとって本来的に楽であるかということをその登場の後で知った。そしてまさにツイッターはその携帯電話とタイアップして存在している。
 しかもツイッターではフォロワー数を競い合うという規則的呪縛のない暗黙の心理的ルールがある。そしてフォロワーの人数だけでなく、フォロワーの参加理由や参加根拠と、フォロワー自体の人間的性格、つまりどういう目的でツイッターを利用するのかという考えを巡る共感者同士が次第に集合していく様になるタイプの新しい人間関係を構築しつつある。
 しかも実際に会って話す人間関係と違ってツイッター上でだけ知人であること自体に別段不自然さを感じない現代人にとって容易に新たな知人を作ることも出来れば、気に入らなければ容易にこれまで親しくしてきたフォロワー達と絶縁することも出来る。
 それはかなり心理的にイージーである様に思えてその実かなりその都度真剣に言葉の遣り取りをする様になってもいる。
 フォロワー同士の繋がり自体も外部からも比較的容易に推察することが出来る。つまり実際の対人関係の場合、ある限定された性格のサークルに属している場合(会社にせよ、学会にせよ、趣味のサークルにせよ、株主総会にせよ)相手の対人関係とは相互に親しくなり告白し合うしか知りようがないが、ツイッターではそこが違う。全ての対人関係は少なくともツイッターユーザー間では表面に露出している。ダイレクトメールだけが辛うじてプライヴァシーを確保する事が出来るくらいだ。
 ミクシーの場合我々は参加する際に既に参加者の誰かに紹介して貰わなければならないが、ツイッターではそういった面倒は一切ない。
 しかも多くのユーザーにとって注目を集めているユーザーを知ることも容易である。
 ツイッターでの言葉の呟きはある意味ではツイッターというシステム自体が用意されているが故に初めて可能となった本音でもある。つまり元々この様な本音を呟けるメディアのない時代では考えられもしない自分の中のアウトロー的性格、自分の中の陰鬱な性格的要素、自分の中の自由奔放な言葉の選択とか呟く内容の選択といったこと自体を知る為にこそ多くのユーザーが利用している、という側面も否めない。
 勿論ツイートの内容も傾向も社会的地位から職種、年齢、性別、民族によって異なるという面はあるが、同時にかなり多くのそういった違いを踏まえても尚顕在化している共通性もあるのだという自覚は多くのユーザーを依存的な魔力へと惹きつけている。
 人間は確かに個々違う。しかし同時にどんなに違う境遇でも言葉の遣り取りに於いてはかなり理解し合える部分もある。それは実際にツイッターからではなく普通の集団に属していて知遇を得る場合なら決して親しくなれない様な相手とさえツイッター上では親しくなれ、そのツイッター上の交際から実際の対人関係へと発展していくという新たな人間関係構築の可能性が開けてきたとも言えるのだ。
 違うのに、同じであるという言語行為を通した対人関係が職種も社会的地位も著名人でない限りたとえ覆面的に自己の姿を隠蔽し、性別さえ装っていたとしても尚、理解はし合えるという事実の前で、我々は今更ながら言葉とは、それを通した意思疎通に於いて実際社会でのパワーバランスに伴う偽装性を剥ぎ取ることが可能であるという意思疎通性格に於いて我々は社会的地位、経済的優位劣位に関係なく対人的に触れ合う場を見出したとも言い得るのだ。
 羞恥は実際の所社会的規約や実際社会の制約、法的秩序によって自然と対人的に構える人間に付与される。しかしそういった対人偽装性や建前性自体への維持や保有事実に対しある種の虚しさを感じる現代人は多く、その虚しさの共有事実こそが現代人にとっての心のオアシスを我々が自然と求める結果となっている。つまりそこにこそ現代人は社会的制約を度外視した自由と良心を読み取ることをしているとも言えるのだ。
 ツイッターの無秩序的呟きこそ制限すべきではなく、今後もそれを通して実際の行動に移行させることを未然に防止する様な効用と共に、却ってツイッターで呟くことで得てしまうストレスや苦悩を知ることを通して、実際私達は自分の心をどう維持していくべきかという基本的な命題に行き着く。
 そしてツイッター上での対人関係はそのことを相互に語り合う場として相応しいと言える。偉大な意思疎通自体が含有するアマチュアリズムの存在理由によって、今後は逆にプロ執筆家のプロ活動自体の様相さえどんどん変えていくことだろう。そしてこれまでプロであった人達がアマチュアになったり、これまでアマチュアであった人達がプロに転向していく様な様相的流動性も益々顕在化していくだろう、とだけは言える気がする。

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