Friday, November 6, 2009

〔表情の言語哲学〕2   序

 私はこの論文の下書きになるものをかなり以前、十年近く前に書いていた。しかしその当時は未だ私の中に哲学的思惟は芽生えていたにもかかわらず、それほど自身の哲学に対して確信が持てなかったために一切発表を差し控えてきた。しかし当時からスティーヴン・J・グールド等の書いた進化論テクストを読むのが好きだった私は、それ以後多くの進化論テクストをはじめそれ以外の多くの良書に出会い、その当時の私の思惟には、それほど卑下することもない、いやそれ以上に今後の私の進むべき方向性が既に指示されていたと現今感じ出してきたので、ここに再び前回の「表情の言語哲学1」(別ブログ「トラフィック・モメント」に掲載更新予定の「言語の幻想とその力」と本ブログのこれまでに掲載更新してきた「顔を表情の意味」を対にしたもの)に続いて改変する部分を持ちながらも、基本は当時抱いた私の思念に忠実に「表情の言語哲学2」として発表することにしたのだ。よって寧ろこの2の方が1よりも起源的なニュアンスが強い内容となっている。しかしこの起源性に対する視座こそ今後の哲学と進化論の交差し得る地点であるという私の確信を主張しているという意味では、このテクストは続編でありながらも、どこかでは基本的な思想が色濃く表わされていると私は思っている。そして言語活動とは、それを育む私たち人類が人類登場以前の我々自身の種の原型を作ってきたところの祖先たちの意志とか考え(それが私たちの意志とか考えの基礎となっているところの)がどこかでは相変わらず体現されているようなものとして位置付けることを試みるなら、このテクストの示すところの方向性と意味は誤ってはいないと私は確信するものである。

 私たちは日々情報の渦に巻き込まれずにはこの社会を生きてゆくことが出来ない。しかし情報は言語活動を基礎としているが、本来言語活動は人類の最初期においては自然の脅威に対する外在的な認識から発していたのだろう。しかし人類は外在的なことばかりか内面的なことにおいて事実を認識することが出来たために、我々の祖先たちは内面の告白を外在的な事実の確認と常に共存させながら言語行為を営んできたのだ。外在的自然観察そのものが内面の告白となるような認識は既に人類の最初期から人類が相対性理論を実践していた証拠である。外在的観察が内面の願望と密接であることの自覚は、その時その場の状況に沿って何らかの表現をすることを満たすための方策として言語秩序を形成することを人類に促し、その事実が言語行為の様相的な進化を齎したと考える。
 それは告知し得る内容の真偽はともかく、伝達意志という欲求を相互に認め合うという社会ゲームを我々が採用することを促したのだ。だから虚偽的申告さえもが我々にとっては信頼性の表現の一部、つまりある種の真意として組み込まれている。建前もまた本音なのだ。 
 私たちが言語環境に生きる限り言語表現とその形式に対する問いは継続してゆくだろう。形式は内容を問うが、内容は形式を問うことはないかも知れない。それはあらゆる表現が形式の差を飛び越えて進化する可能性として言語を位置付けるからだ。例えば芸術表現はその形式を超えて全て言語活動に位置付けられるだろう。それはメッセージの伝達であり、要するにコミュニケーションなのだ。

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