Wednesday, January 20, 2010

〔羞恥と良心〕第五章 羞恥と睡眠

 本来他人に対して容易に告白しえるものなど大して重要なことではない。ある種の夢の内容で他人に語れるものは概して抽象的な内容のものに限られる。要するに意味連関として客観的にその夢がどういう潜在意識を表しているのかということが推察しやすいものに限られるのだ。
 例えば私が最近見た夢は、昨日は昔描いた絵(紙に描いたドゥローイングだった)が油彩画になって完成した様子が出てきたが、それは最近取り組んできたシリーズが予想外に時間をとってしまったので、少々それを持続するのに飽きがきていたということも手伝って新たなアイデアを捻り出そうとしていた矢先に見た夢なので、その理由というものは推察しやすい。
 あるいはもう少し前に見た夢はこんなだった。ある観光旅行で深夜の特急電車に乗るために駅に急ぐと、もうちょっとで間に合うところが乗り遅れ、次の特急の停車駅まで深夜高速バスで急いだが、そこでも辿り着いてさて特急の乗り換えようと思ったところで乗り遅れ、特急は発車した直後だった。そういうことをいつまでも繰り返してとうとう目的地まで到着していまい、わざわざ先日緑の窓口で買い求めた特急券が無駄になってしまったというものである。
 しかしこの夢は(少々ゼノンのパラドックス<アキレスと亀の>を思わせる)ある程度分析可能である。何故なら私は11月初旬に出かけた京都旅行を、当初はJRの快速深夜便に乗って行く予定だったのだ。しかし行く直前になって深夜高速バス(ツアーバスと呼ばれる)のチケットの方が安価であることを知り私はインターネットと緑の窓口において行き帰りとも入手し得たものだから、その時に緑の窓口においてJR分のチケットをキャンセルしていたのだ。その時の記憶と、今私が取り組んでいる文筆活動に纏わる悩みとか焦りとか不安とかが複合化されてそのような夢を見たのかも知れないからだ。
 しかしこのようなことというのはまだ比較的他者に対して告白しやすい。もっとも他人に対して告白し難くさせる夢内容とは、端的にモラル外的な行動を自分がとったような内容である。要するに肉親を殺すとか、あるいは性的なモラルを外したような内容のものである。それもまだ他人との性交渉であるならいいが、肉親である場合すらあるからだ。
 要するに他人に告白し得ないことの方に寧ろ自分にとっては悩みの本質のようなものがあり、そういうことの方がより切実であるということである。
 
 ところで画家にとってあるフォルムが描かれてゆくということは、そのフォルムを色々あるフォルムの可能性の中から一つだけそれを選んで描いているのではなく、寧ろ最初からその描かれてゆくフォルム以外の何物も思い浮かばないような状態に画家があると言ってよい場合もある。勿論ある特定のイメージ、特定の感情を表現するために語彙を探すということもあるが、そうではなくある特定の語彙だけが予め発話する直前に心に思い浮かぶ場合もそうである。既に決定されたものだけを発話するということは、既に決定されたフォルムを定着させる画家の所作と近い。
 つまり選択ということの内には、全く異なった二つのタイプのものがあると言えるのだ。一つは他の一切の選択肢が眼に留まらないような場合、あるいは思念に入らないというような場合である。もう一つは一つに決定するまでに色々躊躇し、あちこちに行ったり来たりするようなことを繰り返しようやく何らかの形で落着させる(そうしながらも、そうしたこと自体に満足するケースと、そうではなくいつまでたっても不満が残るケースとがある)ような選択とがあるということである。
 夢とは一体その二つで言えばどちらに該当するのだろうか?何か突如出現するあるイメージなり出来事なりは、外界の知覚を休止している状態でなされる記憶内容の整理において、最初から他のものが登場する余地がないような出現の仕方であろう。しかしそのイメージなり出来事なりのその後の展開の仕方そのものは意外とあちこち行ったり来たりすることを繰り返す仕方なのかも知れない。
 つまり二つの相異なったタイプの選択の仕方を両方満喫することが出来るの夢であるということである。つまり何らかの記憶として長期保存されるべきイメージや出来事に対する意味づけそのものの試行錯誤がそのまま夢の内容になって我々のレム睡眠時に立ち現われるということである。つまり短期記憶だけ終わるものなのか、それともそれ以上長期記憶としてあるエピソードが残り得るという形で格上げされ得るものなのかという篩い分けの際の試行錯誤そのものが夢ではないのかということだ。
 しかし夢は常に一定の秩序だったストーリーで現われるものではない。もっと支離滅裂な内容の場合の方が多い。私が告白した先ほどの夢のストーリーは何とか説明が尽く範囲内のものである。そしてそういう類の夢はほんの僅かである。意味そのものもとんと説明し辛いものも多い。そういうものは、意味を履き違えて記憶していたことがある場合、ある夢に登場する道具において、その道具の意味そのものを、かつて自分が履き違えて理解していた方の意味と重なって使われるということがあるかも知れないし、本当はそういう連想をしてはいけないのだというインモラルなことに対してその抑圧が開放されて、そういう内容を夢見てしまうということもあるだろう。例えば私たちは大きな嘘を回避するために小さな嘘を、軽い世辞のようなものも含めて日頃から他人に対してつくことを躊躇わない。しかしどんなに些細な嘘でも嘘は嘘である。それらは積み重なれば潜在的に贖罪の対象と化す。それは自然と夢の中で登場する他者に対して素直に告白したり、他者から虚言を暴かれること、その際の極度の焦り、緊張などが出来事として登場しもするし、意味連関も露になっていくのだ。
 「こころと脳の対話」において河合隼雄氏は、夢で見る内容は、意味というものが通常では予想も尽かないタイプの連関で全てが繋がっているということを知ることが出来るものであると対談相手の茂木健一郎氏に対して述べている。注1

 要するに意味とはその意味連関というものにおいて成立するものである。それは概念として公的に通用する意味連関ともいささか個人史的には異なった部分がある。それは体験に根差した部分においてである。(勿論思い違いをしていたということも含めて)その体験的な知というものは、「そういうものである」と教え諭されたことどころの話ではない何らかの実存知である。だから自らの過去における羞恥的経験の幾つかさえ覚醒時にも想起させずにはおかない、しかも夢では抑制されるべき対外的な対象というものが取っ払われるので意味連関というものも、その幅を広げる。
 そのことは実は言葉を発するということが、私たちにとって一つの決意であるということを意味している。つまり言葉とは、内的に思念する内容に対する規制、あるいは検閲の意味合いもあるからだ。つまりいい大学に入学し、いい会社に就職することが命題である学生というものを考えると、親の期待通りの人生を歩むことはそれ自体懐疑の対象となり得るものであっても、そのことを表立って親に告白することは今の段階では差し控えようとしている高校生にとって「これからは部活動のことは一切忘れて、受験一筋でやっていくよ。」と両親を安心させる一言を告げるということは、そうしたいからそうするというより今の段階ではそう言って親の安心させることが第一だし、またある程度親の期待通りの人生を歩むことを印象づけることが、これから先々色々なことが人生で起きる可能性を考慮すれば、自分にとって我慢する時は我慢をするという試練を経験する上でも得策であるという判断による意志決定の合理化であり、そう親に直に発言することが一つの未来における自分の行動に関する決意でもあるのである。つまり言葉とは、意志を確たるものとする上で発話されることで、決心することに供するものなのである。
 と言うことは逆に生活している上で、私たちは言葉の決定力というものを、公的な意味での概念という規制に呪縛されているということを意味し、その呪縛は、意味連関そのものにも規制がかけられているということになるから、当然睡眠時には、そのような規制から自由になることを脳は私たちに求める。そこで夢では、意味連関そのものをタブー視している覚醒時の意味連関から、「それ以上立ち入ってはいけない」領域にまで踏み込もうとする。
 私たちは夢に対して抱くそのような見解は、実は、覚醒時に書かれるあらゆるテクストに対しての見方にも適用し得るということなのだ。つまり言説を作るということそれ自体に一つの決意というものが読み取れる以上、私たちはあらゆる文章に、それは文学者や哲学者、あるいは詩人やアーティストに至るまでの全ての創造者によるものだけではなしに、官僚や、ビジネスマンたちによる文章に至るまでありとあらゆる言葉に漲る一つの魔力について考えてみることは無意味ではあるまい。と言うのも、本音というものを隠蔽して書く文章というものがあったとしても、その本音を隠蔽しようとして、あらゆる規制を受け入れるという姿勢そのものは、その文章から読み取れるものだからである。
 つまり言葉化するということには、真意を何らかの形で他者に理解させられるように翻訳するという意味合いが含まれ、当然、私たちは文章を構成するということの内に本当のところはこういう感じなのだが、それを直接言っても理解して貰えないかも知れないので、いやきっとそうだから、もう少しやんわりと抽象的な当たらずとも遠からずの真理に置き換えて告げようという決意に満ちているのだ。そして少し話して、相手が自分の予想以上に自分の意図とか真意を理解してくれてきたのなら、その段になって初めて本当のところのこういう感じについて告げることを決意する。そしてそうしながらも、しかしそれはやはり何らかの形で言葉という抽象的なことに置き換えているわけだから、私自身が感じたこととは幾分ずれ込むということを自覚しないわけにはいかないというところが私たちが日頃察知している真理である。
 だから言葉が既に自己に対する他者という観念を、たとえ日記であるにせよ、含有している以上、私たちは言葉を書く時、言葉を発する時、必ず真理ということ、つまり状況や立場を変えても成立する普遍性ということを考慮に入れているわけである。そして夢ではそういった言葉に含有された意味の世界の規制に対して、日頃から感じ取っている本当のところのずれに対する気持ちが大々的に開放されてしまうのだ。それは当然生理的な感じ、リビドー的なことも大いに含まれる。いやそういうことの方が先に立ち、意味連関の概念化された通り一遍のことの方が背後に回る。そして直接的願望とか、全ての規制を取っ払った真意の核のようなものが立ち現われるというわけである。

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