Sunday, November 8, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第一章 ニュアンス表現の言語活動での重要性 


 私たちは日々情報の渦に巻き込まれずに、この社会に生きてゆくことは出来ない。しかし全ての情報は言語活動を基礎としているが、本来言語活動は人間にとって外在的自然の脅威と驚異を告知するためであったり、内面の告白へと転化してきた(外在的自然の様相の客観的告知が起源なのか、そうではなく内面の告白の方が起源なのかは難しい問題だ。しかし少なくとも今自分と他者<発話パートナーとしての>が共に関わる外部自然の全てが、自分と自分以外の全ての人々が同時に体験する世界であるという認識の前ではそのいずれが正しいかというような議論さえ空しい。)ものであったり、要するに外部と内部に対する認識というものは、私たちの存在そのものが自然の一部であると考えれば、私たちが知る自然とか自然の力を抽象した物理学とか、それを数値化したり、それ以前の悟性的判断による数学等の学問を考え出すことが出来る能力を付与された我々自身の自画像であると捉えることもまた可能である。
 しかし言語活動の心的な起源は、あるいはそれを形式的に支えてきもしたものの大事なことの一つは誠実性とフッサールとかサールが呼んだ告知すべき内容の真偽にかかわらず、伝える意志が真意であるということ(虚偽的申告さえこの場合意志伝達意志としては真意である。)であり、それは言語活動全般を発達させてきた最も重要な指針である(誠実性とはニーチェも考えていたが、ここでもっとプラグマティックな意味合いからフッサールとサールを挙げた)。
 私たちの言語活動が、ある固有の言語環境によって左右され、そこで生きる場として認識される以上、言語の形式の発展に纏わる何らかの真実を探求することは無意味ではない。言語活動の原初的サイン(シーニュ)として表情を重要な役割に据えるという見方は今後益々意味を得るであろうと私は確信する。まずその手始めとしてニュアンス表現をここに示そうと思うが、実はこれが最後まで基本的な私の考えの軸となっていくことを最初に述べておこうと思う。

本文
 「~するのに吝かでない」とか「~せざるを得ない」とか「~と思われる」とか「~するのを惜しまない」というような表現を「~することにした」とか「~しなきゃならない」というような通常の報告文以外にどういう風に使い分けるかという能力が、ある報告をする人間の言語能力、つまり報告能力にかかわる事態であるということはまず間違いない。それを有効に使い分けることが、ある種の報告者と被報告者の間の関係とか、相互に立たされた立場とか状況を、その時以外の状況と弁別することを通して様相の差異を表現することにも繋がるからだ。これは一種の様相論理の命題であるとさえ言える。
 つまり「AはBである」という真理が与えられた時、その真理最小値としての表現が実は背後に今述べたような心的様相を携えつつ、その心的様相を排除して、必要最低限の報告内容に敢えて転化させてきているのが「AはBである」であるということを我々はまず覚醒しなければならない。「AはBである」が基本にあり、そこからニュアンスが派生するのではない。ニュアンスは最初からあり、それを伴ってしか「AはBである」は伝えられない、という真理をまず頭に叩き込んでおかなければならないのである。それはニュアンスが伝わらなければ表現が陳腐なものになるというような生易しいレヴェルの問題ではない、ということである。
 私たちの日常に眼を転じてみよう。私たちは人間として一個の生物として欲求を持っている。それは社会人であるという意識であると同時に内的には、そういう生物学的な意味における欲望の塊でもある。例えば二人の異性を同時に好きになるという事態は決して珍しくない。しかしそういう時でも既に自分が結婚している場合、あるいはその二人の異性の内どちらかを最初に交際する相手と定めた場合などは、両方の異性を同時に交際することはよくないことだ、と社会倫理的にそう考え、内的な憧れのレヴェルに留めておこうと思ったりするだけのことであり、そういう抑制力を社会的なタブーであると文化人類学的に捉えることも可能だし、フロイトその他の精神分析によると超自我であるとしているものと関連付けることも可能だろう。しかしそれらは既に思念されてしまった「いい人だ。」という対異性感情に対する結果論的評定という心的様相において登場することでしかない。実存的なレヴェルでは同時に二人の異性を好きになるという事態を予め私たちは、「我々はそういう存在なのだ。」とキリスト教的原罪という観念に結び付けなくても、考えることは出来る。それがよくないことだ、とか戒めねばというような考えはあくまでも後付け的な思念でしかない、ということをここでは言いたいのだ。
 教育レヴェルではことに自然科学認識を醸成するのには、基礎学習が極めて重要であるとされる。数学とか物理学といった学問は、段階を踏んで、ある学習過程における学習順序というものが重要であるとされている。それは勿論正しい。しかし同時にその順序はあるレヴェルに到達すると、別にその順序ではなくても、こういう順序でもよいのだ、という認識を得るためものであると考えてもよい。つまり認識プロセスというものは、その認識を得るための方便であり、実は無限にある到達順序の一つの例証であるということを了解するために設けられた一個の試験場であると考えればよいのだ。
 だから二人の異性を同時に配偶者にすることが出来る文明も世界中で捜せば勿論あり得るわけだが、通常の国では禁止されているから、それに従うという行為選択とは、これこれこういう順序で認識を得ることを教育レヴェルでの基本方針で定めているからという事実を後日知るために実は我々は最初それに従っていると考えればよい。そのことを言語に当て嵌めてみてもよく分かる。
 「AはBである」という陳述は真理値であるとされるが、それは、「<AはBである>という事実をあなたに伝えたい」、とか「<AはBである>と一般にはされている」とか「<AはBである>ということは真理である」とかいった、要するに付帯的であるように結果的には思われる幾多の表現ニュアンスこそが、まず先験的に我々の心的様相としては浮上するのであり、そのニュアンスを敢えて「AはBである」とだけに収斂させて陳述することそのものは、実は教壇に立って先生が生徒に伝えたりする場合は、先生が言うことなのだから信用しなければならない、とか信用すべきであるとかの思念を予め発話(陳述、報告)を聞く立場の人が認知していることを前提しているのだ。しかしその真理陳述という事態には、必ず「<AはBである>であるは真理だから覚えておきなさい」とか「<AはBである>とは一般的には考えられていないが私はそう確信する」という心的様相がまず基本としては立ち現れており、然る後その心的様相における報告必要性に鑑みた必要以上以外は除外されるという道筋を辿るのである。
 だから官僚とか学者のよく使用するニュアンス表現「~することに吝かでない」とか「~のように思われる」とか要するに一般的には持って回った言い回しも実は、彼等の立たされた立場の無意識の表明以外の何物でもない、と言えるのだ。そしてその真意表明性というものは、ある程度許容されているものと、忌避すべきものがある、ということも又例えば先述の例から言えば「通常二人の異性を同時に好きになることは社会的には、そう許容されるものではない」という結論を「Cさんが好きになった」、「Dさんも好きになった」という思念の後に反省を抱くのだ。そして私たちは「AはBである」という発語をすることとなるのである。つまり真理のような何かを語る。
 だから学者がある発言をしたり、官僚がある事項を報告したり、政治家がある発言をしたりする時に彼等が細心の注意を払うことは「AはBである」という陳述に纏わるニュアンスをどう表現することがあるケースにおいては的確であるかということなのであり、明確に断言すべきケースもあれば、推測的言辞であることを明示すべきなのか、あるいは仄めかすレヴェルに留めておくべきかということなのであり、それは外的に出力された陳述の齎す外部効果をも考慮に入れた決断ということになる。しかしそれでも尚、その考慮された末になされる陳述は喜んでそうしたのか、逆に苦慮した末致し方なくそうしたのかというようなレヴェルでの真意のプライオリティーというものは無限に想定されることになろう。そしてそれは仮に考慮した末の陳述が「AはBである」というものであっても、その陳述をなす時に態度、物腰、仕種それら一切を私は言語哲学的には表情と呼ぶのであるが、要するに表情を伴っているのであり、もし仮に一切そういう表情を排除して陳述したとしても尚、そういう無表情としての陳述であるという、やはり一個の固有の表情による報告と我々は見做すのである。
 だから学者、官僚、政治家、ビジネスマンといった人々がある陳述を行う際に、その陳述をなしたことにより、あるいはその陳述内容、陳述報告態度如何によって形式主義的なニュアンス表現如何によって真意の表出(それは報告する人への信頼によってさまざまなレヴェルとなり得るが)と真意の隠蔽の微妙なバランス配分そのものの報告ともなり、その陳述の背後に控えている陳述者の立場の表明にもなり、通常大人の会話では、陳述内容そのものと陳述報告態度を伴った全体からその陳述者の立場と、そのことによる陳述者の感情を読み取ること(友好的であるのか、敵対的であるのかというようなことも含めた)が要求されてくるのだ。
 つまり言語活動においては、ある陳述報告は、それを報告する立場の人が、報告される立場の人に対する関係、感情、立場上の違い、信頼度、信用度といったものが常に陳述報告内容そのものと同時に表明されており、その二つは陳述報告する者にとっても、報告される者にとっても重要なメタ内容であり、その「内容」を報告すること、つまりメタ内容こそ実は、陳述内容以前の心的様相レヴェルの報告者の真意ということになるのだ。つまり我々は言語活動において、真意を告げるという基本的に思われる態度そのものさえもが、実は真意を全て報告する必要はなく、多少の隠蔽を伴いつつ報告することが赦されていたり、あるいは報告とは本来そういうものだ、という他者認識によって醸成された意思疎通の場という認識の俎板の上で初めて報告をしている、という事実に覚醒しなくてはならない。そして意思疎通というものは、実はこの真意をどこまで語るかというレヴェルにあるのではなく、真意をどこまで相手から引き出すことにあるのかという試験場としての意味合いがある、ということなのだ。それは数学とか物理学がある認識を得るための順序が予め教育レヴェルでは設定されており、それはある程度時代毎に微妙に異なりつつあるのだが、その設定基準を設けること自体の意味を把握するために我々は何ごとに関してもある順序を持って認識を得ているということなのだ。
 言語活動という意思疎通手段とは、この真意の探り合いという試験場であるという事実は、逆に全て真意を最初に曝け出したら最早後は意思疎通の意味合いはなくなるという事実をも物語っているのだ。だから学者、ビジネスマン、政治家、官僚たちがそれぞれの立場で語る陳述に付帯するニュアンス表現は、言語を一つの競争、相互に自らの利害を得るために、利他的に振る舞いながらも、最終的には自己の側の利益に結び付けたいと願う者同士の信頼度、信用度の獲得のための手段として機能している、ということ物語っているのだ。だからどのような職業でもニュアンス表現が重要であるのは、実はそれが信頼度、信用度のバロメーターになり得る、いやそれをバロメーターにして言語活動をしているということの宣言が意思疎通であるという意味で重要なのである。
 次に我々はニュアンス表現を意思疎通の場の宣言であるような相互の同意によって言語活動をしている実態に即して、幾つかの例を見ながら考えてゆきたい。

 洗練、社会的地位安定性といったことが発話行為上でのニュアンス表現の常套的使用の一番いい例とは方言、あるいは職業毎の倫理基準に沿った言辞、例えば古い例で言えば、宮中言葉、大奥言葉、花柳界言葉、遊郭言葉であり、これらのものは伝統的にあるグループが別のあるグループに対して接触する機会(それが多いか少ないかはともかくとして)の有無によって微妙に異なるものとして発達してきたものと思われる。それは同一グループ内の同僚同士の意思疎通においてもそうだし、別々のグループに属する者同士の意思疎通においてもそうである。そして同一グループ内的な個人の個性とか、逆に異グループ間の個人の個性といったものは、おうおうにして前者は性格論的なレヴェルで、後者はグループ固有のラング(同一グループ内的秩序、法体系)の表明のレヴェルで活発に異的、個性が発揮されるものと思われる。つまり纏めると次のような図式が与えられる。

①対グループ内部的人間関係での発語=個人の個性(性格論的、個人的事情による話者間の相違)がバロメーターになる。 <話題設定基準>、<意見陳述態度>
②対グループ外部的人間関係での発語=個人が属する集団、社会の制度、形式的捉え方の個性がバロメーターになる。 <話題設定基準>、<意見陳述態度>

このことを分かりやすくするために、例えばスポーツの世界ということにしてみよう。テニスのような個人競技では、その選手たちがどこの国であれ、①の人間関係に即座に移行している。しかし体操とかそういう競技では、国体とか全日本選手権とかの場では①が、しかし世界選手権とかオリンピックとかでは②の意識がまず対外的には示される。
今食堂で午後の試合の前に昼食をとる選手同士の会話があると想定すると、当然どのような競技でも、最終的には個人の意志と能力が試され、それが目的(自己確立)なのであるが、最初に交わされる会話内容的な意味では国内選手同士であるなら、即座に①の心的様相になるが、世界選手権、オリンピックのような場では、まず出場選手同士は自分の属する国の統一的なチームの成員としての意識が、つまり②が先立つということは容易に想像される。そしてそれは国家というレヴェルでなくても、同一職業人同士の会合と、そうではなく様々な職業、つまり異種職業人同士の会合というようなレヴェルのものであっても同様である。つまり前者では個人間の存在意義が話題の中心にまずなりやすく、後者では同一職業間での常識とか世界観とかを代表して述べるという意識になりやすい、ということは容易に想像されよう。だから日本史的に見ても皇室(天皇家)と武士階級とか幕府とか異なった立場の人間同士の会話と同一階級、同一コミュニティー同士の会話では当然異なった展開と、話題設定、心的意識の設定が考えられる。勿論最終的な目的とか、友好的であるか敵対的であるかは問わず、対人関係的な意味合いは日本人同士でも外国人同士でも、同一立場同士でも、異なった立場同士でも(例えば弁護士同士、法曹界同士といったことから、弁護士と政治家とか、法曹界と経済界の人間同士とかいったこととか、被告同士、原告同士とか被告と原告の人間同士とかいったことが想定される。)相同のものがあり、それが哲学上の意思疎通の意味合いに対する認識の獲得に繋がる。しかしそれ以前的には明らかにこの同士の間柄でも同一のもの同士と異種の者同士ということでは真意表明性においても、ニュアンス表現使用様相においても明らかに異なった位相が立ち現れてくる可能性の方がずっと大きいということは真理である。
 
 それでは一旦この意思疎通の同性と異性という問題から離れて、再び陳述のニュアンスの問題にも戻りつつ、言語表現の問題に着目しながら、考えてみよう。その前に先述の事柄を簡単におさらいしておこう。
 例えば今ここに寿司職人同士がいたとしよう。その場合寿司についての職業的会話というものは想定される。そこでは百人いたら百人異なった味覚なのだから、当然同一専門職種同士のいきなり突っ込んだ専門的な内容の話になるであろう。この職業という外延をもう少し広げて寿司職人と中華料理シェフ同士の会話にしてみよう。ここでは専門は異なるが、同じ料理人同士ということになり、外延を広げた料理全体に話が話題として設定されやすいということは言えよう。今度は料理人と料理人を使用する経営者同士に会話を想定してみよう。するとここでは料理を作る立場と作らせる立場の違いが出て来るから当然職人同士の共通意識とは異なった今度は料理界全体の文化的、経済的様相についての会話が主たるものとなることが容易に想像される。そして今度は料理人(最初の寿司職人ということにしよう。)と食品メーカーの会社員の会話になると、今度は食文化そのものが話題となりやすく、今度は別の業界の職人同士となると、職人同士の個人の技を巡る哲学のことが話題になりやすく、要するに会話というものはその都度会話する者同士がその二人の共通点を探り合い、それを見出すことが容易ければ容易いほど、内容的に深度のある具体的なレヴェルへと到達し、共通点が見出し難ければ難いほど非具体的な抽象的論議に終始しやすいという、つまり同一焦点を持つ外延であるかどうかということ、そして別焦点の外延同士だとその会話はかなり困難になる。だから例えば職業が全然異なっていても尚同一地域の住民同士、同一地域で商売をしている者同士といったレヴェルでも当然外延は一にするものがあるわけだから当然話題を構成することというのはたやすいのだ。要するに意思疎通する相手とは通常それがどんなに離れた地域に住んでいても同一の目的でそこにいるわけであり、また逆に意思疎通相手とはどんなに離れた職種同士であっても同一の地域に住んでいたり、要するに何らかの共通性があるからこそ意思疎通し合えるのである。例えばある人気歌手のコンサートを見ている観客は全く住んでいる地域も、職業も異なっているけれども、その同じコンサートに集っているということが共通性で、そこで会話するとしたら、コンサートが始まる前や終了後にその歌手についての話題ということになるであろうし、同じ飲み屋で酒を飲んでいる人同士の会話は、余暇的時間のそういう場所での飲酒の習慣とか、他ではどういう場所で飲むのかというような会話の内容になりやすいであろう。要するに会話(言語行為の基本としての)はあくまで何らかの話者同士の共通関心領域の設定ということが行為性としては常に基本的に要求されるのである。
 その共通関心領域を共通理解領域というレヴェルで考えてみよう、共通理解とは、それ以外の理解が成立し得ない普遍的な真理レヴェルでの共通性であり、その条件を満たさない限り、その真理に対する理解レヴェルでは話にならない、つまり職業的レヴェルから言えば、寿司職人にとっては必須の求められる能力、それは個々人の味覚の微妙な差異を超えた、例えば寿司職人であれば寿司ねたをご飯よりも際だたせるとか、中華料理シェフであれば、ラーメンの麺が伸び切らない内に迅速に調理するとかの何らかの必須の技術的条件があるものと思われる。それは概念とか認識に携わる職業の哲学者や論理学者でもそうであろうし、平和運動家とか慈善事業家のような職種においても又倫理的な心得如何の様々な条件が案出されるであろう。そういうものとしての真理条件について少し考えてみよう。それを先述の言語表現のレヴェルから考えると翻訳家の翻訳ニュアンスと翻訳技術のことを例にしてみるのは有効であろう。
例えば今次のような英語の文章があったとしよう。
I didn’t know what method she would like to adopt to that project.
この文章を私なりに日本語に訳すとすると、
「私は彼女がどういう遣り方でそのプロジェクトをしようとするか知らなかった。」
と今取り敢えずするとしてみよう。すると今度は私が原文から翻訳した日本語を更に英語に翻訳することを誰かが試みるとしよう。その人間は例えば次のように私の日本語の文章を翻訳するとしよう。
I wasn’t afraid to be known by anyone what course she tried to choose to accomplish that project
この文章を更に別の誰かが再び日本語に翻訳しようとする。そしてその結果
「私は彼女がどういう方針でそのプロジェクトを完遂しようとしているのかを知らされないことを気にしなかった。」
と取り敢えず翻訳したとしよう。
 最初の文章よりもニュアンス的には明らかに彼女の行動に対する自分の無知に関する報告が、自分が下調べしなかったからであるというニュアンスから、やや人から知らされることが当然の筈なのに、それがなかったという非難の調子になっていることが了解されよう。自己責任や自然状態とか色々の事態が想定され得る最初の文章から一番下の日本語は明らかに外部的な圧力によって引き起こされた事態であるという認識へと表現が進化している。しかし重要なことは「私が彼女の遣り方(方法、方針その他)を知らなかった。」という事実であり、それが自己の努力の怠慢のせいであるか、外部的な不可避的条件によるものであるかはともかくとして、そういうことなのである。このようにもし仮に無限に翻訳を続けてゆくとしよう。試しに最後の日本語を再び私が翻訳したとしよう。
I didn’t need to be afraid that which way she took to finish that project.
この文章でも最初の原文のニュアンスは充分伝わるし、これは意味的には殆ど相同であると言ってよい。ただニュアンス上、彼女が何らかの方法を採用することに比重がかかっている最初の文章が、最後の文章ではそのことに関しての自分の立場に関する表明性に比重がかかっているということ、つまり当初の原文では彼女自身の事実関係に比重があるのに対して、最後の文章は明らかにそのことに関する自分の態度表明に比重があるのだ。これは第三番目の翻訳で、やや原文の事実報告内容率直性から、事実報告内容把握申告性へとニュアンスを変更したことに起因している。ここから流れが変わった。しかしニュアンスとはそれを直に報告したり、されたりした時には重大なことでもあるのだが、事実関係それ自体を確認する場合、それがどういう態度で表明されたか、どういうニュンスで報告されたり、説明されたり、叙述されたかということはそれほど重大ではない。
 つまり事実関係に関する限り、その報告というものの性質上、ある一定以上に逸脱することさえなければ、どれをとっても本質上には差し障りがないということを表わしている。だからある事実例えば2005年の「自民歴史的大勝利」とか「自民圧勝」というような新聞の一面の見出しに対する解釈が肯定的であろうと否定的であろうとも、その事実関係に対する記述さえ誤っていなければ、その新聞報道に接する国民にとっては、つまりただ事実関係を知りたいというレヴェルから言えば「たいしたことではない」のである。
 このようなある事実関係における報告を旨とする文章におけるさまざまなニュアンス上の差異をも克服し得るものを真理領域と言う。つまり私たちは通常ある陳述においては、この真理領域を無意識に指示しているのだ。だから逆にその真理領域の叙述という事態に対して、ある種の不明瞭部分が文章にあるとしたら、それは、その文章が未完成であり、不完全であるとするのだ。この文章は記述された場合であり、発語の場合には陳述となるのは言うまでもない。
そこで我々の意思疎通の真理条件の一つとして次のことが言えるであろう。
 
言語行為とはある真理領域の確定を旨とする。あるいは言語行為の意思疎通性とは真理領域の確定を志向する。

 今分かりやすくするためにこの真理領域を円によるものであるとしよう。この真理領域に沿った各表現は全てこの円の円周上に位置する。そしてその同一の真理領域を志向する表現でないもの、つまり円周から離脱したものは、この私が与えた翻訳家間の翻訳技術上の真理条件から外れ、翻訳の態をなしていないものと見做されるわけである。つまり職能上の失格というわけである。私が仮に示したこの翻訳の連鎖においては、通常第三番目の英語が意訳であるとされよう。これはその状況を知っていて、この方が適切であるというケースを除けば恐らく翻訳ミスと見做されよう。それから後はこの第三番目の英語に比較的従順である。これをI wasn’t be heard~とすれば恐らくこのうような原文からの遊離はなかったであろう。恐らくこの翻訳家は原文を記述したり、あるいは発語した人物が何らかの狼狽振りを示してこの言辞を齎したことを知っていて、そのニュアンスをも伝えるべく意訳を施したと推察することが出来る。そして本質的に良質の翻訳というものは、その意思疎通上の感情表現でもあるところのそのニュアンス表現までするべきなのである。しかしそれにもかかわらず一般に我々の社会では、その報告に関して受け取るべき価値をほんの些細な事実関係のみ、つまり真理領域の値のみを記憶必須事実として採用しているというわけなのである。そしてしばしば意思疎通行為の権利獲得のためにはニュアンスまでをも含めた言辞全体が問題とされるが、報告陳述が報告内容、報告事実として記憶されるか、記述される場合には、この意思疎通の旨、意思疎通の志向性、要するに意思疎通の外部達成的目的というレヴェルでは明らかに真理領域のみで充分ということになるのだ。しかし少なくとも商売にかかわる人々がいくら売る商品が素晴らしくても、その売る時の態度が悪ければ、態度の悪いマスターの店のラーメンがいくら美味いからと言って、もう二度とあそこの店ではラーメンを食うかといった選択が成立するような意味では、我々は決してニュアンス表現が真意か偽装かのレヴェルではなく、社会通念上必要不可欠のレヴェルで意思疎通者としての心得を踏まえているか否かは、その報告内容とか報告事実の真偽性とか記憶必要事項としての認可の問題以前に重要となる。つまり「あいつの言うことは相手にするな。」という不文律が社会で成立するようではまずいということなのだ。しかしそれでも尚表現ニュアンスも重要であるが、まずもって報告事実の事実関係の真偽が真理領域設定性においてはまず第一義に求められる、そして建前上この真理領域の設定に対して、真理領域逸脱的事項、つまり真理領域逸脱的言辞(非倫理領域的言辞)を認めないということがもう一つの意思疎通上のルールであると言えるだろう。しかし間違いとか思い違いというものは誰にでもある。そこでこの間違いに対する指摘という行為の相互認定こそがもう一つの意思疎通上のルールであり、そのルールの受容こそが意思疎通者同士の連帯ということになる。
 意思疎通上の連帯とは社会ゲームと私が呼ぶ言語行為を円滑に運営させるための成員の心得においては、間違いが派生することを前提に、一歩一歩確実に相互の内的価値システムを充足させるような行為として言語活動を位置付けたいと願望することによって言語行為そのものを価値ある行為にすることに他ならない。願望を抱くことがその願望を実現するための最も有効かつ実際的な行為である。そのためにこそ言語行為があるのだと相互了解し合うことそのこと自体が価値システムを構築している。
 我々は皆同一円周上のどこかにいるのだが、永遠に円の中心には行けない(行きたいと希求しつつも)ということをどこかでは認め合っている。もし安易に円の中心にいると公言する者がいたとしたら、即座にそれが幻想であると説諭することが親切心であると皆考えているのだ。だからこそニュアンスを伝え合うことに我々はその人独自の円周上の位置を認め合うのだ。それは「あなた(お宅)はそっちにいるのですか、私はこっちにいるのですよ。」という受け答えであるということだ。大人社会というものの現実は、この遣り取りが至極簡単に遣り通せるか否かということにおいて、全ての職業が成立していると言っても過言ではなく、永遠に円の中心には行けないのだということを認め合うことにおいてのみ大人であることを通行手形として示し合うということである。それは職業という規定を個人に当て嵌めることで、存在認可し合うということでもある。
 
 例えばジャーナリストは特有の言葉遣いをするし、セールスマンは自己がセールスマンである風に語ることに吝かではないということを他者一般に認めさせるように語るし、それを彼を取り巻く成員全員が期待していないように期待する。もし彼がセールスマンではないという風を装うとしたら、それはセールスマンとしては甚だ誠実性に欠けるということを彼も彼を取り巻く社会人全員が知っている。営業畑の人間はその了解において経済活動を円滑に執り行うように期待され、周囲の成員全員に対して期待しないように期待させる。巧い商品の宣伝は乗せられている社会成員を自発的にその商品を選んでいるという風に錯覚させることに長けている者に他ならない。だから彼の言葉遣いは外的対象としての消費者に対しては職業意識を仄かに漂わせながら、その漂う雰囲気は決して職人の頑固さとか依怙地さとかとは無縁であるべきであるという世間一般の常識に準拠しており、またそのように開発部とか製作部の人員と異なっている、つまり世間一般の消費者の目線で判断していると世間一般に認知させることを自然に強いているのだ。それこそが彼等の職業倫理でもあるのだ。他者一般に対して職業意識と職業倫理を認めさせるということは、ある意味では職業の意識を個人的に勝手に想像するようなものとしてはどの成員に対しても認めないという世間一般の常識に全ての成員の意識を結集させるように促すことでもある。それは職業人としての彼が他者一般に対して自己を位置付けることそのものが社会成員としての権利であることの主張でもある。彼はだから自己という内的対象に対しては個人的なパーソナリティーの保有者としての自覚を醸成し、世代的な感覚を同世代の人たちに対してはメッセージとして発信しつつ、別の世代に対しては世代に拘泥しないで生活していることを印象付けるのだ。その二つの行為は交互に立ち現われることもあるし、同世代の成員に対して同世代としての強制的な運命において相互に自覚することを忌避したいという欲求を表出することもある。それは世代というものはお互い何ら重要なことではないという表明をし合うために世代というものがあるのだ、と認め合うことでもある。
 同一職場において同僚、上司、部下という人間関係があるのは、そのような関係の中に自己を位置付けることそのものがどの同一職場の成員間にも共通する権利であることを相互に認め合うことに他ならない。
 しかしこの意識は一面では他者と自己を結び付けるが、一方では壁も作る。自己責任とか自己意識といったものを相互に認め合うということはそういうことだ。失敗経験は後悔を生むが、実は後悔とは良心があるからこそ引き出される現在の意識でもあるのだ。
 他者に対して後悔させたくはないという意識は、自己内で後悔しないように全ての職務を執り行うことによって実現するのだ、と相互に認可し合うことから同僚同士の結束とか友愛とか友情とかが生まれる素地となっている。後悔のない理想形を設定しつつ、それは円の中心であることを皆で了解し合っているのだ。
 このような一方で友愛的な結び付きと片方では壁として立ちはだかる自己と他者の規定がない世界では、ニュアンス表現そのものが成立しないし、またニュアンス表現のない意味規定だけの世界があるとしたら、それは実は観念上の世界でしかないのだが、恐らく機械だけが支配するシステムの世界ということになるし、無機質であり、無表情な世界であり、価値システムという高次の認識もない世界であるだろう。そういう世界には階層性も、地域的特色も、個性表現の機会も発露も見出せないであろう。しかしそういう世界を想像することは我々には出来るし、また一方ではそういう世界に安堵するような心的傾向性も我々にはあるのだ。社会そのものはゲームであるよりは恐らく事実の集合であるだろう。しかしその無数の事実世界をゲームと捉えることで世界を認識するのが人間なのだ。
 自己同一性とか他者性とかは実は人間が記憶能力を飛躍的にどの生物よりも発達させ、その能力を認め合うからなのだが、その二つは人間に責任という観念を前提として意識させてもいる。
 哲学者ウィトゲンシュタインは接頭辞、接尾辞といった言語の文法的な秩序とか文法の所在に関して大いに語ることを我々に促したが、それは言語を取り巻く社会の様相とか、規則を必然的に生じさせる人間のある傾向性とかを我々に彷彿とさせたのだが、発話者のある言辞が齎す意味を真と採るか偽と採るかというような価値判断の自由とか、感情の様相というレヴェルでは考察が不十分だった。例えば彼は使用とか了解とかの判断についてはよく考えていたから、機能主義的な認識においてはある頂点を極めたと言える。しかしニュアンス表現そのものの、発話者自身の感情の調節という生理学的な認識に関してはそれほど自覚的ではなかったと言える。法哲学的な認識を彼が採用する時、慣用というレヴェルから考察することで乗り切ろうとしたことが、後世に多大なヒントを齎したが、ソシュールの言うラングとパロールという構造的な相関性にある自己と他者との位置づけ作用そのものが慣用によって見出されるという主張としての彼の哲学は、しかし自己と他者という関係とは、実は意思疎通のためである以前に、まず相互の感情の調節であるとする認識からしか認め合うことが出来ないという現代的視点にまでは到達していなかった、と思う。我々は国家、民族、地域共同体、職業、それら一切をある固有の社会的地位の下で認識している。そのように実存的に体現されている事実を担い、請け負っているという現実は、それ自体で法的な認識を相互に認め合っていることなのだが、その事実は実は相互の感情を暗黙の内に調節し合っているということを我々はしっかりと認識するべきなのだ。
 例えば私が物書きであるという職業的意識を持っているとしよう。するとそれは私が物を書くことを他者に認めさせることの請求として位置付けられるだろう。その行為はそれ自体で社会そのものに対して私が私のアイデンティティーを確保することを請求していることの事実を周囲の全ての成員に宣言していることである。
 言語学ではヤコブソンが音韻的な詩学を実践したし、カルナップは統辞論的に捉えた。それらはしかしそのことを通して全体を把握することに対する試みであるとした時不毛な存在となる。それは世界像の認識の仕方に過ぎないのだ。それは彼等の言語である以上でも以下でもない。何故なら言語とは言語活動を通してのみ問えるものであるが、同時に活動として顕現された事実に対して全体を求めることには何らかの自己欺瞞があるからだ。彼等の言語は我々の言語でもあるが、それは全体ではなかったし、彼等もその積もりではなかった。だからこそ世界像の認識の仕方はそれ自体で一個の事実だが、事実を産む世界そのものではないのだ。全てのテクストは部分であるし、そのような位置付けにおいてのみ世界を全体として認識出来る。
 例えば言語学者のように語彙の恣意性とかシニフィエとシニフィアンといった区分けによって言語活動を捉えると、確かにそこでは世界像を認識しやすくなる気がする。しかしそのような命題論理そのものは、結果的にはテクストであったり、宣言であったり、思想的結実であったりするのだが、行為を執り行う実践者たちにとっては、その時々の大脳生理学的な空間処理であったり、情報処理であったり、時間認識の把握の仕方を求める試みであったりするものである。勿論我々がそれ等の行為から意味を受け取る時、彼等の行為に内在する感情の調節という事実に必ずしも着目する必要はないかも知れない。
 そのような生理的な感情調節それ自体をデリダのように原エクリチュールと捉えてもよいのかも知れないが、言語活動を成り立たせる何らかのヌーメノンがシニフィエとかシニフィアンと構造言語学者たちが呼んだものを二元論的に、ある意味では分裂した価値として捉えることを強いたものそのものが、我々をその二分法を無化する可能性の世界へと羽ばたかせることにもなるのである。
 イヌをイヌと呼ぶ習慣そのものが我々にイヌを意味的世界の只中に認識させてきた。ネコをネコと呼ぶことはその体系の中にある。「寝る子」を「寝る」と「子」とに分解すると、「寝る」は「なる」や「煮る、似る」や「塗る」、あるいは「乗る、載る」といった意味的世界に隣接した音素的クオリアの世界の意味であることが分かる。その私による社会ゲームとしての言語の慣用的な了解そのものの認可こそが私がその「寝る子」を固有の意味的世界の要素として認可することの宣言を通した自己の発話権利と能力の誇示として機能している。それは自発的でありながら、依拠的な行為選択である。その制度依拠的な認識の限りで私は「寝る子」と発する行為を、メッセージ伝達のための言語の機能上の利便性を認め、それを他者に対して認めさせる感情と無縁ではないだろう。すると言語表現のニュアンス、あるいはニュアンス表現というものの在り方とは、即ち慣用される表現という事実に対してアポステリオリな成果ということになる。だがその成果は必ず意味を独立した世界であると認識するもう一つの安定した選択において成り立っている。
 意味が独立した世界であるということの認識は、無意味な感情の表出によって齎されているのだ。意味が抽象された世界であるなら、意味を抽象させるものがあることになる。それは意味と出会うという行為を正当化させるものである。「寝る子は育つ」と私が実感してそのような言辞を齎す時私はその常套的な意味的世界を容認しているのだが、その容認を通して私がその言辞を齎す相手(意思疎通相手)を認可していることが意思疎通であるとするなら、私はそこに相手に対する時の感情を抜きには発話出来ないし、記述でさえ私の文章を読んでくれる人を期待していることに違いはない。そこには発話においては電話であってさえ声の表情が示されているし、書く行為もまた、文体とか論理的叙述の流れという表情が自然に滲み出ている。
 表情とは顔の感情的表出であり、声の調子による感情の調節である。その二つは連動しているし、我々は齟齬があるようには話せないし、話さない。もし齟齬があるのなら、それは言語行為を分析した時だけである。分析とは分析する対象の認可に他ならない。
 他者と出会うこととはそこに他者に対して差し向けられた表情を我々が隠蔽することなく秘密を解除していることである。表情はそれ自体で一つの感情表出であり、意味である。それは意志伝達なのだ。フロイトは自己保存欲動という観点から意思疎通を捉えた。それは存在の仕方としての自己と他者の壁を作ることでもある。元々世界の只中に放り出された我々はどこかで全てが繋がっているということを知っている。それは説明出来はしないが、真理として信じている。円の中心の定理である。しかし敵対する関係ではポーカーフェースを我々は決め込む。それは護身術であるし、自己真意隠蔽の権利主張である。その友愛的表情とポーカーフェースの差の段階そのものが信頼というカテゴリーの意味なのである。発声とは実はその表情の意志伝達の補足手段として発達した筈なのだ。
 精神科医は患者の告白を事実としては型通りには受け取るが、告白の意味を吟味するのだ。精神科医は患者の表情を読む。表情には協調、理解、友愛から、尊敬、崇拝、卑下といった全てが宿る。それは感情的なメッセージである。我々は論理とか倫理とか意味を求めるが、それらは順序から言えば、表情の存在から言えば後付作用でしかないものである。表情は実存であり、存在であり、考えそのものであり、論理前的な意味の世界のものである。上の者である精神科医に対して患者は彼に同情すらするし、威圧さえするし、彼が自己卑下することを期待もする。それらは尊敬心と裏腹の必須の感情である。だからセッション時の彼の発声は、それ等全ての感情を含む表情の上に乗せられたメッセージニュアンスの自己確認の作業でしかない。発声は真意表出によって感情のサインともなるし、意味作用的思考の誕生を促す契機ともなる。だから感嘆詞とか敬語とか命令語であるような選択とは、実は意志伝達する感情を語る表情を引き立てるものであるに過ぎない。
 発生論的には形容詞とは間投詞の発展進化したものであるとも捉えられる。感嘆語としての形容詞と間投詞は同時的共進化の産物であろう。(特化された間投詞が形容詞として定着したのではないだろうか?)
 確かにシンタックスという観点からは名詞と動詞が重要である。しかし統語的秩序として成立しているこの二つの形式に意味を盛るのは感嘆語たちなのだ。その形式に対して意味を生じさせる感嘆語世界は、実は表情の真意性の他者に対する説明であり、宣言なのだ。
 統語形式に意味了解契機としての感嘆語が付き加わり統合された時、それが文章となり、意味世界の構築宣言となる。それは言語の起源的な統合という考えの基本である。「寝る子」は比較的ミニマルなそのような統合例である。「寝る子」を選ぶということは語彙選択そのものが、表情的な意志伝達の存在意義を他者に訴えることでもあるのだ。
 だから無表情という事態そのものもまた、不貞腐れることとか作り笑いすることとかと同じ一個のメッセージなのだ。それは豊かな表情を作ることが出来ませんという宣言でもあるのだ。
 表情的実存のとんでもない豊かさと饒舌を自己弁護するようなニュアンスこそが統語秩序と名詞、動詞の多産を生んだと言える。そのカテゴリー化の過程において感嘆語のクオリア的認識が重要な役割を果たしてきたのだ。
 表情とは社会の存在の認可である。社会のない世界では表情は生まれない。ニュアンスが付帯されることそのものは実はニュアンスからしか言語行為も、どんな意志伝達も為され得ないということの確認においてしか成立しないのだ。社会があって、表情があるという回路だけではない。恐らく表情があったからこそ社会が成立したのだ、という回路も考慮に入れておく必要がある。
 例えば補足とか言い訳といった行為は、そもそも表情の言い訳として言語行為が、意志伝達が発達したという一事をもってしても必然的な人類の事実である。法とはそれ自体で一個の巨大な言い訳である。巨大な補足である。形容詞の誕生は我々の世界においては、表情の存在の有難さを理解し合う行為と相補的に発展したと考えられる。形容叙述そのものが付帯的であるような認識は、表情のア・プリオリに対して、言語のアポステリオリにおいて表情の確認と自己表情の存在の認可請求と権利主張と、宣言といった根源的な事態によって作られるのだ。それはカントの「判断力批判」のメッセージの出所でもある。
 意思疎通上での同調とか、同意請求といった事態は、感嘆的表現の進化過程によって生まれたものと考えることも出来る。感嘆語の進化によって表情の友愛は、あるいは敵対は形成されてきたのだろうと私は思う。表情はそれ自体で全てを語る。しかしそれを敢えて言語で説明することを人類は選んだのだが、何故そのように選択したかと言うと、我々は嘘をつくこと、真意を隠蔽することを一方で能力として保持してきたからである。しかしその虚偽行為は、実際全ての悪辣なる成員をも含めストレスフルであったのだ。虚偽行為の持続は生理的にしんどい行為なのだ。
 効果的な統語法であるところの全て、例えば倒置法、あるいは婉曲語法とかいったものたちは、同意や確認作業の様相的な多様性に起因する。疑問文もそうなのだ。例えば教えを請う行為それ自体は教えて貰う者の知識を認定することの宣言であるし、教える行為をなすその者の誠実性の認可であるし、率直に言ってそれは信頼性に依拠しているのだ。
 人類が表情に対してそれを事実として表現するような意味でニュアンス表現を獲得したことの意味は恐らく社会全体に対する意識、それは話者同士の協調に留まらない世界の存在の認可が不可欠であったことだろう。全体の中での個別という認識が話者同士にあったという事実が、また表情に言語を付帯させることにも繋がったのだ。本来特定の職務が誕生することとなる素地として、我々は集団と集団内の個別という観念を表情的にも言語認識的にも獲得していなければならない。もし全体の中での個別という認識が人類に誕生していなければ、我々は名詞、動詞、形容詞といった発明をすることもなかったかも知れない。何故なら我々は世界を構築する時、勿論それは心的作用として世界という区分けをすることを意味するのであるが、世界内と世界外という認識を持つからだ。世界は全体であると同時に部分にもなり得るものである。全体という観念は世界認識を獲得するに従い必然的に生じてきただろうと思う。全体と部分という認識はそれ自体世界を必要とするからである。地に対して図であるような全体と部分は、世界自体の秩序化作用の結果生じる認識だからだ。ここで言う地とは自己の存在を他者によって知ることの現実、実存のア・プリオリのことである。(地は他者一般、自己を取り巻く全環境。)
 世界自体は比較対象ではない。しかし世界認識の共有という事態は必然的に世界を区分けする認識を生じさせる。(君の世界、僕の世界etc。)その顕著な例こそ全体と部分である。
 
 言語表現に常に不可避的にニュアンスが付け加わっているという事実は、それ自体で表情がニュアンスそのものであるというア・プリオリを助長していることを意味する。何らかの言語行為をなす時我々の大脳では常に何らかの情動を感情として認識するように脳内で放出されるアセチルコリンを受容していることでもある。感情の様相とか思考のタイプはそのまま表情を構成している。それはどちらが先であるということではない。ある表情をすることはある感情の結果であると通常は考えられる。しかし逆に私はある表情を選択することである感情が生まれるという回路も考案したい。例えば嬉しいから笑うのではなく、笑う、あるいは笑う表情を意図的に作るからこそ嬉しくなるという回路を我々は極自然に採り得るのだ。常に楽しくあるわけではないからこそ、積極的に楽しくあれと心掛けることとは我々は日常で自然に選択する意志であり、意図である。前頭前野での論理的思考、側頭葉の言語認識が、ベルグソンも言うように空間分析的本能の如き数学的空間把握能力が人類に備わっているとしたら、我々はそこから全体と部分という認識を得ているのかも知れない。例えば私たちは世界を親しいものとして捉える能力がある。そしてその世界を認識することを通して全体と部分という観念を得るのだ。それは殆ど同時的なことである。統語秩序の慣用はそれ自体で、分節化作用である。シラブレリゼーションとは、空間把握における全体と部分という視覚的メッセージを広さとか周囲とか脇とか中心とかいう認識(固有のクオリアとして顕現されている)によって自覚的であることと関係があるのかも知れない。言語というと我々はつい聴覚的システムばかりを考えがちだが、実は視覚的クオリアこそが言語統語秩序の分節化作用を促しているとも考えられる。それは一種の共感覚である。
 エーデルマンもガザニガも価値システムということから脳を考えている。もし言語がある程度他のア・プリオリな知覚能力に促進されているとしたら、整理する行為とか、片付ける行為とか、保存しておく行為とか、要するに空間分析行為そのものを象徴しているとしたら、我々は言語を使用することで何らかの脳内の思考を整理していると考えられる。
 だからベルグソンが時間を空間として把握せざるを得ない人類の思考傾向こそが言語の分節化を齎したと考えることは理に適っている。人類の思考的な不可抗力、つまり視覚的秩序として時間を捉える能力が言語を秩序付けるとしたら、幾何学的空間把握能力こそが、純粋視覚像把握もまた空間分節化作用によって構成されていると捉えることを可能にする。それは実は大脳生理学的な意味から言えば、それ自体で一種の情報処理工学的な作用と言える。
 例えば視覚として飛び込んでくる像は、それ自体他の像と識別可能だ。その識別化そのものは、実は全ての存在事物対象を等価に見る見方を一方で育むこととなる。違うという認識が同じという認識を生む回路である。その際我々は言語を協力させている。言語習得のない段階の幼児でも、少なからず同じと違うという形態記憶のようなものはあるだろう。しかし世界認識がある親しさのある事物によって徐々に形成されるに従って、同一のものを異なるものの中で突出させるわけだから、その事実認識そのものが記憶になるのだ。それは要するに何を記憶して、何を忘却するかを一瞬にして選別しているということに他ならない。これは前言語的能力である。
 整理能力と情報処理能力としてのア・プリオリこそが視覚を何かを記憶して何かを忘却することの選択を可能なものとする視覚認知能力を用意する。だから恐らく脳科学者たちが考える価値システムというものは個人毎に異なるものであるが、それを糧に視覚知覚行為や聴覚知覚行為を意味あるものとする選択であるに違いない。すると言語のニュアンスというものは表情の意味付けとして意思疎通上で生じる作用であると同時に、視覚、聴覚の微妙なるクオリア感知能力の言語的置換であると考えることも出来る。
 山が見える。湖が見える。空を仰ぐと空は青い。そういった一連の風景認識は、それ自体で空間把握能力の行使である。それは外界を世界と捉える認識から生じる。山の頂上に聳える塔とか山小屋とかは山という視覚的なカテゴリーにおいて全体に対する部分像として我々は認識する。そのような認識は言語によって生じた部分もあるだろうが、前言語的な感覚としても把握し得る。その二つが鬩ぎ合っているという事実に対する認識は、言語において統語秩序とか文法を考える(勿論それらは長期記憶へとワーキング・メモリーの助力でもってセットされているのだが)ことの助けになっていると考えても間違いではないだろう。
 世界を認識することは外界の像をある秩序で見ることである。それは視覚的認識そのものを秩序付けることであるが、秩序付ける能力がそのように世界を見ることを促すと捉えることも出来る。風景とは世界を全体と部分で区分けする認識によって意味的世界として君臨するのだ。
 それは読書においても成立する。例えば「グラマトロジーについて」でデリダは言語活動においてとりわけ文字言語が記憶を助けるものであると同時に忘却する力であると捉える時、彼は恐らく全ての像を一挙に記憶することの不可能性を認識した上で知覚を行う人間の仕方について言っている。デリダが原エクリチュールと呼ぶものとは、恐らく世界の痕跡である。世界は開けているが、それは我々が世界を全体と部分で分節化する能力の保持によって「閉じられた」ものではない「開けた」ものであるとするのだ。
 エクリチュールそれ自体は言語が社会ゲームの一旦であると我々が意味付けるよりも先に実は表情の無化を知らず知らずの内に実践していることなのだ。例えば文字それ自体は意味を運ぶものでしかない。しかし文字は文字を記入した者の存在を彷彿とさせる。その時デリダが差延と呼んだ行為の痕跡という観念が生じる。しかし我々はその行為を感情の調節として執り行ったが、文字自体が示す意味は秩序として認識される。そのギャップをもデリダが差延としたのなら、我々はエクリチュールを記述者の責任の世界において捉え直す必要がある。良心が後悔を生むとしたら、責任が行為を生む。主体的行為としての記述とは、古代の壁に書かれた文字も、現代のブログやネットの文字も変わりない。そして我々がそれらを視覚的に授受することを前提に書かれた文字群は、記述者の意図をそこに読み取ることを強いる形式として我々は同意している。
 例えば文字ではなくても、視覚情報の中で記憶内容としてピックアップされるものとは全体と部分というカテゴリー認識の最中に生じる何らかの観念以外のものではない。知覚映像を知覚された像であり、脳内のニューラルネットワークの産物であると脳科学者を考えさせる世界とは、それ自体で一個の観念である。我々は言語的な意味でも、前言語的な意味でも観念としてしか世界を認識出来ない。あるいは知覚出来ないのだ。
 観念の側からは我々は言語化し得ない不可解要素をも認識する。それは強い印象となる。それは長期記憶に残りやすいだろう。最終的に定着されるイメージは現在知覚によって瞬時にピックアップされたものに他ならない。それは個人毎に異なる様相である。第一印象から最終定着映像への推移それ自体は、その事物の、対象の、世界の一部の性格として記憶されるだろう。その推移が個的なその事物、対象、世界の一部の意味である。意味は記憶されたクオリアのことである。それがイヌであったとしよう。それはイヌであり、「犬」であり、しかし同時にそれを犬と、イヌと私に呼ばせた実体のクオリアである。それはある概念の下に私を収斂させた固有の実体としての映像記憶である。つまりそのようなイヌ体験、犬体験そのものが私が後日友人に対して語るその犬の形容叙述的なニュアンスを生む。そういった行為の積み重ねが行為経験記憶となり、私に言語的なニュアンスをシナジー的に進化させる。それは私が常に言語行為を採る時の私の表情に伴われているし、私の表情をその都度意味付けもするのだ。私の感情がそのまま表出された表情を維持することを通して私が感情を調節するホメオスタシス的な情動によって感情が認識されるような認知において言語が活躍するとしたら、私の脳内の思考過程による主語概念も述語概念も、名辞化された名詞も、それを性格付ける形容詞も、原初的な私のその世界の中の事物、対象という一部の実体(あるいは実体として私の脳が認識するイメージ)を取り巻く私のその時の感情を調節する意味合いを兼ねて私が言語化したのであり、その痕跡がそれと類似した知覚経験する時私の脳内で固有のセレンディピティーを生じさせることとなる。
 すると言語的なニュアンスという考えそれ自体は、実は記憶作用と密接であることがはっきりする。ニュアンス表現とは、その時に私が示したであろう表情の意味付け作用の産物でありながら、実は記憶内容の様相を決定付ける、記憶した時と記憶を再び呼び覚ます時の、現在知覚状態の認識と必ずどこかで異質の変形を被っている時間的差異世界のことなのだ。
 言語活動はそれ自体で社会ゲームとして容認されたものである。しかしニュアンス表現そのものは、語られる事実の過去における存在の主張を伴った記憶想起の感情調節以外の何物でもない。しかし結果として立ち現われた表現そのものは感情調節された結果であるので、生理的世界のものではない、要するに意味の世界である。意味は作用した時に生じる観念である。私が発するニュアンス表現は私のその時の感情調節であるが、ウィトゲンシュタインの「探求」的立場に立てば、それが真であるか偽であるかというような判断とか、それが共同体内での約束事として成立しているのかいないのかというような判断を即座に求めるような性質の意味作用と化しているのだ。それは感情調節しながら、その行為を意味付ける我々の思惟が、一個の意思疎通という了解事項として言語行為を認可しているからなのだが、結果として意味作用化するその私のニュアンス表現の、共同体の側の了解事項に対する確認が、私の表現の全てを感情如何の価値を無化するのだ。感情の無化とは意味の定着である。意味は言語が発せられる段階では明らかに浮遊している。しかし私が何らかのニュアンス表現をなす時、それは必ず私の発言自体を他の発言や私の過去の発言等によって先後関係の中に位置付けさせるのだ。だからこそ私が発したニュアンス表現の他者の側からのクオリア的な意味付け作用が、社会ゲームにおける私の発言の価値となり、定着した意味と化すのだ。そこには必ず時間的な差がある。
 ある発話者が共同体内の約束事に適って発言しているか否かということに対する共同体の側の判断を含んだ了解事項の確認こそが、ア・プリオリにその発言の存在理由を規定する。その発言が発話されるその時同時に意味作用する事実が、あらゆる先後関係へと我々を誘うのだ。つまり意味作用する事実へ我々を伴うというわけだ。その意味作用事実の獲得こそが、発言を発話する者によって空気を構成する。ある概念、ある問題に対する提起といった全ては発話者の行為によって齎されるが、それは発話されることによってその発話が会話という文脈上に位置付けられる時、明らかに因果律を構成し、因果律の中でこそ概念把握方法も見出される。だからこそその発言の発話という事実は、空気の変化による時間論的な変化として考えられるのだ。その空気の変化が時間論的な認識を成立させる。(言語哲学というものは即ち時間論哲学であることの根拠はここにある。)
 例えば今ある会話共同体があるとしよう。そこでは四人の人物がいるとしよう。彼等にとってAの死去という事実がBによって既成事実として報告されるとしよう。つまりCもDもEも含めた全てのこの共同体の成員にとってBによって報告される事実は意味作用的に受容するに足る関心事項である筈だ。Aという人間の存在自体は四人によってのみ意味があることもあるし、そうではなくても尚彼等にとってAの存在はBによって近状報告の対象となるだけの情報化され得る価値を有しているのだ。だから仮にBによって報告され得なかったにせよ、いずれCかDかEによって相互に報告される運命にあった筈である。それは共同体というものそのものが相互の共通関心領域の共有を基軸に構成されているという事実を我々に知らせる。そして報告がなされた後、Aの死去事実は共通了解事項へと転化する。そしてその事実を問うことそのものが言語哲学の存在意義となるが、同時にここではその報告においてなされるBの表情、報告表現上のニュアンスが重要なものとなる。それは付帯された事実であるが、同時に意味作用を構成するものでもあるからだ。

 本質的に感情とは一瞬一瞬異なった唯一無二のものである。2007年五月十六日の午前十時二十二分に私が抱く感情は、それがどんなに平静なものであっても尚、その時の一回限りの感情の様相によって支配されている。感情にはその都度固有の様相がある。心的に固有の様相があるという事実が、その都度世界を異なったクオリアで認識する可能性を与えている。ある憂鬱な表情をある人間が浮かべる時、それはそれ以前にも似た経験をしていたにせよ、その時において一回的なことである。その事実は変わりない。誰かが「あいつは直ぐに興奮して激した表情を浮かべる性質だ。」と言ってその人間の例の表情を認めると、皆異口同音に「また始まった。」と言うと思う。しかしそのように揶揄された人間の激した表情は、その時において固有であるし、本人にとってもそうである。しかし私たちはその一回一回固有の表情とか、その表情の表出に伴われている感情のその時限りの性格という観念を捨ててはいけないのだ。ただ我々はそれをあるまとまりとして理解したいだけである。「また例の奴が始まった。」という風に。だから表情に伴われ発せられるニュアンスもまた常に一回限りの感情的様相と、その時に言葉を発する者に認められる固有の知覚的事実と、その知覚を促進するその時固有の知覚映像的なクオリアは、唯一のものである。そういう瞬間は二度と訪れないのだ。その事実は大切なことであるので念頭に入れておいて欲しい。
 真理値について本章の最初にとくとくと述べたが、実はこの真理という考え方にはここで私が言う意識と感情の唯一無二性を無視する試みがなされていると言える。例えば私は世界で一個の唯一無二の人格であるが、私が嬉しい表情を他者に対して向ける時、その時の私にとって私の脳内でのニューラルネットワークの発火パターン、ウィリアム・カルヴィン流に言えばクラスターの活性、不活性の仕組みそのものは他者と私を容易に繋ぐ、例えば世界中のどのような人間であれ、エンパイア・ステート・ビルの屋上からダイヴィングするとしたらその全ての人間にかかる万有引力の法則のような例外を認めない同一のメカニズムが働いているという意味では人間は個別的存在ではない。その一般化され得る真理を究極まで研ぎ澄ましたものこそ物理学であるし、心理学一般の学問的傾向であり、脳科学の拠って立つ地点である。しかし精神分析医とか精神科医とかはクランケに対してその場その時の感情を読み取ろうと苦慮するだろう。そしてそれはどのような個人であれ、意識と感情のその場その時の固有性とは、その人間固有の経験と、記憶内容と、記憶傾向と、状況判断的な性格という言わば実存的な唯一無二性に取り巻かれている。この個別性は逃れようもない真実である。
 構造言語学においてはある記号的認識の持つ制度的、ラング的(ソシュール的に言えば)、一般的な認識に関しては追求した。しかしその時に一般性と同時に個別性、つまり状況論的であり、意識保持者としての感情論的な意味合いにおける唯一無二性の奇妙な同居に関してはそれほど追求したわけではなかった。例えば私たちは誰しも誰か固有の両親を持って生まれてきている。しかし誰しも誰かが両親であるという歴然とした事実は、同時に同一の両親を持つことは兄弟姉妹以外にはあり得ようもないという事実と常に同居しているのだ。しかしその事実は次のようにも言い換えられる。私たちは固有の遺伝子の配列を持っているが、同時に遺伝子の作用そのもの、コドンであるとか、選択的スプライシングであるとか、動的平衡であるとか、代謝システムであるとかという一般性においては誰しもエンパイア・ステート・ビルの屋上からダイヴすれば万有引力の法則と、空気抵抗と、落下速度の微妙な法則性にどのような個人でも縛られているような意味で、そのホメオスタシスの仕組みそのものにおいては、欠損箇所とか個人的な難点を抱えつつも、同一の生物物理法則の網の目の中にいる。固有の遺伝子の傾向性という個別性は、要するに誰しも遺伝子の作用を避けられないという相同性において効力を発揮しているのだ。だからクオリアという認識もその場その時の唯一無二の感情によって左右されているが、同時に唯一無二のその時の感情的様相と密接であるという事実においては全ての人間の意識の瞬間は等価である、と言える。
 哲学とはある意味では不可知領域に対する態度の採り方そのものに対して苦慮してきた思考史であると言える。それは藤原隆志の「ウィトゲンシュタイン」(講談社学術文庫刊)中の「(前略)K・クラウスはことばによって、A・ロースは建築により、人々に示そうとした。ウィトゲンシュタインが『論考』の中で「言いうること」を明確にいうことによって「言いえざること」を示そうとしたのも、同じ手法による」と述べる時、私たちは例えばカントもまたそのような思いで哲学に取り組んでいたに違いないと確信する。155年の生年月日のスパンがカントとウィトゲンシュタインには横たわっているが、その両者の試みにおいては藤原の指摘が全く相同に当て嵌まる。
 かの有名なウィトゲンシュタインの「論考」の最後部の「語り得ぬものに関して沈黙せねばならない」という謂いには、語り得ぬものが何かを知り得るためにも、語り得るものをとことん語り尽くさねばならないという主張として読み取れる。
 例えば論理は非論理によって取り巻かれている。論理とは論理であらざる多くの偶然性の中から汲み取る秩序である。そのカテゴリーで言うのなら、表情は非論理の世界の住人である。表情は意図的に作るものではない。意図的な表情は意図的であるという表出によって真意の隠蔽のメッセージとして送っている。しかし表情は意識の瞬間的な唯一無二性において現在知覚と対自的な意識が常に過去を食らいつつ、現在性の意識となっているのだが、その際我々は他者に対して例えば喜びの表情をその都度作っているわけでもない。
 一回一回の喜びの表情とはその仕方をその都度変えていたら、喜びとして認知して貰えない。しかし私たちが感じる喜びの心的な様相はその都度書き換えられてもいるのだ。去年感じた喜びは今現在感じる喜びによって意味を換え、喜びという感情的なクオリア自体も常に現在によって書き換えられている。そこで我々は例えば、一ヶ月前に会った友人と久し振りに会う場合、その時の喜びの表情はその時固有のものとして堤示することを心掛けるだろう。それはその時に意図せずとも自然に湧きあがって来る所作としてである。しかし彼は恐らくいつもの通りの私の喜びの表情と受け取るであろう。私もまたどこかでその時に唯一の彼の私に示す喜びの表情を、いつものような彼の表情と受け取る。無数の唯一の瞬間の様相を常にいつもの通りだと受け取らせるものは記憶であろう。記憶内容は常に現在知覚に付き纏っている。
 会社が不祥事を起こした時に経営者の代表が記者団に向って示す反省の態度は、その時に唯一の感情に支配されている筈だが、型どおりの遣り方を踏襲することで難局を切り抜けようとしている代表の意図を我々は致し方ないものとして認識する。それはそういう時にはこれこれしかじかの態度を採るべきであるという常識があり、その常識は社会全体の記憶となっていて、その社会全体の記憶を我々が個人の経験上記憶に留めているからである。
 反省の訓示はある意味では社会的法意識に則っている。言語活動は言語認識や統語秩序を理解する先験的な人間の能力によって遂行されるが、言語行為が秩序あるものとなるためには、社会ゲームにその言語行為が機能発揮する形で巻き込まれなくてはならないのだ。
 社会的法意識は言語活動の社会ゲームへの参画という現実がその我々が本来所有する言語的能力と特質として顕現させる。だから言語活動のない法意識はあり得ないし、法意識を育まないような言語活動とはあり得ない。しかし我々は一回の事例はあくまで法的にはいつものような判例基準に照応させるべく対象でしかないが、同時に当該者にとっても、その調停者にとっても唯一なケースでもある。しかし法はそのケースだけを特別扱いすることを忌避する形で進行するように求められる。それは各個別の判例間の平等、つまり責任倫理における公正さを求められているからだ。それは以前のあらゆるケースに対する社会全体の記憶がそうさせているのだ。
 しかし個人的レヴェルでも私たちは嬉しい時には嬉しい表情を浮かべ、厳粛な場では、例えば式典会場とか、裁判ではそれなりに厳粛な態度で臨むように社会によって求められている。そしてその「合わせる」行為はあくまで個人内面ではその場その時の唯一の感情に支配されているのにもかかわらず、その唯一性を隠滅させて寧ろ公的な一般的基準に照応させるべく苦慮することを強いられている。ある意味では論理性に基づいた全てはこの照応行為に随順していると言える。例えば数学的真理もそうである。物理学法則もそうである。個別の事例を一般化された法則性と真理の名の下に了解することが求められているのは、そもそも真理値の説明箇所でも述べたが、一般的ケースとして個別の事例を照応させることで、理解促進するように言語自体が我々を運ぶからである。今日見た空は唯一のケースなのだが、だからと言って我々は今日の空に固有の名詞を付与するわけではない。
 今日の空は「花衣」であると言うのは、文学者や詩人の自由の領域であるが、それは公的な報告に相応しいものではない。それを承知で行うのが文学や芸術の自由である。
 脳内のニューラルな神経作用そのものは、ネットワークとして理解することが出来るが、同時に脳生理を活性化させる内分泌作用として理解することが出来、この二つは密接であり、二分され得るものでもない。あるいはグリシンとミオシンという蛋白質が重要な役割を果たすこととして知られる筋肉は骨と厳密には二分出来るものではなく、あくまで共同して身体の動勢を担っていると言える。それは構造的にも機能的にも二分出来るものではない。つまり身体全体のホメオスタシスと密接に存在自体も、機能活性に関してもそれらは絡まりあった作用と、存在様相を我々に提示していると言える。あるいは神経作用自体が電気信号と化学信号とが交互の反復しているということを挙げてもいいだろう。
 そういう意味では表情は内的感情とか心的作用の全てと連動していると言える。だから意思疎通においてエクリチュール等によって示された文章やその論理構造それ自体は、発話者の声質とかその人間の内的感情それ自体と意味作用性とは峻別し得るような意味で、記述者の記述する際の心理といったものは何らかかわりがないが、意思疎通上での伝達事項の意味作用の自立と独立において、実は、その意味作用を作る当の本人の内的なモティヴェーションそのものの解析は無意味ではないということを次章では扱おうと思っている。
 さて話者、記述者の内的モティヴェーションが容易に意味作用の真理値と分離出来はしないという観点からは、意味作用性の真理値さえ把握出来れば後はどうでもよいという主張に根拠を与えることに躊躇を我々は付与するであろう。
 例えばある文章の統語秩序を発語行為において採用している限り、我々は内的必然性から言語論理に忠実に発声しているのだから、当然法的な常識とかモラルといったものでも、道徳的な思念という内的必然性に基づいて行動しているわけだから、規則そのものもまた文章の真理値が文章を作成する者のモティヴェーションと容易に分離出来はしないような意味で軽視することは許されないだろう。
 私たちは敢えて規則に逆らうことを潔しとはしないという行為選択基準を携えている。規則とは違反する時然るべく必然性が内的にでさえ問われ得る可能性が大きいので、我々はそれをそうおいそれとは破ることが出来ないでいるのだ。その反則の内的必然性に対する自己了解と対他者説明責任はストレスフルな行為なのだ。
 しかしそのような規則遵守という観念の基本には意思疎通上では嬉しい時には嬉しい表情をせよという常識的なモラルが横たわっているのだ。それはマナーであり、採るべしと常にされている態度の理想値である。実はこの態度の理想値というものこそが、法意識の起源であると考えられるのだ。私たちは特別なケース以外ではそう容易くは法規に背くべきではないという倫理を価値システム論的に認識している。それは法規に背くことによって生じる後味の悪さという良心による内的抑制作用の仕業であろう。だから逆にそれでも敢えて法規に背くことを正当化するためにはそれ相応の対他者一般としての、そして何より対自己としての論理的な説明責任が求められるのだ。そしてその納得させる術の披瀝とは多大なストレスを伴うものである。そうでなければ我々は弁護士等という職務を他者に依頼することもないだろう。
 そして法規に背きたくはないという心理が言語心理学的に言えばニュアンス表現を正当なパワーたらしめている。例えば昨日休日だったサラリーマンにとって月曜日の午後はどこかけだるい感情を払拭出来ない。だからと言って職務怠慢に陥ることは許されない。しかし会社の法規は遵守する必要がある。そういう時同僚に向って昼休みを終えて職場に戻ってきた時相互に声を掛け合う時、「六時(退社時間)になるまで長いね、今日も。」と職務そのものを回避することの不可能性を怨めしく思う言辞を吐くことそれ自体は、願望でありながら今度の休日には必ず前から計画していた釣りに出掛けるぞという意気込みとは必然的に異なる決意であり、願望であるにせよ、積極的なものではないだろう。こういう時のニュアンス表現は対同僚にも、対上司にも、対部下にも微妙に消極的な願望表明であることが望まれよう。それはあまり露骨であっては好ましくないと言う当人も心得ているのである。
 しかしニュアンス表現そのものの出所は明らかにクオリアに起因すると思われる。この感覚質という概念はデヴィッド・チャーマーズによってよりクローズアップされてきているが、彼以外にも生化学者のジェラルド・エーデルマン(免疫グロブリンの作用について解明し、ノーベル化学賞受賞。)を初めダニエル・デネット(哲学者、機能主義的心の概念を提唱。)、日本からは哲学者の信原幸弘(ジェリー・フォーダーを翻訳。)、脳科学者の茂木健一郎等が挙って問題視している。
 我々は本来視覚情報を認知する過程で、論理思考の雛形を形成しているとも考えられるが、問題なのは我々が言語習得する過程においてはどの程度の空間把握能力があるのかということである。つまり空間把握能力そのものがかなりベーシックに備わっていて、それを糧に論理思考を身に付け、統語秩序をも理解することを促すのか、それとも前言語習得状態においては只漠然とした感覚だけが支配的であり、やがて今現在の我々のように言語習得することになって、その言語から得た論理思考によって空間把握をしっかりとしたものにするかという問題は残るのだ。
 恐らく幼児は漠然と自分に近い位置のものと遠い位置のものを識別することくらいは先験的に有している。それは能力としても極めて初歩的なことである。我々の日常においてニュアンスの識別は明らかにクオリア感知能力である。だがそのクオリア的感性を滞りなく伝達するためには統語秩序や、言語を文章として認識する側頭葉の言語中枢的な能力、例えばシラブルを音的にも、間隙と密集において理解する能力は空間把握における分節化能力と似たものとも思われる。それは視覚情報の秩序付けが論理思考を育む(盲人はその分皮膚感覚と聴覚が優れてシャープとなるのだろう。そこには脳の可塑性が活躍している。)という事態も十分想定出来る。
 文章においてストレスを置くこととか、大事なことをゆっくり説明するとか、周囲の語彙と間隙を設けるといった工夫は視覚情報によって空間的秩序を認識することからも促進される気がする。だからニュアンスを伝達するための文章の統語秩序と分節化作用の学習は、全知覚行為の統合的能力にも依存するということは考えられるところである。
 ただ統語的なことを論理思考として秩序付けて考える能力はある程度言語能力が進化した段階以降であり、それ以前的なこととしては我々は慣用ということ、あるいは日本人であるなら和歌、俳句に伴われている五七調、あるいは「大政奉還」とか「抵抗勢力」といった古今の四文字熟語的な語呂が耳障りのよいものとして学習しやすいということは言えるだろう。だからそれもまた学習過程においてはキャッチーな響きという要するにクオリアの感得能力によるところが大きい。実はニュアンス表現はより形容詞の文化とも言える日本語では微妙な感性によって詳述出来るという利点が民族性としてあり、その分日本語では主語を省略するような、幾分「場の空気」的な言語認識力が他の欧米人を中心とした異文化圏よりは優れているかも知れない。勿論仮定法、条件節といった体裁はどの言語にも見出される。だから先ほどの例でいけば、上司の前では言い辛いことでも、同僚同士では「長い月曜日の午後ですね。」とか軽いジョーク調では日本語も英語もそれほど違いはないかも知れない。
 しかし本章を何らかの結論めいたものとして堤示するとしたら、我々は言語行為を時間論的に捉える必要がありはしまいか、ということである。ニュアンスというものの伝達においてもそのことは顕著に示される筈だ。「場の空気」感というものとは言わば、臨場感である。臨場感というものは想起とか想念と無縁ではない。そこには無常観という観念を敢えて持ち出すことも許されるようなある種の共同体内部での共通理解という接点希求型の意志伝達行為として、例えばベルグソンの純粋持続という観念を持ち出して考えてもよい、と思われるのだ。あるいはフッサールの「内的時間意識」というものを再考することにも一理ある。
 私たちは場の空気感によって他者を認識する。他性認識の在り方が他者像を支配するということは、要するにその他者を熟知している度合いに比例して生じる経験的な認識であるが、その他性の在り方を熟知していない内は、我々は場の空気感全体を調節する意味合いで他性を認識する。だから言語行為それ自体は常に状況論的なものであるし、また他性において信頼獲得を為し得るか否かという基準は、一重に場と状況の空気感と、調節意図の有無によって決定される。例えば上司の言葉というものは基本的に尊重すべきであると誰しも考えている。長老者とか年配者とかの意見でもそうなのだが、その意見の非順当性に対してその意見を述べる者の日頃の態度とか、信頼性に応じて非順当性に対する対処法には違いが出てくる。信頼度に応じて他性認識において他者の非順当的意見に対する進言において他者尊重の度合いが高まり、逆に信頼度の低い場合は婉曲の憐憫、間接的な揶揄(コノテーション的なデロゲーション)となるのだ。そういう時にニュアンス表現のあり方には違いが生じてくる。例えば他性認識においてその他者への信頼感が手薄になれば当然素っ気無い態度の間投詞が多用され、しかも対他的に請願する語調から、諦念的な感嘆に変化するだろう。だから全ての言語行為における発言とは予め決定されて、発せられると言っても過言ではない。
 対他的な諦念には軽蔑が含まれている。しかし本来上司とは部下に対して、また部下は上司に対して対等ではない。つまり社会的相互の了解事項としての非対等性は、相互の発話、つまり対話にある壁を設ける。つまり上の者は下の者に対してある種の総合的な認識を得ることが容易な立場にあるが、その逆はない。部下は上司に対して部分的にしか把握することが通常出来ない。なればこそ逆に部下が上司に対して軽蔑するとしたら、そしてそのために見かけ上ではやんわりと同意を示しながらも、諦念的な感情を感嘆符的に付加するとしたら、それは真意レヴェルでは上司に対する忠誠心はないのだから、形式的な服従の意思表明となる。すると逆に真意レヴェルで下らない発言をした上司に尊敬心を持ち合わせた部下なら、その下らない発言に対して誠意をもって苦慮を示す表情を採るだろう。「止めてください。」という誠意ある懇願的な態度が言辞においても、発話内容的にも、それが間接的であれ示され得るだろう。しかし真意レヴェルでは服従心がなく、業務的な一環としてのみ、責任を果たすべく服従している場合、諦念的な態度が自然と立ち現われることになろう。それにあざとく気付くか否かが上司としての部下管理能力のバロメーターとなるだろう。
 言語は本来感情の様相を意味付けするために存在する。と言うより人類は感情様相の意味付けという欲求故に言語を発見したのだ。意味付けされた感情様相は自然と語彙化されていっただろうし、それは今でも着々とそのようになされている筈だ。そしてその語彙化された事実となった語彙が多ケースにおいて慣用されるに連れて概念化されることになる。
 表情とは感情の様相の外的表出であり、それが結果的に他者への自己感情様相の報告となるのだ。そして表情を他者に示した時既に脳内では発話意志を相互に認め合うこととなるのだろうと思われる。つまり発話意図の絶無な場合には対他的に感情様相を悟られまいと苦慮することが通常だと思われるからだ。
 脳倫理学的視点で活躍する世界的神経学者のガザニガは責任という事態は脳内で認められない様相であるとしている。それは要するに社会的な価値システムに組みこめられるべきものであると言うことになる。しかし恐らく人類にとって責任という事態は、あるいはその観念は原初的な倫理規定として目覚められていたであろう。それは吉本隆明的な概念規定を借りれば対においても共同においても共に共通して幻想として立ちはだかった自覚だっただろう。すると上司の下らない、的をはずした発言とか命令に対して部下が採る態度が諦念的である場合、職務的な責任感が希薄であり、対人間的にも上司への誠実性は希薄であり、規則遵守性にのみ依拠した建前的な態度の採り方ということになり、逆に上司に部下の立場からの苦慮を伝える場合、職務的にも対人間的にも責任感があり、誠実であるということになる。
 この上司と部下の立場上の非対等性に関しては哲学者のブーバーと心理学者のロジャーズの対談から得るところが大きい。彼等はサイコ・セラピストのセッションにおいて、クライエントに対してセラピストの立場は上であり、その強制的状況の特異性がセラピストの方に有利な立場を付与しているとブーバーが指摘していることに必ずしもロジャーズは賛意を示してはいないところに私は興味を惹かれた。
 ブーバーとロジャーズの対談の内容とそれが示すことについては詳しく後で述べるとして、まずそのことと関係がある人間の対話の仕方を通じた性格的傾向性について少し考えてみよう。
 ここに柔和で人の言うことを聞く態度が自然と備わり、かつ友好的態度を常々採ろうと努めるタイプの人がいるとしよう。それに対して逆に人に対してつっけんどんで、他者に対する真意に関して懐疑的なタイプの人がいるとしよう。その者は他者の思惑を邪推することに長けている。しかしそういうタイプの方が疑り深いから前者のような友好的な態度の人間より慎重で、他者から騙されることがないかと言えば、寧ろそうではなく、疑り深いということは裏を返せば一旦信用したとなるとその信用した者が善人である場合ならよいが、そうではなく悪辣な者である場合には却って騙されやすいということがある。
 つまりこういうことだ。一旦他者を受け入れてその者に対して友好的な態度を取り敢えずは採る者の方が他者に対する媚び諂いの態度を見抜くことが容易なのに対して、逆に懐疑的な態度の人間は一旦信用するとその者に対して信用し過ぎる面が却ってある場合があり(常にそうだとは限らないが)、特に下手に出る者に対して防衛本能を解除しやすいということがある。だから他者攻撃欲求を容易に表出する者とは、他者に自己の真意を読み取られやすいし、またそのことに関して防衛本能がえてして希薄である。するとそういうタイプというものは、他者に対して真摯に接することを潔しとするのだから、懐疑的であるというのは表向きということになり、却って他者に対して友好的な態度をまず採るタイプの人間の方にこそ、中には(全てでは決してない。)下手に出て、建前的な偽装に長け、要するに狡猾なタイプもいるのだが、それとは逆にそのことに関して見抜けないということである。よって他者攻撃欲求を隠蔽することの苦手な者は、それほど悪辣さに長けた人間ではない、ということになる。その二つのタイプの人間の微妙な融合、つまりどちらか一方であることの方が現実には少ないから、ある意味では最初友好的態度を採ろうと努めるタイプと、防衛本能をむき出しにするタイプの態度を使い分けるというのが通常の殆どの人間のあり方であるから、私はその二つの人間の傾向性というものが結局ブーバーとロジャーズという二人の思想的巨頭の対談に示される考え方、着眼に見られると思うのだ。
 例えばセラピストとクライエントというものは通常最初友好的態度を相互に採るのでも、予防線を張るのでもないというのが真実であろう。しかし長くセッションの関係を続けてゆけば、徐々に二人の関係においては依頼者と被依頼者の垣根が取り払われ、クライエントの方がセラピストの方を忖度するというケースも多々出てくるということにおいてはロジャーズの言うようにクライエントとセラピストの一致点というものは可能であろう。しかしこの二人において共通している事実とは、常にブーバーの言うようにクライエントの生活というものが本来二人の関心の的であり、その逆ではないということである。それはセッション自体の役割と目的からすれば至極順当な意見である。そしてブーバーはその垣根を常に、特にセラピストの方が見失ってはいけないと主張するのだ。たとえクライエントの方がセラピストに対して対等でいられるような気分を味わったとしても尚、そのようにクライエント主導型のセッションをしてクライエントの気持ちを常にリラックスさせる術の維持において、セラピストは「騙される振り」をすることが巧みであることが求められるとブーバーは考えているのだ。
 そうなるとロジャーズの考えるセッションのあり方とブーバーの考えるセッションのあり方とは、誠実性の発揮のさせ方と、責任の取り方の違いが横たわっているということになる。
 例えば真に悪辣な人間は友好的な表情を偽装することに長けているだろう。すると友好的ではない怪訝な表情を浮かべる者はその限りで、実は極めて真意を表出しているわけだから、却って誠実であるということになる。また真に友好的であるのに怪訝な表情を浮かべることというのは通常意味ある態度の採り方ではないのであまり考慮する必要はないだろうし、あり得るとしたら真意を直裁に表出することに羞恥を感じる文化的コードに依拠した者に見られるような友好的態度を正直に示すことを躊躇うケースくらいであろう。するとブーバー的な考え方からすると、柔和な表情をしてクライエントに接しながらも、どこかで覚めたそういう自己を責任の俎板に載せて俯瞰する態度が脳裏に介在させることが巧みな者こそが真に有能なセラピストであるということになる。しかしロジャーズはどうもそのことに関しては、覚めすぎていることとはクライエントの中にある繊細な感知能力、つまり嘘っぽい態度を直感的に見抜くことであるが、そういう能力には抗しきれない、故に却って自己内の躊躇すら真摯にクライエントに示す誠実性の方が分があると考えているようである。しかもロジャーズはブーバー(彼はロジャーズのことを指してあなた、彼のクライエントのことを彼と言っている。)がクライエントもセラピストも彼の知るブーバーの思想ではあくまで「あなたも彼もあなたの経験を見ているのではありません。」でありそれと対談でのブーバーの発言とは対立するように思えたようなのだ。つまりブーバーはロジャーズが知り共感する考え方としては、あくまで双方がセラピストの経験を信頼するところ(セラピスト本人は責任を持つという意味で)で成立する対話であると思っていたので、意外な気がしたようなのだ。しかしこの対談によるブーバーの考えは、決してロジャーズが知るブーバーと対立するものではないのだろう。つまり前提条件という意味作用からすれば確かにロジャーズが知るブーバーの双方のセッション自体の信頼という事態が不可欠であるが、同時にセッションの意味内容という側面から考えればあくまで主体となる関心事は常に彼、つまりクライエントである。ブーバーは敢えて自分の思想の謂いを反復することを避けて別の局面から彼の考えを述べたのかも知れない。ここにも対談という形式と、それを利用して自己の思想を明確化しようと試みる対談者同士の思惑のニュアンスというものが伺えて面白い。
 フロイトは転移という概念を持ち出したが、転移とはある意味では共感作用とか相手の立場を相互に鑑みるということの自発的な心的傾向全体を述べたものである。そして寧ろセラピストが厳密に客観的にクライエントを観察すること、精神科医であれば、厳密に患者を客観的対象としてだけ観察することの不可能性を述べた概念であるとも言える。もっと重要なこととは恐らくロジャーズがブーバーの「あなたも彼もあなたの経験を見ているのではありません。」という謂いにおいて直感したブーバーの真意が、客観的に真意を、あるいは誠実に自己内の考えを述べるセラピストの彼自身の行動に対して観察する眼を失わないでいるということにあるのではないかと考えたロジャーズのブーバー発言に対する解釈が、主張するところさえ踏まえておれば、主観的な接し方の方がよりよいセッション、療法が進行するのだ、ということにあることと関係があるだろう。このクライエントとセラピストの関係は、我々に即座に生徒と教師、あるいは役者と舞台演出家、あるいは映画監督、あるいは先ほどの部下と上司といった関係を連想させるし、内的な心的メカニズムにはどれも共通するものがある。
 これらの関係において重要なこととは、対談では正しい言い方というものが一律に決められているということではない、つまり状況判断的な言辞と、発言内容というものは個々の発言自体の発言意図を無視するととんでもないおかしなことになる、ということをも表している。つまり命題論理的な内容と主張する内容の選択意図はずれることがあるのだ。
 それはある意味ではカントならカントのテクスト全体から読み取る後代の哲学者たちの先人に対するメッセージと、そのテクストが個々の部分で主張している発言とは一概には一致しないという真実をも語る。例えばベルグソンもルドルフ・シュタイナーも共にカント批判をしているが、カント自身はベルグソンやシュタイナーの批判する事実とは裏腹に彼等が「そうであるべきだ。」という主張と同じことをテクスト内では個々の事態として述べているのである。それはライルが人間の自己内の真意とか心的な意識作用と、行動は必ずしも一致するわけではないものの、そうだからと言って極端に常に相反するというのなら、それは誤りであるという考えともどこかで共通する。特にそれは時間論の解釈に関してである。(そのことは後に具体的に述べる。)それはベルグソンやシュタイナー自身がカントを全体的に咀嚼して捉える像とはカントの主張全体が外部に(後代の我々をも含めて)与える影響力というものを考慮した上でのカント批判であるということである。それはカントと言いながら、カントのテクスト自体であるよりは、カントテクストの後代に与える影響力という意味でのカントのことなのだ。そしてカントの論主張の文体のニュアンスが与える影響力という意味、それを意味作用と呼ぶにはあまりにも些細なことそれ自体に対して特にベルグソンは苦言を呈していると私は捉えているのだ。それこそニュアンス表現それ自体が命題内容外に我々に与える影響力、印象の与え方の問題なのである。
カントは精読することで得られる命題内容が極めて全体的主張と受け取られる事態と異なる印象を与える存在であると言える。
 それは何故かを問うことにはあまり意味がない。寧ろ我々はそのことよりもまず構造主義者やポスト構造主義者たちがあのように執拗にその齟齬を論じていたことの主題の意味、つまり何故そのように語る者の真意とは別個に意味作用がどんどん暴走して行ってしまうのかということを考えねならない。私は例えばベルグソン哲学そのものの存在意義とは別個にカントに対する位置付けにおいてベルグソンは恣意的にカント像を捻じ曲げていると感じている者の一人なのだが(結論でカントの時間論解釈を巡ったベルグソン解釈について他の時間論との相関性において詳述する。)、先述したようにそのようにカントを捉える時カントの外部への影響力そのものに対して後代の論客の多くが言及したという事実は、意味作用そのものが記述者、発言者の内的モティヴェーションそのものとは別個に独立した作用として認めるべきであるという社会ゲームとしての同意の下に我々が意思疎通しているからである。それは責任という考え方である。
 例えば精神分析における転移という考え方が定着した背景には明らかにセラピスト、精神科医の存在がどんなにクライエントや患者によって信頼に足るものであっても尚、例えばセラピストや精神科医自身が自身の判断さえもがその場その都度の主観的なものでしかないのだ、絶対的な基準というものがどんなに経験を積んだ者にもあり得ないのだ、ということに対して自覚する、言わば精神の相対論的な把握という自然科学的認識がある。それは彼(セラピストや精神科医)の発言というものはどんなに注意深く配慮してさえ、クライエントやクランケの精神状態如何ではどのように解釈されるかわかったものではない、という現場の人間からの正直な経験に基づく教訓があるのではないだろうか?つまりそれは感情のその場その時の唯一無二性を常に念頭に入れておかなくてならないという教訓である。そしてその教訓が活かされるのは彼等にプロとしての責任が課せられているからである。私はガザニガが責任は脳内のニューロンの作用そのものからは読み取れないと言っていると述べた。それはある意味では社会ゲームを正当化し、社会ゲームの参加者としての通行手形としての責任が我々に課せられて、その責務遂行性として顕現されたものこそ脳内のニューラルネットワークの発火現象の活性、不活性であるからである。
 ニュアンスは我々が作るのだが、ニュアンスに支配されつつ脳内で思考しなくてならないのも我々の実像である。恐らく私の考えるニュアンスとは表情の基本である。それはクオリアが内的な認知として脳内の作用が我々に自我を付与するような意味合いで個人的でありつつ、他者と共有する体験として相互に報告し合うことその行為自体が意志疎通であるのなら、そのような形で自己内の抑制が不能な、極自然に考えるよりも先に立ち現われてしまう表情の対他者的な、対外的態度の様相であり、それは運命的な実存の認識であると言える。私はその重要性をクオリア以外に不可欠のものとして認識したいのだ。つまりこういうことだ。ニュアンスとは表情を支える最大の要素であり、我々の言語行為全部を表現的メッセージにするものである。それはサインとして示す意味作用の必然性であり、幾分常套的な解釈を呼ぶようなものなのである。それは一時期持て囃された構造言語学の言う記号認識とも少々異なる。彼等の捉えた記号認識とはソシュールの依拠したラングによる自主規制的な自己内強制であるような性質が濃厚なのに対して、私が言うニュアンスとは明らかに自主規制性とか自己内タブーとか共時的な強制力とは無縁であるからだ。それはもっと端的に言えば生理学的なことであるし、社会ゲームにおけるサインの読みに対する同意という事態であり、サイン供給者が意図しないでも作用するものだからだ。

No comments:

Post a Comment