Sunday, January 10, 2010

〔羞恥と良心〕第三章 良心という物語

 私たちは社会という仕着せに対して無頓着に生きることは出来ない。だから気がついた時には半ば自分の意志であるかのように何らかの教育機関とか何らかの集団の一員として位置づけられるが、それを強制という風には感じることはその段階ではなく、寧ろ慣れ親しんだ末に何か自分の周囲に問題が発生した時に「私たちはこのように強制的に社会の一部に組み込まれている」とそう感じだすという次第である。
 だから何かをいけないことであるとか、何かを潔いことであるとか、何かを積極的にした方がいいことであるとかいう判断が果たして純粋に自分の考えだけで下したことなのかということを問われれば、何と返答したらよいのだろう?ではその自分で考えたことというのはどういうことを指すのだろうか?つまり完全に自分の考えなどというものが果たして成立し得るものなのか、それとも全ての自分によって下された判断が自分の考えではなく、ただどこかにかつて存在した考えの引用であると一々考えることには意味がないのだろうか?
 それを問われるなら恐らく、自分で考えたことというのは自分が他人の考えに対してその都度どう思うかということでしかないのだし、だから当然完全に自分の考えなどありはしないし、そして最後の問いに対してはそう考えることはニヒリズムに陥ることさえなければ重要なことであるとだけ言い得るだろう。
 だから世の中に存在する人間の心の慈悲心とか、愛惜とかそういった類の全ての感情は、実は本当に自分の資質から出されたものである場合の方がずっと少ない。つまりこういうことである。「あの人が気の毒だ」とか「あの人のすることは立派なので共鳴出来る」とか言う時私たちは社会全体の通念とか、それまでに社会とかかわることによって会得した教訓とかそういうものに極めて忠実に判断しているのであり、勿論そういう判断をすることの方が自分の私利私欲から出た行動へと直結する判断よりも多いということそのものは多少その人間の資質とか性格と関係があるだろうが、私はその差というものは微々たるものであると思う。
 つまり「あいつは良心の欠片もない奴だ」と誰かが言う時、明らかにそれは私たちにとって良心というものをある種共通のコードとして認識して、その認識に合わすことを知らない者と判断しているのであり、それは「彼は冷たい奴だ」と言う時の判断とも少し違う気が私はするのである。それはカントが言っていて、「人倫の形而上学の基礎付け」において彼は自分の性格とか資質から出された判断とは道徳的ではないとしているが、要するに良心という心の作用は、実際社会的な規約とか通念に対して、道義的にそれが正しいと理性的に判断されたもの以外の何物でもないのであって、「あいつは冷たい奴だ」という判断は寧ろ私的な贔屓感情とか親密な間柄でのエゴイズムにしか過ぎない場合の方が多いだろう。それは前章で既に述べた私的共感とか仲間のよしみというレヴェルにおいてよく眼にする判断である。
 となると、良心とは法規とか、責任ともまた異なっていて、責任による良心もあるが、責任とは別個に成り立つ良心もあるかも知れない。となると法的な規約による判断ではなく、人間性、つまりヒューマニズムという側面から考えるべきものも含まれることになる。
 良心ということを社会での責任という側面から見ると、良心的である行動や振る舞い(良心的でなければならないという社会的義務的観念による)の全てはどこかしら真意とも完全に一致しないこともあり、その場合偽装的な態度となる。それを私は責務偽装と呼んでいる。社交辞令もそうだし、例えば若いアナウンサーがニュースでかつて活躍した政治家の死去を伝える場合、明らかに彼らはその時代を知らないのに、知っている世代に向けて語られるニュース内容なので、あたかも自分の知っているかのような表情でニュース原稿を読むことなどは、伝える側の伝えられる側への配慮である。
 社会ゲームということを私は常々考慮に入れて考察しているが、その最大の偽装は犯罪であるが、犯罪までいかなくてもサラリーローンの借り受けが直接出来るオフィスでの受付の女性の応対にも、止むに止まれずサラ金に駆け込む人に対してにこやかな表情をするだろうが、それは相手の立場を親身になって考えてあげているわけではないからやはり責務偽装であるし、悪質な金融機関におけるケースとは、私が策謀偽装と呼ぶものかも知れない。振り込め詐欺を誘引する犯罪者による言葉巧みな演技は全てこの策謀偽装である。本当はテロを起こす気でいる潜伏テロリストが一般市民を装い、日常生活を他者から怪しまれないように送るということも策謀偽装であろう。しかしこの偽装は、ある信念、つまり「私たちのしていることは正しい」という気持ちに基づいてしているので、ある意味では責務偽装の中の一特殊ケースとも言える。しかし私は責務偽装をもっと正しいとか正しくないとかとかかわりなく、要するに「合わせておいて間違いない」という一般的な態度、所作その他の習慣的なこととして考えているので、策謀偽装とは、信念に基づいてしていることをも含めたものとした。つまり犯罪者もまた、ある意味では「こういう生き方しか俺は出来ない」という、精神疾患的な犯罪もあるが、そういう精神疾患そのものをも誘引する自己に対する物語化、例えば「俺は負け犬だ」とは「負け組だ」といった考えそれ自体に内在する対自己信念である。だからサラ金の受付嬢の態度や笑顔は、部分的には責務偽装であると言えるし、相手をこちら側の術中に嵌らせるという意味では策謀偽装であると言ったが、またそういう観点から言えばスーパーの店員やレジ係りの客への応対もまた、精神的には多少の策謀性があるとは言える。しかしそれは法外なことではないし、策略という命名には当たらないので、区別した。
 しかしある意味では一番私たちの生活において馴染みのある偽装は、学会などで、どんなに偉い学者でも、一つか二つは皆が当たり前であるとして知っていていて当然のことを知らない場合がある。それは専門的な知識に関してではなく、どちらかというと一般教養的な面でのことである。そういう場合そのことに関する話題になっても、知らない者はあたかも皆と同様自分も周知のことであるとしてすました態度をとり続けようと目論むだろう。そういう場合知らないと正直に告白することに羞恥を覚えるので、私は羞恥偽装と呼んでいる。
 これらの偽装と社会ゲームで良心が一つの体裁として、建前として機能している場合、それは良心ということがどのように介在していると考えたらよいのだろう。
 つまり本音と建前ということで言えば、真意と偽装と考えればよいと思う。つまり本音で付き合う人間関係は、若い内は楽しいが、一定の年齢を超えると、どこか鬱陶しさが付き纏うこともある。勝手知った相手以外はそう容易に信用しなくなるのが大人の一般的姿である。 
 そうなると策謀偽装の場合は詐欺や犯罪ということに繋がる恐れが非常にあるが、それ以外の責務偽装と羞恥偽装では責務においてにこやかな表情を取り繕っている大型スーパーの店員やレジ係りの態度は、社会的良心に起因するだろうし、羞恥偽装は社会的地位に相応しい態度を周囲が自分に求めるので、それに対応しながら仕方なくそうしているという側面もあるから、やはり社会が自分に対して求める態度を取り繕うという意味では、良心という物語を偽装しているとも言える。
 また社会全体がこういう気持ちで臨みましょうと提案するということがマスコミや政府によって奨励されているという状態は、戦時においては当然のことながら、平和時でも経済危機的な事態においては考えられるところである。そういう場合私たちは明らかに社会コードとしての良心という物語を原音楽的に奏でているわけである。社会風潮とかもその内の一つであろう。つまりそれに合わせる形で私たちは個人の行動も考えていることがある。それは個人の対他的な心理である羞恥偽装ではなく、どのようなサイズの集団協調ということでもそうだし、それが責任ということにおいて自らの私情を排除した公の態度で臨むということであり、責務偽装となる。それは先ほどのニュース原稿を読むアナウンサーにとっての責務のような職業的なことは、公的な水準のものであるが、地域社会とか、友人関係での場合、明らかに私的な交際とか、職業から離れた社交では社会通念とか見識とか良識と呼ばれることである。それは半私的、半公的とでも言える水準のことであろう。
 勿論意志的に努力して厭な顔一つ見せずに何かするというようなことは、生来そういうことが嫌いではないということからすると、偽装であるが、それはカント的なモラル論からすると、そんなに責められるべきことではないことになる。しかしそのことには本論では立ち入らない。
 問題となるのは、そういう良心ということが物語化するということなのである。つまりそれが正しいという形でコード化されるということは、法化、記号化されることであるから、制度的な呪縛ともなる。それは誤った傾向でそうなった場合、暴動や革命を誘発するものと化す。ディアスポラやホロコーストといった形で、あるいはエスニッククレンジングという形で顕在化することがある。つまり全てある風潮とか思潮というものは正義とか倫理の物語化、つまりその物語の共有という側面からの極度の集合無意識的な陶酔状態と言えるものなのだ。
 あらゆる思想や哲学の何とか主義というものは全てこの正義とか倫理の物語化によるものであり、それが長い間の通念や制度となって我々を救ったり、苦しめたりする。だから私たちを救ってくれるコードは私たちの思考方法にまで昇華され、やがて新しいものであっても、古典的な性質のあるものと認可され、私たちの人生の物語に組み込まれていき、逆に苦しめるものはやがてコード化された物語としては衰退していく運命にあるものであろう。

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