Sunday, July 6, 2014

〔羞恥と良心〕第二十九章 メッセージの時代 読むとはどういう事か?Chart1

 二十世紀は十九世紀の産業革命以降のメディアの発達が異様に為された時代だと後世から振り返られるだろうが、恐らく全ての文章の世界のプロ達自身が最もプロではない普通のSNSのユーザーやウェブサイト全体の世界的動向からもの凄く影響を受け、文体から言葉の使用の仕方、語彙の選択の仕方に至る迄啓発されていく事は益々多くなるどころか、最早かつての文章家という様なプロの在り方とは全く異なる言葉と文章の構成の仕方が定着していくのが今、二十一世紀ではないだろうか?
 そもそも駅の構内や街角に多く観られる看板や場所の目的や意図を表示する掲示板等の全て(新幹線車内の電光掲示板も含めて)は指示的なメッセージである。だからそれはここから先は危険だから足を進めてはいけない、という様なものだったりするし、タバコを買った購買者はタバコの箱に吸い過ぎには注意しましょうという表示を、余り吸い過ぎると健康を害しますというメッセージとして受け取っている(尤も最後の例は少し購買者へのメッセージとしては矛盾しているが)。
 メッセージはある意味では「~しましょう」という訓示であっても、そういう事の良心的薦めであっても、自主的にそうする事を促す意図があるので、時にはそういうメッセージに異様に違和感を覚える哲学者でエッセイストである中島義道等から痛烈な批判が加えられる事もある。
 だから論文や小説やエッセイ等の文藝ではそういう「~しましょう」というメッセージは一切形式的には書き込まれる事はない。それらは薦めではないのだ。では何かというと、ある時代のある時期に、ある内容を持った論文や文藝作品を通した、ある出版社を通してこれこれこういう主旨のものが書かれてあります、というあらゆるその出版物に関する宣伝媒体を通したメッセージであり、「~しましょう」と言う事はないが、ある時代にある出版社がある内容の本を世に問うという形で、既にだからそういう興味を惹かれるものには関心を持ちましょう、という間接的なメッセージである。それは「~しましょう」と書かれていないから、却ってそういう自主的に自分がそれ等を読んだ後に何かを感じて、その後の人生にどう役立てるか(只息抜きに読むという事も役立てる事の内の一つである)を考えればいいという促しである。
 哲学者は「~しましょう」とは一切言わない。宗教家ならこうしましょうと迄は言わなくても、私ならこうしますとか、宗教ではそういう場合これこれこういう判断や行動を為す事を良しとしますとかなら言う。
 哲学者はある部分では完全に自己の心に於ける世界への哲学的見方への飽くなき自己検証なので、当然その時々に心の中で生じた決意を反復的に書き留める。それが結果的に哲学論文となり、哲学書となっているのだ。それは必ず迷いがあるなら、その迷い自体も暈さず検証していく姿勢を彼等自身が哲学者使命として自覚しているので、そういう問いの反復をしていく事を自ら義務付けており、その自らへの義務の表明でもあるから、読む者にとってはこの哲学者はこういう事に関しては、こういう問いの仕方を自らに義務づけているのだな、という形で読んで納得する様なテクストとしてのメッセージを其処に見出す。
 そうである。メッセージとは読む者が其処から自分なりに見出すものなのである。それはタバコの吸い過ぎには注意しましょうというのとは違う性質のメッセージなのである。つまりメッセージ指示という体裁で示されていない、しかしそのテクストを読み込み、読み出す事に於いて、そのテクストを読む自分自身にとってそのテクストの存在している意味を発見する事が、そのテクストを読む自分が見出すそのテクスト自体のメッセージとしてそのテクストを位置づける(意味付ける)事でもあるのだ。
 文章には確かに言いやすさと聞き心地の良さという事が接合されているキャッチフレーズ的な言説や広告文等もあれば、逆にそういった言いやすさや聞き心地良さ自体への一切の追求を差し控え純粋に言葉化されてきた語彙の意味自体を意味構造的に伝達させる為の文章(論文の文章はそういうスタンスがメインである)とがある。勿論言語学者達は(或いは一部哲学者達も)、でもそういう風に何でも文章というものを目的性に応じて二分し得るものであろうか、とも問う。それは文章というものの持つ言語的メッセージ自体が、意味だけに於いて純粋である事自体が、一種の言葉の慣用性が与えてきている幻想でしかなく、そもそも言葉の意味に正統や異端、厳粛さと寛ぎとが在るという事自体が、既に正統や異端を示すのに丁度いい語呂や音の響きや連なりを我々が選択しているという語彙使用習慣、言語使用日常性事実自体とが不可分な関係で一体化されている、と考えている節も凄く在るからである。
 「~しましょう」と抜け抜けと良心的お上の如く言い放つ事への羞恥が文化的素養や教養や知性を育んでいる。言わば哲学者や上質のエッセイストとは、そういう訓戒的、訓示的な事を差し控えつつ、実は暗に読者に自分自身の世界観的な見方を何処かで読者がそのテクストを読んだ事を思い出す事を通して癖の様に定着させる事を望んでいるのだ。これは書くという事に内在する決定的なナルシスである。だからある商品が販売される中でその商品に決定的に良いイメージを付帯させる為にコピーライターやCFクリエイター達が動員される様に、どんな硬い内容のテクストでもある時代のある時期にある固有の内容や主旨の論文を発表するという事が執筆者である著者(筆者)とそれを編集して出版へと漕ぎ着けている出版社のスタンス自体を、我々は一冊の本を紙素材の出版物であれウェブサイトの電子書籍であれ、それを手に取った時にメッセージとして受け取る事を習慣化されてきているという意味では、読むという事が筆者や著者の思想を読む事だけでなく、その筆者思想を読み取ろうとする一般読者である我々自身が、文章の送り手だけでなく自分達自身という受け手こそが、最終的に一つのテクストを通した思想を完成させる担い手であると自覚を得る、という事が一つの受け手固有のメッセージであり、それを感想としてブログに書く事もそうだし、それを実際に筆者や著者達が読もうが、読むまいが、その行為選択も又一つのメッセージとなる、という見方が容易に成立し得るメディアとウェブサイトとがシナジー的に連携作用を構築している時代に我々は生きていると言う事が出来る。(つづく)

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