Sunday, November 22, 2009

〔表情の言語哲学〕2 付録論究 名指しの意味付与性

 ここに常に周囲から騙されていてあまりそのことに頓着しないできていたがために色々と損をしてきたこと自体にある日覚醒した人間がいたとしよう。その者はそれまではずっと周囲の人々全てをいい人であると思っていたがために損をしてきたのに、そのことに全く気づいていなかったのだ。しかしある日別の他者から要らぬ(か要るかはともかく)入れ知恵をされて、それまではずっといい人だと思っていたある他者をその瞬間から警戒すべき他者であると認識し始めることとなる。するとその者はいい人であると思っていた他者に対してそれまでは殆ど友愛的な表情ばかり示してきたのだが、そのこと自体に対して反省的意識を持ち、次第にその者の前では時折それまでは終ぞ示すことのなかった不快な表情を意図的に示すように心がけるようになる。するとその態度はそれまでそういう態度を一切示されなかったその他者にとっては意外なものに映る。しかしそれもある程度持続して習慣化されると、さしものその他者も流石にそういう不快な態度を表情として示す者の本意を読み取るようになる。つまりそれまでは全くそういう態度を示さなかったその者への警戒心を抱くようになる。
 これが親しかった者同士の間に入る亀裂である。しかしここに重要な真理が控えている。それはそれまでは信用して疑うことになかった相手に対する評定性において新たな意味の相貌を付け加えるという作用が施されているということである。つまりここで言いたい意味付与性とは対象が人間であるなら、そういう相手に対する存在理由自体への読み替え、解釈し直しを意味する。何かに対して名指すということの内にはそのような意味合いがある。つまり「~である」と規定すること、そういう風に普遍化することによって名指すことを通して、そういう風に名指す以前にはそのものに対して持たなかった意識を常に顕在化させるということが名指すこと自体に性質として内在しているのである。
 それは相手が人格を伴った存在者であっても、世界自体であっても、社会自体であっても、自然自体であっても変わりはない。
 では何故そのように意味を見直し、解釈し直し、読み替えていくかと言うと、我々は世界に対して何らかの把握の名において対象化し、存在規定し、意味化せずに生きていくことが不可能であるからである。だから意味づけ作用とはそれ自体で既にある対象に対して、世界自体に対して一定の懐疑主義精神と批判精神と警戒心を性格上備えていると言ってもよい。何故なら我々は世界に対して何らの意味づけ作用も、存在規定もしないでいいのであれば、そのこと自体は一切世界が我々に対して脅威として存在していないということを意味するからである。
 だからこそ我々はある人間の表情を読み取ろうとする。それが例えばその人間が笑ったのであれば、その笑い自体の意味を汲み取ろうとする。それは心底笑った相手が警戒心を解除した笑いであるのか、それともこちらに対する軽蔑心とかこちらに対する迎合心によってであるのかという風に評定する。つまり我々がある者の取った表情を下心のないその通りの真意を示したものであるかということ自体をあれこれ考えるのは、そもそも表情自体を偽装し得たり、あまり真意を顔に表さないようなタイプの成員もいるもとを知っているからである。そしてそのような特殊例を引用してくることによって警戒心を抱く時には相手を表情と本意とか真意とは食い違うこともあるのだ、という真理を殊更内的に強調するのである。しかしそういう警戒心自体が思い過ごしであることも多いし、そういう風に思い過ごしであることを了解した時我々はそういう警戒心を相手に対して抱いたこと自体を後悔するし、反省する。しかしそのようにああだこうだと思い巡らすことを可能にしているのは、実は私たちが意味づけ作用をせずには生活していけないということを表している。
 だからこそ時として必要以上の意味づけ作用をよくないことであると認識し得るのである。しかしそのように世界に対して固有の「構え」を構成するということは、自分自身が世界とは別箇に切り離された存在であると認識しているからである。本来世界とは私たちが作っているものであるのだから、世界構成者としての自分だけは「世界」とは別箇の例外としていく必要があるのである。ここにデカルトのコギトという考えのベースがある。
 哲学において内的世界と外的世界を分けて考えてしまうのは、そういう風に世界を構成するのが私たち自身、私たちの脳であるという認識があるからである。しかしよく考えてみればその私自身はやはりちっぽけな世界内存在者であるに過ぎない。それは世界の構成要素であるが、世界の構成要素たる我々によってのみ実は世界も構成されているとも言い得るのである。つまり世界の構成要素たる我々という思惟自体もやはり我々の脳によって齎されているだけである、ということである。つまりそれは私が世界に対して「私」と言う風に別箇に名指す時に既に始まっているのである。あるいは我々が世界全体に対して「我々」(人類)という風に名指す時に既に始まっているのである。
 しかし私は第三章で述べたが、我々は言語を獲得した後にも、完全に前言語習得状態での感性を失っているわけではない。それがただあまり意識の上に浮上しないということでしかない。すると我々は世界に対して「私」と捉える時明らかに世界と私が完全に分離しているのではなく、境界が曖昧であるような感覚をも捨て去ることが出来ない。それは常にそう感じられるのではなく、例えば仏僧による修行などにおいて、自然全体と自己身体との境界が曖昧になっていくような経験などにも顕著に示されているだろう。つまりデカルトのコギトとは意識的にそのような経験一切を無視しさった地点で成立する思念であり想念であるとも言える。勿論デカルトのコギトは只単なる論理とも違う。しかし少なくともデカルトは認識論的にも、あるいは実感的にも恐らくそのように世界と私が不可分であるような精神状態を知ってはいただろう。つまりそうでありながら敢えて意識的経験であるところの自己をクローズアップさせる必要性が彼の内にあったということになる。
 私は単純に二分法的に失ったものと得たものと述べてきたが、実は失ってしまったことに関しても僅かながら我々は残存させている筈である。だからこそそれを失ってしまったが故に価値ありとするのである。もし本当に完全に失ってしまっているのなら、得てきたことの引き換えに失ったという想念さえ抱くことなどないだろう。それは特に私は記憶のことを代理させて語ってきたのであるが、当然記憶とは完全に今でも過去としてではなくありありと思い出せるということと、それほどではないが、そしてかなりおぼろげになってしまってはいるものの、完全に忘れ去っているのではなくある程度であるなら覚えていることだって我々にはある。つまり我々にとって完全に忘れ去ったことはそもそも想起対象にもなり得ないし、そういったことが夢で出て来ることもあり得ない。しかし完全に記憶しているとそう思っているものでも、勝手にそう思っているだけであり、つまり本当はかなり歪曲させて記憶させているものもかなり含まれるし、また思い違い、記憶違いであるのに鮮明に記憶していると勝手に思い込んでいるものもかなりある。
 つまり本当は忘れたいので日頃は意識に浮上させまいとしているもので、かなり鮮明に記憶しているものもあるし、またおぼろげであったのに、あることをきっかけに、あるいは何かを目撃したことによって鮮明に記憶を蘇らせるということも決して我々は珍しくはない。つまりそういった想念全体を含めると、コギトというデカルトによる想念自体も実は、私と世界が完全に切り離されて意識されているというよりは、寧ろ世界と私とが完全には分離していないその全体を存在論的に「私」あるいは「我」とデカルトが名指したという風にも十分捉え得る。それは端的に例えば後年ハイデッガーが人間のことを現存在と名指したことと同じような理由とモティヴェーションによってデカルトによって命名されたことだったのである。だから敢えて世界と私との境界の曖昧性自体に目を瞑ったという私の仮定は、その意味では無効化され得る可能性もある。そしてそれはデカルトがコギトと名指したことの精神的根拠の問題であるよりは、寧ろデカルトが固有のモティヴェーションを糧に言語化すること、あるいは語彙化して名指していくことそのものに内在する問題であると言ってよいだろう。つまりデカルトによってコギトと名指されたことによって発生する意味付与性自体を問題にせざるを得なくなるだろう。
 しかしそのことを十分実はデカルトは自覚的であったのではないだろうか?何故なら彼は「省察」において夢と覚醒時の現実自体をその実在感という意味では境界が曖昧であることを示しているからである。しかしそれを一方で語っておきながら同時に別の意味ではやはり私という意識もまたなくならないという想念がコギトを現出させたとしたなら、デカルトは実はそう想念しながらも、それを「語る」ことによってその想念を打ち消すような語彙規定による意味付与ということの運命を暗示したとも言い得ることになる。
 デカルト座標空間とはある意味ではそういった矛盾を「示す」ことにおいて「語る」ことそのものの名指しの持つ魔力を世界と私の間の境界曖昧性という想念をさえ言語が打ち消すことそのものを不可避的に示そうとしているようにさえ私には思われるのである。
 写像を英語で表現するとマッピング(mapping)である。それは語ることそのものの想念の打ち消しというディレンマ自体を対象化(示すこと)することを可能にする概念である。従ってデカルトによる数学者としての業績自体がここで名指すことの危険性を熟知してなされたと捉えることも強ち間違いではないのではないだろうか?

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