Tuesday, July 8, 2014

〔羞恥と良心〕第三十章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart2 慣用性への疑いと再創造

 先々月くらいにある芸術家の個展を鑑賞しに行った時その芸術家からある左翼活動家は一切言葉の語呂とか五七調を否定し、そういう文章は書かないという信条で居るという話を伺った。その話は極めて後々迄印象に残った。
 何故なら常日頃私はその事をずっと考え続けてきていたからである。
 私は詩を書いているが、詩自体は言語的創造である。従って書く側は真摯に何を詩を通し伝えたいかを考え、通り一遍の慣用句を避けねばならない、という事が詩人の使命としてある。しかし同時に一体何を伝えようとしているかに対して読む側が余りにも戸惑ってしまう言葉の選び方も避けねばならない。
 だがこの事は極めて困難な作業である。
 当然であろう。詩自体が言葉の創造と言っても、言語自体は自分自身の創造ではない。新種のプログラミング言語を発明しても、それはあらゆるシステムエンジニアをはじめとする関係者の間では通用するものでなければならない。それは私的言語であってはならないのだ。それと同じ事がかなりハイブローな詩の研究者に対してくらいは、読めるものでなければならないという事として言える。だがハイブローな詩の研究者は詩を客観的に分析する事には長けていても、優れた詩の創造者ではない。だから詩人の間だけで通用すればいいのかと言えば、そうも行かないのだ。結局詩人自身が言葉というある意味では極めて因襲的なツールを通して何かを伝えるので、結局詩人以外の人であっても誰にでも理解出来る様な言葉の選び方を選ぶだろうから、詩人だけに通用する言葉等という事自体が幻想という事になってしまう。
 其処に詩人の良心と、革命的な言葉の選び方をしたいという野心的欲求があるにも関わらず、それへ羞恥も介在させず暴走する事も同時に避けたいという職業的欲求もあるだろう。
 日本語にはこういう時にはこういう風に言いましょう、という様な慣用句が多く存在する。だがそういう事を熟知している事は、それ自体は俗世間的知性の踏襲という意味で無駄ではないが、同時にそれは凄くクリエイティヴではないと言える。寧ろあらゆる歴史的な大きな出来事から日本人が学んできた「君子危うきに近寄らず」的な訓戒や教条を知っていつつも、敢えてそれを使用せず、あくまで自分の言葉で何かを伝えなければならない。その結果、其処に読者が勝手に故事や教訓、諺を読み取っても、それは自由である。しかし少なくとも詩人は理解させるのに必要な伝統踏襲的手続き(短歌も俳句も規則がそれに当たる)が必要であるし、その上で自己に固有の言葉の選び方をしなければいけない。
 ある部分哲学者は国語も文学も無視して彼等だけに固有の哲学概念、哲学的観念だけで世界を再構築しようとする人達である。従って文学をよく出版する出版社に哲学的文章を投稿しても没になる可能性は高い。最後迄読んでもくれないかも知れない。結局哲学者は哲学書専門の出版社に掛け合うしかないという事となる。 だが哲学者が世界に対して国語よりも文学よりも論理それ自体を重んじる様な一つの在り方は在っていいし、そういう風に詩人も従来の文学や、国語的因襲を批判したり、否定したりする様な言葉の選び方が在っていい。
 だが、にも関わらずその言葉の選び方は百%その詩人の創造ではないのだ(この点は哲学者もきっと同意するだろう)。創造者の良心とは、それが一般の創造のプロの間だけに通用する様なものではない何かを提示する事である。同時に彼等の羞恥とは、とんでもなく誰もしていなかった事を詩を通してしたい、という強烈な野心を創造契機として認めつつも、その野心の末にとんでもない独りよがりに陥る事だけは避けたいという気分を羞恥が作っている。
 どんなに独創的でもそのものが何処かでは制度への批判になっている、と言う事は制度の側からも理解されるものでなければいけないという事を彼等は知って居る筈だからである。だからこそ詩人とは、いい作品を提示したい、それは決して因襲的な陳腐なものであってはいけないという創造者の良心を持っているものの、それでいて独りよがりではいけないという職業的羞恥も持っている筈なのだ。
 すると七五を巧妙に避けようと思っていても、それが何処かでは七五調をも育んできた日本語の構造には添っていて、尚且つ七五調にはなかった別の調べを要するという事は言える。或いはそれどころかそういった調べを一切拒絶し、純粋な意味だけの提示を最小限度の語彙だけ使用して伝えようという目論見も成立する。しかし後者の場合でも恐らく彼は何等かの調べを消す固有の彼自身が発見した調べを獲得していく筈なのである。それは動きを止めた動きとも言えるし、流れの堰き止められた流れとも言い得るであろう。 在る意味で全ての創造は創造を拒否する部分もある。つまり伝統踏襲とは、伝統が発生してきた過程(歴史)を何処かで無視して敢えて現代で古典が生まれた時代のメソッドを流用する事なので、非踏襲的であるとも言えるのだ。逆に現代には現代なりの歌舞伎を追求するとか文楽とか神楽をするという事は、伝統が発生してきた推移の中で培われてきた精神には準じるという事でもあるのだ。
 その点では独創性と伝統踏襲性とはパラドックスの関係にあると言えるし、矛盾した相補性を持つ、と言える。
 つまりあるメディアを利用する時、其処に時代への読み(今生きている我々の時代)と、洋画なら欧米絵画の歴史、ロックなら二十世紀の歴史を知るという意味で歴史の中に位置する現代という時代の読み(あるメディアや方法論やジャンルの発生した歴史と同時に今それをする意味への読み)があると言えよう。(つづき)

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