Sunday, January 3, 2010

〔羞恥と良心〕第二章 悪と責任

 とは言え、私たちは常に私的な感情に流されて公的な意味でも私的な意味でも生きていけるほど社会自体が個人に対して寛容でもなければ、ある部分では惹かれていくものと、その惹かれることを他者にはそう容易に告げることが出来ないで、密かに惹かれるということの二つはしばしば両立し得ることだろう。つまり公的な場所とかで公言することを憚られるからこそ、惹かれるものには魅力があるのであり、逆にそのことが共に似た趣味とか、似たものに惹かれるということが、共犯関係的なニュアンスから一層親密になるということがある。
 さてこの二つの心の作用、つまり惹かれるということと、そのことを公言し得ないということは、時としてしかし社会全般の判断からすれば、決してその者の味方をすることが出来ないような場合もあるだろう。つまりそこに社会的責務とか、共感という私的感情を抑制することを社会全体から、あるいは社会通念において求められることもある、という意味では悪というものの魅力とか、逸脱者に対する共感は、時には否定する必要がある、深情け的な対人価値規範というものは、時として警戒されるので、周囲の皆が否定するような雰囲気の場合には極力その者に対して共感を示すことを控えるということはあり得る態度の採り方だろう。
 つまりそこに私的共感という奴と、公的な価値規範に対する順応や、体裁だけでも合わせるということは分離していて、時には後者に合わせるということがあり得るだろう。
 つまりだからこそそこに私たちは責任という概念を考える必要性があることになる。
 つまりある行動において、時には個人的感情を抑えるということは日常的にあり得ることなのであり、自分の嗜好を犠牲にしなくてはならないことというのは社会ではしばしば生じる。それは理念的な意味合いから、自らの社会信条からそうしなくてはならないこともあるし、本当は惹かれる者に対して拒否反応を自分以外の他者に示したりする必要がある場合というのは、例えば自分がお世話になっている人に対して気を遣うということであり得る。つまり世間体以前の、適度の親密度の高い人に対して合わせるということは充分あり得る。そこで自分の嗜好を抑えるようにして真意を語ることを控えるということは往々にしてある。前者は社会倫理的なことであり、後者は私的な事情による。よって責任というレヴェルでは前者により比重がかかっているわけであり、後者は柵ということになる。この柵という奴は、余程社会的に成功していて、充分黙っていても定収入があるような人にのみ逃れて生きることが許されるものであり、通常殆どの人はそれを除外したら、生活自体が成り立たないということがあり得るのだ。だから後者の場合は責任ということとはいささか違う。
 つまりここにある意味では半強制的な良心というものが生まれるのだ。それは仲間のよしみとか、要するに付き合い上での礼儀とかそういうことなのだ。だからこれは当然世間一般の良識に根差しているし、世代毎の礼節の尽くし方は異なってくる。
 しかし良心とは責任というレヴェルで取り払われる倫理的な水準のもの(社会正義的な大局的な認識)ともっと私的な親密度に応じた対応とではその性質は異なる。と言うのも前者はより公平であり、贔屓をしないということがあるが、後者は積極的にそして主体的に親密な関係のものを優先するということになる場合が多いからである。
 だからよしみである人間関係においてもかなり弊害となるような親密度というものも世の中にはあり、そういう場合別にやはりお世話になる人がいたとしても、そのお世話になる人それぞれは全く考え方も違い、思想も違い、性格的相性も悪い場合すらあるから、それらの間を掻い潜って双方と巧くやることすら社会では求められる場合すらある。
 責任とはそういうそれぞれの違いに応じた対応における礼節ということに内在している。悪とは逸脱した個性に対して応援するような贔屓感情もあるが、端的に責任上形式的に公的な意味でお世話になっている人に対してなされる礼節そのものに払われる真意とは別の対人処理という形で実は実践されている。つまり適当に対人関係をこなしていくという知恵に、その処理の仕方に慣れた成員と、そうではないタイプとの間に多くの世間的な対応に類する上手下手が顕在化し、他者に与える印象も異なってくる。つまり差が出てくるのだ。だから真意の暈し方そのものが技巧的でありながら、その技巧を感じさせない対人術こそが悪意ではないにしても、許される悪として社会通念上では暗黙の内に多くが認めていることなのである。
 つまりそれは対他的に必要悪的に払われる<許された悪>、つまり全ての成員に対して本音で接することなど人間には出来ないから、ある成員に対してこれこれこのようなことについては真意を語れるが、別のある成員に対してはそのことについてはあまり真意を語れないものの、別のことについては真意を他の誰よりも気兼ねなく語れるということがある。
 つまりその種の各人に応じて接し方そのものを使い分けるということそれ自体があまり難なくこなせるということ(技術)は世間的に巧く渡っていくという最低限の責務的な知恵には必要とされている。だから不文律的な意味でこの世間とか社会一般には、許される悪、と言うよりもっと積極的に最低限のマナーとして心得ておかなくてはならないタイプの対人処理法というものは、必要とされる最小限度の悪なのである。その最小限度の悪と責任を巧くタイアップさせて社会生活を成立させるということが求められているのは、どの成員においても変わりないだろう。
 だからこそ逆に本当の意味で人がどう言おうが、自分にとっての主観的価値としては、世間的な意味で、あるいは社会全般から白い眼で見られている人物に対して自分だけは真意ではそう責める気にもなれないということは、一般的には悪とされる者に対しても、自分だけは悪として捉えることが出来ないわけだから、良心という形で他者からは捉えられても、もっと本能的なレヴェルのその個人に内在する感性の問題なのである。それは人格的、性格的、資質的な相性とかの問題であり、社会的責任に密着した良心であるよりは、意志選択的な共感と言った方がいいだろう。
 私たちは人生を物語として生きる。思い出、後悔、期待、満足といった全ては、存在者が存在している事実に対して、自然なものであるとか偶然的なことであるということから感じるやるせなさを確固として価値、意味、目的のあるものに変えるために人生を物語として生きることを密かに決意する。それは殆ど無意識の内にそうしているのだ。そうして作られた人生という物語の中で出会う全てのものを「世界」と位置づける。
 自らをビジネスマン、公務員、教育者、文学者、科学者、格闘家、エンターテイナーといった位置づけを与えながら、その方針に沿った目的に従事しているという意識で、責任を果たそうとする。その責任は目的遂行のためには些細な私情を犠牲にするという美学によって構成されている。個人的感情を抑え自分の嗜好を犠牲にしなくてはならないという社会倫理的なことを私的事情より優先するという責任が、ともすれば私的場面では良心を発揮したり、あるいは贔屓する者やものに対しても拒否したり、ネガティヴな価値を他者に示したりするものもまた、羞恥である。原羞恥が呼び起こす原音楽的な羞恥である。
 つまりこの場合私たちは悪を構成することを可能とするエネルギーと能力を最低限のコードに自己を随順させるために責任によって発動させる。そしてその責任とは、原羞恥的な私情に対する克服を旨としている。原羞恥的私情では贔屓したり、拒否感情を抱いたりするものに対しても、それぞれ否定したり、賞賛したりすることが往々にしてあるのは、端的に原羞恥的感情を原音楽的な言説や通念や社会へ自己を同化させるためにそうするのであり、あるいはそれらの価値や存在理由を他者‐自己の相関の中に位置づけるからである。これは原羞恥(本能的な感情を育むもの)に対する原音楽的な客観化に他ならない。ここに思考と言語がかかわる余地があるのだ。
 つまり物語とは実は私たちの胸中には他者と遭遇した時に既に立ち現われているのである。つまり生きるということが既に一つの哲学であるような意味においてである。
 生きることそのものが一つの物語であるような視点から現実を見ることから、私たちは私たちに固有の物語を生きる。それは私にとっては私の物語であり、それが私の世界であるし、あなたにとってはそれがあなたの物語であり、それがあなたの世界である。そしてその二つの間には常に越えられない壁があり、その壁のことを我々は互いに知っていて、その見えない無数の壁の存在こそが私たちを私に固有の感じることという羞恥、つまり原羞恥を作っている。そしてその原羞恥を克服するためか、あるいはその存在があることを「ないことにする」誤魔化しによって私たちは原音楽的に他者に協調する。つまり「合わせる」わけだ。その時私たちは自己内の羞恥という事実自体を知らず知らずの内に客観化している。それが意思疎通し合うということであり、他者と語るということなのである。その自己内の羞恥を客観化するということが責任となる。責任はだから原羞恥的な欲望レヴェルの感情に対して「ちょっと待てよ」と自己内で対自的に囁く原音楽的な対他戦略なのであり、その際には本来なら贔屓したくなるような対象に対してさえ悪を発動させるためのエネルギーを利用して私的価値を剥奪し、公的な水準でそれらを評価しようとする。
 だから悪を発動させるエネルギーと能力は責任という名の他者‐自己との間での意思疎通において払われる意識に大いに活用されると考えればよいのだ。
 私たちは知らず知らずの内に悪を発動させるエネルギーと能力を羞恥の払拭と責任遂行という原音楽的な決意の下に利用する。そしてそのためには時には親しい間柄の人間に対しても素知らぬ振りをしたり、贔屓の者を揶揄したりさえする。それは本能的自己防衛であるが、ある意味では自ら作り上げた人生という物語に対してそうしながら内奥の自分でも気がつかないでいて、気がついても気がつかない振りをし続けるようなもう一人の自分に対して畏怖を感じる<自分の中のデーモン的な要素>の存在という不合理に対して、自分という物語における論理の合理との間での帳尻合わせのためでもある。

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