Friday, January 15, 2010

〔羞恥と良心〕第四章 偽装の相関関係

 ここで偽装が成立する自‐他の関係について考えておこう。つまりその成立相関こそが、羞恥の在り方を決定するとも言えるし、良心がどういう場面で発揮されるかと関係があるように思われるからである。
 次のような関係から偽装の在り方を考えてみよう。

 ①自己(個)による偽装 対特定の他者(個)
 ②自己(個)による偽装 対多、つまり集団
 ③多、つまり集団による偽装 対特定の他者(個)
 ④多、つまり集団による偽装 対多、つまり集団

 考えられるところの偽装の在り方の内で①は最も標準的なことであろう。例えばお世話になっている人に対して多少考え方とか思想が異なることがあっても、一々それらに楯を突くことのないようにその場で適当に受け流すということには、これである。そして②は会議などで本当は自分は少し違う意見なのだが、例えば全体的な流れではその会議で決議されることが、概ね一致していて、その案に一旦は従うことが、展開上必要な場合、全面的にその案が理想的ではないとしても、まずその意に沿うという意志選択は、これに該当する。そして③は最も顕著な例として、ある独裁であるか無能であると思われている国家指導者、首相や大統領に対して国民が全体的に反意を抱き、更迭とか、退陣を要求するような場合の国民の心理である。
 昨今では経済状況と、それに伴う世論、あるいは社会風潮それ自体が政治を誘引し、政治指導が経済や世論や社会風潮を形作るということが極めて少なくなってきた。と言うより昔からある部分では今と同様だったのだろう。しかし恐らく今よりは政治指導力それ自体はもっと確固とした部分もあっただろう。現代では最早政治指導という観念それ自体が弱体化しており、マスコミそのものが既に政治指導をあまり期待していないどころか、世論を誘導することに躍起になっており、マスコミが好む政治指導を求めているきらいさえある。しかし国民は一定の配慮をマスコミに対しても政治に対しても持っている。それはどのどちらも完璧ではないという形でその都度判断するということである。だから独裁や無能による国民の不満は別にマスコミの誘導如何にかかわらず、体現すれば更迭や退陣を政治指導者たちは余儀なくされる。
 ④は要するに集団の持つ群集性によるものであり、団体競技で培われる同士的な結束というものに一応合わせるタイプの意志決定であり、国家間の戦争もこのうちに入る。
 羞恥ということを重ね合わせると、①では畏怖する相手とか、敬遠している相手、あるいは尊敬している相手とか、その相手に応じてこちら側の出方を変えてみたりしながら、要するに嫌厭の情が相手に対して固有の「構え」を築き、防衛本能を発動させる場合、あるいは憧れる相手に対して固有の「構え」を見せ、舞い上がり防衛本能の極度の解除を示す場合双方にあり得る原羞恥的態度、つまり対他的な応対に付き物の「私にとってのあなたという人の存在感」の表示が示されるということである。これはどんなに隠しおおせようとしても、どこかぎこちなさが顕在化し、要するに素直な羞恥の表示となる。
 しかし多数の意見につき従う場合②には、このような表示とはまた別の、適当にその場を切り抜けるという、本当の態度を保留するということが暗に示されはするが、その暗喩それ自体はあまり大きなものとしてはその時は位置づけられていない。ただ後で「そう言えばあの時、あなたはあまり明確な態度をとっておられなかったですね」とそう判断されることがあるということだけである。つまりあまり積極的ではない形での参意というものが全てこれに入る。これは真意を悟られないように目立たないようにしているということで貫徹される意志であり、羞恥それ自体を悟られないようにするという羞恥である。
 そして③は②が裏返しになったものとも受け取れる。懸案、議案といったものに対する態度が②であるなら、一人の人物に対する態度が③である。この場合も個々で少しずつ違う贔屓感情等もあるのだが、それを抑え、大局というものを見据え、多勢に対して「合わせる」ということにおいてである。これは真意を控える羞恥的態度である。
 そして④は完全に集団内がヒステリックにある一方向に世相が動いている時、例えば昨今の金融危機の状態では、有無を言わさず全ての人が経済危機を乗り切るということが至上目的化するという意味では、「何はさておいても」という心理に全ての国民が、あるいは世界中の市民がそうなるということである。勿論そういう状態でも、「こういう時代だからこそこんな商売が儲かるだろう」と考える成員はいるだろう。しかしそれは密かにそう画策すればよいのであり、景気のいい時期と違って、そういう夢だけを公言することは憚られるということがあり得るだろう。それは何か大きな事故や災害があって、そのことを皆が真剣に対処しようとしている時に、私的な願望を語ることが不謹慎であるように思われる状況下での対処の仕方としての羞恥である。
 羞恥と偽装とはあたかも人類とウィルス、病原菌たちとの共進化過程のように相互に影響し合っている。つまり偽装するということは、偽装しないでいる状態よりはましであるという咄嗟の判断でそうしているのだ。そして偽装することの背後には固有の羞恥が介在して真意や実情を他者には知られたくはないという心理が働くことを意味する。
 誰しも多少は咄嗟に身構えるが、その防衛姿勢を解除し得るか否かは深く経験的知というものが介在している。しかし人間が知り合える他者の数というのは限られており、その範囲内で類似したケースをその都度探るというわけである。
 
 さて羞恥が偽装を招聘し、偽装が羞恥されるべき内容を安全地帯へと仕舞い込むわけだが、この判断そのものは生来のものであるのか、後天的なものであるかということは相互に密接に絡まり合っていると考えていいだろう。つまり自然選択と突然変異との折り合いをどうつけるかということと、遺伝子自体の意志、細胞自体の意志とも言えるような作用を認可し得るか否かに今日の分子生物学以降の進化論生物学の課題があるように私には思える。つまり自然が細胞や遺伝子全てに介在して、遺伝子や細胞には一切選択権がないのか、それとも自然全体の都合(この表現は擬人化した言い方だが、要するに厳密な法則と考えればいいだろう)によって変異が生じるのか、それとも変異それ自体が遺伝子や細胞の側の都合によって突出するのかという問題は、ある現象に対してどういう視点から理解すべきかということに帰着するように思われる。そのことに似た状況を実は羞恥という心の作用と偽装という心理の両者には適用し得る気が私にはするのである。
 つまり羞恥を介在させる時の真意というものは、その際に私たちが何か特定の対象、現象、事実に対して固有の感情を抱くことに起因するわけだが、その羞恥とはそういう真意である、そういう感情を抱くことがある、あるいはそういう理解の仕方をすることがあるということそれら自体を他者に悟られることにある種の顰蹙を買う可能性があるのではないかとか、非難されるのではないかという目測の下で成立するからである。
 それに対して偽装は、その羞恥を隠蔽し、平静を保ち、平常を装うことを目的とした表情、言辞その他全て対外部的に、対外的に示される態度全般に漲る他者からの印象を決定付ける表示以外のものではないので、当然のことながら羞恥内容に沿った固有の表示意志努力と戦略を要する。その際にはフロイトが考えた超自我ということも考えの内に入れておいても間違いではないだろう。確かに脳科学ではフロイトのリビドーという考え方は否定されている状況下ではあるが、理解の仕方としてそれらは尚有効であると考えても間違いはないだろう。「実際のところ、フロイトの<超自我>は、結果的に当の個人にどのような損害が及びえようとも、社会の命法こそが個人の命法になるということを意味するからである」というミシェル・アンリの言葉(「共産主義から資本主義へ」野村正直訳、法政大学出版局刊 中 第二章より)をここで持ち出すなら、その社会の命法に随順する形で、ある他者の意見につき従うとか、真意を隠蔽してそのように振舞うということの内には、つき従うことが別に不本意ではない場合でも、不本意である場合でもつき従う、つまり自分によって他者より先んじてそうしようと思う場合とは別個のものとして考えてもいいだろう。つまり真意をあまり明確に持たないということの前者のケースと、真意はそうではあるが、それを捻じ曲げて相手に合わすということの後者のケースとは、真意を捻じ曲げないで明確に持つということの前ではそうその違いは大きくないからである。
 真意を捻じ曲げるということは社会の命法に対して不満があっても、それを表明することはいけないことだという抑圧によるものであり、逆に真意をそう明確には持たないということは、社会の命法そのものはどうすることも出来ないという諦念に支えられている。
 だから偽装という形で言うなら、明らかに真意を捻じ曲げることの方によりそのエネルギーが払われ、逆に真意を明確に持たないということは、判断保留を意味するから、必然的に個人の命法ということに対して懐疑的な見解を捨てていないということを意味しよう。
 個人というものは社会の命法に対してそれを素直に受け入れるか、それとも億劫であると思うかということでしかないという判断がこの考えにはあるように思われる。

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