Thursday, November 19, 2009

〔表情の言語哲学〕2 結論 (話すこと、話したいということが真意であり、内容は補足的なことでしかない)

 ある意味では人生とはシナリオのないドラマを生きることである。だから逆にシナリオというものは常に恣意的に作られる。例えば映画や演劇の脚本や台本はそれに沿って表情と台詞にある型をプロフェッショナルなアクター、アクトレスたちがつけていくべきモデリングの作業をするための灯台である。しかし時としてヴァラエティ的趣向としてプロの役者たちに設定だけ与えておき、完全に進行されるドラマをアドリブで行うということがあるが、そういう場合役者たちは端的に人生とは一体どうあるのか、どうあるべきなのかという思念を抱いてそれを演じるだろう。つまり人生にはアドリブと同じように確固とした脚本などない。勿論予定とか計画といったものはあるが、基本的にそれらは全て変更可能なものである。その最たるものこそ日常会話である。それは面と向かって話す場合だけでなく電話でもメールでも相手の表情を読み取ることが基本的に意思疎通することの意義を支えている。つまりメールでは文面、あるいは電話では声の質、声の調子、声量といったことから表情を読み取っている。
 シナリオがないということだからこそ、そこに限定的にシナリオを設けていくこと自体の中にたまたま映画、演劇、ドラマ一般が存在するわけであり、端的にそれらさえ、ある意味ではかなり制作進行上で変更を来たしていくものであることはプロとして関わる全ての関係者たちが知るところであろう。シナリオという存在は本来はそういうものなど人生には基本的にはないからこそ、逆に一定程度にそれがあれば便利であり、円滑に全ての行動を目的化することが出来るということで設けられている気休めなのである。
 北野武監督の映画には大まかな脚本的意図が監督の頭の中には存在していても尚、映画に出演する役者に対しては確固とした最初からラストシーンまで規定された本などないと言う。つまりその場その時で現場、役者ら全ての条件によってどんどん変更させていく映画作りであると言う。だからこそ逆に全ての進行をアドリブにしていくのなら、映画の進行する順に撮影していくことが最も望ましいが、却って死んだ筈の人が生き返るというアイデアをも取り入れる場合なら、別段アドリブで全部撮影しても尚、映画の進行順に撮影していかなくてもいいということにさえなる。
 私たちが他者たちに対して意思疎通し合う時明らかにその会話とか対話が今後どうなっていくか全て読めていたのなら、一切そんな意思疎通をする必要などない。もっとある意味では不安定などうなっていくか分からない不安こそが、意思疎通を意味あるものにする。何かを依頼したり請求したりしても、必ずしもその要求が叶うとは限らない。その不確定性こそが意思疎通をより熱意あるものにする。つまり一切請求して叶うものであるなら、意思疎通する際にある種の深刻な構えとかそれに赴く際のより厳粛な緊張といったものなどなくなるだろう。
 またその不安は希望を生んでもいる。つまり人生は先行きが不安定であったり、不確定であったりするという一事において逆に新たな挑戦をも可能にしている。不安こそが期待や願望や夢を産出している。人間の顔の表情はそれを顕著に反映している。そしてその表情を相手に対して汲み取る、その表情の意味合いを推し量ること自体が意思疎通の内容を進行上その都度決定している。つまり先行きどうなるか分からないこと自体がその都度先行きに対して意思疎通を意味あるものとしてスリリングにしている。そうすることで展開を期待させることが意思疎通、対話、会話をしていく意志を相互に確認し合い、決定させている、逆にそれが失われればその際には一度意思疎通を中断させることを我々は選ぶ。あるいはもう二度と意思疎通し合わない方がいいと相互に意志してしまうかも知れないし、片方だけがそう思うかも知れないし、ある時にはその意志が通じ合わないこともあり、自然消滅してしまう意思疎通ではなく絶好を申し渡されることもあるだろう。
 仮にもう一度以上必ず意思疎通し合う意味合いと意義を確認し合える相互の関係においてさえ、ある対話や会話は一旦停止させることの方に意味がある場合も多いからこそ、我々は対話や会話を積み重ねられる。
 だから意思疎通し合うことの中で取り交わされる対話内容や会話内容は明らかにその内容如何であるよりは、その先に相互に意思疎通し合えるかどうかという査定の方に加担していて、要するにその最終目的のための手段でしかないとさえ言い得る。要するに意思疎通し合うことこそが生理学的にも心理学的にも、倫理学的にも意味があると言い得るのだ。
 だから心理言語学とか言語心理学とか言語哲学において真理命題論的に分析しても尚、意思疎通意味内容自体は、それを仮にある対話や会話によって利用したとしても、その意味内容を相互に共有し合えることを通して「語り合いたい」「話し合いたい」という本意、真意を相互に確認し合えるというところに意味があると言える。だからその相互の意志の一致が仮に確認し合えるということ自体がその都度の対話、会話上での意味内容、つまり話題を通して語られる真理を決定している。勿論我々は「~について」という話題の方にこそ意識が集中されていて(原音楽的意識状態)、その話題を通して進行しつつある当の意義とか意味自体は意識上では隠されていることも多い(常にそうではないが)(原羞恥が潜在的に存在する)のである。
 対話とか会話はそれを企画する者、企図する者に最大のメリットが齎されることが心理言語学的、言語心理学的には多いと証明されている。つまりそれだけ語る者は語られる者から利益を得ているのである。だからこそ精神分析医というのは人から話しを聞かされることを通して報酬を得ているのである。

 映画監督が映画を上映し得るように持って行くことの目的は彼自身の映画観を通した表現を発表すること、その表現を享受する観客からの反応を得ることによって次回の制作を促すことだとしたら、それが目的であり、必然的にある映画に出演するアクター、アクトレスたちによる台詞の一つ一つは全てその目的に供せられる手段である。つまり予め言うべきことが設定されていて、ただその通りに個々の台詞を踏襲することとは行為を特定の目的のために手段化させてそれに奉仕することである。その意味では全ての意思疎通は漠然としてではあるが、何らかの未来の目的のために供せられていることになる。
 従って人類にとって意思疎通し合うこととは、未来に対する不安の除去、つまり個の内部に巣食う不安が自分だけのものではないことに対する確認のためであるとしたら、全ての新聞、ニュース、映画や演劇、お笑い、ツイッター、ブログといった言葉による意志伝達は不安の除去に対する暗黙の同意によってなされている。故にまず最初に誰かに声をかける時その声をかけた者が声をかけられた者に不安を表明することを意思表示していることになるから、必然的にその不安を相互確認要請された者は不安を除去することを同意し、同意を求めてきた者の不安除去に関して援助することとなるから必然的に優位に立つ。故に相手を常に優位に立たせることは不安を表明する者の側からすれば多大な債務を背負うこととなる。
 映画の出演者たちは制作サイドから報酬を得る。それは映画表現を完成させるという目的のために奉仕した手段化された言語行為を、あるいは身体行為を要請されてそのニーズに応じているからだ。しかし報酬を得るサイドはサイドで日々のルティンに対して生き甲斐を感じることによって手段化された言語行為、身体行為自体を目的化し得る。それは内的価値認識によってである。それが目的であるという自己暗示によってである。
 相互の不安除去のためになされだした意思疎通自体を一つの手段とすることによって報酬を得るタイプの成員は映画出演者たちだけではなくマスメディア全般に渡っている。
 しかしそれがプライヴェートな時間による意思疎通であるなら、不安除去を要請した者は要請された者を優位に立たせるために、不安を表情によってあからさまに示すことによってより大きな債務を背負うことを意味するから、出来る限り不安は小さなものであることを装う。表情的偽装である。表情は真意を伝えもするが、偽装をも可能にするメカニズムである。意思疎通は相手の表情を読むことによって援用されている。最初に自己真意を告げるが、それが相手のためになるという触れ込みで語る者には利益がある。本当は相手に対してこちら側の不安除去を要請しているにもかかわらず、あたかも語りだした者が語られた者の不安を除去してあげるかの如く振舞うことが巧いということは、それだけ表情を真意から乖離させて、偽装的に技巧を凝らし、それでいて自然であるように振舞えることに他ならない。それはそうすることを通して不安を除去してあげるためにこちらがあなたに語りかけているのです、と宣言しているからである。しかしそうではなく、相手に不安を除去して貰うことを要請するような殊勝な態度を正直に示せば、必然的に要請された者を優位に立たす。だからこそこの関係において表情とは相手がどういう気持ちでその言辞を齎しているかということを推察するための手段として利用されるから、真意を示す必要がある時と、隠蔽する必要がある時の弁別必要性を我々に意識させる。しかし表情は意外にも意図的にはどうにもならないところもある。だからこそ自らの感情をコントロールすることに長けた者とそうではない者との間の差異を作るとも言える。つまり日頃から一人でいる時間においても自己感情をコントロールすることに長けていれば、つまり自己不安除去方法を身につけていれば必然的に債務を多く他者から背負うことを回避し得る。
 
 労働することを通して報酬を得ることとは、端的に何らかの形で他者の目的遂行のために自らの行為を手段化させることである。その手段化をより快適にしているという偽装を巧くなす者は本質的に仕事が出来る者であり、そうではなくあまり自分自身の目的のための行為ではないから愉快なことではない態度を正直に示す者は仕事の能力に長けていない者である。つまり手段化された行為を目的化し得るように振舞う名人こそが仕事の能力の保持者であり、そうではない者は仕事に関する無能力者である。
 そしてその手段化された行為を快適になし得るということを示すものこそ表情であり、手段化された行為の目的化の名人こそ仕事の能力保持者であり、そうではなく手段を手段のままにしている者は仕事の出来ない生活能力欠落者である。
 このことをカントは恐らく「生を単なる手段にするな」と言ったのであろう。仕事上での真意の隠蔽は全ての社会ゲーム遂行者にとっての必要不可欠の自己欺瞞である。カントによる「生をただ単なる手段にするな」という謂い自体は実は極めて真意を包み隠さず他者に語りかけることから起因するデメリットを回避させるための知恵を語っているとも言える。それは逆に言えば何かを他者に語るという行為を欲求的に介在させることを通して必要以上の不安を形成させているとも言えるのだ。つまり最初から自己不安を語る他者を持たないという意識でおれば、必然的に他者を不安除去のための方策として利用するという意図は生じない。従ってあたら他者を自己にとっての負債を作ることを誘引することもないし、自己内の不安が増大することもない。しかし人間は言葉を持ってしまった。そうであるが故に不安を言葉によって作る。だからその作られた不安を他者と共有し合うという意志が生じる。だからその時表情が相手の気持ちを汲み取るために理解するべき対象となる。そして予め映画の脚本や演劇の台本のように決められていないアドリブの台詞を延々繰り返していくこととなる。それが人間の意思疎通である。
 他者の表情を他者真意の把握と理解のための手段とすることによって意思疎通を図る存在者にとって不安は予め作られる前提である。つまりそれが生きているということだからである。その不安の個的保持者であるという社会の側からの暗黙の事実認定こそが社会という不安保持者連盟の「不安」共有同意によるキックバックなのであり、その事実こそが意思疎通権利と、語られる内容自体が一番重要なのではなく、語られる内容を語ることによって相互に徐々に現出させていったり、創造していったりすることを語る場において語る者として同席することを権利として我々に享受させているのである。つまりそもそも未来がどうなるか分かったものでなないという当たり前の真実こそが私たちの全ての意思疎通を決められていない台詞を延々語り続けることを運命づけ、そこで語られる内容はその都度あたかも最大の目的であるかのように幻想しはするものの、本当に重要なこととは、端的にあたかも最大の目的のために供せられているかの如き手段化された語り(幻想)を生きることによって個的不安保持者連盟に加担することそのものが、実は目的であると認識することを我々に可能にするのである。
 だから逆に言えばカントが「生をただ単なる手段にするな」という謂い自体は、実は生を全て何らかの目的にすることもまた出来ないということへの諦念、その諦念は必ずしも絶望的諦念ではなく、達観とでも言っていいものなのである。従って生自体は何かの目的のためのものではない。それは自体が目的であるのなら、あたかも手段化されたかの如き幻想自体を実在と信じて行使していく以外に何らの方法もないということなのである。

 私たちはお笑い番組とか演芸場でのコントや漫才を見る時、何の前触れもなくある語りをギャグとして言い放たれるからこそおかしさ、おかしみを感じる。例えば予めこれこれこういうギャグを言い渡されますから笑って下さいと言われて笑う場合、あくまでそれは演技としてであり、自然な笑いではない。またそういう風に説明された時何のおかしさもおかしみも感じはしない。つまり突発的に何かを言い放たれるからこそそこにその絶妙なタイミング自体にある意外性を感じ取りおかしいと感じるのである。それはギャグを言う側による意図においてギャグ自体を用意周到に言い放たれる側が意外性を感じることを想定して漫才師やコントをするボードヴィリアンたちが演技することによってである、その際彼等は自分で自分が言うギャグ自体を楽しまない、あくまで言い放たれる側を楽しませるということにおいてである。自分でそのおかしさを感じ取って笑ってしまってはどんなにおかしい内容であっても、決してギャグを言い放たれる側はおかしさを感じはしない。
 それは意図的であること、つまり客におかしさを感じさせること、楽しませることを楽しまなければいけないのであって、自らギャグやコントのおかしさを楽しんでいてはいけない。
 そういう意味では笑うということはそれまでに得た我々による記憶と経験の全土に渡る生への理解、生への認識においてそのギャグやコントを意味づけているということを意味する。
 生とは記憶と経験の全体を抱えて未来の不確実性へ向けて不安を除去しながら生きるということである。経験と記憶とは得てきたものと失ってきたものの、あるいは気がついていたことと気がつかなかったことの綜合されたものである。つまり覚えて反復出来ることと、忘れて反復出来ないことの集積である。だからあるギャグやコントにおかしさを感じるということは、漫才師やボードヴィリアンたち相手が自分たちを笑わせるという意図を理解してそういう風に笑わせられるという体勢へと自己を身構えることである。つまりある演芸番組を鑑賞したり、演芸場に足を運んでその客席に着くということ自体が予め向こうから発せられる突発的なギャグやコントに対して自然に笑うという体勢を作ることである。それはある一定の時間内一切の予定通りの行為をせずに、向こうから挑発され仕掛けられる作為に自ら嵌まることを選ぶことである。受身の体勢で相手に身を委ねることである。それはそうすることによって日頃の緊張を解き解すことを意味している。
 記憶と経験とは人生自体が反省的に捉えれば、今を食い尽くしてきたこと、今を消費してきたこと自体に対する総体的な理解に他ならない。だからこそ記憶と経験によって構成される人格とか性格といったものは端的に習得してきたことと、習得され得なかったことの集積なのである。
 個的不安保持者連盟たる社会において私たちはある時にはどうなるか分からないシナリオを自ら生きる。つまりシナリオのない台詞を他者と語る。しかしある時には相手が予めシナリオ通りに語ること自体に身を委ねる。そういう時に演劇を鑑賞したり、漫才や落語、コントを楽しんだりする。それら全てはその場に何らかの形で他者と居合わせること自体が目的なのであって、そこで得られる語りとか語られることの意味内容はあくまで手段でしかない。しかしその場を生きること自体において私たちはあくまで語りの内容が目的化されており、語られる意味内容を把握することが目的化されている。
 しかしその時間が過ぎ去れば、結果的にはその場に居合わせたこと自体が目的であったのである。
 あるコントやギャグの語りの内容におかしさを感じるということは、そのギャグやコントの意味内容、つまり行為や言説の意味内容自体が、メカニズム的にある種の矛盾を持っていて、それでいてその矛盾に一切気づかないでいる人間の姿にある滑稽なる憐れさを感じるということだ。それはその人間のある種の気づかなさ自体に固有の滑稽な表情を読み取るということである。それはかつては自分もそういうことにあざとくない、朴訥であり、気づかない未熟な幼児であったことに対する記憶があるからである。不器用であざとくはないこと自体に対する無頓着が固有の素朴さを発し、その素朴さ自体を我々が一般的には日常生活において既に大半を失っていることを我々自身が一番よく知っているからこそ、その失ってしまったこと、つまりそれを失うことによって得てきたものを大事にして生きている私たち自身に対する滑稽さ、憐れさ、醜さ自体を熟知した上で、ある種の羨ましさをそれを失っていない者に向けつつも、しかしその者と同じように決して素朴ではいられないこと自体を知っているからこそ、その自己によって失われたものを未だに保有する者の純粋さを価値的に読み取ることが可能であるからこそ、おかしいのである。それは一瞬でギャグやコントを理解するということにおいてそうなのである。そしてそれを読んだり(マンガとか)聞いたり(お笑い番組、演芸)して笑うということは、以前も似たようなことを読んだり聞いたりしておかしかったことを思い出すからこそ作ることの出来る表情を伴っているのである。
 それは討論とか座談とか語りに参加する者がそこで語られる意味内容以上に、その意味内容を産出するサイドに自ら加わること自体に意味があるような意味で、そのおかしさを覚醒し、思い出し、かつて同じような気持ちを持ったことを瞬時に条件反射的に表情で置き換えることに他ならない。つまり潜在的に誰しも知っている笑いの正体とは、端的に生自体が生を持続していく上で得るものと引き換えに失ってしまったこと自体の滑稽さを、それを失っていない者の表情や語りを語られることを通して覚醒しつつ、しかしそれが自分ではない演じられる他者であるからこそ、自分は巧く社会に生き抜いてきたということを知って安心するのである。その自己によって失われた純朴さを保持している愚鈍ではあるが純粋な者の風体自体を価値的に捉えることを通して純朴であり純粋であり、素朴であることのしんどさをその者に肩代わりさせることによって平凡であり失ったものと引き換えに得てきたこと自体の価値に安心するのである。自分の方を優位に立たせることによって安心を得ているのである。だからこそお笑いを提供する者ピエロであることは率先して損をしていることを担う役割認識をしていることである。そういう役割を担うことによって、平常の生活においては失ってきたものと引き換えに得てきたことの方が重要なのだ、と言い聞かせて安心させているのである。だから本質的には笑いとは大人にしか得られないことである。子どもの笑いはただ嬉しいことだけであるが、大人の笑いにはそういった重層的で深い意味合いがあるのである。
 それは未来が不確実でありいつ自分が死ぬか分からないから不安であると同時に、だからこそ安心も出来るということを意味している。一定の量を伴った今を食い尽くしてきた経験のない者には笑いを理解することが出来ないという意味では笑いには幾分、と言うかかなり自嘲の意味もある。自己の内部に巣食うどうしようもない諦念もあるし、どうしようもないことをどうにかこうにか価値的に見ようとする涙ぐましい努力もある。何故なら所詮生きていくということはそれ自体理性論的に捉えれば滑稽なことだからである。

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