Saturday, September 18, 2010

〔羞恥と良心〕第十八章 ゼロサムゲームの興奮をどこかで望んでいる現代人

 経済社会では情報に対する希求がどこかで偶像的願望によって支えられている。それはより景気低迷期に顕著である。情報自体が既にある種のガセネタとかあらゆる種類の流言飛語と正式のデータとの違いが曖昧化している。特に株の遣り取り自体には、期待値というものが常に念頭にあり、消費行動を個人が決定する要因にある様な誘引作用と同じ様に、魅力的な市場、魅力的な株といったこと自体が既に集団内部で、国家規模であれ、同一業界規模であれ、会社規模であれ、その判定をピアプレッシャー的により他者を出し抜くということ、我さきに有効な情報を摂取しようという貪欲さ自体に翻弄され、次第にその有効な情報を誰よりも早く摂取するという手段の方が安全な株を買うという行為よりも目的化してしまい、デートレーダーの様な存在に象徴される様な、ゼロサムゲームを招聘してしまっている。
 マスコミもまたそういった市場や経済社会全体の動向を敏感に察知して、必ずしも有効な情報ばかりを報道するわけではなく、意外と多く流言飛語的情報に惑わされている。それはどの報道をトッププライオリティにしているかという選別と、決定に於いて極めて視聴率獲得とか購買数獲得の為に敢えて受けるニュースを発信するという本末転倒が起きているのである。
 ある部分では情報が期待と言うよりは欲望によって統制されている、と言った方がいいかも知れない。
 又そういった恣意的にショックを与えるビッグニュースを報じたいというマスコミ全体の欲求が、やらせを時に捏造させたり、より顕著にワイドショーネタ的な品格の片鱗もないこれ見よがしな視聴者の好奇を誘うものが余り多くなると、要するにマスコミ全体が国民を愚弄しているのだ、ということをまざまざと見せ付けられる。
 個人投資家はある意味では確かに誰よりも先んじて有効且つ信頼出来る情報をプロ筋から摂取することが死活問題である。しかしそれは一部だけがしているのではなく、全ての人達がしていることなのだ。すると当然ガセネタも多く混入することとなるし、仮にツイッターやブログを利用してもそれが混入する可能性は益々多くなる。
 しかしだからと言って現代人はそれらの便利なメディアを廃止してしまえ、とは思わない。それどころか加速度的にそういった利便性のあるメディアは増殖しつつある。すると我々現代人はそういったガセネタに踊らされる実害を被る被害者、まるでライブドアの株を膨大に買い占めていた株主が大損をする様な姿を「ざまあ見ろ」とでも野次馬根性で嘲りたいが為にそういった株式の遣り取りに参加しているという個人投資家も多いに違いない。つまりサディスティックな覗き趣味が潜在的には現代人にあるのではないだろうか?
 かつてあった五大新聞の信憑性とは、昨今では殆どスポーツ新聞や週刊誌とそう変わりないものとなっている。予想も大幅に外れることは多いし、だからこそこれからはインターネット、ブログ、ツイッターの時代であると仮に言ってみたところで、所詮それらも多くガセネタに占領されている。2ちゃんねる も大分社会問題化してきている。
 現代社会を生き抜くことの大きな一つの智恵とは既に何らかの形で外国であるなら戦争やテロの動画を容易にツイッターなどを通して観られると言う事、或いはそういった対岸の火事に対する物見遊山的な意味でのスリルを味わうことなのだ。それは恐らく戦時中からあったに違いない。何故なら戦争さえそれによって生命を失われずに助かる者にとって、そしてそれによって親族や家族を失わない者にとってスリルのあることだからである。
 戦争がないのであるなら、いっそその代わりに株式市場での失墜者と成り上がり者の興亡を外見的に見物するというスタンスが潜在的に我々の心に巣食っていたとしても不思議ではない。
 アクション映画よりも実際の世界経済の動向の方がずっとスリルがある、実際のサッカーの試合を見物するのと同じ気分で政治ゲームの興亡を見守る。全てが現実の虚構化ということなのである。現実を作り物の様に観察する、否そうとしか見ることが出来ないという心理こそが平素の我々にとっての自然なのだ。
 株式市場ゲームは、政治ゲームやスポーツのゲームと同じ様に興奮を誘うものである。そこにギャンブル的に参加する者に、参加者としての緊張感を与え、それが巧く行っている間は愉悦を感じ、いよいよやばくなってくると、心拍数が早くなり、次第に失墜する自己を想念する様になる。逃亡している犯罪者がいよいよ警察にお縄になる瞬間が近づいていることを自覚している様な気分である。
 従って敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている。いつ性病を移されるか分からないということで却って性的快楽に埋没している性行為依存症の様なものである。
 ネット中毒、ネトゲ廃人も同じ様な心理的傾向にあると言える。ある部分では現代人は露出狂的な自己顕示欲病患者であるとさえ言える。そうでなければツイッターで本音を吐露することの精神的傾向が平均化した現代人の像であることの説明も尽かない。
 勿論ツイッターをしているのは全ての市民ではない。しかし多かれ少なかれ現代人にそういった内心心情吐露的露出狂的要素があるからこそ、そういったメディアがどんどん作り出されるのである。
 やがて景気も少しずつではあるが、回復していく兆しも見えてくるだろうが、そうなっていった時再び景気後退へと加速する様な愚を繰り返さない様な心得を今から持っておく必要はあるだろうが、もう一度加速化する規制緩和の中で刹那的な興亡の行く末を見守りたいという欲望が全部消滅しきってしまっている訳ではないのだ。否寧ろ沸々とそういった欲望は潜在的に温存され、発酵されてさえいるのである。
 それは第一次産業的な生産に携わる人達よりずっと情報産業に携わる人達の方が多いという現代に顕著な特徴である。そして又ゼロサムゲームで誰が生き残り、誰が没落するかということを虎視眈々と観察してやろう、と世界中の人達がパソコンの前に座って注視している。

No comments:

Post a Comment