Friday, July 11, 2014

〔羞恥と良心〕第三十一章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart3 感性論と理性論

 羞恥とはかなりの部分体制的、革新性や創造性とは無縁の保守的な慣習踏襲性に彩られている。それは創造的見地から言えば無思考的である。 つまり創造性とは羞恥を払拭する必要がある、という事だ。創造的言語であるとは、言い回しとか慣用句の常套的利用とは対極の、慣例性への批判であり、無思考的に保守的思考を軸とした常套的説諭、常套的纏め方、在り来たりの論理思考の運び自体を否定する。
 ところで概して芸術とは全て形式へと昇華させる事がクリエイターの目的である。だからこそ二十世紀にはインスタレーション等も勘案され、それも又一つの表現形式となった。ニューメディアアート以降のアートムーヴメントは従来迄のメソッドや新しいメソッドの総合であり、アート自体の持つ形式性の知的綜合を通したアートメッセージの読み直しである。
 哲学も又論証性や推論といった事に纏わる論理思考性それ自体の論文的統合である。哲学は我々にとっての生や世界や空間や時間を形式的に、戸田山和久の謂いを借りれば概念工学的な見地から形式的な再構築(世界等がどうあるかを言語的に解説する事)を追求する事である。 この芸術、つまりアートと哲学の形式性に対して常に言葉自体は言語という論理形式を我々は借りているにも関わらず、その形式自体ではなく、その形式を通して伝えたい内容の方へ意識が行く事を概ね我々は自動的に(無意識的にと言ってもいいが)行っている。
 文学はその自動性と形式依拠的事実自体への認識との両方が重なって統合されていたり、比較的に配置され対照性を示したりする事それ自体の事である。
 日本語に拠る娯楽表現での言い回し、慣用句、言葉の運びそれ自体の韻律や調子の全ては歌舞伎、文楽、落語、講談等のジャンルに誰に対しても伝わる様式が確定的である。つまり其処には羞恥の払拭ではなく、羞恥を保守し、誰しもが身構えて創造しなくてもいい様な聞き心地の良さが込められている。それが一般的娯楽の定型である。都都逸もそうだし、追分もそうであれば、歌舞伎より古い歴史のある神楽の所作、リズム、全てがそういった日本民族にとっての鑑賞している時の心地良さ、それは祭りの囃子等と全く重なっている民族的文化コードに随順している。
 短歌・俳句・川柳にはそういった様式的伝統的踏襲という意識が前提されている。だからこそ再解釈とか再創造の際には本家どり的な事が一つのチャレンジとなって為されるのだ。
 だが理性論はそういった民族生理的な感性論とは常に真っ向から対立する。だからこそ言い回しとして言いやすさや聴き心地良さ等よりずっと重要な意味連関的な伝達事項の意味真理の構造的正当性が求められ、それは正統的とか異端的とかの二分法とは無縁である。
 要するにそれは表現娯楽的ではなく、従って民族情感的だなどという事でなく、正義論的、社会倫理的な義務的な事と相通じる。表現娯楽が権利享受的だとすれば、メッセージの正当性の意味真理論では権利の感性論とは真っ向から対立する義務の理性論となる。要するにそういう意味ではカント的である。定言命法的なのである。
 その意味ではメッセージ論的には近代以降の民主主義社会的な理性主義こそが五七調等全ての表現娯楽的な言い回しや聴き心地良さを否定する最大の存在である。
 日本人の判官贔屓に似たものは韓国人にもある。癸酉靖難(ケユジョンナン)以降の歴史的推移の中で奪門の変で若干16歳で悲劇的死を遂げる端宗(タンジョン)を後の第十九代国王粛宗(スクチョン)の時代にやっと名誉回復が為された。
 Wikipedia記述に拠ると、<秋益漢は前漢城府尹(現在で言うところのソウル市長)だった。時々端宗に山ぶどうを捧げて一緒に詩を作った。端宗が死んだ日、秋益漢の夢に白馬に乗った端宗が「太白山(韓国の山)に行く」と言って消えた。そのことから、韓国の民間信仰では端宗は太白山の神になったと信じられている。>とある。これ等は日本人の源義経贔屓、判官贔屓(頼朝より好きだという意味で)との共通性がある。<勧進帳>、<義経千本桜>等の世界観と韓国パンソリ等との共通性は確かに命題化してもいい比較文化論だ。
 だがそういった熱い民族意識的気分(それはしばしば民族対立、国家間の軋轢さえ生む)と、グローバリティのある正義論や理性論、とりわけコミュニケーション的な倫理論とは対立するものである。
 日本人にとって凄く聴き心地の良い響きとか語調、語呂等の全ては韓国語(ハングル)にもあるし、それは説話的なもの、物語的な筋の運びや比喩allegory等にも心地良く響き、理解しやすいものがある。そういった種的(田辺元『種の論理』的意味合いでの)感性論と対立する理性論とは、言ってみればグローバリティに拠って成立する。だがそのグローバリティとは本当にそれ程信用出来るものなのだろうか?
 その点では確かに羞恥を隠蔽する心地良さのある種的感性論と、グローバルな正義論にも支えられている類的理性論とは対立するとは図式的には言い得るも、その二分法自体に正当性があるだろうか?次回はその事から考えてみたい。

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