Sunday, September 19, 2010

〔羞恥と良心〕第十九章 人のことは分からない、それが羞恥の根源である/自分を追い詰める必要などない、何故なら人は自分のことしか考えていないからである/羞恥とは作られる 

 人のことは本質的に分からない、そうまず前提しおくこと、これが全ての理解の端緒である。何故なら人のことを容易に理解し得るのなら、そもそも我々に言語など必要なかったからである。
 私は前章に於いて「敗者になっても構わないという心理も何処かでゼロサムゲーム的野次馬心理参加者には備わっている」と言った。このことは極めて重要である。
 例えばスポーツ選手にとって最大の心得、長く競技を続ける秘訣とは何かと問われれば、多くの選手、アスリート達はこう返答するのではないだろうか?
 「負けた時余り落ち込まず、けろりと直ぐに立ち直ることが出来るということです。」と。
 いつも勝てると思わないところからスポーツは始まるのではないだろうか?
 これはあらゆる種類のビジネスマンにも言えることである。いつもいつもいい営業成績を取れると思わないこと、或いはいつもいつもいい顧客に恵まれると思わないことである。いつもいつもいい状態に自分がいなければ不安という状態そのものを棄てていく覚悟を持つことから全ては始まる。勿論いつもいつも最悪でも気にしないということとこれは同じではない。
 研究者はいつもいつもいい研究が出来て新しいいいアイデアが浮かぶと考えないこと、芸術家や文学者はいつもいつもいい作品が描けて(書けて)満足するということが普通であると考えるのを止めることから全ての問いがスタートする。
 だから当然他者一般のことも全て了解し得るのだ、という思い込みをまず棄てることから対人関係はスタートするし、全てを理解し合えるということをまず諦めるというところから全ての理解は始まるのだ。
 それは人生がいつもいつも楽しいということを諦めることから、あらゆる人生上での挫折に屈しない精神を養うということにも直結する。
 実はこの他人とは一体何を考えているか分からないということ自体が我々には羞恥があり、それを触れられると不快であるという当たり前の事実を示している。
 他人が何を考えているか分からないということは、向こうもまたこちらが何を考えているか分からないということを意味する。
 従って我々はこちらの考えていることを相手に伝えたい場合には相手もまたこちらに対してもそうであろう、と思い勝ちであるが、自分自身の胸に手を当ててよく考えてみると、自分が今考えていることを相手には余り知られたくはないと思うことは誰にだってあることであり、その場合には相手からこちらの考えていることを知りたいという態度を取られ、その相手の態度をこちら側が察知した時、相手に対して不快な印象を持つということもまた、誰しも経験していることではないか。つまりそこで相手にもまた羞恥があるということを我々は前提にして相手のことには必要以上には踏み込まない様にしているという事実を思い出すべきなのである。
 こちらが相手に踏み込まないでいれば大概は向こうもこちらへ踏み込んではこない。勿論時々例外はある。そういう場合にははっきりと相手に不快の意志を伝えればいいのだ。
 全ての世の中の理解は、全て理解し合えるということを前提としないこと、相手を理解することもそうだし、こちら側に対し向こう(相手)から完全な理解をして貰う様に相手に期待することも諦めることを前提とすべきなのだ。そういう風にまずこちらから前提しておけば向こうもまたそういうこちらの態度を通常読み取るものである。
 その様な前提をまず設定しておき、それを普通の状態であるとすることによって、相手は相手のことだけを考え、自分もまた自分のことだけを考える様にすることによって、相手は相手の責任だけを負い、自分もまた自分だけの責任を負うということに慣れていく様になるのだ。
 全ての挫折とは相手の責任をも自分が負おうとすること、或いは相手の存在の不在を必要以上に大きく捉え過ぎ、自分の存在を認可してくれる相手の存在に甘える様になることに起因する。甘えに慣れることが、甘えが実現しないことを挫折と捉える様に我々を仕向ける。と言うことは挫折を極力緩衝させる最大の方法とは甘えという心理が必ず挫折するということ、つまり甘えなどはそう容易には実現しないのだ、ということを常に念頭に置いておくことなのだ。
 それは孤独という感情を、相手不在であるが故に自己存在の認可者不在であると容易に思い込まない様に、相手という存在を全く期待しないでいることに慣れることで克服することを意味する。孤独を楽しむ心の余裕を持て、ということである。
 自分の能力を最大限に常に引き出せる様に思い込むのは、そうすることで少なくともその能力の行使が他人をも巻き込むことであるなら、自分自身によって相手を容易に変えられる(よくも悪くも)、或いはそうすることで相手から感謝されたり尊敬されたりすることを容易に期待することである。その期待に叶わない時に通常我々は挫折感を味わう。そもそも最初から期待していなかったことに挫折するということなどない。
 従って所詮他人は他人本人である自分のことしか考えてなどいないのだ、又それしか出来ないのであり、こちらのことまで期待などしていないのだ、とまず考えておくことが極めて重要であるということになる。
 要するに自分を追い詰める最大の要因とは、自分自身の中での他者一般への期待が大き過ぎることで、その他者から自分へ齎される恩恵を必要以上に肥大化させることによって、相手からこちら側への余りいい待遇をしないことに対する挫折感を大きくすることと、相手から感謝されたり尊敬されたりすることを普通だと思ってしまい、相手から見たこちら側の存在理由を大きく見積もることで相手から挿げない態度を取られた時に挫折感を味わうということと同じなのである。
 相手から期待されること、他者から待ち望まれることを普通の状態として心に持ち過ぎることが、自分自身が相手、他者に対し最大の貢献が出来ないでしまっていることに対し、自分の力不足であると深刻に思い悩む様に仕向けるのだ。
 所詮一定程度こちらも相手に対し礼節とするべきことをしておれば、後は多少こちらが至らなくても向こうは大して大きな幻滅を味わうことも失望することもないのである。
 もしこちらが相手に対し一定程度以上に礼節を保ち、努力して相手に尽くしたのに相手から何とも思われない時には相手に非があることもある故、当然のことながら自分の至らなさを追及して追い詰める必要など更々ない。
 羞恥とは相手に対してこちら側に齎されることを必要以上に期待し過ぎることで、相手を最大限に信頼し過ぎることから作られる。つまり、羞恥とはあるものである、というより、そういうものを発動させてしまう様にこちらから常に作られるのだ。羞恥とは我々自身が作ってしまうものである。それは端的に相手がこちらに期待しないのと同じ様にこちらも相手に期待せず、必要以上の負荷をかけないでおくことで避けられることである。
 その根拠とは端的に相手とは自分ではないということに尽きる。相手は自分にはなれないし、自分もまた相手にはなれない。だからこそ相手に対して期待しないこと、期待して相手のこちら側への出方自体に甘えてしまわない様にすることは大事なのだ。つまりそうすることで相手もこちらに期待し過ぎない様になるから、我々は大きな失敗でない限り相手から多少の過ちを看過して貰える様になるのだ。厭そう意識的にしていくべきなのである。
 本章の結論の様なことを述べるとすれば、相手に期待し過ぎて負荷をかけ過ぎることが、相手に羞恥を齎し、又それが引いては自分自身を追い込むという状態を作る。従って相互に期待過多でない状態をこそ常に自然である様にしておくことこそが、あらゆる必要以上の挫折を味わわずに済むということに他ならない。
 我々は他者の心に羞恥を呼び起こさない様に期待し過ぎず相手に精神的負荷を与えない限りで、自己を相手からも他者一般からも期待され過ぎない状態を常とすることによって自己の至らなさを必要以上に責めない自分を形作ることが出来るのである。
 相手を知りた過ぎることによって相手に羞恥を呼び起こすということが相手に期待し過ぎるということに他ならない。相手に期待しなければ相手もこちらに期待しない。そうすれば私達は相手に対し羞恥を感じることなくいられることが出来る。<注、相手とは世界そのものであることにも注意して頂きたい。世界とは社会から構成され、社会とは全ての自己にとっての相手、つまり他者によって構成されている。>

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