Monday, July 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十六章 親近的盲目と憧れ

 私達は案外自分では自分のことをよく分かっていない部分がある。それは人から言われて気がつくこともあるが、自分でも実は薄々分かっているのだ。案外自分自身で目を瞑って自分の実に対して見まいとしている、ということを。が目を塞いできた時期が長ければ長いほどその目を塞ぐことを決め込んだ事自体を忘却していってしまうものなのだ。
 自分ではよく知っている積もりの多くの事柄に対して、実は我々は案外何も知らないままでいることもあるのかも知れない。その知らないままでいる事自体が、一番自分でよく知っている部分である、という矛盾がある事も多い訳だ。
 例えばそれを実感させる顕著なこととは、親近的ではあるが自分とは全く異なったタイプであると勝手に思い込んでいるタイプの対象に対し、ある時意外と自分と相似した要素を発見する時などである。今の今まで勝手に全く自分とはかけ離れた対象であると思い込んでいたものの、その発見を通して意外と自分の中にそのものやこととの共通性を見出すことも珍しくはない。
 逆に自分とは無縁で、親近関係にもない対象に対しては、勝手に偶像化してしまい、憧れを持つことは多い。それは盲目の信頼となって一切のそのことへの反省を寄せ付けないようになっていくことも多い。
 逆に最初に述べた様な自分に近い自分と相似性を多く持つものやこととは、端的に近過ぎることで、案外そのものやことと自分自身との共通性に対しては目を塞ぎがちである。
 それに対し親近的ではない対象に対し我々は容易に自分との共通性を見出せるものである。しかしそれは長く付きあってみると誤解である場合も多い。存外そのものやことがかなり容易に理解することが困難である要素を次第に発見していくのである。
 確かに憧れの対象と化すことがあるわけだからそのものやことは魅力を湛えているのだろう。がその魅力自体は惹き付けられることとは裏腹に理解しやすいものとは限らない。
 それに対し自分ではよく知っているにもかかわらず自分とは明らかに違うと決め込んでいるものやことに対し我々は実は案外その共通性に眼を塞いでいることを今更ながらに覚醒することがある。そういう時には唖然とするものだ。だがそうだと気付けば意外とその後の対応はしやすい。
 要するに自分とは全く異なったタイプであると勝手に決め込んでいるものやことに対し、それらと自分自身との意外な共通性という要素はかなり羞恥を我々に催すものである場合が多いかも知れない。つまりその羞恥を催す要素こそが実は我々にそのものやことの実を見まいと無意識に構えさせてきたのである。
 それに対し自分では惹き付けられてきたが故に他者にもその理由を説明しやすいと踏んできたものやことの中には、案外それが困難であることを気付いていくものやことも多い。それは勝手に理解しやすいものやこととして判断してきたに過ぎないものやことなのかも知れない。
 ここでも我々は自分で自分自身の実を見まいとする羞恥感情がかなり我々自身を支配していることを知るのである。特に普段から頻繁に接している他者とか愛着のある事物や行為全体は、慣れているが故にその実に対し客観的に観れなくなっているということも大いにあり得るのだ。よく知っている積もりのものやことに対し今更ながらに冷徹な視線を注ぐこと自体が羞恥的感情を喚起する。しかし意外と慣れきってしまっているものやことに対し我々は時として意識的にそういった眼差しを注ぐ必要性がある。
 そうする事で実際にはかなり遠い存在であるのに惹き付けられてきたものやこと(それを最初は知っていたつもりでも、そのものやことに惹かれていく内にその事を忘れ去ってしまっていた)に対し、冷静に観察すると、かなり異質な部分を発見していくに連れ我々は近親的なものやことの価値を再考する気持ちへとシフトしていくことも決して珍しくはない。
 よく接するものやことに対し我々はどこかでいつでもじっくりと観察出来るのだからということで、ぞんざいに接してしまいがちである。故にこそ一番自分と近い部分や要素に対し我々はそれこそ自分と最もかけ離れた部分であり要素であると決め込んでしまうのだ。
 これは陥穽である。我々は親近的盲目という事態に対してもっと覚醒的であるべきなのだ。
 我々は卑近で親近的なものやことに対してその価値認識を怠っている贖罪心理が実は疎遠ではあるが、惹き付けられる他者や習慣、行為に対し一時的に魅力を持ってしまうという部分もあるのだ。そしてある時それが意外と自分自身の資質や感性とかけ離れている対象であると気付くのだ。
 しかしどちらが本当に親近的関係のものやことで、どちらが本当は疎遠であるべき筋合いのものやことであるかという判断自体が相対的であり得るという判断も同時に成立し得よう。しかしそこはある程度直観的に判断していってよいし、そうすべきことも多いのではないだろうか?
 人間は可能無限的存在ではあるが、実は極めて限定的にしか可能性など開かれていないとも言い得るのだ。自分が勝手知った経験的項目とそうではないものやこととの差異とは一番自分がよく知っているとも言える。
 憧れとはある部分では逃避的対象であるとも言える。つまり卑近で親近的存在に対する価値評定とか直視を回避する為に暫定的にその都度必要とするものとして憧れという感情は利用される。自分が勝手知った存在とは却って直視を避けたくなる羞恥を催す対象であることだけは確かだ。その直視を避けさせるいい方便として憧れの対象を我々は探し出すというわけだ。
 自分で最も遠いものであり、理解し難いものであると決め込んでいてその事自体に露ほども疑いを持たないものやことこそ、実は再考の余地はあり、案外自分自身の一番よく知った内実を具えたものやことである可能性とはそれ自体常に羞恥的感情を喚起させやすいものである。そのことと憧れの対象を模索していってしまうという心的傾向とは実は相補的に裏腹の関係にあると言えるだろう。その相関性に対する認識さえ忘れずにいたのなら、我々は親近的盲目自体が逃避感情を正当化する偶像を追い求めさせるという我々の心理の傾向に覚醒していくことが出来る。
 事実はもっと単純であるという謂いもここでは意外と役に立つ、と言える。

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